事前に聞いていた「原作」内容と訳本の違いをあげつらう。


前回と前々回の続きで、事前に聞いていた「原作」とはどう考えても異なっている訳本の内容の話をします。今回は封神演義の根本に関わる?話しもしますかね。

尚、筆者は講談社文庫版(いわゆる安能版)は読んだ事はありません。あくまでネット上や解説本で見かけた「原作」内容との違いをあげつらいます。

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例:前半(事前に聞いていた話)━━後半(完訳の内容)

聞仲の大勢いるお友達が次々と西岐に襲い掛かってくる!四聖、魔家四将、そして10人の道友である一聖九君!
 ━━細かい事をつつく趣味は無いが訳本では一聖九君ではなく十天君だった。確かに金光聖母は天君ではない。しかし他の張天君だの姚天君だのだって本名は張紹や姚賓だったりするもの。

それに彼らは皆、雷部二十四神・九天応元雷神普化天尊(聞仲の封神名)の部下である雷部二十四天君に封神されるわけだから、金光聖母はやはり天君だろう。

何でこんな事を特筆したかというと、この「一聖九君」という呼称は非常に言い得て妙だと思っており個人的に気に入っているからだ。この一聖九君という言い方を誰が始めたのは誰だろうか。ちょっと調べてみたが例によって安能さんの設定なのだろうか。

しかしここで少し疑問に思う事がある。安能版を元にしたWJ版では彼らは十天君だった。そして自社で訳本を出しており原典基準だったPS版では一聖九君だったのだ。この違いはどこから来るものだろうか。

やはりWJ版では王天君メインであり金光は十天君の1人という役割であったこと、PS版では金光が特撮の女ボス状態で男共は見ていて可哀想になるくらいにその他大勢だった事に由来する呼称かもしれない。

尚、この聞仲の10人の道友は、やれ没個性的だの全く同じ展開が10回続くだのと言われるが、私は好きだな。それに趙公明や雲霄三姉妹やら陸圧などが途中で割って入るので壊れたレコーダーみたいに同じ展開が10回続く訳では無いから。

聞仲と共に趙公明を看取った王天君や張天君は割と心に残っている。特に張天君は姫発を100日閉じ込めたので長生きしている方だ。

何より好きなのが3回目にしてようやく決着が付く赤精子vs姚天君の戦闘シーンだ!

余談だが、21日かけて呪い殺される趙公明と泣きじゃくりながら道友を看取る以外にすべの無い聞仲の場面は封神一厚い友情シーンだろう。

しかし敵ながら聞仲は不幸だ。数多くの部下や女を含めた道友を持ち、彼ら彼女らと酒を飲み交わすシーンが幾度となく出てくる。彼らを全て失い、ついに追い詰められ雲中子の宝貝によって焼き殺された場面は、一抹の寂しさを覚えた。

そういえば藤崎氏が封神大全のインタビューで「原作では聞仲は石に頭をぶつけて死ぬ」、なので五光石で止めを刺したらどうのこうのを発言していた。そのせいか「原作では聞仲は石に頭をぶつけて死ぬらしい」という事柄が一部で流布しているように思う。

いや、合ってるちゃ合ってるんだけど・・・。さすがに五光石のような石ではなくて宝貝の岩に頭をぶつけたわけで、しかも直接の死因は焼死なんだが。なんですか、安能版では聞仲はお間抜けキャラにでもなっているんですか?


封神演義はSFである・その2
 ━━SFをちょっとかじっている立場から言わせてもらいましょう。封神演義はSFといえばSFでしょう。SFに明確な定義は無いのでそれこそ竹取物語だってSFです。
 日本のショートショートの神様が竹取物語を現代語訳して出版していたりますから、あながち極論でもないかも知れませんしね。

ただねえ。黄巾力士や那咤がロボットだとか宝貝と現代兵器の比較だの呂岳が行ったのは現代の細菌兵器に通じるとかいうのはどうだろう。

それらは皆WJ版のイメージではないか?藤崎先生は元々SFを多く描かれているのでWJ版封神演義が古代中華ファンタジーSFになるのは解るが、明代の古典にロボットだのなんだのって・・・。アジモフのファンが知ったら卒倒しそう。

