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このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 序を参照してください。
205年7月現在、昨年結成された「反孫堅連合軍」により華北地域の「孫堅」勢は駆逐された。「軍団長」「呂布」は 「曹操」に降り、その他の部将も「曹操」に降伏したり、江南に逃げ散ることになった。 江南、華北に一大勢力を築き、王位すら望めた「孫堅」であったが、「連合軍」の前にその野望は霧散してしまった。
一方、このことは軍事バランス面に於いて、劇的な変化をもたらすことになった。
「曹操」にとっては、華北一帯を掌握することになり、大幅な前線の縮小につながることになった。
「孫堅」にとっては、華北地盤を失うことは大変な痛手ではあったが、逆に逃げ戻ってきた部将により、
配置される人材が格段に増加し、江南の軍事力及び生産力は飛躍的に増大した。
「劉備」にとっては、無道の「呂布」が征伐されたことは喜ばしいものの、「劉備」勢の領土が増えたわけではない。
肝心の「呂布」も捕らえることができず、さらに「曹操」が処刑しなかったため、
陣営が変わっただけで健在である。
「評定」で指摘されていたとおり、「孫堅」勢が「江陵」に向かって攻め寄せてきた。 「柴桑」「武陵」の将兵が著しく増大していたため、「Hou統」が警鐘を鳴らしていたのだ。
「孫堅」軍主力は「武陵」より発し、「柴桑」に援軍を頼む形での出撃である。
このため戦場は、「江陵」城の前面に流れる長江を挟んでの戦いとなった。
本来「江陵」を南から攻めるのは長江渡河を行わなくてはならないため、戦略的には決定的に不利だが、
「水軍」達者を数多く擁し「楼船」も有する「孫堅」軍はそれを恃みに大軍を以て攻め寄せてきた。
一方「劉備」勢は、「江陵」太守に「関羽」、「軍師」には「諸葛亮」を配置してある。また、「劉備」自身も 「Jou陽」に待機し、「援軍」を送れる体勢をとっていた。兵数的にはかなり劣勢であるが、 守備側に有利な地勢であるため、「劉備」に焦りはなかった。
戦は「砦」戦を選択するよう指示を受けていた「総大将」「関羽」は作戦に「遠射」を選択し、 今は「砦」から前方に流れる長江を見つめていた。対岸は遙か遠く霞んで見えない。
「関羽」が「諸葛亮」に問う。
「作戦やいかに。」
「軍師」「諸葛亮」答えて曰く、
「「孫堅」は数を恃みに押し寄せて参りました。陸上戦は我が軍のお手の物と言えど、
こう開きがあると不利です。兵法に則り水際で敵の上陸を押しとどめるべきでしょう。」
「趙雲」が「軍師」に質問する。
「しかし「軍師」殿、敵勢の軍師はあの「周yu」でございます。
おそらくその戦法は看破されており、なんらかの対向策を準備しているものと思われますが。」
「諸葛亮」は「羽扇」で笑い顔を抑えながら答えた。
「はははは、「趙雲」殿、心配なさらずとも大丈夫です。「周yu」が用いそうな策など私の前では子どもの悪戯同然。
諸将に於かれては、ただ眼前の敵の上陸を防ぐことに専念なされますよう。」
「ははっ。」
「関羽」は「諸葛亮」の進言に沿って、「重歩兵」を長江東岸に沿って、敵の補給限界線まで横一列に並べた。
また「弩兵」は「砦」に籠めた。
「孫堅」勢があらわれそうな頃を見計らい、「諸葛亮」は「総大将」「関羽」に「策略」の実行を進言し、了承した
「関羽」は「策略」「天変」「豪雨」の呪文を唱えた。
雲が湧いたと思うと、大粒の雨が「劉備」勢の陣を叩き始めた。
船上の「周yu」は「チッ」と舌打ちし、空を眺めた。
