パパと息子の7日間@
この国には不思議な言い伝えが多数存在する。
仙人が住まう山や若返りの泉、どんな病も治してしまう梅干、人格が変わってしまう酒の話など挙げればキリがないくらいだ。
不思議な桃の話もその中の一つ。
彩八仙の力を受けしその桃は千年に一度実をつけ、その実を食べた者には不思議なことが起こるという―――
「何をしている」
「黎深様っ」
府庫に現れた養い親の声に絳攸は顔を上げた。
「今度の朝議に必要な資料を探しております。あの、それで貴方はここで何を…というか、仕事は?仕事はどうしたんですか!?」
生真面目な養い子は素直に上司の質問に答えた。
しかし全くもって不真面目な上司は、そんなの聞いちゃーなかった。
軽く辺りを見回して、目的の人物を探す。
「兄上はどこだ?」
「先程までいらしたのですが…」
「どこへ?」
「それは伺っておりません」
黎深はやる気のない溜息を吐いた。
そして机案に置かれている物にちらりと目をやった。
籠の中に数個の桃が入っていた。
「頂いたんです。邵可様に」
訊かれる前に絳攸は答えた。
「邵可様に」という言葉に黎深はぐっと目を見開いた。
その後はパタパタと扇子を扇いだまま、桃をじっと見詰ていた。
絳攸は何だか怖くなって、黙ったままの養い親にそっと尋ねた。
「…黎深様も頂きますか?」
「当然だ」
絳攸が「はぁ」と何とも言えない返事をしていると、黎深はすとんと椅子に腰を下ろした。
「え、今から食べる気ですか?」
「お前も座りなさい」
ビシッと対面の椅子を指されて、絳攸はうろたえた。
「しかし、私には仕事が…」
「座りなさい」
「………はい」
ここで機嫌を損ねるのは得策ではない、と判断した有能な部下は素直に従うことにした。というか、逆らえなかった。
絳攸は養い親の為に桃の皮を剥いていく。
桃は美味いが、皮をむくと手が汚れるのが難点だと思う。
「桃か。…秀麗は桃が好きだろうか」
「好きなんじゃないですかね」
というかあの秀麗に嫌いな食べ物はないだろう。
「桃味の蜜柑…」
姪大好き養い親の呟きに、や、それなら普通に桃を食べた方が…と絳攸は思った。
しかし、養い親の頭はもうすでに可愛い姪にあげる新作蜜柑のことでいっぱいのようだった。
「黎深様は…本当に秀麗のことが大好きなんですね」
「当たり前だ」
判っていたことだが思わず漏らした言葉に、黎深はちゃんと反応した。
「どうして…、そんなに好きなんですか?」
何となく浮かんだ疑問がつい口を衝いて出ていた。
黎深は何をそんな馬鹿なことを訊く、とでも言いたげな視線を寄越した。
「そんなものは決まっている」
「え、」
「可愛いからだ」
肯定しても否定しても怒られる気がして絳攸は沈黙を守って、黙々と桃の皮を剥いた。
その後、府庫に戻ってきた邵可は仕事もせずに桃を二つも平らげた弟にこんなことを漏らした。
「ああ、そういえば昨日秀麗に『仕事を全くしないことで有名な吏部尚書が紅家の方って聞いたのだけど、本当なのかしら』って言われてねぇ」
黎深の行動は早かった。
飛ぶ勢いで吏部に向かう養い親の後を絳攸も追った。
優秀な侍郎は「この期を逃がすべからず」と判断したのだ。
前を行く黎深は階を上っていった。
ああ、そう行けば近道なのかと、絳攸は一つ学んだ。
しかし、ふと思った。
秀麗に嫌われたくないという想いだけで、この上司は走っている。
自分がどんなに懇願しようが仕事をしないこの上司は、可愛い姪のたった一言で仕事をする。
黎深が秀麗を好きなのは秀麗が邵可の娘だからだと思っていた。
その血の繋がりに自分は勝てない。
でもそうではないのだとしたら…
血の繋がりなど無くても秀麗が黎深に無条件に愛されているのだとしたら…
自分は…
黎深が秀麗に向ける好意のように好かれたいとは思わない。むしろ御免被る。
しかし―――
「おいっ」
不意に声を掛けられ、思考の淵から我に返ると怪訝な顔をした養い親の顔がすぐ目の前にあった。
慌てて動かしていた足を止めた。
すると
「え、」
或るはずの踵の下の感覚が無かった。
体が傾ぐ。
「絳攸っ!!」
黎深が自分に向かって手を差し出すのを、絳攸は無意識に掴んだ。
パパと息子の7日間A
「………………う、…い、痛い…」
絳攸は何とか身を起こした。
落ちた瞬間の記憶が無いところを考えると、どうやら気を失っていたようだ。
持っていた書翰やら書物やらが辺り一面に散乱している。
それに埋もれるようにもう一人の人物がうつ伏せで倒れていた。
さっと血の気が引いた。
「黎深様っ!!大丈夫ですかっ!?」
絳攸は慌てて養い親に駆け寄った。
しかし、彼の体を揺すり起こそうとした手がふと、止まる。
あ、あれ?
