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蜀漢史略

このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 を参照してください。

■196年 劉備、「江夏」を攻め「劉表」を滅ぼし、孫堅、「反董taku連合軍」を「結成」す

196年7月現在、劉備陣営では、降将「蔡瑁」「劉ki」らとの「親密度」が上がったため、「Jou陽」の内政 への協力が見込めるようになり、また、先年「在野」から「董和」等3名、今年になって「法正」等3名の 計6名の「登用」に成功したため、内政上は2国経営に余裕が生まれている。

《196年7月 初陣孔明》

「評定」を開いてすぐ、「諸葛亮」が進言した。
「劉備様、「江夏」をお取りください。」

劉備が意外な顔で聞き返した。
「もうかい?「Jou陽」の内政だって、まだまだこれからだぜ。そりゃ、確かに昨年はやい方がいいとは言ったが。」
「今こそ絶好の機なのです。」
「第一に、今月、隣国の「孫堅」殿が盟主となって3度目の「反董taku連合軍」が結成され、殿もご「加盟」なされました。 よってこれより2年の間、南から攻められる心配はございませぬ。 第二に、ここで「江夏」を取れば、遊兵を作らずに済みます。今後2年はいずれにせよ「董taku」との戦になりましょう。 今のままですと、対「江夏」牽制上、「Jou陽」「江陵」いずれにも兵を残しておかなくてはなりません。 また、「劉表」側も順次「徴兵」を行いましょう。軍備合戦になれば共に国力が減退することにもなりかねません。 しかしここで「江夏」が我が領土となれば、無理なく全力を北へ集中できます。 第三に、人材面で余裕ができたことです。「董和」等文官で「Jou陽」「江陵」の2国の内政は十分でございましょう。 将軍等に戦に専念してもらえる環境は整ってございます。」

※「対*連合軍」は、「同盟」よりも他国が裏切りにくいので安心できる。 総国家数が多い内は「加盟」国がたとえ2国でも「結成」可能なので、おおいに活用すべきである。 しかも軍資金を必要としない。
※この世界では、一度兵にした民は、ずっと兵である。 平時に民に戻して生産にまわすということができないので、「徴兵」せず、敵兵を吸収して兵数を増やせるのなら、 それに越したことはない。
※1国に対して10人前後の人材が必要。特に急いで内政を上げたい場合は、15名以上を配し、 太守は、内政に専念する性格の者を選ぶ。
※「諸葛亮」は、ここで、天の時、地の利、人の和が揃ったことを述べている。 これが揃った時にはすぐに動くべきで、逡巡することは、返って天の理に外れるもの、とされる。

劉備も納得した様子で
「よっしゃ、わかった。決まりだ。で、ここの守りは誰がする?」
「諸葛亮」が答えて曰く
「「Hou統」殿を残していきましょう。太守は顔が利く「劉ki」殿がよろしいでしょう。」

※降将に太守を任せるなど、本来愚策の極みであるが、 「劉ki」は、「相性」が「劉表」よりも「劉備」寄りで、しかも「野心」が低いため、 戦で捕まれば降りやすいが、「計略」で引き抜かれることは少ない。

話は、軍編成に移った。「提案」者の「諸葛亮」が続けて編成についても進言する。
「中軍「総大将」は、殿に5,000の「重歩兵」でお願いします。 「参軍」は私(「諸葛亮」)が「軽騎兵」4,000で務めまする。 部将は、先陣に「張飛」「軽歩兵」5,000、後軍に「黄忠」「弩兵」4,000、以上18,000の軍とします。 「新野」に「董taku」の兵がおり「Jou陽」を空にできませんので、 「江陵」の「関羽」殿にも援軍を頼みましょう。それで十分です。」

※「諸葛亮」は、「武力」が低いため、消耗率が思った以上に高い。 また舐められて一騎打ちを仕掛けられやすい。意外と前線では邪魔になるので、敵「弩兵」も届かない後方で戦を督戦し、 「計略」からの「回復」役に専念してもらう。

一方、「援軍要請」を受けた「関羽」は、「徐庶」に相談する。すでに「諸葛亮」から内示を得ている「徐庶」は、 考えてあった方針を「関羽」に伝えた。
「戦力の逐次導入など愚の骨頂。それに援軍ならば、全力を出しても問題はございませぬ。」

