HISTORY

The design and development of the Lancia 037 Rally
By ‘OILY RAG’
Project 037 - what! Two wheel drive?

誰でも皆、最初にランチア・ラリー037 を見ると、‘おや、モンテカルロの 改造車だ、何とまあ巧みに’と云う。 しかし、そう見えても、中身は全く 異なる。 一見、シンプルな外観の下には、極度に精巧且つ改良され たメカニカルが、幾つか隠されている。 グループB ラリーのために設 計された037 は、実際、すごいスペシャルカーなのだ。

予期以上、遥かに長く、ランチア・ストラトス(Stratos)が成功を重ねて いるのには、呆気にとられたが、しかしユニークなこのストラトスの後継 車に関し、1970 年代後半のフィアット(FIAT)グループ内では、相当に 政治的な緊張があった。 ストラトスと同様な、(特定の目的のために) 特注されたホンモノのレースカーを求める者も、一方、特別な少量生産 のランチアに替わって、生産車から派生するモデルで以って、フィアッ ト・マルクを押し出そうとする者もいた。

1975 年ワールド・ラリー・シーズンの終わりに、高額なパーツを非合法化 することにより、絶え間なく上昇するコストに制限を設けるべく、グルー プ2と4のコンストラクション・ルールに変更がなされた。 新ルールの下 競争力があるのは、フィアットの競技部門となっているアバルト (Abarth)で、2リッターの4ヴァルヴヘッド・エンジンを載せたフィアット X1/9 を、500 台製造する計画を持っていた。 このアプローチは、フィア ットに拒否されたので、オリジナルの4ヴァルヴ・シリンダヘッドとノン・ シンクロのギアボックスを持つ、フィアット131 ラリー(131 Rally)を生産 するベルトーネ(Bertone)とアバルトが、再び協力し合うことになる。 131 ラリーは、上手くやっているが、ストラトスと張り合えるのか? 続くルールの発展は、コストの削減を再びターゲットに、グループA とグ ループB に分けられた。 それぞれの生産台数は少なくとも、5,000 台、 200 台が必要だが、その10%にあたる特別なエヴォ(EVO)ヴァージョン が可能、従って20 台のGT のようなコンペティションカーの極少量生産 が許される。 この時、フィアットは、リトモ(Ritmo)アバルトでグループ Aラリーに参戦していたが、一方、コンペティション・マネジャ、チェーザ レ・フィオリオ(Cesare Fiorio)の圧力下、フィアットはランチア・マルク に、グループBにおける競技への復帰を許可する。 アバルトは、ラリー カー開発の任を託されており、イヴェントにおいてはフィアットのラリーチ ームを監督していた。

ランチア・コルセ(Corse)は、経験豊かなフィアットのレース・メカニック で強化されており、レース活動には、ダッラーラ(Dallara)が設計するグ ループ5 のモンテカルロ(Montecarlo)で走ることを強要されていた。 ジャンニ・トンティ(Gianni Tonti)が率いる元々のランチア・チームは、 やはりダッラーラ設計のLC1 とLC2 の耐久レースカーを走らせていた。 だから、アバルトは、どんなタイプのクルマを、ランチアのグループBラ リー用に開発すればよいのか? アバルトのチーフ・マネジャ兼プロジ ェクト・マネジャであるセルジオ・リモーネ(Ing. Sergio Limone)は、討 論の要約と推奨案を次のように1980 年5月付のプロジェクト・レポート に記している。 既存のパーツを利用し、また革命的なテクニカル・ソリ ューションを具体化するウィニングカーを考案することが必要であると。 リモーネは熟考するが、ランチアが短期間に特色あるエンジンを製作 することができないので、ターボエンジンを即座に退ける。 ライヴァル であるドイツのアウディ(Audi)チームは、多くの困難に、いまだこのフ ォーマットで立ち向かっていた。 彼はまた、来るべき年には、ウィニン グ・ソリューションである4WD も、難し過ぎるとして退けている。 また 4WD は、もっとも過酷な天候条件下でしか有利ではないので。 彼は また、複雑なテクニカル・ソリューションをも避ける方が、成功するチャ ンスに恵まれると、考える。 それゆえ、フィアット131のよいところを全 て取入れるが、もっと進歩的なシャシーを用いて、コンヴェンショナルな 2輪駆動を踏襲することに決める。 競技中における修理とメカニカル な部品取替えを簡単にするため、もっともシンプルな方法で考案され ている。 フィアット131 のマックファーソン(McPherson)式のストラット は、制約が多すぎるので、シャシーはレーシングタイプの四辺形型サス ペンション・レイアウトを持つ。 このソリューションは、路面の輻射とレー ス・タイア双方に有用な、異なった姿勢とキャンバー角を与えることがで きる。

