革命前夜〜藍楸瑛 編〜











「「「楸瑛。お前、今度の国試を受験しなさい」」」

 

楸瑛は兄である藍家当主達から呼び出され、兄達の室を訪れていた。

そこで兄達は全く同じ言葉を同じ口調で告げたのだった。そんなことは生まれてから幾度も見てきた光景だったので、今更何も思わないが、告げられた内容には多少驚く。

「国試、ですか?」

「ああ」

「そうだ」

「嫌か?」

一人一人口を開いても、一人の人間がしゃべっているようにしか聴こえないことにもとっくに慣れた。

「…いえ、しかしそれはまた、急ですね」

「急ということもない」

「勉強なら昔からしているだろう?」

「問題ない」

「まぁ、いいんですけど」

ここで自分が嫌だと言ったところで何が変わる訳でもない。自分の運命など、この家に生を受けた日…いや、この兄達を持った日から決まっている。

ただ気がかりはあった。

「…しかし、はもういないでしょう?官吏になったところで…」

「確かに清苑公子は居ないな」

弟の言葉を途中で遮って三人の内一人が、ある人物の名を出す。

―――紫清苑。第二公子だった男だ。

兄達に直接言われた訳ではないが、自分は彼に仕えるだろうと思っていた。

兄達に呼ばれて訪れた貴陽で彼に会い、剣を交えた。手も足も出なかったことが情けなくて、「役立たずは必要ない」と切り捨てられたことが悔しかった。彼にもう一度再戦して見返す為に武芸も本気で学んだ。

しかしそのすぐ後、公子の中で誰より優秀だった彼の人物は外戚の謀反を受けて流罪となった。そして自分は流罪になった公子を探す為に身一つで放り出され、茶州まで訪れた。けれど彼の足取りは掴めなかった。生きているのか死んだのかさえ判らなかった。

だから自分はもう朝廷には何の思い入れもない。誰かに仕えようという気持ちもなかった。ここ、藍州で兄達の補佐をしながら一生を送るだろうと漠然と考えていた。

それに、と楸瑛は思う。

現在、藍の姓を持つ官吏は朝廷に一人も居ない。兄達自身が藍州に戻る際に引き上げさせたからだ。

兄達の考えを図りかねている弟に兄達は言葉を続ける。

「清苑は居ないが、朝廷には第六公子が居る」

「様子を見てくればいい」

「第六公子ですか…清苑程の人物だとは思えませんけど」

「彼を超える程の者がいなければそれはそれで致し方ない」

「それなら帰ってくればよいだけの話だ」

「社会勉強だと思えばいい」

「はぁ」

楸瑛は余り気の無い返事をした。「清苑公子を探しに行け」と言われた時も確か、社会勉強だ何だと言われたな、とぼんやり思った。

 

楸瑛は兄達に一礼し、退室しようと踵を返した。その背に声を掛けられる。

「ああ、楸瑛」

「今回の国試でな」

「お前に思わぬ出会いがあるやもしれぬぞ」

「…兄上達の大好きな邵可様ですか?」

兄達の家庭教師で、今は朝廷の府庫に勤めているという紅邵可という人物に楸瑛は会ったことがなかった。兄達から彼の人となりを嫌と言う程聞かされてきたので彼のことだろうと楸瑛は当たりをつけたのだが。

兄達は緩く首を振った。

「いいや」

「邵可様に会いたくば府庫に行きなさい」

「出会いとは、お前と同じ受験者だよ」

「…その者には負けるな、と?」

「「「いや、別に」」」

三人の兄は声を揃えた。

「我々はそんなことは言わないよ」

「勝つも負けるもお前次第だ」

「まぁ、三位以内には入ってもらわねば話にならないけどね」

「……そうですか」

揃って口の端を上げる兄達を見て、三位以内に入れなければどんな恐ろしいことが待っているやらと楸瑛は身を震わせた。むしろ「負けるな、頑張れ」と言ってくれたほうがどんなにか気が楽か。…尤も、そんな言葉が兄達から出よう筈もないことを楸瑛は今までの人生から理解していた。

