絳攸は見慣れた重く厚い扉の前に立った。
扉に手を置いて、一呼吸。ぐっと力を入れて押し開けた。
その目に広がる光景は―――戦場だった。
血が飛び散っていないのが不思議なくらいだった。動かない人らしき物体がごろごろと転がっていた。
ふいに、その物体の中の一つと絳攸は目が合った。
「……………………」
「……………………」
瞳孔が開いていてちょっと恐かった。
絳攸は恐る恐る声を掛けた。
「…………おい…、生きて、いる、か…?」
その物体は一度瞬きをした。
そして。
次の瞬間に物体はがばっと勢い良く起き上がった。
「李侍郎っっっっ!!!!!」
その言葉に釣られるように周りのいくつかの物体がびくっと痙攣した。
次々起き上がった物体達は「…侍郎?」「李侍郎っ!」「おい、本物かっ!?」「偽者でもいい、捕獲しろ!」「尚書はいないだろうな!」「今あの鬼畜尚書なんかに会ったら息の根を止められるぞ」と各々言葉を発しながらこちらに突進してくる。
絳攸は本気で命の危険を感じた。
「侍郎ぉぉぉぉぉぉ!!!!」
「どうしてくれんですかっ!?」
「妻に『どちら様ですか?』って言われちゃいますよ!!」
「俺だって子供に『おじさん誰?』って訊かれるわいっ!!!」
絳攸にすがり付いてくる者達は皆、満身創痍といった様相だった。
熊か何かと戦ったのだろうかと思うほど。…実際は熊と戦う方が余程ましだったのだが。
目の下にあるのが隈なのか墨なのか判らない。
「絳攸様っ!!!」
群がる男共を押しのけて小柄な何かが、絳攸に激突してきた。
絳攸は吹っ飛ばされそうになるのを必死に持ちこたえ、それをよくよく見た。
だいぶくすんではいるが、この金髪は。
「…碧、珀明か?」
「こ、ここ、絳攸様ぁぁぁぁ」
珀明の余りの形相に絳攸は「ひぃ」と小さく悲鳴を上げた。
「絳攸さぁまぁぁ、僕はもう…!」
「はいはい、どさくさに紛れて抱きつかない」
そんな言葉と共に、何か色々と壊れた珀明をぺりっと引き剥がした者がいた。
引き剥がされた珀明は横にぽいっと捨てられた。流石に憐れに思った絳攸だったが、珀明は何だか幸せそうな顔をしてそのまま寝てしまったようだった。…気を失っただけかもしれないが。
絳攸は珀明を引き剥がした人物に視線を合わせる。
「…楊修」
いつも余裕そうなその顔にも疲労の色があった。
「よくぞお戻りになられました」
上官に楊修はにっこりと笑った。
「…と言いたいところですがね。ぎりぎりで合格です、ぎりぎりで」
「ぎりぎり」を強調した楊修は、やれやれといった様子で続ける。
「これくらいでへこたれるようなら私が代わってましたよ」
「楊修、これは一体、」
「言っときますけど。一人の死人も出してませんよ?」
「…充分だ」
絳攸はごくりと唾を飲んだ。死人以外は色々と出ていそうだ。
「さて、貴方に渡すものがあります」
騒がしい吏部から侍郎室へと楊修は絳攸を連れてきた。
「渡す?」
「ええ。あの鬼畜尚書からの伝言です」
楊修は懐から無造作にそれを取り出した。
「『お前が上を目指す時が来たら』と」
渡されたのは尚書位を表す佩玉。
絳攸は言葉に詰まる。
「何を、俺はもう吏部に籍が無い筈だろう。辞表も書いた」
「は?辞表?何言ってるんですか、あんた?侍郎が出したのは休暇届けですよ」
「きゅ、休暇?」
「ええ。このくそ忙しい時にホントいい度胸ですよね」
絳攸は何が何だか解らなかった。
「しかし、今までの激務を思えば仕方ないと吏部官一同快く送り出したんじゃないですか。今までお疲れ様、と私言いましたよね?」
「…言ったかもしれない」
先ほどの光景を見たら、とても「快く」といった様子ではなかったが。
「何でもかんでも中身をちゃんと読まないで署名しないようにして下さいよ。変な壺とか買わされますよ」
「…気をつける」
『李絳攸、貴方には吏部侍郎を辞めてもらいます』
その言葉が意味するのは、この手にある佩玉だったのだろうか。
「楊修」
あの人はどこまで解っていたんだろうか。いつから解っていたんだろうか。
…適わない。まだまだ、遠く。
「俺が欲しいのは、これじゃない。…今はまだ」
ただ与えられるのではなく。誰もが認める、時が来たら。
それは、自然と自分の手に。
「これはまだあの方の物だ。…俺が欲しいのは、」
絳攸は手にある物を大事そうに、楊修の手へと返した。
「お前が持っている方だ」
楊修は自分の腰に下げられた佩玉を持ち上げた。
「こっちがいいと?」
「ああ。それは俺の物だ」
楊修は目を細めた。
「…全く、世話のかかる親子ですね」
その言葉に絳攸は瞬く。
紅黎深と李絳攸の真の関係を知るものは実は少ない。