基本的なアイディアは、既存の量産車をドナーにするところから、スター トする。 選択は、サルーンカーのリトモ/ストラーダ(Ritmo/Strada)ある いはデルタ(Delta)、GT スポーツカーは、ベータ(Beta)モンテカルロで ある。 リトモは即座に切り捨てられる。 経済的なフィアットのモノコッ クは有用であるが、新しいランチアのラリーウエポンとしては、具合の よくないイメージを与える。 更に、エンジンをミッドマウントにすること に決定すると、多くの技術的な疑問が持ち上がる。 皮肉にも、更に将 来の発展を考えると、デルタもリトモとほとんど同様、同じ結論に帰す る。 こうして、全ての労力はベータ・モンテカルロに集中される。 リモーネは、小型スポーツカーの強力な支持者で、彼の考えでは、生得 のメカニカル・ソリューションと堅牢なキャビン・セルのお陰で、(モンテ カルロは)開発のよいベースになると。 ヨーロッパでも、要求の厳しい アメリカ市場でも、スコーピオン(Scorpion)という名前で、ホンモノのス ポーツカーとして成功している。 多数、調査検討の結果、1980 年7月、 プロジェクト”SE037”のスケッチが正式となり、それから僅か半年後の 1980 年12 月、最初の実際に動くプロトタイプが、トリノの飛行場跡・コ ルソ・マルケ(Corso Marche)の旧い滑走路を走る。 1981年12月14日、チェーザレ・フィオリオは、グループBラリー用新兵器 ‐ アバルト・プロジェクト037 あるいはランチア・ラリーとして知られる ‐ の誕生を公式に発表する。 この新型車は、勝利を齎してきた先代と はメカニカルには異なり、ランチア、アバルトそれにピニンファリーナの 密接な協業により開発され、ランチア・ラリー・ストラダーレ(Stradale)は、 1982 年5月の第59 回トリノ国際自動車ショーで、遂にヴェールを脱ぐ。 このクルマは、トリノ・エスポジチオーリ(Esposizioni)に詰め掛けた専 門紙や数多のファンには、すぐさま高評を博する。 アグレッシヴで美 しく、赤く、洗練されており、2リッター・16 ヴァルヴ・4気筒・ヴォルメック ス(volumex) コンプレッサーよる過給機付きの“外から見える (on-view)”エンジンを“心臓”に持つサラブレッドだ。 出力も205bhpと パワフルで、最高速度は、220km/h を容易く超え、0-100km/hの加速も、 7秒以内である。

Engine

アバルトの社長、アウレリオ・ランプレディ(Ing. Aurelio Lampredi)は、 ターボに対抗するスーパーチャージャーの“ティフォーゾ(tifoso ファン)”で あるが、ターボのラグに対し、その素早いレスポンスは、間髪を入れぬ 加速が基本であるラリーカーに相応しい、と云う。 ランチア出身である フィオリオとトンティは、これとは意見を異にする ‐ ターボによるより高 い出力は、1750cc エンジンと相まって、軽いクルマとなり、2リッター車 と同じタイアを以って、より高い性能を得ることができると、考える。 ラ ンプレディは、037 では自分の思いを通すが、この意見の相違は後に、 デルタS4 のエンジンを産む。

