☆ R.F.ジョンストン著 中山理翻訳 渡部昇一監修 「紫禁城の黄昏」を読む <2005.07.25>発行:祥伝社(2005年3月) 筆者は1874年スコットランドのエディンバラ生れ。 オックスフォード大学卒業後,1898年,香港英国領事館に着任,香港から威海衛(英国の租借地)に転属後は地方官吏と行政長官を務める。 1918年,李鴻章の子息李経邁の推薦により,その翌年に皇帝溥儀(当時13歳)のヨーロッパ人帝師(tutor)に就任し,溥儀から厚い信頼を得る。 宮廷内部の実情や当時の政争の内幕をつぶさに見聞する。 1925年帝師を辞任。 1930年,英国を代表して威海衛の中華民国への引渡しを行ったのち母国に帰国。 1931年柳條湖事件(満州事変)の直後,天津と上海を訪問,天津では二日間溥儀の客となる。 その直後に溥儀は満州国へ向う。 彼は英国ではロンドン大学の東方学院文化・言語学の主任教授を務め,1938年死去。 原著は1933年に書かれたもの。 この本は映画「ラスト・エンペラー」の原典であると同時に,当時の溥儀の思想を始め,「シナ」政界及び人心の動静に関する貴重な同時代資料である。 この訳書では China の訳語として「シナ」という言い方を採用している。 それについては,訳者によって下記のような説明がされている。 「満州から起った王朝の名は『大清』である。 この王朝は1644年からシナを支配していて,1911年に辛亥革命が勃発した時もなお存続していた。 ・・・・・・共和国は,西洋諸国の類例にならい,自国を単に「シナ共和国」と呼ぶことに決めた。 それに相当する意味のシナ語は「中華民国」で,これが今日の共和国の名称となっている。」<(上巻)第8章 p.204> とあるように,著者は一般読者のために,王朝名とともに,領土的,地理的な概念を表す名称としての「チャイナ」も用いていることも事実である。 そこで訳者は英語の「チャイナ」に音韻的にも近い「シナ」のほうが,訳語として相応しいと判断した。 以下,私の個人的な興味をそそった個所を拾い読みしてみることにする。 ■ 日露戦争前の満州は実質的なロシア領になっていたとジョンストンは書く。 それより四年前,シナはそれまでずっと軽蔑し,無視しつづけた(このような蔑視は今に始まったことでもないし,それ以後なくなつたわけでもないが)小さな島国の帝国に打ち負かされ,もろくもその足下にひれ伏してしまった。 その結果台湾は(実際のところ,満州王朝が征服して併合するまでは,シナの領土ではなかったけれども)割譲されて日本帝国の一部になった。 ■ ジョンストンは,西太后が死ぬまで権力を保持したのは,彼女の資質とか能力にあるというよりも,皇帝よりも地位が上であったことが理由であるという。 統治者としての西太后に対するジョンストンの採点は非常に辛い。 乾隆帝の場合も,西太后の場合も,皇帝の政務を名目上引き渡したからといって,その尊厳,威光,そして権力でさえも,まったく衰えることがなかった。・・・・・・ ■ もし康有爲と光緒帝が進めようとした1898年の改革が成功していたら,歴史は全く違ったものになっていた筈と,ジョンストンは考える。 もし1898年の改革計画に何の邪魔も入らなかったならば,皇帝の治世は,日清戦争の惨禍に見舞われたにもかかわらず,満州朝廷にとってもシナの国民にとっても,繁栄と進歩の時代としてシナ史の記録に残ったかもしれないのである。 ■ 1908年11月の西太后と光緒帝の死の直前,1908年8月少年の溥儀は即位し,宣統帝となる。 皇帝の実父醇親王が摂政となり,光緒帝の皇后隆裕皇太后と並立する形の統治の時代に入る。 不幸なことに彼等もまた困難な時代を乗り切るには全く相応しくない人材であった。 1910年から1911年にかけては,反乱のざわめきが国中の至るところで聞かれていた。 皇帝が自由主義的な思想に譲歩しても,議会制体を樹立して専制政治から制限された君主制へ移行することを約束しても,いっこうに不安の静まる気配はなかった。・・・・・・広東では,後に革命の総帥として名を馳せる黄興のもとで危険な反乱が起り,総督本部が破壊された。 ・・・・・・ ■ シナの国民は清朝など憎んでいなかったとジョンストンは主張する。 シナ国民の間に,西洋的な意味で共和制を樹立したいという要求が全くなかったというのが正しいならば(シナには1924年以来「議会」がなく,不面目な終わり方をした共和制への実験を再び始めようと望む者は誰もいないようである),同じくシナ国民の間に脆弱な政府への不満こそあれ,満州人への「憎悪」など,全く広がっていなかったということも,正しいのである。 ■ ジョンストンは,1911〜1912年に立憲君主制が樹立される絶好の機会があったのにそれを逃したことを惜しんでいる。 袁世凱は幼帝の即位時に,君主制の維持の要求と結びつけてひとつの提案を出せたはずだ。 それは,私が,前述したように,三年前に採用すべきだった類の提案である。 すなわち漢人が委員の大多数を占め,即時に改革を開始できる広範な権限を持つ摂政協議会の任命である。 ■ 袁世凱と孫文について 1898年,袁世凱は光緒帝を裏切った。 そして1911年に宣統帝を裏切った。 さらに1916年には中華民国までも裏切ったのである。 ■ シナ国民にとっての「君主制」と「共和制」 ・・・・・・シナの場合は,旧帝政のほうが,・・・人民は,はるかに多くの自由を享受していた。 そればかりでなく,よりよく統治されていたのである。 孫逸仙は,シナの同朋が君主制下で享受した自由が過大であるので,削減されねばならないと信じていた。 ■ 袁世凱の死(1916年),副総統であった凡才黎元洪の自動的な大総統昇格,1917年の「辮髪将軍」張勲の北京入りと束の間の復辟,段祺瑞将軍による共和派の勝利,段祺瑞を助けた馮国[王章]の大総統就任,段祺瑞国務院総理就任とドイツへの宣戦布告,それに反対する広東の事実上の独立政府(孫文一派)との南北分裂と内戦の始まり,1918年張作霖満州から北京進出, 徐世昌大総統就任, そして彼がジョンストンを溥儀に英語を教える帝師に任命した。 ■ リットン報告書への重大な疑念 1921年当時は,満州の張作霖と,1917年の「皇帝擁立者」張勲との二人が,君主制復活の陰謀の首謀者だと広く信じられていた。 この二つの張家は婚姻関係でつながっていて,二人の間に密接な友好関係があったことはあまり知られていない。 ■ 皇帝の日常生活に関するエピソード
■ 1922年6月皇帝溥儀がジョンストンに紫禁城脱出計画を打ち明ける。 ■ 内乱から11月5日の反乱軍紫禁城占拠と龍(皇帝)の飛翔 1924年秋,長江の将軍たちの争いが張作霖(満州派)と呉佩孚(直隷派)の武力闘争へと発展,呉佩孚(直隷派)が山海関へ進出しようと準備中であった時,呉佩孚の部下であった「クリスチャン将軍」馮玉が反乱を起こし,クーデターによって北京を占拠した。 北京・天津間での馮と呉の戦闘は呉の惨敗に終わる。 ■ 終章 皇帝は数ヵ月間,すなわち1924年11月29日から1925年2月23日まで日本公使館の賓客であった。 死の間際にいた孫逸仙が北京に来た時も,まだ皇帝は公使館にいた。・・・・・・
その後,天津の条約港の人目を引かない日本租界内で,皇帝の長くて物寂しい逗留生活が七年近くも続いた。 ・・・・・・シナの新聞では「反清同盟」すなわち「反満州同盟」を自称する協会が,嘘偽りを並べ立てていた。 日本人は皇帝を口説いて日本に行かせようとしているとか,日本ではシナに対する帝国主義的な計画の政治道具として皇帝を利用するかもしれないとか,皇帝には住居用の宮殿を与える約束までしているとか,などである。 ▲▲ 読後の感想 ▲▲ 全編を通して浮び上がるのは,真面目で愛国心も備えたひとりの青年溥儀のイメージである。 それと対称的に,彼とその地位を利用して私欲と名誉欲を満たそうとする政治家や軍人たちのうごめく姿は醜い。 遥か南方には皇帝という存在が諸悪の根源という単純な思想から,ひたすら抹殺の対象としかみなさない共産主義的活動家(ジョンストンの孫文に対する見方は冷たい)たち。 歴史に「レバ,タラ」はないというが,もし歴史が別の道を辿って,かの地に穏健な立憲君主制が実現していたら,その後の「中国」の近代化と経済発展は何十年も早まっていたのではないかという気がしてくる。 もちろん日本との戦争はなかったはずであり,共産主義に染め上げられて近代化への道を随分遠回りすることもなかったのではないかとも思うのである。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史」 を読む <2000〜2005>発行:小学館(1993年〜) ▲▲ 読後の感想 ▲▲
井沢元彦氏の『逆説の日本史』は2005年現在も「週刊ポスト」に連載中である。 井沢氏は本書の序論の中で,この本は日本史の総点検を目指していると書いている。 日本の歴史のポイントとなる人物や事件を横糸に,縦糸には,歴史学者たちが殆ど無視してきた,日本人の古来からの思考方式や宗教的観念をも動員して,学者たちが描いてきた歴史とは一味違う日本通史を紡ぎ上げているようにみえる。 西洋のキリスト教にあたるものが日本の怨霊信仰(タタリへの恐怖)であると看破し,それが,言霊(コトダマ)信仰やケガレ思想と並んで日本史の重要なキーファクターであるとし,快刀乱麻のごとく日本史の謎を解き明かてくれているのである。 数年前たまたま本屋で見かけて以来,新しい巻が出版されるたびに愛読するようになった。 断片的な既成の知識しか持ちあわせていない私のような素人の歴史好きにとっては,この本を読み続けることによって,新鮮な歴史の見方に目を開かせてもらったと同時に,基礎的な史実の知識を補強するよい機会にもなっている。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 @古代黎明編―封印された「倭」の謎」発行:小学館(1993年)
@ 日本の歴史学の三大欠陥
A 日本はどうして「倭」と呼ばれたのか 日本列島人(原住民)は中国人に国の名を問われて,「ワ」と答えた。 だから中国人はそれを「倭」という漢字で記録したのである。 「ワ」は「輪」「環(circle)」であり,古代日本人は集落(環濠集落)のことを「環(わ)」と呼んでいたのではないか。 そして,それが発展して,その集団における「協調の精神」あるいは「アイデンティティー」のようなものを意味するようになり,その時点で発音の似通った「和」という漢字があてられたのだ。 儒教道徳には「和」という徳目はない。 聖徳太子の十七条の憲法の第一条は「和を以て貴しと為し忤(さか)ふること無しを宗とせよ」,第十七条は「夫れ事独り断(さだ)むべからず。 必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし」である。 これは「話し合い至上主義」であり,菩薩でも仏陀でもないただの人が「話し合い」さえすれば「おのずから道理にかなう」と言っている。 論語学而編の「礼の用は和を貴しと為す」とは全く違う文章である。 「わ」は古代から現代に至るまで日本人を拘束する規範である。 B 大国主命 ― 「わ」の精神で解く出雲神話の“真実” 記紀に大国主命の国譲りとして記されているのは,大和朝廷の先祖(アマテラス)が先住民族に国土献上,即ち無条件降伏をせまり,武力で征服した事実を「無血占領」であったかのように美化して述べたものである。 首長(大国主命)は黄泉の国へ退隠した。 これは戦って自殺したか,処刑されたのであろう。 或る族長(事代主命)は自殺し,或る族長(建御名方)は辺境(信濃諏訪神社)へ追放・幽閉される。 旧約聖書のヨシュア記と対比してみよう。 エホバは,アブラハムとその子孫に「カナンの地」を与えると約束した。 先住民族のことは無視してである。 一方,アマテラスは自分の子孫であるニニギノミコトに,「葦原中つ国」を与えると約束した。 同じく先住民族のことは無視してである。 アブラハムの子孫,ヨシュアは先住民族(ジェリコ,アイetc 人も家畜も全て)を皆殺しにして国を奪った。 一方アマテラスは使者を送って先住民族の王オオクニヌシと「話し合い」をして「自発的」に国土を献上させた。 「旧約聖書」の世界では,その先住民は皆殺しにされ,一方この国では先住民の代表であるオオクニヌシだけが殺され,あとは生存を許された。 この違いはどこから来るのか。 「わ」の精神の発生原因は,霊の復讐つまりタタリを恐れる心,できるだけ人が死ぬような争いは避けようという発想である。 その「わ」信仰を強固なものにするきっかけとなったのがオオクニヌシの死であったと確信している。 平安時代の『口遊(くちずさみ)』という書に「雲太,和二,京三」という言葉がある。 日本の三大建築物を意味している。 雲太とは出雲太郎の略で出雲大社,和二とは大和二郎で東大寺大仏殿,京三は京三郎で京の大極殿である。 古い言伝えによれば,出雲大社の高さはもともと32丈(96m)あり,そのうちに16丈(48m)になったとされている。 一方東大寺の方は15丈(45m)だったと古い記述がある(現在の東大寺は52m,出雲大社社殿は24.2m)。 【読者注: 平成12年,拝殿北側地下の発掘飼査により,伝え継がれてきた巨大な神殿を造っていた御柱の検出が行われた。 太い柱は3本の杉の巨木を束ねて1本として立てられていたことが判明した】 反逆者のボスを祀る神殿が仏教の総本山よりも,アマテラスの子孫である天皇の御所よりも高いのはなぜか。 それはオオクニヌシのタタリを恐れたからである。 オオクニヌシは出雲族の代表者である。 放っておけば大怨霊になりかねない。 だからこそ丁重に祀る必要があったのだ。 日本一の大怨霊を祀るためには日本一の大神殿が必要だったのである。 その神官(出雲国造家)もただの人ではない。 アマテラスの子孫なのである。 出雲大社は「霊魂の牢獄」,「死の宮殿」である。 参拝者からは見えない大社の本殿内部図を見ると分かる。 天之御中主神をはじめ大和朝廷の五神が正面を向いて(南面)鎮座し,その右に大国主命が鎮座する。 しかし大国主命は正面を向かず,西(黄泉の国)を向いている。 つまりそっぽを向いているのである。 大和の五神は大国主命を監視する役目を持って祀られている。 注連縄の張り方も普通の神社の張り方とは左右が逆になっている。 死者の着物を「左前」にするのと同じである。 拝礼の仕方も一般の神社の「二礼,二拍手,一拝」ではなく,「二礼,四(死)拍手,一拝」である。 「出雲」の「雲」は死の象徴であろう。 C 卑弥呼は殺害された 古代人の考えによれば,天災,飢饉,疫病,戦争の敗北その他人災もすべて王者の責任である。 卑弥呼は狗奴国との戦争の敗戦責任を問われて殺された。 霊力が衰えたとみなされたためである。 その日は紀元248年9月5日,日本で皆既日食が見られた日である。 「卑弥呼」は名前ではなく「日御子」か「日巫女」のような称号であろう。 その前の皆既日食は紀元158年7月13日にあった。 それ以来女王は太陽神に基づく霊力を持つと考えられるようになったのではないか。 アマテラスの「天の岩戸隠れ」は日食とヒミコの死を反映したものである。 D 神功皇后 ― 邪馬台国東遷説を裏付ける宇佐神宮の拝礼礼法 神功皇后は「神功王朝」の始祖である。 「神」の名を与えられた三人の天皇。神武・崇神・応神,この三人以外に,しかも天皇でもないのに「神」の名を与えられているのは神功皇后ただ一人である。 万世一系(男系)という建前上始祖とは書けない。 『記紀』の上では神功皇后は仲哀天皇の妃で二人の間の息子が応神天皇ということになっている。 しかし,応神天皇の本当の父は史書の上からは抹殺されていると考える。 「三王朝交替説」を提唱した早大名誉教授の水野祐氏は仲哀と応神はそれぞれ別の王朝の王だと考えている。 神功皇后は仲哀―応神という架空の系譜を真実のように見せかけるために「創作」された存在であるとみなす。 基本的にこの見解に私は異存はない。 ただ,「つなぎ」であるなら単なる「皇后」で充分であり,「神功」である必要はない。 それでもなお,この皇后を架空の「三韓征伐」の英雄として持ち上げたのは,単なる仮託ではなく,この女性が「神功王朝」の始祖であることが強く意識されたからだと思う。 水野説では,邪馬台国は北九州にあったと考える。 しかし女王国は南九州の狗奴国に滅ぼされ,狗奴国の手によって統一されたとする。 そして,その同時期に大和(近畿)ではもう一つの女王国が誕生していた。 これを水野氏は「原大和国家」と呼ぶ。 その原大和国家の王であった仲哀が「熊曽,実は狗奴国」を征伐するために九州に遠征したが,逆に敗北し自らは討ち取られてしまった。 その勝利者が応神天皇であり,その息子の仁徳天皇は九州から難波(大阪)に遷都した。 そして征服者として,大和と九州の二つの力を動員してあの巨大な天皇陵を造営したとするのである。 ちなみに,応神は九州で亡くなったが,後を継いだ仁徳は父の墓を難波に造らせたとするのである。 以上が水野説つまり「狗奴国東遷説」ともいうべきものの骨子である。 水野説の優れている点は,四世紀末から五世紀にかけて,難波の地に突然巨大な前方後円墳が出現した理由を無理なく説明できることだ。 しかし私は東遷したのは狗奴国ではないと考える。 東遷説の根拠を整理すると
八世紀,称徳女帝が弓削道鏡に皇位を譲ろうとした時,その行為が正しいかどうか神託(神のお告げ)を求めようということになった。 この時女帝は大分県にある宇佐八幡に,和気清麿を使いとして送ったのである。 八幡神の御告げは「日本は開闢以来,君臣の分が定まっている。 皇室の血統でない者を位に就けてはならない」というものだった。 自分の意に染まぬ神託を持ち帰った清麿に,女帝は激怒し,厳罰に処した。 そもそも,女帝はなぜ祖先神アマテラスを祀る伊勢神宮ではなく,わざわざ九州の宇佐八幡へ使いを送ったのか。 宇佐八幡の祭神は三柱,一之御殿には応神天皇,二之御殿には比売大神,三之御殿には神功皇后が祀られている。 八幡神は皇室の祖先であり,一位の位を贈られている。 そして応神天皇の神霊であることは当時から認められていた。 ところが社殿の配置は下図のようになっている。 この配置は本当は「比売大神」こそ主祭神であることを示している。
三之御殿に神功皇后が祀られるようになったのは,平安時代もかなり下った弘仁14年(823年),突然神託があったためという。 比売大神について,宇佐神宮側では三人の女神だと言っている。 その根拠は『日本書紀』にある。 「神代上」の一書にあるという注釈付きで,「市杵嶋姫命,湍津姫命,田霧姫命の三女神が宇佐嶋に天降った」という話が紹介されている。 しかし,「比売大神は三女神のことである」と明記されているわけではない。 この三女神は『書紀』において,「日神とスサノオ(素戔鳴命)の子供」であるとされている。 魏史倭人伝によると邪馬台国における卑弥呼には「男弟」がいて補佐していた。 私はアマテラスは神格化された卑弥呼であると主張してきた。 すると次のような対比関係が成立する。
これらのことから必然的に導き出される答え:比売大神=ヒミコ である。 神格化されたアマテラスを祀ったのが伊勢神宮で,その,もともとの実体を祀ったのが宇佐である。 アマテラスという「神霊」は霊であるから全国各地へ移動させることができるが,ヒミコという「実体」は,一つしかないから,移動はできない。 例えていうならば,伊勢は「仏壇」で,宇佐は「墓」なのである。 私はヒミコは殺されたと考えている。 だとしたら,ヒミコは確実に,オオクニヌシ並みに祀られているはずだ。 しかも,不幸な死を遂げた場所,あるいは墓のごく近くで。 そういう条件に当てはまるところを探していくと,この宇佐しかない。 応神・神功は「第二次大和朝廷」の始祖である。 もとは九州にあった「邪馬台国」が東遷して「原大和国家」を滅ぼして統一国家を作った。 その始祖を出身地で,新たに大々的に祀り直したのが宇佐神宮であるということだ。 別の言い方をすれば応神・神功は邪馬台国の「中興の祖」なのである。 E 天皇陵と朝鮮半島 ― 日本人のルーツと天皇家の起源 日本の古代史を解明する決め手は「天皇陵」とよばれているものの調査研究である。 天皇陵は古代以後かなり長い期間,ぞんざいに扱われてきた。 天皇家が実質的な権力者の地位からすべり落ちたからである。 中世においては,天皇陵は荒れ放題,どれがどの天皇の墓か分からなくなっていた。 ところが江戸期に入って,徳川幕府が政治の哲学として採用した朱子学が盛んになるにつれ,尊王(勤皇)思想が起った。 「『日本書紀』に載っている天皇の陵がないのはおかしい」という「信念」が生れ,その「信念」が天皇陵を次々と捏造していった。 明治政府もそれを受け継いで,当時の学問水準で強圧的に天皇陵の比定を行った。 今日の水準から見ればかなりの疑問点がある。 数多い天皇陵の中で,被葬者が判明しているのは天武・持統陵だけだと言う人すらいる。 にもかかわらず国(宮内庁)は天皇陵の発掘調査どころか,考古学者の立ち入りすら一切拒否している。 『書紀』によれば,古代の日本の天皇家が「内官家(うちつみやけ)」という領地を,朝鮮半島の一角に持っていたと考えられることである。 この「内官家」は任那日本府とも呼ばれ,戦前の歴史では,日本が朝鮮半島に進出し一種の「飛び地領」を持っていたと解釈されてきた。 任那という言い方は正確ではない。 むしろ加羅(伽耶)と呼んだほうがいい。 ただ加羅は新羅・百済・高句麗三国時代まで生き延びられなかったので印象がいかにも薄い。 しかし,「内官家」はが天皇家にとって極めて大切なものであったことは,『日本書紀』の中の欽明天皇の遺詔にも敏達天皇の詔書にも「新羅を討って任那を封建せよ,とか,任那を復興すべし」とあり,実際に軍を送ろうとしたこともあったことからも分かる。 「内官家」(任那あるいは加羅)は天皇家にとっての「ノルマンディ」ではないか。 「ノルマンディ」とは1066年イングランドに侵入してノルマン王朝を建てたウィリアム一世の故地である。 作家豊田有恒氏は天皇家のルーツは朝鮮半島南部にありと考える。 桓武帝の生母が百済系帰化人の子孫の高野新笠(たかのにいがさ)であることは,日本史の常識である。 後醍醐天皇の側近北畠親房の書いた『神皇正統記』には 「昔日本ハ三韓ト同種也ト云事ノアリシ,カノ書ヲバ,桓武ノ御代ニヤキステラレシナリ」 と書いてある。 この「天皇家日本侵入仮説」の考証には天皇陵や陵墓参考地の調査が有効な手段になると思う。 天皇家の祖先が朝鮮半島から来たとすると,その時期はいつか。 そのことを『記紀』ははっきりと語らないのはなぜか。 古代,大和朝廷は三韓のうちの百済と仲がよかった。 天智天皇は百済再興のために大援軍まで送ったほどである(白村江の敗戦)。 「内官家」は新羅に奪われた。 新羅は唐と組んで百済まで滅ぼしてしまった。 新羅は唐と同盟を結んでから,唐の歓心を買うためであろうが,服装や年号を唐のものに改めた。 おそらく名前も中国風に「創氏改名」するように強制したに違いない。 「韓国民族の感性」から言えば「外国に魂を売った民族の裏切り者」というところであろう。 ちなみに百済はそういう中国式「創氏改名」はしていない。 新羅の武烈王(金春秋)の採った政策は,超大国唐と陸続きの小国の王としては当然のことであろう。 しかし百済や日本にとっては新羅は「売国奴」になる。 新羅の方も日本の報復を恐れた。 武烈王の息子文武王の「海中陵」はそのために造営されたものであろう。 【読者注:天武・持統朝は親・新羅であったにせよ,『記紀』に,天皇家の祖先は朝鮮半島から来た,と書くのは憚られたので,神話にかこつけ「高天原」を創作したのではなかろうか。】 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 A古代怨霊編―聖徳太子の称号の謎」発行:小学館(1994年)
@ 聖徳太子自殺説 1868年(慶応4年)8月26日,明治と元号が変わる,わずか12日前に,天皇の勅使が讃岐の崇徳天皇陵に派遣された。 これは怨霊鎮魂の使者である。 明治天皇が勅使の大納言源通富に命じて陵の前で読み上げさせた宣命からは,朝廷がひたすら崇徳天皇の御機嫌をうかがい,現実の戦争を崇徳天皇の霊力にすがって勝とうと考えていること,そして孝明天皇の死を崇徳天皇のタタリと関連させて考えていることである。 古代において,はじめて大陸から「聖徳」ないしは「徳」という言葉が伝わった時は,やはりその通りの意味で,たとえば第4代懿徳天皇(実在には疑問があるが)とか,第164代仁徳天皇は,この本来の意味で名付けられたのだろう。 もちろん本人に「徳」があったかどうかは別の問題である。 しかし,古代のある時期から,無念の死をと下駄怨霊(あるいはその予備軍)に贈られる「専用」の字になった。 それが「聖徳」と呼ばれた天皇クラスの人からだとしか考えようがない。 「徳の字追善方式」は順徳をもって終わった。 その鍵は「後鳥羽上皇」が握っている。 後鳥羽上皇という人は個性的な,アクの強い人だった。 源実ともが暗殺され,源氏の直系が絶えたのをきっかけに承久3年(1221年)倒幕の兵を挙げるが敗北(承久の乱),隠岐島へ流罪になる。 死後4年間は「顕徳」院と呼ばれていたのであるが,怨霊がタタリをなしたので「後鳥羽」というむしろ平凡な号が与えられた。 つまり崇徳天皇以来その効力が薄れてきたと考えられたのである。 A 天智天皇暗殺 天智天皇の死について,正史の『日本書紀』では671年(天智10年)近江宮で病死したことになっている。 『日本書紀』は天武が発案し天武ファミリーによって完成された御用史書である。 天智天皇の死については,これと全く別の話が伝わっている。 『日本書紀』からおよそ四百年後の平安末期に,皇圓という僧が書いた『扶桑略記』という本では, 【 読者注:落ちていた沓のあった所に墓を築いた話は楊貴妃の墓の由来とよく似ている。 】 これを信じる限り天智天皇は暗殺されたと考えるのが最も妥当な結論である,と言える。 皇円は天台宗の阿闍梨で,法然の師でもあった人である。 天台宗の総本山は延暦寺であるが,他にもう一つ総本山があって,それは滋賀県大津市にある三井寺(園城寺(おんじょうじ))である。 この寺は大友皇子の息子与多王(天智の孫)の創建である。 当然,大檀那の天智ファミリーについて,他では得られない情報を得ることができたはずである。 「遠乗りに出かけて消えてしまった」というような,天智にとってあまり名誉でない話を,わざわざデッチ上げるはずがない。 また四百年という時間は「ほとぼりがさめる」まて,書いても処罰されないために,どうしても必要な時間だったのであろう。 天智天皇は「正史」に墓の所在も埋葬年月日も殯の期間も,一切書かれていない唯一の天皇である。 これは書き落としではなく故意に書かれなかった。 天武一家の「大本営発表」に天武が天智を殺したと書けるはずがないからである。 なぜ天智は殺されたのか? それは当時の国際情勢に原因がある。 新羅は唐と連合して百済・高句麗を滅ぼして668年朝鮮半島を統一する。 朝鮮半島を支配下におきたい唐と統一新羅は対立するようになる。 日本は唐の侵攻を恐れ防備を固める(九州の水城と大津への遷都)。 朝鮮半島に独立国があれば日本は直接唐の脅威に晒されることがなく安全である。 その為には日本としては昨日の敵新羅と手を結ぶのが得策である。 しかし天智は強烈な親百済・反新羅派である。 唐は671年日本に郭務悰を将とする二千人の軍団を送り,白村江の捕虜を返還する代償に朝鮮半島に駐留する唐軍への支援のための出兵を求めて来た。 日本側の反新羅政権は唐との同盟締結を受け入れる方針であった。 朝廷内に置いたスパイ(栗隈王)によってそのことを知った親新羅派のボス大海人(のちの天武天皇)が天智天皇を暗殺したと見られる。 B 天武天皇と持統女帝―持統王朝― 大海人皇子(のちの天武天皇。 天智天皇の異父兄か。 史書はごまかしているが年齢は天智より上)が天智を“暗殺”し,壬申の乱(672年)を経て天武天皇として即位する。 かくして天智天皇系から天皇位を“奪い取って[易姓革命]”から,天武系の天皇が8代,7人,約百年続く。 大海人皇子は恐らく父親が皇族ではなく(新羅人説,混血児説もある),本来ならば皇位に就く資格のない人間であった。 皇后の[盧+鳥]野皇女(うののひめみこ)は天智天皇の第二皇女である。 彼女は甥の大津皇子を殺してまで皇太子にした息子の草壁皇子が若くして病死したため,その子(彼女にとっての孫)の軽皇子(のちの文武天皇)を皇位に就けるため,自ら即位して持統天皇となる。 天皇の諡号は死後贈られるもの。 森鷗外の労作『帝諡考』によると,天智とは殷の紂王の持つ天智玉(宝石)由来するとのこと,天武は周の武王の言葉「天作武・・・(天は武王をたてて・・・)」からきている。 紂王は史上最悪の暴君であり,殺されるべき男であった。 一方,「武」とは「乱世を安定」させた者に贈られる諡号なのである。 持統という諡号にも意味がある。 『帝諡考』によると,「・・・雖夏啓周成繼軆持統(継体持統)・・・」(夏を啓き周成ると雖も軆を繼ぎ統を持し)から来ている。 持統天皇は天智の娘であるから母系には脈々と天皇家の血筋が残る。 