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趙文伝 壱

このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 を参照してください。

■215年 4月 初陣趙文

1月から3月にかけて部将と「兵舎」を集中的に訪問してきた趙文は、「関興」らと狩りに行ったり、 兵士たちから「三尖刀」を譲り受けたりと、意外にも多くの福に恵まれていた。

《来襲曹操軍》

さて、人脈づくりで3ヶ月を費やした趙文が3月末に自宅で休養しつつ4月の評定の準備をしていた時、 急報が入った。「上党」の曹操軍が「洛陽」に向けて進軍中であるとのことであった。

急ぎ鎧に着替えて「宮城」に向かったところ、さすがに戦慣れしている諸将は、すでに全員揃っていた。 趙文は首座に着き「軍師」「張飛」に集まってきている情報を問うた。

張飛「総大将は上党太守「曹宇」、軍師には「王朗」がついている模様じゃ。 また、敵援軍が「許昌」「陳留」の2国から出ているとの報も来ておる。 敵は部将数、兵数共に多く、例年のとおり数を恃みに押し寄せてきよる。」

趙文「では文官の方はすぐに隣国に援軍要請を行ってもらい、武官の方には野戦の準備をお頼みします。 城外に陣を敷くにはこちらの兵数が足りません。またここが洛陽であることを考えると、籠城は拙いと考えます。 敵を漢都に近づけさせてはなりません。諸将のお力を以て前線の砦で敵を防ぎましょう。」

※ 今回の援軍は「宛」にのみ「要請」し、「弘農」には行っていない。 COM部将の猪突により前線が崩壊するのを防ぐためである。

(諸将)「応。」
趙文が下手に出たため、諸将も協力の気配を見せ戦の準備に入った。

自軍の情勢は「総大将」に「弩兵」「趙文」6,500、「軍師」に「重騎兵」「張飛」8,000、 部将に「甘寧」「徐盛」「夏侯淵」「関興」「張苞」が各6,000、計45,000の軍勢である。 加えて荊北の第2軍団から3万程度の援軍も期待されている。
また「総大将」の「趙文」と「夏侯淵」が「弩兵」であったため、「戦法」には「遠射」を選択した。

敵軍の情勢は、「総大将」に「曹宇」、軍師に「王朗」他7名で総勢9名計95,000の軍勢を率いており、 さらに2国からの援軍が各5万で計10万程度、都合20万近くの大軍である。
ただし将帥にこれといった特技がないため、通常の進軍を行っているようである。

《第1日目 趙文の智略》

戦力差はかなりあるが、趙文は意外と落ち着いていた。初めて実戦に臨むはずなのだが、 実のところ初陣という気がしない。ここは父が長く守ってきた地であり、 また趙文自身も元服前に父と狩りに度々出かけ地勢を良く心得ている。自宅や野で何度も戦の話を聞いてきたのである。

趙文は諸将に戦略の説明を行った。
「敵との兵差は3倍近くあり、乱戦になると苦戦が予想されます。しかし我が砦は山上にあり、敵軍がここに至るためには 2通りの道しかありません。すなわち陸路と水路です。ともに大軍が活かせない地勢であり、 そこで敵を迎え撃てば兵数差の不利は意味をなさなくなるでしょう。」

続けて趙文が話す。
「まず陸路ですが、砦の南西に山川に挟まれた隘路があります。隘路の出口に張飛伯父に精鋭8,000で布陣していただき、 敵勢を防いでいただきます。ここを抜かれると広い野があり大軍に有利となってしまい、従って我が勢の急所でございます。 「張苞」殿、お父上の後詰めとなって、山川を迂回してくる敵勢があればこれを抑え決して野に入れさせないでください。
つづけて水路についてですが、「甘寧」「徐盛」諸兄に川岸に布陣していただき、艦船で近づく敵があれば「激流」にて 混乱させていただきたい。「関興」殿は2軍の後陣として控え平地を抑えると共に敵に混乱が見えたら急襲していただきたい。」

「私と「夏侯淵」殿は砦から混乱した敵を「遠射」します。 以上で敵に横陣を敷く余地は無くなり、各個撃破が可能となります。 また攻撃を受け疲労した場合は、後陣と交代し砦近くに下がってください。私が医術にて回復させます。 回復しつつ8日もすれば援軍が前線に到着することでしょう。その時点で総勢で打って出、挟み撃ちにし敵を殲滅します。 いかがでしょうか張飛伯父。」

