落書き帳−葦の髄から−(C)


R.F.ジョンストン著 「紫禁城の黄昏」(上・下)を読む <2005.07.25> 

井沢元彦著 「逆説の日本史」を読む <2000〜2006> 
    @ 古代黎明編―封印された「倭」の謎
    A 古代怨霊編―聖徳太子の称号の謎
    B 古代言霊編―平安建都と万葉集の謎
    C 中世鳴動編―ケガレ思想と差別の謎
    D 中世動乱編―源氏勝利の奇蹟の謎
    E 中世神風編―鎌倉仏教と元寇の謎
    F 中世王権編―太平記と南北朝の謎
    G 中世混沌編―室町文化と一揆の謎
    H 戦国野望編―戦国混迷の時代に生き残る条件!
    I 戦国覇王編―天下布武と信長の謎
    J 戦国乱世編―朝鮮出兵と秀吉の謎
    K 近世暁光編―天下泰平と家康の謎

変なことば遣い(U)<2006.12.06>    

「オリガ・モリソヴナの反語法」を読む<2006.12.13>    

今田新三の「遺書」 (含,私信)を読む <2006.12.25>   

イザベラ・バード著「日本奥地紀行」を読む <2007.07.26>    

ユン・チアン著「マオ誰も書かなかった毛沢東」を読む<2008.01.05>    

申維翰著「海游録―朝鮮通信使の日本紀行」を読む<2008.01.20>    

イザベラ・バード著「朝鮮紀行」を読む <2008.08.27>    

アンナ・ヴィムシュナイダー著「秋のミルク」を読む <2009.01.15>    

馬野秀行著「信長暗殺は光秀にあらず」を読む <2009.07.08>    

遠藤誉著「中国動漫新人類」を読む <2010.07.10> 
         


☆ R.F.ジョンストン著 中山理翻訳 渡部昇一監修 「紫禁城の黄昏」を読む <2005.07.25>

発行:祥伝社(2005年3月)
 

原題:Twilight in the Forbidden City by Reginald F.Johnston (London:Victor Gollancz Ltd.1934)

  筆者は1874年スコットランドのエディンバラ生れ。 オックスフォード大学卒業後,1898年,香港英国領事館に着任,香港から威海衛(英国の租借地)に転属後は地方官吏と行政長官を務める。 1918年,李鴻章の子息李経邁の推薦により,その翌年に皇帝溥儀(当時13歳)のヨーロッパ人帝師(tutor)に就任し,溥儀から厚い信頼を得る。  宮廷内部の実情や当時の政争の内幕をつぶさに見聞する。 1925年帝師を辞任。  1930年,英国を代表して威海衛の中華民国への引渡しを行ったのち母国に帰国。 1931年柳條湖事件(満州事変)の直後,天津と上海を訪問,天津では二日間溥儀の客となる。 その直後に溥儀は満州国へ向う。  彼は英国ではロンドン大学の東方学院文化・言語学の主任教授を務め,1938年死去。 原著は1933年に書かれたもの。

  この本は映画「ラスト・エンペラー」の原典であると同時に,当時の溥儀の思想を始め,「シナ」政界及び人心の動静に関する貴重な同時代資料である。

  この訳書では China の訳語として「シナ」という言い方を採用している。  それについては,訳者によって下記のような説明がされている。

   「満州から起った王朝の名は『大清』である。 この王朝は1644年からシナを支配していて,1911年に辛亥革命が勃発した時もなお存続していた。 ・・・・・・共和国は,西洋諸国の類例にならい,自国を単に「シナ共和国」と呼ぶことに決めた。  それに相当する意味のシナ語は「中華民国」で,これが今日の共和国の名称となっている。」<(上巻)第8章 p.204>
「確かに,『中国(Chung Kuo)』という名称が,おおよそ「シナ(China)」を指す一般用語として常に広く使われてきたことは間違いないだろう。 しかし,その用語は単に「中央の王国」あるいは「中の王国」(Middle Kingdom or Realm)というほどの意味しか持たず(シナ帝国の世界に占める位置が,その中心であることを想定している),皇帝が用いる正式称号の中には入っていない。 ただし,今日では,中華民国という正式名称の一部に取り入れられている」<(上巻)第8章 pp.205〜206>

  とあるように,著者は一般読者のために,王朝名とともに,領土的,地理的な概念を表す名称としての「チャイナ」も用いていることも事実である。  そこで訳者は英語の「チャイナ」に音韻的にも近い「シナ」のほうが,訳語として相応しいと判断した。
  これに応じ,訳語の統一上,中国人,中国語という訳語も使用せず,シナ人,シナ語とした。  これは訳者注と訳者あとがきで紹介したジョンストンの書名についても同様である。  このような「シナ」という訳語の選択は,以上のような著者の意向と当時の歴史的状況を斟酌したものであることをお断りしたい。

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  以下,私の個人的な興味をそそった個所を拾い読みしてみることにする。


  ■ 日露戦争前の満州は実質的なロシア領になっていたとジョンストンは書く。

  それより四年前,シナはそれまでずっと軽蔑し,無視しつづけた(このような蔑視は今に始まったことでもないし,それ以後なくなつたわけでもないが)小さな島国の帝国に打ち負かされ,もろくもその足下にひれ伏してしまった。 その結果台湾は(実際のところ,満州王朝が征服して併合するまでは,シナの領土ではなかったけれども)割譲されて日本帝国の一部になった。
  さらには,もしヨーロッパの三大強国(ドイツ,ロシア,フランス)が三国干渉を行わなかったならば,シナはさらに旅順と大連を含む満州の重要拠点(遼東半島)も失っていたことだろう。  とはいえ,三年もたたぬうちに,シナはその拠点さえ失ってしまった。  そのときロシアはいかにも度量が大きいようなふりをして,無理やり日本からシナに返還させた領土を自ら占領しただけでなく,満州全土においても,ロシアの軍事的地位をすこぶる強固なものにしたのである。  その結果,ロシアはあの満州王朝の先祖伝来の土地における支配的勢力にのしあがったのだ。・・・・・・
  これは,眼前にある今の満州問題の背景を理解しようとする者なら,絶対に忘れてはならない事実である。  シナの人々は,満州の領土からロシア勢力を駆逐するために,いかなる種類の行動をも,まったく取ろうとはしなかった。

  もし日本が,1904年から1905年にかけての日露戦争で,ロシア軍と戦い,これを打ち破らなかったならば,遼東半島のみならず,満州全土も,そしてその名前までも,今日のロシアの一部となっていたことは,まったく疑う余地のない事実である。<(上巻)第1章 pp. 42〜43>


  ■ ジョンストンは,西太后が死ぬまで権力を保持したのは,彼女の資質とか能力にあるというよりも,皇帝よりも地位が上であったことが理由であるという。 統治者としての西太后に対するジョンストンの採点は非常に辛い。

  乾隆帝の場合も,西太后の場合も,皇帝の政務を名目上引き渡したからといって,その尊厳,威光,そして権力でさえも,まったく衰えることがなかった。・・・・・・
  1795年に乾隆帝のとった行為,そして1872年と1889年に西太后がとった行為に対して「退位」や「引退」という言葉を使うと,西洋人に誤った印象を与えやすい。  乾隆帝は1795年に治世六十年を盛大に祝った後,「皇帝」の地位を譲渡して「太上皇」の地位に就いたが,その後もその地位の力によって,皇帝の位にある継承者よりも優位に立ちつつその余生を送ったのである。・・・・・・つまり乾隆帝が就いた太上皇という地位は純粋な名誉職ではなかったのである。  乾隆帝は日常政務からは解放されても,一切の重要な政務の最終決定権は持っていて,もし彼がその気になれば,皇位継承者の詔勅も却下もするし,拒否する権限さえ持っていた。
  さて,「引退」後の西太后の地位が,尊敬すべき乾隆帝ほど高くなかったとしても,現皇帝の地位よりは,実質上も理論上も上であったことは間違いない。
・・・・・・このような疑問を投げかける人は,前述した地位にある太后が,皇帝や皇后より上に立つだけでなく,故人となった皇帝の后妃の「太妃」でさえも,現皇帝や皇后より位が上であるという事実を理解していないのである。<p.57>

  もし,この「偉大な」皇太后が,一部の西洋人の賛美者が言うように,賢明な政治家であり,愛国心のある統治者であったならば,次のようなことも,単なる可能性に留まることは決してなかったであろう。
  つまり1894年の日清戦争は起らず,1898年に港湾や租借地を列強に割譲する必要も起らず,改革の手段について宮廷と政府の側から反対されることもなく,義和団のような運動に帝室が関係することもなく,公使館区域攻囲もなく,賠償問題も生じず,革命も起らず,「共和国」も出現せず,法律と秩序の崩壊もなく,蒙古,トルキスタン,チベット,熱河,満州を失うこともなかったであろう。  すべての「不平等条約」も,他国との友好関係を少しも損なわずに,相互協定を通して,ずっし以前に破棄てされていたかもしれない。  ・・・・・・

  西太后の取るに足らない特徴の中で最も顕著なものは虚栄心である。<(上巻)第5章 pp.126〜128>


  ■ もし康有爲と光緒帝が進めようとした1898年の改革が成功していたら,歴史は全く違ったものになっていた筈と,ジョンストンは考える。

  もし1898年の改革計画に何の邪魔も入らなかったならば,皇帝の治世は,日清戦争の惨禍に見舞われたにもかかわらず,満州朝廷にとってもシナの国民にとっても,繁栄と進歩の時代としてシナ史の記録に残ったかもしれないのである。
  また皇帝にしても,同時代の傑出した日本人に匹敵するほどの名声を残したかもしれない。  その日本人とは,その治世下で日本がすばらしい改革と発展の時代を迎えた明治天皇である。・・・・・・
  1898年,清朝は興亡の岐路に立っていた。  敗北と不名誉の谷底から,繁栄と新たな栄光の丘へ登る分岐点に立っていたのである。  しかし,清朝は誤って滅亡と死の沼に至る曲がり道を選んでしまった。<(上巻)第5章 pp.140〜141>


  ■ 1908年11月の西太后と光緒帝の死の直前,1908年8月少年の溥儀は即位し,宣統帝となる。  皇帝の実父醇親王が摂政となり,光緒帝の皇后隆裕皇太后と並立する形の統治の時代に入る。  不幸なことに彼等もまた困難な時代を乗り切るには全く相応しくない人材であった。

  1910年から1911年にかけては,反乱のざわめきが国中の至るところで聞かれていた。  皇帝が自由主義的な思想に譲歩しても,議会制体を樹立して専制政治から制限された君主制へ移行することを約束しても,いっこうに不安の静まる気配はなかった。・・・・・・広東では,後に革命の総帥として名を馳せる黄興のもとで危険な反乱が起り,総督本部が破壊された。 ・・・・・・
  不幸にも,シナの鉄道システムを,中央政府の統一管理下に置こうとしたことが(その原則は健全なものであったが,様々な理由から各地区に強い反対が起こった),革命[辛亥革命]の直接的な原因のひとつだったと言われている。
  北京の政府は,無知で無能な隆裕皇太后と,脆弱で「無力」な摂政親王の支配下にあり,痴愚政治に近い状態へと急速に転落していった。  醇親王は,短い生涯の間に,すでに重大なヘマを何度もしでかしていた。  そして今また致命的な過失を犯そうとしていたのである。  親王は最も危険な政敵(親王が三年以前に降格にし,屈辱を与えた人物=袁世凱)を復職させる決心をした。  それとも,うっかり説得されてしまったのだろうか。
  袁世凱は,北京に入るや否や,状況を完全に掌握できると実感した。  自分の条件を無理やり呑ませることもできるし,自分に邪魔だてできるほど強力な者は誰もいないと確信していた。・・・・・・
  袁自身は湖広総督,皇帝軍の最高司令官,そして新内閣の総理大臣を歴任した。  次に彼は軍事問題の処理も引き受けるようになり,揚子江中部では革命主義者との戦闘で,瞬く間に戦況を好転させた。・・・・・・けれども,彼は全力で打撃を与えることを控えたため,全国の皇帝支持者たちは袁が当初の軍事的勝利に乗じて一気に攻め込まなかったことに憤慨し,途方に暮れた。  袁は明らかに自分自身の政策を推し進めようとしていたのだった。
  ・・・・・・1911年末と1912年初頭に上海で行われた革命主義者と帝室の講和会議で皇帝側代表を務めたのは袁世凱の腹心唐紹儀である。  彼は席上共和制支持への転向を公言し代表を辞任。  その後の北京と南京でだらだらと継続された交渉に参加した両派は,すこぶる注目に値する妥協に到達した。  つまり,帝室の詔勅によって共和政体が樹立されたのである。  皇帝は自ら退位を公表した。 一方,共和国は,皇帝が,臣民の申し出とされる要望を喜んで聞き入れたことに感謝し,次のようなことを保障したのである≪帝室優待条件≫
  すなわちそれは,皇帝が完全な尊称を保持することも含めて諸種の特権を保有できること,皇帝の私有財産所有が保障されることのほかに,宮殿のひとつで引き続き宮廷を維持するために巨額の年金を与えられることである。<(上巻)第6章 pp.151〜156>


  ■ シナの国民は清朝など憎んでいなかったとジョンストンは主張する。

  シナ国民の間に,西洋的な意味で共和制を樹立したいという要求が全くなかったというのが正しいならば(シナには1924年以来「議会」がなく,不面目な終わり方をした共和制への実験を再び始めようと望む者は誰もいないようである),同じくシナ国民の間に脆弱な政府への不満こそあれ,満州人への「憎悪」など,全く広がっていなかったということも,正しいのである。
  大勢のシナの人々はすぐに,革命主義者たちがでっちあげた反満州主義のスローガンに飛びついたけれども,彼らは自分たちが何を行ない,何を言っているのかについて,何の明確な概念も抱いていなかったのである。  まるでオウムのように「満州人を打ち倒せ」と叫ぶことを覚えたように。
  ちょうど,それ以来,無数の学生やその他の人々が「資本主義,帝国主義,英国,日本を打ち倒せ,『不平等条約』をぶっつぶせ!」と叫んだり,流行の流儀や時の急務に応じて,あの特定の将軍をやっつけろだとか,この政治家を引き下ろせだとか,喚き立てることだけを覚えたように。
  ただし,これと酷似した現象は,世界の他の地域でも目撃されているので,シナの人たちも,私たちと共通の人間性を持っているという事実を思い出させてくれるだけだ。<(上巻)第6章 pp.162〜164>


  ■ ジョンストンは,1911〜1912年に立憲君主制が樹立される絶好の機会があったのにそれを逃したことを惜しんでいる。

  袁世凱は幼帝の即位時に,君主制の維持の要求と結びつけてひとつの提案を出せたはずだ。  それは,私が,前述したように,三年前に採用すべきだった類の提案である。  すなわち漢人が委員の大多数を占め,即時に改革を開始できる広範な権限を持つ摂政協議会の任命である。
  そのような機間で展開する最初の義務は,当時なお紫禁城にはびこっていた宦官の群を一掃し,皇太后と宮廷内の女官から国事に干渉する権利を剥奪し,無能で腐敗した内務府を廃止し,能率と節約という全く新しい基盤と上に立って帝室の管理運営を再編することであったろう。
  もちろん孫逸仙<孫文>とその一族は,どのような形であれ,満州の君主制を維持する考えには反対しただろう。  だが,特に袁が革命派の最も穏健な人々に,案を呑むか,それとも彼らにとって勝ち目のない内乱をとるかの二者択一を迫れば,難なく彼らを説き伏せられたことだろう。
  けれども最も強力な反対は革命主義者からではなく,内務府から起こったことだろう。  もし実際に採用された妥協案(皇帝には実のない名称を与え,内務府に今までどおり職務を遂行させる)と,ここで提案した妥協案(皇帝の位はそのまま維持するが,内務府の廃止は含む)から,どちらを採るかという選択を内務府の役人たちに委ねれば,彼らは諸手を上げて前案を支持しただろうことは火を見るより明らかだ。
  シナ人の「忠誠」は主人の皇帝に向けられているのではない。  シナ人の言葉を借りれば,「飯碗」すなわち自分たちの糊口に向けられているのである。・・・・・・
  シナは危険な政治的実験に首を突っ込んだがために,二十二年間にもわたってシナの人々が言語を絶するような辛酸を嘗めさせられ,その後の国家も満州王朝が統治した末期よりはるかにひどい苦境に陥ってしまったのだ。
  袁世凱は決して共和制主義者ではなかったので,あっという間にも共和制主義者の仮面をかなぐり捨ててしまった。  では,なぜ袁は独自の地位と自分が自由に行使できる圧倒的権力を利用して皇帝を救済しなかったのであろうか。  その唯一可能な説明は,自分自身が開祖となるべき王朝を夢見ていたからだろう。<(上巻)第7章 pp.194〜196>