1979 年のプロジェクト“SE035”では、フィアット131 の2000cc エンジン は、1949 年にフェラーリ(Ferrari)が設計したコンプレッサーでスーパー チャージされ、1975年のV6 3500cc “SE031”プロジェクトのトランスアク スル・トランスミッションが取付けられた。 アップ・ダウンが250 回もあるカムポ・ヴォーロ(Campo Volo)での 1000km 長距離ランで、このクルマはパワー/ウエイト比が低く、最高速 度が限られているため、ル・マン(Le Mans)24 時間には相応しくない ことが判る。 計算では、完走できないリスクはとても高かった。 この クルマは、現在も個人のレクションとなっている。 それから、このエンジンはアバルトにより、1979 年10 月、ジーロ・ディ・ イタリア(Giro d'Italia)用に、グループ5 モンテカルロに載せられたが、 コロッティ(Colotti)製ギアボックスが、主に、2リッターエンジンの高い トルクのせいで、壊れてしまう。 このクルマのV8 版も、“SE036”とプ ロジェクト名がつけられて、評価されているが、エンジンは縦方向に積 まれ、より強力な(マセラティ・ボーラ(Maserati Bora)、デ・トマゾ・マン グスタ(DeTomaso Mangusta)、同パンテーラ(Pantera)、フォード (Ford)GT40 ロードヴァージョンと同じ)5DS25 ZF ギアボックスと組合わ される。 このシャシーは(後にデルタS4 で用いられるような)、完全な スペース・フレームである。 これは、その模型が1台、リモーネのデスク 上に残るのみである。

これら、種々の設計演習の末、アバルトは、特注のルーツ(Roots)タイ プ・コンプレッサーにより過給される、古典的なフィアット・ベースのエン ジンに戻り、よりシンプルなシャシーにこれを載せることに決める。 L4ヴァルヴのヘッドは、フィアット124 アバルトで使われた1800cc エン ジンから発展、既に、勝利を齎したフィアット131 アバルトで充分テスト 済み。 エンジン・シャシー・性能のベスト折衷案には、レーシングタイプ のドライ・オイルサンプ、ZF ギアボックス、セルフ・ヴェンチレーテッド・ ディスク・ブレーキ、それに調節可能なサスペンションがウィニング・ソ リューションとして考えられている

これら、種々の設計演習の末、アバルトは、特注のルーツ(Roots)タイ プ・コンプレッサーにより過給される、古典的なフィアット・ベースのエン ジンに戻り、よりシンプルなシャシーにこれを載せることに決める。 L4ヴァルヴのヘッドは、フィアット124 アバルトで使われた1800cc エン ジンから発展、既に、勝利を齎したフィアット131 アバルトで充分テスト 済み。 エンジン・シャシー・性能のベスト折衷案には、レーシングタイプ のドライ・オイルサンプ、ZF ギアボックス、セルフ・ヴェンチレーテッド・ ディスク・ブレーキ、それに調節可能なサスペンションがウィニング・ソ リューションとして考えられている

Chassis

200 台のロードカーを生産する時間の不足により、既存ドナーにランチ ア・モンテカルロという量産車を元に選ぶよう、指令が下る。 かくして、 ドア、ウィンドスクリーン、ワイパー、シートアンカー、ヒーターなど、直ちに 入手可能となる。 すなわち、前のバルクヘッドから後ろのファイアウ ォールまで、メインとなる乗員用のセルはモンテカルロそのもので、サ スペンション、エンジン、トランスアクスルを支えるアバルト製の鋼管ス ペース・フレームが、その前後に取付けられる。 このスペース・フレーム は、25CD4 丸鋼管を溶接して組立てられるが、以前にランボルギーニ (Lamborghini)のシャシーで知られているように、フロント部はアバル ト・チェコムプ(Cecomp)、リア部はモデナ(Modena)にあるマルチェー ジ(Marchesi)で造られる。 モンテカルロの生産を流しているピニンファリーナの工場では、200 台 の‘量産’ユニット用に、改造されたセンター・セクションを用意し、この モノコックにスペース・フレームを組付ける。 結果として、不均等且つグ リップの低い道路でも、応力条件に耐えられる、丈夫な構造が得ら れる。 宙返りとか横方向からの衝撃など、事故時のクルー保護は、 35mm鋼管の丈夫なロールバー・ケージにより確保され、FISAによりホモ ロゲートされるが、これは乗員セル内に挿入され、側面のピラー4本に より、ルーフとシャシーベースとに結合されている。 フィアットのセーフテ ィ・センターにおける数多くのクラッシュ・テストでも、ドアを開くことがで き、衝撃吸収力に優れたシャシーであることを立証している。

