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蜀漢史略

このページは、仮想三国志8のプレイ記が書かれています。ページ作者以外にはどうでもいいような背景については、 を参照してください。

■195年 孫堅、「会稽」に侵攻し朝廷より「揚州」牧を賜い、劉備、水鏡先生に問い三顧を以て諸葛亮を迎う

《195年1月 劉備、素浪人を配下にす》

前年、「董taku」軍が「新野」にまで進出しているにも関わらず、 またもや「反董taku連合軍」に「加盟」しなかった「劉表」に業を煮やし、 「Jou陽」を攻略し「劉表」をド田舎の「江夏」に追った劉備軍であった。
また、人材面では「在野」から「登用」に成功した「陳到」に加え、 前の戦で「劉表」を見限った「呉巨」「蔡瑁」「劉ki」等もおり、「Jou陽」「江陵」2国体制でも何とか運営は可能である。

「関羽」を「江陵」太守に送り込み、代官をしてもらっていた「孫乾」は「Jou陽」に呼び、内政を手伝ってもらうことにした。

また、この年に、「孫堅」は揚州制覇に乗り出した。 人材面ではまだ不安があるものの、「治安」優先で「会稽」など各国を取り込み、空白地ばかりの「揚州」を1年がかりで制覇した。

※「太守」さえ真っ当な人材を送り込めば、 配下は武力バカばかりでも「治安」だけ行う分には問題はない。内政を行うことは難しいが、 孫家系部将は登場年が遅いので、待っていては勢力が広がらない。また「治安」さえよければ、人口が増えやすいのだ。

「評定」では、「関羽」がいないこともあり、いまひとつまとまりのないまま「仕事」の分配に移ってしまった。 やはり、関さんがどっしりと筆頭に構えてくれていないと、こちらの尻もなんだかムズ痒い。 先年からつき合いのある水鏡先生(「司馬徽」)が「真っ向からの武だけでは何も解決しない、 策士をお雇いなされ。」口を酸っぱくして言われているが、うちの古株とはソリが合わないに決まっているから 「そんな小難しいもの面倒でいらねぇ」と突っぱねてはいるが、 やはり劉備軍(と言えるものにやっと育ってきた)に足りないのはその手の輩なんじゃないだろうか、 劉備はそんなことをぼんやりと考えながら、「評定」後必ず行くと決めている「酒家」に向かって歩き始めた。

※「江陵」に移ってからというもの、 劉備(と関羽)は「司馬徽」訪問に、異常な程の情熱を以て、精を出していた。 関羽は真面目に教えを請うためかもしれないが、劉備は、あのイベントを起こすのが主な目標である。

金を持たずに「宮城」に来てしまったのを思い出し、 しまった、家に寄らねばと自宅前まで戻ると、門前に見知らぬ男が立っていた。

あいさつを交わすとすぐ、「単福」と名乗るこの男、劉備にとんでもない話を切り出した。
「この家は祟られているので、いい解決方法を教えて進ぜよう。誰かに貸してそいつに災いが降りかかったら厄落としが済むので、 そうしてから住みなおせばよろしい。」

ふざけたことをぬかすなと、一刀のもとに切り捨てても良かったのだが、「単福」と名乗る男のことを 無下に扱っても後味が悪い。なぞかけを受けて逃げるわけにも行かない。侠仲間、特に張飛が後でバカにするに決まっている。

※劉備は、内心「来た、来た。シメシメ。」と思っている。
※「単福」とはすなわち、「一つの幸運」、 あなた(劉備)の元に奇貨(育てれば大いなる福となるもの、公開直後のMS社の株券のようなもの)を 届けに参りましたよ、と言っているのだ。

気っぷがいいところを見せつけるためにも劉備は、わざと涼しい顔で、「それじゃこの家ごと取りつぶしてしまおう。 なにおいらは放浪慣れしているから、そこらの長屋にでも移り住めばいいさ。 待てよ、「酒家」に泊まり込むのも飲み放題でい…あ、いやいや。」
と劉備らしく最後はしまりのない答えになってしまったが、「単福」には期待以上の答えだったらしく、
「失礼しました。実は、…。」と自分の本名(「徐庶」)を明かし、この世に正道を取り戻すべく諸方をさすらい学んできたという。

昨今多い、耳学問の腐れ儒者や自らを清流派などとぬかしてお高くとまっているナルシスト連中は嫌いだが、 こいつの学問は地に足が生えているようだ。うちの気の荒い連中とも上手くやっていけるに違いない、と感じた劉備は、 「徐庶」を配下に加え、早速その月から、関羽が抜けて空席にり困っていた軍の教練職を任せることにした。

