パパと息子の7日間C
絳攸は結局一睡も出来ぬまま朝を迎えることとなった。
嗚呼、鳥のさえずりが聴こえる。朝日が眩しい。有り触れた風景の何と素晴らしく、残酷なことか。
そんな感想を抱いて、絳攸はもそもそと寝台から這い出た。
百合が先に寝室を出ていったことを確認すると、大きな溜息が零れた。
これから先のことを考えると頭痛がし、絳攸はこめかみを押さえた。
自分の有り触れた日常を、どうか返して欲しい。
いつもは離れで暮らしている絳攸だが、百合との約束で七日に一日は共に朝食をとることになっている。
絳攸(見た目は黎深)が朝餉の用意されている室に行くと、そこにはもう黎深(見た目は絳攸)の姿があった。
「お早う御座います、黎深様」
何の躊躇いもなくそう言う黎深に絳攸は眩暈を感じた。
しかし、黎深に「しっかりやれ」とばかりに睨まれて(自分の顔なのだが)、「あ、ああ」と辛うじて答える。
そんな二人の微妙な空気を感じ取ったのか、百合がふと尋ねた。
「絳攸?どうかしたの?」
「いえ、何でもありませんよ。百合様」
…黎深様のりのりですね。
本来は自分のものであるその笑顔が恐くて、絳攸はそっと目を逸らした。
黎深は百合とにこやかに会話をしていたので、絳攸は極力何もしゃべらないように食事に徹した。というか、絳攸は自分の顔をした黎深と百合とにこやかに会話できる気が全くしなかった。
自分の皿の分を食べ終わり、絳攸は食後の茶を啜った。
さて、出仕はどうするべきか…と思っていると隣に座っていた百合がカタンと席を立った。
食事中に席を立つとは百合様らしくないな、と不思議に思って絳攸が見ていると百合は向かいに座る養い子の横に立った。
そして―――。
それは、一瞬のことだった。
刃の光が己の首に当てられるのを、絳攸は唖然として見ていた。
「…ところで、あなたは誰?私の絳攸はどこ?」
百合は果物を剥く為に置いてあった短刀を突きつけながら、艶やかな唇からそんな言葉を紡いだ。
「ゆっ、百合様っ!」
椅子を鳴らして立ち上がった絳攸とは対照的に、黎深は冷ややかに短刀を突きつけている妻に一瞥をくれた。
「よく気付いたな」
「当然よ。絳攸がこの室に来るには一度、必ず庭院に出るの。特に今朝は絳攸が目印にしている廊下の飾り棚にある壺の配置が変わっていたから、迷わずに辿り着ける訳がないわ。それに絳攸が最初に箸を付けるのは汁物よ。発音にしてもそう。『百合様』ではないわ。『百合様』よ」
そう説明した百合の発音の違いを絳攸自身聞き分けることが出来なかった。
結局、絳攸と黎深は百合に全てを説明することになった。
「もう少しは気付かれずに楽しめるかと思ったがな」
話を聞き終えた百合に黎深は詰まらんとばかりに言った。
「あら、母の愛を舐めないで頂けます?」
誇らしげに言った百合に絳攸は感服した。
「流石は百合様です。やはり私のことも最初から可笑しいと思っていた訳ですね」
「いいえ?そんなことないわ」
「え?」
「黎深様が可笑しいのはいつものことだもの。いちいち気にしてなんていられないわ」
…ええと、妻の愛はないのですか。
訊いたら「ないわ」とあっさり言われそうな気がして絳攸は訊くことが出来なかった。
「で、二人はいつ元に戻るの?」
百合は夫と養い子の顔を見比べた。
「もう気は済んだでしょう?早く元に戻って頂戴」
「…えーと、」
絳攸は言葉を濁した。
百合は珍しく、その柳眉を顰めた。
「…元に、戻れないの?」
答えたのは黎深だった。
「ああ」
「…ずっとこのまま?」
「かもな」
「…………………………」
「…あの、百合様?」
絳攸は様子の可笑しい養い母に声を掛けたが、次の瞬間。百合はそのまま後ろに倒れた。
「こ、絳攸…」
百合は床についたまま、震える手を伸ばして最愛の息子の名を呼んだ。
「百合様っ」
直ぐに息子が手を握ってくれたことに安堵して、百合はそっと目を開けた。
が。
そこに居たのは、夫だった。正しくは夫の姿をした息子だった。
「う、」
「百合様?」
わたくしの絳攸が…!
