當番記録検証
大正6年 當番(年番)
東新町(現・中町)
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大正六年 當番(年番)東新町
【各町集會決議事項】
当時の記録を検証してみると、「14日 午後5時一番出発午後8時迄に全部八幡宮に参集する事」とある。
当時の祭は、9月14、15日であった。戦前は毎年必ず、全山車が八幡宮に集まってから出発していた。15日は宮を出発、宮で解散していた。八幡宮のお祭りなのだから当然のことだと思われる。当時は宮の神事と一体化しており、宮を尊重していたことが伺える。なぜ変わってしまったのかは定かではないが、戦後になってから次第に宮に集まらなくなったことは事実である。
当時のコースは、初日は西組、東組5台ずつに分かれて、2日目は全山車を一組として引廻していた。更に西組、東組の決め方は、初日朝の宮抽選の順番に従って、1〜5番までを西組、6〜10番を東組と決めていた。だから当日まで西組か東組かは分か
らないし、初日は自町を廻れない事もある。事前に経路(コース)を決めていて、初日の宮抽選で初めて決まるのだ。何と大らかなことか?
そして出発時間が凄い。初日・西組は午後10時八幡宮出発、東組は午後12時八幡宮出発となっている。2日目は、御神輿が八幡宮を出発後に山車も出発している。言うなれば「夜祭り」が本来の祭のあり方だったのだ。下記コース表は大正6年のものだ。コースそのものは現在と余り変わらないが「宮集合、宮解散」このことの意味を今一度考えてみる必要があるのではないだろうか?
初日に全山車が宮に集まり、祭の無事を祈願し、お払いを受け、御幣をいただき、2日目最終に宮に集まり、祭の無事を感謝し、御幣をお返しして祭を締めくくる。それが全町が一つになって行う祭のあり方ではないだろうか。見学者の方に全山車が一同に介しているところを見ていただくためにも是非検討してみてはと考えるのだが・・・。
昭和 2年度 年番 中町
【各町集會決議事項】
大正11年度から祭典日が変更され、10月1、2日に行われるようになり、当番という言い方も年番に変わった。初日の出発時間は、この年は西組6時、東組9時出発。2日目は、「神輿渡御八幡宮出発終了時刻」経路は、「全部ヲ一組トシ 左ノ順序ニ引廻シ 御輿渡御ノ御共ヲナス事」と記されている。尚、中老の服装は、和服(羽織着用)と決められていた。今でも各地の祭で見受けられる祭りの正装のひとつである。
昭和12年度 年番 中町
【祭典申合決議事項】
この年の記録には、「一、八幡宮祭典ニハ山車ヲ出サザルコト」とある。この年「支那事変勃発」日本軍が南京へ出兵し、国家非常事重大時局に鑑み、自粛することになった。この頃から社会に不穏な空気が流れ始め、次第に戦時色が強くなり、昭和十六年まで祭典自粛が続いた。しかし、宮の神事は例年と変わらず行われていた。
昭和17年 年番 新栄社
「一、府八幡宮祭典ニハ社前ニ山車ヲ奉納スルコト」
何とかしてお祭りを行いたいと願っていた若者達が知恵を絞った。六年ぶりに山車を出すことになったのだ。しかし、引廻しはせず、両日とも宮の鳥居の前に整列し、奉納した後、午後6時までに格納することになった。
それだけでもどれほど嬉しかったか、計り知れないものがある。
そのために新栄社が如何に苦労したか?この話は後日詳しく掲載する事にします。お楽しみに! |
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参照/昔の祭・記録(大正時代)
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初心者のための中泉祭講座A
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『中泉には花屋台もあるよ』
三面にあるとおり、府八幡宮祭典参加町内は十六ヶ町。 本町は連合組織とは別に山車を運行します。更に隣接地域で二之宮から二台、京見塚より一台が出ますので、合計二十台の山車が中泉地域を動いています。でもそれだけではないのです。
女子手踊りが見られる「花屋台」がこれ以外にあります。以前はほとんどすべての町内にあったのですが、少子化など時代の趨勢で現在では「西町」「七軒町」「西新町」「二之宮北」「二之宮南」の五台のみとなっています。
