天に架かる二つの虹⑫










「…何の真似だ」

凍った空気の中で、ひやりとした刃の冷たさを絳攸は全身に感じた。

決して短くない付き合いの男だが、剣を向けられたのは初めてだった。

絳攸は身動き一つ出来なかった。

目の前の男が、口を開く。

「劉輝様は…屹度君に、訊けないからね。私が代わりに訊こう」

男にいつもの軽薄な笑みは無い。

「あの王の為に、」

真剣な瞳で男は問う。

 

「君は死ぬことが出来るかい?」

 

武官でもない彼に、それを突きつける。それがどんなに酷なことだとしても。

今まで通りというわけにはいかないのだ。

甘えて、甘やかして、馴れ合って。友人のような、けれど一線は決して越えない臣下。

そんな人間は彼の傍に必要無い。

「最期のその時まで、共に堕ちていける?」

そこまでの覚悟を共に。

 

出来ない者はいらない。

 

それは滅多に見せない己の本気だった。

 

 

 

「『母上』とはな、一体どんな手を使って言いくるめたやら」

絳攸が去った室で黎深はぼやいた。

「あら、人聞きの悪い。わたくしはお願いしただけですのよ」

決して命令したわけでも、脅したわけでも…ない。

「貴方も『父上』と呼んでもらいたかったのかしら?」

ちょっとした意地悪心で言えば、夫は「父、父上、父様…」とぶつぶつ呟き始めた。

何だろう、呼ばれる練習だろうか。普段なら「不気味ですわ」くらい言いたいのだが、その気持ちは百合にも解った。

ただの呼び方だと、言ってしまえばそれまでなのだけど。

絳攸の姓は李のままだし、正式な養子でもない。今までと変わらない。

それでも。

独り立ちする息子と、そんな言葉でだけでも。

繋がっていたかった。

どこにいようと、何をしていようと、姓が違おうと。自分達は親子なのだ。

血が繋がっていなかろうが、それが何だというのだ。そんなもの只の体内の液体だ。

「…父君、父さん、親父」

未だに言っている夫に、百合は何だか憐れになってきた。

違う話を振ることにする。

「黎深様。あの子の出自ですけど、」

黎深の眉がぴくりと動く。

「ああ、煩く嗅ぎまわっている奴がいたな。確か、御史台の糞餓鬼だったか」

「あの子が望まない限り、あの子の出自が明らかになることは無いですわ。あの子の出自に関する全ての記録は紅家の力にものいわせて、差し替えさせましたもの。証拠すら残っていませんわ」

「あれは『李絳攸』だ。それ以外の何者でもない」

黎深は詰まらなそうに言い切った。

そのあまりにらしい言い方に百合は思わず笑った。

「ふふ、そうねぇ」

そして、百合は不思議な気持ちで自分の夫を見詰た。

「何だ」

「…どうしてかしら、と思って。どうしてわたくしは、ここに居るのかしら。まるで当たり前みたいに」

この男の隣に当たり前に居ることが、とても不思議だった。

それでも、夫が寄越したのは呆れ顔だった。

「今更、何言ってる。誓ったからだろう」

あの日。神仏にではなく、この厚顔不遜な我侭大王に自分は誓った。自分の髪には紅い百合の花が刺さっていた。

言いくるめられたのは、一体誰の方だったのかしら。…それも悪くないけれど、と百合は思った。

「…黎深様。わたくし、貴方の子は絶対にいらないと思いました。貴方そっくりな子が自分のお腹から生まれるだなんて、この世の終わりです」

夫は、ふむと頷いた。

「同感だ」

「だから…結婚したのですよ」

切っ掛けは…呆れだったし、諦めであったし、自棄でもあった。

そんな、最悪の始まりだった。

それでも。

今はちゃんと知っている。

自分の夫となりえたのは、目の前のこの男だけ。

こんな頓珍漢男の妻となりえたのは、きっと自分だけ。

こんな夫婦の子供となりえたのも、あの子だけ。

そう、思えるだけの時を過ごせたことを…とても貴く、嬉しく思う。

「黎深様」

呼べば、こちらを向いてくれる夫。

百合はくすりと、笑った。

「偶には、夫婦らしいことでもしましょうか?」

「は?」

眉を顰める黎深に百合は楽しそうに言う。

「愛の共同作業というものです」

「…ますます意味が解らん」

百合は、花のように笑った。

「貴方にしか出来ないことですよ、旦那様」

 

 

 

「…絳攸」

楸瑛は、唖然とその光景を見た。

彼の掌からは赤い血が流れていた。

「見くびるなっ!」

叫んだ絳攸の左手は刃の根元を強く握っていた。

「最期のその時までっ」

射るような菫の眼光。

 

「共に居てやるっ!」

 

きつくこちらを見据えて、痛みに顔を歪めることも無く。

自分の本気に、彼は応える。

 

「だが、意味を履き違えるなっ俺は死にたいわけじゃない!そんなのは真っ平御免だ!!生きる為に行くんだっ」

 