※この世界ではそんな職務はない。

《195年2月 徐庶、伏竜を紹介す》

思っていた以上の待遇を得て感激した徐庶(劉備張飛の酒宴攻めに宿酔い気味である)は、 次の月の初めに、昔馴染みらしい人物を劉備に紹介してきた。

「何、大賢人だって?」たまたま「江陵」から訪れていた関羽を加え、3兄弟で徐庶の提案を聞き、迷った劉備だが、 関羽がいつも以上に熱心に勧めるので「諾」と返事し、伏竜が住むという草廬を訪ねることにした。

※接待漬けにしてはやく次のイベントを起こそうという魂胆が見え見え。
※よって劉備の内心は、当然「来た、来た。シメシメ。」である。関羽、張飛もほぼ同様。
※万が一とんでもない遠方で太守などを務めていても、必ずこの日は3兄弟が揃っている。

《195年4月 諸葛亮、出廬》

「評定」で「徐庶」を「軍師」に任命できた「劉備」は、 このときのために買っておいた虎の子の「孫子の兵法書」「鉄鞭」を与えた。

※COM徐庶は「偵察」がない関係で「水軍」があっても「神算」持ちになることはまず無く、 よって「孫子の兵法書」は一見無駄にも見える。
しかし、撃剣の使い手である「徐庶」は「武力」初期値が高く(68)、 「鉄鞭(+2)」を加えれば、戦場で武力バカに「一騎打ち」の押し売りを仕掛けられても、兵を損ねることなく断れる。
つまり、戦場働きが大いに期待できる「軍師」であるため、水上での機動力が増やせる「孫子の兵法書」は無駄にならない。
※COM徐庶は、偶然かもしれないが、「激流」や「落石」といった計略系戦法よりも 「乱撃」「車懸」といった直接系戦法を教えてもらいに来ることが多かった。そのため我が徐庶は、常に最前線にいる。 〜「徐庶は最前線にいるか?」「いや徐庶がいるところが最前線になるのさ。」と噂されたとかされなかったとか。

2度の空手形にもめげず、三度草廬を訪れた劉備3兄弟は、3度目にしてようやく念願の諸葛亮に面会することができた。

諸葛亮にも救世の志があるらしく、劉備が、帝を「董taku」の魔手から救い出し、平和な世の中を作りたい、と訴えると、 思ったよりもすんなりと「将軍は、一介の農夫に過ぎないこの私に三顧の礼を示されました。 なんで将軍の手伝いをしないことがありましょうや。」と配下に加わる意志を示してくれた、ただし中国文人らしく反語法で。

※三顧の礼とは、もともと商の湯王と後の宰相伊尹との故事であり、 その後、周の文王と呂望(太公望)の逸話にも使われている。このため、この時代の知識人には広く知られた方法であり、 相手をいかに大切に思っているか示す(また、自分と相手が商周の偉人に匹敵するものだと自尊心をくすぐる)ため、 在野にいる大才を招く時の常套手段となっていたはずである。

劉備には、命じた記憶は全くなかったのだが、「軍師」職に諸葛亮が納まっていたのにはビックリしたが、 徐庶が自ら退いて席を譲ったのだと聞くと、「せっかく来てくれたばかりで波を荒立てるのも、つまらんな。」と思い、 劉備は席次をそのままにしておいた。

《195年8月 Hou統、大出世》

次月の月初め、「宮城」にいた劉備に一報が入ってきた。なんでも、田舎の方の県令が職務放棄をして酒浸りになっている、 決裁待ちの文書や訴えが県令室に山積みとなっている、という住民からの陳情が届いたらしい。

民からの訴えには人一倍気をつかっている劉備は、早速その県令を呼び出して問責した。
するとその酒好きらしく肌に張りのない県令から、思いも寄らない返事があった。
「あんな程度の量なら一日で済みますよ。」

よくもぬかしたな、それじゃぁやってみろこの腐れ儒者め、 と余りの無礼さに解雇するだけでは気が済まない劉備は売られた喧嘩を買ってやった。

仕事に埋もれて痛い目を見ろ、と自分が「平原」時代に苦労した管理職業務を思い返し、 S的な気分でいたのだが、報告に帰ってきた「張飛」「孫乾」の話を聞いてビックリした。 出来の悪い劉備と違い、その県令は立て板に水を流すように仕事を処理し、夕刻前にはすでにその机上に一片の残務書類も 残っていなかったというのだ。