  ■ 袁世凱と孫文について

  1898年,袁世凱は光緒帝を裏切った。  そして1911年に宣統帝を裏切った。  さらに1916年には中華民国までも裏切ったのである。
  この有能だが,悪辣極まる政治家が共和国大総統になったのは,革命派が袁を信頼したからではなく,そうする以外に道がなかったからである。  孫逸仙は,革命派から指示を受けていながら,自ら大総統の椅子を袁世凱に譲ったと名乗り出たため,その雅量の大きさがしばしば称賛されるのだが,実際はそうする以外に選択肢がなかったのである。・・・・・・
  1913年3月南方の指導者,宋教仁の暗殺事件が起った(袁世凱の指しがねであることはほぼ間違いない)。  7月に袁世凱を打倒しようと新しい革命運動が勃発したが,袁がすこぶる迅速に断固とした行動に出たので,「反逆者」(孫逸仙を含む)は,1ヶ月も経たぬうちに大敗を喫してしまった。  この革命はときどき「第二革命」と呼ばれている。
  孫自身は旅行を再開し,しばらく日本に亡命した。  日本では非常な厚遇を受け,シナ改革の理想に共鳴する,誠実で寛大な日本人シンパから多大な実質的援助を受けた。  しかし日本人の多くは,シナの国でその後に起こった一連の出来事に幻滅し,孫逸仙(孫文)本人に対しても,孫を「父」とみなす共和国に対しても,信頼の念を失っていった。<(上巻)第8章 pp.207〜208>


  ■ シナ国民にとっての「君主制」と「共和制」

  ・・・・・・シナの場合は,旧帝政のほうが,・・・人民は,はるかに多くの自由を享受していた。  そればかりでなく,よりよく統治されていたのである。  孫逸仙は,シナの同朋が君主制下で享受した自由が過大であるので,削減されねばならないと信じていた。
  袁世凱の時代になってからは,共和主義の陰口はよくたたいていても,共和主義は失敗だったと堂々と公言できるシナの人々はほとんどいなかった。  だが,彼らの多くは,共和主義がうまくいかない主たる障害の存在には気づいていた。  そのひとつは,シナ国民の約90パーセントが文盲であることだ。  そのため一般大衆に政治への知的興味を抱かせようとしても,茶番にしかならなかったのである。
  グレアム・ウォラスの概算では,イングランドのどの選挙区でも,実際に政治に積極的な人の数は,全有権者の10パーセントを越えることはないそうだ。・・・・・・それでもこの割合では,シナ国の全人口の1パーセントにも満たないことになる。
  このような状態では,どのような議会制度をシナで考えても,政権が職業的政治家の手に渡ってしまうのはほとんど必然である。  しかもその政治家の中で,心から自国と国民のためを思う無私の愛国者はほんのひと握りしかいないのである。   それからもうひとつ,同じくらい深刻な障害は,個人が社会的束縛から実際上逃れられないようにシナの家族制度が組織されていることで,その束縛ゆえに,国益よりも家族の利益を優先せざるを得ないということだ。  君主制の体制下では,個人はある程度までそうすることができた。  というのも,君主への忠義は,儒教倫理にとっての要だからだ。  だからこそ陳独秀のような著者は,儒教と共産主義とは両立せず,儒教が尊重される限り,つねに君主制復古の試みが続くだろうと主張しているほどである。<(上巻)第9章 pp.233〜234>


  ■ 袁世凱の死(1916年),副総統であった凡才黎元洪の自動的な大総統昇格,1917年の「辮髪将軍」張勲の北京入りと束の間の復辟,段祺瑞将軍による共和派の勝利,段祺瑞を助けた馮国[王章]の大総統就任,段祺瑞国務院総理就任とドイツへの宣戦布告,それに反対する広東の事実上の独立政府(孫文一派)との南北分裂と内戦の始まり,1918年張作霖満州から北京進出, 徐世昌大総統就任, そして彼がジョンストンを溥儀に英語を教える帝師に任命した。


  ■ リットン報告書への重大な疑念

  1921年当時は,満州の張作霖と,1917年の「皇帝擁立者」張勲との二人が,君主制復活の陰謀の首謀者だと広く信じられていた。  この二つの張家は婚姻関係でつながっていて,二人の間に密接な友好関係があったことはあまり知られていない。
  張作霖は(注意深く背後で糸を引きながら,他人を通して働きかけていたが)張勲を再び官界に送り込もうと大いに奮闘努力し,来るべき事態に備えて準備を進めていた。  張勲には,揚子江地帯で重要な軍事的地位を与えるはずだった。   しかし,この計画が失敗したのが原因で,君主制主義者のクーデターが無期延期となり,張作霖自身は別の野心を抱きはじめたのである。  だが,張作霖と張勲が1921年に君主制を復古させようとしたのが事実であることについては,前大総統の黎元洪が『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース』紙の通信員ロドニー・ギルバート氏とのインタビューで証言している。
  ・・・・・・・・・・・・
  このような事情を知っている私には,次のリットン報告書の一節は説明しがたく思われた。  すなわちそれは,満州の独立運動について 「1931年9月以前,満州内地ではまったく耳にもしなかった」と説明されていることである。  もっとも,そのような古い君主制を支持する運動があったという証拠が,リットン卿とその同僚に示されなかったと考えれば,話は別だけれども。
  君主制主義者の計画は,宮廷ではまったく議論されないし,たとえそれが陰謀と呼べるものだとしても,皇帝自身はどのような陰謀にも荷担していないのである。  もちろん,満州,シナ全土,蒙古に皇帝支持者が数多くいて,未だに希望を捨てず,皇帝が再び北京か奉天で帝位に返り咲く姿を見たいと願っていることは,皇帝もよく知っていた。  だが,種々の君主制主義者の計画については,新聞報道から集めた情報程度のものでしかなく,それ以上のことは知るよしもなかった。
  シナ人の帝師も,私も,用心深くこのテーマに触れないことにした。  共和国への陰謀と受け取られかねない事柄では,それが何であれ,皇帝が個人的に巻き込まれることを心配したからである。
  ただし,皇帝が自分からそのテーマに触れる時だけは,話題にせざるを得なかった。  そのような場合,私は躊躇せずに全身全霊を込めて自分の考えを主張した。  ・・・・・・自由に選ばれた国民の代表が純粋に自発的に要求するという形をとらない限り,皇帝はどのような復辟への誘いにも耳を貸すべきではない。  さらに,そのような誘いが実際に皇帝に届く機会が訪れるのは,ずいぶん先のように思えたので,そのことも躊躇せずに進言した。
  『ペキン・アンド・テンシン・タイムズ紙』の1921年3月19日付の社説では,「人工の90パーセントが皇帝の復辟を支持しているというのは,まずまずの見積りだろう」と述べてある。  私もこれが誇張であるとは決して思わないし,この論説委員の次の言葉にも全く同感なのである。  すなわち,予想される君主制主義者の運動はおそらく失敗するだろうが,それは「共和国の救済や回復は,とても金の儲かる仕事なので,濡れ手に粟の富を求める軍人やその他の者たちは,そうやすやすと金蔓を手放さない」からである。
  国民大衆が自らの意思を表わす媒体など見つけられる公算はまずないと見ていたので,皇帝の嫌がる方法や,他の者にもやらせたくない方法を使うのなら話は別だが,それ以外の方法では復辟が起る見込みなど,私には望むべくもないと思われた。
  さらに皇帝にも説明したのだが,,国民は君主制の復古を歓迎するだろうと見る私たちの考えが正しいのなら,それは帝室へ根深い忠誠心があるのではない。  もちろん,そのような忠義の感情は一般に想像するより,はるかに広い範囲で見受けられるけれども,そうではなく,むしろ共和制が悲惨な失敗に終わったからである。  国民大衆が望んでいるのは,立派な政府である。  そして国民が心底から君主制主義者だとしたら,それは主として国民の誰もが理解している伝統的な政治制度のほうが,今まで一度も経験したことのない共和政治よりも,ずっとましな政府になると思っているからである。<(下巻)第16章 pp.74〜80>

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  ■ 皇帝の日常生活に関するエピソード

  • 皇帝,自家用車を買う-----行く先にはきびしい制限あり,常に宮廷官吏が同乗
  • ジョンストン,皇帝のひどい近眼に気づき皇族の反対を押し切り米人医師ハワード博士の診察を受ける。  以後溥儀は眼鏡をはずすことがなかった
  • 皇帝,自ら辮髪を切り落とす----既に切り落としていた親王たちは反対したが
  • ジョンストン,皇帝に「文学改革家」胡適博士の著作を紹介,その縁で胡適の謁見実現
  • 内務府(宮廷官吏)は皇帝溥儀が現状に対して不満を募らせるようになったのはジョンストンに原因があるとみなし,「好ましからざる人物」と見るようになる。
1920年以後の年表
1920年安直戦争(安徽省・段祺瑞と直隷省・曹錕,呉佩孚の争い)
段祺瑞,破れて下野
1922年第一次奉直戦争(奉天の張作霖と直隷派との戦い)で直隷派が勝利
徐世昌が逃亡し,黎元洪が再度大総統に
同年3月皇帝婚約,年末,結婚式が挙行される<皇帝溥儀16歳>
1923年皇帝が紫禁城脱出を画策するも未遂に終わる
皇帝指示による宮廷の財産検査に絡み,建福宮が不審火で炎上
皇帝が宮廷から宦官を追放
曹錕が黎元洪を追放,大総統に就任
1924年タゴールが皇帝を訪問
第二次奉直戦争,馮玉がクーデターを起こし北京を占領。  奉天派が勝利し,張作霖・馮玉に推された段祺瑞が執政に就任。  呉佩孚失脚
11月5日,反乱軍が紫禁城を占拠,皇帝は日本公使館に
1925年孫文,北京で客死
1926年蒋介石の北伐開始。 張作霖,北京占領。  馮玉失脚
1927年蒋介石の国民党が南京政府樹立
1928年満州帝室の陵墓が破壊される。  北伐軍の北京入城
北京を追われた張作霖が奉天への途次,爆死
東三省(満州),国民党政府に帰属
1930年英国が威海衛を,シナに返還。  ジョンストン,シナを離れる
1931年柳条湖事件。  満州事変起る
1932年満州国建国宣言(執政に溥儀が就任)


  ■ 

  1922年6月皇帝溥儀がジョンストンに紫禁城脱出計画を打ち明ける。
  宮廷全体の腐敗を嫌悪し,国家年金受領者としての無為な生活から抜け出したいと,まず英国公使館へ入ること,準備の後,ヨーロッパへ留学すること,現在の全ての特権を放棄すること,など。  ジョンストンに助力を要請するが,差し当っての身辺の危険がない状況においては,英国の内政干渉問題になりかねないこと等を理由に説得され断念する。<(下巻)第18章 pp.118〜137>

  1923年2月 張作霖が黒幕となり,某国公使,天津英国租界在住の某親王,皇帝の弟溥傑が協力して皇帝を満州へ連れて行くという紫禁城脱出計画が画策されるが,宮廷側に洩れて阻止されるというエピソードがある。<(下巻)第20章 pp.183〜198>

  1923年有能で清廉潔白な漢人の内務府大臣として鄭孝胥が招聘される。  鄭孝胥は内務府官吏や満州親王グループの反感を買いつつも,短期間で冗費の削減を実現した。  彼は以後も溥儀に忠誠を尽くし満州国でも溥儀の臣下として務める。<(下巻)第21章 pp.212〜216>

  1923年末以前にジョンストンと皇帝の関係はまったく非公式なものになり,帝師というより話し相手となった。  正規の学習も皇帝成婚後は廃止された。  ジョンストンは毎日出勤して一日のかなりの時間を皇帝と一緒に過ごす。  皇帝は彼に「御花園」の中の「養性斎」を自由に私的に使用してよい建物としてあてがう。<(下巻)第21章 pp.216〜217>


  ■ 内乱から11月5日の反乱軍紫禁城占拠と龍(皇帝)の飛翔

  1924年秋,長江の将軍たちの争いが張作霖(満州派)と呉佩孚(直隷派)の武力闘争へと発展,呉佩孚(直隷派)が山海関へ進出しようと準備中であった時,呉佩孚の部下であった「クリスチャン将軍」馮玉が反乱を起こし,クーデターによって北京を占拠した。  北京・天津間での馮と呉の戦闘は呉の惨敗に終わる。
  11月5日馮玉軍が紫禁城を占拠・封鎖する。  議員内閣制の政府は廃止され,皇帝は紫禁城から追放され,父親醇親王の邸宅「北府」に護送される。  ジョンストンは英・蘭・日三国の公使に働き掛け善後策を協議する。
  君主制主義者に同調者との謗りを受けることのない西洋人の記者は,一般民衆の態度について次のような言葉を述べている。

     「政府が勝手に退位協定を破棄したために,驚愕の念が広がった。  その影響は,将軍呉佩孚の背中をぐさりと刺した行為により,さらに甚大なのだ。 ・・・・・政府の行動を是認したのはほんの数人だけであった。  ソビエト大使館と盛んに連絡を取っていたシナの政治家と,孫逸仙博士(孫文)である。」

     張作霖は馮玉が相談もなく紫禁城を占拠し退位協定を破棄し,皇帝を追放したことに怒りを爆発させた。  ・・・その後の出来事からも分かるように,張作霖は皇帝の安全と幸福のことを少しは考えていたのであり,・・・   11月22日,張作霖と段祺瑞はわずかな手勢を連れて北京入りする。  ジョンストンは皇帝が馮玉によって「北府」からさらに拉致されることを心配し,日本公使館へ避難する。  「私はまず日本公使館へ向った。 そうしたのは,すべての外国公使の中で,日本の公使だけが,皇帝を受け入れてくれるだけでなく,皇帝に実質的な保護を与えることもでき,それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ」<(下巻)第25章 p.344>

  ・・・・・・私は確信しているのだが,アメリカ公使館当局は,以前に,ほとんど政治的に共感を持てないシナ人の被迫害者に対してさえ,一度ならず寛大な厚遇と避難場所を与えているのに,「乱暴なシナの兵士の群れ」が死の宣告をした二人[皇帝と皇后]の帝室亡命者に対して,その門を閉鎖するようなことはしなかったであろう。
  英国人にせよ,アメリカ人にせよ,明敏な読者なら,このような陳述に迷わされることはあるまい。  後にシナ,満州,日本を巻き込んだ政治的事件を考慮に入れると,
それより深刻なのは,シナの新聞やその他のいたるところで,次のような容疑で日本が執拗なまでに告発されていることである。  すなわち日本公使館が皇帝を受け入れたのは,日本の「帝国主義」の狡猾な策略の結果であり,彼らは皇帝がやがて高度な政治の駆け引きのゲームで有力な人質になりうることを見越していたからだ,と。
  前述した話からも分かるであろうが,日本公使[吉沢謙吉氏]は,私本人が知らせるまで,皇帝が公使館区域に到達することを何も知らなかったのである。  また私本人が熱心に懇願したからこそ,公使は日本公使館内で手厚く保護することに同意したのである。<(下巻)第25章 p.364>

