天に架かる二つの虹B











軒の外で、しとしとと雨が降っていた。

邸を出て二刻と経たない内に降り出した細雨は、今もまだ降り続いている。

絳攸は湿気を含んだ空気から逃れるように、軽く身動ぎした。

雨の日は嫌いだ。

書物が湿気で傷む。それに、太陽が出ていないと方角が判らない。方向感覚が狂う。苛立ちが増す。

恵みの雨などといっても長雨は作物を駄目にするし、雪になり損ねた氷雨は身を切るように冷たい。

 

「雨って嫌だわ」

不意に響いた、己の思考を読んだかのような声に絳攸は顔を上げた。

「絳攸もそう思わない?」

「…百合様」

対面に座った百合は絳攸に同意を求めた。

「湿気で髪が広がって上手く纏まらないのよ」

「はぁ」

絳攸は百合のその理由にどう返事をしていいか判らず曖昧に返した。

 

黎深が「紅州に帰る」と言い、自分はそれに同行を望んだ。黎深の妻である百合も当然のように付いてきた。しかし、常の百合の性格からして何かしら言うだろうと思ったが、彼女は何も言わなかった。また、黎深も何も訊かなかった。

絳攸は視線を百合から隣に座る黎深に移した。

黎深はきつく瞳を閉じたままだった。眠っているのだろうか。

カタンと軒が小さく跳ねた。

貴陽の町が遠ざかる。

雨は嫌いだ。だが、雨音は軒の走る音が消してくれる。

けれど。

離れれば晴れると思った気持ちはこの天気と同じで、ますます重く影っていくばかりだった。

 

「早く止まないかしら」

薄茶の髪を持て余して、その女性は呟いた。

 

―――嗚呼、早く止んでくれたらいいのに。

そしたら、後ろ暗いこの気持ちも少しは晴れるだろうか。

 



 

 

「楸瑛。絳攸の様子はどうだったのだ?」

王の問いに、楸瑛は首を振った。

「もう心は決まっているみたいでしたよ。『お前とは違う』とはっきり言われました」

「…そう、か」

解っていたことだが、気落ちする気持ちは隠せなかった。

自分が藍州から戻ってくるのと入れ違うように、朝廷を出て行った側近。何者かの思惑があるのは明白だった。しかし、それが彼の意思でもあったのだ。

「やはり絳攸も一緒に藍州に連れて行けば良かったのだ。そうすれば…」

「そうすれば、私はここに居なかったかもしれません」

「う、」

きっぱりと言われて、劉輝は思わず言葉に詰まる。

本当は絳攸を連れて行きたかった。そしたらどんなに心強かっただろうか。

けれど、自分と楸瑛の問題だった。絳攸にまで仕事を放り出させて、巻き込んではいけなかったのだ。そう思って…いや、本当は呆れられるのが怖くて言い出せなかっただけなのかもしれない。今までだって呆れられることは…多々あったけれど。呆れて…軽蔑されるような気がした。

「尤も、絳攸が付いて行きはしなかったと思いますが」

「…そうだろうな」

「貴方は絳攸も静蘭でさえも、連れて行きはしなかった。そのことが私は嬉しかったんですよ」

劉輝が取った行動は王としては間違っていたのかもしれない。

けれど、自分はその行動が嬉しかった。そして絳攸を巻き込まなかった劉輝に感謝した。

「連れて行けなかったのだ」

「そうだとしても、です」

憮然とした様子の王に、楸瑛は苦笑いを浮かべた。

 

その時、執務室の外から声が掛けられた。

「失礼します、主上」

現れたのは尚書令の鄭悠舜だった。

こつこつと杖の音を響かせながら、悠舜は主上の前まで歩み寄る。途中で楸瑛が手を貸そうとするのを、「大丈夫ですよ」と遮った。その彼の手に握られているものに、劉輝はつっと目を逸らした。

悠舜は劉輝に向かってそれを差し出した。

「絳攸殿から主上にこれを返しておいて欲しいと」

悠舜が差し出したのは、花菖蒲が彫られた佩玉だった。二年間ずっと彼と共にあったそれに劉輝は手を伸ばせなかった。

楸瑛の時とは違う。これを受け取ったら、絳攸は二度と自分の元には戻ってこないだろう。

短気で、それこそ初めて顔を合わせた時から彼は怒っていた。けれど、ちゃんと優しさも持っていた。本気で向き合ってくれた。怒りながらも、「貴方だから」と受け止めてくれた。そんなところが愛しい彼女に少し似ていた。