 

 

楸瑛は兄達の室を出て直ぐのところに、変な物が落ちているのを見付けた。手に取ってみるとそれは白い花弁だった。使用人が掃除を怠る筈も無い廊下に、その花弁がぽつぽつと落ちている。その花弁が作る道筋を目線で追っていくと、途中に何かの果実が落ちていた。

傍によって見るとそれは李の実だった。手に持つと実はまだ硬かった。

何故こんな物が…?と思う楸瑛の視界の端に子供の姿が滑り込む。

楸瑛ははっと目を上げ、その子供の名を口にする。

「龍蓮!」

呼ばれた子供は酷く緩慢な動作でこちらに視線を寄越した。近付いてくる兄を表情の読めない顔で眺めていた。

弟をこの名で呼ぶことにも大分慣れたものだ。しかし、この名で呼ばれ始めてからの弟は滅多にこの城へは寄り付かない。旅にばかり出ている。

いくら弟が「藍龍蓮」だからといっても子供には違いない。一人で旅に出るなど危険だから止めろと幾ら言っても本人は聞く耳を持たないし、兄達が止めさせることはなかった。

 

「君、いつ戻ったの?」

弟の傍まで寄ると楸瑛は努めてにこやかに話しかけた。

返事もせずに、やや垂れ気味の瞳がこちらをじっと見ている。その視線を受けた楸瑛は居心地の悪さを感じる。

血の繋がった弟だが、実は苦手だ。

弟の視線がふっと下がり、楸瑛の手に未だ握られていた李に留まる。

「…愚兄其の四は李が好きか?」

「え?李?いや、別に好きでも嫌いでもないけど…」

というかその「愚兄其の四」っていう呼び方止めて欲しいんだけどな、と楸瑛は思う。第三者に言うなら兎も角も本人に「愚兄」って…しかも。

そこで改めて楸瑛は弟の身形を眺め、溜息を吐いた。

髪に刺さった花枝葉はまぁいいとしよう。李の白い花は彼の漆黒の髪によく似合っていた。しかし、生の果実を頭に乗せるのはどうだろう。

龍蓮の頭には楸瑛が持つ李の実と同じものが一つ乗っていた。きっと廊下に落ちていた花弁も実も彼の頭から落ちた物なのだろう。龍蓮の服装もどこの旅芸人だ、と聞きたくなるほど派手で奇抜な物だった。

やはり旅になど出すのではないな、と楸瑛が思っていると、龍蓮が口を開く。

「好きでも嫌いでもない、それは無ということだ。無は何も生まない。好きも嫌いも。確かに存在するのに、愚兄にとっては消え去っても構わぬ存在でしかない」

「え?」

弟の言葉を聞き取れず楸瑛は聞き返した。しかし彼はもう何も言わずにふいっと兄に背を向けると、すたすたとどこかへ行ってしまった。

「…何なんだ」

楸瑛は手元に残った李の実を見下ろした。

…やはり苦手だ。いや、苦手というより…可愛くないと言った方が正しいのかもしれない。

 

 

弟の後を追う気にも全くならなかったので、自室に戻ろうと楸瑛は歩を進めていた。すると今度はのんびりとした声に呼び止められた。

振り返らなくても声の主は判っていた。その表情さえも。

「雪那さん達のお話は終わりましたか?」

振り返れば予想通りの人物が予想通りの顔で笑っていた。

 

 

「お庭でお茶を一緒にしませんか?」という玉華の誘いに乗って自分達は城の中庭でお茶を飲んでいた。

「いい天気ね。こんな日に室に籠っているだなんて勿体無いと思いません?」

「…ええ」

楸瑛は少し複雑な視線を目の前の女性に向けた。ふわふわ笑うこの女性を自分は好ましく思っていた。それこそ初めて会った時から。彼女の笑顔はこちらまで幸せな気分にしてくれる。