嗚呼、と楸瑛は思う。

完璧だ。いつだって、彼は自分の予想を裏切る。…とても心地好い形で。

死ぬ覚悟なんて、本当はいらないのだ。

生きる覚悟の方がどれだけ大変か、知っていて彼がそれを言う。

「…それでこそ、私の好きな李絳攸だ」

「は?」

あまりに簡単に零れ落ちた言葉は本人に届かない。

楸瑛は絳攸の手を刀から外し、刀を下ろした。そして、自分の懐から手巾を取り出し、口で裂いた。それを絳攸の傷口に巻いていく。

絳攸はその様子をただ見ていた。

「相変わらず君は、無茶なことするね」

切れ味の悪い部分だとはいえ、痛くないはずは無い。

「…お前に言われたくない」

「そう?」

きゅっと布の端を縛れば、傷口に障ったのだろう。絳攸の眉が顰められる。

「痛かったね」

言えば、ふんと顔がそっぽを向く。

「でも左手でよかったよ。右だと筆が握れないだろ?君の大事な商売道具に傷が残ったら大変だ」

「…これくらい平気だ」

その彼らしい様子に楸瑛は微笑んだ。

そして懐を探り、もう一枚の手巾を取り出した。

「これは劉輝様から君に」

その手巾には菖蒲の花が刺繍されていた。

劉輝がその手巾に縫い込めたのは、二輪の花菖蒲―――双花だった。

「私のとお揃いだよ」

「…あいつはこんなもんだけ上手くなって、どうするつもりだ」

ぼやきながら、渋々と絳攸は右手でそれを受け取った。

もっともそれが照れ隠しだってことくらい目の前の男にはばれてるだろうが。

「あと、これも渡すようにって」

渡されたのは一枚の料紙だった。

「何だ、これは」

その料紙を開いた絳攸の手が震え出す。

「ん?見取り図だねぇ。王宮の」

その紙には吏部から執務室までの最短順路が記されていた。そして紙の端には『これでどんな超絶方向音痴も大丈夫☆』という訳の解らない文句が書いてあった。

「…あいつ」

絳攸の喉がひくりと鳴った。

「劉輝様なりに心配しているんだよ」

「何をだっ!」

「君の方向感覚を」とは楸瑛は賢明にも言わなかった。

「でも、迷っていいと思うよ」

しかし、その言葉は絳攸の神経を逆撫でる。

「お前は喧嘩を売っているのか?」

地を這うような声にも、楸瑛は動じない。

「君が迷っても、ちゃんと助けるから」

絳攸の瞳が驚いたようにはたと瞬く。

「私だけじゃなくてさ。劉輝様も黎深殿も百合姫も邵可様も悠舜殿も秀麗殿も。…君を助けるよ」

本音を言えば、それは自分だけの役目でありたかったのだが。もう、そうも言っていられない。譲歩というものを覚えよう。

「…もちろん公の場合だけだけどね」

「は?」

「いいや、こっちの話だよ」

笑顔を作ってみても、相手は胡散臭そうな顔をするばかりだ。

「まぁ、いい。…仕方ないからこれも貰っておいてやる」

言葉とは裏腹に大事そうに懐に料紙をしまう絳攸を、楸瑛は微笑ましく思った。

 

「さて、ここからは君の無二の親友として話そうかな」

「誰が無二の親友だ」

絳攸の突っ込みは綺麗に聞き流して、楸瑛は続ける。

「私に、何か言いたいことがあったんじゃないかい?」

しばしの沈黙の後、絳攸は口を開いた。

「…一発殴らせろ」

絳攸の目は完全に据わっていた。

楸瑛はぽりっと頬を掻いた。

「…えーと、理由は?」

「無いとは言わせん」

「うん、まぁ、そう…かも」

「お前は勝手に帰るし、主上は勝手に連れ戻しに行くし、俺ばかりが蚊帳の外じゃないか」

その言い分に楸瑛は「ああ」と納得する。

「のけ者にされたと思って悲しかったんだね」

「はぁ?」

のけ者って…それはどんな子供だ。絳攸は眩暈を感じた。

「私もさっさと藍州に行ってさっさと帰って来るつもりだったんだけどさ」

そのへらへらとした言い方に、絳攸の堪忍袋は耐えられなかった。

「端っから戻ってくるつもりで、俺にあんなこと言いやがって!!」

絳攸は楸瑛に掴みかかった。

「うん、ごめんね。まさか君が会いに来てくれるなんて思わなくてさ。いやぁ、私って愛されてるなぁ」

「この常春が!貴様とは腐れ縁だと、」

絳攸はふいに言葉を途切れせる。

軽薄なその顔に驚いた色が浮かんでいたからだ。

「…何だよ」

「君のその言葉も随分と久しぶりに聞いたなと思って」

「お前がふらふらふらふら実家に帰ってるからだろ」

「おや、君だってそうじゃないかい。しかも無職」

ぴしりと絳攸のこめかみが音を立てる。

「無職言うなっ!貴様だって似たようなものだろうがっ」

「…確かに」

「…馬鹿か、俺達は」

「……うん。何やってるんだろうね」

「………」

「………」

二人は同時に吹き出した。








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