所有者のしるし 1

 廊下の向こうから歩いてくる想い人と一足早く出会えたことに胸を躍らせた志摩だったが、近づくにつれいつもと同じ黒のロングコートをいつもと違う着こなしをしているのが眼に入り、そのあまりの色気に開いた口が塞がらなくなった。

「こんにちは、志摩くん」

 雪男は呆然として赤い顔で立ちすくんでいる志摩を不思議そうに見て、小首をかしげた。

「どうかした?」

 胸元を凝視していた顔を黒目がちの大きな瞳で覗き込まれ、志摩ははっと我に返った。

「せ、先生、ちょっと!」

 雪男の腕を取り、近くの教室のドアを開けた。

「うわ、な、何?」

「ええから」

 半ば強引に教室の中へと押し込む。そして志摩は急いで扉を閉めた。

「先生、何ですのん?その格好。下に何も着てはらへんの」

 そう言いながら志摩は鎖骨があらわになっている雪男の胸元の服を引っ張り、上から覗き込んだ。

「まさか、ちゃんとTシャツ着てるよ」

 とっさに志摩から距離を取り、胸元を押さえて雪男は答えた。

「せやかて、着てへんように見えますよ!なんて、はしたない」

「はしたない?」

「アカン、アカン。そんな格好してたら、誘っとるようにしか見えませんて」

 首を左右に振りながら、志摩は自分のYシャツを脱いで雪男の方へ差し出した。

「後生ですから、俺の服下に着たって下さい」

「え、何で志摩くんの汗臭いシャツを着なくちゃならないんですか」

「たのんますわ。一生のお願いや」

「嫌です」

 雪男は志摩をきっと睨んだ。

「大体、そんな変な目で僕を見るのは君くらいでしょう」

「先生、無自覚過ぎますわ。危険や」

 ため息をつきながら志摩は雪男との距離を詰めた。

「あんまり見せびらかすもんと違います。もう少し奥ゆかしくしとった方がええですよ」

 志摩は雪男の胸元がもう少し隠せないかと、コートの両襟を手に取った。その手を払いのけると雪男は言った。

「別に僕がどんな格好してたって、僕の勝手でしょ」

 志摩の表情がふっと暗くなり、目がすわった。

「聞き分けのない、お人やね」

 志摩は突然両腕を雪男の体に回し腕を上から押さえると、首筋に顔を埋め鎖骨の辺りを強く唇で吸った。

「ちょ、なっ」

 雪男が必死で抵抗するが、とにかく跡をつけてしまおうと、志摩は必死に一箇所に歯を当てて吸う。

「何すんだっ!」

 雪男は志摩を払いのけ、右手をグーにして志摩の左頬を殴った。吹き飛ばされた志摩が頬を押さえる。雪男は怒りに顔を赤くしながら息を荒くして膝をついていた。

 志摩は立ち上がってほこりをはらうと、落ちていた自分のYシャツを拾い雪男の肩にかけた。

「キスマーク見られたなかったら、ちゃんと着てくださいよ」

 歯ぎしりして睨みつける雪男を静かに見下して、志摩は教室を後にした。



 クラスメイトが待つ教室へ入ると、志摩はゆううつそうに無言で勝呂と子猫丸の近くに腰を下ろした。

「志摩さん、ケンカですか?」

 Tシャツのみの姿と赤い頬が目に留まったのだろう、子猫丸が心配そうに訊いてきた。

「こいつの場合はケンカいうより痴情のもつれやろ」

 あきれたように勝呂が言った。

「また先生になんぞ悪戯しようとして殴られたんちゃうん?」

 図星をつかれて志摩はふてくされ、そっぽを向いた。

 授業の開始を知らせるチャイムが鳴り、ほどなくして講義をするため雪男が教室に入ってきた。志摩のYシャツを着、ボタンは第一ボタンまできっちり閉めてある。

 机にひじをついた志摩は、それを確認してふっと息を吐いた。

 いつも通りにこやかに授業を進める雪男をそれとなく眺めていた志摩だが、時折こちらに向く雪男の視線が殺気を帯びていることに気付く。

(まだ、怒ってはる)

 少し意外に思うと共に、その視線を浴びることがだんだん快感になっていくのを志摩は感じた。

(なんや、ゾクゾクするわ)

 良く考えてみると、雪男がきっちり閉めたえりの下には自分がつけたキスマークがあるのである。それを思うと無性に嬉しくなり、志摩の表情がつい緩んだ。すると雪男の殺気がさらに増す。

 ああ、こんなんもええなあと悦に入る志摩と密かに怒り狂っている雪男とを、そのことに唯一気付いた燐が何事かと2人の様子をうかがっていた。


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