Suspension

037 のコンセプトは、前後とも、トラヴェルの長いレーシング・スタイルの ダブル・ウィシュボーン式である。 リモーネは、この機会に、フィアット 131 ラリーで遭遇したトラブル - ダンパーのオヴァーヒート、ブッシュ類の 不具合、全く調整が不可能なジオメトリ - を解消しようと決めていた。 037 のフロントエンドは、従来型のテクシッド(Teksid)アルミニウムをプ レスした垂直材(ハブ)で、トランスヴァース・アームは高品質鋼、ビルシ ュタイン(Bilstein)ダンパーにヘリカル(螺旋状)コイルとなっている。 リアは、ダブル・ウィシュボーンにアルミニウム鋳造の垂直材、下方に はトーインのコントロール・ロッドが付く。 負荷を減ずるために、ツイン・ ダンパーが採用されており、スプリングは垂直材とシャシー自体の間に あり、ダンパーに曲げ荷重はかからない。 数年後、同様の原理はイヴ ェコ(IVECO)の装甲車にも採用されている。 Lancia Classico Newsletter Dec. 2006 Vol.1038 複数あるサスペンションのマウンティング・ポイントにより、タイアの選 択に伴うジオメトリの変更が可能で、アフリカのサファリ(Safari)ラリー では、実際に使われた。 リアでは、キャンバーを変化させて、タイアの 磨耗を抑制する。 ユニバル(Unibal)の関節付きジョイントは、競技 車両のみならず、量産車にも選ばれている。 ストラトス・ストラダーレ のサイレント・ブロックに起因する、相対的にプアなハンドリングを根絶 する時間はなかったが、ユニバルのサスペンション・ジョイントが騒音 を増加させることなく、性能を改善している。 以前の積極的な経験に、 このソリューションを適用すると、フィアット131ラリーの場合、ラ・マンドリ ア(la Mandria)テストトラックでのタイムは、ほとんど2秒も縮まった。

Styling

037のスタイリング・スタディは - アウレリア(Aurelia)B20、同B24、フ ラヴィア(Flavia)とガンマ(Gamma)のクーペ ‐ ランチアのデザイン に顕著な歴史を持つカロッツェリア、ピニンファリーナに課せられた。 この新しいクルマは、支持構造、エンジン・レイアウト、ホイルベース、 サスペンション・レイアウトとその動きなど、多くの寸法的な制約を抱え ていた。 加えて、モンテカルロのキャビン・セルのレイアウトから生じ る空力学的な問題もあった。 最初のプロトタイプは、これらクルマの改造によって具現化されたが、 結果は芳しくなかった。 フロントサイドおよびリアサイドは、幅を広げ られてはいるが、やはり037 は、モンテカルロの醜いラバのようで、ピ ニンファリーナのフィオラヴァンティ(Ing. Fioravanti)には、悉く拒絶さ れる。 これで、シンプルで優美、しかし、ものすごく魅力のあるGT の 冒険的なボディデザインを、非常に手早く仕上げたピニンファリーナの 専門家たちは、全て消え失せる。 コンペティションカーは装備を省かれたが、ロードカーには豪華にトリム された内装、快適なシート、カーペット、フルレンジの計器類が付く。 エアロダイナミクスは、多くの風洞実験を経て開発された。 フロントと リアのスポイラーは、高速でのリフトと動的負荷を打消す目的で開発さ れたが、リアの大きなスポイラーは、競技使用を主に考えられている。 037 のフロントおよびリアセクションは、視界のよいスクリーンからルー フを走り、エンジンが眺められるように延長されたリアウィンドゥに繋が って終わる、スムーズなラインを形成している。 このレイアウトは、リ アスポイラーを越えるエアフローに、プレッシャー・ゾーンを発生させる。 その結果、路面に大きな馬力を伝えることが可能な一方、強力な競技 車両に必要な、横方向のスタビリティもよくなる。 大きな空力スポイラ ー、隆起したボンネット、広げられたトラック、エンジンの見えるリアウィ ンドゥ、それゆえに、これらは強い個性を持つアグレッシヴなクルマに は、重要なエレメントである。 疑いもなくランチア・ラリー037 は、いまだ 世界中でもっとも美しいコンペティションカーのひとつである。