しかし,天武天皇は本来皇位を継ぐ血筋ではないが故に,持統天皇は彼と他の妃との間の子は徹底して排除しようとした。 この方針に藤原氏は一族を挙げて協力し,持統系の男子を皇位に就かせた後は,その皇后を藤原氏から出すという見返りを求めた。 そしてその皇后が生んだ男子を次代の天皇にし,藤原氏はその外祖父になるという権力構造を作り上げた。 藤原氏は持統王朝は称徳女帝でいったん滅亡するが,この構造はその後も受け継がれ,それが平安時代の藤原氏の栄華につながっていく。 持統がやっと皇位につけた文武天皇はしかし僅か25才で若死する。 そこで藤原不比等の工作により,文武の子の首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を皇位に就けるため,草壁の妃で文部の母,安閇皇女(あべのひめみこ)が即位して元明天皇になる。 そして首皇子が元服(十四歳)した段階で,娘の氷高内親王に位を譲る。 これが元正天皇である。 そして首皇子が24歳になった時,位を譲る。 持統から孫の文武への譲位は『書紀』の中のアマテラスの孫ニニギノミコトの天孫降臨神話によって正当化されている。 律令制度を整備し,『日本書紀』の編纂にも積極的にかかわったブレーンとして,またKGBとして,持統系王朝を支えた藤原不比等は,自分の娘の宮子を文武の妃に,同じく光明子を聖武の妃に送り込み,四人の息子,武智麻呂・房前・宇会・麻呂は藤原四家の祖となり,藤原氏繁栄の基礎を築いていく。 694年持統は「藤原京」に遷都する。 「藤原」という姓は「藤原」氏自身が考案し,持統に働きかけて,新都の名としたうえでもらい受けたのではないかと思う。 そして箔をつけるために,天智の代に既に鎌足がもらっていたという形で「正史」に記載させたのではないか。 元明天皇のもう一人の娘,吉備内親王は長屋王の妃である。 長屋王(684年〜729年)は天武の非持統系の皇子,高市皇子の息子であり,母は天智天皇の娘御名部皇女。 720年の藤原不比等死後は右大臣に昇進,政権のトップに上り詰めた皇族である。 【 読者注:大山誠一著 『<聖徳太子>の誕生』によれば,長屋王木簡の考察によると長屋王と吉備・氷高内親王の家政機関は融合しており,そして元明女帝の日常はむしろ娘たちと親密な関係にあった。 おそらく長屋王は自身の即位は諦めていなかったろうし,それが不可能でも子の膳夫王の即位は期待していたに違いない。 元明女帝は不比等と長屋王という二人の権力者の激しい確執の狭間で心身をすり減らし,遂に譲位を決意する。 しかし,その相手は不比等の望んだ首皇子ではなく,娘の氷高内親王であった。 これは長屋王の意向によるものであった。 しかし721年,拠り所であった元明太上皇が亡くなると「長屋王政権」は力を失い,不比等の嫡子武智麻呂の推す首皇子が即位する。 】 C 東大寺と大仏の建立は怨霊の鎮魂のため 奈良の大仏は752年の創建当時世界最大の金銅仏であった。 完成までに12年以上の歳月を要した一大事業である。 その上741年には全国に国分寺を造営する詔勅が出されている。 これらは聖武天皇・光明皇后の意志によるものである。 聖武天皇(701年〜756年)は光明子との間に一度は基(もとい)王という男子が生れたが一年後の727年に病死する。 ほぼ同時期に,夫人(ぶにん)の県犬養広刀自が安積(あさか)親王を産んだ。 しかし藤原氏の血をひいていない安積親王を聖武は後継者として認めず,738年 先に生れていた基王の姉21歳の阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)を皇太子に指名する。 安積親王は744年 17歳で急死する。 事実は藤原氏による暗殺である。 藤原氏はそれに先立ちもう一つ手を血で汚している。 長屋王の変である。 長屋王はなお安積親王に次ぐ非藤原系の有力な皇位継承候補だった。(※ 正史『続日本紀』には「長屋王」と書かれるが,事件から百年後に書かれた「霊異記」には「太政大臣長屋親王」とある。 発掘された邸宅跡から「長屋親王」と書かれた木簡が出てきたことで親王(天皇の子)待遇を受けていたことが分かった。 太政大臣も死後追贈された可能性がある) これより先,藤原氏は皇位を藤原系で独占するため,聖武の夫人であった光明子を皇后に格上げすることを考え,反対する長屋王に謀反の罪を被せて自殺させた。 デッチ上げの「犯罪容疑」は光明子の産んだ「基親王を呪い殺した」というものであった。 犯人は藤原四兄弟である。 これだけ汚い手を使って長屋王とその妻子を皆殺しにしたにもかかわらず,光明皇后はついに男子を産むことができなかった。 あせった藤原氏は武智麻呂と宇合の娘を一人づつ聖武の夫人としたが,彼女たちも子を産むことができなかった。 藤原四兄弟はどうなったか。 天平四年(732年)から九年にかけて,旱魃・不作・飢饉・地震が起り,外交関係が悪化し,疫病が大流行した。 そしてわずか四ヶ月間に藤原四兄弟は天然痘にかかって次々と死んだのである。 当時の人はこれは長屋王の怨霊のタタリと考えた。 当時の常識からいうと,怨霊側から見れば光明子も同罪である。 彼女は聖武に国分寺・国分尼寺の建立を,次いで総国分寺としての東大寺に大仏を建立することを強く勧めた。 聖武とて藤原の血を引いている。 彼自身も病弱である上,祖父の草壁,父の文武,子の基王とも若死している。 呪われた家系と感じたはずである。 誰に? 大津皇子,長屋王,安積親王にである。 この悪因縁を消すにはよほど強大な宗教の呪力に頼らねばならないことになる。 つまり「国家鎮護」の建前で「怨霊封じ」を行った光明皇后の恐怖が大仏造営の背景にある。 東大寺の前身は光明子が基王の菩提を弔うために営まれた金鐘寺という小さな寺である。 それが天平十四年(742年)頃から大和の国分寺に充てられて金光明寺と呼ばれるようになり,天平十七年(745年)その寺地で大仏造立が始まり,やがて東大寺という大伽藍に編入されたもの。 東大寺にしてみれば皇后は設立の大恩人であり,「聖女伝説」が作られたのであろう。 古代中国では「子孫の祭祀を受けられない人(霊)がタタる」というのが怨霊信仰であった。 それが日本にも伝わった。 オオクニヌシノミコトを祀る出雲大社,聖徳太子を祀る法隆寺の例に見ることができる。 長屋王から「無実の罪で殺された政治家」が怨霊になる人物の条件になった。 そして,大仏は長屋王の怨霊に勝てなかった。 聖武の娘,称徳女帝で持統王朝は断絶したからである。
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 B古代言霊編―平安建都と万葉集の謎」発行:小学館(1995年)
@ 道鏡と称徳女帝 平城京が捨てられた理由は,大仏をはじめとする莫大な投資にもかかわらず,(長屋王の怨霊を鎮めることもできず)肝心の「国家鎮護」,具体的には「天皇家の安泰」に何の役にも立たなかったからである。 それどころか造仏者(施主)の聖武には男子が生れず,そのあと娘の代(称徳天皇)で「御家」は「断絶」してしまったのである。 平城京は天皇家にとって所謂「家相の悪い家」だったのである。 桓武は即位後ただちに大背国乙訓郡長岡村の地に長岡京を着工させている。 ところが造営長官の藤原種継(藤原百川の甥)が暗殺される。 この事件は,遷都反対派の大伴一族の犯行とされた。 一族の氏上(うじのかみ)大伴家持(早良親王の春宮大夫(とうぐうのだいぶ)であり,歌人)は事件の二十日ほど前に病死していたが,官位を剥奪されて庶人の位に落され,遺体を土葬することすら許されず,事実上の氏上大伴継人は斬られ,皇太子早良親王(桓武の同母弟)も廃太子されたうえに流罪となった。 早良親王は無実を叫んで食を断ち護送途中に憤死した。 しかし,遺骸はそのまま流刑地の淡路島へ送られた。 桓武(山部親王)と早良親王は異なる育ち方をした。 彼等の母高野新笠は帰化人の子孫であり,天皇位などは本来転がりこんでこないと思われていた。 両親(光仁と高野新笠)は,桓武(山部)は将来臣籍に降下し官僚としての道を歩ませ,弟の早良は僧侶となる道を歩ませた。 早良は東大寺で修行し,のちに東大寺の初代別当(長官)良弁の後継者に指名され,東大寺を代表する立場にいた。 運命のいたずらで父光仁が天皇になったため,早良は還俗して兄桓武の皇太子となった。 これは光仁の強い要望による。 自らの政権基盤が極めて脆弱と考えていた光仁は,東大寺に「強い」早良が天皇になれば仏教勢力を味方につけることができ,政権は安定すると考えたのであろう。 しかし安殿(あて)親王(のちの平城天皇)という息子があり,平城京と決別しようとしていた桓武にとって父の配慮は「有難迷惑」以外の何物でもなかった。 このような状況のもとで,種継暗殺事件は起った。 桓武は腹心の種継は失ったものの,新都建設反対勢力を一掃できた。 しかし問題はその後に起きた。 早良が怨霊と化してしまったのである。 桓武の周囲には不幸が相次いだ。 788年(延暦7)には夫人の藤原旅子が死に,以後母の高野新笠,皇后藤原乙牟漏が次々と没した。 しかも,この間蝦夷との戦いにも敗北した。 だが,それより桓武を悩ませたのは,弟の早良を廃して皇太子に据えた安殿親王が病気がちなことだった。 そして桓武は,これらの不幸が早良の怨霊の仕業ではないかと意識し始めた。 無実の罪で憤死した長屋王が,犯人の藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇会・麻呂)を殺したうえに天武王朝を断絶させたことを,知っていたからだ。 桓武はまず祖霊神であるアマテラスに安殿の病気平癒を祈ったが効果はない。 ついに桓武は陰陽師にその原因を占わせたところ,早良のタタリと出た。 792年(延暦11年)のことである。 これより桓武の怨霊対策が始まる。 この間794年(延暦13年)には平安遷都という大事件があった。 私は平城京から長岡京を経て最終的に平安京へ遷されたことは,怨霊信仰の結果によるものと見ている。 しかし歴史学界ではそうは見ていない。 もちろん,私はA説をとる。 AとBは同じものである。 平城京は天皇家にとって「家相の悪い家」だったのである。 長岡京に「家を新築」しようと思ったが,それも洪水というケチがつき,調べてみると「怨霊の仕業」であることがわかった。 ならば,もっといい所,すなわち「家相の良い家」に引っ越そうと考えるのは当然ではないか。 家相の良い都とは何によって判断されるか? 平安京は「風水説」によって設計された都である。 東西南北に四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を象徴するものがある。 平安京の中心を南北に走る朱雀大路は,船岡山山頂から真南を向いて引かれる線に重ねてその位置を決定された。 「気」の集中する場所,「龍穴」の上に重要な建物や先祖の墳墓を築くと,気のパワーによって「莫大な幸福を招く」ことができると風水術は教える。 内裏(天皇の居住区域)はまさにそのような位置に設定されている(現在の上京区千本通丸太町上る西側の内野児童公園内に「大極殿遺址碑」の記念碑が立つ)。 具体的には,船岡山から南下する縦軸と,将軍塚・神護寺を結ぶ横軸が交差する位置に内裏がある。 将軍塚とは,平安建都の際,王城鎮護のため粘土で作った武将像を西方(都方面)を向かせて埋めた,と伝えられる地点である。 この塚は「ちょうど冬至の日出」の位置にある。 神護寺はそれと逆に「ちょうど夏至の日入り」の位置にある。 ここには桓武天皇のブレーンである和気清麻呂の墓がある。 風水のことを日本では「陰陽道(おんみょうどう)」といい,それを司る人々を陰陽師と呼ぶ。 そして肝心なことは,当時の人々はこの陰陽道のことを「科学」だと信じていたことである。 平安京は怨霊からのシェルター,結界なのである。 陰陽道で最も不吉な方角とされる艮(うしとら)の方角,つまり鬼門には比叡山延暦寺がある。 元号を初めて寺号に使うことが許されたのが延暦寺である。 この寺は最澄が開創したころは比叡山寺と呼ばれていたが,桓武の子の嵯峨帝によって「延暦」を寺号として許された。 平安京の鬼門にあたるゆえに桓武は最澄を可愛がった。 最澄を桓武に引き合わせたのが和気清麻呂といわれている。 こうして桓武の「知遇」を得た最澄は,唐からの新しい仏教の導入を期待され,803年(延暦22年)二十五年ぶりの遣唐使の一行に加えられることになる。 この一行にひょんなことから加わることを許された若き無名の留学僧空海がいた。 還学僧である最澄は桓武に期待されていたがゆえに,短期間で帰国しなければならなかった。 それで当時盛んになりつつあった密教を完全な形で学ぶことができなかった。 空海は自由に動けたために,密教の奥義を極めることができた(密教の第七祖である恵果阿闍梨から灌頂を受け,密教の正統後継者となる)。 空海が帰国したとき桓武は既に世を去っていたが,息子の嵯峨天皇は空海を優遇し,平安京の東寺を空海に与えた。 密教が優遇された理由は,密教が加持祈禱を中心とした呪術的色彩の強いものであり,加持とは「仏の加護によって,人が病気や災難から救われるように祈ること」である。 日本の伝統的な考え方では,病気や災難は怨霊の仕業なのだから,加持とは「怨霊封じ」に他ならない。 792年(延暦11)桓武は「正規軍」の廃止という,空前絶後の政策を実行する。 徴兵制による軍団を廃止し,健児(こんでい)という専門兵士の集団に変えたのである。 律令制度における軍団制は全国の正丁の三人に一人が徴兵されるというものだったが,健児は地方の郡司の子弟に,諸国の国府や武器庫を守らせるもので,その数は全国で僅か3,155人,しかもこの制度は平安時代の中頃より以前に自然消滅してしまう。 この「健児」制は当時の憲法にあたる律令を改正して設けたものではなく,「太政官符」という一片の通達で行ったものである。 この「徴兵制の放棄」と「平安建都」とは,実は,一体の出来事である。 792年の「正規軍」の廃止には但し書きがついていた。 「辺要の地を除いて」というものだ。 辺境の軍団は残したのである。 辺境とはどこか。 東北地方である。 そこには蝦夷がいたからである。 桓武という帝王は,この蝦夷に対する侵略を最も大規模に進めた人なのである。 いわゆる蝦夷征伐である。 なぜ蝦夷征伐に桓武は熱心だったのか? 東北地方は平安京から見て「鬼門」の位置にある。 「鬼門」という言葉は外来のものであるが,日本には「鬼門」以前に,東北の方角を不吉とする信仰があった。 古来,東北の隅は「日之少宮(ひのわかみや)」のある所で犯すことができないとされていた。 桓武は何よりも天皇家の安泰と繁栄を願った。 それを邪魔する怨霊という敵に対しは「逃げるが勝ち」という作戦をとった。 しかし敵が「生身の人間」ならば禍根を断つためにも殺してしまうのが一番いいということになる。 桓武には「天皇家を滅ぼすのは北方の蝦夷」ではないかという恐怖があった。 しかも蝦夷は和人ではなく,同じ人間とみていなかった。 だから殺しても怨霊にならないという確信があったのであろう。 平安時代以前の朝廷は血で血を洗う抗争の歴史である。 しかし平安以降は「殺人」が激減する。 平安時代の大半にあたる約四百年間,公式には死刑が一度も執行されなかったのである。 最大の原因は刑死者の怨霊化を恐れたからであろう。 B 万葉集と言霊 言霊(コトダマ)とは,『万葉集』の基本概念であると同時に,現代の日本人をも拘束する「信仰」でもある。 コトダマとは言葉に霊力のことであり,口に出したことは実現するという信仰である。 例えば,ハイジャックの際に,「人質に死者が出てもやむを得ない」と発言すると「アイツは人質の死を望んでいるんだ」と受け取られてしまうのである。 口で平和,平和と唱えていれば戦争は起きないという信仰もそれである。 中国から来た習慣だが,昔は人には名前が二つあった。 諱(いみな)と字(あざな)である。 イミナは今でいうと本名だが,「忌み名」というぐらいで実際には口にできない。 自分で言うのは構わないが,他人は呼べない。 それでは不便なので,他人が呼ぶときの専用の名を別に用いる。 これがアザナ,今でいう通称である。 名奉行遠山景元も生前「景元」と呼ばれたことはないはずで,「お奉行様」,「左衛門尉殿」といった職名・官名で呼ばれるか,アザナの「金四郎」あるいは姓の「遠山」で呼ばれたはずだ。 ところが,彼が死者の列に入った後は,遠山金四郎でなく遠山景元と呼ばなければならない。 どうしてこういう使い分けがあったのが。 私の考えではおそらくコトダマが原因だろう。 本人をアザナで呼んでしまうと,幽界から出てしまう恐れがある。 明らかに断言できることは,古代の人々が名のタブーというものを信じ恐れていたという事実である。 『万葉集』を,それも最も早く成立した原万葉集ともいうべき巻一・巻二を読むと,巻一には長屋王(天武天皇の子の高市皇子の子。 藤原氏(恐らく聖武・光明夫妻も承認)により一族もろとも誅殺された),巻二には大津皇子(天武天皇の息子.持統天皇により処刑された),有馬皇子(幸徳天皇の息子,中大兄皇子の甥で,彼により処刑された)ら無実の罪を着せられ悲運の最期を遂げた人々の歌が収められている。 無実といっても公式に取り消されたのではない。 もし無罪を認めると,彼等を殺した当時の天皇・皇后・皇太子たちの行為が誤っているということになり,「国家の論理」が貫徹しない。 この,いわば「犯罪者」で「化けて出そうな」人々の歌を載せた『万葉集』が連綿と語り継がれ,次ぎの時代にできた勅撰の『古今和歌集』は『万葉集』を継ぐ歌集であることを宣言している。 『万葉集』のそもそもの編者は誰かは不明である。 しかし,それを現在の二十巻の形式に最終的にまとめ上げたのは,大伴家持である可能性が高い。 大伴家持は同時代の人にとってはどんな人物か? 家持は桓武天皇の弟で皇太子の早良親王の春宮大夫(とうぐうのだいぶ),今でいえば侍従長であった。 家持は「早良親王反逆事件」の首謀者の一人として「極刑」に処せられているのである。( 実際は事件の二十日ほど前に病死していたが,死後に官位を剥奪されて庶人の位に落され,息子の大伴継人が斬られた ) 「犯罪者」の汚名がすすがれたのは,桓武が死の直前806年に,事件に連座した人たちの官位を回復してからである。 『国史大辞典』には,「・・・巻一前半部が持統天皇の発意により文武朝に編纂され・・・」とあるが,それはあり得ない。 『万葉集』の巻一・巻二が仮に飛鳥・奈良時代に完成していたとしても,それはあくまで私的に秘密裡に造られたものであって,世に出ることはなかったと考えられる。 ところが,天武・持統王朝は奈良の都をもって終わった。 天智系が復活したのである。 光仁即位(770年)以降なら,こういう歌集も公表は可能だ。 このあたりは完全な推測だが,おそらく「原万葉集」にあたるものは,当時著名な歌人でもあった家持のの手に入り,家持はこれに自分や一族の歌,さらに地方で採集した歌などを加えて,一大歌集として完成させていたのではないか。 完成させることと,それを公表(公刊)することは別のことだ。 これがいつ世に出たか。 それは桓武の死つまり806年以降でなければならない。 桓武が種継事件に連座した家持らの罪を許し名誉を回復させたのは怨霊を恐れ,鎮魂するためである。 だとしたら,『万葉集』の公刊もその目的に添ったものと考えればよい。 時代は下るが,大久保彦左衛門の『三河物語』も公刊されたのは明治になってからである。 「原万葉集」は,柿本人麻呂の歌を含め全体のの4割が「挽歌」,即ち「人の死を悲しむ歌」である。 梅原猛氏は『水底の歌』で次のように説く。
紀貫之は『古今和歌集』の仮名序で,人麻呂は歌聖だと述べている。 それに続く部分で,柿本人麻呂と山部赤人の歌の技量は甲乙つけがたい,とも述べている。 歌が上手だから歌聖とされたのではない。
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 C中世鳴動編―ケガレ思想と差別の謎」発行:小学館(1996年) @ 六歌仙は,単純に歌の優劣で選ばれたものではなかった。 六歌仙は政治的な敗者,つまり怨霊である。 うち五人は皇位継承者の争いで敗者側にいた人たち,或いはいたのではないかと思われる人たちである。
A 謎の女性小野小町 惟喬親王が出家して素覚法師と名乗って隠棲した場所は,比叡山の西麓小野の里である。 ここは小野氏発祥の地で小野妹子の墓や“小町の祖父”小野篁を祀った神社もある。 作家高橋克彦氏は,小町は惟喬親王の祖父にあたる仁明天皇の更衣だったのではないかと言っている。 更衣というのは,皇后・女御(にょうご)などの天皇の妻の位の一つで,比較的下の位である。 仁明帝前後の後宮(大奥)の女性たちを調べると小野吉子が唯一の小野氏出身者である。 既に多くの研究者によって小野小町=小野吉子説が唱えられている。 小町とは実名(諱=イミナ)ではなく,通称である。 「町」とは更衣につけられる名である。 古代学研究所所長の角田文衛さんによると,更衣より身分の上の人は一人一人殿舎が与えられるが,更衣は常寧殿という大きな建物のなかを仕切って,そこを部屋つまり局(つぼね)として与えた。 その局を町といった。 方形に仕切られた区画を町というのである。 「小町」とは「町」に準ずる女性という意味なのか? 明治の小説家黒岩涙香は,小町に姉があり,姉が小野町,妹が小野小町となのだと述べている。 私は小野小町は「惟喬親王の乳母」ではなかったかと考える。 もっとも小町が更衣・小野吉子だったら「義理の孫」の乳母を務めたとは考えにくい。 乳母は通常家臣の妻の中から選ばれるものだからだ。 【 読者注::新潟大学大学院教授錦仁氏の『小町伝説はこうして作られた』≪第13回 春日井シンポジウム 2005年 資料≫によると,年老いた小町が都を出て故郷へ向かい,やがて野垂れ死にをするという説話は平安中期成立の異本『小町集』や院政期の説話集にあり,室町期の謡曲,江戸期の御伽草子にもある。 近江をはじめ全国各地に小町伝説があるが,東北地方へも小野氏の人々が国司などになって移動してきたこと,或いは中古いらい近江・山城から東漸して下野に一大根拠地をつくった小野族党が,さらに会津・越後・出羽へと入植・土着したという背景の中から伝説が生れていったらしい。 その一つに秋田県雄勝郡雄勝町(現・湯沢市)の 「小町はここで生れ,都にのぼって歌人となり,晩年にもどってきて亡くなった」という小町伝説がある。 その成立過程についてみると,それは江戸時代に成立したもので,最も古い資料といえるものは,十七世紀に戸部一憨斎が編集したと伝えられる「小野小町の系図」(原本散逸)である。 文化・文政年間にかけて小町伝説と遺跡を目指して全国から旅人が押し寄せたので,秋田藩は藩をあげて雄勝の小町遺跡を整備し伝説を書き換えていった。 藩主,家臣の文人,地元の俳人,藩主の庇護を受けた修験者・・・・それぞれがそれぞれの立場でかかわった。】 B 源氏物語が11世紀初頭という早い時期に書かれたのはなぜか。 今まではカナ文字の創生による国文学の発達というような視点で語られることが多いが,私は逆だと思う。 歌を詠みたい,物語を書きたいという強い欲求があったからこそ,カナが生み出されたのである。 源氏物語は,光源氏という賜姓源氏のの若者がライバルである一族(○○氏とは書いてないが当時の常識からも藤原氏)に対して勝利を収め,摂政関白を越えた地位「准太上天皇になるという物語である。 「紫式部日記」によれば道長はどうやら式部に紙や硯を与えていたらしい。 つまり一種のパトロン的存在であったことは間違いない。 『源氏物語』も『竹取物語』も『伊勢物語』もすべて反藤原の書なのである。 「普通の国」なら焚書になるはずだ。 『源氏物語』は怨霊信仰の産物である。 10世紀後期,969年(安和2年),安和(あんな)の変で源高明が大宰府に流刑になる。 皇太子の憲平親王が病弱で,若し早死すれば位は弟の為平親王になる可能性があった。 為平親王の義父が源高明である。 藤原摂関政治は「天皇家に嫁にやった娘が男の子を産む」「その男の子を天皇位に就けて外祖父として権力をふるう」という生物学的条件に依存している。 権力が確立しないうちに死んでしまうとどうにもならない。 そこで藤原氏が陰謀を仕組んだのが,安和の変である。 この結果,賜姓源氏という強敵を沈めた藤原氏にとって敵対するに値する他氏はもう存在しないことになった。 『源氏物語』は儒教文化の中からは絶対に生まれないものだ。 儒教文明圏では小説(この言葉自体差別用語)は虚構(即ちウソ)であるから「くだらないもの」であり,それを書くということは「うしろめたい」ことなのだ。 高橋和巳が小説を書き始めたときに,師の吉川幸次郎先生は猛烈に反対したという。 詩は,現代の感覚では虚構だが,昔の中国人にとっては「志を述べるもの」(曹操の言葉)であり,文(論説文)と並んで最高の地位にあったのである。 日本人は『源氏』を「小説」とは考えなかった。 「物語」という言葉で呼んだ。 C 「反逆者」平将門 平将門は桓武天皇の五世の孫で賜姓皇族の子孫である。 桓武天皇の皇子の葛原親王の子高棟王と孫高望王が「平」という姓を与えられて臣籍降下した。 高望王は上総介として現地へ赴任した。 こういう現地へ赴任する国司を特に「受領」(ずりょう)という。 国司に任ぜられることは大変な経済的利益を生む。 当時の国政を預る貴族たちのやったことは,荘園を増やすことと歌を読むことだけである。 コトダマの世界では,歌さえ詠んで,「平和になれ」「豊かになれ」と言い続けていればそうなる。 だから彼等は実質的には何もしなかった。 国の発展とか民心の安定とかを,具体的な手段で実現しようとはまったく考えていなかった。 したがって,地方の政治は国司や目代に任せ放しだった。 彼等の義務といえば,一定の税を取り立てて中央へ送ることだけだ。 その義務さえ果たせば,あとはいくら私腹を肥やしてもよい。 それゆえに,この時代には,中央で官僚として出世する望みのあるわずかなエリート以外は,誰もが受領になりたがったのである。 そうした傾向の中で,積極的に地方官となり任期が終わっても都に戻らずにその土地に土着する人々があった。 それが賜姓皇族の平氏や源氏である。 平将門あたりから日本史上重要な階層が登場する。 武士である。 武士には別名が三つある。 「もののふ」 「さむらい」 「つわもの」である。 「もののふ」は古代の日本の軍事面を担当した一族「物部氏」にちなんだもので,つまり,武力をもって国家に奉仕する者であり,「さむらい(侍)」は「侍う者」の意味で,武力をもって特定の一族(例えば藤原氏)に奉仕する者のこと,「つわもの」は兵器(うつわ)を扱うことを専門とする者,武器を扱うプロ集団という側面を強調すれば「つわもの(兵)」になる。 新しく赴任してきた「受領」たちと,既に土着している地方豪族との間にはトラブルが絶えない。 新しく来た連中は「国家権力」を笠に着て,在地地主を圧迫し,利益を得ようとする。 これに対抗して,在地地主側も,都へ上り,摂政関白家などの大物政治化に「名簿(みょうぶ)を奉る」,,つまり私的な家来になるのである。 ただし,建前上は下級役人として朝廷に採用してもらい,その奉仕によってなにがしかの官職を得て故郷へ帰り,その「前――」という官職と,「関白の子分」だという権威をもって信任の刻とらに対抗するのである。 どうして武士というものが誕生したのか。 それは平安律令政府が,国家の持つ正式な軍隊というものを廃止してしまったからである。 今でも,言霊に影響されて「軍隊を無くせば平和が来る」と信じている人がいるが,少なくとも平安時代は,これはまったくのウソで,国の治安が目茶苦茶になったのだ。 そういう時代においては,国民は自分の手で自分を守るしかない。 それゆえ,武士団,つまりプロの私的な武装集団が成立発達したのである。 平将門ら在地地主,国府,中央政府に雇われている武士は,形としては私兵集団であり,国家に対して手柄をたてた私兵集団の長が,尾張守とか左馬頭とか朝廷から官職を与えられることはあるが,「軍隊」は廃止されているので,与えられるのは軍事には関係のない官になる。 そんなことをするくらいなら,軍制を改革して武士を軍人すなわち国家公務員として位置づけるか,あるいは律令制における軍事制度を復活し,武士を兵部卿(ひょうぶのかみ)(国軍司令官)ないし兵部大輔(ひょうぶのたいふ)などの軍人としての正式官職に任ずるかねどちらかにすればいいのだが,摂関家の人々はそのようには決して考えなかった。 彼等はあくまで武士というものを,「正規のもの」にらはしようとしなかった。 今の日本人が軍隊を憲法の中で正式に位置づけしようとしないのと同じである。 その理由は次の項で述べる。 平将門は皇族の子孫ではあったが,彼自身は無位無官の人であり,私兵を抱える有力地主で,清水の次郎長のような「地元の大親分」的な存在であった。 彼が新任の国司と郡司(地方豪族の子孫が任ぜられることが多い)の争いの仲裁を買って出たことから,端を発した紛争の中から,中央政府のデタラメな政治に反感を持つ民衆の支持を背景に,中央政府に対する反乱に成長し,将門は京の天皇に対して新皇と称し,坂東八ヶ国を支配する独立政権に成長する。 