「ヤツがいるな、こんな真似ができるのは中国広しと言えど五指に満たないはず。」
「あの妖しげな「軍師」の仕業でございましょうかな。」
「軍師」「魯粛」が司令所に現れ、「周yu」に声を掛けた。
「うむ、先手を取られてしまった。天候が「曇」になった機を狙い、我が「幻術」をって 一気に「劉備」陣を混乱の極みに陥れてやろうかと考えておったのだが。 これでしならくは「幻術」が使える機はやってこない。 君に何かいい策はあるか。」
「はい。我らは神ならぬ身、この天候はどうしようもありません。 が、ヤツが仕掛けたこの策を逆手にとることはできましょう。」
「ほう、聞かせてくれ。」
「何日かはこの天候が続きましょう。視界は最悪ですが、江は我が兵どもの庭のようなもの。 敵が「遠射」を選択していようと、見えぬ兵は撃てませぬ。その機に敵との距離を一気に詰め、 江上から「斉射」で敵陣を射すくめる手はいかがでしょう。 敵が釣られて出てくれば、舟戦に持ち込み、我らの「水軍」の餌食にできましょう。」
「うむ。その策は考えられるが、欠点がある。「劉備」軍はすでに荊州の「水軍」を接収している。 事前に放った「偵察」からの連絡に依れば、「関羽」等も「激流」の計を習得しているそうだ。 半端な舟陣で近づけば、逆計を喰らうぞ。」
「では、兵数差を活かして一気に上陸を狙いますか。」
「それはもっとまずい。上陸は短時間には難しいだろう。おそらく渡河点は完全に抑えられているはずだ。 近寄ったところで陸上から「激流」を仕掛けられ、「混乱」したところを徹底的に討たれるだろう。」
「魯粛」は悩んだ末切り出した。
「では、これはどうでしょう。我々は今回「竜船」「戦法」を選択しております。
この水上機動力と、後から来る援軍を以て、何とか挟み撃ちの形を取れませぬか。」
「うむ。それは良い考えだ。もう少し続けてくれ。」
「はっ。しかれば、我らはこの天候の間に、補給源回線ギリギリまで進軍しておきます。
向かう先は左手、敵の右翼にございます。この動きは天候に阻まれ敵には気づかれますまい。
そして援軍の到着を待って補給限界線を越え敵の背後に回りまする。
「士気」は下がりますが、いずれ援軍に向けての「鼓舞」も必要となりましょうから、
多少の低下は問題になりません。」
「敵後衛は「弩兵」でしょうからこれを攻め立てれば、陣が乱れまする。
その隙をついて一気に正面から援軍を上陸させることができれば、挟撃が可能でござる。
またこの雨さえ止めば「幻術」を行う機も訪れるかと。」
「良し、その作戦でいこう。」
「豪雨」が止み視界が晴れてくると、「劉備」軍の多くの将兵は慄然とした。右翼に敵大型船が多数艦隊を組み、 がら空きの陣の右腹に高速で移動しつつあった。そして正面江上には向かってくる「楼船」も見える。 恐慌を起こしそうな兵達をよく統率し冷静に配置につかせたのは、意外に落ち着いている将達の顔だった。
「あの「軍師」が大丈夫と言ったからには、何か秘策があるんだろうよ。 儂らは正面の敵の攻勢を止めればよい。 わかったか。」
「ははっ。」
そのころ当の「軍師」「諸葛亮」は自陣右翼に姿を現していた。
ちょうど「周泰」を先鋒に「周yu」等主軍が一気に攻め寄せようと近づきつつある時であった。
「諸葛亮」が「羽扇」を「孫堅」軍部隊に向け叫ぶ。
「「烈火」。」
しかも森には「火罠」が仕掛けられていた。
次々と燃え上がる木々に遮られ「孫堅」軍の足が完全に止まった。
翌日「周yu」は「沈静」を試み、事態の沈静を図る。さすがは「周yu」だけのことはあり、大部分の部隊が 落ち着きを取り戻し、周囲の「消火」に回る。