張作霖はジョンストンから皇帝の公使館内避難の報告を聞くと非常に不機嫌になったが,直後慌しく特別列車で北京を後にする。<(下巻)第25章 pp.274〜364>


  ■ 終章

  皇帝は数ヵ月間,すなわち1924年11月29日から1925年2月23日まで日本公使館の賓客であった。  死の間際にいた孫逸仙が北京に来た時も,まだ皇帝は公使館にいた。・・・・・・   その後,天津の条約港の人目を引かない日本租界内で,皇帝の長くて物寂しい逗留生活が七年近くも続いた。  ・・・・・・シナの新聞では「反清同盟」すなわち「反満州同盟」を自称する協会が,嘘偽りを並べ立てていた。 日本人は皇帝を口説いて日本に行かせようとしているとか,日本ではシナに対する帝国主義的な計画の政治道具として皇帝を利用するかもしれないとか,皇帝には住居用の宮殿を与える約束までしているとか,などである。
  1925年から1931年までのいつでもよい。  万が一でも日本政府が,日本で皇帝を暖かく歓迎すると少しでも匂わせていたら,皇帝は単調でつまらない天津の生活を捨て,美しい京都近郊か,天下無双の富士山の見える田園の別荘で,自由にのびのびと生活できる機会が訪れたと大喜びしたことだろう。  だが,日本政府は,皇帝にそのようなそぶりさえ見せなかったのだ。  それどころが,日本や,日本の租借地である満州の関東州に皇帝がいては,日本政府が「ひどく困惑する」ことになるという旨を,私を通して,間接的に伝えたほどである。<(下巻)終章 pp.367〜368>

  1928年7月帝室の御陵(北京の東方にある「東陵」)が破壊され,冒涜された。・・・・・・   皇帝はシナの国民政府から,同情や遺憾の言葉が寄せられるのを待っていた。  この政府は,二度までも,皇陵をその保護には万全を期すと正式に約束していたからである。  だが,その期待も徒労に終わった。 ・・・・・・この時以来,シナに対する皇帝の態度が変化したのである。  もっと正確に言えば,失政の責任を負うべき人々に対する皇帝の態度が変化したのである。・・・・・・
  その時まで皇帝は,満州に勢力が結集していることは知っていたものの,独立運動にはまったく関与していなかった。  また,皇帝自身が先祖の故郷の満州へ戻るよう誘われる可能性についても,まともに考えたこともなかった。  皇帝は,いつかシナが正気に戻り,万事がうまく運ぶだろうという希望を抱きつづけていたのである。
  だが,今やその希望も消えうせてしまった。 私が次に皇帝を訪ねたときは,目立った変貌ぶりを見せていた。  あまりにも変化が著しいので,皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な交わりを持ったのではないか,・・・・・・と思ったほどである。<(下巻)終章 pp.383〜385>

  1931年9月18日,有名な柳條湖事件(満州事変)が起こった。  おりしも私の乗った汽船が往航で日本に立ち寄る二,三日前のことだった。  シナへ向かい,上海に到着すると,ただちに汽車で天津に向った。 ・・・・・・
  それから二日間,皇帝と一緒に過ごし,近い将来何が起ころうとしているか,予測できる情報を教えてもらった。  皇帝本人からもらった情報については,鄭孝胥から確証を得た。  その夜,私と鄭はともに皇帝の客として夕食に招かれたが,・・・・すでにご存知だとは思うが,その席での話題はひとつだけである。
  8日に私は北京へ出発し,追放された満州の軍司令官,張学良元帥に会った。  張は,私が天津で皇帝を訪問したことを聞いていると切り出し,今後の皇帝の動静について是非とも情報をもらいたいと,いかにも物ほしげな顔をしていた。 だが,私からは何の情報も得ることはできなかった。・・・・・・当時のシナの新聞はどれを見ても,皇帝が満州の玉座に就こうとしているという噂で持ちきりであった。・・・・・・
  
シナ人は,日本人が皇帝を誘拐し,その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。  その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて,それを信じる者も大勢いた。  だが,それは真っ赤な嘘である。・・・・・・
  言うまでもないことだが,どう転んでも,皇帝は蒋介石や張学良のような連中に避難所を求めるはずがない。  皇帝が誘惑されて満州に連れ去られる危険から逃れたいと思えば,とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である。  皇帝に忠実で献身的な臣下の鄭孝胥は,皇帝の自由を束縛する牢番ではないことを強調しておきたい。  皇帝は本人の自由意志で天津を去り満州へ向ったのであり,その旅の忠実な道づれは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった。<(下巻)終章 pp.391〜394>


  ▲▲ 読後の感想 ▲▲

  全編を通して浮び上がるのは,真面目で愛国心も備えたひとりの青年溥儀のイメージである。  それと対称的に,彼とその地位を利用して私欲と名誉欲を満たそうとする政治家や軍人たちのうごめく姿は醜い。  遥か南方には皇帝という存在が諸悪の根源という単純な思想から,ひたすら抹殺の対象としかみなさない共産主義的活動家(ジョンストンの孫文に対する見方は冷たい)たち。  歴史に「レバ,タラ」はないというが,もし歴史が別の道を辿って,かの地に穏健な立憲君主制が実現していたら,その後の「中国」の近代化と経済発展は何十年も早まっていたのではないかという気がしてくる。  もちろん日本との戦争はなかったはずであり,共産主義に染め上げられて近代化への道を随分遠回りすることもなかったのではないかとも思うのである。


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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史」 を読む <2000〜2005>

発行:小学館(1993年〜)

  ▲▲ 読後の感想 ▲▲

  井沢元彦氏の『逆説の日本史』は2005年現在も「週刊ポスト」に連載中である。  井沢氏は本書の序論の中で,この本は日本史の総点検を目指していると書いている。   日本の歴史のポイントとなる人物や事件を横糸に,縦糸には,歴史学者たちが殆ど無視してきた,日本人の古来からの思考方式や宗教的観念をも動員して,学者たちが描いてきた歴史とは一味違う日本通史を紡ぎ上げているようにみえる。   西洋のキリスト教にあたるものが日本の怨霊信仰(タタリへの恐怖)であると看破し,それが,言霊(コトダマ)信仰やケガレ思想と並んで日本史の重要なキーファクターであるとし,快刀乱麻のごとく日本史の謎を解き明かてくれているのである。  数年前たまたま本屋で見かけて以来,新しい巻が出版されるたびに愛読するようになった。   断片的な既成の知識しか持ちあわせていない私のような素人の歴史好きにとっては,この本を読み続けることによって,新鮮な歴史の見方に目を開かせてもらったと同時に,基礎的な史実の知識を補強するよい機会にもなっている。

  著者が,このシリーズは今は「逆説」であるけれども,次の時代には必ず「正説」となって歴史の教科書にもなるだろう,というような趣旨の発言をしているのを読んだ記憶がある。   もちろん,この本の中のユニークな解釈すべてが氏の独創的な意見というわけではなく,歴史の専門家以外に文学者の唱える意見も広く渉猟した上で取り入れている。  今のところまだ井沢氏の説を引用した歴史学者の文章を見た記憶はないが,いずれこのシリーズが「門外漢の書く異端の書」という目で見られることがなくなる日が来ることであろう。

  考古学の世界では,時代が下るにつれて,新しい資料や遺跡が発見・発掘されて歴史の書き直しが必要になるといった状況が日々進行中であるが,歴史学においても,新しい切り口や見方の「発見・発明」を通して歴史の書き直しが行われるものだ,ということを認識させられる。  以下,公刊順に小生の興味を覚えた点を中心に概要をまとめてみた。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 @古代黎明編―封印された「倭」の謎」

発行:小学館(1993年)

@ 日本の歴史学の三大欠陥

第一.日本史の呪術的側面の無視ないし軽視
  宗教というのは,特に過去においては,人間の基本的な行動を決める最も重要な規範(ルール)である。  だからそれを知らなければ歴史学や考古学の研究などできるはずがないのだが,日本の歴史学者は一部の貴重な例外を除いて,こういうことをまったく無視する。
  たとえば西洋にはキリスト教というものがある。  この大宗教があったからこそ,サンピエトロ大聖堂は建立され,十字軍は起り,数々の宗教芸術の傑作が生れたのである。  それでは,日本には,西洋のキリスト教にあたる,「それを知らなければ日本史を理解できない宗教」はあるか?   無論ある。  それが怨霊信仰である。  ところが,肝心の日本史の専門学者がそれを理解していない。
第二.滑稽とも言うべき史料至上主義
  ある時点で「あたり前のこと」はかえって記録されない。  結果として後世分からなくなった例は歴史上多い。  信長が命名した「安土」は,「平安京」に対抗して,「平安楽土」から採ったことは当時の知識階級にとっては常識だった。  だから誰も記録しなかっただけである。  しかし史料にないため定説になっていない。  未だに地名由来説の方が有力である。
第三.権威主義
  東大を頂点とするアカデミズム(学究主義)への信頼(?)


A 日本はどうして「倭」と呼ばれたのか

  日本列島人(原住民)は中国人に国の名を問われて,「ワ」と答えた。  だから中国人はそれを「倭」という漢字で記録したのである。  「ワ」は「輪」「環(circle)」であり,古代日本人は集落(環濠集落)のことを「環(わ)」と呼んでいたのではないか。   そして,それが発展して,その集団における「協調の精神」あるいは「アイデンティティー」のようなものを意味するようになり,その時点で発音の似通った「和」という漢字があてられたのだ。

  儒教道徳には「和」という徳目はない。  聖徳太子の十七条の憲法の第一条は「和を以て貴しと為し忤(さか)ふること無しを宗とせよ」,第十七条は「夫れ事独り断(さだ)むべからず。 必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし」である。  これは「話し合い至上主義」であり,菩薩でも仏陀でもないただの人が「話し合い」さえすれば「おのずから道理にかなう」と言っている。  論語学而編の「礼の用は和を貴しと為す」とは全く違う文章である。  「わ」は古代から現代に至るまで日本人を拘束する規範である。

B 大国主命 ― 「わ」の精神で解く出雲神話の“真実”

  記紀に大国主命の国譲りとして記されているのは,大和朝廷の先祖(アマテラス)が先住民族に国土献上,即ち無条件降伏をせまり,武力で征服した事実を「無血占領」であったかのように美化して述べたものである。 首長(大国主命)は黄泉の国へ退隠した。  これは戦って自殺したか,処刑されたのであろう。 或る族長(事代主命)は自殺し,或る族長(建御名方)は辺境(信濃諏訪神社)へ追放・幽閉される。

  旧約聖書のヨシュア記と対比してみよう。  エホバは,アブラハムとその子孫に「カナンの地」を与えると約束した。 先住民族のことは無視してである。  一方,アマテラスは自分の子孫であるニニギノミコトに,「葦原中つ国」を与えると約束した。  同じく先住民族のことは無視してである。   アブラハムの子孫,ヨシュアは先住民族(ジェリコ,アイetc 人も家畜も全て)を皆殺しにして国を奪った。  一方アマテラスは使者を送って先住民族の王オオクニヌシと「話し合い」をして「自発的」に国土を献上させた。  「旧約聖書」の世界では,その先住民は皆殺しにされ,一方この国では先住民の代表であるオオクニヌシだけが殺され,あとは生存を許された。  この違いはどこから来るのか。

  「わ」の精神の発生原因は,霊の復讐つまりタタリを恐れる心,できるだけ人が死ぬような争いは避けようという発想である。

  その「わ」信仰を強固なものにするきっかけとなったのがオオクニヌシの死であったと確信している。  平安時代の『口遊(くちずさみ)』という書に「雲太,和二,京三」という言葉がある。  日本の三大建築物を意味している。  雲太とは出雲太郎の略で出雲大社,和二とは大和二郎で東大寺大仏殿,京三は京三郎で京の大極殿である。  古い言伝えによれば,出雲大社の高さはもともと32丈(96m)あり,そのうちに16丈(48m)になったとされている。  一方東大寺の方は15丈(45m)だったと古い記述がある(現在の東大寺は52m,出雲大社社殿は24.2m)。

      【読者注: 平成12年,拝殿北側地下の発掘飼査により,伝え継がれてきた巨大な神殿を造っていた御柱の検出が行われた。  太い柱は3本の杉の巨木を束ねて1本として立てられていたことが判明した
  反逆者のボスを祀る神殿が仏教の総本山よりも,アマテラスの子孫である天皇の御所よりも高いのはなぜか。  それはオオクニヌシのタタリを恐れたからである。  オオクニヌシは出雲族の代表者である。  放っておけば大怨霊になりかねない。  だからこそ丁重に祀る必要があったのだ。  日本一の大怨霊を祀るためには日本一の大神殿が必要だったのである。  その神官(出雲国造家)もただの人ではない。  アマテラスの子孫なのである。

  出雲大社は「霊魂の牢獄」,「死の宮殿」である。  参拝者からは見えない大社の本殿内部図を見ると分かる。   天之御中主神をはじめ大和朝廷の五神が正面を向いて(南面)鎮座し,その右に大国主命が鎮座する。 しかし大国主命は正面を向かず,西(黄泉の国)を向いている。  つまりそっぽを向いているのである。  大和の五神は大国主命を監視する役目を持って祀られている。  注連縄の張り方も普通の神社の張り方とは左右が逆になっている。  死者の着物を「左前」にするのと同じである。  拝礼の仕方も一般の神社の「二礼,二拍手,一拝」ではなく,「二礼,四(死)拍手,一拝」である。  「出雲」の「雲」は死の象徴であろう。


C 卑弥呼は殺害された

  古代人の考えによれば,天災,飢饉,疫病,戦争の敗北その他人災もすべて王者の責任である。  卑弥呼は狗奴国との戦争の敗戦責任を問われて殺された。  霊力が衰えたとみなされたためである。  その日は紀元248年9月5日,日本で皆既日食が見られた日である。  「卑弥呼」は名前ではなく「日御子」か「日巫女」のような称号であろう。  その前の皆既日食は紀元158年7月13日にあった。  それ以来女王は太陽神に基づく霊力を持つと考えられるようになったのではないか。  アマテラスの「天の岩戸隠れ」は日食とヒミコの死を反映したものである。


D 神功皇后 ―  邪馬台国東遷説を裏付ける宇佐神宮の拝礼礼法

  神功皇后は「神功王朝」の始祖である。  「神」の名を与えられた三人の天皇。神武・崇神・応神,この三人以外に,しかも天皇でもないのに「神」の名を与えられているのは神功皇后ただ一人である。  万世一系(男系)という建前上始祖とは書けない。  『記紀』の上では神功皇后は仲哀天皇の妃で二人の間の息子が応神天皇ということになっている。  しかし,応神天皇の本当の父は史書の上からは抹殺されていると考える。  「三王朝交替説」を提唱した早大名誉教授の水野祐氏は仲哀と応神はそれぞれ別の王朝の王だと考えている。  神功皇后は仲哀―応神という架空の系譜を真実のように見せかけるために「創作」された存在であるとみなす。  基本的にこの見解に私は異存はない。  ただ,「つなぎ」であるなら単なる「皇后」で充分であり,「神功」である必要はない。  それでもなお,この皇后を架空の「三韓征伐」の英雄として持ち上げたのは,単なる仮託ではなく,この女性が「神功王朝」の始祖であることが強く意識されたからだと思う。