「張飛」には趙文の言う論には欠点があることはわかっていたが、あえて口には出さなかった。 「失敗から学ぶ。」張飛自身がその様にして将としての能力を磨いてきたのだ。 自軍には「甘寧」「徐盛」等もおり「洛陽」を失陥するには至るまい、ここは口を挟まずこの 劉備軍の次世代を担う若者のため、脇役に徹しようと心に決めた。
「よかろう。懲りもせず漢都を狙う逆賊共を痛い目に遭わせてくれようぞ。」

※ 「趙雲」が洛陽守備に就いていた時期に比べ、部将数が半減している。「軍団長」の駐屯地であった頃とは違うのである。 少ない兵数はカバーできても、部将数は如何ともしがたい。 自分が曹操軍なら数を恃みに損害を気にせず飽和攻撃を仕掛け、前線の隙間から電撃的に砦を急襲し包囲殲滅するであろう、 と「張飛」は考えた。

※ また「張飛」は、あと1将いればとも思った。隘路を塞ぐという任務は、それ自体に限って言えば、 確かに今回軍議に参加した将の中では自分が最も適任であろう。
しかし「軍師」を拝命し、かつ「医術」を習得している自分には他にやらねばならないことが多過ぎる。 息子「張苞」の武力ではちと物足りず兵の損耗は激しくなるだろうが、任務としては単純で 「守備地点を動かず敵を通さなければよい」のである、役割は逆の方がより良い、と言えた。
「嗚呼、「顔良」が生きておればな。」陣の先頭に立ち不動の山の如き、 今は亡き(病死)僚友に寸時思いを馳せた「張飛」であったが、すぐに頭を切り換え任務に赴いた。

《第3日目 苦戦趙文》

所定の位置に着き曹操軍を待ち受ける諸将。まず第一報は川面を見張る「徐盛」部隊から発せられた。
「川上に船影。旗印から「夏侯尚」部隊と思われます。」

「徐盛」にはまだ「激流」を仕掛けるだけの準備(戦法値)が整っていなかったため、 「甘寧」部隊と配置を交代して、敵軍を待ち受けた。

翌日、川岸から上陸作戦を行おうと接してきた「夏侯尚」と続く「高順」部隊に対して「甘寧」が「激流」を仕掛けた。 たちまち「混乱」する敵2部隊。
甘寧「船でこの俺様の陣に近づくとはな。水軍でこの「甘寧」様を知らんヤツはモグリだぜ。」

しかし、視界の外から「沈静」が掛けられてすぐさま「高順」部隊は回復してしまった。 翌日「山岳騎」である「高順」が先んじて「甘寧」「徐盛」の陣を迂回し北上を開始した。

混乱中の「夏侯尚」、北進した「高順」、第2陣の「王粛」等が広範囲に散ってしまった。 同勢であれば各個撃破の好機と言えるが、現時点では敵の大軍の上陸阻止を主眼としなければならないため、水戦に持ち込めない。 部隊数が少ないため、1部隊が川上に出ると前線に綻びが出来てしまい、敵の上陸を容易にする不利の方が大きいのである。

混乱する「夏侯尚」を予定通り攻撃する「関興」であったが、これこそ曹操軍の思うつぼであった。 「夏侯尚」は囮部隊であったのだ。

※ たまたまそういう流れになっただけである。COMにそこまでのルーチングはない。

「夏侯尚」部隊を攻撃している間に「高順」「陳横」といった「山岳騎」部隊が大きく北側を迂回し上陸を果たしていたのである。 これらの部隊は前線の「甘寧」等を無視して砦に接近してきた。

※ 「山岳騎」は山地形を殆ど無視できるため山上の砦の急襲にはもってこいである。

趙文及び「夏侯淵」が「矢嵐」で迎撃するが、敵の気力が充実しているためか、共に失敗に終わり騎兵の接近を許してしまった。 こうなると「弩兵」対「騎兵」の攻撃能力の差は著しく、本陣が一気に危機に陥ってしまった。

《第6日目 奮戦張飛》

隘路に陣取る「張飛」にもこれらの報は伝わっていたが、救援に向かうことはできなかった。 「曹丕」部隊や敵援軍部隊と対峙していたからである。特に「許昌」から来襲した「張遼」を自由にさせるわけにはいかなかった。

