| HOME | backupに戻る | リンク元に戻る |
このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 序を参照してください。
196年7月現在、劉備陣営では、降将「蔡瑁」「劉ki」らとの「親密度」が上がったため、「Jou陽」の内政 への協力が見込めるようになり、また、先年「在野」から「董和」等3名、今年になって「法正」等3名の 計6名の「登用」に成功したため、内政上は2国経営に余裕が生まれている。
「評定」を開いてすぐ、「諸葛亮」が進言した。
「劉備様、「江夏」をお取りください。」
劉備が意外な顔で聞き返した。
「もうかい?「Jou陽」の内政だって、まだまだこれからだぜ。そりゃ、確かに昨年はやい方がいいとは言ったが。」
「今こそ絶好の機なのです。」
「第一に、今月、隣国の「孫堅」殿が盟主となって3度目の「反董taku連合軍」が結成され、殿もご「加盟」なされました。
よってこれより2年の間、南から攻められる心配はございませぬ。
第二に、ここで「江夏」を取れば、遊兵を作らずに済みます。今後2年はいずれにせよ「董taku」との戦になりましょう。
今のままですと、対「江夏」牽制上、「Jou陽」「江陵」いずれにも兵を残しておかなくてはなりません。
また、「劉表」側も順次「徴兵」を行いましょう。軍備合戦になれば共に国力が減退することにもなりかねません。
しかしここで「江夏」が我が領土となれば、無理なく全力を北へ集中できます。
第三に、人材面で余裕ができたことです。「董和」等文官で「Jou陽」「江陵」の2国の内政は十分でございましょう。
将軍等に戦に専念してもらえる環境は整ってございます。」
劉備も納得した様子で
「よっしゃ、わかった。決まりだ。で、ここの守りは誰がする?」
「諸葛亮」が答えて曰く
「「Hou統」殿を残していきましょう。太守は顔が利く「劉ki」殿がよろしいでしょう。」
話は、軍編成に移った。「提案」者の「諸葛亮」が続けて編成についても進言する。
「中軍「総大将」は、殿に5,000の「重歩兵」でお願いします。
「参軍」は私(「諸葛亮」)が「軽騎兵」4,000で務めまする。
部将は、先陣に「張飛」「軽歩兵」5,000、後軍に「黄忠」「弩兵」4,000、以上18,000の軍とします。
「新野」に「董taku」の兵がおり「Jou陽」を空にできませんので、
「江陵」の「関羽」殿にも援軍を頼みましょう。それで十分です。」
一方、「援軍要請」を受けた「関羽」は、「徐庶」に相談する。すでに「諸葛亮」から内示を得ている「徐庶」は、
考えてあった方針を「関羽」に伝えた。
「戦力の逐次導入など愚の骨頂。それに援軍ならば、全力を出しても問題はございませぬ。」
「うむ、承知。「徐庶」お主にも出てもらうからな。」
「もとより。」
短いやりとりの後、すぐさま軍編成に移る。
援軍には、「関羽」、「徐庶」、「周倉」、「廖化」が参加し、各「軽歩兵」5,000、以上計20,000の軍となった。
対する「劉表」軍は、「総大将」に「黄祖」、「参軍」は「Kai良」、 総勢10将で80,000余の軍勢のようである。兵数では「劉備」軍の倍以上あった。
霞む「江夏」城を「本陣」から遠望しながら、劉備は「諸葛亮」から戦術の提案を受けていた。
「「劉表」軍は「弩兵」を使うことが多うございます。よって「遠射」を選択して参りましょう。
しかし、前哨戦程度ならまだしも乾坤一擲の決戦時に「遠射」は向いておりません。
