革命前夜〜李絳攸 編〜











その日、絳攸は州試及第の通知を受け取った。

その通知を胸に抱き、絳攸は瞳を閉じる。震える心をなんとか治めると、ほっと息を吐いた。嬉しいより何より、安堵したのがまず初めだった。

 

州試の出来に自信はあった。それだけの勉強をしてきた…つもりだ。けれど最後まで確信は持てなかった。自分が勉強してきたのはここ五年がいいところだ。他の受験者はもっと前から勉強を積んできているだろう。だから自分は国試を受けると決めた時から毎日毎日、朝から晩まで勉強した。食事や寝る間さえ惜しんだ。勉強以外何も考えることが出来ないくらい、ひたすらに几案に向かった。

今回駄目でも次回頑張ればいい、とは到底思えなかった。受験するにも金がかかることを知っている。養い親は国試を受けろ、などと一度も言わなかった。国試受験は自分で勝手に決めたことだ。自分だけの我が儘だ。その我が儘を二度も言いたくなかった。最初で最後の我が儘のつもりだった。

 

絳攸は閉じていた瞳を開ける。冷えた外気をゆっくりと吸い込み、気を引き締める。

 

まだだ。

まだここからだ。まだ第一関門を通ったに過ぎない。官吏になるにはまだ会試がある。

まだ、自分は何の役にも立っていない。

まだ、何一つ返してはいない。

 

それでも、この州試主席及第の結果は自分にある勇気を与えた。

言わなくてはいけない。これは、自分の意思で、自分の口で。

 

 

捨て子の自分が拾われた家は紅家だった。自分を拾ってくれた人は紅家の当主だった。紅家は彩雲国において絶大な富と権力を有する彩七家の中でも、藍家に継ぐ名門だった。時の王が州候に改姓を求めて以来、約六百年。彩七家はその血脈を絶やすことなく今に至る。彩七家は何よりその血筋を重んじる。その当主に実子がないことを、影で何と言われていか…自分は知っている。

「何処の馬の骨とも知れぬ子供に紅家を継がせるつもりなのか」と。

「あんな子供を拾うからだ」と。

 

 

 

台所にその女性の姿はあった。夫人が自ら台所に立って料理をしなくても専属の料理人が邸には居る。しかし、百合は「今日はお祝いだから」と笑って自ら腕を振るうことにしたらしい。柱の影で料理人が青い顔をして見守っている。

 

「百合様…」

近付いて遠慮がちに声を掛ける養い子に、百合は首を傾げた。

「どうかしたの、絳攸?」

笑顔で問いかける百合に絳攸は僅かに口籠った後、口を開く。

 

「あ、あの…子供というのはどうしたら出来るものなのでしょうか?」

 

ゴッ!

 

百合が握っていた包丁が床に突き刺さった。料理人が慌てて柱の影から飛び出してくることにも気付かず、百合は固まった。後、慌てふためく。

「―――っ!!ここここ、絳攸!?どうしたの!?熱があるの!?そう、そうよね!もう今日はお休みなさい!勉強のしすぎで疲れてるのよ!!」

「え!?いえ、あの」

何か言いかけた養い子を遮って、百合はその手を取ると物凄い駆け足で絳攸を室へと連れ去った。

 

―――こ、子供!?子供の作り方に興味があるの!?あの絳攸が!?

嗚呼!女の子みたいに可愛いものだからつい忘れていたけれど、絳攸ももう十六の男の子!年頃よ!…もしかして、性教育というのも必要なのかしら!?

どうする!?どうするのよ!?わたくしが教えるの!?

でも!これはわたくしより男親がするべきなのではないかしら!?男親って…黎深様が!?…あの男がそんなもん出来る訳ないじゃない!!