那咤は確かに太乙に造られた生命である霊珠子の生まれ変わりだ。でもさすがに1500年かけた宝貝人間だの何だのという感じではない。那咤はあくまで蓮華の精だろう。

考えてみればWJ版はいわゆる能力バトル物だが、その能力は大体SF的な力を持つ宝貝由来なんだよなあ。なにせ莫邪宝剣がビームサーベルであるくらいだ。代わりに術の類が殆ど出てこない。楊ゼンの変化の術は妖怪仙人設定で説明していたし、考えてみれば宝貝によらない術の類は燃燈しか使えなかった。

訳本じゃ術くらい皆平気で使えるぞ!この辺も果たして本当に原作もSFなのかという疑問点となるだろう。それとも何か?術の類はSFにおけるエスパー物とか?

中華SFであるWJ版では当然黄巾力士もロボットだった。でも原作を読んだ限りじゃ黄巾力士は式神の道教ver.といった感じに思う。

疫病の恐ろしさだって細菌兵器云々以前からあった考え方だろうに。

再度書くなら、封神演義はSFといえばSFでしょう。それは否定しません。しかし曲がり間違ってもハードSFの類では無いでしょうし、これかSFならば他にもSF扱いしなければならない古典や伝承は山ほど存在するでしょう。


申公豹は最強道士。ただ一人運命に立ち向かう孤高のダークヒーロー!
 ━━え〜。ネット上や解説本においての原作封神の類で、この人は果たしてWJ版の原作を扱っているのか、それとも中国古典を扱っているのかを一発で見分ける方法をお教えしましょう。

申公豹を最強だのヒーローだのと持ち上げていたら安能設定。ケチョンケチョンに扱っていたら中国古典です。

申公豹の扱いほどわっかり易いリトマス紙もそうそう無いでしょう。真面目な話。安能版やそれに準じた封神演義しか知らない人と偕成社の児童書しか知らない人とでは同じ申公豹観を共有する事は不可能でしょう。偕成社の申公豹は本気で嫌な奴なんで。

余談ですが藤崎版やアニメ版においてあの道化キャラが申公豹ではなく陸圧道人とかいう名前だったなら、安能務原作という一文はきっといらなかったでしょうねえ。ただし藤崎氏が中国語が読めるという話は聞かないので、当時どうやって封神演義を知ったかという問題が出てきますが。

逆に言えば藤崎版やアニメ版が封神演義としてはどれだけぶっ飛んだ話を描こうが、申公豹が最強で雷公鞭持って黒点虎に乗っている限りどこまで行っても中国古典の換骨奪胎ではなく安能務原作だという一文が付きまとうんでしょう。

さまざまなサイトで安能版の申公豹像を読んでみたのですが、もはや中国古典版の申公豹とは絶対同一人物とは言えない代物で驚く限りです。

肝心の訳本における申公豹ですが・・・、さてどこから話したものでしょうか。

まずは太上老君とは接点すら無いです。雲中子とも会話すらしていません。雷公鞭も黒点虎も持っていません。申公豹は元始天尊の弟子であり姜子牙の弟弟子です。しかし途中から姜子牙とは敵対します。

筆者にとっての申公豹は偕成社版ではとにかく腹の立つ人、訳本では調子に乗って生首飛ばして危うく南極と白鶴童子に殺られかけた人というイメージしかないのですが。


仙人も完全に清浄というものではなく定期的に殺劫という殺人欲が出てくる。だから戦いを行うのだ・その2
 ━━いくら荒唐無稽小説でも殺人欲は無いだろう。特に闡教側は著名な神がごろごろ出てくるのに!確かに世界各国の神話などを読んでみて神様の行動が理不尽極まりないと思う事は多々あるが、さすがに殺人欲は無いだろう。

全て読了したが、やはり殺劫というものは殺生戒を犯さなければならない「宿命」のようなものだという筆者の解釈に変化は無い。封神演義は全体的に宿命論に支配されている物語であるから。

筆者が他の二次作品は色々読んでいるにも関わらず、安能版に手を出さない理由はいくつかある。「封神は有名な古典であって著名な神が多々出てくる」という事柄から入ったクチなので、いくら何でも殺人欲は勘弁してくれというのが最大の理由だ。

いや、本来なら高仙が斬った張ったする時点で怒るべきなんだろうが・・・。それにしても本来なら戦う事すらありえないと言われる無為自然の大仙に、何の徳も積んでいない普通の人間ですら持ち合わせていない極悪な欲を持たせて戦争を起こさせるのか。安能さんの発想は封神の原作者に匹敵するかもしれない。

というか何というか、ぶっちゃけ殺人欲ってどう考えてもおかしいでしょ!荒唐無稽にも限度があるよ!多分首をひねった人は大勢いると思うんだが。これならまだ天数と言われた方が諦めも付くよ!

