「悪魔というのは血に酔ったりするものでしょうか」
「まあ、貴方の血ならどんな悪魔でも酔うでしょう」
翌日メフィストに連絡を取り、雪男は彼の居室を訪ねた。
「おや、そういえば血の匂いが少し変わりましたね。どこかの悪魔と契約でもしましたか?」
メフィストは手にしていた紅茶を置き、手を組んで雪男の眼を覗き込んだ。
彼に視線を合わせられると、いつも居心地が悪く感じられる。
「実は・・・」
一通り聞き終わるとメフィストはニヤと笑った。
「そうですか。燐と血の契約を結ばれたのですね」
立ち上がり大仰に帽子を取って挨拶をする。
雪男はそれを呆然と見た。
「それはおめでとうございます。とてもお似合いですよ」
メフィストは椅子に腰掛け、背もたれに身体を預けると肩肘をついた。
「契約、ですか」
「しかし、今の状態は契約が完了していないので燐はそれが不安なのでしょう。よろしい。すぐに燐を呼んで正式な書面を用意させますよ。・・・あれも契約の仕方くらい、自分で知っておかねばなりませんしね」
「その、契約というのは一般に言われるようなものでしょうか」
「そうですよ。死後、その悪魔に魂を食われるか奴隷になる、というあれですね」
通常はその代償として強大な力が得られるという話ではなかっただろうか。
現状、燐から何か得る物があるとも思えない。
「・・・何だか、ペナルティが増えただけのような気がするのですが」
「今はそうでも、あれはいずれ他の何をもしのぐ強い悪魔に成長しますよ。
そのとき、この契約は必ず役に立ちます。騎士団としても、心強いことだ」
メフィストはすっと眼を細めた。
「それに、そう深刻になる必要はありません。双方の合意があれば解約も出来ますからね。結婚と同じです。今の状態を改善するには一度契約完了した方が良い。そうでないと貴方も身が持たないでしょう」
知らないうちに悪魔に魂を売り渡していたのか、と雪男は暗澹たる気持ちになった。
「大体、安易に悪魔に血を与えたりする貴方が悪いんですよ。血というのは特別な液体ですからね・・・以後気をつけて下さい」
「はい」
「それから、あなた方の個人的な趣向に口出しをする気はありませんが、燐の異常行動については報告してくれなければ困ります」
「それは、申し訳ありませんでした」
メフィストは突然立ち上がると、つかつかと雪男に歩み寄った。
少し屈んで視線を合わせると、手当てされている雪男の左あごを手袋をつけた右手でそっと撫でる。
「早く教えてくれないから、ほら、可愛い顔が台無しですよ」
顔を近づけてささやかれ、雪男は表情を硬くして身を引いた。
「それでは、よろしくお願いします」
一礼し、逃げるように部屋を後にした。
扉を閉まるのを見送り、メフィストはつぶやいた。
「あれには幼い頃から眼を着けていたんですが・・・弟に先を越されましたね」
ふっと、口元が笑む。
「まあいいでしょう。もともと彼のために生かされた子ですから。仕方ありませんな」
一度眼を閉じ息を吐くと、メフィストは早速契約書の支度をしようと動き出した。
「雪男、起きてるか?」
体調が思わしくないからと講師の仕事も休んでベッドで寝ていると、薄闇に包まれた頃、燐が手に丸めた羊皮紙を持って部屋に帰ってきた。
起き上がり眼鏡をかける。
「おかえり、兄さん。それ、契約書?」
「おお、そうだぞ」
燐はベッドサイドに腰掛け、目の前に羊皮紙を広げた。
ラテン語の逆さ文字で書かれているため、さすがに雪男でも上手く内容が掴めない。
「これって、内容は大丈夫なのかな。フェレス卿が余計なこと書き足したりしてないよね」
「大丈夫なんじゃね?なんか、決まった形式の文らしいぞ。で、ここ。ここにお前が血でサインすればいいんだよ」
ここ、ここと燐が指をさす。
「兄さんはサインとかしないの?」
「あー、あんま言っちゃいけないことみたいだけど、インクに俺の血が混じってんだ」
「ふーん」
早く早くと急かすような態度の兄にため息をつきつつ、雪男は立ち上がり机の引き出しからカッターを取り出すと燐の隣に腰掛けた。