あれは何歳の時だったろう。
そう、俺がまだ料理を覚えて間もない頃だったように思う。
雪男も一緒にやりたいと言い出して、包丁を初めて持った日のこと。手元が危なっかしくて見ていられなかった。
「そうじゃねえよ。左手はグーにしろ。アブねえな」
「こ、こう?」
「それから、刃は先っぽじゃなくて、もっと真ん中使え。真ん中」
切るときも力が入りすぎて、ダン、ダンと大きな音がした。
危ないなあと思ったけど雪男の面倒ばかり見ていられなくて、そうしたら眼を離した隙に
「あっ」
案の定雪男は誤って左手の指先を切ってしまい、血が傷からあふれ出した。
「大丈夫かよ」
とっさに水で洗ったけど、血が止まらなくて。
だから俺は血が溢れる雪男の指を自分の口にくわえた。
「んんっ!」
雪男の血は良い匂いがして、脳がとろけそうなほど美味しかった。
身体の奥の本能に訴えかけられるような衝撃に俺はたじろいだ。
「兄さん?」
「お前の血、うまい」
「え?」
雪男はきょとんとして、夢中で血を吸う俺を見てた。
そういえばその後、雪男が転んでひざをすりむいたり、ひっかき傷をつくったりするたびに俺は雪男の血を舐めるようになった。
そのうちそれをジジィに見つかって、『バイキンが入る』だなんだって散々しかられて、徹底的にやめさせられたんだった。
ずっと忘れていた。雪男の血の味。
首筋に噛み付いたのは戯れだった。
悪魔になって鋭くなった犬歯が肌に食い込んで、雪男の白い肌に赤い血を滲ませる。
その色に目が釘付けになった。
血の芳しい匂いが鼻をつき、それがそのまま脳を痺れさせる。
唇を寄せると、口中に芳醇な味わいが広がり、体中に戦慄が走った。
夢中になって血を味わううちに、他の事は一切目にも耳にも入らなくなった。
ただ、ひたすら血に酔いしれる。
「兄さん」
遠くで雪男の声がする。
「兄さんっ!」
急所である尻尾の付け根に、雪男が爪を立てていた。
「ふぎゃあ!」
痛みで我に返り、身体を起こす。
見下ろすと、雪男がわずかに眉間にシワを寄せ不安そうにこちらを見ていた。
どうしたのかと問うてくる瞳にすぐに答えられずにいるうち、雪男の首筋を染める血が目に入り俺はあせった。
「ごめん」
縫いとめられそうになる視線を無理矢理引き剥がして顔をそらすと、逃げるように雪男の上から退き自分のベッドへ戻って布団をかぶった。
そうして、さらなる血を欲する欲望をなんとか押さえ込もうと、俺は身体を丸め唇を噛んだ。
まるで、血に酔ってでもいるようだった。
血のついた衣服を洗いながら、先刻の燐の様子を思いだした。
悪魔としての本性がそうさせるのだろうか。
普段は意識していない兄の悪魔としての顔を見せつけられる度、不安と強大な魔に対するあらがいようのない恐怖にさいなまれ、弱い自分に対する嫌悪で一杯になる。
正面にある鏡を覗くと、首筋に血が染み込んだガーゼを当てた自分が見えた。
対象が自分だけであれば良い。
もし、それが不特定多数に向かう欲望なのだとしたら、燐は確実に危険対象として抹殺されるだろう。
暗い穴に落ちていくような絶望を感じ、思わず手元の衣服を両手でぎゅっと握り締めた。
しっかりしなくては。
何があろうと兄を守ると誓ったはずではないか。
失うことに耐えられないのであれば、どうにか守り抜くしか方法がないのだから。