天に架かる二つの虹A
自分には歳の離れた姉がいた。
十人並みの容姿しか持たぬ姉は、よく自分の容姿を羨んだ。
大した地位も財力も持たぬ男に嫁いだ姉は、紅家当主に嫁いだ自分を羨んだ。
五人の子供に囲まれて近所から「肝っ玉母さん」と評判の姉は、すっかり丸くなった顔に笑い皺を刻んで言った。
『百合が羨ましいわ』
「御待ち申しておりました」
夜遅くに訪ねた自分を出迎えたのは、邸の夫人だった。
凛と名乗ったその女性と直接顔を合わせるのは初めてだった。理知的な色を湛えた瞳が印象的な、清々しい女性だと思った。
案内された室に、この邸の主人の姿があった。彼が席を立とうとするのをやんわり制して、頭を下げた。
「このような夜分に訪ねる非礼をどうかお許し下さいませ」
「いや、こちらこそこのような時間にしか邸に戻れぬ身であるので」
頭を振る彼の目の下には隈があった。
「それで、お話というのは?百合姫」
記憶にある姿よりやつれた彼に一瞬、それを口にするのが躊躇われた。自分が今から口にすることは朝廷で王の盾となって頑張り続ける、この夫の友人を更に煩わせることになるだろう。
しかし、こればかりは自分ではどうにもならないことだった。
百合はゆっくりと口を開いた。
「はい。実は悠舜様にお願いしたいことが御座います」
話を聞き終えた悠舜は一つ息を吐く。
「…解りました。出来得る限りのことを致しましょう」
「有難う御座います」
百合は深々と頭を下げた。
「しかし」と、悠舜は呟いた。柔らかくどこまでも優しいその相貌に影が過る。
「私は黎深を怒らせてしまった。黎深が私を心配してくれているのを知っていてそれでも私は…」
「本当に子供でどうしょうもなくて…悠舜様も鳳珠様もよく友人など続けておられますね。つくづく尊敬致します。わたくしにはあんな頓珍漢男と友人でいるなんてとても出来ませんわ」
百合はそれまでの淑やかな様とは一変して、大仰に溜息を吐いた。
ははと悠舜から乾いた笑いが漏れた。
「私は貴女を尊敬しますよ。仮に私が女性でも黎深の妻など務まりません」
その言葉に百合は少し考える素振りをした。そしてずっと夫の後ろで控えている凛を眩しそうに見やった。
「…悠舜様は、素敵な奥様をお持ちになりましたね。屹度、御二人のことを真実、『夫婦』と呼ぶのでしょうね」
悠舜と凛の様に互いを気遣い、思いやりながら、支え合う二人を夫婦と呼ぶなら、自分と黎深を夫婦と呼ぶのは余りに可笑しな感じがした。
「夫婦に正しい形などありませんよ」
百合の心を見透かしたように、悠舜がやんわりと笑う。
百合はそれに曖昧に笑い返した。
悠舜は百合のその顔を見て、ずっと訊けずにいたことを思い出した。
「…百合姫、私にはずっと不思議でならないことがあったのです」
「何でしょうか?」
「どうして、貴女は鳳珠の求婚を断ったのですか?もしよろしければ、本当の理由を…」
百合の白い面に緊張が走るのが解った。
今更十年も前のことを持ち出して何を、と思う。女性にこんなことを訊くなんて、失礼は重々承知だ。
鳳珠の顔は確かに断るのに十分過ぎる理由ではある。
けれど。
ずっとそれだけでは無い気がしていた。その本当の理由こそが、百合が黎深と結婚した理由のように思えてならなかった。
「旦那様、それは…」
「いいのですよ。凛さん」
凛が百合を慮って口を挿もうとするのを、百合は遮った。
「…流石は悠舜様」
優美な花の名を持つその女性は儚げに笑った。
「わたくし…子が出来ませんの」
府庫で待っていた弟に邵可は苦笑いを浮かべた。
「黎深、来ていたんだね」
常なら兄の顔を見ただけでも喜色を表す弟の顔が今日は違っていた。邵可はその理由が手に取るように解っていた。
「まぁ座りなさい。お茶を淹れよう」
席を指して、邵可は奥へと茶器を取りにいった。黎深は僅かに顔を歪めて兄の背を目で追った。
