「ねぇ、絳攸。全部片付いて落ち着いたら藍州へ旅行に行こうか」
未だ笑いを滲ませた声で楸瑛は言う。
「はぁ?」
「君に猫熊を見せてあげるよ」
「猫熊…」
まさかこいつは…俺が猫熊を見れなくて僻んでいるとでも思っているんじゃ、と絳攸は驚愕した。
「新婚旅行でいいよね」
「馬鹿かっ」
もうこんな常春男は知らんっ!置いていってしまおう、と絳攸は歩き出した。
しかし、ふいに立ち止まる。
後ろを振り返ることもせず「おい」と絳攸は言った。
「…俺は出世するぞ」
その言葉に楸瑛は目を瞠る。
「誰にも文句言えないところまで出世してやる。邪魔する者はぶっ潰す」
それこそ秀麗にあって絳攸に無かったもの。
官吏にとって大事なもの。
どこまでも上を目指す、強い意志。
楸瑛は口の端を上げた。
「それは実に頼もしい。…でもね、道は逆だよ?」
「っ!」
真っ赤な顔をした絳攸が振り返ったその時。
音が聞こえる。
これは、この音は―――妙なる琵琶の音。
「琵琶?でも、この音は…」
音楽に造詣が深い楸瑛は言い掛けたまま、立ち尽くした。
鳥肌が立つだなんて、そんなものじゃなくて。体が震える。
それは、いっそ恐怖さえ抱きそうな壮絶なまでの音。一度聴いたら忘れられない。魂さえ震える旋律。
こんな音を出せる人物を絳攸は一人しか知らない。
しかし、その人は滅多に琵琶を弾かない。
それに。
「…蒼遙姫」
絳攸はその歌を呟いた。
蒼遙姫―――それは、李絳攸になって初めて覚えた歌。
ふいに壮絶なその音にもう一つの音が重なる。
二つの音は、バラバラな、けれどそれ自体が一つの曲であるようなものだった。
加わったその音は決して伴奏など許さない音に、合わせるでもなくただ連なる音色を持っていた。
綺麗で、優しくて、暖かい。だけどそれだけではない。強く、しなやかな。その人自身のような音色。
『お前の作る国だったら見てやってもいい』
『行きなさい。貴方を待っている人がいるんでしょ?』
二つの音に強く、そして優しく背中を押された。
「…行こう」
絳攸は再び歩き出した。
しかし。
「うん。そっちでもないけどね」
「くっ、解ってるっ!」
「こっちだよ」
貴陽の方向を指差した楸瑛が「あ、」と漏らす。怪訝にそちらを見やった絳攸も思わず「あ、」と声に出る。
雨が上がった天には虹が架かっていた。
虹だけなら、珍しくなかったかもしれない。
しかし、そこに架かっていた虹は二つ。
そして、その方角は自分達を待つ主のいる場所。
―――虹の生まれる場所には幸いがあるという。
絳攸はその二つの虹に向かって言う。まるで誓いを立てるように。
「今がどん底だって言うなら…這い上がってやるさ。何度だって」
その誓いを楸瑛は掬い上げる。
「じゃあ、そんな君と王を守るのが私の役目だね」
「は?」
「だって上にいくんだろ?敵だって増えるよ」
絳攸は「う、」と低く唸る。
楸瑛は満足そうに笑うと、恭しく腰を折った。
「それでは参りましょうか、未来の宰相殿」
「お前、馬鹿にしてるだろ。絶対」
「そんことないよ」
「だったら…お前も早く大将軍くらいになれ」
「おや、なかなか手厳しいねぇ」
「当然だ」
絳攸は虹を目指して歩き出した。
後に楸瑛も続く。
「楸瑛」
「ん?」
「『全部が上手くいく方法』、探してやるよ。最善を尽くしましたがありませんでした、なんて冗談じゃない。意地でも探して、それでも無ければ、」
菫の瞳が強気に輝く。
「俺が作ってやる」
絳攸は事も無げに言い切った。
それがどれだけすごいことだと、知りもしないで。
「だからお前も手伝え。その為の『双花』なんだろが」
「…君って思いがけず、すごいこと言うよね」
「は?」
意味を図りかねて絳攸の眉が寄る。
「充分過ぎる殺し文句だよ」
だから、劉輝は彼を諦め切れなかったのだ。そして、自分も。
自分は弟のような天才ではない。
自分は兄達のような才能もなければ、三人でもない。
けれど。
自分には彼がいる。
自分の半身を、やっと取り戻した。
「そういえばさ私、兄達に勘当されちゃったからもう藍姓名乗れないんだよね」
「…で?」
「だからさ。君の李姓、頂戴?」
「誰がやるかっ!」
「お婿にどう?」
「いらんわっ!」
「あ、ねぇねぇどうせだから温泉入ってこうか?」
「はぁ?」
「恥ずかしがらなくても大丈夫。君がどんなに貧乳でも構わないよ」
「ひ!?っっっ胸なんてあるかっ貴様一人で溺れ死んでこいっっっ!!!!!!」
「これのどこが共同作業だっ!」
最後の音の余韻が残る室で、黎深は怒った。
「合奏っていうのかしら」
琵琶を膝から下ろしながら、百合は首を傾げる。
「しかも『蒼遙姫』だと!これは嫁ぐ娘の歌ではないかっ!」
「貴方の心境に近いと思うのだけど」
「くっ」と黎深は黙った。
「さて、どうします?」
百合は微笑む。