力のある者が天下を取ることを宣言したのは将門が最初である。 源頼朝も足利尊氏も織田信長も,この意味では将門の追随者にすぎない。 D 院政と崇徳上皇 ― 法的根拠なき統治システムの功罪 日本は天皇によって支配されるという信仰を破ることはできないまま,藤原氏は実質的な日本の政治的な支配者として君臨する。 彼等のやった政治とは「まじない」や「儀式ごっこ」である。 藤原氏が熱心にやったことは一族の所有物としての荘園の開発であった。 一方彼等が主要メンバーである国(政府)は,そのために少なくなった領地(国衙領)からできるだけ搾り取ろうとする。 しかしそれでも予算は絶対的に不足するから,行政サービス(治安維持や公共事業)はまったくできない。 平安末期の日本はまさに末世というべき時代であった。 藤原氏の権力の源泉は天皇家との血縁関係に依存しているから,それが切れたら体制にひびが入る。 そしてそういう事態が起きた。 藤原道長の次ぎの世代において,ついに藤原氏の外孫でない天皇が誕生した。 後三条天皇である。 まず後三条が手をつけたのが荘園問題である。 1069年(延久元年)の荘園整理令の目的は,不正な手続きによって作られた荘園の没収である。 後三条は没収した荘園を公領とせず,天皇家の私領とした。 これはのちのち院政の経済的基盤になるが,一面では本来は“いかがわしい”存在である荘園の正当性を認めたことにもなった。 後三条は藤原家の摂政関白政治と絶縁するために,手を打つ。 即位後四年にして条件付きで位を子の貞仁(さだひと)親王に譲った。 条件とはその次ぎの天皇は貞仁親王(白河天皇)の子ではなく,自分の子実仁(さねひと)親王とするということである。 貞仁親王の母は藤原茂子であるが,実仁親王の母は源基子である。 後三条は譲位後ただちに,引退した天皇のオフィスである院庁(いんのちょう)の院司(いんのつかさ)を任命する。 彼等の多くは藤原氏ではあるが反摂関家的性格をもっていた人々である。 院庁設置の意図は,天皇の父という家父長的権威をもつ上皇として政治を監督すること,すなわち「院政」の意図があった。 ただ後三条は譲位後わずか半年で病死する。 院政は次の白河天皇から,後三条の遺志とはまったく違う方向で始まっていく。 実仁親王が疱瘡の病で病死するのである。 後三条の遺志を尊重するなら,次の天皇は実仁親王の実弟,輔仁親王と決めるべきところ,1086年(応徳3年),白河天皇はさっさと退位し上皇となり,自分の子8歳の善仁親王(堀河天皇)に位を譲る。 この強引なやり方は世間の反感を買った。 輔仁親王(三宮と呼ばれた)は極めて聡明な資質を持っていたために,天下の同情が三宮に集まった。 不安に思った白河上皇は,そこで堀河が病気になったのを契機に,「上皇となって天皇を後見する制度」つまり院政を始める。 堀河天皇の母は藤原賢子であり,父の藤原師実は堀河天皇の即位後ただちに摂政になるが,なぜかここで藤原摂関政治は復活しなかった。 一つの理由は,当時摂関家に天皇家の嫁に出すような娘が不足していたことが挙げられる。 藤原賢子は実は養女で,源顕房の娘である。 後三条は藤原摂関家の勢力を抑えるために反摂関家の藤原氏や,それまで冷や飯を食わされていた村上源氏を積極的に登用したために源氏の政界進出はめざましかったのである。 もう一つの大きな理由は,この新しい政治制度を,荘園を牛耳る藤原摂関家と対立するところの,公領の管理人たる受領(ずりょう)たちが支持したことである。 律令体制下では実力本位の人材登用はできないが,院政は結果的にそれに風穴を開けるという形で藤原摂関体制を崩壊させることになった。 しかし,いわば代表権のない超ワンマンの相談役ともいうべき上皇が,人格的に能力的に問題のある人物だったとしたら,とんでもないことが起こり得るし,また実際そうなった。 堀河天皇は優秀な人だったが,若死した。 白河上皇は8歳という幼少の孫に位を継がせた。 鳥羽天皇である。 1118年(元永元年),天皇が16歳になると,白河上皇は藤原璋子(18歳)を中宮として入内させた。 待賢門院である。 白河上皇は璋子と密通し,翌年皇子(顕仁(あきひと)親王)が生まれるが,これは白河上皇の胤子であった。 鳥羽はそれを知っているから顕仁を「叔父子」と呼んだ。 顕仁が8歳になると,白河はおのれの胤子である顕仁を天皇の位に就け(崇徳天皇),鳥羽を上皇に祭り上げて,自分は出家し法皇となる。 待賢門院は絶世の美女であったらしく,鳥羽は彼女との間に四皇子二皇女を生している。 崇徳天皇が11歳のとき,法皇は死ぬ。 鳥羽上皇は当時藤原得子(美福門院)を最も寵愛していたので美福門院腹の皇子(躰仁親王)の誕生を長年待ち,生まれた皇子を崇徳の皇太子とした上で,2年後の1141年(永治元年)崇徳に譲位を命じた。 崇徳があっさり位を譲ったのは鳥羽にだまされたからである。 譲位の宣命には皇太子ではなく,皇太弟と書かれていた。 これでは崇徳は院政を行えない。 崇徳には遺恨が残った。 この数え年三歳で即位した近衛天皇は子のないまま17歳で死ぬ。 崇徳は自分が重祚するか,悪くても自分の子重仁親王が即位するだろうと考えていたが,美福門院が近衛の死は崇徳が呪詛したからだと讒言した。 どうしても崇徳系に皇位を渡したくない鳥羽は,待賢門院腹ではあるが自分の実子の雅仁親王を選んだ。 のちの後白河である。 崇徳は恨み骨髄に徹した。 そして1156年(保元元年),鳥羽上皇が病死したのを期に,左大臣藤原頼長と組んで,平家弘,同忠正,源為義,同為朝らに檄を飛ばし反乱の兵を挙げた。 保元の乱である。 鳥羽上皇は自分が死んだら必ず乱になると読んでいたので,武士団に声を掛けていた。 後白河を守るため馳せ参じたのは,平清盛,源義朝らであった。 この身内同士の対決は一夜で片が付いた。 後白河側が敵の本拠を急襲し,不意を突かれた崇徳側は敗北する。 崇徳は仁和寺に逃れて髪を切り,頼長は乱戦の中で死んだ。 後白河側は「戦犯」に実に過酷な処分を下した。 後白河天皇は平忠正の処刑を甥の清盛に,源為義の処刑を実子の義朝に命じたのである。 崇徳は讃岐へ流罪になる。 崇徳は讃岐で五部大乗経を写経し,都の寺に納めて欲しいと京へ送った。 ところが後白河は「呪詛が込められているのでは」と疑いこれを送り返したのである。 崇徳は激怒し,舌の先を噛み切って血を出し,その血で経文のすべての巻に呪いの言葉を書きつけた。 「日本国の大魔縁となり,皇を取って民となし,民を皇となさん(日本の大魔王となって,天皇家を没落させ平民をこの国の王にしてやる)」 「この経を魔道に廻向する(この経を魔としての道<悪>に捧げる)」というものである。 崇徳は配流後八年にして讃岐で憤死する。 江戸時代以前の中世の人々は,崇徳上皇の呪いが,天皇家の政権を終わらせ武士の政権を誕生させた-----と信じていた。 源氏が三代で絶えたとき,後鳥羽上皇が兵を挙げるが,敗れて隠岐に島流しになる。 初めて武士の手によって天皇が処罰されたのである。 ここに至って崇徳の呪いし実現した。 日本は天皇家が支配するという日本開闢以来の神聖なルールが踏みにじられたということは,崇徳はアマテラスと同等の霊威を持つ神になったということである。 仏教の聖典に呪いの文句を書きつれば悪の力を発揮するということは本来はあり得ない。 経文を聖書に置き換えてみれば分かる。 これは,日本人が「聖典」よりも,タタリ神こそ「最高神」であると考えているからである。 だとすれば,タタリ神を丁重に祀れば,「魔道の神」が持つ膨大な「悪」のエネルギーを「正」に転化させることができるはずである。 これがすなわち怨霊鎮魂である。 E 武士はなぜ生まれたのか ―「差別」を生み出したケガレ忌避信仰 武士が歴史の主役になったのには二つの理由がある。 ひとつは平安貴族政治が危機管理にまったく欠ける体質を持っていたため世の中が乱れ,その結果「自分の生命・財産は自分で守る」という意識を持った階層が出現し,成長したということである。 これは経済学的・社会学的理由である。 もうひとつの理由は「宗教上の理由」である。 簡単に言えば,日本人の心の中に「軍隊・兵士・武装」の類を極めて忌み嫌う「宗教的信念」があるからなのだ。 それは「ケガレ」という思想である。 「罪も禍(わざわい)も過(あやまち)も皆同じく穢で,悪霊の仕業と考える」というのがケガレ思想のエッセンスである。 普通の日本人は家庭に自分専用の箸と茶碗を持っている。 ここに父と親孝行な娘がいたとして,父が娘に自分の箸をやるから明日から使いなさいと言ったら,娘はどう答えるか? 断固拒否して「キタナイ」から嫌だと言う筈である。 どんなに最新の消毒方法をもって消毒をしてあって科学的には一切の汚れはないと言っても答えは同じであろう。 われわれは,他人が長い間使った箸や茶碗に,その人独特の「垢」のようなものを感じている。 これがケガレなのである。 だからこそ,「あなたしか使えませんよ」という箸を提供することが「サービス」になるのである。 割箸を日本人が使うのは「ケガレ思想」の影響である。 ケガレ思想は,怨霊信仰・言霊信仰と共に日本が生まれた時からあり,日本人の思想と行動に甚大な影響を与えている。 「部落差別」はケガレ思想の産物である。 日本の部落差別には他国のそれに比べてさらに理不尽なところがある。 特に古代・中世において最も嫌われたケガレは「死のケガレ」つまり「死穢」であった。 この死穢を嫌うあまり,日常的に死穢に触れる職業は差別の対象となってしまった。 それは皮革や肉を取るために日常的に動物を殺さなければならない職業のことであった。 もう一つそういう職業があって,それは警察である。 警察も「罪」という死穢に次いで忌み嫌われているケガレに,日常的に触れざるを得ないうえ,昔の警察は処刑部門もあるので,「罪人の死穢」という「二大ケガレ」に触れざるを得なくなる。 軍隊も死穢というケガレに触れる職業である。 こう考えてくると,平安時代の律令制府が,「なぜ公式の軍隊を持たなかったのか」,「なぜ死刑を廃止したのか」という,他の国には見られない大きな特徴を持っていたことも理解できるはずだ。 司馬遼太郎氏の言葉: 平和とは,まことにはかない概念である。 軍隊という「平和を害する」ケガレさえ除去すれば,キレイな平和が実現する,というのはまったくの迷信である。 今は平和な時代だから,軍隊が「自衛隊」という「令外の官」になっているし,若い世代は過度の潔癖症に走る。 外国人が「握ったボールペン」をいちいちアルコールで拭くようなマネをすれば,その人は当然怒る。 今の日本にとって急務なのは「耐不潔」教育である。 F 「平家滅亡」に見る日本民族の弱点 平家は,武家としては珍しく経済的センスのある一族で,特に清盛が覇権を握ってからは大輪田泊(おおわだのとまり)(現在の神戸港)を改修して大々的に日宋貿易にも乗り出している。 したがって,その経済力は土地の生産によるものだけではない。 平家のリーダーたる清盛・重盛が早く死んだことも,政権滅亡の決定的な原因とはいえない。 なぜなら,平氏政権の後を継いだ源氏政権(鎌倉幕府)も,源氏一族は三代で絶えたが,政権そのものはその後も百年以上続いている。 真の原因は平家に「グランド・デザイン」が無かったことによる。 平家には武家が天下を取った時に,どういう形で運営していくべきかについて何のプランもなかった。 そうであるがゆえに,清盛は藤原氏の真似をした。 高い官位を一門で独占し,自分の娘を天皇家に嫁がせて,生まれた子を次代の天皇にする。 もっとも清盛は太政大臣までは進んだが,関白にはなれなかった。 しかし平家がさらに続いていたら,この道を行ったことは間違いない。 では,具体的にどうすればよかったのか? 日本の国を動かしているのは武士である。 生産の主体も武士である。 ということは,この武士を政治の中枢に取り込み活用する新しい政治形態を作ればよかったのだ。 もちろん,それは院の警護に北面の武士を置くなどという部分的なものではなく,日本全体の統治機構の中に,武士を参加させるということだ。 こういう政府さえ作れば,武士は必ずその政府を支持するから,武家政権は永続的なものになる。 武士しか軍事力を持っていないのだから,武士に支持された政権は,誰も倒すことができない。 では,ここで,「武士の,武士による,武士のための政権」を,誰かが作ろうと呼びかけたら,一体どういうことになるか? まさに「山が動く」はずである。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 D中世動乱編―源氏勝利の奇蹟の謎」発行:小学館(1998年) @ 「流罪人」頼朝が「幕府を作った男」になった奇蹟 奇蹟のタネの一つはライバル平家によって伊豆に流罪にされたことである。 平氏政権は武士による政権でありながら,武士のための政権ではなかった。 ただ藤原摂関政治を踏襲したにすぎなかった。 そのため武士の不満は未だ解決されていなかった。 しかし,清盛の義母池禅尼の嘆願により命拾いした頼朝は,伊豆に流されることで,真の武家政治の方法について考える機会を与えられたといえる。 徒手空拳の御曹司であった頼朝が,北条氏という,自分の手足となってくれる「腹心」ができたことも伊豆流罪がもたらした幸運である。 頼朝が北条政子と恋仲になったのがきっかけとはいえ,義父北条時政の方も,その行動からみて,平氏政権の崩壊を予測していたからこそ頼朝の利用価値を見抜いてそれに賭けたと思われるのである。 平清盛のために天皇になりそこなった「不平皇族」以仁王(もちひとおう)が,平家を倒すのは源氏という思い込みで「平家追討」の令旨を出す。 以仁王には「武家政権の成立」を願う心などカケラもなかった。 しかしこの令旨がかえって平家を刺戟し,その結果,「窮鼠猫を噛む」形で頼朝や義仲の挙兵を実現させることになる。 頼朝の場合は,関東武士たちの独立運動の大義名文という面が強くなった。 頼朝には自分の客観的な価値がかなりの程度分かっていたのである。 関東武士たちの本音は,「関東武士独立政権ができれば平家追討などはどうでもいい」のである。 頼朝は自らを「武家権益の保護者」という地位に置き,武士の利益になる政策を次々と打ち出すことによって支持を固め,むしろ個人的な願望であった平家追討をみごと実現させ,日本全土を武士政権の支配下に置いたのである。 義仲にはそいういう発想はなかったし,教えてくれるブレーンもいなかった。「源氏は御輿(みこし)」即ち看板にすぎないことを北条氏は知っていた。 だからこそ源氏は三代で「使い捨て」にされても,政権はずっと続くという中国やヨーロッパでは有り得ない事態も起ったのである。 A 日本最初の「アイドル」源義経と平泉金色堂の謎 頼朝にとってのもう一つの幸運は義経という天才的軍事指揮官を得たことである。 義経は成長してからは奥州の藤原秀衡の庇護を受けたが,幼少期には秀吉のように悲惨な放浪生活を送り,その間に秀吉における蜂須賀小六のような人物とつきあい常識破りのゲリラ戦法の類の軍事を学んだに違いない。 彼が諸国を流浪したことは彼は単に「九郎曹司」と呼ばれ,その名に地名が冠せられていない点からも分かる。 義経がいなければ,日本は中央に天皇家があり,西国に平家,東国にに源氏,奥州に藤原氏という三国時代がかなり長期に存続したに違いない。 しかし義経は頼朝の戦略をまったく理解していなかった。 この時点で頼朝は「独立国」の必須条件の一つ「軍事力」を持っているのみ,「徴税権」も「人事権(賞罰権)」もこれから朝廷から一つ一つ獲得していかなければならない。 その「取引」に有利な材料が三種の神器であった。 後白河法皇は法皇の権威で後鳥羽天皇を位につけたものの,後ろめたいものがある。 だから,頼朝は平家を討ち逃がしても三種の神器はどうしても取り戻して欲しかったし,義経ならそれができると思っていた。 が,義経にはそれには失敗した。 さらに,義経には頼朝の了解なしに朝廷から官位を受けたことに頼朝が激怒したことの意味が理解できなかった。 独自の「人事権」を持たねば「武士の国」が朝廷から独立できないと考える頼朝にとって,義経の行為は面子まる潰れなのである。 この時点では,国の官職を与えることができるのは朝廷のみで,頼朝にはまだ与えるべき何物もない。 頼朝の推挙によって官職を受けるという,変則的な形でなんとか幕府の権威を維持しているのに,身内がルール違反をしたのである。 しかも義経にならって無断で官位をもらう武士が多数出たから,頼朝の怒りはすさまじかった。 そして彼等から御家人の資格を剥奪したのである。 義経は頼朝に反旗を翻すにあたり,後白河法皇に強談判して,渋る法皇に「頼朝追討」の院宣を出させた。 しかし挙兵するも兵は集まらず,結局手勢の部下も失い奥州の藤原秀衡のもとへ亡命する。 鎌倉の幕府側は義経の反乱を120%利用する。 幕府軍の進駐に怯えた法皇は慌てて「義経追討」の院宣を出すが,却って逆効果,それにつけこみ幕府側は朝廷から「謀反人の追捕」を名目とする「追捕使」を全国に置く権利を獲得する。 これがのちに発展して「守護」になる。 同時に,「地頭」の設置も認めさせた。 重要な点は「守護」「地頭」の任命権は幕府にあるということである。 それまでの地頭と違い,この時から武士たちは初めて国家公認の土地所有者となることができた。 同時に,幕府側は朝廷から「兵粮米反別五升徴収権」をも獲得した。 これはすべての田地から一反当り五升の兵粮米を徴収する権利である。 一反の田から取れる米は標準では一石(=百升)だから,これは僅か5%の徴収権を得ただけであるが,肝心なことはこれも「国家公認の権利」だということである。 藤原秀衡の死後,頼朝は後白河法皇に「謀反人義経を匿っている」泰衡追討の院宣を求めた。 頼朝の本音は「父祖代々の因縁の地である奥州を藤原氏から奪い,同時に御家人たちの結束を固めたい」というところにある。 法皇はその要請には応じず,直接泰衡に義経を討つよう命じた。 泰衡は衣川で義経を討つが,自身も部下に殺され,非業の死を遂げる。 鎌倉幕府軍は院宣を待たずに大軍を動かし,藤原氏を滅ぼす。 院宣が届けられたのは泰衡滅亡後であった。 現在,平泉の金色堂には藤原三代のミイラとともに泰衡の首も置かれている。 世界の常識では,こういう敵方の施設や遺骸は破壊・焼却・遺棄されるか戦利品として持ち帰られるかのどちらかなのである。 そういう金色堂とミイラが今に至るまで残されているのは鎌倉方が黙認したためで,これもやはり怨霊信仰なのである。 鎌倉側がのちのちまで,奥州征伐は大義名分のない私戦で,泰衡は罪もないのに殺されたということを自覚していた証拠が,鎌倉幕府の公式記録ともいうべき『吾妻鏡』にも書かれている。 義経は衣川では死ななかったという「義経不死伝説」が根強く残ったのはなぜか。 鎌倉幕府にとっては義経は幕府の統制を乱した罪人であるから,供養はしても,神道式鎮魂はしなかった。 しかし大衆にとっては,そのことは理解できず,あくまで義経は平家追討の大功労者でありながら,無残な死を遂げた英雄であり,大怨霊になり得る存在であった。 判官贔屓が生れ,最終的には義経は死んでいないと思い込むことでタタリをなすことを防ぐ という怨霊信仰の「大衆化」が行われたのである。 B 鎌倉「幕府」という名前は江戸時代以降に名付けられたもの 奥州征服の翌年の1190年,頼朝は初めて上洛し,後白河法皇と「サシ」でトップ会談を行う。 この時頼朝の希望していた征夷大将軍のポストはもらえず,右近衛大将及び権大納言の職に任命される。 しかし盛大な拝賀式の三日後,その職を返上してしまう。 のちの織田信長の行為とよく似ている。 征夷大将軍になるのは2年後の1192年,後白河法皇の死後のことである。 鎌倉時代に「幕府」はなかった。 のちに幕府と呼ばれることになる全国組織はあった。 当時の人は初めはそれを「鎌倉殿」と呼んだ。 頼朝個人の名前が,のちに政治機構全体を指すことになっていったのである。 しかし,その組織がいつ出来たのかという画然とした時期は決めがたい。 先ず仕事があって組織はその後で定まるからである。 政所・侍所・問注所という組織のうち,侍所と問注所は鎌倉幕府の独創であるが,「政所」は身分の高い人,具体的には從二位以上の人が持つことができる個人的なオフィス,現代風にいえば「官房」の意味である。 それ以下の身分の人の場合は「公文所」といわなければならない。 だから「鎌倉殿」の場合も1185年從二位に叙せられて以降「政所」になった。 江戸時代の学者が「鎌倉時代の武家政治体制」の名称として「幕府」という言葉をひねり出さなければならなかったのは,頼朝が「坂東独立国の樹立」も 「京都進撃朝廷覆滅」 も,一切宣言していないからだ。 これが朝幕併存体制を生むことになり,朝廷の根本法である律令は明治維新まで生き続けることになる。 幕府政治は江戸時代に至って,武士の総棟梁である征夷大将軍が日本の政治の実務を全て行う,という形で完成する。 それでも征夷大将軍の任命権は名目上ながら朝廷にある。 もし平将門が天下を取っていたら,こうはならなかったはずだ。 幕府という存在は,いわば一応は合法的に認められている暴力団の「○○組」が日本全体を仕切っているという感覚に近い。 将門も武士ではあるが,桓武天皇八世の孫であり,「準」皇族としての誇りがあった。 頼朝も先祖をたどれば清和天皇に行きつくが,もはや武士という階級が明確に固定してからの人間であり,自らの出自については強い劣等感を持っていたはずだ。 晩年の頼朝は,むしろ朝廷との協調路線を歩もうとした。 実現はしなかったけれども,後鳥羽天皇に自分の長女である大姫を嫁がせようとしたのもその表れである。 これでは藤原摂関家や清盛と同じことになる。 頼朝の幕府には未だ果たすべき課題が残っていた。 武士の土地所有権の確立とそこから上がる収益を無闇に収奪されないことである。 完全な所有権を認められたのは頼朝の死後の1223年(貞応2年)に始まった大田文(おおたぶみ)―土地台帳―の作成時期といえる。 それはこの2年前の承久(じょうきゅう)の乱で朝廷側(後鳥羽上皇)が破れて幕府に屈服したのちである。 従って東国武士団から見れば晩年の頼朝は「日和った奴」ということになる。 1193年(建久4年)征夷大将軍になった頼朝が富士の巻狩りという一大ページェントを催したとき,曽我十郎,五郎の兄弟が頼朝の側近工藤祐経を討ち取り,頼朝の陣屋にも討ち入った。 これは古来から日本三大仇討の一つとされているが,作家永井路子氏によると,これは有力御家人の岡崎義実,大庭影義らが,曽我兄弟を使って頼朝や北条時政を討ち,政権奪取を狙ったクーデターであった。 頼朝亡き後の棟梁には弟の範ョを担ごうとしたらしい。 事件後岡崎・大庭は出家し,範ョは反逆の疑いに対して身の証(あかし)をたてるとして起請文を書いている。 その後範ョは伊豆へ流罪となり歴史から消える。 おそらく殺されたのであろう。 C 悲劇の将軍たち 大姫入内運動のため,頼朝は朝廷側のリーダーで盟友の関白九条(藤原)兼実(かねざね)と袂を分ち,後白河法皇の寵妃丹後局に接近する。 兼実も娘を後鳥羽天皇に入内させていたからである。 しかし丹後局と稀代の策士,源(土御門)通親(みちちか)のラインに取り入ったことは完全な失敗で,頼朝は手玉にとられる。 丹後局―通親ラインは荘園の所有権などの問題で頼朝から譲歩を勝ち取り,九条一派の追い出しにとりかかる。 そして,兼実は関白を罷免され,娘で中宮の任子は宮中から追放され,弟の慈円は天台座主の座から引きずりおろされた。 その間,通親はちゃっかり自分の養女を入内させ,後鳥羽との間に男子を生ませていた。 のちの土御門天皇である。 頼朝は宮廷内のシンパを失った上に,大姫を病気で失う。 ※ 兼実はこの時代の根本史料になっている日記『玉葉』の著者,慈円は歴史書『愚管抄』の著者である。 1199年(正治元年)頼朝は失意の中,「落馬」という武士にあるまじき事故がもとで急死する。 しかし公式記録『吾妻鏡』には,その死の前後の記録がすっぽり抜け落ちている。 落馬事故のことは別のところに少し書かれているのみである。 何か書けない事情があった,恐らく暗殺されたのであろう。 頼朝の急死によって18歳の長男頼家が鎌倉殿の後継者となった。 しかしこの二代目はプライドのみ高く,自分を取り巻く環境の厳しさが分っていなかった。 自分が御輿に過ぎないことの自覚のない頼家は乳母の一族比企氏や父の代からの側近梶原景時らを重用し,有力御家人(和田義盛・三浦義澄・北条時政・頼朝のブレーンであった大江広元など)の意見をしばしば無視した。 そのため,独裁権を取り上げられ,政治は御家人の連合で行われることになった。 三年が経ち,『吾妻鏡』によれば1203年(建仁3年)比企能員(よしかず)の「クーデター」が発覚する。 しかしこれは北条一族が,比企能員(よしかず)の娘が頼家との間に設けた一幡の存在が邪魔で,比企能員(よしかず)を謀殺し,一族が反抗したのを幸い,一幡ごと葬ってしまったのが真相であろう。 その翌年頼家は修善寺に軟禁されたまま死んだ。 『吾妻鏡』は頼家の死についても沈黙しているが,『愚管抄』には頼家の生々しい殺され方が書かれている。 頼家が伊豆に幽閉された後,1203年(建仁3年)9月将軍は弟の千幡が継いだ。 千幡は元服し,実朝と名乗った。 実朝の妻には京の公家坊門信清の娘(西八条禅尼)が選ばれた。 これまでは関東武士の有力者の娘が選ばれるのが常であったが,第二の比企能員を生むことを恐れて,中立的な公家の子女が選ばれたのだが,これは大失敗であった。 実朝が妻とその実家を通じて,京の文化に強い親しみを持つようになったのである。 実朝は和歌には秀でているが,歌を詠むばかりで政治家としての力はなく,死の運命を予感していた悲劇の将軍というイメージを持たれているが,これは正しくない。 武芸はまったく駄目であったようであるが,優秀な歌人であった。 鎌倉時代の前までは,公家にはコトダマ信仰があり,彼等としては「歌を詠み,歌集を編む」ことによって政治責任を果たしている「つもり」なのである。 実朝のやろうとしたことは,結局「歌による政治参加」,つまり鎌倉武士団が最も嫌悪しているコトダマイズムへの回帰であった。 1205年(元久2年)後鳥羽上皇から『新古今和歌集』が実朝のもとへ贈られている。 これは,実朝の「反革命路線」を帝王が応援し承認した,ということだ。 御家人たちはこの裏切りばかりは絶対に許せぬと思ったはずである。 1219年(承久元年)1月27日,鎌倉の鶴岡八幡宮の境内で,右大臣拝命の儀式を終えた実朝は,顔を隠した三人の男によって,側近の源仲章とともに斬殺される。 犯人の一人は公暁(頼家の遺児)と名乗り父の敵を討ったと叫んだと史書に書かれている。 その時周囲には護衛の兵はいなくて,公暁の顔を知る者は誰もいなかった。 公暁は三浦義村の屋敷に逃げ込もうとして追っ手に討たれてしまう。 まさにケネディを「殺した」オズワルドがすぐにルビーに殺されたのとよく似ている。 本当に公暁が犯人なのかも疑わしい。 事件の黒幕については二つ説がある。 通説の北条義時黒幕説(これは愚管抄の説),三浦義村黒幕説(これは作家永井路子氏の説)であるが,どちらにも疑問点が残る。 最もあり得る黒幕,犯人は有力御家人一族ではなく,東国武士団の総意によるものと考えるのが一番妥当である。 場所が鶴岡八幡宮であるのも意味がある。 鶴岡八幡宮は頼朝が鎌倉に根拠地を定めた時,既に源氏の氏神として祀られていたのを,もう一度京都の岩清水八幡宮から勧請(分霊)しなおして祀ったものである。 八幡神は応神天皇であるところから,この当時は皇室の祖先神とされ,岩清水八幡宮は宇佐八幡宮などと共に皇室の宗廟と呼ばれていた。 頼朝はしばしば重要な政務をこの神殿の中で取り扱い,方針を発表したという。 つまり八幡宮は「頼朝の政治」の象徴であり,「公武合体」 「公武融和」の象徴でもあるのだ。 公武合体の道を進む将軍とその側近を神聖な神殿を汚すような形で殺すということは,公武合体路線を断固拒否するという鎌倉武士団の総意を示している。 しかも参列の公家の目の前で殺したのは「見せしめ」であり 「おどし」であろう。 【 読者注::楠木誠一郎著の推理小説『実朝を殺した男』では,頼朝と実朝の死の黒幕は京の朝廷であるとしている。 土御門通親=計画立案者,後鳥羽上皇=後援者,大江広元=計画推進委員長という構図である。 】 D 承久(じょうきゅう)の乱は革命であった 実朝も公暁も死んで,源氏の直系は絶えた。 これより先,北条政子は実朝に実子がいないのを案じ,万一の場合,京から親王を将軍として派遣してくれるよう依頼していた。 当時の朝廷は,上皇の幼馴染で太政大臣藤原頼実の妻であった卿二位(藤原兼子)が実力者であった。 政子もこの頃は二位の位に上がっており,出家していたので尼二位と呼ばれた。 この朝廷の卿二位と幕府の尼二位のトップ会談で,親王将軍のことは決定した。 当然幕府は実朝の死後,親王将軍の派遣を京へ依頼した。 しかし,今度は後鳥羽上皇がこれを拒否した。 先の合意は,上皇の「忠臣」実朝が補佐することが前提になっていた。 実朝が補佐することにより,上皇の「鎌倉支配」という計画は完成する。 理想を言えば,実朝が早く引退し,後鳥羽の子である親王に将軍位を譲り,幕閣の中枢は源仲章ら後鳥羽の腹心で固めることが望ましい。 