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蜀漢史略

このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 を参照してください。

■198年 曹操、勅を受け「武関」から「董taku」を滅ぼし、孫堅、「廬江」を得て朝廷より「呉」公を賜う

前年、岐山経由で「長安」を攻め取った「馬騰」軍であったが、余勢を駆って「弘農」まで進出したところ、 「宛」にいた「董taku」軍主力の反撃を受け、「長安」を失陥し「弘農」に立てこもる羽目になっている。

《198年4月 曹操、勅を受け「武関」から「董taku」を滅ぼす》

198年現在、劉備勢は、「宛」以外の「荊北」一帯及び「江陵」計5国を領している。
また、人材面では、荊州争覇戦の戦後処理で「劉表」を配下に加えることができたため、同時に劉表麾下の部将の多くも 劉備に降り、内政系の仕事が格段にやりやすくなっている。 また、今年になって「文聘」「Fu巽」を荊州の地で見出し配下に加えたため、、 5国体制も順調に行われている。

先年冬に「魏公」の称号を得た「曹操」から、「武関」攻めへの参加依頼が「劉備」の元へ入ったのは4月のことであった。 どうやら、帝から勅をいただいたらしく、使者も興奮さめやらぬ様子で劉備に相対している。
「董taku」軍主力が「宛」から「長安」に移ったことで、がら空きになった「宛」を奪った「曹操」であったが、 それが帝の目にとまり覚え目出度く、今回の勅が出るきっかけとなったらしい。
実は「劉備」も、「新野」からがら空きの「宛」を狙ったのであるが、一足先に「曹操」に取られてしまっていたのである。

※勅とは「皇帝からの擁護要請」のこと。イベント条件に「公」であること、があるため、 残念ながら「州牧」ですらない劉備ではまだ起こらない。

劉備は、緊急の軍議を招集し 「Hou統」に軍編成について訪ねた。こと純粋な軍事については「Hou統」に聞くのが一番いい。 何しろ今回は、「長安」解放戦というもっとも大事な戦である。自分が総大将でないのは悔しいが、 まずは勝つことが最優先だ。 「Hou統」は「法正」に図面を運ばせ進言した。
「今回は「武関」という「関」攻めにございまする。」
劉備は「関」攻めをした経験がないため、そこが一番聞きたいところである。
「「関」とは、切り立った一本道にある強大な城壁にございまする。 敵が打って出れば野戦に持ち込めまするが、敵が「関」に立てこもった場合、 大軍を以て「門」を打ち破るか、敵を疲弊させて退却させるか、高い楼を建てて城壁の兵を一人残らず射殺すか、 「関」内で住民反乱をさせる戦法のいずれかを選択いたします。 中途半端はいけません。全軍で集中的に一つの戦法を選んで攻めるのです。」
「ちょっと待ってくれ、「Hou統」、城壁を登って「門」を占拠する、って戦法は取れないのかい?」
「はい、とれませぬ。これは「関」に限らず攻城戦でも同様にございます。」
「ほへ、なんで?」
「城壁が高すぎて、梯子や縄が届かないからでございます。」

※この世界では、城壁に梯子をかけてよじ登ったり、水攻めをしたりという戦法はできないセオリー になっているようだ。ただし「穴攻」は一部可能なようである。墨家が滅び数百年の歳月が流れており、守城、攻城の秘技は 伝承されていないようである。

「説明を続けてよろしいですかな。今回「董taku」軍は、おそらく「籠城」の策を取ると思われます。 「董taku」軍に援軍無く、「呂布」などの猛将の出番もない「籠城」など、本来選択すべきでないと私なら考えますが、 敵軍師「李儒」はそうは考えないでしょう。「武関」の城壁の高さをたのみにきっと「籠城」いたしましょう。」

※COMは「関」での「籠城」が大好き。特に「援軍」のある時なのに「籠城」して、 「援軍」を各個撃破され、「城」「関」の「士気」ががた落ちなど、全くの愚策を平気で選択してくる。