今日の黎深様はこんな服装をしていただろうか。
髪も彼は艶のある黒髪の筈だ。こんな色素の薄い色ではない。
…というか、この姿は自分のよく知る者と余りに似ていた。
絳攸が掛ける言葉を躊躇っていると、がばっと身を起こした人物が怒鳴った。
「大丈夫のわけあるか!お前は方向感覚だけでなく平衡感覚もないのか!?必要以上に武芸を身に付けることはないがそれでも最低限己の…」
その人物は不意に言葉を切った。
絳攸と黎深は互いにしばし見詰合う。
「「……………………………………」」
勇気を振り絞って絳攸は確認してみることにした。
「……れ、黎深様です…よ、ね?」
「そうだ」
見ればわかるだろう、とは流石の黎深も言わなかった。
それはそうだろう。
たった今言葉を返したのは紛れもなく李絳攸自身なのだ。
幾らなんでも二十数年を共にした自分の姿を見間違えることも無い。
目の前に居るのは自分。
そして。
絳攸は今現在の自分の姿を見下ろした。
だったらこれは…この体は…
「こ、これは一体何が…」
「おそらく入れ替わったのだろう」
余りのことに全身を震わせる絳攸とは対照的に、黎深はいやにあっさり答えたのだった。
「ええぇぇぇ!!」
「お前の体に私が入って私の体にお前が入っている、ということだろうな」
「そんな馬鹿な!夢とか夢とか夢とか夢ですよね!?」
信じられず絳攸(外見・黎深)は黎深(外見・絳攸)に詰め寄った。
どうか夢だと言って欲しい!
そんな絳攸の切なる願いを余所に、黎深は絳攸の頬をぎゅっと抓った。
見た目では絳攸が上司である黎深の頬を抓るのだから、恐ろしい光景である。
「痛っ!」
「どうやら、夢ではないな」
どうしてこの人は自分の頬でやらないのだろうか…と思って、気付く。
確かに自分の頬だ。なんてややこしいんだ。
それにしても、階から転げ落ちた際にあちこち打ったのだろうか。体が痛い。腕には大きな痣があった。
見やれば自分の体に怪我はないようだった。もしかして黎深様が庇ってくださったのだろうか。
「しかし、これでは仕事どころではないな」
黎深のその言葉に絳攸は立ち上がる。
「早く誰かにこのことを話して」
走り出そうとした養い子の袖を黎深は引っ張った。
「待て」
「しかし、このままでは」
「面白いではないか。しばらくこのままでいよう」
黎深の提案に絳攸は言葉を失う。
この人は一体何て言った?「このままで」と言ったのか?面白い?一体何が??
「な、な、な、何言ってんですかっ貴方は!?」
「周りには黙っていろよ。その方が面白い」
「何も面白いことなんかありませんよっ!」
「こんな機会は滅多にないからな。お前も協力しろ」
「嫌ですっ!!!」
全力で拒絶を露にする養い子に黎深はすっと目を細めた。
顔は自分なのにその表情は黎深そのもので、絳攸の背筋を冷たいものが走った。
「…この姿で藍家の若造を外朝で押し倒すぞ」
「!!!」
絳攸は絶句した。
自分の姿が公衆の面前で、あの常春男を押し倒す…!?!?
考えただけで、絳攸は黎深の体で鳥肌を立てた。
そんなことになったら、例え元の姿に戻っても二度と外朝に足を踏み入れることは出来ない。
黎深をよく知る者なら、愛情を影ながら注いでいる養い子の身で黎深がそんなことをする筈がないのは明白だ。
だが養い子を思い通りに操る術を心得ている養い親に、絳攸が逆らうことはできなかった。
「さて、日も影ってきたことだし帰るか」
己の口から発せられたその言葉に、絳攸は自分が何と答えたのか覚えていない。
パパと息子の7日間B
絳攸はとぼとぼと帰宅した。
常に比べてあまりに早い絳攸の帰宅に家人が何か言うことはなかった。
出されるままに夕餉も食べたが、味なんてしなかった。
絳攸が向かいに座っている己の姿に目を向けることが出来たのは、食後の茶を出された後だった。必死に気のせいだと思い込んだが、目の前から自分の姿が消えることはなかった。
どんなに目を背けても、事態は全く変わらない。まずは事態を把握し、それに見合った対処をすべきだ。
そう、分かってはいるが…。分かってはいるが…っ!!
