部内4教会で創立記念祭執行
4教会では初代、二代、三代と代を重ねるなか、幾多のふしを乗り越えて、今日の道の結構な姿をお見せ頂いているが、それは先輩先生方が、我が身、我が家の都合を捨て、たすけ一条の御用の上に尽くし切られたお陰であることを深く心にとどめると共に、後に続く者たちが、より一層、陽気暮らしの世界実現を目指して勤めさせて頂くことを誓い合った、意義ある記念祭となった。
静福分教会 創立50周年記念祭
平成17年11月3日
賑やかに祭典は執り行われた
(祭典後の記念撮影・静福分教会:平成17年11月3日)
静福分教会は、昭和20年5月、岡野國蔵氏家族は東京都中野区で大空襲に遭遇し、焼け出されて無一文で現在地の熊川村(現福生市)に流れ着いた。
借家住まいを転々とするなか布教を開始。昭和25年には古材で借地に6畳、4畳半、台所、風呂場を建築。静多摩布教所のお許しを戴いた。
昭和28年、布教所に隣接する空地を購入し、神殿建築予定地とした。昭和30年、松浦幸雄前大教会長様との約束を果たすべく教会設立に踏み切り、静岡の50番目の教会として同年9月26日、静福分教会の名称の理と神殿建築のお許しを戴く。昭和50年には、大教会の親の声を受けた岡野國蔵初代会長の熱意により、部内に3布教所が設立された。
教会設立より20年の歳月が流れ過ぎた昭和50年、「親の信仰があって今日の我々がある。親から子へ、子から孫へと信仰を伝えてこそ、親神様の思いにお応え出来る」という初代会長の熱い思いから長男道治氏が二代会長に就任した。同年11月二代会長就任奉告祭に併せ、神殿増改築落成奉告祭、創立20周年記念祭が賑やかに執行された。
信仰の喜びを、信者先々まで身を持って伝え続けた初代会長の熱い思いは30年経った今も、静福の道の上に受け継がれている。
藁科分教会 創立110周年記念祭
平成17年11月10日
祭典講話をされる大教会長様
(藁科分教会:平成17年11月10日)
当日、大教会長様ご夫妻の御臨席を戴き、賑やかに祭典は勤められた。祭典講話で大教会長様は、「親神様の御守護によって生かされている事を喜び、おやさまひながたの道を、いかに喜んで辿らせて頂くかが肝心である」と、諄々とお話くだされた。そして寄り集った教信者は、迫り来る教祖120年祭に向け、「静岡大教会総おぢばがえり」を目標に、一人でも多くの帰参者をお与え頂く事を誓い合った。
藁科分教会は、明治28年12月14日、岩崎金兵衛氏を初代会長として設立。翌明治29年初代辞任により二代に蒲原出張所の初代所長だった萩原幾次郎氏が就任した。そして1年後、三代会長に山本栄次郎氏が任命され、教勢伸展に力を注ぐなか、昭和14年まで勤められた。その後を受け四代会長には山本孝太郎氏が就任。昭和39年まで勤め、後を山本好友氏に譲り、自らは大教会の入り込み役員として、夫婦で勤められた。昭和51年、山本道孝氏が六代会長に就任し、今日に至っている。
部内教会として、昭和29年に、静福養分教会が設立された。
駿府分教会 創立110周年記念祭
平成17年11月11日
駿府分教会秋季大祭・創立110周年記念祭
(平成17年11月11日)
大教会長様は「始めた理と治まった理は一つであり、同じ理を持って次の代に信仰を繋いでいく事が大切である」と、お話下された。
この後、静安分教会の信者さんが、娘さんの身上を御守護頂いた体験話を披露し、参拝者に感銘を与えた。
石川九郎兵衛氏を初代所長として創立された駿府布教所は、宇津ノ谷峠を越えて藤枝より道が静岡へ入り、遼原に火を放つ如く伸び広がった。人だすけにより、多くの信者の拠点となった静岡分教会の由緒ある場所であり、分教会が手狭になった為に鷹匠町に移転した跡地でもあるので、その理を後世へ残し活かすべくこの地に布教所を開設することになった。初代は静岡分教会の役員で会計を務めていた石川氏が就任した。
明治40年2月、安西、宮ヶ崎一帯の火災で類焼。翌年初代は持病から出直し。この後を受けて福嶋瀧蔵氏が二代所長に任命された。明治45年4月、静岡市一番町47-2(現在地)へ移転。
大正11年10月、三代所長に子息、福嶋庄吉氏が任命され、大正13年4四月、部内教会として静安宣教所が設立された。四代会長には福嶋津弥吉氏が昭和25年4月20日就任。五代会長には福嶋敏秀氏が昭和40年3月26日お許しを戴き現在に至っている。
駿府の部内教会として、大正13年に静安分教会。昭和27年に駿府東分教会、駿府西分教会。昭和28年に西影分教会。昭和29年に駿府南分教会、駿府浜分教会が設立された。
静陵分教会 創立70周年記念祭
平成17年11月13日
静陵分教会秋季大祭・70周年記念祭
(祭典講話:平成17年11月13日)
大正12年、清水栄太郎氏の二女の身上から一家断絶のいんねんを悟り、道一条の心定めで不思議なたすけを頂き、栄太郎氏は別科33期に入学。相次ぐ身上、事情のおていれの中、長年住み慣れた新間の地を後に、家族もろ共、静岡市栄町の借家を拠点に布教を開始した。
その後、借家を転々としながら苦難な布教生活は続いたが、昭和10年12月23日静陵宣教所のお許しを戴いた。
昭和19年8月、現在地の水落町に移転。翌昭和20年6月19日の静岡空襲で教会建物は焼失、父竹十郎氏も焼死するというふしに遭遇した。
昭和26年3月、初代は清水義雄氏に会長職を譲り、夫婦で大教会に入り込みとなる。
昭和58年10月、清水義弘氏(二代会長長男)が三代会長に。平成8年2月、四代会長に清水道男氏(二代会長二男)が就任した。「たんのうと親孝心」を常に心にもって通られた初代会長の思いは今なお、受け継がれている。
なお、部内教会として、昭和26年に静真都分教会。昭和27年に南静陵分教会。昭和28年に西静陵分教会。昭和29年に北静陵分教会が設置された。