蝶よ花よと手塩に掛けて育てた絳攸が…!
こんな、見るも無残な姿に…!!!
「うわぁぁぁぁん」
百合は号泣した。
目の前で養い母に号泣された絳攸は「自分はなんて親不幸者なのだろう」と胸を痛めた。
しかしもう片方の親は柱に凭れて、パタパタと扇子を扇いでいた。
「黎深様、やはり一刻も早く元の姿に戻れる方法を探さなくては…。このままでは百合様が…!」
沈痛な面持ちで告げる養い子に、黎深はパチリと扇子を鳴らした。
「…出掛けるぞ」
「は、はい!」
絳攸は踵を返した養い親の後を、慌てて追った。
パパと息子の7日間D
絳攸が黎深の後を追って着いたのは宮城だった。
絳攸は首を傾げた。
元に戻れる方法を探すのではなかったのだろうか。それとも、宮城に元に戻る鍵があるのだろうか。
考え込んでいる絳攸を余所に黎深は意外なことを告げた。
「出仕だ、出仕。官吏の本分だろう」
常ならば涙無しには聞けない台詞である。色んな意味で。
本来の出仕の時間には大分遅れてしまったが、吏部の常の惨状を思えば尚書・侍郎共に不在は痛すぎる。
しかし、吏部尚書の黎深が真っ先に向かったのは府庫だった。
「えーと…黎深様、一体府庫にどのような用事が?」
嫌な予感を感じつつ、絳攸は恐る恐る尋ねた。
黎深はちらりと一瞥をくれた。
「お前はここでしばらく待っていろ」
そう言うや否や黎深は扉を開けて府庫へと入って行った。
養い親にどのような思惑があるのかは解らなかったが、絳攸はとりあえず府庫の扉の横で待機することにした。
「ああ、これは絳攸殿。お早う御座います」
「お早う御座います、邵可様」
府庫の主である邵可と黎深(本来は自分の声)の会話が聴こえ、絳攸は耳を欹てた。
「何かお探しですか?」
「探し物という訳ではないのですが…」
「何か私に訊きたい事でも?」
「…ええ。実は、その、私の養い親のことで」
「黎深がまた何かしましたか?」
「いえ、そうではないのですが」
養い親が一体何を言い出すのか検討もつかない絳攸は、二人の会話を聞き取ろうと扉に噛り付いた。
…傍から見たら吏部の氷の尚書が府庫の扉に張り付いているとても怪しい光景なのだが、絳攸はそんなこと考えてやしなかった。
「邵可様は…黎深様のことをどう思っていらっしゃるのだろうと、」
「どう、とは?」
「黎深様はお優しくて、頭が良くって、見目麗しくて、仕事もしっかりこなされていて、笑顔がとても素敵で…」
れ、黎深様っ!貴方って人は、一体何をっ!?