劉輝は俯いたまま、悠舜の足元をずっと見詰ていた。

「…主上」

先に沈黙を破ったのは悠舜だった。劉輝の肩が震えた。

「…と、頼まれたんですがね。私が預かっていてもよろしいですか?」

「え?」

顔を上げた劉輝に、悠舜は少し悪戯っぽく笑った。

「悪いようには致しません」

「あ、ああ」

「それでは、御前失礼致します」

そのまま略礼をして室を出て行こうとした悠舜だったが、室を出る最後の一歩で彼は振り返った。

「絳攸殿は黎深共々紅州に向かったそうですよ」

こつん、と杖の音を残して悠舜は執務室を後にした。

 

「…紅州」

劉輝は唇を噛んだ。

それも想定していたことではあったが…。

「良かったのでは?黎深殿は兎も角、絳攸がこのまま貴陽にいては反対勢力に利用されないとも限りません」

余りに静かな落ち着いた声色に、劉輝は声の主を振り返った。

「楸瑛」

「このまま絳攸が貴陽に留まってどうします?仮初の忠誠など必要ありません」

淡々と、その男は告げた。

「正直に申し上げて、李絳攸は使えません。彼を貴方の傍に置いておく訳にはいきません」

「…いやに冷たいのだな」

「そうでしょうか。正しい評価だと思いますよ」

劉輝は普段の側近達の様子を思い出して、違和感を覚えた。二人は共に国試を受けてからの仲で、あんなに共にいたのに、と思う。

ふと、自分に膝を折った時の楸瑛の言葉を思い出した。「一切の遠慮も、手抜きもしません」と楸瑛は言った。

…ああ、もしかして。

「それは楸瑛の『公』の意見なのだ」

「ええ、客観的に評価しての話です。彼は官吏として駄目です。大事なものを持っていない」

自分は生涯の忠誠をこの年若い王に誓うと決めた。だから絳攸のことは親友や旧友や同僚という目で見てはいけない。あくまで官吏として評価しなくてはいけないのだ。

 

劉輝は楸瑛の真率な態度にそっと息を吐いた。ここまで寄せられる忠誠がこそばゆい。

貴陽に帰って張り詰めていた心がゆっくり解けていく。気持ちに笑う余裕が出てきた。

「では、『私』の楸瑛は絳攸のことをどう思っているのだ?」

「主上、それは…」

些か驚いた様子の楸瑛に劉輝は「いいではないか」と笑う。

「ただの好奇心だ」

楸瑛は観念したように、溜息を一つ吐いた。

「そう、ですね…控えめに申しまして」

その男は常春頭の名に相応しい笑顔を閃かせた。

 

「大好きです」

 

その答えに劉輝も屈託無く笑った。

 

「余もだ」

 

「けれど…それだけでは駄目です」

笑みを隠して楸瑛が諭すのを、劉輝も真剣に受け止める。

「あの才は確かに、今は未だ経験不足もあるだろう。甘い面もある。それでも次代を担うのに必ず必要な男だ。それに…上手くすれば、紅家も引っ張り込めるぞ」

紅家を味方につける為に絳攸を利用することをも厭わない。そんな王の態度に、楸瑛は苦笑いを浮かべた。随分と逞しくなったものだ。

「王としてのご決断ですか?」

「ああ、絳攸を連れ戻せ」

今度は迷いなく、言える。そして、屹度この男もそれに応えてくれる。

「御意」

目の前の男は劉輝の望む応えを返した。

これこそまさに芋づる式大作戦だ。楸瑛印の芋を使って、絳攸印の芋を手に入れなくては。

「貴方は、行かないんですね?」

楸瑛は判っていることを確認するような口調だった。

「…ああ。余は王だ。今回は迎えに行くことは出来ない。だから余の分まで」

やっと劉輝に彼らしい笑顔が浮かんだ。

 

「しっかり口説いてくるのだぞ」

 

その男は拱手した。そして力強く頷いた。

 

「ええ、『年中常春男』の名に賭けて見事、李絳攸をお持ち帰りしてみせます」

 

 

 

 

 













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この連載ってただ劉輝と楸瑛にこの台詞を言わせたかっただけとかいう…(笑)
これくらいは原作でも言ってくれると期待しています。…え?期待してはダメですか?…わかってるけど、わかってるけどさっ。
07/12/12

戻る/続く