  水野説では,邪馬台国は北九州にあったと考える。  しかし女王国は南九州の狗奴国に滅ぼされ,狗奴国の手によって統一されたとする。  そして,その同時期に大和(近畿)ではもう一つの女王国が誕生していた。  これを水野氏は「原大和国家」と呼ぶ。  その原大和国家の王であった仲哀が「熊曽,実は狗奴国」を征伐するために九州に遠征したが,逆に敗北し自らは討ち取られてしまった。  その勝利者が応神天皇であり,その息子の仁徳天皇は九州から難波(大阪)に遷都した。  そして征服者として,大和と九州の二つの力を動員してあの巨大な天皇陵を造営したとするのである。  ちなみに,応神は九州で亡くなったが,後を継いだ仁徳は父の墓を難波に造らせたとするのである。  以上が水野説つまり「狗奴国東遷説」ともいうべきものの骨子である。

  水野説の優れている点は,四世紀末から五世紀にかけて,難波の地に突然巨大な前方後円墳が出現した理由を無理なく説明できることだ。  しかし私は東遷したのは狗奴国ではないと考える。

  東遷説の根拠を整理すると
  1. 畿内は銅鐸文化圏であり,九州は銅劍文化圏である。  しかし「記紀」には銅鐸についての記事がない。  銅鐸が征服された側の祭器だったからである。
  2. 「神武東征」の物語は実際にあった邪馬台国の東遷を神話化したものである。  その証拠に「神武神話」には北九州を征服する話がない。
  3. 邪馬台は「ヤマト」と読めるが,畿内には「ヤマト」の地名がない。  しかし,九州には「山門(やまと)」などの古地名が残っている。


  八世紀,称徳女帝が弓削道鏡に皇位を譲ろうとした時,その行為が正しいかどうか神託(神のお告げ)を求めようということになった。  この時女帝は大分県にある宇佐八幡に,和気清麿を使いとして送ったのである。  八幡神の御告げは「日本は開闢以来,君臣の分が定まっている。  皇室の血統でない者を位に就けてはならない」というものだった。  自分の意に染まぬ神託を持ち帰った清麿に,女帝は激怒し,厳罰に処した。  そもそも,女帝はなぜ祖先神アマテラスを祀る伊勢神宮ではなく,わざわざ九州の宇佐八幡へ使いを送ったのか。

  宇佐八幡の祭神は三柱,一之御殿には応神天皇,二之御殿には比売大神,三之御殿には神功皇后が祀られている。  八幡神は皇室の祖先であり,一位の位を贈られている。  そして応神天皇の神霊であることは当時から認められていた。  ところが社殿の配置は下図のようになっている。  この配置は本当は「比売大神」こそ主祭神であることを示している。
応神比売神功

  三之御殿に神功皇后が祀られるようになったのは,平安時代もかなり下った弘仁14年(823年),突然神託があったためという。  比売大神について,宇佐神宮側では三人の女神だと言っている。  その根拠は『日本書紀』にある。  「神代上」の一書にあるという注釈付きで,「市杵嶋姫命,湍津姫命,田霧姫命の三女神が宇佐嶋に天降った」という話が紹介されている。  しかし,「比売大神は三女神のことである」と明記されているわけではない。  この三女神は『書紀』において,「日神とスサノオ(素戔鳴命)の子供」であるとされている。

  魏史倭人伝によると邪馬台国における卑弥呼には「男弟」がいて補佐していた。  私はアマテラスは神格化された卑弥呼であると主張してきた。  すると次のような対比関係が成立する。
<実在>
<神話>
ヒミコアマテラス
男弟スサノオ
  私はヒミコと男弟の関係は実際は夫婦であるのに「姉弟」であるとしなければならなかったと考える。  巫女は処女でなければならないからである。  そして,比売大神は三女神ではなく,三女神の母である「日神」をさすと考える。  重大な事実がある。  この神社の拝礼作法は出雲大社と同じ二礼四(死)拍手一拝であることだ。

  これらのことから必然的に導き出される答え:比売大神=ヒミコ  である。

  神格化されたアマテラスを祀ったのが伊勢神宮で,その,もともとの実体を祀ったのが宇佐である。  アマテラスという「神霊」は霊であるから全国各地へ移動させることができるが,ヒミコという「実体」は,一つしかないから,移動はできない。  例えていうならば,伊勢は「仏壇」で,宇佐は「墓」なのである。

  私はヒミコは殺されたと考えている。  だとしたら,ヒミコは確実に,オオクニヌシ並みに祀られているはずだ。  しかも,不幸な死を遂げた場所,あるいは墓のごく近くで。  そういう条件に当てはまるところを探していくと,この宇佐しかない。

  応神・神功は「第二次大和朝廷」の始祖である。  もとは九州にあった「邪馬台国」が東遷して「原大和国家」を滅ぼして統一国家を作った。  その始祖を出身地で,新たに大々的に祀り直したのが宇佐神宮であるということだ。  別の言い方をすれば応神・神功は邪馬台国の「中興の祖」なのである。


E 天皇陵と朝鮮半島 ― 日本人のルーツと天皇家の起源

  日本の古代史を解明する決め手は「天皇陵」とよばれているものの調査研究である。  天皇陵は古代以後かなり長い期間,ぞんざいに扱われてきた。  天皇家が実質的な権力者の地位からすべり落ちたからである。  中世においては,天皇陵は荒れ放題,どれがどの天皇の墓か分からなくなっていた。  ところが江戸期に入って,徳川幕府が政治の哲学として採用した朱子学が盛んになるにつれ,尊王(勤皇)思想が起った。  「『日本書紀』に載っている天皇の陵がないのはおかしい」という「信念」が生れ,その「信念」が天皇陵を次々と捏造していった。  明治政府もそれを受け継いで,当時の学問水準で強圧的に天皇陵の比定を行った。  今日の水準から見ればかなりの疑問点がある。  数多い天皇陵の中で,被葬者が判明しているのは天武・持統陵だけだと言う人すらいる。  にもかかわらず国(宮内庁)は天皇陵の発掘調査どころか,考古学者の立ち入りすら一切拒否している。

  『書紀』によれば,古代の日本の天皇家が「内官家(うちつみやけ)」という領地を,朝鮮半島の一角に持っていたと考えられることである。  この「内官家」は任那日本府とも呼ばれ,戦前の歴史では,日本が朝鮮半島に進出し一種の「飛び地領」を持っていたと解釈されてきた。  任那という言い方は正確ではない。 むしろ加羅(伽耶)と呼んだほうがいい。  ただ加羅は新羅・百済・高句麗三国時代まで生き延びられなかったので印象がいかにも薄い。  しかし,「内官家」はが天皇家にとって極めて大切なものであったことは,『日本書紀』の中の欽明天皇の遺詔にも敏達天皇の詔書にも「新羅を討って任那を封建せよ,とか,任那を復興すべし」とあり,実際に軍を送ろうとしたこともあったことからも分かる。

  「内官家」(任那あるいは加羅)は天皇家にとっての「ノルマンディ」ではないか。  「ノルマンディ」とは1066年イングランドに侵入してノルマン王朝を建てたウィリアム一世の故地である。 作家豊田有恒氏は天皇家のルーツは朝鮮半島南部にありと考える。

  桓武帝の生母が百済系帰化人の子孫の高野新笠(たかのにいがさ)であることは,日本史の常識である。  後醍醐天皇の側近北畠親房の書いた『神皇正統記』には 「昔日本ハ三韓ト同種也ト云事ノアリシ,カノ書ヲバ,桓武ノ御代ニヤキステラレシナリ」 と書いてある。  この「天皇家日本侵入仮説」の考証には天皇陵や陵墓参考地の調査が有効な手段になると思う。

  天皇家の祖先が朝鮮半島から来たとすると,その時期はいつか。  そのことを『記紀』ははっきりと語らないのはなぜか。  古代,大和朝廷は三韓のうちの百済と仲がよかった。  天智天皇は百済再興のために大援軍まで送ったほどである(白村江の敗戦)。  「内官家」は新羅に奪われた。  新羅は唐と組んで百済まで滅ぼしてしまった。  新羅は唐と同盟を結んでから,唐の歓心を買うためであろうが,服装や年号を唐のものに改めた。  おそらく名前も中国風に「創氏改名」するように強制したに違いない。  「韓国民族の感性」から言えば「外国に魂を売った民族の裏切り者」というところであろう。  ちなみに百済はそういう中国式「創氏改名」はしていない。  新羅の武烈王(金春秋)の採った政策は,超大国唐と陸続きの小国の王としては当然のことであろう。  しかし百済や日本にとっては新羅は「売国奴」になる。  新羅の方も日本の報復を恐れた。  武烈王の息子文武王の「海中陵」はそのために造営されたものであろう。

    【読者注:天武・持統朝は親・新羅であったにせよ,『記紀』に,天皇家の祖先は朝鮮半島から来た,と書くのは憚られたので,神話にかこつけ「高天原」を創作したのではなかろうか。




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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 A古代怨霊編―聖徳太子の称号の謎」

発行:小学館(1994年)

@ 聖徳太子自殺説

  聖徳太子の墓所は大阪府南河内郡太子町の磯長山叡福寺奥にある。
    【 読者注:古墳としての名称は磯長谷(しながだに)古墳群の中の叡福寺北古墳である。   廟の前に推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓という宮内庁の看板が立つ。

  記録によると,横穴式石室内の三棺のうち東棺(向って右)を太子,西棺(向って左)を妃の膳部臣菩岐々美郎女(かしわでのおみほききみのいらつめ),北棺(奥棺)を母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女とする。 中世の人々はこの三棺合葬の形を阿弥陀三尊に結びつけ,とくに「三骨一廟」と呼び信仰の対象にした。

  青年期の太子は「平和主義者」ではなく,むしろ戦う武人だった。  朝鮮半島に出兵し,第29代欽明天皇の時に新羅に奪われた「内宮家(うちつみやけ)」を取り戻すことが天皇家の宿願だった。  「内宮家」とは任那(みまな)または伽耶(かや)といい,天皇家の「故郷」と考えられる土地である。  592年,第32代崇峻天皇(欽明の子)が新羅出兵のため筑紫に兵を集結させた時,天皇は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって暗殺される。  『日本書紀』によればこれは蘇我馬子が命じたことと記す。  そして,東漢直駒は馬子により殺されるが,その理由は馬子の娘を浚って妻にしたためと『日本書紀』は記す。

  この時点で次期天皇の最有力候補は第31代用明天皇(欽明の子)の子,聖徳太子(厩戸皇子)であったが,太子は天皇になれずに,第30代敏達天皇(欽明の子)の皇后であった欽明の第三皇女,豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)が即位し,第33代推古天皇になる。  翌年,天皇は太子を皇太子とし,摂政に任じている。  601年,太子の実弟,来目(久米)皇子が撃新羅将軍として兵を動員するが,翌年皇子が筑紫で病死,遠征は取りやめになる。

  敏達天皇と推古天皇の間には竹田皇子という子がいた。  詳しい記録は何も残っていないし,母より早死したらしい。  推古は甥の厩戸皇子ではなく,この我が子に皇位を継がせたかったのではないか。  崇峻天皇暗殺の本当の黒幕は,疑いを競合相手の厩戸皇子に向けようとした推古であると作家豊田有恒氏は推理する。  厩戸皇子はそのためノイローゼになり,数年間は療養生活を送る。  実際に摂政の仕事を始めるのは,病が癒えて政界復帰してからであろう。  伊予国風土記には太子が「神井戸(温泉)」に入浴して病を癒したという記事がある。

  607年,太子が遣隋使小野妹子に持って行かせた国書は「日出る処の天子,書を日没する処の天子に致す。 恙無きや・・・」という言葉で始まる,当時の外交感覚から言えば,極めて無礼なものであった。  一方内政面では,十七条の憲法を定め,「和を以って貴しとなす」といってるのは政策が一貫していない。  これはノイローゼで悩んでいた過去が影響しているのだろう。

  聖徳太子は『日本書紀』によれば621年2月5日,「法隆寺金堂釈迦如来像の光背」によれば622年2月22日に亡くなっている。  後者によるその事情は次ぎのようである。

  先ず太子の母穴穂部間人皇后が亡くなり,その翌年正月病気になり,看病していた膳部夫人も倒れ,太子の死の前日夫人が世を去り,続いて太子も世を去り,その月のうちに葬られたいうもの。  病気とはいえ,夫婦が一日違いで死ぬというのは尋常ではない。  太子には三人(正確には四人)の妃がいた。  膳部夫人はその中で一番身分が低い。  普通は合葬などされない。

  人間の死後,埋葬するまでの間,遺骸を棺に納めて特別に設けられた建物に安置しておく葬喪儀礼を「殯(もがり)」といい,これは陵や正式な墓を築くために必要な期間でもある。  死亡から埋葬までの期間が異常に短い人は「異常死」を遂げた人である。  「異常死」を遂げた人間は,一般の人とは別の所に別の形で葬らなくてはいけないのだ。 そうしないとタタリやケガレが伝染すると考えられていた。

  殯の期間が異常に短い天皇は安閑(13日以下),崇峻(記載なし,0日),孝徳(一ヶ月28日),天智(記載なし。『日本書紀』に陵の所在すら記載なし)で,いずれも暗殺または憤死である。  変死の場合は,誰かの墓を借りるほかない。  崇峻の場合は,彼を聖徳太子が先に蘇我・物部の争いで馬子に殺され埋葬されていた兄の穴穂部皇子と共に,ひそかに藤ノ木古墳に合葬したのだと思う。

  平安時代に書かれた『太子伝磿』は太子が仏教の聖者であることを繰り返し強調している書であるが,太子と膳部夫人は心中したように書いている。  太子は「捨身」の思想を実行したのだと思う。  のち蘇我入鹿に攻められて死んだ山背大兄王ら太子一族の怨霊鎮魂のため建てられたのが法隆寺である。

    【 読者注:大山誠一著 『<聖徳太子>の誕生』によれば,聖徳太子は日本国の権威を誇示するために藤原不比等と長屋王によって創出された想像上の人物であり,さらに光明皇后によって,藤原氏と持統王朝を鎮護するための守護神に祭り上げられたものとする。  実在の人物である厩戸皇子に託して聖徳太子像を描いたもので,天智(中大兄皇子)の人物像が強く投影されているとの見解。  17条の憲法も,不比等が将来の首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)の即位を念頭において,王権の確立のために,聖徳太子の名を借りて定めたものであるとみる。  一読者としては頷ける点が多い。  小生のホームページの「落書き帳(B)」に本を紹介してある。

  聖徳太子以降の,「コ」という字を諡の中に与えられた天皇たちの生涯を見れば,聖徳太子に「聖徳」の諡(おくりな)が贈られた理由が分かる

天皇諡号代数現世への不満死の状況
孝徳36皇太子(中大兄皇子=のちの天智天皇)に妻を奪われ旧都に置き去りにされる家臣に放置されて旧都で孤独死
称徳48弓削道鏡を天皇にしようとするが急死して果たせず病死だが,暗殺説あり
文コ55最愛の第一皇子(惟喬親王)を皇太子にできず死亡。 無理矢理譲位発病後わずか4日で急死
崇徳75政権奪回のため乱(保元の乱)を起こすが敗北し讃岐へ流罪となる「天皇家を没落させる」と呪いをかけて憤死
安コ81平家の血をひく幼帝。  わずか8歳で源氏に追われ一族もろとも滅亡二位の尼に抱かれ海中へ投身自殺
順コ84武家政権を打倒するため父の後鳥羽上皇と共に挙兵するが敗れ佐渡へ流罪となる流罪地で,都への帰還を切望しながら憤死
  1868年(慶応4年)8月26日,明治と元号が変わる,わずか12日前に,天皇の勅使が讃岐の崇徳天皇陵に派遣された。  これは怨霊鎮魂の使者である。  明治天皇が勅使の大納言源通富に命じて陵の前で読み上げさせた宣命からは,朝廷がひたすら崇徳天皇の御機嫌をうかがい,現実の戦争を崇徳天皇の霊力にすがって勝とうと考えていること,そして孝明天皇の死を崇徳天皇のタタリと関連させて考えていることである。