安能さんはこの辺りの設定をどう理屈付けているんだろうか。ちょっと想像付かないな・・・。


どうみても闡教(崑崙)側の方が非道。闡教の仙人連中の方が外道。
 ━━これは今までとは異なり明確に「違う!」とは主張できない。訳本基準のサイトさんでも闡教仙人が酷いとは書かれているし、筆者自身も那咤や楊センや燃燈は酷すぎると思ったもんだ。

ただし、闡教ばかりが外道。とにかく闡教(崑崙)が悪くて截教(金鰲)は被害者みたいな考え方はどうだろうが。筆者は正直言ってどっちもどっちとしか思えなかったから。

もう1つ。聞いた話によると安能版では封神計画が何か陰謀めいた代物になっているという。それに広成子と火霊聖母の一件からして、どうも一般に流布している闡教の外道っぷりは訳本と比べてグレードアップしているようだ。

あの申公豹がダークヒーローになっているのと逆で、味方の仙人連中がどうも必要以上に悪人になっている気がする。

広成子と火霊の一件は、截教側が広成子の行動を拡大解釈して勝手に怒っている印象だったのでどうにも同情心が薄くなる。 というより先程どっちもどっちと書いたが、姫発を除いた全員が神仙から下衆に至るまで信じられないくらい短気で戦争の恐ろしさを感じさせる小説だった。

そして姫発1人がいつまで経っても自分は臣下だと言い張っているので真剣に心配になったなあ。姫発は南総里見八犬伝の里見家みたいな感じなんだろうが、里見家と違い周囲が沸点低すぎなので不安で仕方がない(それに里見家は王権簒奪しないから)よくこれで周八百年の礎を築けたものだ。

本当に敵も味方も高山で米を炊くが如くに沸点が低く、正直言って誰にも同情できなかった。なので確かに闡教が非道というのは解らんでも無いが、截教や殷側が被害者みたいな考え方は納得がいかない。殷側にだって佞臣ブラザーズみたいな擁護不能の悪人がいるんだから。


封神計画は闡教や天界の都合に基づいた陰謀である。
 ━━そもそも封神計画自体そんなに大仰は物ではなくて、単に戦争で死んだ人々の中から優秀な魂を365人見繕って神様に封じようってだけだからなあ。

神に封じる為には一旦死ななければならないというのが取り沙汰されているが、仙界大戦はともかく下界の易姓革命で優秀な人間がバタバタ死ぬのは当たり前でしょう?別に天界や闡教(崑崙)の連中が殺して廻っている訳じゃ無し。

殷の命運がつきかけているのはジョカでもどうしようもない天数です。天数が嫌いな方でも幾らなんでも殷周革命自体を無くせと主張する人はあまりいないでしょう。そこまで行ったら神魔小説ではなく仮想戦記ですから。

後日談:あの〜。想定していた中で最悪の状況なんですが、もしかして殷周革命自体が天界や闡教の陰謀になっていますか? 本来は紂王は名君であって易姓革命の必要は無かったのに無理やり1500年に一度の殺劫云々によって下界に戦火を巻き起こしていますか?

