百合は袖で自分の涙を拭った。
「…絳攸」
大事だから話そうと、百合は思った。
絳攸が離れていってしまいそうで言えなかった言葉。でも、もう大丈夫。この子がどこの誰だろうと、何一つ自分達の関係が変わることは無い。
「絳攸、貴方は覚えているのかしら。貴方がうちに来る以前のことを」
絳攸の表情が固くなる。
それでも、話す機会は今しかないように思えた。
「…貴陽の街で、孤児として」
絳攸の小さな声に、百合は首を振った。
「絳攸、わたくし達は貴方に全部を話していないの。貴方の生まれやご両親に関して黙っていることがあるわ」
絳攸は少し驚いた顔をした後、口を開いた。
「生まれ…両親…」
「ええ。貴方には知る権利がある」
絳攸はしばし沈黙した後、緩く首を振った。
「…いえ。僭越ながら私が両親と思いお慕いしている方は…黎深様と百合様だけです」
自分の一番古い記憶は揺れる赤。それは血と燃え盛る炎のようだった。
それ以外は何もない。
それでいいと思う。
必要なものはもう既に持っているのだから。
「黎深様に攫わ…拾っていただいて、百合様に育てていただいて、己の望む道を進むことが出来る。私は彩雲国一の幸せ者です」
少し照れたように告げる息子を、百合は堪らず抱き締めた。
「ゆ、百合様っ」
絳攸は慌てた。子供ならまだしも、成人男性が母親というには若すぎる女性と抱き合っているのはどうしても恥ずかしかった。
離れる気配の無い百合にどうしようかと思っていると、ふいにその言葉が聴こえた。
「絳攸…大好きよ、わたくしの可愛い息子」
困ったな、と思いつつ絳攸は大人しく身を委ねた。
百合の腕はやはり温かかった。
「…行くのね」
「はい」と彼は力強く答えた。
「貴方の気持ちは晴れたのね?」
その問いにも、迷いはなかった。
「はい。…けれど、心残りがあります」
「え?」
ふいにその声が沈む。
「私は、百合様に何もお返し出来ていない」
百合は思う。どうしてだろうと。
これ以上ないものを貰ったのは、自分の方なのに。
「親が子の足かせになるべきではないわ」
百合は軽く笑った。
「しかし、私は何一つ…」
真面目な息子に、百合は少し困った。
そして、ふと思いつく。
だったら、と。
百合は絳攸を抱き締めていた腕を離して、その顔を正面から見詰た。
「絳攸、ではわたくしのお願いを一つ聞いてくれますね?」
「え?あ、はいっ」
百合は実に楽しそうに養い子の耳に口を寄せた。
「さぁ、絳攸」
「ゆ、百合様っ、やっぱり俺、いえ、私はっっ」
「それでは駄目よ、絳攸」
「しかしっ」
「貴方はやれば出来る子なんですもの」
「で、でも、心の準備というか…その、やはり黎深様を差し置いて、」
「いいのよ。ここに居ないあの人が悪いんですもの」
「…本当にいいんでしょうか、その、私が、」
「男に二言無し、でしょ?」
「う…は、はい。…では、失礼して」
「ええ、どうぞ」
「何をやっとるかぁー!貴様らは!!!!」
室に飛び込んだ黎深が目にしたのは、寝台に居る息子に詰め寄る妻と顔を真っ赤にして涙まで浮かべた息子の姿だった。
「何って、見れば解るでしょ?」
百合は動じることもなく言ってのけた。
「何だと」
「母と息子の団欒のひと時じゃない」
そう言って、百合は肩を抱いて絳攸の頬をぎゅっと自分の頬とくっつけた。
「ちょ、ゆ、百合様っ」
絳攸は黎深の突き刺さる視線を感じ、慌てて百合の頬と自分の頬を引き離した。…その時、黎深は「私も混ぜろっ」と言うべきか悩んでいたとは露知らず。
「それでは駄目だと言っているでしょ、絳攸」
迫力さえある百合の笑顔に、絳攸は腹を決めた。これは言うまで許しては貰えないと。
「はい…は、母、う…え」
「……今、何と言った?」
黎深は幻聴か、と思った。
しかし、絳攸の顔は更に赤みを増し、百合はこの上なく嬉しそうな、いや勝ち誇った顔をしている。
「絳攸はわたくしを『母上』と言ったのですよ、黎深様」
「…………お前」
黎深が睨んでも百合の表情は崩れない。
「羨ましいのですか?羨ましいのですよね、そうでしょう、そうでしょう」
百合はうんうんと頷いた。
「悔しかったら貴方も絳攸に『お願い』してみたらどうですか?ああ、もちろん『命令』なんて無粋なことは駄目ですわよ、旦那様」
「…………………………」
もちろん黎深は養い子に『お願い』出来なかった。
耳を澄ませれば、いつの間にか雨の音が止んでいた。
絳攸は立ち上がった。
倒れたというのに、不思議なことにすこぶる体調がいい。内から力が漲っているような気さえする。
「身体は大丈夫なの」
労わるような百合の言葉に、絳攸は軽く笑った。
「はい、大丈夫です。暢気に寝ている時間はありませんから」
晴れやかな顔を浮かべる息子を、百合は眩しそうに見詰た。
「…なら、行きなさい。貴方を待っている人がいるんでしょ?」
「はい」
「わたくし達は、そんな貴方を誇りに思うわ」
「ゆ、…は、母上」
真面目な息子は言い直し、百合はそれに満足そうに頷いた。
「ほら、貴方もいつまでも拗ねてないで何かおっしゃったらいかが」
百合は隣にいる夫を小突いた。
「…絳攸」
「はい、黎深様」
その呼び名に黎深の眉がぴくりと動いたことに気付いたのは百合だけだった。