「でも、それは何処に見に行けばいいの?」という疑問があります。「大体昼間は山車も何処に行ったら見ることができるの?」「夜は団体行動でなんとなくわかるけれど昼間じっくりと彫刻見たいのに、広い中泉地域お目当ての山車が何処にいるかわかりません。」という声も聞きます。
『山車の位置は「会所」で聞く』
基本的に山車も花屋台も昼間の運行は、その町内の自由ですから、何処にいるのかは、ご自分で探していただくしか方法はありません。ただヒントはあります。 それは各町に「会所」がありますので、そこで山車の現在地を聞いていただくという方法です。
「会所」はいささか入りにくい感じがしますが、親切な「世話係」が必ず教えてくれるはずです。山車は動いていますので、大体の位置しかわかりませんが。
『“訪問”って何?』
団体行動以外で山車が他の町内の会所へ行くことを「訪問」といいます。まずは「外交」がその町内に入る前に、会所に走り、これから会所を訪問するむね伝えます。すると受ける町内の「会所係」(世話係の副総務級が多い)が、山車の方向、止め方、止める位置などを説明します。
了承した「外交」は山車に戻り、(戻る前に大概お酒を飲まされますが)進行係や舵係に山車を止める位置などを伝えます。山車は所定の位置に止まります。お囃子も掛け声も会所前で一瞬賑やかになります。
しかし、すぐにそれは辞め、世話係責任者、外交、中老委員長、大老委員長を先頭に会所に入り、祭られている神様や掛け軸に向かい、参拝します。この時酒を一升と賽銭を出します。終われば、受けた側より簡単な酒肴が用意され、歓談します。お囃子も再開となります。受けた側も酒一升を返します。
一台の山車の接待・訪問ならば会所係も簡単ですが、場合によってはいくつかの町内の山車訪問が重なることもあります。こんな時は大変です。こういう時にはじっくり山車を見ていただいて、会所に聞きにいくのは避けた方がいいでしょう。
『各町山車の見所』
各町山車の見所すべてを紹介するのは無理ですが、ほんの一部だけ、この山車のここはぜひというところを紹介します。
まずは、田町・盛友社は、虎の幔幕です。粗彫りの彫刻も迫力満点。そして夜はアセチレンガスの照明です。坂上町・心誠社もアセチレンガス、そして彫刻です。重量感あふれる二層山車のバランスの良さ、山車前の練りも壮観です。
西新町・志組も細かい彫刻最高です。お囃子も見事。
石原町・石溪社は前後の彫刻が素晴らしい。結束固い組織的な練り掛け声も良いですね。法被も伝統的なデザインの儘。西町・鑾留閣は漆塗りの四輪山車、古い伝統ある町内の心意気、舵がないため曲がり角は一気に動きます。凄いですよ。
東町・東組は明治期建造という二輪山車、人形は八幡宮の祭神「神宮皇后」「応神天皇」(赤ん坊)「武内宿祢」です。
七軒町・騰龍社も二輪山車、独特な練り山車の動き、粋な法被は二年前に新調。 最後に、久保町・玉匣社は上山可動式の彫刻満載の華やかな山車です。もう見るしかありません!他にも栄町・新栄社、御殿・御殿などなどの山車もお見逃しなく。
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馬鹿囃子
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▼遠州地方は全国屈指の山車・屋台の密集地帯だ。平成十七年三月をメドに合併をめざす我が磐田市外三町一村も例外ではない。
▼竜洋町「掛塚屋台祭り」福田町「六所神社祭典」豊田町「池田天白神社祭典」等々を代表として、それぞれの旧村単位、神社単位で祭礼が行われ、自治会単位で山車・屋台を有している。「一人に一台の携帯電話」ならぬ「一自治会一屋台」の様相を呈している。
▼しかも、その形態がバラエティに富んでいる。当地方が日本の東西文化の接点であり、東海道のど真ん中であるからだ。山車の型は江戸流あり、京都風あり、尾張三河の流れあり、二輪、四輪、お囃子も「横須賀三社囃子」が江戸起源、「掛塚囃子」が公家囃子で京都のものという具合だ。
▼「見付は裸祭じゃないか」という声が聞こえるが、裸祭の組織的運営方法こそ祭の原点。浜垢離の夜には屋台が出る。しかも「舞車」という東西の屋台に京女と東男を乗せて舞を踊る「まさに東西文化の出会い」を絵に描いたような祭が見付にはある。
▼とすれば、合併にあたって個々の文化と伝統を守りつつ「新たな合同山車屋台祭り」を創造すべきではないか。ぜひとも「合併協議会」で提案、具体化することを要望・お願いする。シチャコリャ!
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