ところが実朝と仲章の暗殺ですべてが崩壊したのである。 どうしても傀儡の将軍が要る鎌倉は京に軍勢を派遣して圧力をかけたので,上皇は親王の代りとして九条道家の子の三寅を派遣することにした。 三寅の母は頼朝の姪である。 三寅はまだ赤ん坊であったから,政務は政子がみることになった。 この時,上皇は「摂津国の長江・倉橋という二つの荘園について,その地頭を解任せよ」という要求を突きつけていた。 実はこれは幕府の存亡にかかわる重大事であった。 東日本は始めから武士の土地であることが多いのに反し,西日本は上皇や天皇或いは貴族や寺社の開発した荘園が圧倒的に多く,そこへ後から侵入する形で地頭が任命されたから,トラブルは絶えなかったはずだ。 だから,上皇側の要求は幕府の原則にかかわる問題ゆえに,幕府は全面拒否した。 後鳥羽は歌人でありながら武芸の達人で,血の気の多い人であった。 また菊を好んだ。 皇室の紋が菊に定着したのは,この上皇からである。 上皇はついに倒幕を決意する。 1221年(承久3年)5月,後鳥羽は北条義時追討の院宣を下し,近畿・西国の武士に檄を飛ばした。 有力御家人の一つ三浦一族の胤義は京に長くいたこともあって上皇に味方した。 唯一これに応じなかった京都守護伊賀光季はただちに攻め滅ぼされた。 承久の乱である。 朝廷から「賊」つまり「朝敵」と決めつけられて,御家人たちは動揺する。 ここで尼将軍政子が,頼朝の恩に報いるのは今であるという大演説をぶち,流れを変えた。 義時は先手を打って長男の泰時を総司令官とする大軍を京へ進め,戦いに勝利する。 これより先,後鳥羽は倒幕に消極的な土御門天皇を退位させ,その弟の順徳を位に付け,更に戦いが近づくと,順徳を退位させ上皇とし,その子4歳の懐成(かねなり)親王を天皇に立てていた。 戦後幕府は後鳥羽の兄で一度も皇位に就けず出家していた行助法親王を還俗させて,いきなり上皇の位に据えた。 後高倉院で,天皇経験のない上皇など,この国始まって以来のことである。 次ぎに後高倉院の子が天皇に立てられた。 後堀河天皇である。 次いで幕府は,後鳥羽を隠岐へ,順徳を佐渡へ,土御門を土佐へ配流した。 懐成親王は「廃帝」又は「九条廃帝」と呼ばれ,歴史の表舞台から消された。 仲恭天皇という諡号は明治になって贈られたものである。 後鳥羽は戦いの旗色が悪くなると側近の公家に責任を被せたため,五人の公家が死刑になり,朝廷に味方した武士はほとんど死刑になった。 これはやはり一種の「革命」であった。 しかし,これが西洋だったら三上皇は死刑,天皇家は滅亡であろう。 当時の公家社会ではこれは崇徳上皇の呪いが実現したと,受け取られていた。 なお「後鳥羽」とは死後贈られた諡号であるが,最初の諡号は「顕徳」であった。 しかしタタリが噂されたために,(「顕徳」では鎮魂の効果がないとみなされて)死後三年経って「後鳥羽」と改められたのである。 E 北条泰時と御成敗式目 大岡越前守忠相は旗本から大名に出世するが,越前(福井県)とは何の関係もない。 江戸時代の越前は,大野藩,勝山藩,鯖江藩,福井藩といった小藩に分かれ,「越前守」などという「役職」が成立する余地がない。 江戸時代の「―守」という「律令上の役職名」は,実体を伴わない名誉職にすぎないわけだが,いつからこんなことになったのか? こういう習慣は戦国末期から江戸初期にかけた定着したのだが,そのおおもとは承久の乱の直後,北条泰時の時代にある。 泰時はあくまで形の上では朝廷(律令体制)を尊重したからこそ,こういう習慣が江戸時代まで残った。 鎌倉時代のこの時点では,天皇家および律令体制そのものが,日本人にとって神聖不可侵なものであり,それを抹殺することを正当化する,中国や西洋のような「革命理論」がなかったからである。 泰時は,西欧流に言えば「擁立した皇帝も無視し,その形式的な認証も署名もない基本法」を「発布」した。 それがいわゆる関東御成敗式目(貞永式目)と呼ばれるものである。 御成敗式目は実体としては,「憲法」というよりもむしろ「土地法・相続法・訴訟法」である。 実際にこの式目は,承久の乱の直後「進駐軍」として三年間京の六波羅探題にいた泰時が,殺到する様々な訴訟をこなした経験が盛り込まれている。 律令は中国から輸入した法律体系である。 律令の基本は「公地公民」なのに,日本は奈良時代の「懇田永年私財法」によって,その原則を崩してしまっている。 実態に合わなくなった律令に代る法律がない。 だから公正な裁判もあり得ないことになる。 さらに,幕府が承久の乱に勝ったことで,その実効的支配が西国(西日本)にも広がった。 西国は天皇家,摂関家や有力寺社が開発した荘園が多い。 そこへ東国武士が「新補地頭」として乗り込んで行った。 「進駐軍」と,名門意識を持ち,武士たちを「虫ケラ」のように思っている貴族層との間に,どれほど軋轢が生じたか,想像に難くない。 しかし泰時は決して「法の権化」ではなかった。 大岡裁きで知られる「三方一両損」というフィクションのキーワードは三者の納得である。 日本人は法による解決がすべてだとは思っていない。 「納得」して「丸く収まる」ことが日本人の理想なのである。 泰時の事跡として伝えられるエピソードは,それが事実でないにしても,そういう「情のある人だ」と思われていたことは事実である。 泰時は当時も後世においても,「敵方」の公家たちに大変人気があった。 泰時の思想上の師は華厳宗の高僧明恵(みょうえ)上人である。 明恵は戒律を復興し,修行を重んじた。 「人はあるべきやう(有るべき様)はと云(いふ),七文字をたもつべき也」は明恵の遺訓として伝えられている言葉である。 各人がその個性に対応した自然な修行方法(つまり,「あるべきよう」な方法)で悟りを求めよ,という意味だったらしい。 しかし,この明恵の言葉は仏教の枠を越えて,いわば「日本自然教」の教義として一般には受け取られていくのである。 朝廷と幕府,摂政関白と執権,国司と地頭,現代では軍隊を認めない憲法のもとに,自衛隊(軍隊)がある,バラバラの組織がバラバラの政治をやっている。 これが日本人にとっては,「これでいいのだ」であり,「自然」なのである。 もし,権力者がこのような日本の仕組みを「不合理」(西洋流の不自然)だと感じ,それを積極的に合理的なものに変えようとしたら,どうなるか? その実例が織田信長だ。 信長は「大行革」をやろうとした。 最初のうち庶民は拍手喝采した。 しかし,信長が,「日本人離れ」した西洋的論理で「不自然(不合理)」を糾していけばいくほど,人々は信長についていけなくなる。 挙句の果ては「本能寺」だ。 あれは決して偶発的に起こった事件ではない。 織田信長・井伊直弼・大久保利通・源頼朝・足利義満・後鳥羽上皇・後醍醐天皇,,,日本人はこういう政治家を畳の上では死なせないのである。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 E中世神風編―鎌倉仏教と元寇の謎」発行:小学館(1998年) @ 鎌倉以前の仏教 釈迦が始めた仏教とは「解脱」を求めること,解脱とは輪廻から脱することを意味する。 古代インドの思想では,人間(生物)はその生涯の終わりに「死ぬ」のではなく,六道を永遠に巡る(輪廻する)と考えられていた。 六道とは地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上という六つの世界である。 「永遠の生」を古代インド人は「苦しみ」ととらえた。 そして,その苦しみから脱する(解脱する)方法を求めた。 釈迦は初め苦行によって,それを求めようとしたが,その考え方が間違っていることに気づき,菩提樹の木下で悟りを開いた。 釈迦によれば,生老病死という四苦などの苦が生じるのは,もともと万物は無常であるのに,これを永遠・絶対のものと錯覚するからである。 そういう誤解・錯覚への執着を捨てた状態,欲望の燃えさかる炎が消えた状態を涅槃(nirvana=サンスクリット語で"nir"(打消語)+"va"(吹く)+"na"(過去受動分詞を作る接尾語)であり、「無風、吹かれないこと」あるいは「吹き消された状態」を意味する。これを「火が消えた状態」と意訳することも多い。) この世のすべての事物・現象は,自我を含めて,「空(実体がないこと)」であり,むしろ無実体なものこそ物質的存在である。 般若心経の「色即是空。空即是色」はこのことを言う。 しかし釈迦の原始仏教では解脱の具体的な方法についてはほとんど教えてくれていない。 きわめて不親切なのである。 釈迦の仏教は,自力による自己の解脱を目指しているが,他人の救済は目的ではない。 釈迦の方法は家を捨て社会を捨てなければ「自己を救済」することはできず,しかも,それをしても広く他人を救済することはできない。 [大乗仏教]それはおかしい,ということで大乗仏教が生まれた。 解脱はすばらしいが,ただの人間にそれを望むべくもないとすれば,いっそ解脱した人(=如来)を拝むことにすればどうか,ということが大乗仏教の出発であった。 釈迦にしてみれば死後“神”として拝まれることなど思いもよらなかったであろう。 大乗はサンスクリット語ではマハー・ヤーナ《大きな乗り物》という。 「小乗」は大乗側からの悪口であるから現在では部派仏教(上座部仏教) という。
部派仏教からの「大乗」への批判を述べれば,「自分自身をも救うことができない者が,どうして他人を救うことができようか。 我々にできることは,家も捨て家族も捨て一切のしがらみを捨てて修行し,一歩でも釈迦の境地に近付くことしかない」 ということになるだろう。 厳しい修行とは決して苦行を意味しない。 それはオウム的曲解で,これは自己をみつめる厳しさという意味である。 初期の仏教徒が拝んだのは,釈迦の「お骨(火葬骨)」であり,これを仏舎利という。 仏舎利を祀った塔がストゥーパ〈漢語で卒塔婆〉と呼ばれる。 インドのストゥーパは古墳のような形をしているが,それが中国・日本では三重塔や五重塔になり,ビルマではパゴダになった。 仏像が出現するのは紀元一世紀頃の現・パキスタンのガンダーラ地方で,そこでギリシアの神像彫刻の技法で,今日でいう「仏像」が初めて造られるようになった。 僧侶が妻子を持っているのは世界で日本だけである。 そして,現在に至るまで,「僧侶が妻子を持つ」ことを教義の上で正当化したのは親鸞の浄土真宗しかない。 すべての宗派の僧侶が結婚できるようになったのは,明治政府が「してよい」と許可したからで,理論的追求の結果でなったのではなく,いわば 「なしくずし」 にそうなったのである。 釈迦以来二千年の伝統的な「女犯戒」という戒律がいつの間にか,さしたる抵抗もなく,皆の話し合い (まさに和の体制) で変えられてしまった。 大乗仏教が「本当は釈迦の言わなかったこと」を「釈迦が言ったこと」のように主張することが出来たのは,そのことを正当化する理論があったからである。 その理論を「方便(ウパーヤ・カウシャリア)」 という。 大乗仏教の創始者たちが,「救済」を主体にした仏教に切り替えようとしたとき,釈迦は歴史的にはそんなことは言わなかったと非難された時,こう応答した。 中国における天台宗では法華経は根本聖典である。 最澄は唐で天台宗の奥義の他に,大乗の戒律を受け,禅も学び,密教も身につけた。 最澄の業績は比叡山を円・戒・禅・密の四宗兼学の道場にしたことである。 これを,現代の大学に見立てると,まず比叡山に仏教総合大学を創立し,法華学部,戒律学部,禅学部,密教学部の四学部を設けた,と考えればいい。 そして,日蓮,親鸞,道元といった鎌倉新仏教の担い手は,すべてこの「大学」で基礎を学んだのである。 最澄以前は,大乗仏教の僧であっても,僧である以上は「小乗戒 (最澄の見方によるもの)」を守るべきだとされていた。 イスラム教は「戒律宗教」であって,たとえば豚の肉を食べるなという戒律は絶対に守らなければならない。 戒律とは「神が下した指示」であり,それを守ることが「神を信じる」ことだからだ。 ところが日本人は「信じる心さえあれば細かいルールは無視してもよい」という考え方をする。 聖武天皇の代に鑑真和上が生命の危険を冒して日本へ来たのは戒律を伝えるためであった。 ところが最澄は大乗仏教にはそれにふさわしい独自の「大乗戒」があってしかるべきだとして,盛んにそれを主張した。 小乗戒には古代インドの風土に合った習慣的な戒律で,中国や日本では全く無意味なものもある。 宿食戒は今日貰った食べ物は明日まで貯えておいてはいけないという戒律であるが,これは熱帯インドでは意味があるが日本ならむしろ貯えておいて人に施した方がいい。 A 浄土門の聖者たち [浄土教] 平安時代後期から,新たな仏教が発展し,文字通り一世を風靡することになる。 それが浄土教である。 これは,修行による悟り(解脱)より,浄土への往生を重視する仏教の一派のことである。 浄土信仰が盛んになったのは末法思想の影響がある。 日本では1052年(永承七年)が釈迦入滅より2001年後で,この年から末法<正法→像法→末法>の世に入ると信じられていた。 末法の世には,仏教は名のみ残って実質は何もないということになる。 この時期は藤原摂関政治の最盛期でもあった。 人間,現世で頂点を極めると,今度は来世のことが心配になる。 地獄には落ちたくないが,正法を伝える僧はいないとなれば,どうすればよいか。 そういう次代の要求に応えたのが,個人の修行や布施,持戒などよりも阿弥陀を信仰し極楽浄土へ往生することを第一義とする教え――すなわち浄土教の聖者たちであった。 ここで時代は鎌倉時代に入る。 浄土宗の開祖法然は阿弥陀信仰のみが正しいとし,それ以外の方法を一切排除した。 阿弥陀如来の絶対的な力(これを特に他力という)を信じてそれにすがって,往生を遂げよという。 法然は長年比叡山に篭もって部仏教学を極めた「当代一流の学者」である。 その法然が「修行」の果てにたどり着いた結論は,阿弥陀の本願を信じ修行を捨て,「一文不知の愚鈍の身」になることであった。 法然の教えをラディカルに実践したのが彼の40歳年下の弟子親鸞である。 彼は僧の身でありながら,初めて公式に妻帯した。 当時僧侶が「隠し妻」を持つことは当たり前のことになりつつあったが,それでも建前は「僧は不犯(ふぼん)」なのである。
歎異抄(たんにしょう)というのは,親鸞の晩年の弟子唯円が,親鸞に宗教上の疑問をぶつけて得た師の回答を忠実に記録したものである。 そこに記載されている有名なことば「善人なおもて往生を遂ぐ,況や悪人をや」ほど逆説に満ちたものはない。 ここでの「善人」とは自力修行で仏の世界に到達できると信じている人のことである。 皮肉な言い方をすれば,「人間には絶対の善を行う能力があると信じている人」である。 しんし,悪人(および普通の人)にはそんな能力も自負もない。 それゆえに自力ではなく阿弥陀如来の力(他力)によって極楽往生しようとする。 それならば,阿弥陀の力は絶対的なものだから必ず往生できるはずだ。 善人は自分の力や実績を頼みにして(自力修行で)往生しようとするから極めて不確実なのである。 「阿弥陀への信心」を具体的に表わす手段が念仏(称名念仏),つまり「南無阿弥陀仏」と唱えることである。 これは「修行」でもないし「善行」でもない。 念仏は両親の死後の追善供養のためにするものでもない。 親鸞にとって念仏とはあくまで個人と阿弥陀如来との関係についてのものである。 すべて如来の前では平等である。 したがって「親鸞は弟子一人も持たず候ふ」,つまり教団すら否定しているのである。 親鸞の教え(浄土真宗)は彼の在世中は東国で流行はしたが,その後人気を失い,戦国時代になって親鸞の子孫蓮如によって大々的に復興されるまでは,一般民衆からはほとんど相手にされなかった。 室町時代から戦後時代にかけて大流行したのは同じ浄土信仰である一遍の「時宗」である。 時宗の特徴の一つは踊念仏である。 これを改良したのが親鸞の子孫の覚如であり本願寺中興の祖蓮如である。 天才的なオーガナイザーであり布教の天才でもあった蓮如のやったこと,それは阿弥陀信仰の家元化(世襲制)である。 これは親鸞の教えとは矛盾する。 だから歎異抄は宗門内では思想堅固な学僧しか読むことができなかった「禁書」であった。 広く一般大衆に読まれるようになったのは明治時代以後である。 大宗教の確立に必要な要素は開祖と布教者という二面性である。 親鸞は明治に入って,宗門に無関係な学者が親鸞の実在を疑ったほど長く忘れられた思想家だったのである。 B 道元と日蓮 こういう思想ばかりになると,当然そのアンチテーゼとして,仏教の本来の姿は自力修行(聖道門)であるという考えも起こってくる。 それが禅である。 禅そのものはすでに平安時代に伝えられ比叡山で学ぶこともできた。 しかし禅宗という思想を初めて一貫した形で日本に伝えたのは栄西だった。 栄西も法然と同じく比叡山で天台宗を学んだが,それに飽きた足らず二度も宋へ渡って臨済禅を学んだ。 政治的能力のあった栄西は,旧仏教が朝廷の権威に依存していることを見抜いた栄西は,新興の鎌倉政権に接近しその「国教」になることを目指し成功する。 そして一度は追われた京へ「捲土重来」する。 室町時代に確定した京五山(天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五山,南禅寺は五山の上に位する),鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)はすべて臨済宗の寺である。 [道元]栄西の孫弟子にあたる道元はそれに不満を持ち入宗し大日山天童景徳禅寺の天童如浄に学ぶ。 如浄は「身心脱落」こそ禅の根本,仏教の真髄だと教えた。 「身心脱落」とは,精神や身体へのこだわりから離れた境地のことで,それを達成するための唯一の方法が「只管打坐」(しかんたざ)(ひたすらに坐禅すること)なのである。 自力修行の中でも坐禅こそが大切で,他の修行も礼拝・念仏という「信仰」も必要ないという。 坐禅こそ釈迦が初めて悟りを開いた時に行った方法であるからだ。 禅宗の開祖インドの僧侶達磨(ボーディダルマ)は,六世紀頃の実在の人物でシルクロードを経て唐に来て禅を広めた。 達磨は釈迦より二十八代目の祖師であるとされている。 禅には「不立文字」(ふりゅうもんじ)という思想がある。 真理は決して書物では完全に伝えることができないという思想である。 道元は正しい悟りの内容を知らしめるために『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)を記した。 しかし道元も思想の概略は理解できても悟ることは無理だと考えていたに違いない。 真理を得るには,優れた師によって直接教えを受けること(面授)である。 以心伝心はもともと禅の言葉である。 道元は自分の仏教を正法と称した。 曹洞宗(そうとうしゅう)は後の名称である。 中国にその源流を持ち,最澄が強く主張した思想に「如来蔵」(仏性)がある。 すべての人間にはもともと仏になる素質があるという。 これがさらに発展したのが天台宗における本覚論である。 人間はあるがままの姿で既に悟りを開いている。 それどころか草も木も成仏(仏となっている)しているというのである。 比叡山天台宗では,この本覚思想こそ「正しい仏教の在り方」として教えられていた。 法然,親鸞,栄西,道元そして日蓮はすべて比叡山「大学」の出身である。 彼等は本覚思想を克服することを意識しているといっていい。 道元の仏教は「只管打坐」こそが正しい方法とするから寺院は坐禅道場であるべきで,その他の施設は要らないとする。 禅宗が仏像を他宗に比べれば重んじないのは事実である。 このような道元の態度は比叡山から強く非難され弾圧された。 「おまえたちの主張は極端すぎる」というのである。 道元は信者でパトロンの波多野氏という越前の豪族が援助してくれたので,本拠を越前の山奥に移した。 はじめ大仏寺と称したが,後に寺号を「永平」と改めた。 これが曹洞宗の大本山永平寺である。 浄土真宗における蓮如のような存在が,曹洞宗を消滅の危機から救い,大々的に大衆化する路線を打ち出した人物がいたからである。 その人の名は瑩山(けいざん)(紹瑾)という。 彼は道元が否定的であった密教的な要素を取り入れ,祈祷を行い,武士や民衆の要求に応え得る禅風を打ち出し,弟子を養成した。 そして「在家信者との交流」,「女性住職の登用」を進め,多くの寺を開いた。 曹洞宗には総本山はなく,宗祖もいない。 実際は永平寺と並んで,瑩山が開いた総持寺(能登に創建され明治になって横浜へ移転)が「大本山」で同格であり,宗祖と呼ばない代わりに道元を「高祖」,瑩山を「太祖」,二人合わせて「両祖大師」と呼ぶ。 日本三大稲荷の一つ愛知県豊川市の豊川稲荷の本院は曹洞宗妙厳寺というお寺なのである。 世界の大宗教には「宗祖」のほかに布教の天才がいる。 キリスト教にはパウロ,ソクラテスの哲学にはプラトンが,「仏典」を編集した釈迦の弟子たち,『論語』を編集した孔子の弟子たちがいる。 もっともイスラム教のマホメット(ムハンマド)ように,一人でそれをやってしまう人もいる。 マホメット自身は,自分がイスラム教の開祖だとは考えていない。 ただ「神の声」を聞き,それを忠実に伝えるだけ,というのが彼の立場である。 日本の鎌倉新仏教にも,こうした立場の僧がいる。 その僧が選択したのは禅でも,念仏でも戒律でもなく,法華経だった。 日蓮がそれである。 [日蓮]日蓮は国内に戦争,内乱,飢饉などが起こるのは,今信じられている仏教が誤った教えであるからではないか,と考えたのである。 日蓮は数ある仏教思想(経典)の中から,親鸞が念仏を,道元が禅を選択したのと同様に,妙法蓮華経(法華経)を選択し,法華経のみが正しく他宗は誤った教えだと主張した。 人は「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば,その時「仏になっている」のであり,その人の居る場所そのものが戒壇であり,浄土(仏のいる世界)だと説く。 この現世の浄土は常寂光土と言う。 「念仏無間,禅天魔,真言亡国,律国賊」(念仏は無間地獄に落ちる行為だ,禅は天魔の所業だ,真言は亡国の行為で,律宗を信じる奴は国賊である。)という有名な「四箇格言」(しかかくげん)が出る。 円仁・円珍以降の天台宗は密教(台密という)に比重がかかっていたが,本来の教えでは法華が最高なのである。 ところが日蓮は「法華至上主義者」だった。 日蓮は『立正安国論』を書いて幕府に二度に亘って提出する。 邪法(浄土真宗)をやめて法華経に帰依せよ,さもなくば外国から侵略されて国が滅びるぞ,という趣旨の建白書である。 但し,この外国からの侵略論(他国侵逼難)は法華経の中の文言ではなくて彼が三年間一切経を渉猟して金光明経,大集経(だいじつきょう),薬師経などにその根拠を見出したものである。 ここには強引な論理の飛躍がある。 日蓮は幕府や念仏宗徒から生涯で四度の法難(迫害)を蒙る。 一度は斬首刑の寸前まで来たことまである。 しかし彼は迫害を受ければ受けるほど,ますます過激な行動に出る。 法華経は絶対に正しい → ゆえに他宗を非難する → 非難するから迫害を受ける → 法華経にはこの経を広める者は法難を受けると書いてある → だから法華経は絶対に正しい,という論理で,日蓮は自らを法華経従地湧出品が説く「上行菩薩」の再来と確信した。 しかし日蓮の予言は半ば適中し半ば外れた。 蒙古軍は来襲したが鎌倉幕府は勝利した。 これは日蓮にとって「敗北」であった。 弘安役の翌年日蓮は病死する。 昭和前期のファシズムの指導者の中に少なからず「日蓮主義者」がいたのは事実である。 満州事変を起こし満州国建国の道を開いた軍人石原莞爾。 「二・二六事件」の精神的支柱となった北一輝。 井上準之助,団琢磨を暗殺させた井上日召。 その他多くの有名無名のファシストたちが熱烈な「日蓮主義者」だった。 念のため付け加えると,日蓮信仰=ファシズムでもないし,天皇絶対主義でもない。 日蓮自身はアマテラス(天照皇大神)すら法華経の下に属するものとしてとらえていた。 しかし,天皇絶対主義と日蓮の法華思想とを巧みに結びつけた思想家たちがいた。 その代表者が田中智学である。 日本は法華に基づいて世界を統一すべき使命を持った特別な国である,と規定する。 日蓮こそ,その世界統一軍の「大元帥」であり,日本人はその「天兵」であるとう,日蓮の考え方とは大きくかけ離れた理論を考え出した。 この考え方を発展させれば,世界侵略すら一つの「折伏」として肯定されることになる。 石原莞爾も北一輝もこの影響下にある,とも言える。 「侵略」自体は日蓮の責任ではない。 しかし,日蓮の持つ「論理の飛躍」が,その「弟子たち」に脈々と受け継がれているのも事実である。 また,日蓮宗系の宗教自体すべてに通じる欠点といえば,自己に対する批判を「法難」としてとらえる傾向が強い,ということだ。 C 元寇と日本人 唐という大帝国ができて,それまで独立していた遊牧民族が唐の支配化に入ることになった。 遊牧民族にとっては屈辱的なことではあったが,その結果それまでバラバラだった民族が「一つの民族」であるとの自覚を持つようになった。 それと同時に,唐の統治システムも唐文化の洗礼を受けて改善された。 唐の滅亡のあと五代十国の時代を経て宋が中国を統一する。 宋は歴代王朝の中でも軍事的には最も劣っていた。 それは周辺の遊牧民族が,唐の支配下に入ることによってかえってその文化を学び,次々に有力な国家を建設したためである。 宋のライバルは遼(契丹)であり,金(女真)であり,最後が元だった。 1126年,金は宋の徽宗と欽宗の父子を皇帝の位から庶民の位へ落とし,現在の黒龍江省へ流罪とした。<靖康の変> 金は中原を制したものの,中国全体を統治するだけの力はなかったので,宋との外交交渉に応じ南の杭州を首都として,いわゆる「江南」の地を領有する国家として存続することを認めた。 宋代は,誇り高き漢民族にとって中原を「野蛮人」が支配するようになった時代,中華思想が政治的に崩れた時代である。 宋学すなわち朱子学は南宋の学者朱子(本名朱熹)によってて完成されたものだが,朝鮮や日本にも多大の影響を与えた。 朱子学(特にその大義名分論,尊皇攘夷論)はその発生状況からみて,「負け犬の遠吠え」的空論である。 明治維新を達成した人々のバイブルとされた,日本の朱子学者浅見絅斎の『靖献遺訓』の中で,宋の滅亡の原因を「目先の平和を求めて軟弱な外交を展開した秦檜のような売国奴的政治家が,岳飛のような愛国者を陥れたからだ」と書いている。 これは昭和初期の軍人たちの考えともぴたり重なる。 モンゴルが高麗を服属させた時点では,まだ南宋は存続していた。 そもそも高麗を従属させたのは執拗な抵抗を続ける南宋を孤立させるためであった。 次にモンゴル(下って1271年,モンゴルは国号を「大元」と定める)は南宋とつながりのある国を圧迫し,自分の味方にしようとした。 白羽の矢が立ったのが日本なのである。 日本を選んだもう一つの理由は「黄金の国」日本の魅力である。 モンゴルは日本に1266年と1268年と1269年に延べ四回国書(実質的には脅迫状)を送る。 もっとも1回目との国書は高麗の策略で,三回目は日本が入国を拒否したため日本には渡らなかった。 軍事政権である幕府は外交センスが欠如しており,元寇の前後を通じて一度も返書を送っていない。 1271年,高麗降伏後も反抗を続けていた高麗の近衛軍の残党「三別抄」から援軍要請が来るが,日本側にその意味が分かる人間が一人もいなかった。 もしなんらかの援助をしていれば,モンゴルはそれに足を取られて元寇は行われなかった可能性がある。 1273年三別抄は滅亡する。 この間フビライは日本征服の野望を捨てず,1271年新たに女真人趙良弼を日本国信使に任じ日本へ送り込む。 彼は翌年正月高麗に帰り,同年7月再度来日し,一年間大宰府で粘った。 彼の真の目的は九州の偵察であったとする説が妥当である。 幕府は鈍感にも彼を国外追放もせず放置していたといえる。 1274年(文永十年)と1281年(弘安四年)の二回にわたる元寇で日本が勝てた最大の原因は海の存在である。 日本が勝てたのは D 後醍醐天皇の野望 [恩賞なき勝利が招いた鎌倉幕府の崩壊] 元寇は,確かに得宗専制政治を強化する好機であった。 しかし,同時に北条氏が実質的な「王」になるということは,政治のあらゆる面において,「御家人連合」ではなく北条氏が単独で責任を持つ体制になったということでもあった。 そこで採られた政策は「惣領制」である。 優秀な人間を一人「後継者」として選,財産はすべてその人間が継承するという方法である。 必ずしも長男とは限らない。 かなり無理な制度であるが,それでも惣領制は定着していく。 しかし,新たな問題を生じた。 誰が選ぶのか,家長が選んだとして,不満を持った兄弟がいたらどうするか。 これが次の室町時代に大問題となる。 幕府はもともと東国武士の連合政権として生まれた。 西国には天皇家や高級貴族が開発した荘園が多く,鎌倉幕府から任命された地頭も,完全にこの荘園を奪うことはできなかった。 本所(荘園を持つ大領主,天皇家や高級貴族や有力寺社が多い),領家(地方の領主で,名目的に本所に荘園を寄進した者)の権利は認めざるをえなかったからである。 