また「地形」的にはだらだらとした長い坂が続き、高地側から攻める我らを遮る物はございません。
そこで我らは、「遠射」の射程外まで進んだ地点で待機し兵を整え、「援軍」を待って、
一気に距離を詰め、遠隔攻撃できる「弩兵」の利点を相殺します。
いったん接してしまえば「軽歩兵」が「弩兵」に勝るは自明でございます。」
続けて「諸葛亮」が言う。
「諸将に通達しておく。今回の戦に限らずこれ以降全ての戦についても、殿の名を冠し我が指揮する戦において、全滅寸前または、
「混乱」「恐慌」以外の敵部隊への通常攻撃は無用である!」
諸将がどよめく。しかし「諸葛亮」はそれらを無視して言葉を繋げる。
「「平常」状態の敵部隊への通常攻撃など、兵の浪費に過ぎない。
兵は即ち我等が民。将のいたずらな功名のために無為に損うは、人の上に立つ者のすることではない。
もし、我が命に従わざる者あれば、軍法を以て処する。」
「諸将よ、そう心配することはない。我が軍には「張飛」の「大喝」、「黄忠」の「矢嵐」があり、おそらく参戦されるであろう 「関羽」殿も様々な「特技」を持っていらっしゃる。また各々方も、それぞれ「戦法」を訓練しているでしょう。 力(戦法ポイント)が溜まった時にはそれらを使い、力が足りない時には近くの「混乱」した敵を攻められますよう。」
「殿、今回「関羽」殿は「江陵」より水路で「江夏」に参ります。 このため「水軍」を持たない将の士気は特に著しく低下していることでしょう。 よって「策略」は、「鼓舞」を多めに選択いたしました。また、「戦術」については、「索敵」を選択いたしました。 以上にございますが、いかがでしょう。」
「劉備」が「張飛」に進言を求める。
「張飛」「「軍師」殿の言うとおりでいいぜ、俺は眼前の敵さえ破れればいいんだから。あっ、「軍師」の命は守ってやるぜ、
とりあえず今回はな。それで負けたら次はないぜ。」
と、自分を呼び捨てにされておもしろくない「張飛」は「諸葛亮」を睨む。
「劉備」が「黄忠」に進言を求める。「黄忠」答えて曰く
「「軍師」殿、敵は「計略」持ちが多そうです。「教唆」の方が宜しいのではございませぬか?」
それに対しては、「諸葛亮」が簡単に答えた。
「今回我が軍が敵の「計略」を受けても、必ず私が看破し、混乱する陣に伝令を送り、速やかに「沈静」回復させて見せましょう。
それゆえ視界の狭い「教唆」よりも広い「索敵」を選びました。」
「劉備」が衆議を決して言う。
「よっしゃ、じゃあ「軍師」と「張飛」の案で行こう。それじゃぁ、いっちょやったるかい。」
「張飛」も投げやりであったとはいえ、自分の名が挙げられて少しだけ嬉しかったようだ。「おう」と応えて
戦場に乗り出した。
「劉表」軍は、戦闘開始早々から「鼓舞」を行ったようだ。「援軍」がないのだから当然の戦術である。 「劉備」軍は、急ぐ必要がないため、国境ギリギリをゆっくりと移動する。
5日後に、「関羽」等援軍が到着し、いやがおうにも「劉備」軍の士気は上がる。 「劉備」はさらに味方の士気を高めるため、「鼓舞」を連続して行った。 「関羽」が前線に到着し、「劉備」「張飛」と馬首を並べた。
「兄者、こうして馬を並べるのも1年ぶりですな。今日は久しぶりに我が武威を兄者にお見せできます。」
「ははっ、関さんがいてくれりゃ鬼に金棒だ。」
「張飛、兄者に迷惑はかけていなかっただろうな。」
「そりゃねえぜ、関兄ぃ。」
3人は大笑し、揃って前方を向き直った。
「よっしゃ、そろそろ取りかかろうかい。」
「劉備」軍は、敵「砦」の正面を避け迂回してきたため、「砦」の左側、敵方から見ると右側に布陣している。
