深谷博道老師
昭和25年(1950)頃の博道老師

 小柄な体で下駄を鳴らし、いつも忙しそうに精力的に活動されていた一方、常に柔和な微笑で、誰隔てなく接する温かな人柄で、”今良寛”と愛称され、人々に親しまれていました。

 博道老師は、”今良寛”と渾名(あだな)されたように子供が好きで、余り器用とは言えない身のこなしで、子供達の遊び相手をする姿を見ることも度々あったようです。
 又、修禅寺に勤務当時、日曜学校を開いて子供達に、童話を通して仏の道を教え、この時童話の狸がポンポコ、ポンポコと腹鼓を打つ話をした時、その仕草が面白く、以来子供達に「ポンポコさん」と渾名を付けられ、愛称となった逸話も残っています。

良寛〔りょうかん〕(1758-1831)江戸後期の禅僧で、詩人・歌人・書家でもあった。越後(新潟)で名主の子として生まれたが、18歳で出家、風流無欲な求道者として生涯を閉じた。子供が好きで、童話や絵本にも登場する。良寛記念館(新潟県三島郡出雲崎町)には、遺墨や愛用品などが展示され、良寛の世界に触れることができる。

 博道老師は、長く司法保護委員や民生委員などを務め、地域に貢献し県知事表彰・厚生大臣表彰・町政功労者表彰・勲六等単光旭日章受賞など度重なる表彰を受けている他、小山町が「金太郎」生誕の地であることを、広く知らしめる活動をされ、『金時音頭』の作成にも尽力し、作られた『金時音頭』は、今でも町民に愛されています。又、文才にも優れいろいろな書籍を出版されています。

博道老師が出版された書籍
昭和3年(1928)
 12月8日
『いろはの宗教』を出版 
 (B6判170頁 指月社)
昭和5年(1930)
  8月10日
『修禅寺夜話』を編集 
 (新書判132頁 修禅寺出版社)
昭和5年(1930)
  8月15日
仏教童話仏祖伝『こんぱらげ』を出版
 (四六判350頁 修禅寺出版社)
昭和7年(1932)
  7月15日
『金時を語る』を出版 
 (B6判100頁 金時宣揚会)
昭和10年(1935)
  7月1日
月刊誌『ひか里』を発行 
 甘露寺内ひかり発行所 
 (通巻第54号−昭和15年3月)

 博道老師は、明治25年(1892)今の御殿場市小宮山家の長男として生まれましたが、6歳の時父が亡くなったこともあり、その才を惜しむ人の縁もあって、12歳で甘露寺十八世深谷道契老師の元に養子となりました。
 仏弟子として学業終了後は、修禅寺での講師として布教部門で活躍、昭和3年(1928)36歳にて甘露寺住職となりました。
 第二次世界大戦時には、修禅寺住職丘球学老師とともに、朝鮮(韓国)京城(ソウル)の博文寺に赴任、院代として務めましたが、日本敗戦により以後帰国まで事後処理などで、死と向き合う程の大変な苦労をされました。
 後年には、曹洞宗大本山総持寺布教部長に就任するなど、大きな業績を残されましたが、昭和47年(1972)享年80歳にて遷化されました。
 特に甘露寺に関しては、大正12年関東大震災で甘露寺本堂が倒壊した時には、父道契と共にその再建に大変尽力されました。又、昭和9年(1934)発願し、師である修禅寺丘球学老師の揮毫により作られた「凖提観音大幟」は、甘露寺の寺宝となっています。

大幟開眼供養会 金時音頭の歌碑
大幟開眼供養会 昭和10年11月17・18日 金時公園にある金時音頭の歌碑

博道老師を称える御和賛 博道老師の遺偈

〔参考資料〕 深谷博道老師遷化25年追悼集 『星霜八十年』 平成10年2月19日発行