もう一つ幕府の手の届かない領域がある。 それは商工業者の世界,経済界と言ってもよい。 この時代,日本の方がヨーロッパよりも商業は盛んであった。 中世ヨーロッパは,日本と同じく,実体は武装農民である騎士団が領地で農業を営んでいるが,それ自体は自給自足の経済圏であるから,商業は必要ない。 幕府政治の行き詰まりは明白だった。 ここにおいて,幕府を倒して新しい政治を始めようという強烈な意志を持った人間が出現した。 それが第96代後醍醐天皇である。 第88代後嵯峨天皇には二人の皇子(兄:久仁,弟:恒仁)がいた。 上皇となって,一応兄久仁(後深草天皇)に位を譲ったが,14年後に,弟の恒仁(亀山天皇)に位を譲らせた。 後嵯峨は弟の方を偏愛していたしていたくせに,皇統について明確な指示を残さずに死んだ。 これが天皇家の分裂を招くことになる。 後深草上皇に同情した北条時宗が,亀山の子である後宇陀天皇の皇太子に,後宇陀の子の邦治(くにはる)てはなく,後深草の子の熙仁(ひろひと)を立てるという調停案を出し,これが朝廷の分裂をさらに深めることになった。 まるでキャッチボールのように,皇位は両統を行き交うものになった。 この両統がそれぞれ院政を行った場所にちなんで,後深草の系統を持明院統,亀山の系統を大覚寺統という。 後醍醐はエネルギーあふれるしたたかな人物であり,朱子学に心酔した人物であった。 朱子学においては,最高権力者を「王者」と「覇者」に分ける。 覇者とは覇道により天下を治める悪い者である。 つまりモンゴルは覇者であり,我々宋人が真の王者であると言いたいのである。 後醍醐は不撓不屈の精神を持って倒幕を三度試み,三度目にようやく成功している。 二回目の元弘の変の時は後醍醐は捕らえられて隠岐ノ島へ流されて,そこで一年近くを過ごしている。 元弘の変は前後に分けるべきものとの思うのでここでは二回として数えている。 後醍醐はなぜ執拗に武家政権を嫌ったのかというと,ケガレ忌避の感情からである。 後醍醐は幕府のことを一貫して東夷と呼び,神聖な国土を,武士のような殺生を職業とする者に支配させることを許さないという意識を強く持っていた。 しかし,朝廷は平安時代以来軍隊を持っていない。 後醍醐がまず味方につけようとしたのは「異形」である。 正規の武士ではない「非御家人」,その中で反体制ゲリラとも言うべき階層である「悪党」,公家でも高い身分ではないが,その才能を後醍醐に認められ重用された日野資朝,俊基。 怪僧文観なども,広い意味での「異形」の範疇に入る。 後醍醐は非御家人や武装した商人たち,すなわち「悪党」を,ケガレているからといって遠ざけることなく,積極的に登用し抜擢した。 「悪党」の側から見れば,後醍醐は自分たちを日のあたる場所に出してくれる「名君」である。 「悪党」とは,ごく簡単に言うと,東国の「自給自足農業経済圏」と,西国を中心とした「商業経済圏」という二大経済圏の中で,幕府の支配とは違う,別の世界から出てきた「反逆者」である人々といえる。 後醍醐の大忠臣となる楠木正成(くすのきまさしげ)が,この意味での「悪党」であったという確証はないが,そうした雰囲気の中にいた人物であることは確かだ。 「楠木正成」は謎の人物である。 家系も身分も不明,河内の出身であることは分かっているが,そもそもの本拠地がどこだったかもわからない。 確かなことは河内に根拠を持つ豪族で,身分はたいしたことはなかっただろうということだ。 正成と後醍醐を結びつけた接着剤は朱子学である。 文書史料こそないが,二人ともその生涯と行動はおおむね朱子学の原則通り貫かれている。 注目すべきは,正成が幼時に学問を学んだと伝えられる河内の観心寺(国宝の如意輪観音で有名)は,後醍醐の属する大覚寺統の支配だということだ。 天才的軍略家楠木正成や後醍醐の子護良(もりよし)親王などのゲリラ活動が導火線となって,結局有力御家人である足利尊氏や新田義貞らの「裏切り」によって幕府は崩壊する。 武士の権益を保護すべき幕府がまったく機能しなくなった制度疲労状態に大いに不満を持った御家人パワーが炸裂したのである。 E 後醍醐天皇の親政 後醍醐の目指した政治=天皇親政(律令制)を柱とする朱子学的な絶対専制政治,換言すれば中国型権力一極集中式への「大行革」である。 まずやったことは平安・鎌倉を通じて積み重ねられてきた土地所有に関する慣習及び既得権をすべて白紙に戻したことである。 新たに綸旨を得た者のみが権利を主張できると宣言した。 都は大混乱となった。 殺到する訴訟にたまりかねた後醍醐は一ヶ月余り後,北条氏とその余類以外は,これまでの所有権を認めるという線に後退し,実質的に撤回した。 政治機構に関する後醍醐の政策と狙い (@) 関白制(臣下が天皇の権限を代行すること)の廃止 (A) 八省の長に大臣クラスを配置する 摂関政治以来,八省の上に関白を中心とする大臣クラスの合議体があり,ここで最高意思が決定されていた。 後醍醐は大臣クラス(藤原氏などの高級貴族)を八省の長に「降格」させて合議体を解散させようとしたのである。 そうなると後醍醐一人に国家のあらゆる案件が集中することになるから,事務処理機関が必要になる。 (B) 記録所・恩賞方・武者所・雑訴決断所の設置 記録所は重要案件を審議する場所, 恩賞方は恩賞の査定を行う機関, 武者所は御所警備の武士を統括する機関, 雑訴決断所は殺到する土地訴訟に裁決を下すことができる機関。 (C) 蔵人所の充実-------―後醍醐の秘書官 (D) 征夷大将軍を任命しない これは倒幕に功績のあった護良親王がこの職位を要求したのですぐ崩れた。 それに不満を持つ足利尊氏には正三位の位を与え公卿の地位にのぼらせた。 そして自分の名(諱(いみな))の「尊治(たかはる)」から一字取って「尊」の字を与えた。 それほどまでしても後醍醐は足利尊氏を政権の中枢から遠ざけたかったのである。 (E) 国司制度の整備強化 律令制度の下では,「国」はすべて公領であり,中央から任命された国司がすべて取り仕切ることになる。 しかし,これも実際には理想通りにはいかず,幕府の制度である守護が残り,国司と守護が併置されることになった。 特に武蔵の国は国司と守護が同一人物で,それは他ならぬ足利尊氏であった。 なぜこんなことになるかといえば,日本は中国とは違って武装農民の国であるにもかかわらず,そこに中国の制度を無理矢理当てはめようとするからである。 後醍醐は建武という新年号を樹てると,今度はやりたくてたまらなかった大事業に乗り出した。 それは,大内裏の造営である。 単なる新皇居の造営てはなく,首都の作りなおしというべきである。 『太平記』によれば,そのため後醍醐は周防・安芸の税収すべてをつぎ込み,なお足らないので武士全員に「二十分の一税」を課したという。 本来は減税をして民力休養を図らねばならない時期にである。 武士の目から見て後醍醐の政権になってからいいことは一つもない。 当然不満がつのる。 公家にとっても後醍醐は秩序の紊乱者である。 後醍醐は,朱子学という当時最先端の「輸入経営哲学」によって,日本を改造しようとし失敗した。 後醍醐の「政治理念」が日本の根本的な統治理念である「血統信仰」に抵触するものであったことが,新政失敗の最大の原因ではあるまいか。 新政の崩壊は,旧幕府系の人々の反乱によって始まった。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 F中世王権編―太平記と南北朝の謎」発行:小学館(1999年) @ 戦乱を招いた天皇絶対国家の理想 欠コの帝王後醍醐天皇 「建武の中興」で後醍醐天皇は鎌倉以来の土地所有を白紙にして,全て天皇の親政により改めて決するなどの大失政をし,武士勢力から見捨てられた。 足利尊氏は戦争の名人ではあったが,人柄は極めて穏やかで優柔不断の傾向があった。 頼朝や家康にあって彼にないものは政治家としての非情さである。 反対に弟の直義は戦争下手だが,外交や謀略には優れた才能を持っていた。 二人は合わせて一人となるべきところが,最期は敵味方に分かれたところに不運があった。 せっかく北朝を建てた尊氏もまた直義も終始北朝側についていたわけではなく,戦術上都合のよいときは南朝方に降伏するという,首尾一貫しない態度をとり,南朝を延命させて混乱を長引かせた。 南朝方の貴族であり武士でもある北畠顕家が数え年21で戦死する前に後醍醐天皇へ送った諫書には,激烈な調子の言葉が連ねてある。
A 『太平記』の構成と作者の思想
後醍醐が北条幕府を倒したのも,世の中をよくするためというよりは,誤った朱子学に基づいたひとりよがりの「正義」のためであり,天皇として贅沢三昧を極め自分の子孫で皇位を独占するためであった。 そのため彼は忠臣を使い捨てにして恥じない。 そういう欠陥人間だからこそ,ついに総スカンを食らって吉野の山に都落ちする。 「太平」という言葉ほど後醍醐という人間の独善性,身勝手さを的確に表現している言葉もない。 「大忠臣」楠木正成はなぜ死なねばならないか。 「君主がアホであってこそ,本当の忠臣が分る」からである。 仮名手本忠臣蔵でも 「浅きたくみ(思慮の浅い)の塩谷殿」という台詞がちゃんとある。 そういう「バカ殿」のために命を捧げた太石内蔵助らは偉いのである。 そして,浅野匠頭長矩はなぜ日本では名君にされたか。 それはこのまま放っておけば怨霊になってしまうからである。 ここが本場?中国の忠義とは違うところである。 「原・太平記」の作者(小島法師)は巻四に登場する児嶋三郎高徳であるという説は正しい。 「太平記」という物語は後醍醐の死を以って「終わっている」のである。 23巻以降は別の思想を持った人間によって書かれたものであると考えるのが自然である。 同時代の死者のみならず源平の争乱時の怨霊までが登場してきて大暴れする後半は,「怨霊たちに存分に暴れさせればさせるほど鎮魂の効果が上がり,現実の世の中は平和になる」からである。 江戸時代になると朱子学が盛んになり,南朝が正統であるとされるようになった。 確実に勝ったのは北朝で今の天皇家も北朝の子孫であるのにだ。 なぜかはいうまでもない。 B 足利三代将軍義満の天皇家乗っ取り計画は成就寸前に朝廷側の義満暗殺により瓦解 所謂建武の中興以後,天皇に対する神聖感が著しく損なわれた。 義満は1392年(明コ3年),南北朝を「合一」させ,永らく国を割った戦乱を見事に収束させた。 その手段は南北朝の迭立(交互に即位)を餌にした南朝からの三種の神器の「詐取」であった。 南北朝統一の時義満は南朝を懐柔するため後亀山天皇(南)を後小松天皇(北)の「父」に準じるとして強引に「上皇」の尊号を贈った。 これは朝廷の人事権を掌握したことを意味する。 義満は生まれながの将軍であり,後円融天皇とは母方のイトコの関係にあった。 1382(永コ二)年には既に左大臣になっていた。 1394(応永元)年には太政大臣になるが,1395(応永二)年には太政大臣の官を辞し出家する。 義満は出世を望む皇族・公家たちに「妻」たちを差出すように求めた。 朝廷は義満の「ハレム」状態であった。 1383年(永コ3年),義満と同年齢で気の弱い「坊ちゃん」後円融天皇が夫人の一人三条厳子を刀で峰打ちにする事件が起きた。 天皇の子・後小松天皇は義満の不倫の子であった可能性が非常に高い。 従って後小松天皇の妾腹の子で僧籍に入った一休宗純は義満の孫にあたる可能性がある。 (一休宗純は,江戸時代に彼の奇行に仮託して創作された「一休頓智咄」の主人公,子供にも人気がある所謂「一休さん」である) 義満自身の発意によるモニュメントとしての相国寺の七重大塔は御所を見下ろす高さを誇った。 その一大イベントである落慶法要(1399(応永六)年)にあたり,朝廷に対し宮中“御斎会”(天皇の法事)に準ずる宣下を要求しておいて,自身を法皇と位置付ける儀礼を参列者すべてに強制した。 義満は皇統断絶を図って継承権のある男子は全て幼少時に僧侶にした。 一休宗純も幼少にして寺院に入っている。 天皇家は口減らしのため皇子を門跡寺院に入れてその長にする。 これは宮家を興すより安くつく。 義満はそれにならって自分の子どもたちを門跡寺院に押しこんだ。 (その一人が義円で,青蓮院に入り後に天台座主(ざす)となった。 のち還俗して六代将軍義教となる) 義満の構想は,溺愛した次男の義嗣を後小松天皇の養子にし,天皇に譲位を強制する積もりであった。 1048年(応永15年)4月25日,義嗣は宮中において親王の格式に準じて元服した。 その夜,小除目(こじもく 臨時の人事令)が行われ,義嗣は参議に任じられ従三位に叙せられた。 4月28日義満は俄かに発病し,約1週間後に死んだ。 享年51歳。 北山第(きたやまてい 後に謂う金閣寺)は“足利上皇”の大内裏として建設されたもの
足利将軍義満は既に明国に入貢し日本国王臣源道義という称号を得ていた。 義満の急死後,朝廷は「太上天皇」の尊号を追贈しようとしたが,幕府側(四代将軍義持<=義満の嫡子>と長老斯波義将)は拒否した。 朝廷側は怨霊の怒りを鎮める目的でそうしたと考えられるし,後小松天皇の実父が義満であったとすれば,そこに「太上天皇」を贈るもう一つの理由がある。 のちに後小松の子,称光天皇が28歳で亡くなったとき,朝廷は庶兄である一休を還俗させて即位することをせず,後小松天皇の曾孫に過ぎない伏見宮彦仁親王を次代の天皇(後花園天皇)とした。 これで義満の血は完全に排除されたことになる。 《注記》織田信長の安土城と義満の金閣寺にはある共通点がある。(→第10篇参照) C 「恐怖の魔王」足利義教(よしのり)はもっと評価されてよい政治家である。 室町時代とは絶対的権力が結局確立できなかった時代である。 大名連合の上に立つ幕府は結果として地方に強い権限を持たせた。 その最大のものが鎌倉府である。 ここに政権を置けなかった足利尊氏は鎌倉に最初義詮を,次に次男基氏を関東へ派遣した。 基氏はこの地に定着し,その子孫は関東公方を称した。 室町幕府には職制として三管領四職というものがあった。 管領とは鎌倉時代の執権に相当するもので,細川・斯波・畠山の三氏から交代で任命されるもの,四職は侍所の長官として山名・京極・一色・赤松の四家から選ばれるものである。土岐氏を含む五職であったとする最近の研究もある。 四代将軍義持は有力守護大名の合議(宿老会議)の頂点に立つ存在にすぎなかった。 義持が家督を譲った義量(よしかず)は19歳で夭折し,義持には僧籍の弟が四人いたが,宿老派閥の反対を恐れて後継の将軍を決めることを数年間ためらった。 重病に倒れた義持は尚決めることができず,ついに,宿老会議と将軍の連絡役を勤める護持僧三宝院満済は“神のお告げ”である「くじ引き」で後継将軍を決めることを決めた。 1428年(正長元年),義持が死去し,くじが開封され,青蓮院義円が当選した,即ち六代将軍義教である(将軍就任はその翌年)。 絶対権力の確立を自己の政治的課題とした義教は管領の力を抑えるため,義満の創設した奉公衆(近侍した家来のことで一種の将校団)を強化しようとした。 彼が先ず支配下に置かなければならないのは,正長土一揆の誘因ともなった関東公方であったが,その討伐計画は有力大名の制止により断念させられた。 次の目標としたのは,南朝が本拠を置いた地域の一つにして以来乱れていた九州の統一である。 これはかつての反逆人大内義弘の子である持世に家督相続を許すという思いきった手段をとり,持世は知遇に応えて,大友と少弐の二氏を滅ぼし山口へ凱旋し,ここに九州の主要部は平定された。 次の敵は義教が座主を務めたこともある天台宗総本山比叡山延暦寺である。 当時の大寺院は広大な荘園を所有し,門前町である坂本周辺の巨大な経済利権を所有した。 この時代の質屋つまり金融業者を土倉(どそう)というが,土倉は延暦寺下級僧侶の経営であることが多かった。 各地に設けた,関銭を徴収する「関所」も大名と並んで巨大寺社の利権である。 巨大な富があればそれを守る武力が必要となる。 延暦寺の僧兵はライバルである三井寺(園城寺)を前後七回も焼き打ちしている。 神輿(みこし)を担いだ僧兵たちによる「強訴」という朝廷に対する無理難題の押しつけには歴代天皇(上皇)や室町幕府も手を焼いた。 義教は延暦寺を武力(六角氏・京極氏らの軍勢)で制圧し,僧兵は神輿を担いで根本中堂に立てこもる。 徹底的な攻撃は諸大名の反対からできない中,寺側からの和議で一旦中止したのちも,謀略で挑発して延暦寺側を憤激絶望させることにより,ついに僧侶たちは根本中堂に火を放って焼身自殺を遂げる。 人々は義教の行動を天魔の所業と批判した。 最後に義教は謀略を駆使して幕府の獅子心中の虫,関東公方の足利持氏とその勢力を完全に滅ぼす(持氏とその子まで全てを殺した)が,その直後の1441(嘉吉元)年,赤松教康(父の赤松満祐(みつすけ)は直前に隠居していた)の屋敷に招かれ,そこであっけなく暗殺される。 義教は守護大名により掣肘されることが多かったから,彼等を服従させる体制を築くため,将軍の権威で以って大名の相続問題に介入するという手段を取った。 三管領五職のうち,相続介入を免れたのは,何事も「イエスマン」を貫いた細川家と,先手を取って義教とそりの合わない満祐を「乱心」と偽って当主交替をした赤松家だけであった。 義教の横死について天皇の父でもある伏見宮貞成王はその日記(『看聞御記』) に「自業自得」と書き,「将軍犬死」とも評した。 しかしながら,室町幕府が絶対権力の確立が出来なかったために日本は戦国時代に突入したのである。 義教は国の指導者としてそれをやろうとして,「比叡山制圧」,「鎌倉府覆滅」,「九州制覇(室町幕府としての「最大領土」の獲得)」という三大課題を達成したその時に横死した。 信長・秀吉・家康は義教の「弟子」なのである。 清朝の乾隆帝は「中華民族の国家としての最大領土を獲得した」が故に,即ち他民族を大いに侵略したが故に,偉大な君主と称えられている。 チンギスハーン(成吉思汗),ナポレオンまた然り。 義教を正当に評価しない日本の歴史家は間違っている。 司馬遼太郎氏が「権力が一人に集中することをこうまで避けつづけてきた社会というのは,他の国にはないのではないでしょうか」と書き,織田信長の最期について 「しかしながらかれの独裁政権の基礎がどうやら確実になろうとする,いわばその妙機においてかれはその批判者のために斃されてしまっています。 批判者は自分の権力をつくるためというよりも,その行動と状況からみれば,倒さんがために倒したという極めて発作性の強い行動をとっているのも,日本的原理からいえば,発作的であるがために原理的行動としては純度が高いように思われます」 と書いている。 赤松満祐と明智光秀とはその行動において極めて類似している。> 赤松満祐が義教を暗殺した直接の動機は,満祐の弟義雅が義教の不興を蒙って所領を召し上げられ,その大部分が一族の庶流に属する赤松貞村に与えられたことにあるといわれる。 満祐もいずれそうなることを恐れて先手を打ったのである。 丹後の領地を取り上げられ未だ敵の領地である毛利の所領を切取り次第で与えると信長から告げられて,信長反対勢力に唆され本能寺に攻め込んだ光秀と置かれた立場と行動もよく似ている。 この際,赤松貞村が義教と男色関係にあるお気に入りの家来であったことは,信長と前田利家との関係と同じであり,義教のみが非難される理由にはならない。 それによって政敵を弱体化させることは政治的に意味のある行動である。 日本の戦国時代の口火は赤松満祐によって切られたと言える。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 G中世混沌編―室町文化と一揆の謎」発行:小学館(2000年) @ 「懶惰の帝王」足利義政 強力なリーダーシップを持った第六代将軍義教<よしのり>が殺されて,有力大名を統制できる将軍がそれ以後出ることがなかった。 義教が「恐怖」という手段で実現した寺社統制も,元の木阿弥になった。 長男の義勝が10歳で死去し二男義成(のち自分で義政と改名)が第八代将軍となる。 義政は政治的には全く無能で,やる気のない「懶惰の帝王」であったが,庭園と造園を好み,優れた審美眼を持っていた。 義政は若年時から引退を望み,出家していた弟の義尋<還俗して義視>を口説いて後継者にした。 義尋は義政に男子が生れても出家させるという条件で還俗した。 後見人に細川勝元がなった。 一年後正妻の日野富子に男子が生れた。 後の九代将軍義尚である。 富子は山名持豊を義尚の後見人にする。 富子は義尚を将軍にしたいと考える。 優柔不断な義政は決定を引き延ばし,将軍にとどまり続ける。 義政の時代は混乱の時代であった。 将軍家も大名家も公家も,そして天皇家も内紛の火種(家督争い・後南朝)を抱えていた。 鎌倉時代は,場合によっては女子もも含めた均分相続制であった。 これは「家」の力を弱め,ひいては鎌倉幕府の弱体化を招いた。 室町時代は惣領制が採用される。 簡単に言えば,「優れた者に家督を継がせる」もの。 候補者が何人もいる場合はどうするか? 西洋ならば「法」で規定するところを,日本では古来から何でも話合いで決める。 公家も武家も明確な相続法が確立していなかった。 A 守護と守護代 守護職は幕府から任命されるもので,必ずしもその国の「領主様」ではない。 中央で更迭されれば,その土地の支配権を失う。 そこでうかうか京を離れるわけにいかなかった。 不安定名な権力を安定化させるために,地方の国人 (小豪族)たちを,直接自分の家来にしようとした。 これが被官化である。 この状態がさらに強化されれば,大名というものは都に住むのではなく,「御領主様」として現地に住む形になる。 これが戦国大名というものになる。 室町時代はその過渡期にある。国人にとっては常に現地にいる守護代(副守護)の方がなじみが深いし,守護代も国人を統率しやすい。 守護代には国人のトップクラスが抜擢されることが多かったからだ。 戦国大名として有名な越前の朝倉氏,美濃の斎藤氏,尾張の織田氏は,すべて守護代の家から成り上がった家柄である。 B 応仁の乱 応仁の乱は1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)にかけて足掛け11年に及ぶ。 発端は元管領である畠山家の内紛であるが,それに,もともと対立していた山名持豊(宗全)と細川勝元が介入する形で始まった。
最初,将軍は山名側の手中にあったが,直ぐに細川勝元が「奪取」し,人事を行い,将軍の名で山名方の大名から守護職を剥奪する。 山名宗全は巻き返しを計り,義視を迎えて「将軍格」として様々な人事を発令する。 まさに道義などどこにもない,なんでもありの世界である。 義政が勝った側の言いなりになっていたことが混乱の最大の原因である。 1473年(文明5年),山名宗全と細川勝元が相次いで死去し和平の気運が高まる。 そんな中でなんと義政は八歳の義尚に将軍職を譲り,東山山荘(銀閣寺)造営に熱中する。 それから四年後,山名側の降伏という形で,西日本全域(山内氏を巻き込む)を巻き込んだ未曾有の戦乱は京の都を灰にし,将軍の権威を地に落として終わる。 15世紀の気象は≪冷涼+多雨≫という特徴があり,大凶作とその結果としての大飢饉は日本史上有数のものであった。 これが政治に影響しなかったとは思えない。 C 複雑な土地所有 律令制は公地公民制であるが,高級貴族や有力寺社がそれを崩していった。 彼等は自分たちの農地は農地ではなく別荘の庭園であるとして合法的な脱税を始めた。 これが荘園である。 鎌倉幕府体制とは土地の実際の開拓者でもあり運営者でもある武士が正式な土地所有者となる体制で,武家領が発生する。 地頭(荘園の現地マネジャー)と守護(地方の「管区軍司令官」)も様々な形で荘園を横領し,国人を支配下に置いていった。 室町時代はこういう新旧各種の土地所有形態がまだら模様のように並存していた。 D 「悪政」の象徴 関所 室町末期の関所は検問所というよりも関銭(通行料・流通税)を徴収するためのものだった。
これはコストにそのままはねかえるから大いに経済と流通を阻害する。 ところが,特権商人に限っては関所はフリーパスなのである。 そういう商人のグループを「座」という。 「座」の背後にいて商売のあがりを掠め取っているのが巨大寺社で,そのライセンスがなければ商売ができない。 そのため莫大な上納金が要る。 商人はその分を価格に上乗せする。 ライセンスなしで商売を始めると,座や寺社の雇った私兵から文字通りタタキ殺される。 市場でも事情は似ている。 この時代,大きな市といえば寺社の門前町である。 例えば大津は比叡山延暦寺のお膝元であり,交通の要衝である。 こういう市場も巨大寺社が市の権利を握る。 其処で物を売るにはやはり莫大なテナント料を寺社に上納するしかない。 このような状況を克服するには,寺社の許認可権と座の特権の廃止と門前町に代る新しいコンセプトの大都市の誕生 が必要である。 それを可能にするのは,大名クラスの軍事力を持った人間だけである。 それを実現したのが織田信長<楽座・関所撤廃・城下町建設と楽市>であった。 E 国一揆と一向一揆 一揆といえば普通 国一揆(国人層の反乱)であるが,1428年(正長元年)の初めての土民による一揆は土一揆と呼ばれる。 この時代を象徴する二つの大きな一揆。