  古代において,はじめて大陸から「聖徳」ないしは「徳」という言葉が伝わった時は,やはりその通りの意味で,たとえば第4代懿徳天皇(実在には疑問があるが)とか,第164代仁徳天皇は,この本来の意味で名付けられたのだろう。 もちろん本人に「徳」があったかどうかは別の問題である。  しかし,古代のある時期から,無念の死をと下駄怨霊(あるいはその予備軍)に贈られる「専用」の字になった。  それが「聖徳」と呼ばれた天皇クラスの人からだとしか考えようがない。

  「徳の字追善方式」は順徳をもって終わった。  その鍵は「後鳥羽上皇」が握っている。  後鳥羽上皇という人は個性的な,アクの強い人だった。  源実ともが暗殺され,源氏の直系が絶えたのをきっかけに承久3年(1221年)倒幕の兵を挙げるが敗北(承久の乱),隠岐島へ流罪になる。  死後4年間は「顕徳」院と呼ばれていたのであるが,怨霊がタタリをなしたので「後鳥羽」というむしろ平凡な号が与えられた。  つまり崇徳天皇以来その効力が薄れてきたと考えられたのである。


A 天智天皇暗殺

  天智天皇の死について,正史の『日本書紀』では671年(天智10年)近江宮で病死したことになっている。   『日本書紀』は天武が発案し天武ファミリーによって完成された御用史書である。

  天智天皇の死については,これと全く別の話が伝わっている。  『日本書紀』からおよそ四百年後の平安末期に,皇圓という僧が書いた『扶桑略記』という本では,

一云。天皇駕馬幸山階郷。更無還御。永交山林。不知崩所。 只以履沓落處為其山陵。以往諸皇不知因果恆事殺害。山陵山城國宇治郡山科郷北山。高二丈方十四町。
≪意訳≫一説に言う「(天皇は)山階(山科)の郷に遠乗りに出かけたまま,帰って来なかった。   山林の中に深く入ってしまい,どこで死んだかわからない。  仕方がないので,その沓の落ちていたところを陵とした。・・・以往諸皇不知因果恆事殺害(ここは意味不明)・・・その地は現在の山城国宇治郡山科郷(京都府山科区)北山である。 」

    【 読者注:落ちていた沓のあった所に墓を築いた話は楊貴妃の墓の由来とよく似ている。

  これを信じる限り天智天皇は暗殺されたと考えるのが最も妥当な結論である,と言える。

  皇円は天台宗の阿闍梨で,法然の師でもあった人である。  天台宗の総本山は延暦寺であるが,他にもう一つ総本山があって,それは滋賀県大津市にある三井寺(園城寺(おんじょうじ))である。  この寺は大友皇子の息子与多王(天智の孫)の創建である。  当然,大檀那の天智ファミリーについて,他では得られない情報を得ることができたはずである。  「遠乗りに出かけて消えてしまった」というような,天智にとってあまり名誉でない話を,わざわざデッチ上げるはずがない。  また四百年という時間は「ほとぼりがさめる」まて,書いても処罰されないために,どうしても必要な時間だったのであろう。

  天智天皇は「正史」に墓の所在も埋葬年月日も殯の期間も,一切書かれていない唯一の天皇である。  これは書き落としではなく故意に書かれなかった。  天武一家の「大本営発表」に天武が天智を殺したと書けるはずがないからである。

  なぜ天智は殺されたのか? それは当時の国際情勢に原因がある。  新羅は唐と連合して百済・高句麗を滅ぼして668年朝鮮半島を統一する。  朝鮮半島を支配下におきたい唐と統一新羅は対立するようになる。  日本は唐の侵攻を恐れ防備を固める(九州の水城と大津への遷都)。  朝鮮半島に独立国があれば日本は直接唐の脅威に晒されることがなく安全である。  その為には日本としては昨日の敵新羅と手を結ぶのが得策である。  しかし天智は強烈な親百済・反新羅派である。  唐は671年日本に郭務悰を将とする二千人の軍団を送り,白村江の捕虜を返還する代償に朝鮮半島に駐留する唐軍への支援のための出兵を求めて来た。  日本側の反新羅政権は唐との同盟締結を受け入れる方針であった。 朝廷内に置いたスパイ(栗隈王)によってそのことを知った親新羅派のボス大海人(のちの天武天皇)が天智天皇を暗殺したと見られる。


B 天武天皇と持統女帝―持統王朝―

  大海人皇子(のちの天武天皇。 天智天皇の異父兄か。  史書はごまかしているが年齢は天智より上)が天智を“暗殺”し,壬申の乱(672年)を経て天武天皇として即位する。  かくして天智天皇系から天皇位を“奪い取って[易姓革命]”から,天武系の天皇が8代,7人,約百年続く。

  大海人皇子は恐らく父親が皇族ではなく(新羅人説,混血児説もある),本来ならば皇位に就く資格のない人間であった。  皇后の[盧+鳥]野皇女(うののひめみこ)は天智天皇の第二皇女である。  彼女は甥の大津皇子を殺してまで皇太子にした息子の草壁皇子が若くして病死したため,その子(彼女にとっての孫)の軽皇子(のちの文武天皇)を皇位に就けるため,自ら即位して持統天皇となる。  天皇の諡号は死後贈られるもの。  森鷗外の労作『帝諡考』によると,天智とは殷の紂王の持つ天智玉(宝石)由来するとのこと,天武は周の武王の言葉「天作武・・・(天は武王をたてて・・・)」からきている。 紂王は史上最悪の暴君であり,殺されるべき男であった。 一方,「武」とは「乱世を安定」させた者に贈られる諡号なのである。

  持統という諡号にも意味がある。  『帝諡考』によると,「・・・雖夏啓周成繼軆持統(継体持統)・・・」(夏を啓き周成ると雖も軆を繼ぎ統を持し)から来ている。  持統天皇は天智の娘であるから母系には脈々と天皇家の血筋が残る。  しかし,天武天皇は本来皇位を継ぐ血筋ではないが故に,持統天皇は彼と他の妃との間の子は徹底して排除しようとした。  この方針に藤原氏は一族を挙げて協力し,持統系の男子を皇位に就かせた後は,その皇后を藤原氏から出すという見返りを求めた。  そしてその皇后が生んだ男子を次代の天皇にし,藤原氏はその外祖父になるという権力構造を作り上げた。  藤原氏は持統王朝は称徳女帝でいったん滅亡するが,この構造はその後も受け継がれ,それが平安時代の藤原氏の栄華につながっていく。

  持統がやっと皇位につけた文武天皇はしかし僅か25才で若死する。 そこで藤原不比等の工作により,文武の子の首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を皇位に就けるため,草壁の妃で文部の母,安閇皇女(あべのひめみこ)が即位して元明天皇になる。  そして首皇子が元服(十四歳)した段階で,娘の氷高内親王に位を譲る。  これが元正天皇である。  そして首皇子が24歳になった時,位を譲る。  持統から孫の文武への譲位は『書紀』の中のアマテラスの孫ニニギノミコトの天孫降臨神話によって正当化されている。  律令制度を整備し,『日本書紀』の編纂にも積極的にかかわったブレーンとして,またKGBとして,持統系王朝を支えた藤原不比等は,自分の娘の宮子を文武の妃に,同じく光明子を聖武の妃に送り込み,四人の息子,武智麻呂・房前・宇会・麻呂は藤原四家の祖となり,藤原氏繁栄の基礎を築いていく。

  694年持統は「藤原京」に遷都する。  「藤原」という姓は「藤原」氏自身が考案し,持統に働きかけて,新都の名としたうえでもらい受けたのではないかと思う。 そして箔をつけるために,天智の代に既に鎌足がもらっていたという形で「正史」に記載させたのではないか。

  元明天皇のもう一人の娘,吉備内親王は長屋王の妃である。  長屋王(684年〜729年)は天武の非持統系の皇子,高市皇子の息子であり,母は天智天皇の娘御名部皇女。  720年の藤原不比等死後は右大臣に昇進,政権のトップに上り詰めた皇族である。

    【 読者注:大山誠一著 『<聖徳太子>の誕生』によれば,長屋王木簡の考察によると長屋王と吉備・氷高内親王の家政機関は融合しており,そして元明女帝の日常はむしろ娘たちと親密な関係にあった。  おそらく長屋王は自身の即位は諦めていなかったろうし,それが不可能でも子の膳夫王の即位は期待していたに違いない。  元明女帝は不比等と長屋王という二人の権力者の激しい確執の狭間で心身をすり減らし,遂に譲位を決意する。  しかし,その相手は不比等の望んだ首皇子ではなく,娘の氷高内親王であった。  これは長屋王の意向によるものであった。

  しかし721年,拠り所であった元明太上皇が亡くなると「長屋王政権」は力を失い,不比等の嫡子武智麻呂の推す首皇子が即位する。



C 東大寺と大仏の建立は怨霊の鎮魂のため

  奈良の大仏は752年の創建当時世界最大の金銅仏であった。  完成までに12年以上の歳月を要した一大事業である。 その上741年には全国に国分寺を造営する詔勅が出されている。  これらは聖武天皇・光明皇后の意志によるものである。

  聖武天皇(701年〜756年)は光明子との間に一度は基(もとい)王という男子が生れたが一年後の727年に病死する。  ほぼ同時期に,夫人(ぶにん)の県犬養広刀自が安積(あさか)親王を産んだ。 しかし藤原氏の血をひいていない安積親王を聖武は後継者として認めず,738年 先に生れていた基王の姉21歳の阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)を皇太子に指名する。  安積親王は744年 17歳で急死する。  事実は藤原氏による暗殺である。

  藤原氏はそれに先立ちもう一つ手を血で汚している。  長屋王の変である。  長屋王はなお安積親王に次ぐ非藤原系の有力な皇位継承候補だった。(※ 正史『続日本紀』には「長屋王」と書かれるが,事件から百年後に書かれた「霊異記」には「太政大臣長屋親王」とある。  発掘された邸宅跡から「長屋親王」と書かれた木簡が出てきたことで親王(天皇の子)待遇を受けていたことが分かった。  太政大臣も死後追贈された可能性がある)  これより先,藤原氏は皇位を藤原系で独占するため,聖武の夫人であった光明子を皇后に格上げすることを考え,反対する長屋王に謀反の罪を被せて自殺させた。  デッチ上げの「犯罪容疑」は光明子の産んだ「基親王を呪い殺した」というものであった。  犯人は藤原四兄弟である。

  これだけ汚い手を使って長屋王とその妻子を皆殺しにしたにもかかわらず,光明皇后はついに男子を産むことができなかった。  あせった藤原氏は武智麻呂と宇合の娘を一人づつ聖武の夫人としたが,彼女たちも子を産むことができなかった。

  藤原四兄弟はどうなったか。  天平四年(732年)から九年にかけて,旱魃・不作・飢饉・地震が起り,外交関係が悪化し,疫病が大流行した。 そしてわずか四ヶ月間に藤原四兄弟は天然痘にかかって次々と死んだのである。  当時の人はこれは長屋王の怨霊のタタリと考えた。  当時の常識からいうと,怨霊側から見れば光明子も同罪である。  彼女は聖武に国分寺・国分尼寺の建立を,次いで総国分寺としての東大寺に大仏を建立することを強く勧めた。  聖武とて藤原の血を引いている。  彼自身も病弱である上,祖父の草壁,父の文武,子の基王とも若死している。  呪われた家系と感じたはずである。  誰に?  大津皇子,長屋王,安積親王にである。  この悪因縁を消すにはよほど強大な宗教の呪力に頼らねばならないことになる。  つまり「国家鎮護」の建前で「怨霊封じ」を行った光明皇后の恐怖が大仏造営の背景にある。  東大寺の前身は光明子が基王の菩提を弔うために営まれた金鐘寺という小さな寺である。  それが天平十四年(742年)頃から大和の国分寺に充てられて金光明寺と呼ばれるようになり,天平十七年(745年)その寺地で大仏造立が始まり,やがて東大寺という大伽藍に編入されたもの。  東大寺にしてみれば皇后は設立の大恩人であり,「聖女伝説」が作られたのであろう。

  古代中国では「子孫の祭祀を受けられない人(霊)がタタる」というのが怨霊信仰であった。  それが日本にも伝わった。  オオクニヌシノミコトを祀る出雲大社,聖徳太子を祀る法隆寺の例に見ることができる。  長屋王から「無実の罪で殺された政治家」が怨霊になる人物の条件になった。

  そして,大仏は長屋王の怨霊に勝てなかった。  聖武の娘,称徳女帝で持統王朝は断絶したからである。


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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 B古代言霊編―平安建都と万葉集の謎」

発行:小学館(1995年)

@ 道鏡と称徳女帝
  749年 阿倍内親王は即位して孝謙天皇<のち重祚して称徳天皇>(718年〜770年)となる。 756年 父聖武の死以降,母光明皇后の強い引きのある藤原仲麻呂を側近として重用する。  758年 退位して,舎人親王の子で,藤原仲麻呂(706年〜764年。武智麻呂の次男)の息子の未亡人を妻にしている大炊王を皇位につける。  淳仁天皇である。

  淳仁は仲麻呂のロボットであり,即位の年仲麻呂に「恵美押勝」の姓名を与え,天皇の特権である「鋳銭」(貨幣鋳造)「出挙(すいこ)」(稲穀その他の利息付き貸付。 のち雑税と化す)の権限を与える。  恵美押勝は重度の中国(唐風)かぶれであり,760年 大師(太政大臣)に上がると朝廷の官職名を全て中国風に改めた。

  唐が安禄山の乱(755年)で周辺国への圧力が弱まった機会をとらえて,新羅を討つ計画を立て準備を進める。  新羅を傘下に入れて「小中国」になることを夢見たのである。  孝謙上皇はこれを亡国の危機とみて,764年(天平宝字8年)地方豪族出身の吉備真備を朝廷側の実質的な軍事参謀に据え恵美押勝を討たしめた。  そして淳仁天皇を廃帝として淡路へ移し幽閉,自ら重祚して称徳天皇となる。

  普通,天皇の諡号は死後に贈られるものであるが,称徳は生前から「宝字称徳孝謙皇帝」と号していた。  「天皇」でなく「皇帝」を名乗っていたのは中国思想の影響である。  彼女は中国思想に心酔し,武則天(則天武后)を自らの模範に置いていた。  760年の光明皇太后死去の翌年の病以降,彼女は弓削氏の僧道鏡を重用し,太政大禅師にまで取りたてる。  称徳の立場からみれば,母(光明)の顔を立てて仲麻呂と大炊王のコンビに政権を委ねたのに,二人はとんでもない食わせ者だったということになるる  結局皇族にはろくな人材がいないし,母の実家(藤原氏)は信用できないと思ったに違いない。  称徳には兄弟もなく子供もいないし,養子(皇太子)にする適当な皇族もいないとなれば,先進国の中国のように,徳のある人にこの国を任せる,つまり天皇制から皇帝制へ移行した方が,国もよくなるし人民も幸福になると考えても不思議はない。

  むろん,有徳者が王となれば国がよくなるというのは,儒教の宗教的概念で,科学的根拠はない。  しかし,当時の知識階級は「最新の科学」として,それを信じていたのだ。

  要するに道鏡事件とは,称徳女帝がこの国の統治システムを天皇制」から「皇帝制」に替えようとし,その皇帝候補に弓削道鏡という男を選んだという単純な話である。

  禅譲とは「帝王がその位を世襲せずに譲ること」である。  中国の歴史においても本当の禅譲は一度も行われていないが,当時の唐・新羅・日本でもこれが政権交代の理想だと考えられていたのである。