自分の声で語られる捏造黎深談に絳攸は慄いた。
「だから兄…邵可様も屹度…!」
「ええ。可愛い弟ですよ」
「っ!そ、そ、そ、そうですよね!?玖琅なんかよりずっと可愛いですよね!?」
「うん、玖琅と同じくらいにね」
その会話を聞いた絳攸は扉の影で脱力した。
が、続く邵可の言葉に耳を疑った。
「で、気は済んだかい?黎深」
これには黎深だけでなく、絳攸も「え」と声を漏らした。
「何がどうなってそうなっているのかは解らないんだけど。絳攸殿が君ってことは、そこにいるのが絳攸殿ってことでいいのかな?」
結局、絳攸と黎深は本日二度目となる「入れ替わった」事情を話すこととなった。
「流石は兄上ですっ!」
黎深は嬉々として言った。
絳攸は喜色満面の自分の顔を初めて見た。というか、こんな顔も出来るのだなぁと変に感心してしまう。
「やはり、愛ですね!兄上の私への愛です!!」
…もしかしたら、黎深様は何気に今朝の百合様の言葉を気にしていたのでは、と絳攸は思った。
「それにしても困りましたね」
全く困っていなそうな弟は差し置いて、邵可は弟の姿をした義理の甥(ややこしい)に話し掛けた。
「…はい」
「過去に人格が入れ替わったなんて話は聞いたことがありませんが、私の方でも戻れる方法を探してみます」
やっと協力的な言葉を聞けて絳攸は心の中で涙を流した。
「有難う御座いますっ!邵可様」
絳攸は深々と頭を下げた。
それを邵可はちょっと複雑な思いで見詰た。
自分のような閑職と違い、二人が勤めるのはこの朝廷でも要職の吏部だ。仕事をしない尚書は兎も角、侍郎が居ないとあっては吏部官の悲鳴がここまで聴こえてきそうである。しかしこんな事態になってまで「仕事をしろ」というのは酷過ぎる。
邵可はそう思っていたが、それについて触れたのは意外にも仕事をしない尚書の方だった。
「しかし、二人ともサボっている訳にもいかんだろう」
「…そうですね」
真面目な侍郎は神妙な顔で頷いた。
それを見た邵可が真面目顔をした弟にこっそり感動しているとは、絳攸も黎深も気付かなかった。
「私はここで兄上と元に戻れる方法について文献を探しているから、お前は仕事して来い」
「えっ!?」
絳攸は自分の姿をした養い親にしっしと追い払われた。
「戻れる方法」というより「兄上と」の方に本音が出ているような気がしてならない。普段、尚書という黎深の立場を気にしてあまり親しくしてくれない邵可にここぞとばかりに甘えようという思惑が見えるような、見えないような。
しかし黎深が言うとおり二人とも仕事をしない訳にはいかないだろうと、絳攸は吏部に向かうことにした。
そして―――迷った。
体が入れ替わったことでこの体質も変わっているのではないだろうか、という絳攸の淡い期待は粉々に砕け散った。
絳攸の迷子体質は体というより魂に刻み込まれたものだった。
よって絳攸は黎深の姿で何刻も外朝を歩き回る羽目になった。すれ違う者も居たには居たが、誰一人として目を合わせてはくれなかった。
なんとかかんとか自力で吏部尚書室に辿り着いた時には、絳攸は疲弊しきっていた。只でさえ昨日は一睡もしていないのである。
「侍郎の位しかもっていない自分が尚書印を押すのは…」と最初は躊躇っていた絳攸だったが、積み上がった書翰の山に腹を決めた。
「押してやるっ…押しまくってやるっ…!誰かぁ!尚書印が必要な書翰は全て持って来いっ!!一つ残らずだっ!!!」
吏部尚書室に黎深の叫び声が響き渡った。
そして、吏部官達は「真面目な紅黎深」という奇跡を目にすることになる。
パパと息子の7日間E
絳攸が吏部で尚書印を押しまくっている一方、黎深はというと…帰宅しようと府庫を後にしていた。邵可が所用で府庫を出て行ってしまった為、兄上の居ない府庫になど用はないと帰路につこうとした黎深のその背に声が掛かった。
「絳攸!」
絳攸にしたら良く聞き慣れたものだったそれは、黎深にとっては酷く不快なものだった。
黎深は振り向きもしなかった。
