春季大祭神殿講話(要旨)
令和3年1月18日
そこで、この度は、春季大祭ということで、その意義を思案しながら、コロナ禍でどのような通り方をさせて頂くかお話したいと思います。
親神様は、人間が陽気ぐらしをするために、教祖をやしろに五十年のひながたをお残し下さいました。
その道中は、一列人間を救けたいとの親心から、自らが貧のどん底に落ち切り、その中を陽気に勇んでお通りになり、ひながたの道をお示し下さいました。
物金の執着を去れば、心に明るさが生まれ、陽気ぐらしへの道が開ける、と教えて下さいました。
こかん様が、「お母さん、もう、お米はありません。」と、言うと、教祖は、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」と、諭され、親神様からお借りしている健康なお身体こそが御守護であることをお諭し下さいました。
また、をびや許し始めとし、疱瘡などの御守護もお見せ下さるなど、親神様の思いに添い切れば、必ずたすかる事をお教え下さいました。
また、おつとめをお教え下さり、陽気ぐらし世界に向けて、さらなるお急き込みをなされました。
しかしながら、教祖を慕う人達が増えるとともに、当時は、おつとめをするため人が集まる事を取り締まられるようになり、その中心にいた教祖は、獄舎への御苦労となってしまいました。
高齢となられた教祖を気遣い、おつとめを躊躇しましたが、教祖はさらにおつとめを急き込まれました。教祖は、
さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。
さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。
さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。
そこで、明治20年1月26日には、我が身どうなってもと思う者によっておつとめが勤められ、その時は、不思議にも取り締まりはなく、おつとめの手も不十分でありましたが、教祖は満足気にお聞きになり、現身をお隠しになられました。
その後、おさしづがあり、
子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。(中略)これから先だん/\に理が渡そう。
この教祖のひながたから学ぶことの中に、当時、大勢集まっておつとめをすることが難しかった中、人数も足りず、子供も勤めるなどしましたが、真実の心を定めておつとめをすることが大切な事を教えて下さっており、只今はコロナ禍であり、大勢集まることが難しいですが、心を込めておつとめはできるのです。また、身近な人に、おさづけを取り次ぐ事もできます。
また、みかぐら歌の中で、五下目りには、
二ツ ふしぎなたすけはこのところ
をびやほうそのゆるしだす
昨年5月に緊急事態宣言が全国に出されましたが、みかぐら歌は十二下りが一月から十二月に相当しており、五下り目にお言葉があることに気が付きます。
そこで、五下り目を思案させて頂くと、
三ツ みずとかみとはおなじこと
こころのよごれをあらいきる
四ツ よくのないものなけれども
かみのまへにハよくはない
五ツ いつまでしん/\したとても
やうきづくめであるほどに
六ツ むごいこゝろをうちわすれ
やさしきこゝろになりてこい
このような思召から、今できる事を思案して通ることが大事であります。
尚、静岡大教会は、来年6月18日に創立130周年記念祭を執り行わせて頂きたいと思います。当日の詳細はまだ決まっておりませんが、それまでの一手一つの活動として、それぞれの教会で、子供から老人まで、老若男女問わず、おつとめをしっかり勤められるようにして頂きたいと思います。そして、その後迎える教祖140年祭三年千日活動にも繋げていきたいと思いますので、どうか宜しくお願い致します。
静岡大教会長 松浦一郎