急いでその県令を呼び戻す劉備、名を聞いてみると「Hou統」と返事があった。 あの有名な「Hou雛」先生の異名ではないか、なんでそんな大先生が片田舎の県令なんぞ、と思いつつも、 劉備はこの大才を逃さないようにすべく、諸葛亮に次ぐ席次の副軍師中郎将を与え、厚遇した。

後で調べてみると、前領主の劉表は、Hou統の風采を見ただけで気に入らなかったようで、またHou統の方も そう思われたということを機敏に感じ取ったらしく、ソリが合わないまま左遷させられていたらしい。
領主が変わって、このまま地方に埋もれているのはかなわんということで、Hou統が自分の才を見せるためにワザと一芝居うった、 というあたりが真相らしい。
一癖ありそうな性格なようだが、そんなのは劉備陣営にならいっぱいいる、1人増えたところで何程のこともあろう、 と、劉備は調べた真相に封印をして書庫の奥に仕舞うように命じた。

※これらのイベントで「徐庶」「諸葛亮」「Hou統」ついでに「諸葛均」を 青田刈りできた劉備は、一気に有能な軍師集団を得て、勢力拡大の地盤(「評定」時の正答率上昇)ができあがった。

《195年10月 劉備軍、基本戦略固まる》

10月の「評定」で、3軍師に劉備が問う。
「おいらの軍の最大目標は、董takuから帝をお救いすることだ。そこんところを忘れずに方策を頼む。」

Hou統「敵(董taku軍)は「新野」まで迫っております。「新野」にいる先鋒は降将の「袁術」ゆえ、兵は多くとも 我が兵法の敵ではございませぬ。そこで逆にこちらからすぐさま戦を仕掛け、 緒戦に勝ってその兵を吸収し、以て「宛」にいる「董taku」に挑み、 さらに余勢をかって武関を落とすのが上策と存じまする。連合軍も参りましょう。」

徐庶「こちらから攻めるとしても、「新野」までの経路は沼沢も多く、行軍には時間がかかりましょう。 「新野」で「董taku」の軍勢を率いておるのは、あの「袁術」でございますぞ。 もし敵に余力があり、「袁術」の別働隊がここ(「Jou陽」)になだれ込んできた場合、周辺の民はどういう目に遭うことでしょう。 戦となれば、難儀するのは常に民草でございます。」

諸葛亮「「董taku」を攻めるだけならば、連合軍の兵力を以てすれば、いかに「呂布」を擁する「董taku」軍相手といえども、 勝ちをおさめることはできましょう。しかし、占領地の維持には自前の兵が必須です。 「董taku」の反撃を受けた時、「長安」を守りきれるでありましょうか。いや、とても不可能でございましょう。 まず兵糧が間に合いません。それでは、正常な政も執れず、本当の意味で帝をお救いしたことになりません。 よってまず目標とすべきは、 兵を養えるだけの糧食を蓄えるための富国、そして「董taku」を跳ね返すだけの力を持った強兵、つまり富国強兵にございまする。」

「ふーん、勝って勝てないことはないが、勝った後や負けた場合の余力がないってことだね。
本当にないの?「Jou陽」も「江陵」も豊かな国だと思うけど。」
諸葛亮、徐庶「ございませぬ!」

そこに蔡瑁が言葉を添える。
「先年の戦で確かに「Jou陽」は「劉備」様のものとなりました。 しかし、大量の軍需物資、及び兵は「江夏」へ移されてしまいました。 確かにこれから生産される物資については、「Jou陽」の力が大いに期待されることでありましょう。 しかし今現在の時点では「江夏」の方が備蓄が多うございます。 …なんなら私めが奪って参り…。」
「徐庶」の鋭い視線を感じ、蔡瑁は言葉を濁して慌てて手を振り次の言葉を繋げた。
「ゴホン、イヤイヤ、さらに人材面もご考慮ください。荊州の有力豪族及び官吏集団は「劉表」と共に「江夏」に逃れました。 彼らなくして、荊州の政をすみやかに、しかも地元との確執無しに、執るというのは難しいと考えまする。」

「うん、わかった。まずは、「Jou陽」「江陵」の内政に努めよう、民草を餓えさせちゃいけねえもんな。 次は「劉表」どんとの決着にしよう。そんでもって「荊北」をしっかり押さえた上で、「董taku」に挑もうじゃないか。 どうだい?皆の衆。」

「応!」
諸将の声にも力が漲っていた。劉備軍に明確な指針が与えられたのだ。

「でもこれは時間との戦いだぜ、はやく帝を救ってあげなきゃなんねえからな。」

諸将「ははーっ。」

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