※援軍部隊は、戦争終結後に生存兵が丸ごと元の国に戻るので、 兵の異動による戦力バランスの崩れが生じない。

「うむ、承知。「徐庶」お主にも出てもらうからな。」
「もとより。」
短いやりとりの後、すぐさま軍編成に移る。
援軍には、「関羽」、「徐庶」、「周倉」、「廖化」が参加し、各「軽歩兵」5,000、以上計20,000の軍となった。

対する「劉表」軍は、「総大将」に「黄祖」、「参軍」は「Kai良」、 総勢10将で80,000余の軍勢のようである。兵数では「劉備」軍の倍以上あった。

霞む「江夏」城を「本陣」から遠望しながら、劉備は「諸葛亮」から戦術の提案を受けていた。
「「劉表」軍は「弩兵」を使うことが多うございます。よって「遠射」を選択して参りましょう。 しかし、前哨戦程度ならまだしも乾坤一擲の決戦時に「遠射」は向いておりません。 また「地形」的にはだらだらとした長い坂が続き、高地側から攻める我らを遮る物はございません。 そこで我らは、「遠射」の射程外まで進んだ地点で待機し兵を整え、「援軍」を待って、 一気に距離を詰め、遠隔攻撃できる「弩兵」の利点を相殺します。 いったん接してしまえば「軽歩兵」が「弩兵」に勝るは自明でございます。」

※「遠射」は、味方の被害をなるべく少なく押さえるため、「武力」の高い 部将を「砦」に配し敵の攻撃を支え、本陣は第2陣に控え「弩」を浴びせる戦法。

続けて「諸葛亮」が言う。
「諸将に通達しておく。今回の戦に限らずこれ以降全ての戦についても、殿の名を冠し我が指揮する戦において、全滅寸前または、 「混乱」「恐慌」以外の敵部隊への通常攻撃は無用である!」
諸将がどよめく。しかし「諸葛亮」はそれらを無視して言葉を繋げる。
「「平常」状態の敵部隊への通常攻撃など、兵の浪費に過ぎない。 兵は即ち我等が民。将のいたずらな功名のために無為に損うは、人の上に立つ者のすることではない。 もし、我が命に従わざる者あれば、軍法を以て処する。」

※この世界では、「戦法」がとにかくものを言う。 多少の陣形の悪さなど、「戦法」の前にはあまり意味がない。 例えば、「撹乱」など「混乱」系戦法を持たない部将に周囲を全て固められても、 逆に「大喝」「妖術」「激流」など広範囲「混乱」系「計略」「戦法」で、 全て戦闘不能に陥れられる可能性だってあり得るのである。
※もちろん、敵より大兵を常に駐屯させ、数で押し切る戦も選択可能である。 そういった平行世界も存在することはするが、天下統一後の世界を見ると悲惨である。 大兵を常駐させるために無理な「徴兵」を繰り返したため、 人口激減によって、中華は元通りの国力を回復するまでに長い年月を必要とするようになるのだ。 為政者としての部将、そういった視点も持ち合わせなければならない。

「諸将よ、そう心配することはない。我が軍には「張飛」の「大喝」、「黄忠」の「矢嵐」があり、おそらく参戦されるであろう 「関羽」殿も様々な「特技」を持っていらっしゃる。また各々方も、それぞれ「戦法」を訓練しているでしょう。 力(戦法ポイント)が溜まった時にはそれらを使い、力が足りない時には近くの「混乱」した敵を攻められますよう。」

「殿、今回「関羽」殿は「江陵」より水路で「江夏」に参ります。 このため「水軍」を持たない将の士気は特に著しく低下していることでしょう。 よって「策略」は、「鼓舞」を多めに選択いたしました。また、「戦術」については、「索敵」を選択いたしました。 以上にございますが、いかがでしょう。」

「劉備」が「張飛」に進言を求める。
「張飛」「「軍師」殿の言うとおりでいいぜ、俺は眼前の敵さえ破れればいいんだから。あっ、「軍師」の命は守ってやるぜ、 とりあえず今回はな。それで負けたら次はないぜ。」
と、自分を呼び捨てにされておもしろくない「張飛」は「諸葛亮」を睨む。

