天に架かる二つの虹⑬(完)











「…な・ぜ、貴方がここにいるんですかっ」

貴陽の街の往来で絳攸は顔を引きつらせていた。

「え?もちろん絳攸を迎えに来たのだ」

絳攸の顔を引きつらせている張本人は、それが何故だか解らないような惚けた顔をしていた。

「王が簡単に城から出るな!」

絳攸の声に楸瑛だけが「ちょ、絳攸!声大きいって」と慌てる。

「だって、紅州に行くのは我慢したのだ」

「だってじゃない!」

「…早く絳攸に会いたかったのだ」

叱られた子犬のような目を向けられて絳攸は一瞬たじろぐ。

「くっ、そんなこと言っても駄目です!」

周囲を行く人々から注目を浴び始めた二人に、「まぁまぁ」と楸瑛が取り成しに入る。

「人が見てますからねっ。主上も抜け出してきたんでしょ?早く城へ戻りましょうね。ほら、絳攸も」

周りの目を気にした楸瑛がいそいそと二人を路地へと引率する。

 

 

「おい」

絳攸は人気が無くなった所で、先を行く劉輝を呼び止めた。…仮にも一国の王に対するものだとは到底思えないが。

今言わないと、期を逸してしまいそうだった。このままだらだらと元の木阿弥になりそうだ。一生言う機会が無いかもしれない。

だが、「ほえ?」と首を傾げながら振り向いたその男は、やはりのほーんとした昏君のように見えた。

絳攸は軽くこめかみを揉む。

…いいさ。自分が言ったんだ。

『前王すら超える王になります。私はそう判断しました』

いや、その意味は多少変わったな、と思う。

 

「主上。私はこれから、貴方に一切の遠慮も手抜きもしません」

金に近い茶色の瞳が「今までだって遠慮しているようには見えなかったぞ」と言いたげに瞬く。

それを目だけで黙らせ、コホンと一つ咳払いをする。

『主上に、承りました、と伝えてくれ』

そう言ったあの時から、二年もの歳月が流れていた。

随分と遠回りをしたものだ。

遠回りして、逃げ出して、悩んで、立ち止まって、迷って、傷ついて、傷つけて。泣いたり、喚いたり、足掻いたり、挙句に倒れたり。馬鹿みたいに。馬鹿みたい、だけれど。

それさえ、貴いものだと。無駄ではなかったと、今なら思える。

 

絳攸はすっと膝を折った。

 

「私の生涯を賭けて、貴方を稀代の名君にしてみせます」

 

「判断した」なんて甘いものじゃなくて。超えてもらわなくては、困る。

自分が心から仕えると決めた唯一人の相手なのだから。

 

「李絳攸、生涯の忠誠を陛下に捧げます」

 

 

絳攸が帰ってきた嬉しさで、いつもの三割り増しほけほけるんるんしていた劉輝は絳攸のその言葉に固まった。

自分の目の前で膝を着いた彼は、心からの微笑を浮かべていた。

普段怒っている顔ばかり見ていた所為か、彼の笑顔の威力はすごかった。

「…流石、『年中常春男』は伊達ではないな」

カッコよく決めたかったのに、出た言葉がそれだった。

「お褒めに預かり恐悦至極に存じます」

年中常春男は大仰に頭を下げた。

「は?何だそれは」

話が見えない絳攸は先程の笑みが嘘のように、盛大に眉を顰めた。

「いや、こっちの話だ」

劉輝は慌てて言葉を濁した。

そして「えーと、」と言葉を探す。何かカッコイイ言葉は無いものか。絳攸が思わず感動してしまうような言葉は。

「そうだ!絳攸」

何事か閃いた劉輝は手をぽんと打った。

「何か他に言うことは無いのか?」

「は?他に?」

「そうだ、あるだろう!ほら、ほら」

劉輝がにこにこと言う。

「悠舜は帰ってきた余に言ってくれたのだ。それを今度は余が言いたい」

何かを察した楸瑛がにやにやと言う。

「ああそうだね、絳攸。君は帰ってきたんだから、言うことがあるだろ?」

…もしかして、あれなのか?

絳攸は二人が望んでいる言葉に当たりを付ける。

しかし、外していたらかなり恥ずかしいことになりそうだ。

しばし思案した後、絳攸はおもむろに口を開く。

 

「……ただいま」

 

その正解に、劉輝と楸瑛は会心の笑みを浮かべ声を揃えた。

 

「「お帰りなさい、絳攸」」

 

劉輝は穏やかな顔で続けた。その表情は実年齢よりずっと上に見えた。

「絳攸。余は、王だ。この命が尽きるまで王であり続ける。だから王として言う」

膝を折ったままの絳攸に劉輝はその手を差し出した。

 

「そなたの帰りを待っていた」

 

絳攸はそっと、瞳を伏せた。

自分にはこうして手を差し伸べてくれる者がいる。何人も。

それは、自分を走らせる力になる。これから歩む道がどんな道だろうと、決して負けはしない。

絳攸は劉輝の手に自分の手を重ねた。

劉輝はそのまま絳攸の手を握ると、ぐいっと引っ張り立ち上がらせた。

劉輝は絳攸の手を取ったまま、にぱっと笑った。

「よし!このまま手を繋いで帰ろう」

有り得ない提案に絳攸は耳を疑う。

しかし、幻聴ではないのか劉輝が自分の手を離すこと無い。

しかももう片方の手を劉輝は横に居る楸瑛に差し出した。

「え、本気ですか、主上?」

流石の楸瑛も驚いたようだった。

「うむ。本気だ。あ、もしかして楸瑛も絳攸と手を繋ぎたかったか?だが、駄目だぞ。余が真ん中なのだ」

「はぁ」

大の男が三人で往来で手を繋いでいるなんて、なんと異常な光景だろうか。

「ちょっと待てっこの昏君!」

うっかり感動して、この昏君を『尊敬』しそうになったことは黙っていようと絳攸は心に決めた。

 