 

百合は内心で今の時間はまだ朝廷に(一応)出仕している(筈の)夫に悪態を吐いた。

 

百合は絳攸を室まで連行すると養い子の身を寝台に押し込んだ。よく判らぬうちに寝台へと押し込まれた絳攸は慌てて半身を起こして、百合の袖を引いた。

「あ、あの!百合様」

「ななな何?」

とりあえず寝かしつけてこの場はやり過ごそうとした百合は、養い子に呼び止められてうろたえた。養い子はその菫の瞳で百合を見上げた。その必死な表情といったら…

 

―――そんな涙目で上目遣いで…なんて、なんて!可愛いのかしら!!

わたくしの教育の賜物だわ!蝶よ花よと育てた成果だわ!!

 

百合が感動で打ち震えていると、そんな百合の内心のことは知らない絳攸が意を決したように再び口を開く。

「こんなこと、お…私が言うのは可笑しいのかもしれませんが…私はずっと百合様に言いたくて…でも黎深様の前では到底言えなくて…」

熱っぽい視線で見上げられた百合はこくりと喉を鳴らした。

 

―――嗚呼、何てことなの!やはり若くて綺麗な継母との生活っていうのが不味かったのかしら!?絳攸ったらもしかして、わたくしのことを…!駄目よ、そんな禁断の愛にときめく様な趣味はないわ!!

 

…この場には百合の内心を把握している者も、それに対して色々とツッコミを入れてくれる者も居なかった。しかし百合の勘違いは続く養い子の言葉で見事に解ける。

 

「黎深様の子供を産んでくださいっ」

「へ?」

百合の口から貴婦人らしくない変な声が出してしまった。

 

―――黎深様?何で?あ、いや(一応)夫だけど。

 

目を瞬く百合に構うことなく、絳攸は言葉を紡ぐ。

「国試に受かれば官吏になれます。俸禄がもらえれば、独り立ちできます。お二人に拾って育てて頂いたご恩は、これから生涯を掛けてお返ししたいと思っています。…私はもう十分です。これ以上お二人にご迷惑がかかるのは…辛いです」

絳攸は苦痛に歪んだ顔をしていた。百合は養い子が何を云わんとしているのかを理解した。

「もし…私に気兼ねしていらっしゃるんだとしたら…すぐにでも」

邸から出て行きます、と言葉は続くはずだった。

百合の白い腕が上げられ、絳攸は反射的に目を瞑った。とっさに打たれると思った。しかし頬を襲ったのは優しい痛みだった。

「あら、よく伸びるのね。やっぱり若いからかしら」

「ゆ、ゆりさ、ま?」

百合は養い子の両頬を引っ張っていた手を離した。

「子供はね、いらないのよ。あなたがいるじゃない。それに…もう一人子供みたいに手が掛かるのがいるから、もう沢山よ」

ふふっと笑った後、百合は真剣な表情になり自分の人差し指を絳攸の鼻の頭に当てた。

「それにどうするのよ?もし、黎深様そっっくりの子供でも産まれたら」

「…………………そ、それは………」

思わず言葉に詰まった絳攸に満足した百合は口の端を上げた。

「わたくしそんな恐怖体験をするつもりは毛頭無いわ」

絳攸は百合のその言葉に思わず納得しそうになった。が、「いや、しかし」と慌てて言葉を探し始めた。そんな養い子を百合はぎゅっと抱き寄せた。

 

「大好きよ、絳攸。わたくしの可愛い息子」

 



 

 

ある雨の日、夫は薄汚れた子供を拾って来た。

新手の嫌がらせかと思った。

問い詰める自分に夫は「道に落ちていたので拾った」といけしゃあしゃあと言ってのけた。そんな犬や猫じゃあるまいし、と呆れつつとりあえず子供に湯浴みをさせた。その子供は、身体は痩せこけていたが顔立ちは整っていることが判った。きらきらした色素の薄い銀の髪が綺麗だった。髪を乾かしてやっていると子供から腹の鳴る音が聴こえた。試しに自分の手料理を食べさせてみた。子供は「お、おいしいです」とたどたどしくしゃべりながら完食し、ぎこちなく笑ってみせた。隣で夫が変な顔をしてその光景を見ていた。

