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■日本史略(大和朝廷)

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遺跡に残っているものを調べるのは考古学、史書を調べることを史学という。 僕は神武天皇の存在を信じているが、証明できないため歴史上の人物には含まない。

■聖徳太子以前

考古学の世界。縄文、弥生、中国史に残る日本の豪族の事跡、金印、邪馬台国。

<私見>〜〜邪馬台国を「やまたいこく」と読まなければテストで正解できないので仕方ないが、 実際には「やまとのくに」と素直に考えていいのではないか。 史書に記された邪馬台国の規模や位置は正確ではなく、政治目的で作られたものである可能性が高い。 (魏志倭人伝を書いた国「魏」が、当時覇を競っていた「呉」という国を牽制するために、 呉を挟み撃ちできるような場所に邪馬台国という大国があると書き記した。)

<広告>〜〜日本の弥生時代の遺跡で有名な、静岡県静岡市の登呂遺跡。 復元された竪穴式住居や発掘品を展示している資料館も充実していて、この時代の勉強にはとても便利。 東名高速静岡ICからも近いという利点もある。僕は併設された芹沢_介という昭和の染織家の美術館によく行きました。 ただしこれらは観光地を期待してくる方には向いていません。 ディズニーシーより上野の国立博物館の方が一日楽しめるという方向き。

■飛鳥

中国の( )を直輸入した海外色の強い飛鳥文化。

六朝文化

大和朝廷の出現から大化の改新までの日本の政治制度は「氏姓制度」という言葉に要約することができる。 「氏」と呼称される豪族たちに「臣・連・君・直」といった称号を与えていた。 豪族は「部曲」と呼ぶ技能集団を配下としたり、伴部氏などは「品部」と呼ぶ奴隷民を率いて大和朝廷に仕えていた。 そしてこれら豪族は「田荘・部」という私有地と私有民を持っていた。

<私見>〜〜古代中国の「夏」王朝に近い政治形態。各地の豪族の内最も有力な豪族が朝廷を開く形式。 与党であれば討伐の対象とならない。九州のクマソや、蝦夷(関東以北)の討伐が実際にあった。 原始的封建国家に近い。 それが、大和朝廷の実力が飛び抜け始め(聖徳太子、遣隋使、宗教統一などを経て)、中央集権国家となる素地が出来上がった。 たとえば宗教を統一して中央集権国家になる手法は、古代中国の「商」が実践している。

■奈良(701〜)

大化の改新:公地公民制

<私見>〜〜そのほかの租税制に関しても把握しておくべき。租税制の変化はすなわち最大実力者の変更によるものなので 政変や宰相の交代などについても同時に覚えるべき。

<私見>〜〜 大和朝廷の実力が他の豪族と開き始めた。藤原氏はそこに気づいたのではないか。そうでなくては だれが「昨日まで自分の土地だった場所」を「すべて天皇の持ち物」にするなんて 乱暴な命令に従うだろうか。

律令の意味:「律」は刑法、「令」は刑法以外の諸規定。「律令格式(りつりょうきゃくしき)」ともいう。 この場合「格」は律令の追加改正、「式」は律令の施行細則。 この言葉は中国の法律用語の直輸入で、701年の大宝律令と、718年の養老律令がある。それら(の内容)は現存していない。 格式はたびたび修正が行われている。 弘仁格式(820)、貞観格式(格869・式871)、延喜格式(格907・式927)。

日本最初の勅撰和歌集

万葉集

■平安(794〜)

平安時代初期の仏教美術:( )といった密教美術の発達

曼陀羅図

<私見>〜〜平安末期まで、日本の仏教美術は、全て中国の影響を受けていた、というよりほとんど直輸入のコピーだった。 古墳時代の「前方後円墳」に始まり(中国の王族の陵墓の形を誤訳したために本家とは形が違う)、 法隆寺を中心にした飛鳥文化、 薬師寺を中心にした白鳳文化、 東大寺を中心とした天平文化、いずれも美術品は朝見による輸入かそのコピーだった。 日本独自色が見え始めるのは平安末期に至ってからである。 浄土真宗は平安末期、似絵という名僧の肖像画は鎌倉時代になってから。

■貴族から武士の時代へ、過渡期

平将門の乱: 承平・天慶の乱(935〜941)。下総の平将門が新皇を名乗り反乱 藤原秀郷・平貞盛らが鎮定する。同じ頃瀬戸内海で藤原純友が反乱。源経基・小野好古らが鎮定

源氏東国進出のきっかけとなった「前九年の役」(1051〜1062)

院政: 1086年、白河上皇が始めた。以後この制度が実権を握っていた平氏滅亡(1183)までの約百年間を院政時代という。 広大な荘園を基盤にした藤原氏の摂関政治に対抗してその他の貴族層が天皇と組んで始めた。 政治の実権を藤原氏に握られていた天皇や藤原氏以外の貴族の利害が一致したため。

天皇がまだ壮年のうちに子どもに譲位して( )となり、その居所「院」から実質的な政治を行う仕組み。

上皇

その政庁を「院庁(いんのちょう)」、政令を「院宣(いんぜん)」と呼んだ。

<私見>〜〜なぜこれで藤原氏の影響を避けて独自の政治が可能なのか全く不明。 これを知った小学校時代から現在までの内で最大の疑問。 院庁の警備を武装豪族(後の武士)辺りにさせて、武力で藤原氏を排除していたのか。 その後、武装豪族に母屋を乗っ取られたか。時代は武士の時代に入る。

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