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    立教173年(平成22年)7月18日発行 第256号
    6月月次祭 祭典講話要旨

6月月次祭 祭典講話要旨
平成22年6月18日 大教会長様

 我々の信仰する上で、当たり前のように使われている「誠」だが、誠真実とか、真実誠とも言うが、果たしてどのような心であろうか。分かっていてなかなか「誠」になれないのが人間であろう。そこで、今回は皆様もよく知っている事例を取り挙げて、もう一度思案させて頂きたい。
 おかきさげでは、いろいろ誠につてご教示下されているが、まず「日々常に誠一つという」というように、日々の信仰姿勢を仰せになられている。さらには、「誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。」と仰せ下さるように、日々常に誠の心で通らせて頂けば、神様は必ず御守護を下さる事も仰せられている。
 この日々の信仰姿勢に対して、とても分かりやすい事例として、教祖伝逸話篇の44番に「雪の日」が挙げられる。これは、大阪にある大縣大教会の祖となった増井りん先生のとても有名なお話であり、本教においては、よくお諭しとして使われている。
 増井りん先生は、明治7年10月26日の32歳の時、当時ソコイといわれた不治の眼病を患い、両眼失明となったが、天理教を信仰させて頂く心定めによって、不思議にも御守護戴いた。この後、白熱した信仰は、今でも多くの方に語り継がれている。
 増井りん先生は、身上御守護戴いてから熱心におぢば帰りを繰り返していたわけであるが、この逸話は、ある大雪の中でも、大阪から歩いて教祖にお会いしに来た話である。
 途中吹雪の中、川を渡る時、雪の積もった手すりもない三尺の橋を、蟻のように這いつくばって「なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと」とお願いしながら命がけで渡ったのである。
 その姿は、想像するだけですざまじい信仰信念を窺う事ができる。さらに注目すべき事は、教祖が「まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな。」と、仰せられているのである。
 教祖から直接人間に対して、「誠の人」と仰せられているのは、大変珍しくすごい事である。我々人間は、神様から見て、欲深く埃多い人ばかりであり、自分自身の事を「誠」と言える人がいるであろうか。また、他人に対しても心から相手を「誠の人」と評価できるであろうか。増井りん先生は、神様から「誠」と仰って頂いたのであり、正に「誠の人」であろう。
 さらに、増井りん先生には、教祖は「あちらにもこちらにも滑って、難儀やったなあ。その中に喜んでいたなあ。さあさあ親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」と仰せ下されている。
 つまり、神様の受け取られる「誠」の心は、どんな難儀な中も、心迷わず神一条の精神で思召に添わせて通らせて頂いていれば、必ず不思議な御守護を頂戴し、喜ばさせて頂けるのである。そして、日々常々の誠は、どんな事でも受け取って御守護を下さり、自分自身が楽しみづくめの人生通らせて頂く事ができるのである。
 増井りん先生のお話は、我々の心がけなければならない信仰姿勢につて、実に分かりやすくお示し下されていると言えよう。
 神様のお話やお言葉は、分かっているようで、まだ気づいていない発見もあるかもしれない。どんな簡単な事でも、深く掘り下げていく姿勢、つまり求道の精神こそが自分自身の信仰にプラスになる新たな発見と感動を生み、陽気ぐらしの境地が味わえるであろう。
 さて、おかきさげでは、さらに「一名一人の心に誠一つの理があれば内々十分睦まじいという一つの理が治まるという。」といわれ、それを見て世界中の人が、「成程という」とあり、「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という。」と仰せられている。誠の心は、家庭も仲良く治まり、周りにもその姿は成程と云われるようになるのである。
 さらには、「人をたすける心は真の誠一つの理で、たすける理がたすかるという」と云われるように、「たすける心」の大切さも教えられている。
 御守護を頂戴できるような「誠」の心を求め、これからも通らせて頂きたいものである。