  称徳女帝はおそらく理想主義者で潔癖な,やや独善的な人物であったのであろう。 禅譲の相手の選び方にも独りよがりが感じられるし,当然「根回し」も不足している。  そこで総スカンを食らうことになる。

  しかし,基本的には,彼女のやろうとしたことは,理想が先走ったきらいはあるものの,評価するに足るものだと思う。  道鏡は当然こどもはいないから,その後も禅譲になる。  称徳は「堯」であり,道鏡は「舜」になれるのだ。  そうすれば東夷である日本が文明の中心地,中国を超えることができる。  女帝はそこまで考えていたのではないかと思う。

  女帝の行動は,ある「集団」にとって極めて都合の悪いものであった。  禅譲思想が拡大すると天皇制は大打撃を受ける。  天皇制の存続で最も利益を得る「集団,それは天皇家よりもむしろ藤原氏である。  藤原氏は天皇家に,そして日本国にとりついた寄生虫であったからである。  それゆえにセックス・スキャンダルをデッチ上げて女帝の思想の継承を防ごうとした。

  日本は平安時代中期から鎌倉時代まで「藤原王国」であった。  平安時代は極めて治安の悪い時代であった。  平安律令政府には「予算」が殆どなく,そのため「軍隊」までもを廃止してしまったからである。  公地公民の律令制度の下では私有地はあり得なかった。  公家の特権階級は,荘園という脱税方法を考え出した。 荘園(本来の意味は別荘の庭園)とは庭園(ガーデン)であって田畑ではないから,国に税金を払う必要がないという悪知恵である。  藤原氏は自分の土地に加えて,「寄進地系荘園」(名義貸し)という形で他人の土地まで荘園化するということを始めた。  政府最高首脳とその一族がこのようなことをやる以上,誰も取り締れない。  日本全土が荘園化していき国庫はどんどん空になる。  藤原氏のみが「名義料」という養分を吸って肥え太るという構造が定着していく。

  これに歯止めをかけるには,懇田のこれ以上の開発を認めないという禁令を出して対抗するしかない。  この史上初めてで,しかも最後になってしまった禁令を出したのが称徳女帝と道鏡のコンビである。(765年)

  770年(宝亀元年)4月 称徳は病に倒れ8月に崩御する。 6月 左大臣藤原永手(房前の二男),右大臣吉備真備は,恐らく偽勅を出させてのことと思われるが,軍勢で宮中を取り囲み,弓削一族を女帝から遮断する。  そして一人の看病禅師も招かず,病気平癒の祈願も公に行われないという不自然な事態が起きている。

  8月4日 女帝が崩御するや,廷臣たちは協議し天武の孫で元皇族で参議の文室大市を次期天皇として推戴することを決め,女帝の名で勅書を作っていた。  ところが正史『続日本紀』には書かれていないが,後世の史料『日本紀略』『水鏡』によれば参議藤原百川(宇合の八男)は藤原永手ら藤原一族と計って土壇場でこの勅書を「次期天皇は白壁王」という内容のものとすりかえて発表させた。  裏をかかれた吉備真備は口惜しがったが後の祭で,すぐに右大臣を辞職した,とある。

  白壁王(即位して光仁天皇)はこの時既に62歳,天智天皇の子,施基皇子(志紀・志貴とも書く)の第六子(天智の孫)で,普通なら天皇位とは無縁の人である。

  『続日本紀』によれば,称徳は「大和国佐貫郷高野」に葬られた。  しかし両親の聖武・光明夫妻,弟の基王,大伯母の元正も,みな「佐保山」という一帯に埋葬されている。  なぜ称徳だけはいわば聖武一族の墓地である場所に葬られなかったのか。  異常死した死者は「死穢」に満ちているため,通常の場所には埋められないからである。  佐保山の西方の佐紀古墳群の中に宮内庁が称徳天皇高野陵として管理する「佐紀高塚古墳」があるが,これは4世紀築成と見られる前方後円墳である。  つまり称徳の墓は所在不明なのである。   こうしたことから見て女帝は「暗殺」されたのだと思う。


A 桓武天皇と平城京から平安京への遷都の真相

  光仁天皇(709(和銅2)〜781(宝亀12) )の皇后は天武系(聖武の子だが母は光明子ではない)の井上内親王であり,皇太子もその井上皇后の産んだ他戸(おさべ)親王であった。  773年藤原百川は井上・他戸親子を追放して,光仁と百済系帰化人の子孫高野新笠(?〜789(延暦8) )との間の子で,まったく天武系の血の入っていない山部親王を皇太子にすることを策し,これに成功する。  具体的に言えば,井上皇后が光仁を呪い殺そうとしているという罪で告発し,親子ともども幽閉し,死に追いやった。

  781年(天応元年)山部親王は即位し桓武天皇となり,ここに純粋な天智王朝が復活する。  桓武天皇は即位にあたって郊祀(こうし)という儀式を行っている。  郊祀というのはその王朝の初代の王と天帝を合わせて祀る儀式だが,この時桓武が祀った「初代」は神武でも天武でもなく,父の光仁だった。 この桓武天皇が平城京を「捨てた」張本人である。

  首都建設というのは莫大な資本を投下して行われたものであるから,遷都するということは,この資本を一切捨てて新しく何もかも作り直すことになる。  よほど強い動機がなければできない大事業である。

781年(天応1)桓武帝即位
782年(延暦1)氷上川継,乱を起こす
784年(延暦3)長岡京着工
785年(延暦4)造宮長官藤原種継暗殺される
皇太弟早良(さわら)親王廃され,流刑地への途中憤死
789年(延暦8)蝦夷との戦いに大敗
新京(「平安京」)着工
790年(延暦9)この頃都周辺に天然痘流行
792年(延暦11)辺境を除き,正規軍(軍隊)を廃し,健児(こんでい)(自警団)を置く
794年(延暦13)新京を平安京と命名
  平城京が捨てられた理由は,大仏をはじめとする莫大な投資にもかかわらず,(長屋王の怨霊を鎮めることもできず)肝心の「国家鎮護」,具体的には「天皇家の安泰」に何の役にも立たなかったからである。  それどころか造仏者(施主)の聖武には男子が生れず,そのあと娘の代(称徳天皇)で「御家」は「断絶」してしまったのである。  平城京は天皇家にとって所謂「家相の悪い家」だったのである。

  桓武は即位後ただちに大背国乙訓郡長岡村の地に長岡京を着工させている。 ところが造営長官の藤原種継(藤原百川の甥)が暗殺される。

  この事件は,遷都反対派の大伴一族の犯行とされた。  一族の氏上(うじのかみ)大伴家持(早良親王の春宮大夫(とうぐうのだいぶ)であり,歌人)は事件の二十日ほど前に病死していたが,官位を剥奪されて庶人の位に落され,遺体を土葬することすら許されず,事実上の氏上大伴継人は斬られ,皇太子早良親王(桓武の同母弟)も廃太子されたうえに流罪となった。  早良親王は無実を叫んで食を断ち護送途中に憤死した。  しかし,遺骸はそのまま流刑地の淡路島へ送られた。

  桓武(山部親王)と早良親王は異なる育ち方をした。  彼等の母高野新笠は帰化人の子孫であり,天皇位などは本来転がりこんでこないと思われていた。  両親(光仁と高野新笠)は,桓武(山部)は将来臣籍に降下し官僚としての道を歩ませ,弟の早良は僧侶となる道を歩ませた。

  早良は東大寺で修行し,のちに東大寺の初代別当(長官)良弁の後継者に指名され,東大寺を代表する立場にいた。  運命のいたずらで父光仁が天皇になったため,早良は還俗して兄桓武の皇太子となった。  これは光仁の強い要望による。  自らの政権基盤が極めて脆弱と考えていた光仁は,東大寺に「強い」早良が天皇になれば仏教勢力を味方につけることができ,政権は安定すると考えたのであろう。

  しかし安殿(あて)親王(のちの平城天皇)という息子があり,平城京と決別しようとしていた桓武にとって父の配慮は「有難迷惑」以外の何物でもなかった。  このような状況のもとで,種継暗殺事件は起った。

  桓武は腹心の種継は失ったものの,新都建設反対勢力を一掃できた。  しかし問題はその後に起きた。  早良が怨霊と化してしまったのである。

  桓武の周囲には不幸が相次いだ。

  788年(延暦7)には夫人の藤原旅子が死に,以後母の高野新笠,皇后藤原乙牟漏が次々と没した。 しかも,この間蝦夷との戦いにも敗北した。

  だが,それより桓武を悩ませたのは,弟の早良を廃して皇太子に据えた安殿親王が病気がちなことだった。

  そして桓武は,これらの不幸が早良の怨霊の仕業ではないかと意識し始めた。  無実の罪で憤死した長屋王が,犯人の藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇会・麻呂)を殺したうえに天武王朝を断絶させたことを,知っていたからだ。

  桓武はまず祖霊神であるアマテラスに安殿の病気平癒を祈ったが効果はない。  ついに桓武は陰陽師にその原因を占わせたところ,早良のタタリと出た。  792年(延暦11年)のことである。

  これより桓武の怨霊対策が始まる。
792年(延暦11)6.10占いに安殿親王(皇太子)の病気が故早良親王の祟りと出る。 諸陵頭調使王等を淡路島へ遣してその霊に奉謝する

6.17淡路島の早良親王の墳墓(冢)に堀をめぐらす
797年(延暦16)5.20墳墓に僧2人を遣す
799年(延暦18)2.15大伴是成(春宮亮)および僧泰信を遣す
800年(延暦19)7.22崇道天皇の尊号を追贈し,墓を山陵と追称す
大伴是成(春宮亮),陰陽師・衆僧を率いて鎮謝す

7.26親王の墓に墓守(淡路国津名郡戸2烟)を置く

7.28称城王(少納言)等を遣し陵墓に尊号追贈を報告する
805年(延暦24)1.14淡路国津名郡に寺(常隆寺)を建て,冥福を祈る

4.5親王の命日を国忌に入れる

4.11墓を大和国添上郡に改葬する

7.27唐国の品物を陵墓に献ずる

10.25冥福を祈り一切経を書写させる
806年(延暦25)3.17冥福を祈り諸国国分寺の僧に春秋二季の読経(金剛般若経)を命じる
種継暗殺に連座した人々の官位を回復し,流罪者を放免する
桓武天皇崩御する
  この間794年(延暦13年)には平安遷都という大事件があった。  私は平城京から長岡京を経て最終的に平安京へ遷されたことは,怨霊信仰の結果によるものと見ている。
  しかし歴史学界ではそうは見ていない。

歴史学界の言う「平城京から長岡京への遷都の理由」
  1. 長岡が交通の要衝であり,その利便性に着目した。
  2. 天武系から天智系への皇統交替により天武系の皇都であり東大寺等旧勢力の基盤である平城京を捨てる必要が生じた。
  3. 同じく天武系から天智系への移行を中国思想で解釈し,天命思想によって新都が計画された。

歴史学界の言う「長岡京から平安京への遷都の理由」
  1. 造都責任者の藤原種継は母が秦氏の出身であり,この縁故により,秦氏の本拠である山背国への遷都を進めていた。長岡が交通の要衝であり,その利便性に着目した
  2. 早良親王のタタリから逃れるために,都を移した。
  3. 長岡京を襲った二度の洪水(延暦11年の6月と8月)によって適地とは看做されなくなった。
  もちろん,私はA説をとる。  AとBは同じものである。  平城京は天皇家にとって「家相の悪い家」だったのである。  長岡京に「家を新築」しようと思ったが,それも洪水というケチがつき,調べてみると「怨霊の仕業」であることがわかった。

  ならば,もっといい所,すなわち「家相の良い家」に引っ越そうと考えるのは当然ではないか。  家相の良い都とは何によって判断されるか?

  平安京は「風水説」によって設計された都である。  東西南北に四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を象徴するものがある。
(青龍)

流水(川)---- 鴨川
(朱雀)

沢畔(湖沼)---- 巨椋池
西(白虎)

大道(街道)---- 山陰道
(玄武)

高山
---- 船岡山
  平安京の中心を南北に走る朱雀大路は,船岡山山頂から真南を向いて引かれる線に重ねてその位置を決定された。  「気」の集中する場所,「龍穴」の上に重要な建物や先祖の墳墓を築くと,気のパワーによって「莫大な幸福を招く」ことができると風水術は教える。  内裏(天皇の居住区域)はまさにそのような位置に設定されている(現在の上京区千本通丸太町上る西側の内野児童公園内に「大極殿遺址碑」の記念碑が立つ)。  具体的には,船岡山から南下する縦軸と,将軍塚・神護寺を結ぶ横軸が交差する位置に内裏がある。  将軍塚とは,平安建都の際,王城鎮護のため粘土で作った武将像を西方(都方面)を向かせて埋めた,と伝えられる地点である。  この塚は「ちょうど冬至の日出」の位置にある。  神護寺はそれと逆に「ちょうど夏至の日入り」の位置にある。  ここには桓武天皇のブレーンである和気清麻呂の墓がある。

  風水のことを日本では「陰陽道(おんみょうどう)」といい,それを司る人々を陰陽師と呼ぶ。  そして肝心なことは,当時の人々はこの陰陽道のことを「科学」だと信じていたことである。 平安京は怨霊からのシェルター,結界なのである。

  陰陽道で最も不吉な方角とされる艮(うしとら)の方角,つまり鬼門には比叡山延暦寺がある。  元号を初めて寺号に使うことが許されたのが延暦寺である。 この寺は最澄が開創したころは比叡山寺と呼ばれていたが,桓武の子の嵯峨帝によって「延暦」を寺号として許された。  平安京の鬼門にあたるゆえに桓武は最澄を可愛がった。  最澄を桓武に引き合わせたのが和気清麻呂といわれている。

  こうして桓武の「知遇」を得た最澄は,唐からの新しい仏教の導入を期待され,803年(延暦22年)二十五年ぶりの遣唐使の一行に加えられることになる。  この一行にひょんなことから加わることを許された若き無名の留学僧空海がいた。  還学僧である最澄は桓武に期待されていたがゆえに,短期間で帰国しなければならなかった。  それで当時盛んになりつつあった密教を完全な形で学ぶことができなかった。  空海は自由に動けたために,密教の奥義を極めることができた(密教の第七祖である恵果阿闍梨から灌頂を受け,密教の正統後継者となる)。  空海が帰国したとき桓武は既に世を去っていたが,息子の嵯峨天皇は空海を優遇し,平安京の東寺を空海に与えた。  密教が優遇された理由は,密教が加持祈禱を中心とした呪術的色彩の強いものであり,加持とは「仏の加護によって,人が病気や災難から救われるように祈ること」である。  日本の伝統的な考え方では,病気や災難は怨霊の仕業なのだから,加持とは「怨霊封じ」に他ならない。

  792年(延暦11)桓武は「正規軍」の廃止という,空前絶後の政策を実行する。  徴兵制による軍団を廃止し,健児(こんでい)という専門兵士の集団に変えたのである。  律令制度における軍団制は全国の正丁の三人に一人が徴兵されるというものだったが,健児は地方の郡司の子弟に,諸国の国府や武器庫を守らせるもので,その数は全国で僅か3,155人,しかもこの制度は平安時代の中頃より以前に自然消滅してしまう。

  この「健児」制は当時の憲法にあたる律令を改正して設けたものではなく,「太政官符」という一片の通達で行ったものである。  この「徴兵制の放棄」と「平安建都」とは,実は,一体の出来事である。  792年の「正規軍」の廃止には但し書きがついていた。  「辺要の地を除いて」というものだ。  辺境の軍団は残したのである。  辺境とはどこか。  東北地方である。