Production

トリノのボルゴ・サンパオロ(Borgo San Paolo)工場にある少量特注 の組立てラインで、全てのランチア・ラリーは、ハンド・ビルドされた。 全222 台は、内150 台はストラダーレであるが、ハンドで組立てられた 後、ボディシェルが分離されて塗装に送り出され、最終的に再組立が 行われた。 全てのコンポーネントは各々、個別にテストされた。 これ は主要な量産ラインでは想像だに及ばないことであるが、即ラリーに出 場できる少量のコンペティションカーには重要なことだ。 経験豊かなメ カニックの眼だけが、必要な精度と品質を保証できる。 037 は1台ずつ、アバルトの品質保証マネジャである、ジュルジョ・ピア ンタ(Giorgio Pianta)によりテスト、調整されて、彼の承認が得られな ければ、クルマを販売してよいとは、考えられなかった。 遂に、ランチ ア・ラリー037 は、肖像的なイタリアン・レーシング・レッドの仕着せで、第 59 回トリノ国際自動車ショーにデビューするが、評論家たちにより直ちに、 ショーの“女王”に投票される。 が、ビューティ・コンテストに勝つことと、 ラリーに勝利することは、同じではない。 037は路上で優位に立つため、 ベスト後輪駆動車として、自らを検認しなければならない。

1982 - work in progress

ランチア・ラリーは、4月1日、コンペティションの洗礼を受けるが、それ は未だ本質的には、注意深く用意された生産車であった。 回想してみ れば、1982 年は学習の年となり、よりパワフルな‘EVO 1’は、8月1日 にホモロゲートされている。 数多くの問題点、特に、ピアンタがテスト 中に発見した酷いハンドリングは、根絶されなければならなかった。 強化されたクランクシャフトと鋳造ブロックは、エンジンの信頼を大幅に 高めたが、油圧系統はまだ完璧には程遠かった。 1982年11月、英国 のロムバード(Lombard)RAC ラリーに初参戦したとき、マルク・アレン (Markku Alen)は、シャシー320 をぐいぐい押して、4位に着けた。 顕著なレーシング仕着せは、‘ワークス’マルティニ(Martini)レーシング の赤・青・白のストライプ、ジョリー(Jolly)クラブのトーティップ(Totip)が スポンサーになっているグリーンとオレンジ、一方イタリアでは、メテコ・ コルセ(Meteco Corse)、グリフォネ・エッソ(Grifone Esso)、ヴォルタ (Volta)そしてトレ・ガゼル・ウエスト(Tre Gazelle West)が活動してい た。 May - Rally of Corsica アッティリオ・ベッテーガ(Bettega)/ペリッジ ノー(Perissinot)は酷いアクシデントでリタイア。 May - Acropolis Rally アレン/キヴィマキ(Kivimaki)、リタイア。 October - San Remo Rally アレン/キヴィマキ、リタイア。

1983 - 037’s glory year

新型360bhp アウディ・クワットロの恐るべき抵抗によって、明らかにな るように、2輪駆動ラリーカーの時代になる。 マルティニのスポンサーシ ップの下、ランチアがラリー・プログラムを継続するためには、このシー ズン、ラリー037 が、ワールド・チャンピオンシップに勝つ必要があった。 成功を確実にするため、ワールド・チャンピオンに君臨するウォルター・ レアル(Walter Rohrl)、無類のマルク・アレンを先頭に、目覚しい5人 のドライヴァ・チームを含め、出来る限りの手が尽くされた。 アウディ のミスに乗じて、ランチア・ワークスは5つの完全勝利で、遂に優位に立 ち、アウディの鼻っ面からワールド・メイクス・チャンピオンシップを奪い 取った。 マッシモ・ビアジオン(Massimo Biasion)も同様、8つほども イヴェントに勝利、ヨーロッパ・ラリー・チャンピオンシップを獲得した。 January - Monte Carlo ランチア・ラリー037 は、雪がないという、ら しからぬモンテで、輝かしく演じ、今や305bhp のワークス・マルティニ・ カーは、レアルとアレンのドライヴで1-2位を記録する。 遂に4WD の アウディ・クワットロは、2WD 車に敗れる。 スティッグ・ブロムクィスト (Stig Blomquist)は、ほとんど5分も彷徨っていた。 March - Portugal リヴェンジを強いられたアウディは1-2フィニッシ ュで、これを果たすが、今回ランチアは、ほんの1分遅れで、3-4-5位 と続いた。 4WD は、グラヴェルでは少し優れていることが証された。 May - Corsica 4月のサファリ(Safari)にランチアは競わなかったが、 この休息がワークス・マルティニ・ラリー037 には恩恵があったように見 え、6台で参加したチームは、アレンが優勝、上位4位を独占した。 June - Acropolis, Greece ランチアは思いがけなくも、アウディのエ ンジン・トラブルに乗じて、再び勝利。 またしてもレアルとアレンが1-2 フィニッシュを決めた。

