静岡大教会創立120周年に向けて
(平成24年6月8日)
秋季大祭祭典講話(要旨)
大教会長様
平成20年10月18日
さて、我々が現在信仰させて頂いている元一日は、今から百七十一年前の天保九年十月二十六日からである。この日から天理教が始まったわけであるが、親神様が初めてお現われになったのは、三日前の二十三日夜、中山家に続いた不幸の平癒を願って行っていた寄せ加持の最中である。
この言葉は、教典、教祖伝の最初に書かれており、
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
我々は現在天理教を当たり前のように信仰させて頂いているが、この元一日がなければ、本教は成立していなのである。中山家は、家柄のよい大きな庄屋であり、生活に困っていたわけではなかったが、三日の押し問答の末、一家の都合を捨てて親神様の仰せに従ったからである。実は、ここに一つの信仰姿勢が示されている。疑う心を捨てて、親神様の思召しに素直に従っていくということである。
では、何故教祖が月日のやしろとなられて、わたくし達をお導き下されたかは、「天理教教典」の第三章「元の理」に示されており、
「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混じっている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。」
また、人間を創造されるにあたっての道具衆となった、いわゆる十全の守護といわれるお働きは、くにとこたちのみこと、をもたりのみこと、くにさづちのみこと、月よみのみこと、くもよみのみこと かしこねのみこと、たいしょく天のみこと、をふとのべのみこと、いざなぎのきこと、いざなみのみこととの神名を授けられており(十全の守護の説き分けは中略)、かしもの・かりものの理を理解し、ご守護を頂戴する上で大変重要である。
親神様は、人間を創造される時、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされている。さらに、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれている。
我々人間は、陽気ぐらしの世界を目指しているが、親神様が、自ら体の中に入込まれて人間が創られ、産み下されているわけであり、世界中の人間は、元々親神様のお心に溶け合った一条心の純粋な魂の持ち主であった事がわかる。これが我々の本心であり、自然に互いに助け合う陽気ぐらしの世の中を望むのである。
また、親神様は一身(一心)であるが、人間創造に当っては、自らが男、女の二つに分かれ宿し込みがなされている。そこで、男も女も互いに惹かれ合うのであり、さらに夫婦が心を一つにする事によって、本来の親神様の一身のお心に近づかせて頂くことができるのであり、究極の幸せを体感する事ができるのである。みかぐら歌の四下りに、
ふたりのこころをあわせいよ
なにかのこともあらわれる
さらに元始まりでは、親神様を中心に心を一つに結び合って人間が創られている。この理を受けて、かぐらづとめではつとめ人衆が心を一つにし、一手一つに勇む心を受け取られて、親神様も勇まれ神人和楽の陽気が漲るのであり、我々の信仰姿勢においても大変重要である。
このように、人間はこの元始まりから九億九万九千九百九十九年、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、天保九年十月二十六日にようやく本教が始まったのである。この元始まりがあり、さらに立教の元一日があればこそ、今の我々があるのである。
人間は幸せを求めて止まない。それは陽気ぐらしをしてほしいという思いで創られた元のいんねんがあるからであり、それにそぐわない心使いや行いは悪いんねんとなり我が身に返ってくるのである。そこで、常に心を磨き、親神様、教祖の思召しに応え、お喜び頂ける心で通らせて頂かなければならないのである。