深谷道契老師 |
大正12年9月1日発生の関東大震災で、甘露寺も倒壊する被害をうけましたが、これを再建されたのが第十八世深谷
震災の2年後大正14年には、早くも本堂が再建されましたが、甘露寺本堂のみならず、多くの檀信徒の方々の家々も倒壊の被害を受けた中での再建であり、道契老師をはじめ、当時の人々には大変なご苦労があったと伝えられています。
資金はもとより、資材不足であったことも容易に推察されますが、平成の本堂大改築に先立って行われた現状調査においても、時の棟梁並びに大工さんが、大変苦労していた点が多々見出されました。
例えば、床下に使ってある根太は、丸太を二つ割りしたもの、しかも極めて細いものであり、更に二つ割の根太を支える大引きとの間に、パッキンや楔を使用して、床板の水平を保つ工夫がされていたり、倒壊した元の本堂の古材を多用した形跡も見られ、目につく本堂内部のみは、どうにか良い材料を使用して、立派に見せるのがやっとだったと思われ、目につかない天井より上の小屋組、床下は古材及び細い材料の使用であり、再建することだけで精一杯だった、当時のご苦労とお気持ちが伝わってくるようだと、旧本堂の調査に当った専門家や役員さん達から報告されています。
倒壊し屋根のみとなった本堂 (屋根上に立つ道契老師) |
震災後の本堂再建に当って、道契老師が記された『甘露寺本堂再建募縁序』には、ご苦労された当時の老師の心情を思わせるものがあり、ここにその一部を掲載させて頂きます。
再興ニ最モ力ヲ致セシハ、二世鐡心御洲禅師ナリ。禅師ハ晩年大本山永平寺二十九世ノ貫主ニ晋ミ、霊元天皇ヨリ大覺佛海禅師ノ禅師号ヲ宣下セラル。
五世祖嶽和尚(宝永四年八月三十日示寂 距今二一八年)ニ至テ伽藍完備シ、中興ノ祖ト仰グ。七世禅嶺和尚ハ、祖師堂・大小ノ梵鐘・大五輪塔ヲ創立シ、宗風挙揚ニ
尓来盛衰ノ葛藤裡ニ出没シ、安政ノ震災ニハ壁土落下セシノミニテ、伽藍ニ些ノ破損モナク、壁ヲ塗リ替ヘシ記録アリ。明治ニ入リテ衰頽ニ傾キ寺運極メテ非ニ陥ル。
余は明治三十三年請ヲウケテ赴任。以来鋭意信仰ノ鼓吹ト、寺録ノ整理ト、伽藍ノ完成トニ力メ、檀信徒各位ト協力シテ稍完備ノ緒ニツキシモ、突如トシテ襲ヒ来レル大震災ノ為メ、遂ニ倒潰ノ厄ヲ蒙ル。為メ遂ニ鐘楼堂ヲ余シ、堂宇全部倒潰ノ厄ヲ蒙ル。檀信徒各位モ甚大ナル被害ニモ拘ハラズ、白熱的ノ随喜心ニ依テ、短日月ニ取リ片ズケヲ了ズ。(以下略)
道契老師は絵の才能に優れており、十六羅漢を画くことを発願され、十五体まで画かれましたが、残念ながら一体を残して志を果せず亡くなられてしまいました。この残された一体は、第十九世博道老師の願いにより、修禅寺の丘球学老師(大幟凖提観音観音像を揮毫された)が画かれて、十六羅漢像の完成をみております。(十六羅漢全体は甘露寺のホームページ『寺宝と文化財』に掲載されています)
又、道契老師は、大震災で倒潰した甘露寺再建に当って、最後に本堂の丸柱等を飾る柱巻や水引きを自分の思いを込めた図柄で織り飾り、再建の総仕上げにしたいと、思われていたと推測される鳳凰の下絵を残されています。この下絵は平成の本堂大改築に併せて、欄間として彫られ大玄関の客殿に飾ってあります。
道契老師の画かれた十六羅漢 第1 賓度羅跋羅惰闍 (ビンドラバラダジャ) 日本では一般に「おびんずさま」と 呼ばれています。 |
球学老師の画かれた十六羅漢 第11 羅怙羅 (ラゴラ) |
鳳凰の図(下絵)
又、道契老師は、進歩的なアイデアを持った方だったと思われ、甘露寺に電気がきておらず、照明もランプ頼りであったことで、裏山の水路を利用して水力発電設備を作り、電気を使えるようにされたと云うエピソードもある異色の方だったようです。
(右の写真は発電設備の横に立つ道契老師−左側には電柱も見えます 撮影時期は不明))
道契老師が再建された本堂 | 大正再建の本堂内部 |