本来,浄土真宗(一向宗)の宗祖親鸞の教えは阿弥陀如来の絶対性と極楽往生を信じて何もしなくていい,というもの。 従って儀式も教団も不要,修行も作善も不要になる。 その教えに忠実であった,親鸞の血筋を引く本願寺派は衰退する一方,浄土真宗の他の宗派が巧みなパフォーマンスで信者を増やした。 本願寺派を中興したのが蓮如(第11世)である。 恐るべきエネルギーの固まり,5人の正妻から27人の子供を作り,85歳まで生きた。 蓮如の取った行動とは, ・ 親鸞の教えを手書きの,平易な文章で説いた“御文”を何千枚と書いて布教 ・ 信者同士の小集会の勧め(“講”) これにより滅亡寸前の本願寺派の教勢を回復し,他の教団を圧倒した。 巨大組織になった“講”はいったん出来上がると蓮如の思惑とは違う方向へ走り出す。 講の寄合いが,勉強会からリクリエーションの場,農民の領主や寺社に対する不満の捌け口になる。 暴走への転換点は地方武士(土豪・国人クラス)の一向宗への帰依である。 蓮如が信仰の拠点になる大寺院(=御坊)建設地として選んだのが越前河口荘の吉崎である。 そもそも加賀の守護富樫政親と弟の幸千代は応仁の乱に東西に分かれて争った中。 政親に真宗専修寺派が加担,一揆を起こし,1476年(文明8年)幸千代の蓮台寺をおとす。 門徒たちは政親への年貢を納めなくなり,一揆と政親が対立抗争が始まる。 一揆は一揆を追放してしまう。 蓮如は暴走を戒める御文を度々発行したが効果なし。加賀は一揆の独立王国になった。 F 室町文化の光と影 (1)世阿弥の正体と「能面」の仕掛け 怨霊と鎮魂――この二つの観念が,出雲大社を築き,「万葉集」を編み,「聖徳」太子を生み,「源氏物語」を作った。 そして怨霊信仰が生んだもう一つの芸術,それが能である。 世阿弥が創始した能の形式で,最も評価されているのが夢幻能であるが,これは主人公が亡霊であるというユニークなものである。 この世に未練を残して死んだ人は必ず怨霊になり無闇に放置するとタタリをなす。 したがって,怨霊は単なる亡霊ではなく,「神」でもある。 だからこそ,怨霊信仰という「宗教」が根っこにある「宗教劇」で,亡霊が主役になれるのである。 亡霊の思いのたけを舞台の上で演じ(というより,その場に霊を呼び出し),その名を記憶に留めることこそ,最大の鎮魂であったと思う。 このような高度な芸術が生れたのは,単に世阿弥(本名:観世三郎元清)の天才によるのではなく,超大物パトロン,足利義満が公私に亘って世阿弥を援助したからである。 1374年(応安7年)世阿弥12歳,義満17歳のとき,京都の今熊野神社での興行に将軍が来臨するというので,世阿弥の父 観阿弥が一座の座長の権力で,本来長老が演じる『翁』という一種の神事のような演目に世阿弥を出演させ,義満の目にとまるように計らった。 当時 世阿弥はまだ鬼夜叉という芸名の絶世の美少年であった。 義満は大いに気に入りパトロンになる。 そして鬼夜叉の「家庭教師」として当代一の教養人関白二条良基を指名した。 当時の常識としては,庶民は貴族と同じ場に立って言葉を交わすことすらできないのに,ましてや河原者と呼ばれた下賎の芸能人である。 しかし良基は和歌・連歌・史書などの最高の教育を鬼夜叉少年に施すうちに,その魅力のとりことなり,ついには「藤若」という名を与えた。 世阿弥が今日その著書『風姿花伝』などにより演劇理論家として知られるのは,その受けた教育によるところが大きい。 「怨霊鎮魂劇」がなぜもっと早い時期に生れなかったのか? 平家物語が琵琶法師という僧形の芸人によって語られるのかというと,演者には常に亡霊が憑依する(のりうつる)危険があると本気で信じられていたので,仏教という外来の思想を,怨霊鎮魂の方法論として,また死穢処理の方法論として利用するようになったからである。 平安時代の中頃は,藤原道長ですらいったん「死体」となると「死穢の汚染物」として山の中にすてられた。 道長の正式な墓は今でも所在不明である。 鎌倉時代に入ると,仏教の僧侶が死体を丁寧に葬るということを始めた。 医者も高級な医者になるほど頭を剃って僧体となり法印のような位をもらっている。 そういう伝統が崩れたのは,江戸時代に入って儒教の影響力が強くなってからのことである。 名前に阿弥(阿弥陀仏の略)を付けるのは,時宗の信者の慣習である。 しかし世阿弥,観阿弥が時宗の信者であった確証はない。 これは「僧に准じた」と考えればよい。 ただ演劇の場合,「入魂の演技」をすればするほど怨霊に憑依される危険性が高くなってしまう。 その問題を解決する手段が仮面である。 面という伝統的な道具を用いて,亡霊を,鬼神ではなく人間の亡霊を劇の主人公にしたことが,世阿弥の言う「申楽(猿楽)の能」の最大の功績である。 日本の演劇史においては,喜劇の伝統の方が古い。 平安時代末期の猿楽も滑稽な仕草や物真似や台詞で,観客を笑わせるものだった。 演劇の重大な要素である「笑い」は狂言に行った。 能楽とは能と狂言という意味である。 世阿弥が能を芸術的に完成させたために,本流であったはずの狂言の方がむしろ「從」であるということになってしまった。 これは能が室町幕府「公認」の芸能になったことも大きい。 能が現在も演じ続けられている理由の一つは,素人でも装束と面をつければ,プロの地謡の「伴奏」のもとに,それなりの芸が披露できるという点である。 秀吉は大の能ファンであった。 能は徳川幕府の公式式樂となった。 世阿弥は長い間歴史上忘れられた存在であった。 世阿弥の著作が公刊されたのは明治以降のことで,その道の関係者以外の一般人にとっては全くの無名の人であった。 そこが松尾芭蕉などとは違う。 浄土真宗の開祖といわれる親鸞が長い間歴史の中に埋もれていた人であったことと似ている。 (2)日本将棋 現在の将棋はもと小将棋(駒数40枚)といい,これ以前に大将棋(駒数130枚),中将棋(駒数92枚)が存在した。 大・中将棋は駒は「取り捨て」である。 「駒の再使用」は小将棋になってから採用されたルールである。 将棋の原型はインドで生れたチャトランガという戦争ゲーム,その後裔である西洋のチェス,中国の象棋,朝鮮の将棋やタイのマーク・ルックと日本将棋との大きな違いは「駒の再使用」にある。 この革命的なルールが生れたのは室町時代末期である。 天文年間(1532〜1555)に「後奈良天皇がその臣,藤原晴光と伊勢守平貞孝に命じて,酔象を除いた」(『諸象戯図式』,元禄九年=1696年刊)というメモ的な文献の信頼性が将棋家元大橋本家の末裔大橋家に伝わる拓本によって裏づけされた。 「酔象」というのは,成ると「太子」となって「王将」の代りを務めるという駒で,これが中将棋の名残で最後まで残っていたのだが,これが取り除かれて現在の形になったというのである。 後奈良天皇は応仁の乱で焼け出された,史上最も貧乏な天皇である。 この天皇ほど戦争の嫌いな天皇はいなかったと思われる。 この「駒の再使用」ルールにより日本将棋は戦争ゲームからマネーゲームになった。 (3)生け花 香華を手向けるというのはインドで生れた習慣である。 死体の腐臭がひどい熱帯では強烈な香料と強い香の花を消臭剤として用いてそれを防ぐ必要があった。 そこから仏像へも香華を手向ける習慣が生れた。 温帯である日本では,見栄えのよい花を立てるようになった。 昔は生け花でなく立て花といった。 京都六角堂(頂法寺)の裏に聖徳太子が沐浴したと伝えられる池があり,その池のほとりに建てられた僧房が池坊である。 その池坊に住む六角堂の僧の中から,「立て花名人」が輩出した。華道流派としての池坊の初代は専慶である。 生没年ははっきりしないが,応仁の乱の直前には頂法寺の執行(しぎょう)であり,1462年(寛正3年)には佐々木高秀の招きを受け,金瓶を花器として用い,種々の草花を活けたところ,洛中の大評判となって見物人がひきもきらなかった,と当時の一級史料である『碧山日録』にある。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 H戦国野望編―戦国混迷の時代に生き残る条件!」発行:小学館(2001年) @ 歴史書は古来から主として定住民(=農民)の立場で書かれてきた。 その中では非定住民(流通・交易を生業とする商人,遊牧民,金融業者,遊芸人など)は常に「悪」として描かれた。 周に滅ぼされた殷王朝の部族としての名前は「商」である。 周は亡国の民を先祖の祭祀を絶やさないように(怨霊として祟らないように)特定の地域に移住させた。 そこが「宋」である。 収容されることを嫌った人々は「流浪の民」となり,生きるために始めた仕事=交易が「商業」である。 農業はモノを作るから生産性があるが,商業は生産性ゼロの卑しい職業とされた。 ユダヤ人は紀元前に祖国を失って,非定住民となった。 しかし厳しい一神教―ユダヤ教を守って,二千年間アイデンティティを失わなかった。 ユダヤ教では,「キリストといわれるイエス」は真のキリスト(救世主,神)ではないが,キリスト教徒からみれば,ユダヤ人というのは,イエスを死刑に追いやった,とんでもない民族ということになる。 これがユダヤ人差別の根源の理由である。 中世ヨーロッパで「シャイロック」が職業とした金融業は,近代以前では利息という不労所得で儲ける賤業であった。 実はユダヤ教でも貸した金に利息を取ることは悪いこととして禁止している。 しかし,それは同じユダヤ教徒の間では,ということで相手が異教徒ならお構いなしなのである。 彼等はそれしか生きる術がなかったのである。 今はベニスに住んでいても,例えば人種差別が起れば,別の国へさっさと移住する。 だから財産も分割して持っていて,通貨も一つのものにこだわらない。 当然,言語も多くの種類を身につけている。 定住民から見ると,ますます「不気味」に見えることにもなる。 こういう境遇に生きたユダヤ人は,どのような文化を生み出したか? それは,国家や民族をや身分を越えようという発想である。 キリスト教もユダヤ人にとっては「ユダヤ人イエス」が始めた一つの思想に過ぎない。 しかし,それが世界に広がるに従って,本来ユダヤ教のものである,絶対神の下では王も人民もタダの人に過ぎないという考え方が普及した。 これが民主主義の起源になった。 民主主義も近代資本主義も共産主義も,ユダヤ思想の強い影響下にある。 A 倭寇とは何か。
※ 1446年(世宗二十八,文安3年)判中枢院事李順蒙がその上書の中で,前朝(=高麗朝)の倭寇のうち日本人は1〜2割にすぎなかった,と報告している。 ※ この時代の倭寇の最大のボスは,王直という名の中国人である。 王直は安徽省の生れ,はじめは塩商人であったが,失敗して貿易商人となった。 日本に来航した時期は不明であるが,天文九年(1540年)に五島福江に来航し,領主宇久盛定に通商を求め,盛定は歓待し福江に居住させた。 現在の福江市唐人町にのこっている明人堂が,当時の王直の屋敷であったとの伝説がある。 王直は天文11年(1542年)には平戸に移り,のちの印山寺屋敷附近に中国風の豪壮な屋敷を構えた。 平戸を根拠地とした裏には,当時の平戸領主松浦隆信の保護があったことは疑いない。 松浦氏が王直と組んで中国との密貿易<※※>をおこなっていたのである。(『長崎県の歴史』瀬野精一郎著 山川出版社) ※※ 農民政権である明は「海禁」という貿易禁止令を施いていたので,貿易はすべて密貿易になる。 王直は1553年(嘉靖32年)に大船団で中国沿岸を襲った。 中国側で「嘉靖大倭寇」と呼ばれるもので,この時期が王直の最盛期であった。 王直は学問もあり,いわゆる親分肌で,リーダーとして資質には恵まれていたようだ。 彼の最期は,明の官憲に騙され捕縛されての処刑であった。 倭寇の残虐行為は住民に対する虐殺が主なものだが,なかでも妊婦の腹を剖いて胎児を取り出したり(孕婦刳腹),赤ん坊を縛りつけ熱湯を浴びせる(縛嬰沃湯)ことが,最大の暴虐として明史には伝えられている。 前記の 『籌海図編』には,「この国(明)の「はぐれ兵士」の方が,日本人よりも十倍も残虐である。」と書く。 後期倭寇の展開は,郷紳や大商人層のきずなから自立しようとする中小商人団の抵抗ともみられ,これに呼応する民衆の反官・反権力的な性格をおびてきたものといえる。 そこで,これに驚いた明朝が,反乱平定のスローガンとして,これらの残虐をすべて倭寇の行為として宣伝し,・・・・・軍官民をあざむき,かつ鼓舞しようとした。 したがって悪賢い軍官民のなかには,これに便乗して不正を働き,奸計を転嫁し,悪事をおしかくし,姦邪をカムフラージュし,もって倭賊の侵掠をいよいよ誇大に吹聴した。(『倭寇』石原道博著 吉川弘文館) それにもかかわらず明朝の宣伝が中国人の間に「常識」として定着したのは,秀吉の朝鮮出兵時,秀吉軍の行った略奪や暴行のせいである。 「やっぱり倭寇は日本人だ」という「誤解」を定着させてしまったのである。 秀吉の朝鮮出兵を明では「万暦倭寇」と呼ぶ。 (前期の)日本人倭寇の成した最大の悪業は,拉致,すなわち「人掠い」であった。 謡曲(能)に「唐船」という演目があるが,これは拉致された中国人を主人公とするお話である。 日本人倭寇はしばしば技術者を,或いは単純労働力として人間を多数日本へ強制連行しているのである。 なぜこれが分かるかというと,中国も朝鮮も,しばしば日本へ使者を送り「倭寇の取り締まり」と「拉致者の返還」を要求しているからである。 日本政府も国力が充実している時は誠実に対応している。 たとえば高麗から抗議を受けた鎌倉幕府は,直ちに犯人を逮捕し高麗の使者立会いのもとに,これを死罪に処している。 中華思想にも美点がある。 それは国家は国民を護るべきだ,という感覚が非常に強いことだ。 護民こそローマの昔から政治家の第一の責務と考えられてきたことなのだ。 「トリビューン」とはローマの護民官のことである。 B 鉄砲を伝えたのは「南蛮船に乗ったポルトガル人」ではない!? 日本に鉄砲を伝えたのは倭寇の大ボス王直である。 南蛮船と伝えられる明国船が島の南端,門倉岬の「前之浜」に漂着した。 この年(1543年,天文12年)の三月,種子島も戦国動乱の埒外ではなく,突如,大隈半島の祢寝<ねじめ>氏の来襲を受け敗北,屋久島を割譲することによって動乱を収終した。 南蛮船が漂着したときは,まさに失った屋久島奪回のため,緊迫した臨戦体制下にあった時である。 漂着船は肥前平戸に居を構えた倭寇の大頭目王直の持船で,王直も五峰<五島列島の意味>と名を変えて乗船していた。 この船にたまたま乗っていたポルトガル人が鉄砲を所有,これを見た十六歳の少年島主時尭は戦局打開の新兵器と看破,これを入手するや直ちに刀鍛冶八板金兵衛に製作を命じた。 金兵衛は刀鍛冶の非凡な技術と努力によって短期間に国産化に成功,これが我が国の国産第一号の鉄砲となった。(『鉄砲伝来 種子島鉄砲』鉄砲館編集発行) 鉄砲は一,二年のうちに紀州根来,泉州堺にその製造技術が伝えられた。 ポルトガルで1563年に発行された,アントニオ・ガルバンという人の書いた『新旧大陸発見記』という本の中に,1542年に三人のポルトガル人が,中国船(ジャンク)に乗って雙嶼(リャンポー)(東シナ海に面した明の港町)に向って出航したが,台風に襲われて日本の種子島へ漂着した,と書かれてある。 『鉄炮記』は伝来の日を天文12年(1543年)8月25日としている。 『新旧大陸発見記』では三人のポルトガル人の名をアントニオ・ダモッタ,アントニオ・ベイショット,フランシスコ・ゼイモトの三人だと書いている。 『鉄炮記』だと,「牟良叔舎,喜利志多佗孟太」の二人である。 「牟良叔舎」は当時の明の発音で読むと「フランシスコ」になるという。 「喜利志多」は「クリストファー」,「佗孟太」は「ダモッタ」であることは間違いない。 「アントニオ」と「クリストファー」の違いはあるが,まず両者は同一人物と見てよかろう。 鉄砲史研究の第一人者所荘吉氏の仮説ではこうなる。 1542年に漂着した三人は貿易上非常に有利な島を発見したという情報を,チモールかマラッカかどこか南の国へ帰って報告し,また行こうと中国のジャンクに便乗して日本にやって来た。 いわゆるナウという大型のポルトガルの船は国王の認可状がないと動かせない。 脱走したポルトガル人が勝手に使うわけにいかない。 そこでジャンクに乗ってきた。 前年は台風に襲われて漂着したが,翌年は『鉄炮記』にも「我が西ノ村小浦に一大船有り」とあり,漂着したとは書いていない。 この時には自分たちの意志で鉄砲を持って通商目的でやって来たのだとする。 ポルトガル人の誤算は,完成品である鉄砲を輸出して儲けようと思って二〜三丁をただでくれてやったのに,翌年,―正確には金兵衛は四ヶ月以内で国産化した計算になる。 翌年(1544年)正月十一日の戦いに金兵衛の鉄砲が使われているからである。―には国産化してしまったことであろう。 ただ,金兵衛が最初に作った銃は,よく筒底の部分が破裂した。 ポルトガル人の銃(所氏によればマラッカ型で,東南アジア製であろうという)はそういうことがなく,不発もない。 金兵衛は「焼き締め」で底を塞いだのだが,ポルトガル人の銃は筒の内側と,それを嵌め込む蓋に螺旋状の溝を彫り込み,きっちり締め,好きな時には蓋を空けて掃除もできる「螺子」の技術が使われていたからである。 これにはさすがの金兵衛もお手上げで,1544年にポルトガル人に教えを乞い,ようやくマスターすることができた。 商人の気前の良さには常に「裏」がある。 黒色火薬は煙硝と硫黄と木炭を混合して作る。 煙硝は日本に産出しないから,ポルトガル人を通して輸入しなければならない。 種子島時尭は,鉄砲に関する技術の全てを,紀州根来寺の「杉之坊」こと津田監物と,堺の貿易商橘屋又三郎に気前よく与えた。 なぜ独占しようとはしなかったのか? 出来なかったのである。 代償として煙硝の輸入ルートの確保についての協力を依頼したと考えれば理解できる。 種子島の「宗旨」は法華宗(日蓮宗)である。 鉄砲伝来の百年前に律宗から改宗したのだ。 中心寺院である慈遠寺も法華宗の寺となり,ここから多くの学僧が本山へ修行に行った。 本山とは京の本能寺。 法華宗本門流の大本山である本能寺と,種子島の慈遠寺は本山と末寺という関係だったのである。 戦国大名の中で,いち早く京へ入り,堺を直轄地としたのは信長である。 信長が上洛の際に寺に泊まったのは,当初洛中に武家の城がなかったからだが,もう一つの理由は「煙硝ルート」である。 堺以西には国際貿易港がいくつかある。 山口,博多,平戸,坊津など。 毛利,大友,島津といった戦国大名は,このルートで煙硝を手に入れていた。 日本最初の大砲を作らせた実戦に用いたのは,信長ではなく,九州豊後の大友宗麟であり,日本最初の焼夷弾ともいうべき焙烙火矢を用いたのは毛利家配下の村上水軍なのである。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 I戦国覇王編―天下布武と信長の謎」発行:小学館(2002年) @ 織田信長は上洛以前から日本の大改革を生涯の目標としていた。 彼の天才的な思考,政治的手法と行動は後継者となった秀吉や家康によって模倣された。 ある意味で彼等のやったことは全て信長のパクリである。
信長に唯一欠けていたものは国家権力の正統性であった。 そのために,先ず,将軍義昭を保護し,その権威をフルに利用する。 一方義昭に対する,「殿中御掟」九か条と「追加」七か条(1569年=永禄12年),「五か条の事書」(1570年=永禄13年)を公開し,義昭から賞罰権を奪い,信長の認可なしに勝手な政治的行為をすること禁じた。 以後義昭は1573年(元亀4)信長に追放されるまで謀略による反信長闘争に明け暮れる。 1570年(元亀元年),越前の朝倉氏攻略に向った時の義弟浅井長政の裏切りは信長の大誤算であった。 そのため大ピンチに陥るが,「逃げの一手」で辛うじて岐阜に逃げ帰る。 この時羽柴秀吉と徳川家康が殿軍を務めた。 浅井の裏切りの背後には義昭の扇動があったと思われる。 信長は生来嗜虐的な性向がある殺戮好きな人間などではなく,その前半生は非常に寛容で残虐性のカケラも見られない。 特に身内には甘えとも言うべき強い信頼感を抱いている。 弟信行との抗争においても信行は殺したがその子津田信澄は家臣とし,信行に従った柴田勝家らには帰参を許している。 斉藤氏から美濃を奪った時も当主龍興(道三の孫)は助命し退去させている。 妾腹の兄信広が反乱した時もその罪を許している。 また実の娘は危険な政略結婚には利用していない。 長女五コは最も信頼できる同盟者家康の嫡子に嫁がせたに過ぎない。 長政の裏切りは信長の天下統一を数年遅らせた。 長政の裏切りが信長のトラウマとなってその後の戦争の形態を変えたという<和田惟一郎氏>の分析は当を得ている。 小谷城攻略の前哨戦で長政を野戦に引っ張りだすため,領国の村々を焼き払った。 つまり非戦闘員の虐殺である。 但し,苛烈な戦国時代には常識として,「領民を守れない領主には領主の資格などない」という 「護民官(tribune) 」的感覚がある。 「虐殺(根切り)によって,民衆が信長に対して怨恨を持つよりも,信長の虐殺を招いた領主から人民が離れて行くのである」<神田千里氏:信長と石山合戦 中世の信仰と一揆> A 信長が宗教勢力の牙(=武力,折伏)を抜いたお陰で日本人は宗教に免疫になった 信長は無神論者ではない。 湯起請とか超自然的な存在は信じていた。 闇雲に宗教弾圧をしたのではない。 信長の真意は宗教活動に武力を用いなければ教団には一切干渉しないというものであった。 当時の巨大宗教勢力は,既得権益としての経済力を備えた武装集団であり,彼等にとっての外敵(=異教徒,或いは異なる宗派)との抗争は血を血で洗う殺戮になることが珍しくなかった。 天下布武のためには宗教団体の武装解除は絶対に必要であった。 1571年(元亀2年)信長は比叡山を焼き打ちするが,これは不意打ちではない。 前年,浅井・朝倉に山内を「基地」として提供していた比叡山に,両者と手を切れば領地を返還するが,もし断れば一山すべて焼き払うと通告していた。 比叡山は信長によって脅かされた経済的利権を守ろうとして反抗し,「戦国大名」としての比叡山は滅亡した。 もう一つの宗教勢力,比叡山よりも組織力・資金力では遥かに上回る本願寺に対する十年戦争(1570〜1580年の石山合戦)は顕如の檄文(信長は教団を潰そうとしている仏敵だという誤解に基づく)により本願寺側から宣戦布告した戦いである。 一時的に講和した(1573年=天正元年)が直ぐに協定を破って再挙兵した。 「準門跡」であり門徒にとっては生き神様である顕如にとり,意識の上では信長は成り上がりの虫けら的存在であったろう。 信長は伊勢長島の一向一揆を殲滅,続いて越前国を勝手に占領した一向一揆(本願寺側も公認した)を攻め,徹底的に殲滅した。 1576年(天正4年)信長は安土城を着工,ここを拠点に本格的に石山本願寺攻略に入る。 顕如は毛利家に後方支援を頼み籠城する。 信長は1578年(天正6年) 恐らく世界でも画期的な「鉄甲船」を造り毛利方の村上水軍を撃破し,制海権を確保して,石山本願寺への補給ルートを絶つ。 同年顕如は有力支援大名の上杉謙信を失い,翌年翌翌年に支持する三木氏,別所氏も信長に落され1580年(天正8年)最終講和に応じ石山開城,退去する。 信長はこの時も教団を解散はさせていない。 1579年(天正7年)完成した安土城にて信長は法華宗(日蓮宗)と浄土宗の公開討論(安土宗論)を行わせた。 これはのちに法華宗側が強弁し学界の定説ともなっている八百長試合などではなかった。 論争に敗れた法華宗側は詫証文を書いて,今後他の宗派に対して一切法難(=折伏,強引な信仰の押しつけ)はしないとした。 本能寺は法華宗の寺院であるが,信長は最後までここを京都での定宿としていたのである。 B 安土城は信長教の神殿,信長は自己神格化により天皇制に挑んだ 信長の踏み込んで行った「危険な道」―それはあらゆる世俗的権力,宗教勢力を超えた存在になることであった。 1573年(天正元年),信長は義昭を追放した。 次の「権威闘争」の相手は天皇家になる。 この年は信長の望んだ年号「天正」が施行された年である。 信長は時の天皇正親町(おうぎまち)天皇の引退と誠仁親王への譲位を望んでいた。 もともと自分の京都宿所として建設した二条第を誠仁親王に与え「下御所」となし,次期天皇をコントロール下に置こうとしたと考えられる。 朝廷側は信長に官職や位階を与えることで朝廷という組織に取りこもうとする。 1578年(天正6年)に信長は正二位となるが,なってまもない右大臣と右近衛大将の官職を辞す。 理由は信長自身の文書によると,天下統一事業がまだ完成していないから。 完成した暁には再び登用していただくと書いている。 1581年(天正9年)左大臣に任ぜられるが辞退している。 この年京都にて「馬揃え」を行い正親町天皇の臨席を仰ぐが,これは天皇への威嚇であると見られる。 信長の死の前月,三職推任(太政大臣・関白・将軍)の話が起きた。 これは信長側から朝廷へ働きかけたものらしい。 信長は暦にも大変関心があった。 戦国時代の太陰太陽暦は二種あった。 関西で使用された京暦(宣明暦)と尾張や関東で使用された三島暦である (暦は陰陽頭が作暦に携わって来た。 当時土御門家が世襲し,同家の作る京暦が各地の暦の基準とされていた) 。 違いは閏月の入れ方にある。 信長は日食の予想の仕方から三島暦が正しいと考えたもようで,本能寺の変のあった1582年(天正10年)の正月にも改暦を朝廷に申し入れており,死の前日の6月1日(旧暦)にも挨拶に訪れた公家衆の前でもその話を持ち出している。 丁度この年キリスト教国で実施されようとしていたグレゴリオ暦について信長が知らなかった筈はない。
安土とは平安楽土から取った信長の命名によるものに間違いない。 信長公記では天守閣は天主と書かれる。 信長が完成後この天主に入ったのは1579年(天正7年)5月11日(旧暦)である。 この日はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記述によって見ると信長の誕生日である。 この日信長は「影向の間」に神としての就任式を行い,この世に降臨したのである。 安土城の中にある総見寺は,信長の誕生日を祝祭日と定め,参詣する者には商売繁盛,延命長寿,子孫繁栄,家内安全,病気平癒,心願成就の現世利益がかなうとされていた。<ルイス・フロイス> 浄土真宗の教義では人は死ねば阿弥陀如来のいる西方浄土へ行けるというもの。 信長は誰も見たことのない来世や霊魂の不滅は信じていなかった。 法華宗(禅宗)で理論武装し,自身を生き神にすることで浄土宗に対抗しようとしていた。 ただ信長の本心は安土城は貿易拠点としてまた軍事拠点としても価値が高い大坂の地に作りたかったのではないか。 安土の欠点は海に面していない内陸にあることである。 安土城は本願寺側が抵抗勢力として突っ張ったために採った暫定プランであったに違いない。 信長にとって安土城は大坂移転までの仮住まいの暫定首都である。 そんな時人は余り時間をかけずに(3年で),かつ実験的な試みをしてみようと思うであろう。 本能寺の変の翌年,まだ政権が安定してもいない1583年(天正11年)の9月1日羽柴秀吉は大坂城築城の鍬初め(起工式)を行った。 これは信長の時代に計画が既にできており,秀吉はそれをちゃっかり頂いたと考えるのが妥当だろう。 ルイス・フロイスによれば秀吉は内裏(朝廷)と都の主要寺院,そして都の市(まち)そのものも この地に移転することを命じたとのことである。 この話は家康の家臣本多忠勝の書状にも出てくる,実現はしなかったが。 鉄砲伝来以後,山城の価値はなくなり,これ以後の城は全て大坂城のコピーであるといえる。 広島城も姫路城も名古屋城も,もちろん江戸城もそうである。 C 信長は天皇家をどうしようとしていたか 信長が天皇家の抹殺ないし事実上の消去を考えていたとしたら,それは当然秀吉や家康に引き継がれていたはず。 秀吉が権力の絶頂に達した時に天皇をどう扱うつもりでいたかを教える史料がある。 1592年(天正20年)の秀吉から養子の関白秀次への文書の中で,二年後にも大唐(明)の都(北京)へ後陽成天皇を移し,明の関白は秀次を,日本の関白には羽柴秀保(秀次の弟)又は宇喜多秀家がよい。 空位となった日本の帝位は良仁親王か智仁親王とする・・・・と述べている<日本戦史 朝鮮役文書>。 秀吉の祐筆の手紙によれば,秀吉自身は北京から貿易都市寧波(にんぽう)に居所を移して天竺まで手に入れようという。 さらに秀吉は琉球・高山国(台湾)・吊宋(ルソン)にも服属と入質要求をしており,…東アジア全域に版図を拡大しようとする秀吉の構想を見ることができる。<北島万次:秀吉の朝鮮侵略> 秀吉には最新ハイテク兵器鉄砲を多く所持した精兵を抱えていた。 日本は恐らく当時の世界最大の陸軍国であった。 更に身近な手本としてポルトガル・イスパニアのカトリック宣教師がいた。 彼等は単なる宗教者ではなく「海外侵略の尖兵」であった。 信長自身も大陸侵攻について宣教師に語っている。 毛利を征服し終えて日本の全66カ国の絶対領主となったならば,シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること,および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた。<1582年(天正10年) ルイス・フロイス> 秀吉の構想は信長の構想の借り物<だと思う。 D 家康は如何にして天皇家を消去したか 家康の採った方法は時間軸の操作であった。 「もともと,東海道53次というのは,華厳経で善哉童子が53人の善智識を歴訪して教えを受けるという故事にもとづいて,53の宿駅がつくられたといわれています。 (中略) 華厳経をよく読むと,善哉童子は53人目の普賢菩薩の十六願を聞いて西方阿弥陀浄土に往生したいと願うようになる。 そうすると終着の京都は “阿弥陀浄土” ということになるわけでしょう。 つまり徳川家は,天皇家を生きながら死者の国・阿弥陀浄土へ閉じ込めてしまったことになるわけです。 ・・・家康は死者ではなく,東照大権現という“神様”ですからね。・・・つまり江戸は光り輝く未來神の東照大権現に守護された現世浄土ということになる。」<小松和彦・内藤正敏共著:鬼がつくった国・日本 歴史を動かしてきた「闇」の力とは> E なぜ誰も天皇家を抹殺しようとは考えなかったのか 一言でいうとタタリが恐いからである。 日本においてバックボーンになっているのは怨霊信仰(多神教)であり,その祭司である天皇家を滅ぼすことは極めて反動(タタリや抹殺者への反感)が大きいと予想されるからである。 F 本能寺の変はなぜ起きたか 黒幕説がある。 黒幕=義昭・朝廷・イエズス会などが挙げられる。 しかしいずれも無理がある。 きっかけは,光秀が担当していた対長曽我部外交を無視する形で信長が四国征伐を開始しようとしたことで面子丸つぶれになったからかもしれないが,やはり司馬遼太郎氏が指摘したように,倒さんがために倒したという発作性の強い行動であると思う。 信長が言ったという「是非に及ばず」という言葉は,善悪をあれこれ論じるまでもない,理屈ではない,という意味である。 信長という独断専行型のリーダーが典型的な日本人である光秀には耐えられなかった,だから後先のことも考えず実行した。 計算外の非理性的な行動であったが故に,稀代の英雄であり名将である信長にも読めなかったということなのであろう。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 J戦国乱世編―朝鮮出兵と秀吉の謎」発行:小学館(2004年) 秀吉の虚像と実像 @ 右手の指が六本あった事実を隠す差別 秀吉は先天的な多指症[多趾症](ポリダクトリー polydactyl, polydactylism)であった。 このことはルイス・フロイスの日本史に記載されている。 1587年(天正15年)に秀吉が宣教師を弾圧し始めたころの記事の中に 「彼は美濃の国に出で,貧しい百姓の倅として生れた。 若い頃には山で薪を取り,それを売って生計を立てていた。 (中略) 彼は身長が低く,また醜悪な容貌の持主で,片手には六本の指があった。 目がとび出ており,シナ人のように髭が少なかった。」<『ルイス・フロイス 日本史1 豊臣秀吉篇T』松田毅一/川崎桃太訳 中央公論社 ,第16章> とある。 また秀吉と親しかった前田利家の『国祖遺言』の中にも,「太閤様ハ,右之手,おや由飛,一ツ,多六御座候(中略) 信長公,太こう様ヲ異名(=あだ名)ニ,六ツめカ(=六つめが)なとと御意候由,」と書かれている。 戦国時代において自分の指一本切り落とすくらいはいとも簡単なことであったのに彼は敢えてしなかったのは興味深い。 歴史書も小説もその重要な事実を無視しているのは一種の差別である。 A 「木下」藤吉郎が「羽柴→豊臣」秀吉へと改姓を繰り返した謎 秀吉は出世魚のように名前を変えていった。 彼の妻「おね」(「ね」一字が本名でそれに「お」をつけた形。 ねねは俗称で正しくない)の実家の姓は杉原であるが,その本家は播磨国の木下という一族である。 