もしそれが本当なら天界や闡教仙人は最低最悪だ。それと同時にいくらなんでも訳本ではここまで闡教は悪人では絶対無い。天界も殆ど話の本筋には関与していない。

というより何で仙人が人間界の移ろいにこれでもかというほど関与しなければならないんだ?荒唐無稽にも限度があるというか安能さんの発想は封神の原作者に匹敵するでしょう。

私は嘉藤版やセレス版も好きだし、八犬伝児童書マニアを自負している。だから古典を脚色すること自体に抵抗は無いし、安能版だって読んだこと無いだけで別に悪くは無いと思っている。

ただし、安能版しか読んでいない状態で中国本土の思想やら何やらを語るのはどうだろうか。いや、それ自体は悪い事とは言わない。しかしそれはWJ版しか知らない人が「中国には天地開闢の神が宇宙人であるという思想がある。これは中国人の間に超古代文明への憧れが存在することを示している」とかいう事と殆ど変わらないと思う。

さすがにWJ版はあからさま過ぎるので、これだけ読んで中国本土の思想が云々なんていう人は見た事が無い。しかしなあ、安能版はなあ。安能設定の多くは日本でしか通じないんだろうから。


ここからは逆に、何故ここまで訳本とは全然内容が違う「原作」が広まっているのかを考察しましょう。

1.WJ版の原作は安能版であるから。

WJ版のファンの方は中国古典のファンではあるとは限りません。むしろ違う場合の方が多いでしょう。ですから活字本の封神演義を読もうとする際に「WJ版の原作」である安能版のみを読んでそれで終わりという事態が多々起こるのでしょう。

それだけなら問題になりません。問題なのはこの状態で中国本土の思想やら何やらを語る場合でしょう。「何故仙人に殺人欲があるのか、何で仙人が陰謀によって易姓革命を引き起こすのか」と疑問に思われても、多分中国人ですら答えようが無いでしょうねえ。

2.参考:日本における封神演義の簡易年表。

1986年 講談社より安能務版が出版される
1995年 光栄より日本初の完訳が出版される
1996年 藤崎氏がジャンプで封神演義を連載開始

これ以降わずか5年ほどの間に封神演義関連物が多数出版される。

一応江戸時代の頃から漢文が読める知識層ならば知っている人もいたようですし、86年以前にも訳本は刊行されていたようです。しかし一般には広まらなかったようです。

つまり安能版が発売されてから9年間は一般の日本人は安能版以外の封神演義を知るすべが無かったのです。

・・・まあ、そうでなければ幾らなんでもここまで「原作」が広まりはしないでしょう。

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何故私がここまで「原作」の内容にこだわるかは説明が必要でしょう。

私は江戸時代に書かれた国文学である南総里見八犬伝のファンです。八犬伝の作者はさまざまな和漢の書物の内容を作品の中に引用しました。封神演義もその1つであり、例えば那咤の異常生誕は八犬士の一人犬坂毛野のモチーフとなっています。

私は江戸時代に八犬伝の作者である曲亭馬琴が参考にした、中国古典・封神演義が読みたかったのです。

古典の脚色に対して「面白ければ何でも良い」と主張する方がいらっしゃるそうです。筆者も二次作品においてならば同感です。しかし「面白ければ古典を改竄しても良い」とは絶対思いません。そして安能設定はその殆どが現代日本人にしか通じないのですから。

しかし、さすがに解説本やデータベースサイトの類まで安能設定ばかりだとは思いもよりませんでした。

この文章を読まれた方は筆者が怒っていると思われるでしょう。ええ確かに怒っています。しかし怒りの矛先は安能さんではありません。ややこしい書き方をしている解説本やデータベースサイトではありません。そんな物を信用してすっかり騙されていた自分自身に何より腹が立って仕方ありません。

もちろん今は安能版以外の日本語文献が無いに等しかった時代ではありません。ネット上には真っ当なサイトもあります。というわけで「ここは間違いなく原典もしくは訳本基準だ」と自信を持ってオススメできるサイトへのリンクコーナーを作りました。是非ご利用ください。

少なくともこのページを読んでくださる方には、私と同じ轍を踏んで欲しくありませんから。


追記。リンクコーナーに張ってありまして結果的に相互リンクという形になりました『朝霧兎は水浅葱』さまの雑記の2月13日以降の物をご覧になってください。
 私がここで気にしていた「どうも一般に流布している闡教の外道っぷりは訳本と比べてグレードアップしているようだ。」「そもそも話の根幹であるはずの封神計画自体が何か陰謀めいていないか?訳本ではさすがにそこまでは・・・」といった事柄について拙コラムなんぞよりずっと詳しく書いてくださる事でしょう。

(2007.02.02)
2007.02.14追記。

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