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このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 序を参照してください。
209年4月現在、「劉備」は、「張魯」討伐のための出兵を「上庸」の「張飛」に命じた。また「援軍」として 「長安」からも兵を送るよう「趙雲」にも同様の命令がなされた。
「劉備」勢は、「総大将」に「張飛」、「軍師」に「法正」、部将は「魏延」「黄忠」「呉班」「李恢」と、 全て山岳戦に対応できる部将ばかりである。
「さて、酔っぱらい共の目を覚まさせてやるか。」
「張飛」が傍らの「法正」に向かってニヤリと笑いながら声を掛ける。
「「法正」、策を申せい。」
「敵は、定軍山に立て籠もっている様子にございます。」
「かの山は、山上に砦が築かれ、また山道も狭く大兵と言えど一度に攻め寄せることが難しい、難攻不落の地にございます。
不用意に近づけば、敵の策略「落石」の餌食となり、身動きの取れぬまま矢の雨を喰らいましょう。」
「そこで我々は、まずわざとゆるりと砦まで進軍いたします。何日かすれば援軍も参りましょう。
さすれば敵軍にも焦りが出ることでございましょう。」
ほとんど進軍らしい進軍もせず、「張飛」等であったが、力が溜まった時点で「張飛」が「烈火」を前方に放つ。 すると「張魯」勢の仕掛けた「火罠」が、「烈火」によって発動してしまう。
「ガハハハッ、甘いのう。実戦で鍛え抜かれた我々にそんなちゃちな罠に引っ掛かると思うておるのか。」
翌日、援軍が到着し気をよくした「張飛」は、諸将にいいところを見せようと、秘技「策略」「天変」の呪文を唱えた。
「烈火」と「火罠」によって進軍路が塞がっているため、降雨により道を開こうというのだ。
「う〜む、失敗したか。」
「張飛」にとっては誤算であった。火がおさまるまで、現地点での滞陣を余儀なくされた。
部将に「消火」をさせながら進軍する「張飛」。ある地点以上進むと「弩兵」による攻撃を受けるため、
陣一つ分退いて待機をさせた。
「張飛」は「法正」に次の策を求めた。
「ここから砦を遠望しましたところ、砦正面の道は狭く、一度に攻めかかれるのは1部隊のみのようです。
しかしながらその奥に2部隊は配置できる程度の場所があるとの報告がありまする。
ここは最悪の陣形ながら長蛇の陣となり、順にあの砦に迫るほかありますまい。
近づく間、なるべく兵を減らしたくないので、ここで「張飛」殿には、あの秘計をお願いいたしたく存じます。」
「あれをここで使うのは少し惜しい気もするが、兵の命には代えられまい。よし、わかった。」
「それと「趙雲」殿、少しお話が…」
「特命でござるな。」
「法正」の命を受け、どこかに姿を消した「趙雲」を除き、「魏延」を先鋒に「呉班」「李恢」と続き陣を出ていき定軍山に 攻め寄せる。「黄忠」及び「援軍」の「弩兵」は後方からの援護射撃に徹する。
今度はあらかじめ「天変」に成功し「曇」を呼び寄せることに成功していた「張飛」が秘技を見せる。 「む〜ん、「幻術」。」
「う〜む、どうやらまた失敗したか。」
「張飛」にとっては誤算であった。敵「弩兵」の攻撃を受けながらの進軍を余儀なくされた。
「張飛」に「医術」があっても、敵の連続攻撃のため回復が追いつかない。
「魏延」はその場所で踏ん張り、「呉班」と「李恢」は交互に砦正面に向かい「戦法」を仕掛ける。
しかし、相手が「砦」にいるため、なかなか「戦法」が決まらない。
しばらくたったとき敵陣に乱れが生じた。
訳は分からなかったが、ともかくこの隙に乗じて
思った程の被害を受けることはなく、「魏延」は所定の位置まで達することができた。これに「呉班」が続く。
これで、「弩兵」による攻撃を除けば砦の敵2部隊と同部隊数で戦うことができる。
「魏延」は山頂まで登ったため、周囲の様子が見渡せた。
敵後陣の旗が乱れており、その中に我が軍の旗もあった。「趙雲」の「重騎兵」部隊である。
「法正」は「趙雲」に定軍山裏の間道を通り、一気に敵後方を陥れるよう密命を下していたのだ。
「法正」が仕掛けた策の一つが見事に決まり、後方の陣形は、一時的にではあるが、混乱の様子を呈している。
しかし、そこは死地である。いかに「趙雲」と言えどそう長くは持つまい。時間との勝負となった。
すかさず「黄忠」が「矢嵐」を砦にいる「張魯」仕掛ける。
「張魯」部隊は一瞬混乱した。
すかさず「魏延」が得意の「乱撃」を仕掛ける。
さらに「呉班」が攻撃し、翌日「張飛」の「斉射」によって、「張魯」部隊が壊滅した。
「総大将」を失った「張魯」軍は大混乱となり、急ぎ手前の砦を占拠した「李恢」の「落石」を喰らった。
身動きが取れなくなった敵を横目に、「趙雲」が遊軍と合流しつつ山に残る敵部隊に向かってやはり「落石」を仕掛けた。
そして最後に「法正」までもが「落石」である。
「張飛」が一斉攻撃を命じた。
そうして数日のうちに定軍山は「劉備」軍に陥とされ、さらに追撃により南鄭城も「劉備」軍の手に落ちた。
戦後処理で、降伏する部将がいなかったため、残念ながらも「劉備」は全部将を解放した。
おそらく「曹操」の元へ向かうのだろう、と承知はしていたが、少し前までは友好国であった国の部将である。
「楊松」だけは斬っても良かったが、そうなるとそれを重用した「君主」にも責任が出てくるのは必定だった。
「張魯」は惜しい人材だ。また、「閻圃」と同じく「漢中」での人望も厚い。
たとえ敵同士になろうとも、今は斬るべきではなかった。
このため「楊松」も許され野に下った。
「劉備」は「張魯」「閻圃」を来訪し語り合った。彼にしては礼儀正しくし、胸中を語り協力を頼んだが、 「張魯」の答えは「否」であった。「張魯」の答えが「否」であれば、「閻圃」の答えも自ずと決まっていた。
「評定」の準備中に文官から「勅使」の来訪を告げられた「劉備」は急ぎ正装し、「勅使」を迎えた。
「勅、劉荊北牧に、蜀公を賜う。」
「おおっ。」諸将のざわめきが静かな堂に響いた。
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