| HOME | backupに戻る | リンク元に戻る |
このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 序を参照してください。
208年7月現在、「劉備」勢はを「荊北」5国の他、「長安」及び「永安」を領している。 「劉備」の治める国では、10年の歳月をかけてきた内政重視政策がようやく実を結んでいた。 「孫堅」に攻め入られ一時的に疲弊した「江陵」も、「劉備」は集中的に文官を送り「関羽」に「内政重視」方針を採らせたため、 完全に立ち直っている。現在「劉備」は対「劉璋」「孫堅」前線の要衝「永安」にいる。
「評定」を開いてまず進言を行ったのは、「徐庶」であった。
「劉備様、民の声は喜びに満ちております。
我らが領土の全ての「都市」で、
盗賊などは影をひそめ農人は畔を譲り合い市場では各国からの特産を売る店が建ち並び工匠は新しい鉄器の製造に工夫を凝らし
城壁には剃刀の挟まる隙間もなく、子どもが笑い老人は梨下で碁を楽しんでおります。」
続けて白眉「馬良」が「外交」面の報告を行う。
「「呂布」の一件で仲違いをしていた隣国の「孫堅」殿とも、昨年からの外交政策により和解の兆しを見せております。」
「また、「陶謙」殿の死後、自立していた「Bi芳」ですが、「寿春」1国を維持できず、
「孫堅」殿からの「降伏勧告」に屈したとの由にございます。」
「Hou統」から軍事面について報告がなされた。
「北からの圧力が増大しております。「幽州」「ki州」「青州」といった旧「袁紹」領土を手中に収め、北方からの
侵攻に憂いが無くなった「曹操」は、「洛陽」と「許昌」に軍を集め、「宛」を取り戻さんと虎視眈々としておる様子。」
「「宛」は、交通の要衝であるため街道が東西南北に延び、攻めるに易く守るに難い地です。
北と東から同時に攻め込まれた場合、敗北は必至かと。この際「洛陽」か「許昌」いずれかを攻め取ることで「宛」を
守るのはいかがでしょう。攻撃は最大の防御と申します。」
これらの進言を受け、「軍師」「諸葛亮」からも大勢について進言があった。
「「劉備」様、現状の勢力で「荊北」の安定を望まれるのであれば、「孫堅」殿とは和した方が宜しゅうございます。
地勢的に見ても、「柴桑」を手に入れない内は「荊南」を取っても維持ができません。「長沙」に大軍の常駐を
要するからです。南方に人員を移動させれば北方が必ず手薄になり、「曹操」がここぞとばかりに攻め込んで参りましょう。」
「もし、「孫堅」殿と結ばれるのであれば、「同盟」ではなく三月待って「連合軍」に参加させた方が宜しいでしょう。
前回の「反曹操連合軍」結成時とは違い、今は共に使者を送り交わし、さらに北方から「寿春」を狙われるという
状況もございます。「連合軍」の話には必ず乗ってまいりましょう。」
「劉備」が衆議を決する。
「「宛」を取られちゃ「長安」が孤立して、駐留軍の「趙雲」も苦労するだろう。ここは攻めるべきじゃねえかい。
ただし、「孫堅」をこちらに巻き込んでからの話だ。そうじゃねえと軍を北に向けた途端「江陵」を取られちまう。
そこまではいいが、「洛陽」と「許昌」、どっちを取るのがいいんだい?」
「諸葛亮」が「劉備」の方に向き直って曰く。
「ここは「洛陽」以外にございませぬ。「許昌」は確かに荒廃した「洛陽」に比べ税収も多く、1国に限って言えば
「許昌」が「洛陽」に勝りますが、その後の展望が望めませぬ。「許昌」を手に入れた場合、後日
必ず「En州」の「曹操」と「Wai陰」の「孫堅」に挟み撃ちに合うことでしょう。
また、周囲の国も強力であるため、勢力を拡大しようとしても無理が生じることになるかと。」
「徐庶」が繋げて進言する。
「「洛陽」は、荒廃していると言えど、是歴とした漢朝の都であったことは事実。
また、今は前線都市ということもあり、「曹操」は内政を無視してただでさえ少ない人口から「徴兵」を繰り返している様子。
民も難儀をしておりますでしょう。
ここは殿が旧都「洛陽」を取り、そのあかつきには内政を重視し復興を目指されるが宜しいかと。」