  そこには蝦夷がいたからである。  桓武という帝王は,この蝦夷に対する侵略を最も大規模に進めた人なのである。  いわゆる蝦夷征伐である。  なぜ蝦夷征伐に桓武は熱心だったのか?  東北地方は平安京から見て「鬼門」の位置にある。  「鬼門」という言葉は外来のものであるが,日本には「鬼門」以前に,東北の方角を不吉とする信仰があった。  古来,東北の隅は「日之少宮(ひのわかみや)」のある所で犯すことができないとされていた。  桓武は何よりも天皇家の安泰と繁栄を願った。  それを邪魔する怨霊という敵に対しは「逃げるが勝ち」という作戦をとった。  しかし敵が「生身の人間」ならば禍根を断つためにも殺してしまうのが一番いいということになる。

  桓武には「天皇家を滅ぼすのは北方の蝦夷」ではないかという恐怖があった。  しかも蝦夷は和人ではなく,同じ人間とみていなかった。  だから殺しても怨霊にならないという確信があったのであろう。  平安時代以前の朝廷は血で血を洗う抗争の歴史である。  しかし平安以降は「殺人」が激減する。 平安時代の大半にあたる約四百年間,公式には死刑が一度も執行されなかったのである。  最大の原因は刑死者の怨霊化を恐れたからであろう。


B 万葉集と言霊

  言霊(コトダマ)とは,『万葉集』の基本概念であると同時に,現代の日本人をも拘束する「信仰」でもある。  コトダマとは言葉に霊力のことであり,口に出したことは実現するという信仰である。  例えば,ハイジャックの際に,「人質に死者が出てもやむを得ない」と発言すると「アイツは人質の死を望んでいるんだ」と受け取られてしまうのである。 口で平和,平和と唱えていれば戦争は起きないという信仰もそれである。

  中国から来た習慣だが,昔は人には名前が二つあった。  諱(いみな)と字(あざな)である。  イミナは今でいうと本名だが,「忌み名」というぐらいで実際には口にできない。  自分で言うのは構わないが,他人は呼べない。  それでは不便なので,他人が呼ぶときの専用の名を別に用いる。  これがアザナ,今でいう通称である。



九郎
義経
遠山
金四郎
景元
坂本
龍馬
直柔(なおなり)
  名奉行遠山景元も生前「景元」と呼ばれたことはないはずで,「お奉行様」,「左衛門尉殿」といった職名・官名で呼ばれるか,アザナの「金四郎」あるいは姓の「遠山」で呼ばれたはずだ。 ところが,彼が死者の列に入った後は,遠山金四郎でなく遠山景元と呼ばなければならない。  どうしてこういう使い分けがあったのが。  私の考えではおそらくコトダマが原因だろう。  本人をアザナで呼んでしまうと,幽界から出てしまう恐れがある。  明らかに断言できることは,古代の人々が名のタブーというものを信じ恐れていたという事実である。

  『万葉集』を,それも最も早く成立した原万葉集ともいうべき巻一・巻二を読むと,巻一には長屋王(天武天皇の子の高市皇子の子。 藤原氏(恐らく聖武・光明夫妻も承認)により一族もろとも誅殺された),巻二には大津皇子(天武天皇の息子.持統天皇により処刑された),有馬皇子(幸徳天皇の息子,中大兄皇子の甥で,彼により処刑された)ら無実の罪を着せられ悲運の最期を遂げた人々の歌が収められている。  無実といっても公式に取り消されたのではない。  もし無罪を認めると,彼等を殺した当時の天皇・皇后・皇太子たちの行為が誤っているということになり,「国家の論理」が貫徹しない。  この,いわば「犯罪者」で「化けて出そうな」人々の歌を載せた『万葉集』が連綿と語り継がれ,次ぎの時代にできた勅撰の『古今和歌集』は『万葉集』を継ぐ歌集であることを宣言している。

  『万葉集』のそもそもの編者は誰かは不明である。  しかし,それを現在の二十巻の形式に最終的にまとめ上げたのは,大伴家持である可能性が高い。 大伴家持は同時代の人にとってはどんな人物か?  家持は桓武天皇の弟で皇太子の早良親王の春宮大夫(とうぐうのだいぶ),今でいえば侍従長であった。  家持は「早良親王反逆事件」の首謀者の一人として「極刑」に処せられているのである。( 実際は事件の二十日ほど前に病死していたが,死後に官位を剥奪されて庶人の位に落され,息子の大伴継人が斬られた )  「犯罪者」の汚名がすすがれたのは,桓武が死の直前806年に,事件に連座した人たちの官位を回復してからである。

  『国史大辞典』には,「・・・巻一前半部が持統天皇の発意により文武朝に編纂され・・・」とあるが,それはあり得ない。  『万葉集』の巻一・巻二が仮に飛鳥・奈良時代に完成していたとしても,それはあくまで私的に秘密裡に造られたものであって,世に出ることはなかったと考えられる。  ところが,天武・持統王朝は奈良の都をもって終わった。  天智系が復活したのである。  光仁即位(770年)以降なら,こういう歌集も公表は可能だ。

  このあたりは完全な推測だが,おそらく「原万葉集」にあたるものは,当時著名な歌人でもあった家持のの手に入り,家持はこれに自分や一族の歌,さらに地方で採集した歌などを加えて,一大歌集として完成させていたのではないか。  完成させることと,それを公表(公刊)することは別のことだ。  これがいつ世に出たか。  それは桓武の死つまり806年以降でなければならない。  桓武が種継事件に連座した家持らの罪を許し名誉を回復させたのは怨霊を恐れ,鎮魂するためである。 だとしたら,『万葉集』の公刊もその目的に添ったものと考えればよい。  時代は下るが,大久保彦左衛門の『三河物語』も公刊されたのは明治になってからである。

  「原万葉集」は,柿本人麻呂の歌を含め全体のの4割が「挽歌」,即ち「人の死を悲しむ歌」である。

  梅原猛氏は『水底の歌』で次のように説く。

  1. 人麻呂は六位以下の下級官吏ではなく,正三位とはいえないまでもかなりの身分の高官であった。
  2. それなのに正史に載せられていないのは,別の名前で記載されているからだ。  それは柿本猨(佐留)である。  人麻呂が猨にされたのは懲罰的に改名させられたからである。
  3. なぜ懲罰されたのか。  人麻呂は持統・文武朝で何らかの事件に巻き込まれ失脚し,最終的に石見国(現島根県)に流され,そこで水死刑に処せられたからである。
  4. 高位の身分でも,罪人として死んだ場合は「死」と記される(三位以上は「薨(こう)」,五位以上は「卒(しゅつ)」)。  『万葉集』が人麻呂の死を「死」と表現しているのはこのためである。
  5. その人麻呂は,平城天皇の時代に,大伴家持の復権に伴って,名誉回復し正三位を追贈された。  『古今和歌集』の「仮名序」にある「かの御代(平城天皇の治世)」に,「歌の心をしろしめしたりけむ(世に広まった)」というのは,この意味である。
  6. 人麻呂は,政治的敗者で非業の最期を遂げた。  だからこそ「歌聖」となった。
  私はこの骨子には基本的に賛成である。  細かい点なら,異論もある。  動物の名前を付けることはこの時代決して珍しいことではない(例えば「麻呂」という歌人もいる)。  むしろサルが本名で,彼が死んでから歌聖として「祀り上げられた」時,サルでは「重味」がないので「人麻呂」と呼ばれたのではないか,と私は考える。  つまり諡(おくりな)である。  当時の律(刑法)では,死刑の方法に「絞」と「斬」しかなく「水死刑」はないという点は,刑死した人麻呂の遺体が海(川)に捨てられたとみることができる。

  紀貫之は『古今和歌集』の仮名序で,人麻呂は歌聖だと述べている。  それに続く部分で,柿本人麻呂と山部赤人の歌の技量は甲乙つけがたい,とも述べている。  歌が上手だから歌聖とされたのではない。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 C中世鳴動編―ケガレ思想と差別の謎」

発行:小学館(1996年)

@ 六歌仙は,単純に歌の優劣で選ばれたものではなかった。  六歌仙は政治的な敗者,つまり怨霊である。

   うち五人は皇位継承者の争いで敗者側にいた人たち,或いはいたのではないかと思われる人たちである。

  •  僧正遍照
    仁明天皇崩御の際に身の危険を感じ出家した人間。
  •  在原業平
    清和天皇がまだ幼帝であった頃に,その婚約者であった藤原高子と恋愛し大問題を起こした人物。  義理の父親の妹が紀静子,つまり弟に皇太子の座を奪われた惟喬親王の母親である。
  •  文屋康秀
    文徳天皇即位直後と思われる時期に惟喬親王の敗北とともに理由の不明な左遷(三河掾(みかわのぞう)という三等官)を受けた人。
  •  喜撰法師
    陰陽道を得意とする得体の知れない隠遁者である。  紀名虎(きのなとら)の子供であるとの伝承が僅かに伝えられているだけ。  確実に彼の歌と言えるのは名作とはいえない歌が僅か一首あるのみ。
  •  小野小町
    経歴はまったくと言っていいほど分からない謎の女性,ただ「美人」であったということだけが伝えられている。  『古今集』に文屋康秀に「都落ち」を誘われる場面がある。  
  •  大伴黒主
    『古今集』に四首あるのに藤原定家の選んだ百人一首には選ばれていない。  842年(承和9年)の「承和の変」と866年(貞観8年)の「応天門の変」で無実の罪を被せられて大伴氏(改姓して伴氏)は失脚する。  大伴黒主とは,個人名ではなく,藤原良房(摂政関白政治を完成させた)ら藤原氏によって古代名族の座から蹴落とされたすべての大伴氏の象徴である。

A 謎の女性小野小町

  惟喬親王が出家して素覚法師と名乗って隠棲した場所は,比叡山の西麓小野の里である。  ここは小野氏発祥の地で小野妹子の墓や“小町の祖父”小野篁を祀った神社もある。  作家高橋克彦氏は,小町は惟喬親王の祖父にあたる仁明天皇の更衣だったのではないかと言っている。   更衣というのは,皇后・女御(にょうご)などの天皇の妻の位の一つで,比較的下の位である。  仁明帝前後の後宮(大奥)の女性たちを調べると小野吉子が唯一の小野氏出身者である。   既に多くの研究者によって小野小町=小野吉子説が唱えられている。  小町とは実名(諱=イミナ)ではなく,通称である。

  「町」とは更衣につけられる名である。  古代学研究所所長の角田文衛さんによると,更衣より身分の上の人は一人一人殿舎が与えられるが,更衣は常寧殿という大きな建物のなかを仕切って,そこを部屋つまり局(つぼね)として与えた。  その局を町といった。 方形に仕切られた区画を町というのである。

  「小町」とは「町」に準ずる女性という意味なのか?   明治の小説家黒岩涙香は,小町に姉があり,姉が小野町,妹が小野小町となのだと述べている。   私は小野小町は「惟喬親王の乳母」ではなかったかと考える。   もっとも小町が更衣・小野吉子だったら「義理の孫」の乳母を務めたとは考えにくい。  乳母は通常家臣の妻の中から選ばれるものだからだ。

    【 読者注::新潟大学大学院教授錦仁氏の『小町伝説はこうして作られた』≪第13回 春日井シンポジウム 2005年 資料≫によると,年老いた小町が都を出て故郷へ向かい,やがて野垂れ死にをするという説話は平安中期成立の異本『小町集』や院政期の説話集にあり,室町期の謡曲,江戸期の御伽草子にもある。   近江をはじめ全国各地に小町伝説があるが,東北地方へも小野氏の人々が国司などになって移動してきたこと,或いは中古いらい近江・山城から東漸して下野に一大根拠地をつくった小野族党が,さらに会津・越後・出羽へと入植・土着したという背景の中から伝説が生れていったらしい。   その一つに秋田県雄勝郡雄勝町(現・湯沢市)の 「小町はここで生れ,都にのぼって歌人となり,晩年にもどってきて亡くなった」という小町伝説がある。    その成立過程についてみると,それは江戸時代に成立したもので,最も古い資料といえるものは,十七世紀に戸部一憨斎が編集したと伝えられる「小野小町の系図」(原本散逸)である。  文化・文政年間にかけて小町伝説と遺跡を目指して全国から旅人が押し寄せたので,秋田藩は藩をあげて雄勝の小町遺跡を整備し伝説を書き換えていった。  藩主,家臣の文人,地元の俳人,藩主の庇護を受けた修験者・・・・それぞれがそれぞれの立場でかかわった。


B 源氏物語が11世紀初頭という早い時期に書かれたのはなぜか。

  今まではカナ文字の創生による国文学の発達というような視点で語られることが多いが,私は逆だと思う。   歌を詠みたい,物語を書きたいという強い欲求があったからこそ,カナが生み出されたのである。

  源氏物語は,光源氏という賜姓源氏のの若者がライバルである一族(○○氏とは書いてないが当時の常識からも藤原氏)に対して勝利を収め,摂政関白を越えた地位「准太上天皇になるという物語である。  「紫式部日記」によれば道長はどうやら式部に紙や硯を与えていたらしい。   つまり一種のパトロン的存在であったことは間違いない。   『源氏物語』も『竹取物語』も『伊勢物語』もすべて反藤原の書なのである。   「普通の国」なら焚書になるはずだ。   『源氏物語』は怨霊信仰の産物である。

  10世紀後期,969年(安和2年),安和(あんな)の変で源高明が大宰府に流刑になる。  皇太子の憲平親王が病弱で,若し早死すれば位は弟の為平親王になる可能性があった。  為平親王の義父が源高明である。  藤原摂関政治は「天皇家に嫁にやった娘が男の子を産む」「その男の子を天皇位に就けて外祖父として権力をふるう」という生物学的条件に依存している。   権力が確立しないうちに死んでしまうとどうにもならない。    そこで藤原氏が陰謀を仕組んだのが,安和の変である。   この結果,賜姓源氏という強敵を沈めた藤原氏にとって敵対するに値する他氏はもう存在しないことになった。

  『源氏物語』は儒教文化の中からは絶対に生まれないものだ。   儒教文明圏では小説(この言葉自体差別用語)は虚構(即ちウソ)であるから「くだらないもの」であり,それを書くということは「うしろめたい」ことなのだ。   高橋和巳が小説を書き始めたときに,師の吉川幸次郎先生は猛烈に反対したという。   詩は,現代の感覚では虚構だが,昔の中国人にとっては「志を述べるもの」(曹操の言葉)であり,文(論説文)と並んで最高の地位にあったのである。   日本人は『源氏』を「小説」とは考えなかった。   「物語」という言葉で呼んだ。


C 「反逆者」平将門

  平将門は桓武天皇の五世の孫で賜姓皇族の子孫である。  桓武天皇の皇子の葛原親王の子高棟王と孫高望王が「平」という姓を与えられて臣籍降下した。  高望王は上総介として現地へ赴任した。  こういう現地へ赴任する国司を特に「受領」(ずりょう)という。  国司に任ぜられることは大変な経済的利益を生む。  当時の国政を預る貴族たちのやったことは,荘園を増やすことと歌を読むことだけである。   コトダマの世界では,歌さえ詠んで,「平和になれ」「豊かになれ」と言い続けていればそうなる。  だから彼等は実質的には何もしなかった。  国の発展とか民心の安定とかを,具体的な手段で実現しようとはまったく考えていなかった。  したがって,地方の政治は国司や目代に任せ放しだった。   彼等の義務といえば,一定の税を取り立てて中央へ送ることだけだ。   その義務さえ果たせば,あとはいくら私腹を肥やしてもよい。   それゆえに,この時代には,中央で官僚として出世する望みのあるわずかなエリート以外は,誰もが受領になりたがったのである。   そうした傾向の中で,積極的に地方官となり任期が終わっても都に戻らずにその土地に土着する人々があった。  それが賜姓皇族の平氏や源氏である。

