消えた黄檗寺院


 江戸時代、武家の庇護を受けてきた黄檗宗は、明治維新後の仏教受難の時期、多くの末寺を失いました。
 島田の黄檗宗寺院は、今では2ヶ寺を残すのみです。
 島田市史によれば、かつて、島田宿と初倉(谷口)村に、黄檗寺院が4ヶ寺あったとされていますが、その他の史料を照合すると、最大で6ヶ寺あったと数えることができます。




< 青 松 庵 >
 島田市史に記載されている黄檗寺院は、白岩寺、寿真庵、大阪に移譲された豊運庵、そして青松庵です。
 青松庵は、山号を白鶴山といい、旧初倉村(谷口)にあったお寺で、『明治初年廃寺、相良の宝泉寺に合寺、後に白岩寺に合寺』と記録されています。

 青松庵のあった場所について、初倉村誌(昭和40年、編集発行:初倉村誌編纂委員会)には、次のように記されています。

  
   谷口五輪塔

 阪本字森下敬満神社の東方、旧青松庵より東南、路傍の小丘上椎等の矮小な雑樹の茂れる下に、十数基の五輪塔あり。猶完全ならざるもの其傍に多く積み重ねてあり。此の丘に接し南に茶園あり。これ青松庵のありし跡にて、此の五輪塔はその地を開墾したる時地中より掘り出されたるものなりという。由来初倉村内には五輪塔処々に存在し、其の昔を偲ばしむるもの多し。
  
 
 (現在の五輪塔)
 






< 清 林 庵 >
 島田市史に、黄檗宗寺院としての清林庵の記載はありません。
 「近世黄檗宗末寺帳集成(編著:竹貫元勝)」によれば、天保末寺帳に『駿州志太郡島田村 清林庵 無住』との記録があり、『20ヶ年以前 無住ニ相成仕来之儀村方エ頼置申候』と記されているとのことです。
 この寺がどこにあったかについては、「近世黄檗宗末寺帳集成」では確認できません。

 島田市史では、曹洞宗寺院として清林寺の名が見られます。そこには「富士 瑞林寺末」とされ、「天保14年御改 無住・年不詳廃寺」と記載されています。
 富士市には、観光名所にもなっている瑞林寺という黄檗寺院があります。
 島田市史によれば、清林寺は、向谷町にあったとのことです。




< 西 光 院 >
 島田市史に「西光院」の名を見つけることはできませんでした。
 「島田市近世初倉史料(島田市教育委員会)」によれば、「慶応4年 神社寺院調書上帳」という文書に『元禄2巳年長谷川藤兵衛様』、『地領無御座候  禅黄檗宗 西光院』とあるそうです。
 また、「近世黄檗宗末寺帳集成」によれば、天保末寺帳に『遠州榛原郡谷口村 西光院 無住』との記録があり、『文政9年戌 無住に付寺役法用本寺宝泉寺 相務申候』と記されているとのことです。




< 宝 泉 寺 >
 牧之原市相良史料館にある解説によれば、宝泉寺は天徳3年(1713)に相良藩初代藩主本多忠晴候によって波津天神ヶ谷に建立されたとされています。本多家が陸奥国泉(現いわき市)に転封となってから廃寺となったとされていますが、旧初倉村(谷口)の青松寺を合寺した後、島田の白岩寺に合寺されたとの記録があることから、明治のはじめまでは寺籍があったものと思われます。
 牧之原市相良史料館には、隠元禅師の字とされる聯や阿難尊者・迦葉尊者の立像などの宝物が保存されています。阿難・迦葉の立像は本尊釈迦如来像の脇立であったとのことで、牧之原市の文化財に指定されています。
 本尊は、今も波津の地に祀られ、地元の方々に守られています。
 臨済宗の名刹『龍潭寺』(浜松市)に、『宝泉寺』と書かれた額が保管されています。書いたのは、黄檗宗開祖の隠元禅師です。もし、この宝泉寺と関係があるものならば、歴史ロマンが更に広がるのですが。。。








 
 場所:牧之原市波津(波津公会堂南裏地)
 


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