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40  vol.5 家康公駿府ご隠居四百年
2021.10.28 Thu.
 徳川家康公は関ヶ原合戦に勝ち天下を統一すると将軍職を秀忠公に譲り気候風土、温和な駿府(静岡市)に隠居しました。丁度四百年前の慶長十一年(1607)のことです。
 ご隠居さんは直ちに全国の大名に「天下普請」を命じ、今川氏居館跡を三重の堀を巡らし本丸には金色に輝く大天守閣、贅をつくした御殿の建つ駿府城を完成させました。京都の二条城に並び稱せられる豪華絢爛たる城であったと伝えられています。ご隠居さんは不測の事態に備え、安倍川の堤を切れば駿府の町は水浸しになる様設計し、別名を浮島城と呼ばれていました。今は石垣とご隠居さんお手植えののみかんの木に栄華の跡を偲ぶのみです。
 ご隠居さんは駿府にあっても、江戸幕府をリモコン操作し、西国大名に睨みを効かせていました。財政的にも、城外へ、金座(小店のある金座町はその跡)、銀座を設け、小判や銀貨を鋳造していました。特に金座では、全国各藩で鋳造された小判の品質鑑定を行い、合格したもの丈けが天下の通用金となったのですから並のご隠居さんではありません。
 ご隠居さんは今川家の人質とされていた幼少の頃から鷹狩りが大好きでした。今川家の菩提寺の境内で鷹狩りをすると従者を困らせ、寺の和尚に一喝され、思いとどまったそうです。隠居後もしばしば鷹狩りに出掛け、近郊の寺に今も記録があるそうです。東郊外の長尾川で、鷹狩りの途中、古式詠法を従者に披露したと言われています。関東地方へも遠征したとご自身で記録されています。
 ご隠居さんは大のお茶好きで保管のために北部の涼しい大日峠(1150m)へお茶蔵を建てました。紀州徳川家用、尾張徳川家用、側室お万の方用の茶壷があったと記録されています。
 ご隠居さんは、鷹狩りの途中、喰べた鯛のテンプラに当り病臥し、元和二年(1616)四月十七日巳刻(午前十時)七十五才で亡くなりました。遺言により、その夜のうちに久能山(308m)に葬られ、翌年には秀忠公により壮麗な社殿が建立され、朝廷より東照大權現の稱号が贈られました。宝物館には愛用のメガネ、エンピツ、コンパス、スペイン王寄贈の置時計が展示されています。
 「昔、權現さんは逃げるが勝ちだ」と、当地方に子供の囃子言葉がありました。戦に敗れ逃げ廻り、妥協し最後の関ヶ原の一戦で天下を取った、ご隠居さんは、名将、いや智将と申すべきでしょう。


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