しかし、最近はその笑顔を見るのが何故か苦しい。

彼女はいつだって笑っていた。自分は彼女の笑った顔しか知らない。

もっと違う顔が見たい、そう思った。

その思いのままに口が開かれる。

「…貴女に、一度聞いてみたかったのですが」

自分は一体、この女性のどんな顔が見たいのか。怒らせたいのか、悲しませたいのか。それは自分でも判らなかった。

「何かしら?」

屈託なくその女性は首を傾げる。

「どうして雪兄上だったのですか?」

「え?」

玉華の顔を確かに視界に捉えながら、心が冷めていくのを感じた。

「藍家直系なら誰でもよかったのではありませんか?父でも、三つ子当主の誰でも」

それでもそこに自分の名は出せずに。子供じみている。しかし止まらない。「義姉上」とさえ呼べずに、それでも言葉は続く。

「貴女は、もしあの時貴女を連れ出したのが雪兄上でなかったら…」

「ええ、そうです」

玉華の肯定の言葉に、楸瑛は頭を殴られたような衝撃を受ける。

「そんなことありません」と。「雪那さんでなければ駄目だったのです」と。屹度、そう彼女は言う。

自分の言葉を否定してくれるだろうと信じて疑わなかった。

「藍家の方なら誰でも構わなかった。それが偶然、藍家当主の長兄だっただけです」

違う。彼女はそんなことを言わない。

「この国には限りない程の人がいて、藍州だけでも多くの人がいて。その中でどうしてもその人でなくてはならない理由なんてないわ。そんなの只の思い込みよ」

そんなことない。長兄と玉華は運命の相手なのだ。自分はずっとそう思ってきた。ずっと、それこそ玉華に初めて会った時から自分は見てきたんだ。それが只の思い込みだなんて…そんな筈はない!

「ねぇ、楸瑛」

唇を噛んで俯いていた楸瑛は、その優しい声色に顔を上げた。

義理の姉はやはり、笑っていた。

「そう、言ったら貴方は満足?そんな答えが聞きたいのですか?もし雪那さんでなかったら…という仮定に何の意味があるというの?」

瞳を覗き込むようにして彼女は訊いてきた。その目が何も映し出してはいないことを知っているのに、全てを見透かされているようで慌てて視線を逸らす。

「今更、そんな仮定をしてみても意味なんて無いんじゃないかしら。大事なのはあの時、あの場所で、あの瞬間に雪那さんに出逢ったことなんだと思うの」

これも私の思い込みなんだけど、と彼女は付け足した。

「私は…知らない」

「貴方も…見つけるわ。必ず」

「そんなの、知らない」

「それでも。そんな思い込みさえしてしまうような人に会うの」

「私は…」

そんな思い込みなんて知らない。知りたくもない。自分はただこの静かな世界に浸っていたい。

でも。

ここには玉華がいる。雪兄上がいる。玉華の思い込みの相手は自分の兄だった。そして屹度兄の相手も玉華だ。だったら自分の想いは?―――永遠に独りだ。

 

「…わ、たしは」

言葉に詰まる楸瑛に玉華の手がすっと伸びて、慰めるように己の頬に触れようとする。その手が触れる前に楸瑛はさっと身を引き、椅子を鳴らして立ち上がった。

「っ、失礼しますっ」

楸瑛はその場から立ち去った。玉華のその手から、告げられた言葉から逃げるように。

 

『貴方も…見つけるわ。必ず』

 

それは途方も無い夢物語に思えた。

 

 

 

藍楸瑛、十八歳。夜明けはまだ遠い。












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双花過去シリーズ連載開始です。といってもこの「革命前夜」は双花が国試で出逢う前の話なので、次の絳攸編で終わりです。過去シリーズは国試編と進士編へと続きます。これまた、気長に御待ち下さい。
嫁取りで玉華が言ってた話がこれです。楸瑛さん夢もち過ぎです。相変わらず玉華捏造のままです。捏造藍家が楽しいです。
07/9/23

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