「一方、連合軍側ですが、最大の問題は、足並みが乱れることでございます。」

「諸侯等は一番乗りを焦るため、本来攻城戦に不向きな「軽騎兵」などで戦場に赴くこと、まず間違いありません。 城壁付近に取り憑ける部隊数には限りがございますから、我々がたとえ「軽歩兵」を以て全力で「門」に向かっても、 「軽騎兵」は足が速いため、遙か前に有利な場所を占拠しておりましょう。 今回の総出撃部隊数から考えても、「軽歩兵」が城壁に取り憑ける確率は無に等しいものかと。 軍資金が潤沢にある君主ならば「衝車」も用意してきているでありましょうから問題はありませんが、貧乏諸侯の 「軽騎兵」など射的の的以外の何者でもありません。」

※「軽騎兵」は「攻城兵器」に次いで、弩弓に弱いため、「混乱」+「弩弓」などで 簡単に兵数が減らされる。しかも「門」に対する攻撃力が格段に弱い。「戦法」を発揮する機会がない攻城戦では、 純粋に部隊攻撃力に頼るしかないので、本来は対「門」能力に優れた「歩兵」が絶対条件である。

さすがは「Hou統」である。連合軍の弱みをよく読み切っている。劉備はおそらく「Hou統」がして欲しいであろう 相づちを期待通りにうってやった。
「「Hou統」、そこまで言うってことは、それに対する対策も、お前ならもう考えてあるんだろう?」

ニンマリしながら「Hou統」が答える。
「はい、そのとおりでございます。今回のように「挑発」も「内通」も無効で、 連合軍の軍馬が「門」に張り付いている場合、失礼ながら貧乏諸侯のお一人である殿が「軽歩兵」だけで出兵しても、 軍功第一などまず望めませぬ。」

それじゃあ、何の解決にもならんじゃないか、と言い返そうとしたところで「Hou統」が言葉を繋げた。
「軍功は無理ですが、そもそも殿無しでは今回、勝ち戦すら望めないのです。 「衝車」を以てしても、「武関」の「門」は破られないでしょう。何度も攻めないと本来「関」は破られないのです。 負ければ、「軍功」などありませぬ…。」
「ところで、殿は「医術」をお持ちですね…。」

※「医術」とは、戦場で兵の健康を回復させる「特技」である。戦場では部将の傷は治せないが、 平時であればたまに狂犬病までも治してくれたりもする、まさに神業である。 劉備は、ある旅人に噂を聞いた「華佗」という医士のところに通うようになった。 するとしばらくして「青嚢書」をくれた上「医術」も教えてくれたのである。
※もらった「青嚢書」をすぐさま「張飛」に与え、自分はさらに「華佗」詣でを繰り返した。 これで2人分「医術」が手に入る。
※「医術」は使えば使う程「知力」経験が上がり、また上昇率も高いため、 もっとも優先して手に入れる「特技」と言えよう。

「花を捨てて、実を取れ、ということか。」
劉備がおもしろくなさそうにつぶやくと、「徐庶」が諫言した。
「劉備様は、「名声」を得るために軍を動かすのですか、それとも一刻も早く帝を救うためですか?」

はっ、として劉備が向き直る。
「そうだ、そうだ、帝をお救いするのが一番の大事。それこそが大義であった。それの前では自分の名声など羽毛のようなものじゃ。 「徐庶」、よく諫言してくれた、礼を言うぜ。」
「よっしゃ、「Hou統」、続けてくんな。ま、だいたい分かってるぜ。おいらは後方支援に徹しな、って事だろう。」

「Hou統」曰く。
「その通りでございます。」
「今回の参加要請は2軍。よって、「医術」をお持ちの「劉備」様「張飛」殿のお二人に出陣していただきますよう。」

…戦は、ほぼ「Hou統」の読み通りとなった。「籠城」を選択した「董taku」軍に対して、城壁に殺到する 連合軍騎馬隊そして「衝車」、「関」の兵はそれを次々と射抜き激減する攻め手。 しかしさらに、「董taku」軍には「Hou統」が予想しなかったとっておきの秘策があった。「賈ku」の「幻術」である。

「李儒」は、城壁の上から遙か下方の連合軍の混乱ぶりを、満足げに見やった。 「賈ku」の「幻術」でさぞ「士気」も落ち込んでいるであろう。ここで何軍かの弱小諸侯を撤退まで追い込めば、 ガタガタになってしまうに違いない。ここまでは読み通りである。