「国の為とか民の為とかそんなの、貴方が言ったら気味が悪いだけですわ。誰も貴方にそんな高い志を期待してませんもの。兄や姪や息子や大事な人達が居る場所だから…それで充分じゃありません?」
見透かしたかのような言葉に、黎深はふん、と鼻を鳴らした。
「…とりあえず。洟垂れの根性でも叩き直してやるか」
優美な花の名をもつ女性はくすくすと笑った。
「付き合って差し上げますわ」
「…おい」
「はい?」
「今だったら…もう一つくらい御伽噺を信じてもいい」
百合は数度目をぱちぱちと瞬かせた。
「意味が解りません」
『そうして、親子三人はいつまでも仲良く暮らしました。めでたしめでたし』
黎深と百合が廊下を歩いていると、後ろからバタバタと追いかけてくる者があった。
「黎兄上っ今の琵琶は、」
「…餞別だ」
「いやだわ、黎深様。せめて餞と言って下さい」
いつになく暢気に見える兄夫婦に玖琅はある危惧を抱く。
「まさか、黎兄上まで貴陽に戻るおつもりですかっ」
「それがどうした」
「絳攸は兎も角、貴方は紅家の当主なのですよ!」
「兄上に帰れと言われたから一度里帰りしただけだ」
しれっと言い切る兄に、玖琅は青ざめた。
駄目だ、この兄に言葉は通じない。だったら、と玖琅は隣の義姉に縋るような視線を投げた。
「義姉上も何とか言って下さいっ」
百合はにっこりと微笑んだ。
「なんとか」
これには玖琅だけでなく、黎深も沈黙した。
「ああ、黎深様」
声を発したのは百合自身だった。
「…何だ」
「わたくし、やはり赤飯だと思うのですけど」
「ああ、赤飯だな」
「ええ、赤飯よね」
「庖厨を壊すなよ」
「心配なさらないで」
「まだ嫁にも婿にもやらんぞ」
「もちろんですわ」
意味不明な会話を繰り広げて、自分の存在を忘れたかのような二人に玖琅は慌てて声を掛ける。
「黎兄上っ」
「玖琅」
「え、」と玖琅は自分のすぐ上の兄を見詰た。兄はうっすらと微笑んだように思う。
「ここがお前にとって重荷になったらいつでも潰してやるから安心しろ」
やはり見間違いだった、と玖琅は思う。笑みなら、とんでもなく邪悪なものに違いない。
「…余計不安になりました。黎兄上が当主の仕事をして下さったらよいものを」
「ま、精々気張れ」
随分と気のない言葉を兄はくれた。
「玖琅様、こんな諸悪の根源に負けては駄目ですわよ」
随分と酷い言葉を義姉はくれた。
「はぁ」と返事をする自分に構うことなく。「百合っお前は一体誰の味方だ」「もちろん、絳攸ですわ」「お前はそれでも私の妻かっ」と言い合いながら兄夫婦はさっさと歩いていってしまう。
残された玖琅は深い深い溜息を吐いた。
「兄上っにじが、にじがあります」
世羅は窓から身を乗り出した。
「解ったから、これを羽織って。熱がまた上がるだろ」
伯邑は世羅の小さい肩に上掛けを被せた。
「だって、兄上っにじがふたつも!」
興奮した様子の妹に伯邑は肩を竦める。
「私には何がそんなに嬉しいのか解らないよ。絳兄様は貴陽に帰ってしまったんだよ?」
「うん。でもこう兄様、やくそくしてくれたから」
「…子供は単純でいいな」
世羅は頬を膨らませた。
「兄上だって、こどもでしょ」
「世羅ほど子供じゃないよ」
「えー」
その時、世羅の室の扉が開く。
「何だ、伯邑も居たのか」
「父上」
世羅は室に入ってきた父に抱き付く。
玖琅は世羅の頭を撫ぜた。
「寝ていなくていいのか?」
「もうだいじょうぶです」
玖琅は目元を和ませた。
「絳攸が帰ってしまって淋しいだろう?」
「それは、そうだけど…あ、」
世羅は瞳を輝かせた。
「父上、世羅はこう兄様とけっこんしたい!」
「…は?」
「世羅っ!突然何を言い出すんだ」
唯でさえ娘の発言に目を点にした玖琅だったが、続く息子の言葉はそれ以上だった。
「そんなのはずるいだろう。私だって、」
「ま、待て待て!世羅は兎も角も。伯邑は一体どういう意味だ!?どう考えても無理だろう。男同士だし」
「男同士だとどうして結婚できないのですか」
「う、いや、だからだな」
幼い子供みたいなことを言う息子に玖琅はしどろもどろになった。
伯邑はいつになく真剣な様子で父に詰め寄った。
「父上。絳兄様はあのおじさんのことが好きなのではないですか?だから帰ってしまったのでは」
あのおじさん…あれは藍家の者ではないか!は、しかし今は勘当された身というし…いやいや。
『わたくし、やはり赤飯だと思うのですけど』
『まだ嫁にも婿にもやらんぞ』
あの兄夫婦の会話。
まさか、それはそういう意味なのかっ!?
「絳攸っ早まるなぁぁぁー!!!」
玖琅の悲痛な叫びが紅州に響き渡った。
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温泉なんか入ったら傷口開きます。
常春さん、お持ち帰りに成功して大はしゃぎの巻でした。
そして、ナチュラルに告白(笑)しかも通じてない(笑)これが書きたかったっ!
あと1話です。
08/4/27