「劉備」が「黄忠」に進言を求める。「黄忠」答えて曰く
「「軍師」殿、敵は「計略」持ちが多そうです。「教唆」の方が宜しいのではございませぬか?」
それに対しては、「諸葛亮」が簡単に答えた。
「今回我が軍が敵の「計略」を受けても、必ず私が看破し、混乱する陣に伝令を送り、速やかに「沈静」回復させて見せましょう。 それゆえ視界の狭い「教唆」よりも広い「索敵」を選びました。」

「劉備」が衆議を決して言う。
「よっしゃ、じゃあ「軍師」と「張飛」の案で行こう。それじゃぁ、いっちょやったるかい。」
「張飛」も投げやりであったとはいえ、自分の名が挙げられて少しだけ嬉しかったようだ。「おう」と応えて 戦場に乗り出した。

※「教唆」を選択して「計略」を防いでも、敵「戦法」による「混乱」の割合の方が多いので、 いっそのこと回復範囲が広い「索敵」の方が有利な場合が多い。マスクエンカウントの関係であろうか、魏蜀呉3国の中で、 「劉備」陣営には「混乱」「挑発」にかかりやすい部将が多い。例えば、「趙雲」は意外な程「混乱」にかかりやすく、 「周倉」等は「挑発」にかかりやすい。「混乱」にかからないことを祈りながら戦闘を行うより、 かかったらすぐ「回復」できるようにする方が、精神衛生上よい。その意味でも、「軍師」は後方で督戦に専念させるべきである。

「劉表」軍は、戦闘開始早々から「鼓舞」を行ったようだ。「援軍」がないのだから当然の戦術である。 「劉備」軍は、急ぐ必要がないため、国境ギリギリをゆっくりと移動する。

※単純な裏技であるが、「罠」を避けるためには、戦場(ヘクス)の一番端が行程になるように 移動すればよい。たまに「街道」を迂回するコースになり引っかかるため、移動経路にも注意したい。 なお、「砦」そばの攻め手側にとっての補給限界線付近も、「罠」は少ないので活用できる。

5日後に、「関羽」等援軍が到着し、いやがおうにも「劉備」軍の士気は上がる。 「劉備」はさらに味方の士気を高めるため、「鼓舞」を連続して行った。 「関羽」が前線に到着し、「劉備」「張飛」と馬首を並べた。

「兄者、こうして馬を並べるのも1年ぶりですな。今日は久しぶりに我が武威を兄者にお見せできます。」
「ははっ、関さんがいてくれりゃ鬼に金棒だ。」
「張飛、兄者に迷惑はかけていなかっただろうな。」
「そりゃねえぜ、関兄ぃ。」
3人は大笑し、揃って前方を向き直った。
「よっしゃ、そろそろ取りかかろうかい。」

「劉備」軍は、敵「砦」の正面を避け迂回してきたため、「砦」の左側、敵方から見ると右側に布陣している。 陣形は魚鱗。
「劉備」の号令で一気に「砦」に殺到し、移動しながら陣形を鶴翼に変ず。

「劉表」軍は、「黄祖」「Kai良」の「総大将」「参軍」以下 「Kai越」「張允」「韓崇」「王威」「蔡kun」「蔡加」「蔡中」「韓玄」等が出陣していた。

「やはり情報通り、「劉表」どんは出撃せず、か…。」
中軍の「劉備」は「諸葛亮」の方へ首をまわしながら、呟いた。
「「劉表」どんが出てきてりゃ、もうちょっと楽な戦だったろうにな。」
「はい、前回の「Jou陽」戦で懲りたのでございましょう。総大将が捕まっては、味方の士気はがた落ちになりますから。 しかし、今回の「総大将」「黄祖」も、「武力」と「品官」ばかり高いだけで、それ程「総大将」に向いてる訳ではありません。 彼の主な「戦法」は「乱撃」と聞き及びます。「乱撃」は、孤軍時にこそ力を発揮する「戦法」、 いわば破れかぶれの技です。このように味方同士で陣を組んでいる時には、向いておりません。」