しかし「烈火」の計は「諸葛亮」の部隊だけではなかった。この日、 「烈火」を習得している「徐庶」「李恢」等も「街道」と「沼地」に挟まれたその「森林」に 火を続けざまに放ったのだ。 完全に火に通り道をふさがれ「孫堅」軍は前に進むことができなかった。
「周yu」は火の向こうにかすかに見える「劉備」陣を睨み唸った。
「おのれ、「諸葛亮」め。明日を見ておれ。火さえおさまれば、必ずその首取ってくれようぞ。」
「ええい、火を消せ。軍が通れる場所だけあればよい。必ず火を消すのだ。」
しかし翌日「諸葛亮」は自身2度目の「烈火」を放ち、「孫堅」軍を三度火中に孤立させた。 「総大将」「周yu」だけは一足先に抜け出ていたため、「烈火」の餌食には遭わなかったが、 かわりに火を背にして「劉備」軍に囲まれることになった。
「諸葛亮」が「劉備」陣より進み出て「周yu」に話しかけた。
「「周yu」殿、豪雨の後の突然のこの晴天、いぶかしく思われませんでしたか。」
「なに、するとこの天候、そして火計は。」
「お気づきになりましたか。この晴天も我が計の一部にございます。いかなる大軍も火中を渡ることはできません。」
「「周yu」殿、降られませ。貴殿さえ降られれば、麾下の軍はこれ以上攻めないことをお約束します。兵は無事帰国できましょう。」
「何を馬鹿な。君はこの「周yu」を知らないのか。我が心中にはただ孫主があるのみ。」
このとき背後から「黄蓋」が火を割って現れた。
「「総大将」、血路を開きお引き上げください。」
「計には破れしも、我にはまだ充分の軍がある。必ずや貴様の首を刎ねてくれん。」
「諸葛亮」に向かって一声を放つとサッと馬を翻し、火の中へ戻っていった。殿の「黄蓋」もしばらく後にこれに続いた。
「「軍師」殿、追わないのでございますか。」
「「劉備」様からきつく言われていますから。「周yu」殿は「孫堅」勢の屋台骨。
華北には「曹操」という強大な敵が控えています。「孫堅」殿の弱体化を「劉備」様は望まれていません。」
「それに、この戦に限っても、「周yu」殿が正面の前線に戻る頃には勝敗は決しているでしょう。
敗勢になっては、いかに名将といえども兵の流れを押しとどめることは敵いません。」
ちょうどそのころ砦正面の戦場では、「孫堅」軍「援軍」部隊が困惑していた。
「援軍」部隊は、「劉備」軍の陣の奥から火の手が上がるのを遠望し、
襲撃が成功したものと判断し、正面の「劉備」軍に攻撃を仕掛けたが、
思った程敵陣が崩れず頑強に抵抗する。
おかしいとは思いながらも、命令変更があるわけでもないため、これだけの軍を以てすればいずれ敵は崩れるだろう、 との判断し攻め手を弛めなかった。
「劉備」軍の陣に楔を打つため、 船から敵部隊を「斉射」しようと密集隊形で「楼船」を岸に近づけた時、事態は急転した。
「関羽」等が待っていた動きこそこれであった。
「「張飛」「趙雲」、教育してやれ。」
「関羽」「張飛」「趙雲」が立て続けに「激流」の計を放った。
「趙雲」の計は失敗したものの、
2回の「激流」を受けて密集隊形の「孫堅」軍は、「甘寧」を除く4部隊が混乱した。
「甘寧」も「激流」のお返しをしてやりたかったが、敵部隊は陸上にいるためやり返せず、
いらだちながら諸部隊の「沈静」を行った。
士気が低かったせいであろう。
残念ながら「混乱」から回復したのは「呂範」部隊だけであった。
「混乱」した部隊に対して、ただちに痛烈な攻撃が行われた。さらにいったんは沈静した「呂範」部隊に 「黄忠」の「矢嵐」が飛来する。「激流」によって「士気」が萎えかけていた「呂範」部隊にとって、 これが致命傷となった。