※ この時点で、援軍到着地点が前線に近い敵軍と違い、 味方の援軍はまだ後方におり、「軽騎兵」組が敵援軍の背後を突くのにあと2日必要であった。 「弩兵」組が2名おり、混戦の砦攻防戦に割って入るのには不利な兵種であったことも災いし、 形勢は劉備軍にとって極めて不利であった。。

前線を縮小するため「甘寧」「張苞」等と連絡を取り合い、1陣分後退しより密集隊形にし、脇から抜けられる危険を回避した 「張飛」であったが、それは同時に敵部隊が、砦へ着々と近づくことに成功している、ということでもあった。

《第9日目 援軍到着》

「張飛」はまだ山川の隘路付近で踏ん張っていた。 砦に群がり始めた敵山岳騎部隊共を蹴散らしに戻りたい衝動を必至に堪え、ある一声が聞こえるのを待っていたのだ。

※ 乱戦になっても最終的に負ける気遣いはなかったが、味方の損害が増すことは確実であった。 戦術的に挟み撃ちが有利なのは確実であったし、やはり援軍が敵背後を突くのをここでじっと待つのが上策。
※ ゲームなので後退の選択肢もあり得るが、敵(騎兵)が眼前にあるときに「重歩兵」で後退などしようものなら、 実戦ではあっという間に負けてしまう。
※ ゲーム上「士気」はあっても「消耗度」というステータスがない。銀河英雄伝説4のように 「攻め続けると疲れる」仕組みが組み込まれていたら、このような(1部隊で道を塞ぎ続ける)作戦はとても取れない。

そして見込み通りの日にその声が、兵たちの間から湧き起こるのを聞いた。
「援軍だ。援軍が見えるぞ。」

「関姫」等援軍が前線に到着したのだ。「関姫」は医術で「張飛」を回復、その他部隊は敵部隊に「突撃」を仕掛ける。 もともと士気があまり高くない曹操軍援軍に若干の混乱が見られた。すかさず「張飛」の「大喝」が飛ぶ。

※ 贅沢を言えばあと2ターン待って(戦法値を溜めて)「車懸」を使用したいところであるが、 前線の状況がそれを許さなかった。「関姫」だけは医術を使うため戦法値を溜めやすく、その後「車懸」を使用するが、 不発に終わった。

そのころには本陣にも援軍が到着しており、総大将の趙文も一息ついていた。

《第11日目 形勢逆転》

劣勢でじりじり押されていた劉備軍であったが、 援軍の前線到着によりある程度、部隊数または数の上でも曹操軍に対抗できる程度になった。 こうなると部隊を指揮する将の力量がものを言うようになる。

まずは「士気」の低い敵援軍を集中的に攻撃する各将。敵は1部隊に付き1万を超える兵数のため、 短時間で殲滅するには至らなかったが、敵1部隊に付き味方の4隊が卍に包囲し攻撃を仕掛ける戦法を採ったため、 着実に敵を減らしていった。

※ 卍包囲は「乱撃」を前提にした包囲方法。奇麗に十時包囲すると「乱撃」で味方を攻撃する確率が高いため、 敵正面軸から半身ずらして部隊を置く。これを前後左右で行うと卍包囲となる。 前線を構築するにはずれてしまい不向きだが、包囲殲滅作戦では有効。

敵援軍部隊数を半分に減らした時点で、敵にぽつりぽつりと脱走兵が見られ始めた。曹操軍の戦線は崩壊を始めていた。 優れた将であれば、この時点で益無しと見て、総退却を行うべきであったが、曹操軍に退却の気配は見られなかった。

張飛「愚将に率いられる兵というものこそ哀れじゃのう。」

《第15日目 趙文の初勝利》

士気の落ちた曹操軍を稲穂を刈り取るように撃滅した劉備軍は、凱歌を上げた。
しかし趙文の顔に喜色はなかった。

趙文「今回の勝利は全て諸将のおかげでした。私の愚かさをどうか許してください。」

張飛「がははっ、勝ちは勝ちじゃ、良いではないか。戦い方に大きな間違いはなかった。 何か気づいた点があればそこを修正していく事じゃ。」

趙文「はい、伯父上、肝に銘じておきます。今回は味方の将の方々の力量が敵を遙かに勝っておりました。 それ故劣勢でも敵をはじき返せました。しかしこれから先、同じ劣勢で味方の将少なく、という状況もあることでしょう。 そのときに備えてますます学ばねばならないと思いました。」

張飛「うむ。お主はまだまだ若い。もっと兵書に学び、実戦でそれを磨かねばならんぞ。」

こうして趙文は初陣を終えた。

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