この事態を受け入れることさえ出来ない絳攸は、頭を抱えてうな垂れた。…黎深の姿で。
その姿を目撃した邸の家人達はそっと目を逸らした。
離れにある養い子の邸で夕餉を食べ終えた後、頭を抱えて唸っている当主の姿を目撃しても家人達は見て見ぬ振りをした。多少のことで騒いでいるようでは紅家の家人など務まらない。
「さて、風呂でも入るか」
黎深(見た目は絳攸)がそれを言い出したのは絳攸(見た目は黎深)が現実逃避を始めた頃だった。
「自分を見下ろすのは変な感じだ。前髪が長いからそろそろ切らないとな」などと考えていた絳攸は、黎深の言葉に目を数回瞬いた。
風呂?
「…もしかして黎深様はその姿で風呂へ?」
「その姿も何もこの姿しかないだろう」
「それは…、そうですけど…」
「何だ、裸を見られるのが恥ずかしいのか?」
「えっ!い、いえそうでは…」
動揺を隠しきれない養い子に黎深は直球を投げた。
「私もお前も同じ男だ。付いてるもんも同じだ」
「……………そうですね」
絳攸はそう言うより他なかった。
その後、風呂から戻った黎深は何を思ったのか、養い子に説教を始めた。
「お前は普段一体何を食べているんだ!?もっと沢山食え!だから禄に成長もしないんだ!何だ、この薄い胸板は!?お前はどこぞの女に押し倒されたいのか!!」
それを聞きながら、絳攸は「ええ、ええ、言うとおりですよ。でも原因の半分は毎日毎日貴方にこき使われてる所為だと思うんですよね」と思った。思っただけで、言葉には出来なかった。
黎深の後で、今度は絳攸が風呂へ向かった。
…極力何も見ないように努めた。大変疲れた風呂だった。
「では…おやすみなさい」
たった四半刻で更に精神力を疲弊させた絳攸は、養い親に就寝の挨拶をした。
しかし絳攸が踵を返そうとすると、その背に声がかかって呼び止められた。
「待て、何処へ行く」
「え、自分の寝室ですが」
流石にこの距離では迷わない…筈だ。
「お前の今日の寝室はこっちだろう」
黎深は離れではなく本邸の方を指差した。
「…もしかして私が黎深様の室へ?」
「もしかしなくてもそうに決まっているだろが」
「はぁ」
絳攸はとてもとても疲れていた為に、深く考えもせず養い親の言葉に従うことにした。
そう、絳攸はこのときには気付かなかったのだ。黎深の寝室ということは黎深一人の室ではないということに。
絳攸は同じ扉の前を三度通った時に気付いた。
黎深様の寝室ということは…ゆ、百合様が…!?
絳攸が室の前でだらだらと冷や汗を垂らしながら立ち尽くしていると、すっと扉が開いた。
「…何をやっているの?」
室から覗かせた顔に、絳攸は心臓が口から飛び出すかと思った。
「いいい、いや、その」
「入らないの?」
百合に問われて、絳攸は覚悟を決めた。失礼します…という言葉を飲み込んで一歩を踏み込んだ。
しかし、入ったはいいが寝台の前で固まってしまう。
やはり百合様には事態の説明を、と思う。けれど、一体どこから話せばいいのか…。
「黎深様」
脳内でぐるぐる思考していた絳攸に、百合が近付いて肩にそっと触れた。
絳攸はぎゅっと目を瞑った。
「な、何だ?」
絳攸は内心で「百合様百合様ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と、謝罪を繰り返した。
「髪が付いてます」
その言葉と百合の手が離れていく感覚に、絳攸は閉じていた目をそっと開く。
目の前に髪の毛を一本摘んでいる百合の顔があった。
「へ?ああ、有難う」
「……いいえ」
思わず礼を言ってしまった絳攸は、百合の顔を見て焦る。
百合は不思議そうな顔をしていたのだ。自分は何か不味い事を言ってしまっただろか。
「わ、私はもう寝るっ」
絳攸は百合が何か言い出す前にさっさと寝台へと潜り込んだ。
「お、おやすみっ」
百合に背中を向け、それだけを言えば一拍後に返事が返ってきた。
「…おやすみなさい」
絳攸は身を縮めて、必死に目を瞑った。
寝台に自分以外の人間の気配があることに緊張する。
もう寝てしまおう。
願わくは、明日目が覚めたときに全てが夢でありますように。夢か…もしくは、養い親の大掛かりな嫌がらせが終わっていますように。
ただそれだけを願って、絳攸は眠りに…就けなかった。
こんな状態でぐーすか寝れるほど絳攸の神経は麻痺していなかった。
*************
やっとというより今更な「パパと息子」です。
テーマは親子愛です。
黎深の秀麗に対する態度と自分に対する態度の違いに、
ちょっと傷ついている息子です。
入れ替わりといえば、やはりお風呂ネタは入れたいなってことで(笑)
08/1/25 収納