天に架かる二つの虹⑪










その人の告げた名前が花の名だと知って、ぴったりだと思ったことを今でも覚えている。

その人は、本当に花のような人だった。

こんなに綺麗な人間が存在するのかと驚いたことも覚えている。

薄茶のふわりとした髪も、大きな瞳も、白い肌も、細くて長い指も、今まで街で見たどんな人間とも違っていた。

初めは人攫いの仲間だと思い怯えた自分に、その人は柔らかく笑った。そして、その女性は泥と雨で汚れた自分の腕を、躊躇いもなく握った。

自分は逃げようとするのも忘れて、握られた手をただ見詰た。優しくて温かなそれに、再び涙が出そうになった。

 

 

 

盆から立ち上る湯気を揺らして、百合が室へ入って来た。

それを認めて、黎深はカタンと立ち上がった。百合とすれ違う時に黎深はちらとその湯気を放つ元を覗き込んだ。

自分に視線を寄越した黎深に、百合は「大成功よ」と軽く笑った。

絳攸はそんな二人の様子を「何だろう」とぼんやり見ていた。

黎深が出て行ったことで、室には百合と絳攸だけになった。

『紅家に対する当て付けだったわ』

百合の顔を見るのはあの時以来だった。

「…酷い顔ね」

少し苦く笑った後、百合は持ってきた盆を卓子へと載せる。

倒れたのだから、顔色が悪いことは当然だとしても。先ほどの失態で目は赤く腫れているだろう。

「すみません」

謝罪の言葉を口にすれば、どこまでも真面目な養い子に百合は噴出した。

「いいのよ。珍しいものを見せてもらったから」

くすくすと百合は笑う。

絳攸はそんな百合の笑い声を久しぶりに聞いた気がした。

「あの人ね、貴方を抱えて走ってきたのよ?あんな必死な顔のあの人、初めて見たわ」

黎深に担がれてぐったりした絳攸を見た時、百合は心臓が止まるかと思った。心配で、不安で。居ても立っても居られなかった。

けれど、それは自分だけではなかった。

百合は初めて見る黎深の姿に純粋に驚いた。その様子に声を掛けることさえ出来なかった。

「黎深様が、ですか?」

「ええ」

それが、本当なら…いや、百合様は嘘をおしゃらないけれど、と絳攸は困惑した。

嬉しいというより、絳攸は自分を抱えて必死な顔で走る黎深をどうしても想像することが出来なかった。

 

「お粥を作ってきたの」

笑い止んだ百合は、盆に載ったものを絳攸に差し出した。

ふわりと温かな湯気が漂って、ほんのりとした米の香りが鼻腔をくすぐった。

「…有難う御座います。頂きます」

絳攸は押し抱くように、その器を受け取った。

一口目を口に運べば、僅かな苦味が訪れる。何が入っているのだろう。薬草だろうか。

確かに問われれば百合が作る料理は、秀麗が作る物には遠く及ばないだろう。

けれど、絳攸はこの粥が、百合の料理が、嫌いではない。昔から。

家人に頼らず、百合自ら庖厨に立って悪戦苦闘をしながら作ってくれたもの。それが解るから、百合の料理はとても「美味しい」のだ。黎深が「不味い」だの「けったい」だの「ちんけ」だの悪態を吐きながらも決して残さず百合の料理を食べる理由が、それなんだ。

いつだって、百合の料理は温かかった。

 

「…ご馳走様でした」

綺麗に完食した絳攸に、百合は言わなければならないことがあった。

夫は絳攸が倒れた理由を「お前の所為でもある」と言った。

それは自惚れの様な気がしたのだけれど。あの男はそんなつまらない嘘など吐かない。

『紅家に対する当て付けだったわ』

そう言った、自分。

それは、真実。

踏み出す切っ掛けになって欲しいと願ったことも。

けれど。

本当は悔しかったんだと思う。

絳攸にとって紅黎深こそが全て。絶対の存在。

同じように時を過ごしても、絳攸にとって自分は黎深の次でしかない、と。

それが、悔しくて。

淋しかった。

そんな自分勝手な感情で、傷付けた。

「絳攸」

呼べば、菫の色の瞳がこちらを向いた。

「…絳攸、わたくしは…貴方に、酷いことを、」

百合は途中で唇を噛む。

謝って、それで終わらせようとするのか。全てなかったかのように。

それはとても卑怯な気がした。

「百合様」

言葉を探しあぐねる百合に、絳攸は微笑んだ。

「私は当て付けであっても嬉しかったです」

その言葉に百合は、大きな瞳を更に大きく見開いた。

 