June - New Zealand
相対的にシンプルな設計のランチア・ラリーは、 このように長距離且つ抑えられたイヴェントにおいては、新しいが信頼 性に劣るアウディの4WD 技術に対し、良い結果を生み、レアルがまた も優勝!

August - Argentina
4WD アウディが、雪と氷と泥の3,000km で2WD に対する優位性を実際に示した。 レアルは欠場、アレンは元アクロポ リスのクルマで、勝ち誇るアウディの4台に、どうにかこうにか続くこと ができた。

August - 1000 Lakes. Finland
優位にあるアウディに対し、辛くも3 位に入賞したアレン/キヴィマキは、あと2戦を残すワールド・チャンピオ ンシップにおいて、ランチアに12 ポイントの優位キープを齎した。 フィ アットは、キャッシュ・フローを維持するために、深堀をする。

October - Sanremo. Italy
チャンピオンシップは、イタリアン・ウィット (機知)とジャーマン・ウエイト(重量)間のコンセプトの衝突によって支 配されることになる。 ランチア・ラリーは、すばしこく利口で、何にも増 して信頼のおけることが証されている。 地元のターマックで、チーム・ マネジャ、フィオリオの戦略指令、支配、それにレース哲学は、数値的 には優り、野蛮で、しかしながら強情で信頼に乏しいアウディ・クワット ロに、遂には勝ち抜く。 レアルも走り抜いた、が本命のアレンが遂に このイヴェントに優勝、チャンピオンシップを獲得した。

November - RAC. UK
予算をむやみに超えており、レアルがこの イヴェントを嫌って、且つランチアを去ると決めていたので、ランチアは RAC には参戦しなかった。 ワールド・チャンピオンシップはランチアに 多大な努力と出費を要求したが、莫大な投資も最後になって正当化さ れることになる。

1984 - 4WD shows the way

1984 年、闘いはより骨の折れるものとなり、4WD 車の出現も増えてく るが、ランチアを止めることは出来ない。 アウディがワールド・メイク ス・チャンピオンシップに勝利するが、ランチア・ラリー037 は、ツール・ ド・コルス(Tour de Corse)に優勝、ワールド・チャンピオンシップの懸 かった6つラリーには、トップ・スリー(3位以内)でフィニッシュしている。 また、カルロ・カポーネ(Carlo Capone)が乗る037 は、ヨーロッパ・ラリ ー・チャンピオンシップに優勝: このシリーズに含まれる12 のイヴェント に、おまけにほとんどのイタリアン・チャンピオンシップ・イヴェントにも ラリー037 は優勝している。

April - Safari Rally アレン/キヴィマキ、4位。

June - New Zealand Rally アレン/キヴィマキ、2位。

1985 - fading 2WD star

ランチアは、新しいS4の設計に集中しており、1985 年、強調すべきと ころはヨーロッパ。 ダリオ・チェッラート(Dario Cerrato)がドライヴする 325bhp の‘EVO 2’は、容易くヨーロッパ・ラリー・チャンピオンシップを獲 得する: このシリーズでは、全部で少なくとも19 ものイヴェントにおい てラリー037 は優勝している! しかし、もはや037 は、ワールド・ステー ジでは背の立たない深みにはまる。 出力の発展もピークに達しており、 扱い易いハンドリングも信頼の高さも、4WD なくしては補償しえなくな っていた。 斯くして、‘EVO 3’は、死産となり、1986 年のランチアは、 デルタ(Delta)S4に置き換えられるが、それはまた別の、もっとエキ サイティングな物語でもある。

原典: “LANCIA 037 RALLY”, Lancia Motor Club, Aug. 2004
Lancia Motor Club would like thank:
Fiat Auto UK for use of their Lancia Archives.
CTP for the use of their photographs.
Sergio Limone for histechnical advice.
Compiled by Mike Mathews.