「君、今日はずっと府庫に居たの?執務室になかなか来ないから心配したよ。吏部の方にも行ったんだけど、今日は来ていないって言われて…」
そこまでしゃべって楸瑛は、絳攸が一切こちらを見ていないことに気付いた。
「絳攸?何かあった?昨日も城の外まで探しに行こうとしたら、君が上司殿と帰ったのを見たって聞いて」
「………………………」
「絳攸?」
何の反応も返さない絳攸を不審がって楸瑛はその肩に手を伸ばした。
瞬間、手に痛みが走る。
「……触るな。殺すぞ」
そんな地を這うような声が楸瑛の耳に届いた頃には、絳攸はさっさと行ってしまった。
それ以上楸瑛は声を掛けることは出来ず、叩き落とされた己の右手を見詰た。
楸瑛が執務室に戻ると劉輝が「待ってました」とばかりに、がばっと書翰から顔を上げた。
「楸瑛!絳攸は見付かったか?」
「…ええ、まぁ」
歯切れの悪い側近の返答に劉輝は首を傾げる。
「迷っていたのではないのか?」
「それが…何だか様子が可笑しかったのですよね」
「可笑しい?何か怒らせるようなことをしたのではないのか?」
「怒らせること…ですか?」
劉輝の言葉に今度は楸瑛が首を傾げた。
何故絳攸の様子が可笑しいと自分が怒らせたことになるのか少々疑問だったが、言われて見ればそんな気がしないでもない。
はて、と楸瑛はここ数日を思い返した。
「…ああ、そういえば。迷っている姿が可愛いので、絳攸が道標にしている花瓶の位置を変えましたね」
「えぇ!?そんなことをしたのか!?」
「ああ、あと。焼餅を焼いている姿が可愛いので、態と絳攸が居るのが解っていて後宮の女官と親しげにしてみたり」
「…………へぇ」
「ああ、あと。照れている姿が可愛いので、廊下で抱きついて頬に接吻したり」
「………………………」
「ああ、あと…」
「もうよいぞ、楸瑛…」
劉輝は心の中で絳攸に同情した。
その夜、絳攸は無事帰宅を果たした。
尚書室の見通しはだいぶ良くなった。しかし、元の量が量である。もっとやれるうちにやっておきたかったのだが、吏部の尚書は仕事をしたらしたで被害者が更に増えるというなんとも迷惑な才能の持ち主なのでそれも憚られた。
絳攸が自邸の離れではなく、本邸の方へ行くと百合が出迎えてくれた。
「お帰りなさい。…こ、絳攸」
まだ夫の姿に「絳攸」と呼び掛けることに抵抗があるのか、百合の言葉はぎこちなく、顔は引きつっていた。
しかし今朝のことを思えば大分回復したようだ。
「百合様、起き上がって大丈夫なのですか?」
心配そうに尋ねる養い子に百合は感動した。
姿はあれだが、その優しさは息子そのものだった。
そして、百合は心を決めた。
「絳攸。…来てもらいたいところがあるの」
「はい?」
絳攸が百合に連れてこられたのは―――谷だった。
「ゆ、百合様、これは…」
手を付いて谷底を望んだが、闇が広がるばかりで何も見えない。風が巻き上がって来て、髪を揺らした。
絳攸はごくりと唾を飲み込んだ。
嫌な予感が絳攸の頭を過る。
まさか、そんな。
しかし、絳攸の予感を確信に変えるようにあるものが運び込まれる。
それは―――縛られた自分の姿だった。
「百合っ!貴様ぁ!!こんなことをして只で済むと思うなよ!!」
そんな悪役の常套句を吐いて暴れているのは紛れもなく、己だった。
しかし、当の百合はそんなのを無視して養い子に告げた。
鬼気迫る表情で。
「さぁ落ちるのよ、絳攸!そして元の可愛い絳攸に戻って頂戴!!」
「百合様っ!ここから落ちたら死にます!!確実に死にます!!!」
絳攸は全力で首を振った。
百合も全力で首を振った。
「獅子は我が子を千仞の谷に蹴落とすのよ!!」
「ええっ!?それは今関係あるのでしょうか!?」
「百合っ!絳攸っっ!!貴様ら私を無視する気かぁぁ!!」
絳攸は早く元に戻らないと命が危ないと思った。
*************
どんどんドラマとは違った方向に進んでいるような…(汗)
黎深様は完全に変な人だ。迷子はやっぱり迷子だ。
パパと楸瑛のファーストコンタクトでした。
08/5/5 収納