まじまじと見る絳攸に楊修はふっと軽く笑って、絳攸の手に佩玉を返した。
「鄭尚書令よりお預かりしておりました」
絳攸は自分の手に戻ったそれを押し抱いた。
「楊修、何と言ったらいいか…本当に、いっ!」
頭を下げそうになった絳攸の額を、楊修は指で弾いた。
「謝罪や感謝の言葉だったら要りません。そんなもんより仕事で返して下さいよ、侍郎」
絳攸は弾かれた額を軽く押さえ、言う。
「お前こそ、侍郎の席は一つ空いてるぞ」
本来六部の侍郎は二人で務める。
「嫌ですよ。そんな貧乏籤みたいなの」
「貧乏籤…」
違いない、と絳攸は思った。
「案外、覆面って気楽でいいんですよ」
どこまで本気か解らない口調でその男は笑った。
「それに、まだあの餓鬼の鼻っ柱を粉々に砕いてやってないですから。今後の楽しみなんですよね」
その言葉だけは心底楽しそうだった。
「全く、何してるんですか。帰ってきたと思ったらそうそうにまたどこかに行ってしまって」
韓升は元上官に心底呆れていた。
しかしその元上官は、けろっと抜かした。
「好きな子を口説きにちょっと紅州まで」
「この人は…」と韓升は半目になった。
藍家から勘当されて少しは地に足が付いたかと思えば、全くもって飛びっぱなしだ。
「…で、口説き落とせたんですか?」
しかし、ちょっと気になるので訊いてみた。
その元上官が心底嬉しそうな顔を浮かべたのを見て、やはり訊かなければ良かったと思ったが、後の祭だ。
「ちゃんと意地っ張りの姫君をお持ち帰りしてきたよ」
「じゃー、もう思い残すことありませんね、藍元将軍」
言って剣を抜けば、相手もすっと剣を構えた。
武人にとって心地よい緊張感がそこにある。
「いいや?これからが楽しい蜜月だからね。私に本気を出させておくれよ、皐臨時将軍」
羽林軍の基本は実力勝負。昨日入った新人でも実力さえあれば、将軍職に就ける。
もちろん。現職の将軍を倒したら、の話だ。
「うわー、やる気出ますね」
この人の惚気話だけは絶対聞きたくないな、と思って韓升は土を蹴った。
「…あ、」
気を抜いた瞬間、悠舜の体は傾いた。
「…だから言った。ふらふら一人でほっつき歩くなと」
それを横から引っ張り上げる者がいた。
自分の腕を掴んだままの年下の友人に悠舜は微笑んだ。
「ええ。そうでしたね」
全くの以前通りに微笑む悠舜に黎深は一瞬言葉に詰まる。
そして一言。
「…選んだ」
それを告げれば、全てを受け止める悠舜の笑顔が更に深くなった。
「お帰りなさい、黎深」
「…ただいま」
「男前度が上がりましたね」
言えば、照れたのか黎深はぷいとそっぽを向いた。
「絳攸殿は吏部ですか?」
「ああ」
「そう。なら良かった」
「悠舜、お前何をした?」
「大したことはしてないですよ。ただ、百合姫が」
「百合が?」
「百合姫にお願いされただけのことです」
あの日、百合は悠舜に頭を下げた。どうか、と。
『どうかお願いします。あの子が戻ってこられる場所を、残しておいてあげて下さい。あの子は絶対、帰ってきます。だから、どんな形でもいい。守っていただきたいのです』
それと百合姫の願いはもう一つ。
『こんなことをお願いするのは大変心苦しいのですが…あの人を嫌わないで下さい。どうか友達でいてあげて下さい』
一つ目の願いは、簡単ではなかった。無茶もした。
しかし、二つ目の願いは酷く簡単なものだった。
「今夜は赤飯の宴を催す」
唐突な黎深の提案に悠舜は首を傾げた。
「赤飯、ですか?」
「そうだ。お前も来い」
何かを察した悠舜は笑みを深くした。
「妻も誘ってもいいですか?」
「ああ」
「鳳珠も?」
「…………………」
「鳳珠は貴方が居ない吏部を臨時で引き受けてくれたんですよ」
「…仕方ない。紅州土産の蜜柑の木から作った仮面も付けてやろう」
「飛翔もいいですか?」
「……酒が足りんな」
上がったのは男前度ではなく、父親度だったかもしれない、と悠舜は思った。
茜色に染め上がった執務室で、劉輝は茶器に湯を注いだ。
こぽこぽと心地よい音がする。
団子も用意した。
…書翰の山は横に除けて。
劉輝はこっそりと小さな息を吐く。
そろそろ、だ。
足音と声が聴こえてくる。
扉の向こうからやってくる―――二人分の、気配。
まず、第一声は何を言おうか、と思って劉輝は頬を緩ませた。
―――虹の生まれる場所には幸いがあるという。
完
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『天に架かる二つの虹』これにて、完結です。
長々とお付き合い下さいまして、有難う御座いました。
さて、これで心置きなく新刊(黎明に~)が読めます(笑)
08/4/30