哀 話 〜「紀文と大井川」より〜


 元禄時代、かの紀伊国屋文左衛門が上野寛永寺根本中堂建立のための御用材を大井川上流で伐採することとなった時、伐り出した木材を運ぶ水路を確保するのに協力したのが、橋爪助左衛門でした。

 紀伊国屋文左衛門の半生を描いた「紀文と大井川」(村松治平 著)に、橋爪助左衛門の寿真庵創建にまつわる逸話が載せられています。以下は、その抜粋です。

 
 木屋水門の開さく者橋爪助左衛門についてはこんな話がある。助左衛門の祖は九州の稲津甚太夫といい、大阪落城の後、遠州浜松の伝馬町に住み、稲津の長者ともいわれていた。村木と改め、助左衛門のときになって、浜松城主青山和泉守忠雄との間に意外な事件が起きた。

 忠雄の父は因幡守宗俊で、延宝六年八月に大阪城代から浜松城主五万石に封ぜられ、着任して翌年二月に卒したので、長男の忠雄が和泉守を名乗り幼少でその後を継いだ。その和泉守の家老職に上林将吾という者があって子息の東馬は放蕩者であった。

 或る時、青山家に伝わる拝領の刀を盗み出し、日ごろ、御城御用を勤めて懇意である村木助左衛門方に預けて何がしの金を借り、遊興に使い果たした。そんな刀とは露知らず預かったのがいけなかった。

 その後、城内では刀の紛失を知って騒ぎとなり、その刀が助左衛門の家にあることが判り、主人助左衛門以下番頭手代が吟味にあった。もとよりそれは家老の子息東馬が犯したことと判ったが、そうなると東馬は当然処分を受けなくてはならない。父の将吾も無事では済まず、城主がまだ幼年を幸い家老の職権を悪用して、遂に罪もない村木の番頭六人にその罪を転嫁して断罪に処したのである。

 主人村木助左衛門は家事不行届とあって、家は闕所となった。村木がかねて城主に用達してあった多額の金も没収されたのは当然である。

 その時、幼なかった女児の一人に女中を付けて伊勢の身寄りに落してやった。これは最悪の場合血筋の絶えるのを恐れてのことである。

 助左衛門は女房と二人の娘を伴い、味噌樽の中に小判を秘して馬に積み、金谷の宿の七軒家という所へ落ちのびた。

 それは、貞享二年の正月のことである。その夏、水害にあい、ここも永住の地に適せずと、かねて懇意な、島田宿問屋服部善右衛門に島田宿への移住を頼んだ。

 善右衛門の奔走で、当時他国者は絶対に移住させないという厳しい申し合せがあったのを、島田代官長谷川藤兵衛の好意の裁断で、島田宿に移住ができた。

 安住の地を得た助左衛門は、姓を橋爪と改め、長女のお菊を宇治の黄檗(おうばく)山万福寺の二代木菴和尚に托して得度させ、尼としての修行をつませ、島田宿の南(現在の日の出)に、黄檗宗、寿真庵という一寺を建てて、その開基とした。

 お菊はそのとき十六才であった。島田小町と謳われて花も恥らう美貌の娘であったが、父の言葉に従い、みどりの黒髪を剃して尼となり、家のため犠牲となった家僕の塔を建ててその霊を弔ったのである。

 (中略)

 この寿真庵の尼僧は、元禄十一年四月二十六日、尼寺の庭の桜花も散りおえた頃、享年二十六才の女盛りを淋しくとじた。泰然浄意禅尼という戒名である。

 (中略)

 生まれは遠州浜松在・・・の日本駄右衛門や、髪も島田に由比が浜の弁天小僧菊之助が出てくる白浪五人男の芝居は、江戸末期に、河竹黙阿弥が作ったものであるが、この浜松屋事件がモデルになったのではあるまいかと、思われる節々がある。
 ※ 資料:紀文と大井川/静岡県木材協同組合連合会発行より抜粋

 この物語に出てくる水路は、今も、木屋川と呼ばれています。木屋水門は、大井川の堤防改修により、その姿を消しましたが、「島田市史」に写真が掲載されています。

 (現在の木屋川)
 紀伊国屋文左衛門は、御用材をこの水路を使って焼津小川の港まで運び、そこで江戸行きの船に積み込んだ。


    御用材のその後

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