翌日「甘寧」は迷った。実は味方を攻撃するために「劉備」軍が部隊を移動させたため、
敵陣に隙ができ上陸可能な場所が現れたのだ。
上陸して敵部隊の背後から「奇襲」を仕掛けてやろうかとも考えたが、
味方の「混乱」も回復させねば後に続く部隊もなく、孤立する虞もあった。孤軍で敵中に残され包囲殲滅されては敵わない。
結局「甘寧」は「沈静」を選び、今回は比較的よく効いたため「呂範」の沈静とも合わせ、軍の収拾に成功した。
そして「韓当」が「周yu」部隊との合流を提案したため、これに従い、軍を上流に向かって移動させた。
「甘寧」等「援軍」と合流した「周yu」等は軍議を開いた。
「我が軍は、約半数の兵を失いましてございます。」
と「魯粛」が沈痛な面持ちで「周yu」に報告した。
「兵数上では、まだ我が軍の方が上回りますが、問題は兵の「士気」でございます。」
「そんなもの上陸して敵部隊を数隊壊滅させればまた逆転するわ。」
「甘寧」がそう言い放ったが、
「その上陸が難しいのだ。再び補給限界線を越えての急襲を行うには「士気」が足りず、
岸辺に展開する部隊に向けて火計を行うにもこの天候では。」
「呂範」は船窓から外の空を眺めた。
天候はまた「豪雨」になっていた。
このとき兵卒が飛び込んできた。
「哨戒中の「周泰」様の部隊が、渡河点に隙を発見し上陸に成功なさいました。」
「罠だ。」
「周yu」は即断した。また「魯粛」「呂範」も同意を示した。しかし「周泰」を放っておくわけにはいかない。
孤軍は兵法の愚というものであった。また救出するにしても兵数が減った今となっては、部隊を分けて送ることはできない。
それもやはり軍の分断であり兵法上避けるべきであった。
結局のところ「周yu」には、全軍を以て「周泰」部隊のいる地点に向かう他に選択肢はなかったのである。
「ともかく「周yu」を救いに行かねばならぬ。敵の罠にかかる前に「周泰」を呼び戻し引き上げるのだ。
全軍出陣。」
なるほど、岸辺に近づいてみると「劉備」軍の部隊は跡形もなく消えていた。「周泰」は橋頭堡に即席の陣を構え、 敵の奇襲に備えつつ待機していた。「周yu」等が上陸したのは、国境線近くであった。
「周yu」は思った以上の部隊が上陸できたため、作戦を変更した。このまま攻め上げることにしたのだ。
これには「魯粛」が反対したが、一方的な敗戦は避けたい主戦派の「甘寧」「黄蓋」「周泰」等に、
「陸上では我らが劣るとでも。」と言われ、「そうだ。」とも言い切れずに、押し切られる格好となった。
翌朝を待って全軍を押し出した「周yu」であったが、この場合は明らかに「魯粛」の判断が正しかった。
充分力をためて待っていた「劉備」軍各部隊の格好の餌食となってしまったのだ。
力をためていたのは「周yu」等も同様であったが、 「趙雲」の「車懸」や「張飛」の「槍襖」など一撃の被害が大きい「戦法」を使われたこと、 また、「士気」に開きがあったため「戦法」の成功率に差が出てしまったこと、 さらには「劉備」軍の援軍が前線に到着してしまったこと、 が相乗効果で戦局を悪化させていった。
数名の先鋒部隊が捕らえられた時点で「周yu」は継戦を諦めた。交渉のため「劉備」陣に軍使を送った。 捕虜となった将の返還がなされれば、部隊を引き上げるという条件であった。
「関羽」はそれを受諾し、「周yu」は退却した。
その後も、たびたび「孫堅」軍は「江陵」を攻めた。「水軍」で来る場合もあれば、烏林から陸上部隊が攻め寄せる時もあった。 しかし、「劉備」軍主力が集まるこの江陵を陥落させることはできなかった。
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