御用材のその後


 紀伊国屋文左衛門によって、大井川〜木屋川〜焼津小川港〜江戸と旅した御用材は、上野寛永寺の根本中堂の建築に使われました。

 徳川家菩提寺の建立という、この大事業によって巨利を得た紀伊国屋文左衛門は、幕府御用達として、伝説の豪商となってゆきます。

 一方、寛永寺の根本中堂は、幕末(慶応4年)に上野戦争の戦場となり、焼失しました。そこは今、上野公園の大噴水広場となっているとのことです。



 上野戦争において、徳川家臣で組織された彰義隊は、薩長の新政府軍に壊滅させられました。

 その彰義隊の隊長であった大谷内竜五郎は、島田市南部(旧初倉村)の牧之原台地の茶園開拓団加わりましたが、部下の起こした刃傷事件の仇とされ、医王寺というお寺で切腹したと伝えられています。
 この事件は、日本最後の仇討として小説にもなったそうです。


 徳川家の権威の象徴を建立するための舞台となった島田。
 徳川幕府の終焉としての1つのシーンを見た島田。
 人の世の無常というものでしょうか。




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