「よし、決まりだ。狙いは「洛陽」。弟達や「趙雲」等主立った部将と「軍師」等は今月の内に「宛」に異動してもらう。 秋の収穫が終わり、首尾良く「連合軍」が結成できたらひと戦だ。」
諸官「ははっ。」
夏の評定の通り、首尾良く「孫堅」を巻き込んで「反曹操連合軍」を結成した「劉備」勢は、「宛」から「洛陽」に攻め込んだ。
「総大将」に「関羽」、「軍師」は「徐庶」、以下 「張飛」「黄忠」「陳到」「李厳」 「周倉」「廖化」「呉班」「文聘」の8部将、総勢10将10万余の大軍である。
対する「曹操」軍は、軍勢こそ18万と多く、また援軍も8万程度見込めるものの、 「太守」に「曹洪」、「軍師」は「荀攸」、部将はさらに一段落ちて、「牛金」「夏侯尚」等が目立つ程度、 と今回の「劉備」軍に比べると見劣りの感はいがめない。おそらく軍構成も似たようなものになるはずであった。
戦は、「砦」戦となった。
重歩兵中心の「劉備」軍に対して、「曹操」軍は軍資金にものを言わせて「山岳騎」で構成され、「砦」を前線に
魚鱗の陣で固めていた。
例によって、国境付近を移動し罠を回避した「関羽」等「劉備」軍は、「連合軍」の「援軍」を待たずに攻撃を開始した。
「徐庶」が「関羽」に問う。
「「砦」戦なれば、まず立て籠もる部将から先に血祭りに上げ「砦」を占拠し補給を容易にしてから他の部隊を
包囲殲滅させるか、鶴翼を維持しつつ前線をじりじりと押し上げ最終的に「砦」を包囲するか、
のいずれになりまするが、「総大将」のお考えは。」
「関羽」が諸将に通達する。
「「連合軍」が到着すれば乱戦になろう。我が軍は巻き込まれず一団のまま押し進むに如かず。」
「張飛」「周倉」「陳到」等を先鋒として、両翼に「呉班」「廖化」、中軍では、「関羽」「徐庶」が督戦し、 司馬として「重騎兵」「李厳」が「沈静」他伝令を送る。後軍からは「黄忠」「文聘」が矢の雨を降らせる。
力が溜まった時点で「張飛」が「槍襖」を仕掛ける。しかし効かない。敵なれどさすがは「曹操」軍、あっぱれな戦ぶりである。
そうこうするうちに、「曹操」軍の援軍が前線に到着した。「連合軍」側も戦場には到着しているもののまだまだ前線からは遠い。 しかし、「関羽」にとっては、この状況こそ狙い目であった。「徐庶」に「烈火」を敵右翼の森に行うよう命じた後、 前線指揮を一時預け、「張飛」を呼び寄せ、川岸に向かった。
曹操軍20万といえど、これだけ前線が狭い地勢では大軍の意味がない。おまけに自軍右側の森は火の海である。 あふれた部隊が遊勢となり水上にいる。 これらの部隊に向かって連続して「激流」を仕掛けたのだ。
一気に混乱する「曹操」軍左翼部隊。「徐庶」が機と見て全軍を右(河側)に転じ「関羽」等と合流する。 おっつけ「援軍」もこの道筋を通るはずである。「連合軍」としては各個撃破されるはずもない必勝の体勢と成りつつあった。
部将が減って「士気」に不安を感じた「総大将」「曹洪」が軍を「鼓舞」するが、兵達はついてこない。 どだい人望がない部将に「総大将」はつとまらないのだ。
いったん「士気」に大きな差が生じると、いかに優れた将であっても前線維持などおぼつかない。 早めに下がって攻城戦に持ち込ませるのが上策であるのに、「曹洪」は砦にこだわって動かない。 愚将に指揮される兵程哀れなものはない。「援軍」の「馬超」による「車懸」や「孫堅」の「槍襖」を喰らい、 兵が激減していく。戦は終わったも同然であった。
戦後処理では、「牛金」が我が勢に降伏したが、あとの部将は拒否したため放逐した。
さらに3ヶ月後、「劉備」は「弘農」に攻め込み「司隷」全域を抑えた。
「孫堅」を含んだ「反曹操連合軍」の結成と「司隷」を抑えた効果は大きく、 恒常的な友好国である「馬騰」「張魯」勢及び「孫堅」の各国境に兵を置く必要が無く、 「長安」も前線都市から外れたため、 対「曹操」前線である「洛陽」「宛」、対「劉璋」前線である「永安」のみ兵を配してある。
これにより、「劉備」勢は前線を縮小することができたため、2戦で失した損害を補充することなく、 新領土となった「司隷」の内政に専念することができるようになった。
| HOME | backupに戻る | リンク元に戻る |