「…まぁいい」
「え?」
「…お前の望みも願いもお前だけの物だ。私の物ではない」
「はい」
「だが」
黎深には解る。屹度、その未来は遠くない。
「お前の作る国だったら見てやってもいい」
絳攸は瞳を閉じて、その言葉を抱き締めた。
黎深と百合と別れた絳攸は、ある室の前で立ち止まった。
「…行くのか」
玖琅は絳攸が再び自分の室を訪れた意味を正確に把握していた。
「はい」
「紅家を敵に回すことになってもか」
玖琅の声は低い。その声には全てを納得させてしまうような威厳があった。
それでも、絳攸の瞳は揺るがない。
「…いいえ。敵にはなりません」
「どういう意味だ」
「玖琅様も伯邑様も世羅姫も私にとって大切な方です。だから、敵にはなりません」
言い切る義理の甥に、玖琅は眉を顰める。
「甘いことを」
「はい、解っています。全てが上手くいく方法なんて本当は無いのかもしれません。けれど、探す価値はあります。探してみたいんです」
そんな甘いことでは駄目だと玖琅は思った。折角の才も潰されるだけだ、と。
しかし「それに」と絳攸は続ける。
「甘えが許される地位まで上りたいという望みもあります」
予想外の言葉に、玖琅は瞬く。
「地位?」
「はい。夢があるんです」
そう、自分の口が言った時。
絳攸自身、道が見えた。
「私は、この国の宰相になりたいのです」
終着はまだずっと先だ。
いや、終着なんていつまで経っても本当は来ないのかもしれない。先へ先へと道は伸びていくのだから。
夢だと言いながらも、近い未来を語るような顔を義理の甥はしていた。
玖琅は大きく、息を吐き出した。
「…頑固なところは黎兄上にそっくりだな」
「玖琅様?」
呟く玖琅に絳攸は首を傾げた。
玖琅は手を軽く振った。
「…よい。行きなさい」
玖琅は甘さが愚かだと言いながら。それでも、今でも、あの御伽噺を信じている。
この青年は屹度、虹の生まれる場所を知っているんだろう。かつて自分が辿り着いた、けれど失ってしまった、あの場所を。
だから、行かせようと思った。
「有難う御座います、玖琅様」
絳攸は深々と頭を下げた。
「伯邑様と世羅姫にも…」
「その必要は無い」
玖琅が指差した先には、佇む少年の姿があった。
「絳兄様…どちらに、行かれるのですか?」
室に入ろうともせず、少年はぼんやりと心許無げに立っていた。
「伯邑様」
近付く絳攸に伯邑は問う。
「貴陽に?」
「はい。帰ります」
伯邑はゆっくりと瞬いた。その様子が酷く子供らしかった。
「今夜は詩文について教えていただく約束でした」
常の大人びたものとは違う伯邑の様子に絳攸の胸が痛んだ。
「…すみません」
「世羅も淋しがります」
「…世羅姫に、今度は雨が降ったら一緒に虹を探しましょう、と伝えてもらえますか」
「虹?」
「ええ。出来れば伯邑様も一緒に」
絳攸の提案に伯邑は首を傾げた。
「何故、虹なのですか?」
「御伽噺です。虹の生まれる場所には幸いがあるという」
伯邑は少し沈黙し、そして何か言い掛けて、強く唇を噛んだ。
「…解りました。行って下さい。余りしつこくして絳兄様に嫌われたくはありませんから」
そう言えば、笑ってその人は自分の頭を撫ぜた。
「伯邑様、またお会いしましょうね」
そんな言葉を残して。その人は遠ざかる。
「でも」と、その背を見ながら少年は言う。
「紅家は…私は貴方を諦めません」
それは、幼いながらも人の上に立つ者の瞳だった。
あの血の繋がらない従兄だけだったと、伯邑は思う。
自分が子供でいることを許してくれたのは。
父の口癖は「早く大人になれ」だった。「大人にならねば守れぬ」そう言った。「誰かがやらねばならぬのだ」そうも言った。
『何から』守るのか…それは幼心にも漠然と理解出来た。
ここは、余りに広い。そして、冷たい。
父は当主不在の紅州を必死で治めている。母は身体が弱い。幼い妹は…年頃になれば、きっとどこかの家に嫁がされるだろう。政略結婚という名の下に。
黎伯父上は私達親子が好きではないし、女性初の官吏になった従姉には会ったことさえない。
大人になりたくないわけではない。子供でいたいわけでもない。
それでも、あの従兄に初めて会った時。
子ども扱いされたことに、微かな怒りと喜びを感じた。
子ども扱いされて、悔しい。子ども扱いされて、嬉しい。
どちらも本当の気持ち。
きっと―――『難しい』のだ。
紅家の邸の真ん前で佇む影を見て、絳攸は内心舌打ちする。
置いていってやろうかと思ったのに、残念だ。
「雨が、止んだね」
「…ああ」
何故だか悔しくて、返事が不機嫌そうになる。
しかし、相手は気にした風はない。
「ちゃんと、選んできたかい?」
「…ああ」
「そう」
それは、一瞬のことだった。
「君に一つ、訊いておかなくてはいけないことがあるんだ」
気付いた時には、菖蒲が彫られた剣の切っ先が自分に向けられていた。
*************
百合姫は初めから「母」であったわけではないっていうお話です。行き成り芽生えるものよりも、徐々に育っていく過程が好きです。あ。もちろん百合姫は百合姫なりに夫を愛してるんですよ。
次は常春さん、出番です。
08/4/24