もともと姓を持たない最下層の農民上りの秀吉は上司の娘を娶った時以来,妻の実家の姓を名乗ったのであろう。 木下姓にはあまり愛着はなかったようである。 「羽柴」という姓が柴田勝家と丹羽長秀の姓から一字づつ取ったものというのも理屈から言うとおかしい。 柴田勝家は重役クラスであるが丹羽はそれより格下である。 柴田勝家クラスの武将としてはほかに佐久間信盛もいた。 成り上がり者に対する反感との闘いでもあっであろう前半生の秀吉が特定の二人だけにゴマをするような改姓はする筈がない。 「羽柴」は「端柴」であろう。 森や林の木々の最も低い部分である柴の,さらに「はんぱな」部分,それが「ハシバ」である。 秀吉がもともと「ハシバ」売りではなかったか,と指摘したのは作家の八切止夫氏である。 また八切氏は「秀吉」は「稗吉(ヒエヨシ)」(飢饉の時,米は無理でもせめて稗くらいは不自由しないでくれという親の願いからの命名)から転化したものではないかとも言う。 「ハシバ売りのヒエヨシ」は「皆様よりずっと卑しい身分の出でございます」という,秀吉の保身術なのである。 しかし秀吉は,本能寺の変というアクシデントのために,それまでの人生設計とは百八十度違うことをしなければならなくなった。 多くの人は,歴史学者も含めて,秀吉の軍事的な努力は認めている。 しかし,それに勝るとも劣らず,いや,ある意味で信長以上に必要だったのが,自己の権力を正統なものとする,「正統性の創造」であった。 取り敢えずは,信長が放棄した「古い」手段―将軍や天皇の伝統的な権威に頼ること―をとるしかない。 最初に,足利義昭の養子になることを申し入れたが,これは義昭に拒否された。 それで藤原氏の一族である菊亭晴季をブレーンとし,その助力と助言を得て,同じ藤原氏の中のエリート五摂家の一つ近衛家の猶子(財産相続権のない養子,養子分)になった。 秀吉は藤原(近衛)秀吉となって,関白に任官することに成功した。 これはかなり強引な手法である。 次ぎに「豊臣」という新らしい姓を朝廷から貰って(創設して),五摂家に匹敵する名家として独立した。 秀吉は「天皇の臣下たる関白」に甘んじる気は毛頭なく,関白を秀次に譲る。 関白を引退した人のことを,太閤と呼ぶ。 史上「太閤」は何人もいたが,今日「太閤」といえば秀吉の代名詞のようになっている。 秀吉の天下経営T(豊臣の平和篇) @ 惣無事令(そうぶしれい)[1587(天正15)年] 豊臣平和令ともいう。 狭義には豊臣政権の私戦禁止氏令。 広義には豊臣政権による天下一統の基調を安穏・平和を求める全社会的動向の総括として把える,政治史分析の新しい仮設。 この見解の提唱者でもある藤木久志氏よれば,秀吉は関白の権威をバックに,戦国争乱の原因となる戦国大名同士の領土争いを豊臣裁判権によって解決することを目的としたという。 刀狩令[1588(天正16)年]即ち農民の武装解除も,海賊停止令[1588(天正16)年]も,この平和令の一環である。 A 方広寺の大仏建立 秀吉は,刀狩令の中で,没収した刀や槍は溶かして大仏や大仏殿の釘やカスガイにする,と述べている。 この言い草はあまりにもわざとらしく,当時でも興福寺の僧が「本当は一揆防ぎのためさ」と日記に書き残しているほどなのだが,秀吉は実際に大仏も大仏殿も造ったのである。 大仏は工期短縮のために木造にしたが,建立当初のもの(高さ約19メートル)は奈良の大仏(高さ約15メートル)より大きいものであった。 ただ建立後まもなく焼失し,今は残っていない。 建立の隠された目的は宗教<仏教界>の統制にあった。 これ以前,秀吉は高野山金剛峯寺を無血で武装解除している。 この時の高野山側の「担当者」木食応其を「引き抜いて」大仏建立の「プロデューサー」の任にあたらせた。 完成した大仏の千僧供養と称し,各宗派にそれぞれ百人の僧を出仕させるように「招待状」を出した。 いわば踏絵である。 この「合同法要」に,断固出仕を拒否したのが,京都妙覚寺の日奥を中心とするグループである。 このグループを現在「不受不施派」と呼ぶ。 日蓮宗がこの「合同法要参加問題」で,二派に分裂したために生じたグループである。 家康はこの「不受不施派」を徹底的に弾圧する。 家康の時代,仏教寺院は完全に丸腰となり,檀家制度が確立している。 尚,江戸時代の仏教政策で,もう一つ重要なのは本山末寺制度である。 B 「土地台帳」と「枡の統一」により始めて国力を算出した太閤検地 検地とは直接耕地(田畑)を測量して生産高を調べることである。 検地は信長や他の戦国大名によって先鞭はつけられていたが,これを強大な軍事力を背景に全国規模で行い度量衡の統一まで行ったのは秀吉が初めてである。 戦国時代は貫高制であったが,これ以降石高制になる。 大化改新以来,1反は360坪,そこから収穫できるできる米が1石(=1000合)という決めがあったが,秀吉は1反=300坪に改めた。 そして耕地の条件の違いを考慮し,上田は「1石5斗」,中田は「1石3斗」,下田は「1石1斗」と規定した。 畑についても同じような基準を定めた。 太閤検地によって判明した日本の国力は,総石高およそ1,850万石,一石=一人という換算をすると,総人口およそ1,850万人ということになる。 江戸時代の大名の石高と兵役軍人の比率を定めた「御軍役人数割」によると,10万石当り2,155人である。 これを当てはめると,秀吉の時代は日本全体で40万人の兵士を動員できることになる。 しかも,戦国時代の内戦で鍛え抜かれた熟練した兵士をである。 秀吉の天下統一経営U(太閤の外征篇―朝鮮征伐にみる日本人の贖罪史観) @ 誇大妄想ではなかった東アジア支配 1592年(天正20年)の秀吉から養子の関白秀次への文書の中で,二年後にも大唐(明)の都(北京)へ後陽成天皇を移し,明の関白は秀次を,日本の関白には羽柴秀保(秀次の弟)又は宇喜多秀家がよい。 空位となった日本の帝位は良仁親王か智仁親王とする・・・・と述べている<日本戦史 朝鮮役文書>。 秀吉の祐筆の手紙によれば,秀吉自身は北京から貿易都市寧波(にんぽう)に居所を移して天竺まで手に入れようという。 さらに秀吉は琉球・高山国(台湾)・吊宋(ルソン)にも服属と入質要求をしており,(中略)東アジア全域に版図を拡大しようとする秀吉の構想を見ることができる。<北島万次:秀吉の朝鮮侵略> この構想は,モンゴルや満州族による中国支配と同じパターンである。 チンギス汗の孫フビライ(モンゴル帝国第五代の皇帝,元帝国の初代皇帝=世祖)は金を滅ぼし,宋を併合し,都を大都(のちの北京)に移し,国号を元と定めた。 ヌルハチ(太祖)は国号を後金と称し,瀋陽に都し,その子太宗は国号を清と改め,孫の世祖の時に中国に入って都を北京に移し,国号を元と定めた。 中国を本格的に経営するには「本社」を中国に移さねばならないのである。 A 乱世を統一した国は海外侵略に乗り出す歴史法則 秀吉はいつ朝鮮征伐<注記>(当時の言い方ては「唐入り」)を決意したのか? 原点は信長にある。 信長は,(中略)毛利を征服し終えて日本の全六十六カ国の絶対領主となったならば,シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること,および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた。 (『十六・七世紀イエズス会日本報告集』 第10期第6巻 東光英訳 同朋社出版刊) 乱世を制するには強力な軍隊がなければならない。 「乱世が平定された」ということはその強力な軍隊の働く場所も仕事もなくなったということである。 当然軍隊は次ぎの「獲物」を求める。 アレクサンドロス大王,チンギス汗,ヌルハチはしたのはそういうことで,これは必然の結果なのである。 アレクサンドロスがその遠征(侵略)を中止したのは,中近東を征服し,インドの西までたどりついた時,それまで忠実に従ってきた部下の兵士たちが,「もういい,休みたい」と言ったからだ。 逆に言えば,ペルシア,シリア,エジプトあたりの遠征では文句を言わずついてきた,ということでもある。 戦争に勝ち続ける限り,トップも部下もうるおうからだ。 家康の成功の陰には,秀吉の海外領土獲得のプロジェクトの失敗があり,だからこそ大名たちは「もう領土拡張は必要ない」と納得した,ということなのである。 【注記】 後者の戦争において朝鮮の仁祖王は清の太宗に「逆らえば皆殺しにする」と最後通牒を突き付けられ,降伏する。 王は「胡服」を着て京城近郊に造られた受降壇に赴き,太宗に屈辱的な三跪九叩頭の拝礼をさせられた。 清はその記録を「大清皇帝功徳碑」という石碑にして残した。 歴代の朝鮮国王は,この受降壇を恒久化した施設『迎恩門』で,清の勅使に向って三跪九叩頭を行った。 日清戦争(中国・韓国では甲午戦争という)後,中国の属国から脱して独立することができた朝鮮は迎恩門を壊してその跡に独立門を建てたのである。 B 「唐入りは大胆で無謀」と評価したフロイスのキリスト教的偏見 秀吉の「唐入り」がまったくの無謀な夢物語であるという評価は,江戸時代に入っての神君家康に対する阿諛追従も入った結果論である。 日本がロシアに宣戦布告したのも当時の世界の見方として無謀な暴挙であった。 「稀有の熟慮と旺盛な才覚の持主でありながら,(老)関白はいかにしてこのように大胆で無謀なことを企て,かつ着手しようと考え得たのであろうか。 それ(シナの征服事業)はもろもろの(話題の)中で,日本中を未曾有の不思議な驚きで掩い,人々の判断を狂わせ,考えを一点に集中させ,まるで何かにとりつかれたかのように口にせずにはおれないことであった。 事実,それ(シナの征服事業)に伴う困難は,あまりにも明瞭であり,その危険はいとも切迫したものであった。」<『ルイス・フロイス 日本史2 豊臣秀吉篇U』松田毅一/川崎桃太訳 中央公論社 ,第35章> こういうフロイスの評価には「キリスト教的偏見」が混じっている。 インカ帝国を滅ぼしたピサロのやり方も「大胆,無謀,そして卑劣」なものであったが,否定的な評価は一切ない。 ピサロがキリストヘ徒であり,インカの王が異教徒だからである。 フロイスはポルトガル人でドミニコ会ではなくイエズス会だが,この時代のポルトガルとスペインは,全く同じ強烈な使命感を持っていた。 すなわち,世界はすべてカトリック国になるべきである,という信念だ。 一般に「布教」というと平和目的のように聞こえるかもしれないが,実際行われていたことは軍事的征服つまり侵略なのである。 国を滅ぼして宗教と言語を押しつけるのが一番手っ取り早い「布教」だからだ。 彼等は中国征服の野望すなわち「唐入り」すら念頭に置いていた。 フィリピンのマニラ司ヘであったフライ・ドミンゴ・デ・サラサールはスペイン国王フェリーペ二世(当時ポルトガル国王も兼ねていた)に,「陛下はインド全域にわたって権利を有しており,またポルトガル国王でもあるので,シナとそれに隣接する諸王国及び東インド全域に対して権利を有するので,シナの武力から被害を受けないだけの軍隊を派遣することができる。 そして仮令それを妨害しようとする者がいても,この軍隊は中国国内に入り,福音の宣布を許すようシナの国王と統治者達に強要し,説教者達が被害を受けないように,これを守ってやることができる。(以下略)」と進言している。 この書簡の後半では,イエズ会総長を通して日本人にスペイン人がシナに攻め入る時には参加せよと指示を与えるよう,とも進言している。 C 「唐入り」を決意させた宣教師コエリョの日本征服計画 なぜ秀吉は「明の征服は可能」などと確信したのだろうか。 実際に侵攻が行われた段階では,多くの識者が指摘しているように,秀吉は明や朝鮮の地勢や外交の常識について驚くほどの無知をさらけ出している。 秀吉に「情報」を与え,「確信」させた者,それはキリスト教宣教師たち以外にはない。 しかし実際の歴史は,なぜ「日本・スペイン連合軍による唐入り」という形にならなかったのだろうか? この流れを変えたのは,イエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョである。 日本巡察師アレサンドロ・バリニャーノが日本人の武勇を評価し征服するのは困難と見ていたのに対し,コエリョは日本人キリスト教徒の手を借りれば簡単に征服できると考えていた。 コエリョは既に1585年(天正13年)明より先に日本を征服するよう,フィリピン総督宛てに意見書を送っている。 作家村松剛氏は著書『醒めた炎』の中で分析している。 秀吉はイエズス会の明征服計画を明かに探知していた。 シナ大陸が白人の支配下に落ちれば,日本自体の安全が危険にさらされる。(中略) スペインが兵力の不足に悩んでいることを知っていた秀吉は,彼らの計画を先取りする方策を考えたのだろう。 (中略) 関白就任後の秀吉は(1586年5月4日)大坂城にコエリョを招き,外航用の大型帆船2隻を船員付きで売却してほしいとたのんだ。 交換条件として秀吉が提示したのは,(征服後の)明でのカトリック布教の自由だった。 外航用の大型帆船を建造する技術が,当時の日本にはなかった。 だがコエリョの意図は,どこまでも日本の支配にあった。 彼は二年後に,渡海には役にたたない平底のフスタ船に乗って博多にいた秀吉の前に現われ,その火砲の威力を誇示した。 軍事力によって,彼は秀吉を威嚇しようとしたのである。 日本のカトリツクの運命が,このときに決定される。 <『ルイス・フロイス 日本史1 豊臣秀吉篇T』松田毅一/川崎桃太訳 中央公論社 ,第9章>にその時の秀吉の発言が記されている。 「(前略)・・・・・・予は日本全国を帰服せしめたうえは,もはや領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わぬし,その他何ものも欲しくない。 ただ予の名声と権勢を死後に伝えしめることを望むのみである。 日本国内を無事安穏に統治したく,それが実現したうえは,この国を弟の美濃殿(=羽柴秀長)に譲り,予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。 それゆえその準備として大軍を渡海させるために(目下)二千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。 なお予としては,伴天連らに対して,十分に儀装した二隻の大型ナウを斡旋してもらいたい(と願う)外,援助を求めるつもりはない。 そしてそれらのナウは無償で貰う考えは毛頭なく,(それらの)船に必要なものは一切支払うであろう。 (提供されるポルトガルの)航海士たちは練達の人々である(べきで),彼らには封禄および銀をとらせるであろう。 また万一予がこの事業(の間)に死ぬことがあろうとも,予はなんら悔いるところはないであろう。(以下略)」 この武力による威嚇はまったくの逆効果であった。 秀吉はキリスト教徒に「布教の自由」というエサを与えたつもりだった。 キリスト教とはそんな生易しいものではないことに,秀吉は気がついたのだ。 D 「唐入り」の失敗の有力な要因―情報不足と外交ブレーンの欠如 秀吉は朝鮮は対馬の宗氏の支配下にあると思い込んでいた。 間に立った宗氏も誤解を解くことをせず,二枚舌外交を行い,破綻する。 秀吉は朝鮮国王に上洛を要求し,宗氏はそれを天下統一の祝賀使節(通信使)の派遣依頼にすりかえた。 宗氏の顔を立てて送られた使節に対して,秀吉は朝貢してきたものと思い込み,明を征服するから協力せよと要請してしまう。 朝鮮側は秀吉が本気なのかどうかについて,内部党派争いにからめて誤った判断をし,迎え撃つ準備を怠った。 以降のことは広く周知のことなので省略する。 補給線に悩む日本軍と明の援軍との戦い, 朝鮮国内の義兵の活躍, 小西行長(日本)と沈維敬(明)によるゴマカシ外交の破綻, 慶長の役(朝鮮側のいう丁酉倭乱)へと歴史は回る。 秀吉が「唐入り」に踏み切ったのは,国内の統一が家康の臣従・北条氏降伏・伊達氏降伏を以って完了したのちであり,信長の死後10年を経てからである。 |
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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 K近世暁光編―天下泰平と家康の謎」発行:小学館(2005年) @ 関ヶ原合戦前夜と戦後処理が明治維新へ及ぼした影響(長州・薩摩・土佐各藩) 毛利元就の孫で,中国地方十ヶ国120万石の大大名であった毛利輝元は,おそらく祖父元就に対する劣等感をもっていたために,石田光成の使者安国寺恵瓊に巧みに家康の専横に対する反発をあおられて西軍の総大将になった。 しかし天下の大勢は家康にありと見る毛利軍の黒幕吉川広家は大阪城内に謀略情報を流して輝元を大坂城に足止めさせる一方,関ヶ原合戦(9月15日)の前日,東軍の参謀黒田長政を通して「明日の合戦には毛利本軍は参加しないから毛利の本領安堵(保証)を認めてくれ」という極めてムシのいい意向を家康に伝える。 家康は家臣の名前でそれを確約する請書を毛利側に出した。 「バカ殿」輝元は大いに喜び,合戦のあと養子秀元の,秀頼を擁して大坂城で一戦すべしとの進言も退け,あっさりと大坂城を退去した。 しかし家康は,吉川広家には周防・長門の二国を与えるが,毛利本家は取り潰すと宣告,しかし広家の懇願を受けた家康はしぶったあげく毛利本家に周防・長門36万石,吉川広家に岩国3万石で決着させた。 もし毛利が秀頼という錦の御旗を手にしたまま,籠城すれば,大領地と水軍による補給の経験も有する毛利は有利な講和条件を引出すことができた筈である。 現に薩摩の島津義弘は関ヶ原の戦場からの壮絶苛烈な撤退作戦を敢行することで,薩摩恐るべしという評価を得,遠国ということもあって本領は安堵されている。 ここから長州藩(毛利)が学び,明治維新の際に生かされた教訓は「絶対徳川とは妥協しないこと」 「戦うなら徹底的にやる」ということだろう。 薩摩藩は中央の情報にうとかったため,軍勢を呼び寄せることもしないまま,また,本来家康方につく積もりでいたのに,根回し不足から鳥居元忠に伏見城入城を断わられ,やむなく小人数のまま三成軍に加わる。 関ヶ原では合戦そのものには参加していない。 ここから引出される教訓は,もしまた徳川と争うような事態が起こったら,情報収集につとめ,決して不利な状況で参戦することのないようにすることである。 掛川6万石の城主であった山内一豊は,7月25日に行われた家康軍の小山での軍議において,黒田長政の弁舌に乗せられた福島正則が「内府(家康)にお味方する」と発言したのに続いて,兵を全て連れて参戦するので,掛川城は家康の家来衆に管理してもらいたいと,申し出る。 家族を人質として差し出すという意味である。 これが口火となって他の大名が我も我もと城を差し出した。 家康は大いに喜び,一豊に,戦功は何もなかったにも拘わらず,関ヶ原戦後土佐一国24万石を与えている。 4倍の加増である。 実は山内一豊の発言は,堀尾忠氏<ただうじ>(一豊の同輩堀尾吉晴の子)のアイデアを盗んだものだったが,先に言った方が勝ち。 堀尾忠氏は大した加増もなく,5年後に病死し,堀尾家はその子の代に後継ぎがなくつぶされた。 もし忠氏が一豊にアイデアを洩らさず,軍議で最初に発言しておれば,堀尾家は幕末まで生き残ったかもしれない。 江戸時代,土佐山内藩の武士は,他藩の武士から「ところで尊藩の御藩祖,関ヶ原においていかなる武功がござったかなあ」と,よくからかわれたという。 これに怒った土佐藩士が「今に見ておれ」とばかりにエネルギーを爆発させたのが明治維新につながった。 土佐は西軍に荷担し家をとりつぶされた長曽我部氏の領地であった。 行政官としても頭の悪かった一豊は,長曽我部の遺臣を取り立てることをせず,「郷士」という一段低い身分に固定し徹底して差別したため,それに対する怒りが明治維新と自由民権運動への推進力となった。 坂本竜馬は郷士出身である。 封建時代というのは,身分も役目も,それであるが故に何百年も前の恨みも掟も根強く生き続ける世界であることはまったくの事実である。 まさに歴史というのは,原因が結果となり,結果が原因となる繰り返しなのであろう。 A 家康は淀殿と秀頼を殺したくはなかった? 関ヶ原の戦いが1600年(慶長5年),大坂夏の陣が1615年(元和元年),その間15年,家康は59歳から74歳になっている。 1611年(慶長16年)豊臣派最右翼加藤清正の懸命の斡旋により二条城での家康と秀頼の対面があり,秀頼がここでは臣下の礼を取った。 清正はその直後50歳にして病死する。 それにしても15年というのはいかにも長い。 この「待ち」は家康もなんとかして豊臣家を存続させたいと思っていたからであろう。 確かに1614年(慶長19年)の方広寺の「鐘銘問題」以降の家康は,まるで悪鬼のごとく豊臣家を滅亡に追い込んだ。 しかし,もし豊臣家が臣従を誓えば事は違っていた筈,即ち前田家のように江戸に人質(前田家は方春院=おまつを差し出した)を出し,当主秀頼自身が江戸へ出府して家康・秀忠の前に頭を下げればよかったのである。 それをさせなかったのは淀殿の無益なプライドであろう。 大坂夏の陣の直前にも,家康は「浪人どもを召し放ち大和郡山城へ移れ」と二度も降伏条件を出している。 この段階の前,外堀内堀を埋められた時点で既に淀殿も敗北を予期していた筈であるが,降伏できなかったのは城内に大量に抱えた浪人たちの作り出す空気に抵抗できなかったのではないか。 浪人たちとしては再び失職の憂き目に会うよりは一か八かの勝負に賭けたかったと思われる。 戦争がなくなるということは武士にとって失業を意味する。 秀吉の朝鮮出兵も国内に抱え込んだ大量の戦国武者に仕事を与える意味があった。 世界の英雄といわれる人物は国内を統一すると必ず国外へ出兵し,常に戦闘状態を維持することで政権の継続と安定を図っている。 アレクサンダー,チンギスハーン,ナポレオン,乾隆帝みな然り。 B 徳川家を永続させる「家康の布石」を砕いたのは「吉宗の野望」だった 家康は自分が信長や秀吉のような天才でないことは自覚していたから,幼少時の不遇な流浪生活(今川家の人質など)に身につけた学問を生かしてよく書を読んだ。 また,戦国時代の主要な武器は槍であったのに,技芸者のする剣術を好んだ。 ために江戸時代は剣術が非常に流行する。 鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」が家康の愛読書であった。 信長や秀吉の失敗を他山の石とし,頼朝に政治の模範を求めた。 源氏の直系が三代で滅んだのは血統が絶えた点にあることに鑑み,天皇家のスペアである宮家の制度にならって,実子から御三家(尾張・紀伊・水戸)を作った。 のちに紀伊家出身の八代吉宗とその子家重が自分の血統から御三卿(田安・一橋・清水)を作るが,これは吉宗と将軍職をめぐって散々争った尾張家に将軍職を継がせないための策略である。 尾張家の徳川継友の弟で兄の急死により家督を継いだ宗春は吉宗の緊縮財政政策を嘲笑うかのように,名古屋城下で景気刺激策を取り成功を収め,一時は「宗春の方が将軍にふさわしい」との声すらあがった。 吉宗はこれを憎み無理やり隠居させた上,生涯幽閉し死後は墓碑まで金網で覆わせた。 さて,この御三家は実は同格ではない。 尾張・紀伊は大納言になれるが,水戸は中納言どまりである。 しかし水戸には定府の制という義務があった。 参勤交代の義務に代り,藩主が常に江戸に常駐し,国元へ帰る時は幕府の許可を必要とした。 「副将軍」という役目は正式な幕府の機構の中にはないのに,水戸藩主が世間で天下の副将軍と呼ばれたのは定府の制のゆえである。 家康は水戸家にさらに重い役目を背負わせていたと思う。 ≪こういう説も伝えられている。 家康は天海の勧告にしたがって,水戸家へ秘密の遺言書を伝えておいた。 それによると,今後徳川家の覇権が何代かつづいたとしても,いつかは必ず何者かによってくつがえされるときがくるにちがいない。 相手が諸侯である場合はいいが,万一朝廷との間で雌雄を決しなければならぬような事態に立ちいたった場合,宗家は面目上これと争わねばならぬとしても,水戸家だけは,宗家のことなど考えないで,朝廷の味方をせよというのである。(『実録・天皇記』大宅壮一著 角川書店刊)≫ こういう論を大方の学者は一笑に付して否定する。 その最大の理由は例によって「史料がない」ということだ。 そういう考え方こそ,私は「バカじゃないの」と思う。 日本は言霊の国なのである。 「起ってほしくないこと」は日本では口にしても書いてもいけない。 御三家が血統のスペアであることも,御三家の中の優先順位も明文化されてはいない。 「将軍家に万一のことがあって血筋が絶えた場合に――云々」などと不吉なことは書けないのである。 関ヶ原では真田家は昌幸の長男と次男が東西に別れ,父は本拠地で秀忠軍の関ヶ原到着を遅らせる働きをし,大谷吉継の娘をめとっていた次男の幸村(俗称,本名は信繁)は西軍へ,長男の信幸(関ヶ原戦以後に信之と改名)は東軍に属し,そして信幸の真田家(信州松代藩)は幕末まで残った。 こういう例は数々ある。 家康は天皇家が徳川家の脅威になり得ると考えていた。 家康は歴史を知っている。 家康ほど「徳川家は永遠に不滅です」と思わなかった人物はいない。 将軍家は「禁中並公家諸法度」を定め,厄介な存在である天皇家をコントロールするために,関白の権限を強化した上にその実質的な「任命権」を握る形にした。 また「三公は親王より上」だと定めた。 三公とは太政大臣,左大臣,右大臣であり,これは関白とともに通常藤原主流の五摂家(近衛,九条,二条,一条,鷹司)の人間が就任するから,それが天皇の子より上位にあるというのも,明らかに五摂家の力を強めて天皇家を牽制しようとする狙いがある。 徳川将軍の御台所(正妻)は三代家光以降は五摂家又は皇族である。 しかし将軍たちの生母は五摂家又は皇族以外の人間である。(例外は第15代 慶喜) 徳川家には正妻に後継ぎの男子を産ませてはならないという「空気」が大奥にあったと考える。 将軍の外祖父が天皇や関白だということになれば相当に面倒なことになる。 水戸家の出身者は将軍になってはいけないのである。 それではリスク配分の意味がなくなるからだ。 ではなぜ最後の将軍は水戸家出身の徳川慶喜なのか? それは慶喜は水戸家の徳川斉昭の七男坊であったが,乞われて,男子が生れなかった御三卿の一つ,一橋家の養子になった,つまり「紀州系の一橋家」の当主になったからである。 彼の生母は有栖川宮家出身の王女(吉子王女)である。 水戸家は皇室と親しくなっていいわけだから,積極的に皇室から嫁をもらい子供を作ったのだと見ている。 ところがその「天皇家の血を引く男」が将軍になってしまった。 彼が朝敵になるのを異常なまでに恐れたのは母が皇族であったと書いている歴史書は見たことがない。 C 家康が重用した「朱子学」がなぜ幕末に「倒幕理論」となったのか。 家康が仕掛けた「水戸家は最後の保険」という,徳川家名存続システムは皮肉にも意外な副産物を生みだした。 水戸学である。 水戸学とは,水戸徳川家が『大日本史』という通史を編纂するにあたって,学者を集め研究させたことによって発展した学問である。 しかるに幕末に至って水戸学は倒幕の有力な論拠となった。 家康は第二の「明智光秀」の出現を恐れ,それを思想上でも防止する策として,儒学の中でも最も主君に対する忠義を重んじる朱子学(異民族「元」に滅ぼされる前の南宋で生れた“攘夷”を主張する学問)に着目した。 無論そうだと書いた史料はないのだが,家康は制度上では全ての大名から人質を取り,武家諸法度でがんじがらめに縛り上げ,天皇も公家も禁中並公家諸法度でがんじがらめにしている。 思想の上でも「光秀防止策」を考えなかったはずがない。 藤原惺窩の弟子林羅山が家康に仕え,初代大学頭となり政治顧問として活躍した。 上野の建学寮(のちの昌平坂学問所),湯島の湯島聖堂を建てたのも羅山である。 朱子学は幕府の公式学問となり,それを見習う形で各藩も藩校を作り,朱子学の普及につとめた。 「主君に忠誠を尽くす」ためには,まず誰が主君か,ということを確定しなければならない。 家康は,当然それは徳川将軍家だと思っていた。 学問というものは,平和になり盛んになると,研究が深まる。 こうした中で,日本において誰が正当な王者であるかを綿密に分析しようという傾向が強まった。 ここで問題なのは「王者」という概念である。 王者とは「王道をもって天下を治める君主」のことだ。 簡単に言えば「徳をもって世の中を治める者」である。 家康が松平から改姓するにあたって源氏の新田の一族「得川」の系図を利用したのに,最終的には「徳川」にしたのも,かなりの深謀遠慮があってのことと分かる。 朱子学にはこの王者の正統性を考えるための概念として「似て非なる者」覇者というものがある。 本来の意味は「覇道をもって世を治める者」の意味である。 覇道とは「武力,権謀を用いて国を治めること」である。 徳川家はどうみても覇者である。 つまり真の王者ではないということになる。 朱子学の生れた中国では,皮肉なことにこうならない。 王朝の交代は実質は全て簒奪つまり「武力,権謀を用いて」前の王朝から権力を奪っている。 