静岡の春は、高松宮妃のおひなさま展より始まります。
徳川最後の将軍慶喜公のお孫さんに当る喜久子様が昭和五年(1930)高松宮様とご成婚の際お嫁入道具の一つとして持参されたおひなさまで当時京都の名人人形師と云われた田中弥兵衛さんの作品です。内裏びなの華やかな中にも気品ある美しさはしばし息をのむ思いです。衣装は公家伝統のご慶事に会わせたものとか。官女は三人でなく、五人官女。五人囃子も笙篳篥の楽人達でお道具類も一つ一つが精巧に出来た名品。すべて徳川家の葵の紋章が描かれています。
この様な見事な大揃いのおひなさまは今では残り少なく、祖父の慶喜公が大政奉還後三十年程過ごしたゆかりの静岡へ寄贈されたと聞いています。
高松宮妃の弟の慶光さん(慶喜家当主)ご一家が戦後静岡市郊外の農村へ居を構え、米軍空襲で、焼け出され、慶光さんご一家の近くに住んでいた小店と交流があった事は以前白銀屋だよりでご紹介しましたが、祖父慶喜公が幕末大政奉還で苦慮された様にお孫さんの慶光さんも先の大戦の敗戦で、公爵より平民となり、財産税(戦争成金から利益を没収するため、設けられたGHQ指令の税制)の余波で東京の広大なお屋敷を物納でされ、公爵夫人て゛あつた奥様も、高価な着物を米と交換したり(インフレ進行で農家は物々交換でなければ農作物を売らなかったため筍生活と稱した)鶏を飼い畑を耕し、村の課役などにも出ておられ大変ご苦労されていました。
さて明治維新後慶喜公が静岡に移り住むと多くの旧幕臣が移住して来ましたが職もなく勝海舟の後援で、当時荒地の牧之原台地の開拓に従事し、現在の大茶園の基礎を築いたのです。当初入植したのは久能山の警護の新番組 225戸、旧彰義隊85戸でしたが武家の農業は困難を極めたそうで脱落者も出た様ですが、明治十一年明治天皇静岡行幸の際牧之原開拓を嘉して金千円(今は?円)を下賜されたそうです。現在は南北25km、東西8km、約5700haの日本一の大茶園となっています。
徳川さんご一家は時代の波に翻弄され、おじいさん、お孫さんは随分苦労されたものと、高松宮妃おひなさま展を拝見しながら、しばし感慨にふけりました。
今牧之原大茶園はさみどり一色に萌え立っています。静岡の初夏の香りをお楽しみ下さい。
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