絳攸は百合にも言葉にして伝えたいと思った。

 

嬉しかった。

あの笑顔も、あの言葉も。

『大好きよ、わたくしの可愛い息子』

あの笑顔も、あの言葉も、真実だったと。

知っている。

抱き締める腕の温かさを教えてくれたのは、この人だった。

「黎深様と百合様を比べたことなど無い、です。お二人とも私にとって唯一無二の大事な方です」

どちらが、ということではないのだ。

この二人だから、と思う。

自分は、紅黎深と百合という夫婦の息子でありたい。

瞬きさえ忘れた百合に、絳攸は「それに」と面白そうに笑う。

「百合様がいらっしゃらなかったら…私はきっと紅家を飛び出してましたよ。百合様が居たから、私は今まで、あの邸で、黎深様の傍で、やってこれたんです。百合様が居てくださって、良かった」

そう言って、くしゃりと笑う息子を、百合は瞳から溢れるもので見ていられなかった。

 

この子が―――絳攸が、いてくれて良かった。

 

 

 

 

「あの、百合様…どちらにいかれるのですか?」

それは、絳攸を拾って間も無くのことだった。

「…もうすぐだから、大丈夫よ」

軒に揺られながら不安そうに訊く絳攸を、百合はただ微笑んではぐらかした。

後になって思えば、その時の絳攸の顔が恐怖を張り付かせていたのに百合は気付いていなかった。絳攸が何に怯えているのか、考えることが出来なかった。

 

「百合、随分と久しぶりね」

その女性は、客室へと通された百合を笑顔で出迎えた。

「お久しぶりです、姉上」

百合がそう言えば、隣に居た絳攸が驚いた顔で二人を見比べた。

「この子は?」

その問いに百合は、優雅に微笑んだ。

「息子の絳攸です。ほら、挨拶は?」

「は、はじめましてっ」

息子という言葉に一瞬驚いた顔をした絳攸だったが、百合に促されて絳攸は慌てて挨拶をした。

「まぁ!百合の子供なの?」

その女性は顔に深い笑い皺を刻んでいた。

「いくつになるの?」

「10才になります」

「そう、こうゆう君でいいのかしら?どういう字を当てるのかしらね」

「あ、はい。絳攸です。絳は、こういう…」

子供は自分の掌に字を書いた。

「絳攸、君ね。素敵な名前」

子供の様子を微笑ましく見ていたその目が、ふいに百合に向けられる。

「こんな可愛らしい子供を持って百合は幸せね」

その言葉に百合はぎくりとした。

そしてその女性は昔から繰り返した言葉を再び告げた。

「羨ましいわ」

ぽたり、と。

姉のその言葉に百合の瞳から涙が零れ落ちた。

絳攸の年齢を考えれば、絳攸は百合が生んだ子供ではないことは明白だった。

それでも姉は何一つ不審がることなく、絳攸を百合の子供として受け入れた。

姉は自分がこの子供に何を期待して、何をさせるつもりで、養い子として迎え入れたか知らない。自分の体が子の出来ぬものだと、知らない。「母親」として振舞うことで自分を守っているなんて知らない。自分が本当は不完全な人間だと知らない。

 

突然泣き出した妹に姉は慌てて手巾を差し出してくれた。

百合はそれには手を伸ばさず、代わりに姉の胸にしがみ付いてしばらく泣いていた。

 