ならば覇者になるはずだが,中国ではそうならない。 後の王朝は原則として前の王朝を滅ぼしているからだ。 勝った者には「徳」があったのだ,前の王朝は徳を喪失したから滅びたのだ,という強引な理屈がつけられた。 これが易姓革命の理論である。 “天”の視点で見ると,A一族が徳を失ったので新たにBという一族を選んで天下を任せた=Aという姓の一族をBという姓の一族に易えた,つまり「易姓」したということになる。 しかし日本ではこの理論は成立しない。 覇者徳川家の他に,もう一つ,政権を担当してきた一族がいるからだ。 天皇家である。 朱子学は皇帝制の中国における政治哲学であり,そもそも前提が違うのだから,天皇家は王者か否かを問うのも本来は不可能なことなのである。 しかし,二本陣はそれを導入すると決めてしまった。 だから「ビーフカレー」的朱子学になった。 ヒンズー教徒は聖なる牛は食べない。 ビーフカレーは「日本料理」なのである。 江戸中期の佐藤直方(1650〜1719)は,天皇家の正統性の根拠は神勅にあり,徳にあるとはどの史書にも書かれていないし,徳を失ったら排除されるべしとは言っていない,として天皇は王者ではないと説いた。 しかし佐藤直方のような正統派は徐々に排斥された。 天皇家=王者(真の忠誠を尽くすべき対象),将軍家=覇者つまり「悪」であるということになった。 これが高じれば,真の忠誠の対象である天皇家に忠を尽くすためには,覇者である幕府及び将軍は討ってもいい,ということになる。 日本史上,最大の逆説かもしれない。 そして,この「逆説」がさらに強く進行したのが,水戸徳川家であった。 「朱子学では禅譲が正しく,簒奪は悪としている。 中国の王朝はすべて前王朝から簒奪した王朝である。 覇者が治めるあの国は中国(=中華の地=文明国)ではない。 ひるがえって我が国を見ると,万世一系の天皇家がおられる。 したがって我が国こそ真の中国(=文明国)である。」 と水戸学は主張する。 「天皇家こそ日本の正統なる君主」 「中国より日本の方が中国(=文明国)」という「学説」に最も功があったのは水戸徳川家であり,ここにおける『大日本史』編纂作業が,その推進役だったといっていいだろう。 実は第二代藩主光圀(=水戸黄門)がなぜこの事業を始めたのかを語る明確な史料はない。 彼が熱烈な皇室崇拝者であったことは確かである。 光圀は若い頃の放蕩無頼を反省し,『史記』を読むようになって歴史に目覚めたたというのが通説であるが, やはり家康の「保険としての勤皇」という考え方が初代ョ房に何らかの形で伝えられ,それを家訓として受け継いだ光圀が,水戸は勤皇の家となれというその使命を果たし,自他ともにそれを認めさせるために,この壮大な事業を始めたと考えたい。 この『大日本史』が澗性したのは明治になってからである。 「薬」が効き過ぎて,水戸学は倒幕の原動力となってしまう。 その上,よりによって天皇家と争いが起った時の将軍が水戸家出身という,家康にとっては大誤算の結果を生むことになった。 しかし,最後の将軍が天皇家には逆らわないと決めていたからこそ,内乱に外国の介入を招くこともなく,日本は亡国の危機を免れたともいえる。 最大の皮肉だが,家康の計算ははずれた方が日本のためにはよかったのである。 D 家康の謀略の“最高傑作”は巨大戦闘集団「本願寺」の分断だった 信長は政教分離を確立するため,11年の長きにわたって本願寺との戦争を行い,ようやく戦国最強の城「石山本願寺(現在の大坂城のある場所)」から退去させた。 その時,信長は「信仰の自由」については完全に認めた。 宗主<しゅうす>顕如は紀州鷺森御坊(拠点<ブロック>の大型寺院)に入ったが,結局武装解除には応じたものの,本願寺としての力は温存したままだった。 本願寺は全国各地に「寺」や「講(信徒の集まり)」という下部組織を持っている。 家康も22歳の頃,一揆方に荷担した一向宗(=浄土真宗)の信者である譜代の家臣たちに裏切られ,首を取られかけたという原体験がある。 家康の生前,三河国で勢力のあったのは真宗は,比較的おとなしい高田派であった。 ところが布教の天才蓮如が入ってきて,三河の三大真宗寺院がことごとく本願寺派に鞍替えしてしまった。 本願寺は加賀を一向一揆で支配したほど,領主の命令は聞かない。 従うことを要求する家康と反抗する一向宗徒の間でついに戦争が起こった。 この時三河武士の半分が一揆側についたのである。 家康はなんとか勝利を収め,寺を破却し本願寺僧は全部追放し,晩年に至るまで三河国内に本願寺系の寺院の再興を許さなかった。 また。家臣を戦闘的でない浄土宗に改宗させた。 のち浄土宗は天台宗と並んで徳川家の宗旨になる。 家康より四歳年上の家臣本多正信は,一向一揆で反乱側の指導者となった男であるが,帰参を許され,家康第一の謀臣として重用された。 1592年,本願寺第十一世宗主顕如が死に,惣領(嫡男)の教如が跡を継ぎ十二世になった。 ここで顕如の未亡人であった如春尼が,顕如の末子である准如こそ正統な後継者であるべと指定した「譲状<ゆずりじょう>」,即ち遺言書があると申し出て,秀吉に裁定を求めてきた。 秀吉はそれを受けて,教如は「引退」し准如に門跡<もんぜき>(宗主)を譲るべし,と裁定した。 教如は引退せざるを得なかった。 そして,しばらく雌伏の後,豊臣家が天下人の座を失うと,1602年(慶長7年)家康から京の烏丸六条の地に寺地を贈られた。 そこに教如は新たに本願寺を建てた。 なぜ京かといえば,数ブロック離れたところに秀吉から広大な敷地をもらい,准如が建てたもう一つの本願寺があったからだ。 この家康の行為の背後に本多正信の謀略がなかったとは思えない。 労組委員長出身の役員が社長のためにと過激な労組の切り崩し策を立案したようなものである。 今日では,准如の「豊臣系」本願寺を西本願寺といい,教如の「徳川系」本願寺を東本願寺と呼んでいるが,これはあくまで外部の人間がまぎらわしさを解消するためにつけた名称であり,正式には両方とも本願寺である。 宗派としての名称も,もともと同じ一向宗(=浄土真宗)であったものが,今では浄土真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)という。 そして全国にあった下部組織もこの時から「東」と「西」に分断されてしまった。 生前の顕如と教如は親子でありながら対立があったのは事実である。 教如はあくまで信長への徹底抗戦を叫んでいた。 秀吉にとっては教如は危険人物だったのだ。 秀吉は本願寺の内紛を利用して裁定者として相続問題に介入することができた。 想像をたくましくすれば,如春尼を裏からたきつけたのは秀吉だったかもしれないのである。 家康は「不満分子教如」を最大限に生かして,分断支配を完成させた。 最初は遺言状の真贋論争であったものが,時代を経るにしたがい泥仕合のようになってきた。 幕末においても「東」は佐幕派であり「西」は勤皇派なのである。 かつて鉄の結束を誇り,専門武士の戦闘能力をはるかにしのいだ本願寺は,こうして分断され,それ以降ずっと内紛抗争に力を注ぎ,権力に反抗することをまったく忘れてしまった。 家康の思惑通りになったのである。 |
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☆ 変なことば遣い(U)<2006.12.06>近頃の気持ち悪いことば:「・・・・してもらっていいですか?」
丁寧な依頼を意味するらしいこういう言い方がかなり普及しているようである。
「・・・・してもらっていいですか?」は「・・・・してもらう」+「・・・・かまいませんか?」に分割できると思う。 |
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☆ 米原万里著 『オリガ・モリソヴナの反語法』 を読む <2006.12.13>発行:集英社(2002年10月)
これは2006年5月に癌のため56歳で逝去した米原万里(1950.04.29〜2006.05.25)さんの最後の長編小説である。 彼女は元練達のロシア語同時通訳,日ソ外交の重要な場面にも立ち会っている。 |
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☆ イザベラ・L・バード著 『日本奥地紀行』 を読む <2007.07.26>発行:平凡社 東洋文庫(1973年10月) 翻訳者:高梨健吉
明治維新からさほど遠くない明治11年の夏,47歳の一英国婦人が日本の東北・北海道を約三ヶ月旅をした。 彼女が東北・北海道を選んだ理由は,あまり外国人が行かない「奥地」への興味とアイヌへの興味である。 最初日光を見物し,そこから鬼怒川ルート(会津街道)を通り会津盆地から新潟(県都)へ,そこから米沢平野から山形(県都)へ,そこから久保田(現在の秋田市)へ,更に青森まで行き,函館へ渡る。 北海道では現在の区分で言う「道南」の太平洋沿岸部のアイヌ集落ばかりを主に歩いている。 |
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☆ ユン・チアン(張戎)&ジョン・ハリデイ著 『マオ 誰も書かなかった毛沢東』 を読む <2008.01.05>発行:講談社 (2005年11月) 翻訳者:土屋京子 ユン・チアン(Jung Chang 張戎)という発音は彼女の出身地四川省の方言で,標準語的には ZhāngRóng である。
この本は「毛沢東と血塗られた共産党史」とも言うべき書である。 中国大陸の20世紀前半から後半までの裏現代史としても驚くほど生々しい“史実”が述べられており,著者夫婦の長年にわたる膨大な資料の渉猟と多くの有名無名の関係者へのインタビューの成果がふんだんに盛られている。 これは約半世紀以上前のこととはいえ,中国国内で共産党独裁政治が続く限り,天安門に毛沢東の肖像が掲げられている限り,一般大衆に本書の中国語版が公開されることはないと思わざるを得ない。 以下にこの書から読み取った“史実”と感想を列記する。
【読後感】 |
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☆ 申維翰著 『海游録―朝鮮通信使の日本紀行』 を読む <2008.01.20>発行:平凡社 東洋文庫(1974年5月) 姜在彦(カン・ジェオン)(1926〜,京都大学文学博士,現在花園大学文学部客員教授) 訳注 『海游録』は1719年(享保四年)に,徳川吉宗の将軍職襲位を賀するために派遣された朝鮮通信使(又は信使)に製述官として随行した著者申維翰(シン・ユハン)(1681〜?)が記録した日本紀行である。 本篇は日記体(原文は漢文)で書かれていて,この現代語訳で読んでも精緻を極めた観察と流麗な描写をもつ名文である。 この時の使節は江戸時代としては第9回目の通信使に当たるが,通信使という制度は既に室町幕府足利義満が明朝から「日本国王」の冊封を受けたのち,朝鮮にも「日本国王源道義」の名義を以って使者を派遣し,新しい外交関係を開いて以来連綿として続いてきた制度である。 江戸時代の第1〜3回通信使の名称は回答兼刷還使であり,名目上は捕虜の帰還を進めるための使いであるが,実態は日本側の招聘に応えて朝鮮側が友好使節を派遣するスタイルによる一大国家外交行事であることに変わりない。 享保四年の通信使は,一行475人(歴代の人員とほぼ同程度,そのうち109名は江戸まで行かず大阪に六船からなる自国船とともに残留)を擁する一大使節団であり,往復日数261日を要している。 信使の日本国内での宿泊所や休憩所は幕命により各地の大名・領主が自費で設営し接待する慣わしであるから,日本側の出費も少なからざるものがある。
信使一行は正使,副使,従事官の三使臣,堂上訳官三員,上通事三員,製述官一員,使臣付きの医員を始め,軍官,書記,技人,役夫などから構成される。 製述官の役割は,本文によれば,「近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり,学士大人と呼びながら群をなして慕い,詩を乞い文を求める者は街に満ち門を塞ぐのである。 だから,彼らの言語に応接し,我が国の文章を宣揚するのが,必ず製述官の責任とされるのである。 まことにその仕事は繁雑であり,その責任は大きい。 かつ,使臣の幕下にありながら,万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは苦海であらざるはなく,人々みな畏れて,鋒矢に当たるのを避けるが如くこれを避ける。」とある。 一行に往復とも同行したのは,対馬藩の記室(書記官)である雨森誠清(号は芳州,俗号は東五郎,本篇では雨森東と書く)と松浦允仁(号は霞沼,俗号は儀左衛門,本篇では松浦儀と書く)の二人であり,彼等は木下順庵の弟子にして新井白石や室鳩巣と同門である。 新井白石(本篇では源璵と書く)は以前から通信使との出会いを持っており,申維翰も彼の文才を評価する先輩の言を聞き,面会を期待していたが,この時白石は失脚して蟄居しており,会うことは叶わなかった。 雨森芳州,松浦霞沼と申維翰とは他の人との儀礼的な付き合いとは異なり,江戸までの往来を通じて深く接触し,とりわけ雨森芳州は,朝鮮語と中国語を話すことのできる,当時としては貴重な儒学者であり,道中時にそれぞれ自国の威信をかけて口喧嘩もするなど,腹を割った付き合いをしている。 雨森芳州は対馬で没するが,彼の出身地,現在の滋賀県高月町雨森地区には今,「雨森芳州庵(東アジア交流館)」が建てられ,韓国からの訪問者も多い。
本篇に続く「付篇 日本見聞雑録」には,日本の地理,政治形態,官職,物産,飲食・薬,兵制,女性の容貌から花柳界,男娼の俗まで諸々の見聞が記されるが,雨森芳州との談論についても詳しく記されている。
「付篇 日本見聞雑録」には「国に四民あり,曰く兵農工商がそれである。 士はあずからない」という文がある。 朝鮮では武官よりも文官のほうがはるかに地位が高かった。 朝鮮では士=読書人であるが,日本ではそうではないので,兵農工商とは言い得て妙なりといえる。 通信使の目的は,日本の国情を真剣に細密に探索することにあり,そして朝鮮国側から見れば,再び秀吉のような「賊」が現れるか否かが最大の関心事であった。 そういう意味で「付篇 日本見聞雑録」の末尾には,家康以来国内に兵乱はなく,国は富んでいるが,「君臣たるもの・・・・安楽に馴れ,汲々として事変をただ懼れる。」 秀吉や清正のような賊が出て来ても,我が国の辺疆を脅かすようなことは万が一にも起こらないであろうというくだりが入っている。 |
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☆ イザベラ・L・バード著 『朝鮮紀行』 を読む <2008.08.27>(a) 発行:平凡社 東洋文庫(1993年) (a) 翻訳者:朴尚得 本書は単なる紀行文ではない。 地勢,歴史,民俗風習,政治動向,宗教(特に朝鮮独特のシャーマニズム)から教育・貿易・財政に関する情報と知見,朝鮮の将来に関する考察まで,その筆は広がる。 彼女の興味の広範さと知識慾の旺盛さには感服するのみである。 以下,バードの記述の中から興味のあるものを拾ってみる。 序章で地勢・民俗・歴史・政治・経済を簡単に紹介する中で,「住民の体格がよいこと,知能面では理解が早く,外国語をたちまち習得してしまい,清国人や日本人より流暢に,またずっと優秀なアクセントで話す」 と述べているが,これは現在でも通用する。 遺伝的素質は百年経ったぐらいでは変わらないことがわかる。
「朝鮮文字である諺文(オンムン)[ハングル]は・・・・知識層から,まったく蔑視されている。 もともと諺文は女性,子供,無学な者のみに用いられていたが,1895年1月,それまで数百年にわたって漢文で書かれていた官報に漢文と諺文のまじったものがあらわれ,新しい門出となった。 <序章> ハングルを最初に公式文書に用いたのは日本人の主導による「改革」の一つなのである。 無論,現在の韓国の歴史教科書上ではこのことは触れられていないはず。 日本政府は改革が進まないのは閔妃一派による妨害のためであることを知り,大鳥公使に代えて内務大臣井上馨(当時伯爵)を特命全権公使として派遣した。 しかし事態は変えることができず帰国,後任に三浦梧楼子爵が任命された。 彼が閔妃殺害の首謀者のひとりである。 ※ 大鳥圭介=播磨赤穂郡赤松村出身。 備前閑谷黌で漢学を学び,緒方洪庵の適塾で蘭学を修め,江戸では江川太郎左衛門に兵学を,中浜万次郎に英語を学ぶなどして,洋学に関する知識を認められ幕府開成所の教授に任ぜられる。 のち陸軍に出向。 戊辰戦争を経て榎本武揚らと函館に籠城するが降伏した後,維新政府に出仕。 明治22年特命全権清国駐箚公使,明治26年(1893)朝鮮駐箚を兼任,27年枢密院顧問官に任じられる。 バードは彼の印象をこう記す。 「その年(1894年の日清戦争前夜)の最初の数ヵ月間,わたしは大鳥氏と顔を合わせる機会がよくあった。 大鳥氏は中背の日本人で,英語がうまく,洋服姿がじつに板についており,白い「三角」ひげが自慢だった。 婦人客が食後の休憩をとっている部屋をうろうろしてはつまらない感想を口にする人で,取るに足らないところが唯一の特徴だった。 しかし状況が状況であるせいか,あるいは東京からの厳重な指令のせいか,大鳥氏は一変していた。 それまでの彼が仮面をかぶっていたかどうかわたしには知るよしもないが,ともあれ彼は荒っぽく,精力的かつ有能で,非人道的な行動派としての面を見せ,その如才なさはきわどい駆け引きで袁世凱の裏をかいたばかりか,ほかのだれをも出し抜いたのである」 <第十三章―迫りくる戦争/済物浦の動揺> 1876年,日本が江華条約を強要し,1882年には清が商民水陸章程でこれに続いた。 アメリカ合衆国は1882年に,イギリスとドイツは1884年,ロシアとイタリアは1886年,またオーストリアは1892年に,それぞれ条約締結を交渉したが,そのいずれにおいても, 朝鮮は清の属国であったにもかかわらず,独立国家として遇されている。 これらの条約によりソウルと済物浦,釜山,元山<ウォンサン>の三港が開港し,また今年(1897年),木浦<モッポ>と鎮南浦<チンナムポ>がそれに追加された。 <序章> 朝鮮は清の属国であったというのが当時の常識であった。
「朝鮮の動物相は注目に値する。 トラとヒョウはおびただしく棲息し,・・・・<序章> トラの話はよく喧伝されているが,ヒョウの話は意外であった。
「ソウル,海岸,条約港,幹線道路の周辺のはげ山は非常に目につき,・・・・朝鮮南部の大部分において,木立という名に値するものが残っているとすれば,それは唯一墓地のおかげである。 ・・・・しかし北部と東部の山岳地,とくに豆満江,鴨緑江,大同江,漢江の水源周辺にはとても広大な森林があり・・・・」 <序章>とある。
「釜山の旧市街へ同行してくれたのは,ほぼ朝鮮人同様に朝鮮語を操れるチャーミングなイギリス人の「ユーナ」[真の信仰を象徴する婦人]で,・・・・朝鮮の一般的な町のみすぼらしさはこの町と似たり寄ったりであることをのちの体験で知った。 狭くて汚い通りを形づくるのは,骨組みに土を塗って建てた低いあばら家である。 窓がなく,屋根はわらぶきで軒が深く,どの壁も地面から二フィートのところに黒い排煙用の穴がある。 家の外側にはたいがい不規則な形のみぞが掘ってあり,固体および液体の汚物やごみがたまっている。 疥癬で毛の抜けた犬や,目がただれ,ほこりでまだらになった半裸か素裸の子供たちが,あたりに充満する悪臭にはまったきおかまいなしに,厚い土ぼこりや泥の中で,日なたで息を切らせたり,まばたきしたりしている。」 <第六章―漢江とそのほとり>
慈山<チャサン>で,・・・・町の人々からは清国兵は情け容赦なくものを盗む,ほしいものは金も払わずに奪い,女性に乱暴を働くという悲痛な被害の話をきいた。・・・・慈山でもほかと同様,人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示したが,やはりほかのどこでもそうであるように,日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた。 <第三十章―キリスト教伝道団> 朝鮮人の日本人に対する反感は本書のあちこちで指摘されている。 それは三世紀前の日本の侵略が残した遺産であるとも言っている。
「・・・・朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある・・・・両班はみずから生活のために働いてはならないものの,身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず,妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。 両班は自分ではなにも持たない。 ・・・・両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。 慣例上,この階級に属する者は旅行をするとき,おおぜいのお供をかき集められるだけ集めて引き連れて行くことになっている。 従者たちは近くの住民を脅かして飼っている鶏や卵を奪い,金を払わない。・・・・ 「(平壌からソウルへの帰路の)出発前,ほこりと汚物にまみれた宿の庭にすわり,うつろに口をぽかんと開けた,無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると,わたしには羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が,なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ,ロシアの保護下にでも入らないかぎり1200万とも1400万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。 ロシアの統制を受ければ,働いただけの収入と税の軽減が確保される。 何百人という朝鮮人が精力的に働く裕福な農夫に変身しているのをわたしはシベリア東部で見ているのである。」 <第八章―自然の美しさ/急流>
バードは,朝鮮自身による国の再生は到底無理で例えばロシアの保護国にでもなるしかないと断じている。 しかし環境が変われば国民はよく働き裕福になるだろうという見方は現在の韓国の状況を見れば当たっている。
「昼間水をくんだり洗濯したりする下層階級の女性については前に少し触れた。 これら女性の多くは下女で,全員が下層階級の人々である。 朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。 ・・・・ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。 (夜)八時に《大釣鐘》が鳴り,それを合図に男たちが家に引きこもると,女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。 ・・・・わたしが到着したのもそんな時間帯であり,まっ暗な通りにあるのはもっぱらちょうちん片手に召使いをお供にした女性の姿だけという異様な光景であった。・・・・十二時にもう一度鐘が鳴ると,女たちは家に戻もどり,男たちはまた自由に外出できる。 ある地位の高い女性は,昼間のソウルの通りを一度も見たことがないとわたしに語った。 <第二章―首都の第一印象>
・・・・中流および上流階級の女性の場合・・・・絶対に中の見えない輿に乗らないかぎり昼間は外出しない。 今は,日中韓のどの国でも女性上位が珍しくなくなったし,子供が親の老後の面倒を見るという伝統的な規範も存立があやしくなっている。 「だれそれのお母さん」ということに関して言えば,現在韓国では,子供が生まれると若夫婦間のお互いの呼称が“誰々アッパ(お父さん)” “誰々オムマ(お母さん)”という言い方になるのが普通である。
・・・・(元山近くの海岸沿いの)この地域では馬も体つきが大きくてよく世話をされており,赤い牡牛は巨大である。 とはいえ,黒豚は相も変わらず小さくてみすぼらしい。 作物は整然と植わっており,畔や灌漑用水路もよく手入れされている。 日本と土壌がきわめてよく似ているのであるから,しかも朝鮮は気候には日本よりはるかによく恵まれているのであるから,行政さえ優秀で誠実なら,日本を旅した者が目にするような,ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う。 ここで指摘される農業のやりかたは,現在でも製造業を始めいろんな分野にも当てはまるようである。 いわゆる「ケンチャナヨ」精神である。
「美術工芸はなにもない。 <序章>・・・・ よく知られるように,韓国の有名な古刹はみな僻地に位置する。 また,祖先崇拝も鬼神信仰も恐怖のゆえというのはなかなかユニークな説である。 このことは日本の古代において,不幸な死を遂げた高貴な人の祟りを封じるため寺院や仏像を建立した例が少なからずあることとも相通じる。 祖先崇拝に関して言えば,現代でも長男の嫁はしょっちゅう家の祭祀(チェーサ)の準備に追われるので,長男と結婚するのを嫌う女性が多いと聞く。 「元山から約六十里[朝鮮里。一里=約0.4km]のところに芝草の生えた小山の群れがあるが,これは昔の風習にまつわるもので,現代の朝鮮人はその風習を野蛮と考えており,この小山群について語ろうとしない。 李朝の前の時代,いまから五〇〇年以上も昔,老齢や病気で身内の負担となった人々をこういった小山のなかにある石室に少量の食べ物と水を持たせて閉じ込め,放置して死なせる風習があった。 朝鮮各地の同じような小山で土器の碗やつぼ,ときには灰色の青磁が発見される。」 <第十二章―長安寺から元山へ> 日本でいう“姥捨山”である。 貧しかった昔はどこでもこのような風習があったのだ。
朝鮮は必ずしも貧国ではない。 資源は開発されていないのであって,・・・・資源はある。 海に,土に,身体壮健な人々に。・・・・
日本の場合,室町時代から江戸時代を通して商工業がかなりの程度発達していたことが,明治以降の大発展につながった。 朝鮮の場合はそういう土壌がきわめて貧弱であったことが分かる。
1895年10月の閔妃暗殺事件(乙未事件)の結果については,バードはこう書いている。
1895年12月の断髪令がきっかけになって朝鮮全土で武装蜂起が起こった。 これにより旧独立派も穏健開化派も壊滅し,日本が精力を傾けてきた朝鮮内政改革への流れはひとつの終焉を迎えることとなった。 「最近の政策は,総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは,対照的に好ましくない。 昔ながらの悪弊が毎日のように露見し,大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。・・・・1895年10月8日[乙未事変]の反逆的將校や,武力で成立した内閣の支配からも,心づよくはあっても非人道的な(日本嫌いの)王妃の助言からも,また日本の支配力からも解放され,さし迫った身の危険もなくなると,(人の好い意志薄弱な)国王は王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ・・・・寄生虫のような取り巻きの大群に囲まれて・・・・」 <第三十六章―1897年のソウル> とバードは非難している。 「この三年間(=1895〜1897年)にあった朝鮮に有益な変化のうち重要性の高いものをまとめると,つぎのようになる。 清との関係が終結し,日清戦争における日本の勝利とともに,・・・・本質的に腐敗していたふたつの政治体制の同盟関係が断ち切られた(=朝鮮の清からの独立)。 貴族と平民の区別が少なくとも書類上は廃止され,奴隷制度や庶子を高官の地位に就けなくしていた差別もなくなった。 残忍な処罰や拷問は廃止され,使いやすい貨幣が穴あき銭にとってかわり,改善を加えた教育制度が開始された。 訓練を受けた軍隊と警察が創設され,科挙(クワゴ)はもはや官僚登用にふさわしい試験ではなくなり,司法に若干の改革がおこなわれた。 済物浦から首都にいたる鉄道敷設が急ピッチで進められており,商業ギルドの圧力はゆるめられ,・・・・国家財政は健全な状態に立て直され(バードによれば,これはイギリス人マクレヴィ・ブラウン財政顧問が腐敗した朝鮮官僚と奮闘した結果である),地租をこれまでの物納から・・・・金納する方式に変えたことにより,官僚による「搾取」が大幅に減った。」 <第三十七章―最後に> バードは,この三年間を総括して,日本は朝鮮に清からの独立を“プレゼント”し,そして日本が処方箋を書いた「改革」プランが,途中で退行することにはなったものの,それなりの成果は残したと評価する。 「わたしは1897年の明らかに時代退行的な(前項で述べた)動きがあったにもかかわらず,朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。 ただし,それには次に掲げたふたつの条件が不可欠である。 |