※「乱撃」は、鍛えてありさえすれば、「功名」稼ぎに異常な力を発揮する。 「混乱」した敵に1対1で接し「乱撃」を使用すると、「車懸」に匹敵する攻撃力を持つ。 しかも複数回に分けて攻撃するため、他の「戦法」と違い、1度ぐらい失敗しても次が当たればよいので、 手柄争い中に周りの味方に獲物を捕られたり、連合軍で捕まえたい敵部将を他陣営に持って行かれる確率が、格段に減るのだ。 なお、28r5は、「極」まで鍛えた「乱撃」は、一種の禁じ手として、どうしても必要な危機の時以外は、使用しなかったと聞く。

「劉表」軍の陣形は魚鱗であった。しかし部隊構成が「弩兵」中心であるため、 自軍の攻撃では損失がないが、敵の直接攻撃には弱いので、 「周倉」「廖化」等の「突撃」を受け、それがが決まろうと失敗しようと、それなりに兵を減らしていく。 一方「劉備」軍は「戦法」しか使わないので、自軍の攻撃の際に兵の消耗は少ない。

※弓で「射撃」する場合、自軍の兵は減らない。
※「戦法」は成功しても失敗しても損傷率は等しく少ない。

「平地」が多く「撹乱」「戦法」がなかなか決まらなかったが、ついに「徐庶」が「韓玄」部隊を「混乱」させた。 すかさず「関羽」が絶妙の位置に部隊を動かし「乱撃」をかける。
一撃、二撃、三撃、四撃。ただ一度の「関羽」の「乱撃」で「韓玄」部隊は全滅した。 これを見て、「劉表」軍の「士気」が鈍りはじめ、「劉備」軍の攻撃で「混乱」に陥りやすくなってきた。 さらに「韓崇」「蔡加」が「混乱」後に全滅し、 「関羽」「張飛」がここぞとばかりに「大喝」を連続して仕掛ける。 すると「黄祖」「Kai越」以外の全部将が「恐慌」「混乱」状態になった。

翌日、「黄祖」が全部隊に「沈静」を試みる。しかし、「黄祖」の「知力」では、「混乱」の原因は掴めない。 「沈静」は失敗に終わった。
「諸葛亮」が珍しくも自馬に跨りつつ劉備に言った。
「次に「Kai越」に「沈静」をかけられると、少し面倒です。我が「軽騎兵」を動かすことをお許しください。」
言い終えると同時に「諸葛亮」は前線に向かい、その軽快な「軽騎兵」を以て一気に「黄祖」「Kai越」部隊に接すると、 北斗七星の印が染め抜かれた旗を天にかざし、「戦法」「妖術」の呪文を唱えた。

戦は終わったも同然であった。「劉備」軍の全部将が1部隊1部隊と取り囲んで全滅させていく。 1部隊が減ると、残った部隊の「士気」が低下し、さらに短い間に「劉備」軍に撃滅させられていく。 ついには、最後に残った「王威」を「廖化」が捕らえ、「江夏」の戦いは終結した。

戦後処理の場で、 「劉表」「Kai良」「Kai越」「張允」「韓崇」「王威」「伊籍」等が「劉備」に降伏し仕えることになり、 「蔡kun」「蔡加」「蔡中」「黄祖」「韓玄」等は追放となった。「蔡kun」等追放部将の多くは、 「益州」の「劉璋」を頼って落ちのびていった。

※「黄祖」「韓玄」といった「私欲」が高く働かない部将はともかく、 「荊州」一帯に影響力のある蔡氏一族の者達を追放したのは、「諸葛亮」の進言であった。 蔡氏の頭領「蔡瑁」だけは、その影響力と才を惜しむあまり、「劉備」がその陣営に留め置いたが、 「徐庶」などは、その「蔡瑁」も(「略奪」等)私利を貪る傾向があることから、 民を損なう者として処断するよう進言したと伝えられている。

「劉備」はこの後、「江夏」の民心の安定(「治安」の回復)を待って「Jou陽」に戻り、代わりに「劉ki」を 「江夏」「太守」として赴任させ、旧「劉表」配下をまとめ、内政の充実を図らせることにした。

次年、「劉備」は、「新野」の「袁術」を連合軍の力を借りて攻略することになる。

※この戦いで「諸葛亮」は、「援軍」として参陣した「呂布」に対して「幻術」なる秘技を 現し、撃退したとのことである。

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