しかししばらくすると「李儒」が首をかしげる。「幻術」からの回復と同時に攻め手の数がなかなか減らなくなったのだ。 「李儒」は、連合軍の後方を遠望した。するとなにやら諸侯の負傷兵が担ぎ込まれていく陣があるではないか。 しばらくすると同数の兵がその陣から出て再び攻め手に加わっている。 まずい、誤算だと思いながらも「李儒」にはどうすることもできなかった。
「この状況では、「呂布」を以てしても、「門」から討って出てあの後方の陣まではたどり着けないだろう。 いや、「呂布」ならばそれぐらいのことはするかもしれないが、いったん「門」を開けて「呂布」がそこを離れたとき、 誰が「門」を維持する?愚策じゃ愚策じゃ。」

爪を噛みながら「李儒」は「賈ku」に尋ねた。
「あの不思議な陣はいったいなんじゃ?方術か?いや、方術ならばまやかしに過ぎん。 実際にこうも「門」が変形していくことはないじゃろう。あれは何じゃと思う? 「幻術」使いのおぬしならば何か聞いたことはないか?」
「賈ku」は
「わからん、わからんがそれが分かったところで、何になる?あそこまでたどり着けぬのなら、分かったところで同じよ。 それより今は、ただ眼前の敵に集中するのみ。守城とはそういうものじゃ。」
と現実主義者らしく割り切った答えをした。

そうは答えた「賈ku」であったが、 誤算だったのは「賈ku」も同じである。なにしろ自らの「幻術」に絶大な自信を持っており、この「特技」のおかげで、 今回の戦でも筆頭「軍師」の「李儒」を差しおいて「参軍」に任命されたという自負があった。 最強の「董taku」軍に我が知謀が付いているのじゃ、負けるはずがない、と意気込んでいた。

彼の当初の見込みでは、連合軍はそろそろ「士気」を失い、「撤退」を行う、と読んだ時期であった。 敵が撤退を始めたら、真っ先に騎馬隊を駆り、あのこ憎たらしき小才「曹操」をとっ捕まえてやろう、と思っていた。
しかし現実には、逆にもうすぐ「門」が破られそうである。

この「李儒」等が不思議がった陣の正体こそ、「劉備」「張飛」部隊であった。 彼らは、消耗が激しかったり、放っておくと全滅しそうな部隊から順に「医術」によって回復させていたのだ。 しかも自らは後方にいるため、ほとんど無傷である。

しばらくして「関」の「門」は破られた。慌てて逃げようとする「董taku」に対して、 「曹操」はすぐさま騎馬軍による猛追撃を行った。「長安」城に籠城されたり、 ましてや帝を盾に立て籠もられたりしたら、たまったものではないからである。

※この世界では、猛追撃がセオリーであるためか、 「関」が破られることは即ち敗退を意味するようだ。

かくして「董taku」は捕らえられた。戦後処理の場で、 「董taku」「李kaku」「kakusi」の3人は斬に処された。 他は、職を解かれ「在野」に落とされた者、 「曹操」の元で漢朝のためそのまま「献帝」に仕えることが許された者、 「曹操」軍に編入された者、とに別れた。ちなみに「賈ku」は、長安で「献帝」に仕えることになった。「軍師」として。

戦後、劉備は、まだ自国の「評定」の準備中であったため、 急いで根拠地に戻り、自分たちの国の世話に回らなくてはいけなくなった

※ここで時計が巻き戻ったかのように、月初めの「評定」が始まる。 28r5の誤記かもしれないが、編者としてはそのままにする方がよいと判断し、原著のまま以下を記載している。

「評定」では、「董taku」が滅び、「曹操」の庇護の元で、漢朝の政も徐々に軌道に乗り始めているようであるため、 しばらくは「荊北」の経営に専念すればよいのではないか、という意見が大半を占めたため、 その方針で行くことに決した。

その後送られてきた情報によると、「曹操」に「九錫」が与えられたとのことであった。

※「九錫」とは、もっとも習得が困難な「特技」「人徳」を得られる、漢朝の宝器である。

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