カッターの刃を左手で出し、右の人差し指を突き出す。
その状態で雪男はしばし逡巡し動きが止まった。
それを見た燐が言う。
「指、噛んでやろうか?」
「やめてよ。ちょっと待ってて」
息を吐いて雑念を払い、指先に刃を当てる。
小さな痛みと共に赤い液体が小さな玉を作る。
それが筋を描いて指を這いぽたぽたとこぼれ落ちた。
カッターの刃をしまい、血液が服を汚さないように左手でこれを受けた。
燐が無言で羊皮紙を差し出す。
先程示された場所に、血で自分の名前を署名した。
書き終わるまで覗き込んでいた燐は、書き終わると同時に表情を緩めて眼を輝かせた。
見れば尻尾も嬉しそうにぶんぶんと動いている。
「・・・何かすっごく嬉しそうなんだけど。署名する前と何か違う?」
「え、お前わかんねえ?全然違うよ!」
強いて言えば何か息苦しさを感じた程度だった雪男には、燐の喜びようは理解に苦しむものだった。
「俺、今、お前は俺のものなんだって、すっごい実感した!うれしいぜ!」
燐は隣に座る雪男の肩に抱きついた。
よほど嬉しいのだろう、目には涙も浮かべている。
呆然とする雪男の背中を何度かばしばしと叩いた後、ふとまだ出血している雪男の指を見て言った。
「舐めていい?」
あきれて雪男がため息をつく。
「どうぞ」
嬉しそうに指を吸う燐を雪男は静かに眺めた。
燐はまた、逆の手のひらに付いた血も舐めとり始めた。
ざらざらとした舌の感触がくすぐったい。
「血を吸うの、我慢できるようになったわけじゃないの?」
状況が改善されていないのかと少し不安に思い、雪男は問いかけた。
「ん?ああ、何ていうか、血を吸いたいことに変わりは無いけど、俺のだって分かってるから今日は我慢しようかなって思える、そんな感じだと思うぜ」
「ふーん・・・で、兄さんは僕の血を吸って、死んだ後は魂をもらうわけだけど、代わりに僕に何かしてくれるのかい?」
その対価は一体何なのかと、少し意地悪く雪男は訊いた。
「え、メフィストが『そういうのはサービスだからなくてもいい』って言ってたぞ」
悪魔側の契約に対する意識を見せつけられ、雪男はがっくりとうなだれた。
「でもさ、雪男」
燐が少し遠い眼をして寂しげに言った。
「俺さ、少し不安だったんだ。怪我も治っちゃうし、俺、雪男とかみんなみたいに年老いて死ぬことはできないんじゃないかってさ。いつか、みんな俺を置いていなくなっちゃうんじゃないかって」
燐の優しげな青い瞳と目が合う。
「でも、ずっと雪男が一緒に居てくれるんなら俺寂しくないよ。雪男だけ居てくれればいいんだ。昔からずっとそうだっただろ」
ベッドのシーツの上で、血を舐め終わって綺麗になった手を燐はそっと繋いだ。
「もしかしたら悪魔って、みんな寂しいから人間と契約するのかな?」
「まさか。そんなの兄さんだけだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
雪男は視線を外してため息をついた。
「ずるいな、兄さん。そんな風に言われたら、契約解除してくれって言えなくなるじゃないか」
「え、」
燐が驚いた顔で雪男を覗き込んだ。
「い、嫌なのかお前・・・」
尻尾ともども急にしょんぼりした燐にふと笑いが込み上げる。
「そりゃあね。なし崩しに人の道を外れたって言われたらさ」
「そ、そうか・・・」
でも、まあ仕方が無いかと穏やかな気持ちで燐を眺めていると、燐が急に思いついたように口を開いた。
「そうだ、お前子どもつくれよ」
「は?」
「そうしたらさ、孫とかひ孫とかずっと先まで、お前の血族は俺が影ながら守ってやるよ」
うん、それがいい、と勝手にひとり納得したらしい燐に雪男は苦笑した。
それではある意味悪魔に憑かれた一族になってしまうではないか。
「お前の子どもだったら、男の子でも女の子でもきっとすごく可愛いだろうな」
想像を膨らませてへらへら笑う燐に雪男は釘を刺した。
「だとしても、兄さんにはあげないんだからね」
「分かってるよ」
燐の肩を抱き瞳を覗き込む。
「僕だけだよ」
「お前だけで十分だよ。雪男」
どちらからともなく唇を合わせ、お互いを抱きしめ合う。
対価なんてものは、幼い頃からずっともう十分過ぎるほどもらっていると雪男は思った。
END (2011.07.07)