邵可が茶器を持って戻ってきても黎深は席に座っておらず、立ち尽くしたままだった。邵可は近くの椅子に腰を下ろして茶を湯呑みに注いだ。
「…どうして、藍州へ行ったのですか?」
黎深は、重く口を開いた。
「黎深、それはね…」
「あの洟垂れが、兄上に無理矢理付いてくるように言ったからですか?」
「それは違うよ。私が望んだことだ」
邵可は緩く首を振る。
黎深の眉がきつく寄る。
「兄上はどこまであの洟垂れを甘やかして、庇えば気が済むのですか!あの洟垂れは王の癖に城を空けてほけほけと藍州なんぞに行く馬鹿王です!あまつさえ兄上に同行させて!!」
「黎深」
「しかも、縹家が絡んでいるというではないですか!もう王家と関わりになるのは止めて下さい!兄上は先王の時からいつもいつもあの一族に利用されているのです!」
「黎深」
「もう私は我慢がなりません!!あの洟垂れも狸じじいも、全てこの手でっ」
「黎深っ!」
「―――っ」
語気を強くした己に、弟は口を噤んだ。
「落ち着きなさい」
「…………」
黎深はストンと椅子に腰を下ろした。
「君にはちゃんと話しておかなければならないね」
卑怯な自分は真っ直ぐに自分を慕う弟をはぐらかしてきた。今までこのままで来てしまったことを邵可は僅かに後悔した。
「私はね、彼の…劉輝陛下の力になりたいと思うよ」
もっとも府庫の主なんて立場では大した力にはなれないだろうが。
誰に命令されたわけでも、頼まれたわけでもない。自分で決めたことだ。
傷だらけで出逢った幼い公子も自分にとって、可愛い教え子だ。
決して「ほけほけ」していたわけではない。近くに居た自分は知っている。どれほど彼が孤独に耐えていたか。「寂しい」とさえ言えずに、冷たい玉座に座り続けてきたか。
それでも。
王になることを彼は自分で選んだ。どれだけ傷ついても、涙を流しても、欲しいものが掌から滑り落ちようとも。「王」を彼は選んだ。
愛娘が「官吏」という道を選んだように。
実の息子のように育てたかつての公子が「武官」の道を望んだように。
王になるしか道の無かった少年が、今度は自らその道を選んだ。
時は確実に動いている。
朝廷が二つに割れようとしている。
確かに、黎深の能力は次期宰相といわれる程だろう。
けれど。
もう、どっち付かずの官吏はいらない。
「黎深、君は紅家当主だ」
その当主でさえ、自分が押し付けたものであるのに。
自分は弟の願いを聞き届けない。けれど弟は自分の言葉に逆らえない。
解りきっていて、己はそれを彼に突きつける。
「紅州へ帰りなさい」
それは兄として弟にしてやれる唯一の優しさだった。これから起こるであろう争闘に弟を巻き込みたくなかった。
自分に無理矢理ひっついてくる形ではあったけれど、黎深が紅州を出てこの地に来たことは最良だったと今では思う。
この地で彼はかけがえの無いものを手にした。
友人、妻、そして息子。
もう彼の世界には多くの人が住んでいる。兄がいるからという理由で留まることなどない。
黎深はしばらく、兄が注いだ茶から立ち上る湯気を見ていた。
「……………………解りました」
湯気が消え、茶がすっかり冷めた頃。ようようと彼はそれだけを搾り出した。
「明日にでも紅州に帰る」
そう、妻と養い子の前で彼は告げた。
「…黎深様」
先に口を開いたのは百合ではなく、絳攸だった。
「何だ」
「私も…一緒に行ってもよろしいでしょうか?」
「…勝手にしろ」
黎深の返答に絳攸がほっと息を吐いた。
その様子を百合は只、静かに見詰ていた。
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すみません。百合姫捏造のままです。姉とかも嘘です。口調も直していません。白百合完全無視です。
邵可様って決していい人でも優しい人でもないよね。結構自分勝手だし。なのに皆の心を鷲掴むなんて、偉大だ。
07/11/24