 

その日から、子供は自分達の養い子になった。

 

本当は「これって人攫いなのではないの?」と思わなくもなかったが。まぁ、夫の為したことだ。犯罪者は夫であって自分ではない。

夫が「李絳攸」と名づけた少年はとんでもなく方向音痴だった。それはもう、とんでもなく。ほぼ毎日のように邸の中でも迷った。明らかに迷っているのに本人は散歩です、と言い張るのが面白かった。それを観察することが自分の日課になった。

 

それからの時を共に過ごした。

自分と夫と絳攸と。

子供を生んだこともない自分が、行き成り十歳の子供の親になった。あの雨の日から、日々はとても楽しかった。毎日がいろんな発見だった。

 

 

 

本当に疲れていたのか、気付くと絳攸は健やかな寝息を立て始めた。

後ろで一つに括っている髪を解き、厚い前髪を掻き分けてやった。涙の後が薄く残る頬をそっと撫でた。実年齢より幼く見える寝顔だった。

 

 

 

『紅家当主に嫁いだからには、そのお役目を果たされませ』

そんな言葉、聞き飽きるくらい聞いた。そんな言葉も嫌味も自分に向けられるものなら、一向に構わない。笑って一蹴できる。しかし、絳攸に向けられるものは我慢できなかった。そんな言葉や親戚連中からも絳攸を極力遠ざけてきた。

「官吏になれば…」彼はそう言った。国試に受かって、官吏になれば…

今までの優しいだけの世界ではないだろう。様々な中傷や悪意に晒されることになるだろう。

それでも、彼は自ら進んでいく。

自分にとってもこれは試練なのだ。親としての。自分はこの子の「母親」なのだ。…自分は産みの痛みは知らないけれど。何でも鼻から西瓜を出すくらい痛い、らしい。そもそも鼻から西瓜を出すだなんて、そんなこと不可能だと思うのだが。まぁ、それくらい大変なことだという意味だろう。

守りたくても、守りきれないこともあるだろう。自分の目の届かぬ処で、彼は屹度傷つくだろう。

それでも。それは彼が越えていかなければいけないもの。自分が代わってあげることはできないこと。

彼はこれから色んな人々と出逢うだろう。好意を寄せる者にも悪意をもつ者にも…彼を愛し、彼が愛する人にも。今までの絳攸の世界は中心に拾い主である黎深が居た。自分を含めて出逢う人物は黎深の延長線上の人だったろう。

だから。これから出逢う人々が「李絳攸」にとっての初めての出逢い。

 

 

 

「それでは、行って参ります」

会試に向けて出掛ける養い子を百合は門まで見送りに出た。黎深はすでに軒に乗り込んで待っていた。全くもって素直でない黎深もこの日ばかりは迷子にさせる訳にはいかないと、軒で会場まで送ることにしたらしい。

「絳攸」

「はい」

小さかった子供は、今では百合と同じ目の高さでしゃべることが出来る。少年の顔から青年のそれへと変わろうとする養い子に、百合は微笑んだ。

「貴方が『ただいま』と言える場所は、ここよ」

どれだけこの子が傷ついて帰ってきても、笑って受け止めてあげれる場所。再び送り出せる場所は、ちゃんとここにある。

だから。胸を張って…

 

「行ってらっしゃい」

 

百合は「母」の顔で最愛の息子を送り出した。

その時の絳攸の顔は、初めて「李絳攸」の名を与えられた時と同じものだった。

 

 

李絳攸、十六歳。夜明けは近い。












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お養母さんと息子。絳攸編というより百合姫編になってしまった。
この2人の親子関係って妄想しがいがある。捏造紅家も楽しいです。

この双花過去シリーズは双花国試編「青空讃歌」へと続きます。
07/9/29

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