陣形は魚鱗。
「劉備」の号令で一気に「砦」に殺到し、移動しながら陣形を鶴翼に変ず。
「劉表」軍は、「黄祖」「Kai良」の「総大将」「参軍」以下 「Kai越」「張允」「韓崇」「王威」「蔡kun」「蔡加」「蔡中」「韓玄」等が出陣していた。
「やはり情報通り、「劉表」どんは出撃せず、か…。」
中軍の「劉備」は「諸葛亮」の方へ首をまわしながら、呟いた。
「「劉表」どんが出てきてりゃ、もうちょっと楽な戦だったろうにな。」
「はい、前回の「Jou陽」戦で懲りたのでございましょう。総大将が捕まっては、味方の士気はがた落ちになりますから。
しかし、今回の「総大将」「黄祖」も、「武力」と「品官」ばかり高いだけで、それ程「総大将」に向いてる訳ではありません。
彼の主な「戦法」は「乱撃」と聞き及びます。「乱撃」は、孤軍時にこそ力を発揮する「戦法」、
いわば破れかぶれの技です。このように味方同士で陣を組んでいる時には、向いておりません。」
「劉表」軍の陣形は魚鱗であった。しかし部隊構成が「弩兵」中心であるため、 自軍の攻撃では損失がないが、敵の直接攻撃には弱いので、 「周倉」「廖化」等の「突撃」を受け、それがが決まろうと失敗しようと、それなりに兵を減らしていく。 一方「劉備」軍は「戦法」しか使わないので、自軍の攻撃の際に兵の消耗は少ない。
「平地」が多く「撹乱」「戦法」がなかなか決まらなかったが、ついに「徐庶」が「韓玄」部隊を「混乱」させた。
すかさず「関羽」が絶妙の位置に部隊を動かし「乱撃」をかける。
一撃、二撃、三撃、四撃。ただ一度の「関羽」の「乱撃」で「韓玄」部隊は全滅した。
これを見て、「劉表」軍の「士気」が鈍りはじめ、「劉備」軍の攻撃で「混乱」に陥りやすくなってきた。
さらに「韓崇」「蔡加」が「混乱」後に全滅し、
「関羽」「張飛」がここぞとばかりに「大喝」を連続して仕掛ける。
すると「黄祖」「Kai越」以外の全部将が「恐慌」「混乱」状態になった。
翌日、「黄祖」が全部隊に「沈静」を試みる。しかし、「黄祖」の「知力」では、「混乱」の原因は掴めない。
「沈静」は失敗に終わった。
「諸葛亮」が珍しくも自馬に跨りつつ劉備に言った。
「次に「Kai越」に「沈静」をかけられると、少し面倒です。我が「軽騎兵」を動かすことをお許しください。」
言い終えると同時に「諸葛亮」は前線に向かい、その軽快な「軽騎兵」を以て一気に「黄祖」「Kai越」部隊に接すると、
北斗七星の印が染め抜かれた旗を天にかざし、「戦法」「妖術」の呪文を唱えた。
戦は終わったも同然であった。「劉備」軍の全部将が1部隊1部隊と取り囲んで全滅させていく。 1部隊が減ると、残った部隊の「士気」が低下し、さらに短い間に「劉備」軍に撃滅させられていく。 ついには、最後に残った「王威」を「廖化」が捕らえ、「江夏」の戦いは終結した。
戦後処理の場で、 「劉表」「Kai良」「Kai越」「張允」「韓崇」「王威」「伊籍」等が「劉備」に降伏し仕えることになり、 「蔡kun」「蔡加」「蔡中」「黄祖」「韓玄」等は追放となった。「蔡kun」等追放部将の多くは、 「益州」の「劉璋」を頼って落ちのびていった。
「劉備」はこの後、「江夏」の民心の安定(「治安」の回復)を待って「Jou陽」に戻り、代わりに「劉ki」を 「江夏」「太守」として赴任させ、旧「劉表」配下をまとめ、内政の充実を図らせることにした。
次年、「劉備」は、「新野」の「袁術」を連合軍の力を借りて攻略することになる。
| HOME | backupに戻る | リンク元に戻る |