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モンゴルを草原の覇者たらしめたのはチンギス・ハン(テムジン)です。 当時のモンゴル高原は諸部族の争いの絶えない場所でした。
これには、当時の中国で南方の「宋」と覇権を争っていた( )という国の策略があったといわれています。
金
これは、モンゴルが一つの国家にまとまられると宋とモンゴルに挟み撃ちにされる危険があるためです。
有力な部族には、モンゴルの他にタタール、オングート、ナイマン、ケレイト、メルキトがいましたが、
テムジン率いるモンゴル族が最終的に草原を統一します。
草原の部族では、王は「ハン」と名乗るしきたりがあるのでテムジンは「チンギス・ハン」と改名しました。
このときモンゴルは文字(西夏文字)も手に入れ、また支配地域の職人や知識階層を保護したため、
文化レベルも向上しました。また、モンゴル諸部族の平等を宣言しました。(1206年)
〜チンギス・ハンに従った部族を全てモンゴル族としその中での平等を宣言しました。
モンゴルは当時文化水準が最も高いとされたホラズムと安全に交易するためにシルクロードを制圧しました。 しかしその後、交易を求めてホラズムへと派遣した隊商が途中ホラズム属国で殺されました。そのため ホラズム自体を征服しました。 その後もモンゴル族は領土拡大路線をとり、チンギス・ハンの死後も彼の子孫によって遺志は継がれ、 1234年金朝を滅ぼし、1236年から1241年にヨーロッパ侵攻を行いました。 ポーランド、フランス、ハンガリーに侵入し、戦いに勝利しました。また別の子孫は西南アジアに侵攻しました。
13世紀末にモンゴル帝国は5つに分裂しました。
フビライ・ハンはモンゴル草原と金朝の領土を合わせて支配し、
元朝を興しました。1276年には宋(南宋)を滅ぼしています。(有名な文天祥や岳飛などはこのときの宋の英雄)
その後朝鮮半島を制圧。当時鎌倉時代だった日本にも攻め込んできました。
大陸と陸続きではなかったため、首の皮一枚で日本は征服されませんでした。(元寇:)
元朝から分離独立した国は、オゴタイ・ハン国、チャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、イル・ハン国です。 分離独立とは言っても、キプチャク・ハン国は現在のロシア、イル・ハン国は現在のイランとトルコにあたる領土を支配していました。 これらの国とモンゴル民族とはあまりに風俗習慣が違います。分裂は自然の流れでした。 戦争にはめっぽう強いモンゴル軍でしたが、少数民族による多数民族支配、さらには風俗習慣の余りの違いからほころびが生じ、 現地の民族や、後から興った勢力(チムール)に滅ぼされていきました。
元朝は( )で14世紀に滅びました。
紅巾の乱
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