 

 

悪鬼巣窟の異名をとる吏部の侍郎室で、男は積まれた書翰に目を通していた。

その目がふと上がる。

「どういうことだ」

挨拶も無く室に侵入して来た男に、楊修は首を傾げる。

「おや、解ったから来たんじゃないんですか?」

「…李絳攸が貴陽に戻ったという報告が来た」

「そうですか」

「全てはお前の計算通りか」

刃のような鋭い視線を受け流して、楊修は細い目を更に細める。

「計算なんかじゃないですよ、陸清雅君。案外君、解ってませんね」

「つまりはね」と楊修は人差し指を立てた。

「うちの侍郎を余りなめないでいただけますかってことですよ」

「うちの侍郎?」

はっと吐き捨てるように清雅は笑った。

「ええ、うちの侍郎は李絳攸、唯一人です」

「だったら今お前が持っているものは何だ」

「私なんて唯の代理ですよ」

楊修はひらひらと片手を上下に振った。

「…あんな無能な甘ちゃんの下の方がいいとでも言うつもりか?」

「多少人間味がある方が可愛げがあっていいですよ。部下が上司を成長させるっていうのも有りなんじゃないですかね。尤も、貴方には解らないでしょうがね」

「解らねぇな」

「どうです、吏部に来てみますか?大丈夫ですよ、それ以上性格が破綻することはないでしょうから」

楊修はそれは綺麗に微笑んだ。

 

「吏部官吏一同、歓迎致しますよ」

 

「ぞっとしねぇな」

清雅は露骨に顔を歪めた。

「吏部か…全く、目障りな所だな。尚書筆頭に頭いかれてんじゃねぇか」

「まぁ、否定はしませんけどね」

「精々、自分達の首切らねぇように気をつけるんだな」

「ご忠告有難う御座います」

清雅はいっそ狂おしいまでに憎い少女の顔を思い浮かべた。

あの女が追いかけていると言う男も、やはり上へと目指すのだろうか。

「…足掻けばいいさ。足掻けば足掻くほど引き摺り下ろした時が、面白い」

清雅は嘲笑を残し、侍朗室を後にした。

「それに」と清雅は自分の口元に手をやった。右手首に嵌まった銀の腕輪がきらりと光った。

「踏み台は高い方がいい」

廊下を行くその顔には抑えきれない笑みがあった。

 

 

 

日が傾き始めた宮城の一角を三人の男が歩いていた。

そのうちの一人、劉輝はぶーたれていた。

「いいではないか、手を繋ぐくらい。けちなのだ」

「また今度、今度にしましょうね」

楸瑛は適当なことを言っていた。

しかし、常ならその二人に突っ込みをいれる絳攸は黙ったままだった。

「絳攸?」

劉輝が後ろを振り返れば、絳攸は足を止めた。

「成り行きでここまで来てしまったが、無位無官の俺には…」

自分の腰に佩玉は無い。

王から替えの花を貰ったとはいえ、今の自分にはこれ以上歩を進める資格が無い。

「それは…どうかな」

にやりと劉輝は怪しく頬を緩めた。

「余はそなた達自慢の王だからなっ。ばっちり対策は立ててあるのだ」

褒めてくれと言わんばかりに胸を張る劉輝に突っ込んだのは、楸瑛だった。

「なに自分一人の手柄にしてくれようとしてるんですか。悠舜殿のお陰でしょう」

「う、」と劉輝は呻く。

「悠舜殿?一体どういう意味だ?」

絳攸にはさっぱり意味が解らない。

楸瑛は彼特有のからかう様な表情を浮かべた。

「自分の目で確かめるんだね」

「何を」という言葉が出る前に、楸瑛はふっと柔らかく微笑んだ。

「つまり君は皆に愛されてるって話だよ」

「はぁ?」と目を丸めた絳攸に構うことなく、楸瑛は続ける。

「もちろん私も含めてね」

「よ、余もだぞっ」

楸瑛は気障にも片目を瞑ってみせ、劉輝はぴょんと跳ねて手を挙げた。

「…馬鹿か」

つっと視線を逸らした絳攸のその横顔が夕日の所為では無く、朱に染まっていた。

「ほら、そこをまっすぐ行けば吏部だよ。頑張って」

楸瑛はぽんと絳攸の肩を叩いた。

「煩い」

その悪態は常とは比べることも出来ないような、ささやかなものだった。

「絳攸っ!迷ったら、あれ!あれを見るのだぞ!余が丹精込めて作ったお手製の地図をっ」

「煩いわっ!」

 

 

 

絳攸がちゃんとまっすぐ歩いて行ったのを見送った後、楸瑛は劉輝に向き直った。

「さて、私も行かなければいけないところがありますので。主上はお戻り下さい」

「楸瑛」

劉輝の瞳が物言いたげ揺れる。楸瑛はそれに微笑み返した。

「大丈夫ですよ。主上はお茶の用意と…そうですね、おやつの団子を用意して待っていて下さい」

その言葉に劉輝の瞳が輝く。

「三人分ですよ?」

「うむ!」

劉輝は元気良く返事をし、執務室に向かって駆け出した。臣下からお茶の準備を言い渡された国王のその足取りは軽かった。








戻る/続く