「姉上、言っておきますけれど」

涙が乾いた頃、百合は姉に告げた。

「え?」

「わたくしは姉上が羨むような人間ではないのです。容姿だって人並み以上だと自負しておりましたのに、常識を超える美貌の主を知ってしまってからはそんな自負も粉々に砕けましたわ。それに夫だって姉上が羨むような方ではありませんのよ。それはもうまったく。確かに顔はそこそこですし、お金は有り余ってますし、権力もありますけど。それ以外はまっっったくの最低男ですわ」

力説する妹に姉は微笑んだ。そして妹の傍らへと手を伸ばした。

「百合、絳攸君が心配しているわ」

そこには泣きそうな顔をしている子供の姿があった。

「いい子ね」

姉が絳攸の頭を撫ぜるのを百合はただ見ていた。

「優しい子。こんな可愛い子供をもって百合は幸せよ」

姉は優しく微笑んだ。

「羨ましい」

その言葉は今までのどれとも違っていた。

『百合が羨ましいわ』

それは、卑屈になる自分を追い詰める言葉ではなく。

今の自分を肯定してくれる言葉。

 

「あ、あの百合様」

帰り道で絳攸は気遣わしげに隣を歩く百合を見上げた。

「うん?どうしたの」

「俺は帰ってもいいんでしょうか?」

「え?」

「百合様と一緒に…」

嗚呼、と百合は思う。

自分は何て残酷なことをしたのだろうと。

この小さな身体にある大きな傷にどうして気付かなかったのだろう。

「絳攸」

「はい」

名を呼べば、子供は生真面目に返事をした。

「絳攸。帰りましょうね、一緒に」

自分を見上げた菫の色が濃くなった気がした。

「黎深様が心配…はしていないかもしれないけれど、待っているわ。多分」

手を差し出せば、握り返してくる小さな手があった。

繋いだ手はとても温かかった。

 

軒を降り、紅邸に戻ると門前で仁王立ちしていたのは、あの男だった。

「黎深様…」

「何か言うことはないのか?」

「わたくし…絳攸に、酷いことをしてしまいました」

「そうか」

「…でも」

百合は繋いだ手の先にいる子供を見下ろした。

「この子がいてくれて良かった」

「そうか」

「黎深様…」

その目が何だと言いたげに自分を見返してきた。

「ただ今戻りました」

「…ああ」

一拍遅れで夫の返事が聴こえた。

 

あの日、確かに何かが生まれたように思う。

 

 

 

切っ掛けはそう、紅家に対する当て付けだったのだ。意趣返しでもあったし、跡取りを望む一族の目を自分から逸らしたかった。

子供を育てることで、母親になりたかったのも事実。母親になれば、自分は完璧になると思っていた。

そして。

あの子を育てた理由はもう一つ。

 

夫と同じものを愛してみたかった。

 

頓珍漢なあの男と同じものを、世界を、見てみたかった。

夫の大好きな兄や姪では駄目だったのだ。血の繋がらない絳攸でなくては。

兄と姪以外興味の無いあの男が、なんの気まぐれかは解らないが、拾った子供を、自分が愛せたら…近付ける気がした。決して理解出来ないあの男に。理解されたいとも思っていないあの男に。

自分は、近付いてみたかった。

ただ一人の、家族だから。

 

けれど。

今となっては、そんなことはどうでもいいことだったように思う。

やっぱり自分にはあの男を理解することなんて到底出来ない荒業だった。

もし夫が川で溺れていても、自ら助けにいくようなことはしないだろう。そんなところで溺れるなんてなんてお馬鹿さんなのかしら、と笑ってしまう。

けれど絳攸が溺れていたら―――迷いなく、川に飛び込むだろう。

何も一目で愛情が湧いたわけではない。

いつしか愛しさは募っていったのだ。屹度、保護欲や母性と呼ばれるものが、ごく自然に。

そして。ごく自然に夫との距離は近付いたのだと、思う。

絳攸を拾って、初めて自分達は夫婦になったのかもしれない。子育てで喧嘩したことも二人で右往左往したこともあった。

毎日が楽しくて、新鮮だった。

誰かにままごとだと笑われたって、構わない。

元より可笑しな夫婦だ。それに加えて可笑しな親子になっただけ。

 

可笑しくて、何より愛おしい、わたくしの大事な家族。








戻る/続く