  平将門あたりから日本史上重要な階層が登場する。  武士である。

  武士には別名が三つある。   「もののふ」 「さむらい」 「つわもの」である。   「もののふ」は古代の日本の軍事面を担当した一族「物部氏」にちなんだもので,つまり,武力をもって国家に奉仕する者であり,「さむらい(侍)」は「侍う者」の意味で,武力をもって特定の一族(例えば藤原氏)に奉仕する者のこと,「つわもの」は兵器(うつわ)を扱うことを専門とする者,武器を扱うプロ集団という側面を強調すれば「つわもの(兵)」になる。

  新しく赴任してきた「受領」たちと,既に土着している地方豪族との間にはトラブルが絶えない。   新しく来た連中は「国家権力」を笠に着て,在地地主を圧迫し,利益を得ようとする。  これに対抗して,在地地主側も,都へ上り,摂政関白家などの大物政治化に「名簿(みょうぶ)を奉る」,,つまり私的な家来になるのである。   ただし,建前上は下級役人として朝廷に採用してもらい,その奉仕によってなにがしかの官職を得て故郷へ帰り,その「前――」という官職と,「関白の子分」だという権威をもって信任の刻とらに対抗するのである。

  どうして武士というものが誕生したのか。   それは平安律令政府が,国家の持つ正式な軍隊というものを廃止してしまったからである。

  今でも,言霊に影響されて「軍隊を無くせば平和が来る」と信じている人がいるが,少なくとも平安時代は,これはまったくのウソで,国の治安が目茶苦茶になったのだ。   そういう時代においては,国民は自分の手で自分を守るしかない。   それゆえ,武士団,つまりプロの私的な武装集団が成立発達したのである。

  平将門ら在地地主,国府,中央政府に雇われている武士は,形としては私兵集団であり,国家に対して手柄をたてた私兵集団の長が,尾張守とか左馬頭とか朝廷から官職を与えられることはあるが,「軍隊」は廃止されているので,与えられるのは軍事には関係のない官になる。   そんなことをするくらいなら,軍制を改革して武士を軍人すなわち国家公務員として位置づけるか,あるいは律令制における軍事制度を復活し,武士を兵部卿(ひょうぶのかみ)(国軍司令官)ないし兵部大輔(ひょうぶのたいふ)などの軍人としての正式官職に任ずるかねどちらかにすればいいのだが,摂関家の人々はそのようには決して考えなかった。   彼等はあくまで武士というものを,「正規のもの」にらはしようとしなかった。   今の日本人が軍隊を憲法の中で正式に位置づけしようとしないのと同じである。    その理由は次の項で述べる。

  平将門は皇族の子孫ではあったが,彼自身は無位無官の人であり,私兵を抱える有力地主で,清水の次郎長のような「地元の大親分」的な存在であった。   彼が新任の国司と郡司(地方豪族の子孫が任ぜられることが多い)の争いの仲裁を買って出たことから,端を発した紛争の中から,中央政府のデタラメな政治に反感を持つ民衆の支持を背景に,中央政府に対する反乱に成長し,将門は京の天皇に対して新皇と称し,坂東八ヶ国を支配する独立政権に成長する。   力のある者が天下を取ることを宣言したのは将門が最初である。   源頼朝も足利尊氏も織田信長も,この意味では将門の追随者にすぎない。


D 院政と崇徳上皇 ― 法的根拠なき統治システムの功罪

  日本は天皇によって支配されるという信仰を破ることはできないまま,藤原氏は実質的な日本の政治的な支配者として君臨する。   彼等のやった政治とは「まじない」や「儀式ごっこ」である。   藤原氏が熱心にやったことは一族の所有物としての荘園の開発であった。   一方彼等が主要メンバーである国(政府)は,そのために少なくなった領地(国衙領)からできるだけ搾り取ろうとする。   しかしそれでも予算は絶対的に不足するから,行政サービス(治安維持や公共事業)はまったくできない。   平安末期の日本はまさに末世というべき時代であった。

  藤原氏の権力の源泉は天皇家との血縁関係に依存しているから,それが切れたら体制にひびが入る。   そしてそういう事態が起きた。   藤原道長の次ぎの世代において,ついに藤原氏の外孫でない天皇が誕生した。    後三条天皇である。     まず後三条が手をつけたのが荘園問題である。   1069年(延久元年)の荘園整理令の目的は,不正な手続きによって作られた荘園の没収である。    後三条は没収した荘園を公領とせず,天皇家の私領とした。    これはのちのち院政の経済的基盤になるが,一面では本来は“いかがわしい”存在である荘園の正当性を認めたことにもなった。

  後三条は藤原家の摂政関白政治と絶縁するために,手を打つ。   即位後四年にして条件付きで位を子の貞仁(さだひと)親王に譲った。   条件とはその次ぎの天皇は貞仁親王(白河天皇)の子ではなく,自分の子実仁(さねひと)親王とするということである。   貞仁親王の母は藤原茂子であるが,実仁親王の母は源基子である。

  後三条は譲位後ただちに,引退した天皇のオフィスである院庁(いんのちょう)の院司(いんのつかさ)を任命する。   彼等の多くは藤原氏ではあるが反摂関家的性格をもっていた人々である。   院庁設置の意図は,天皇の父という家父長的権威をもつ上皇として政治を監督すること,すなわち「院政」の意図があった。   ただ後三条は譲位後わずか半年で病死する。

  院政は次の白河天皇から,後三条の遺志とはまったく違う方向で始まっていく。   実仁親王が疱瘡の病で病死するのである。   後三条の遺志を尊重するなら,次の天皇は実仁親王の実弟,輔仁親王と決めるべきところ,1086年(応徳3年),白河天皇はさっさと退位し上皇となり,自分の子8歳の善仁親王(堀河天皇)に位を譲る。   この強引なやり方は世間の反感を買った。   輔仁親王(三宮と呼ばれた)は極めて聡明な資質を持っていたために,天下の同情が三宮に集まった。    不安に思った白河上皇は,そこで堀河が病気になったのを契機に,「上皇となって天皇を後見する制度」つまり院政を始める。

  堀河天皇の母は藤原賢子であり,父の藤原師実は堀河天皇の即位後ただちに摂政になるが,なぜかここで藤原摂関政治は復活しなかった。

  一つの理由は,当時摂関家に天皇家の嫁に出すような娘が不足していたことが挙げられる。   藤原賢子は実は養女で,源顕房の娘である。   後三条は藤原摂関家の勢力を抑えるために反摂関家の藤原氏や,それまで冷や飯を食わされていた村上源氏を積極的に登用したために源氏の政界進出はめざましかったのである。

  もう一つの大きな理由は,この新しい政治制度を,荘園を牛耳る藤原摂関家と対立するところの,公領の管理人たる受領(ずりょう)たちが支持したことである。

  律令体制下では実力本位の人材登用はできないが,院政は結果的にそれに風穴を開けるという形で藤原摂関体制を崩壊させることになった。   しかし,いわば代表権のない超ワンマンの相談役ともいうべき上皇が,人格的に能力的に問題のある人物だったとしたら,とんでもないことが起こり得るし,また実際そうなった。

  堀河天皇は優秀な人だったが,若死した。  白河上皇は8歳という幼少の孫に位を継がせた。    鳥羽天皇である。   1118年(元永元年),天皇が16歳になると,白河上皇は藤原璋子(18歳)を中宮として入内させた。   待賢門院である。   白河上皇は璋子と密通し,翌年皇子(顕仁(あきひと)親王)が生まれるが,これは白河上皇の胤子であった。   鳥羽はそれを知っているから顕仁を「叔父子」と呼んだ。   顕仁が8歳になると,白河はおのれの胤子である顕仁を天皇の位に就け(崇徳天皇),鳥羽を上皇に祭り上げて,自分は出家し法皇となる。    待賢門院は絶世の美女であったらしく,鳥羽は彼女との間に四皇子二皇女を生している。

  崇徳天皇が11歳のとき,法皇は死ぬ。   鳥羽上皇は当時藤原得子(美福門院)を最も寵愛していたので美福門院腹の皇子(躰仁親王)の誕生を長年待ち,生まれた皇子を崇徳の皇太子とした上で,2年後の1141年(永治元年)崇徳に譲位を命じた。   崇徳があっさり位を譲ったのは鳥羽にだまされたからである。   譲位の宣命には皇太子ではなく,皇太弟と書かれていた。   これでは崇徳は院政を行えない。   崇徳には遺恨が残った。    この数え年三歳で即位した近衛天皇は子のないまま17歳で死ぬ。   崇徳は自分が重祚するか,悪くても自分の子重仁親王が即位するだろうと考えていたが,美福門院が近衛の死は崇徳が呪詛したからだと讒言した。    どうしても崇徳系に皇位を渡したくない鳥羽は,待賢門院腹ではあるが自分の実子の雅仁親王を選んだ。    のちの後白河である。

  崇徳は恨み骨髄に徹した。   そして1156年(保元元年),鳥羽上皇が病死したのを期に,左大臣藤原頼長と組んで,平家弘,同忠正,源為義,同為朝らに檄を飛ばし反乱の兵を挙げた。   保元の乱である。   鳥羽上皇は自分が死んだら必ず乱になると読んでいたので,武士団に声を掛けていた。   後白河を守るため馳せ参じたのは,平清盛,源義朝らであった。    この身内同士の対決は一夜で片が付いた。   後白河側が敵の本拠を急襲し,不意を突かれた崇徳側は敗北する。    崇徳は仁和寺に逃れて髪を切り,頼長は乱戦の中で死んだ。   後白河側は「戦犯」に実に過酷な処分を下した。    後白河天皇は平忠正の処刑を甥の清盛に,源為義の処刑を実子の義朝に命じたのである。   崇徳は讃岐へ流罪になる。    崇徳は讃岐で五部大乗経を写経し,都の寺に納めて欲しいと京へ送った。   ところが後白河は「呪詛が込められているのでは」と疑いこれを送り返したのである。

  崇徳は激怒し,舌の先を噛み切って血を出し,その血で経文のすべての巻に呪いの言葉を書きつけた。    「日本国の大魔縁となり,皇を取って民となし,民を皇となさん(日本の大魔王となって,天皇家を没落させ平民をこの国の王にしてやる)」 「この経を魔道に廻向する(この経を魔としての道<悪>に捧げる)」というものである。    崇徳は配流後八年にして讃岐で憤死する。   江戸時代以前の中世の人々は,崇徳上皇の呪いが,天皇家の政権を終わらせ武士の政権を誕生させた-----と信じていた。

  源氏が三代で絶えたとき,後鳥羽上皇が兵を挙げるが,敗れて隠岐に島流しになる。   初めて武士の手によって天皇が処罰されたのである。    ここに至って崇徳の呪いし実現した。   日本は天皇家が支配するという日本開闢以来の神聖なルールが踏みにじられたということは,崇徳はアマテラスと同等の霊威を持つ神になったということである。

  仏教の聖典に呪いの文句を書きつれば悪の力を発揮するということは本来はあり得ない。  経文を聖書に置き換えてみれば分かる。   これは,日本人が「聖典」よりも,タタリ神こそ「最高神」であると考えているからである。   だとすれば,タタリ神を丁重に祀れば,「魔道の神」が持つ膨大な「悪」のエネルギーを「正」に転化させることができるはずである。    これがすなわち怨霊鎮魂である。


E 武士はなぜ生まれたのか ―「差別」を生み出したケガレ忌避信仰

  武士が歴史の主役になったのには二つの理由がある。

  ひとつは平安貴族政治が危機管理にまったく欠ける体質を持っていたため世の中が乱れ,その結果「自分の生命・財産は自分で守る」という意識を持った階層が出現し,成長したということである。   これは経済学的・社会学的理由である。

  もうひとつの理由は「宗教上の理由」である。   簡単に言えば,日本人の心の中に「軍隊・兵士・武装」の類を極めて忌み嫌う「宗教的信念」があるからなのだ。   それは「ケガレ」という思想である。   「罪も禍(わざわい)も過(あやまち)も皆同じく穢で,悪霊の仕業と考える」というのがケガレ思想のエッセンスである。

  普通の日本人は家庭に自分専用の箸と茶碗を持っている。   ここに父と親孝行な娘がいたとして,父が娘に自分の箸をやるから明日から使いなさいと言ったら,娘はどう答えるか? 断固拒否して「キタナイ」から嫌だと言う筈である。   どんなに最新の消毒方法をもって消毒をしてあって科学的には一切の汚れはないと言っても答えは同じであろう。   われわれは,他人が長い間使った箸や茶碗に,その人独特の「垢」のようなものを感じている。   これがケガレなのである。   だからこそ,「あなたしか使えませんよ」という箸を提供することが「サービス」になるのである。   割箸を日本人が使うのは「ケガレ思想」の影響である。

  ケガレ思想は,怨霊信仰・言霊信仰と共に日本が生まれた時からあり,日本人の思想と行動に甚大な影響を与えている。

  「部落差別」はケガレ思想の産物である。   日本の部落差別には他国のそれに比べてさらに理不尽なところがある。   特に古代・中世において最も嫌われたケガレは「死のケガレ」つまり「死穢」であった。   この死穢を嫌うあまり,日常的に死穢に触れる職業は差別の対象となってしまった。  それは皮革や肉を取るために日常的に動物を殺さなければならない職業のことであった。   もう一つそういう職業があって,それは警察である。   警察も「罪」という死穢に次いで忌み嫌われているケガレに,日常的に触れざるを得ないうえ,昔の警察は処刑部門もあるので,「罪人の死穢」という「二大ケガレ」に触れざるを得なくなる。   軍隊も死穢というケガレに触れる職業である。

  こう考えてくると,平安時代の律令制府が,「なぜ公式の軍隊を持たなかったのか」,「なぜ死刑を廃止したのか」という,他の国には見られない大きな特徴を持っていたことも理解できるはずだ。

  司馬遼太郎氏の言葉:

  平和とは,まことにはかない概念である。
  単に戦争の対語にすぎず,“戦争のない状態”をさすだけのことで,天国や浄土のように高度な次元ではない。   あくまでも人間に属する。   平和を維持するためには,人脂のべとつくような手練手管が要る。
  平和維持にはしばしば犯罪まがいのおどしや,商人が利を逐うような懸命の奔走も要る。
  さらには複雑な方法や計算を積みかさねるために,奸悪の評判までとりかねないものである。   例として,徳川家康の豊臣家処分を思えばいい。   家康は徳川三百年の太平をひらいた。  が,家康は信長や秀吉にくらべて人気が薄い。   平和とはそういうものである。 《 『風塵抄』 司馬良太郎著  中央公論社 》

  軍隊という「平和を害する」ケガレさえ除去すれば,キレイな平和が実現する,というのはまったくの迷信である。

  今は平和な時代だから,軍隊が「自衛隊」という「令外の官」になっているし,若い世代は過度の潔癖症に走る。  外国人が「握ったボールペン」をいちいちアルコールで拭くようなマネをすれば,その人は当然怒る。  今の日本にとって急務なのは「耐不潔」教育である。


F 「平家滅亡」に見る日本民族の弱点

  平家は,武家としては珍しく経済的センスのある一族で,特に清盛が覇権を握ってからは大輪田泊(おおわだのとまり)(現在の神戸港)を改修して大々的に日宋貿易にも乗り出している。   したがって,その経済力は土地の生産によるものだけではない。   平家のリーダーたる清盛・重盛が早く死んだことも,政権滅亡の決定的な原因とはいえない。   なぜなら,平氏政権の後を継いだ源氏政権(鎌倉幕府)も,源氏一族は三代で絶えたが,政権そのものはその後も百年以上続いている。

  真の原因は平家に「グランド・デザイン」が無かったことによる。   平家には武家が天下を取った時に,どういう形で運営していくべきかについて何のプランもなかった。   そうであるがゆえに,清盛は藤原氏の真似をした。   高い官位を一門で独占し,自分の娘を天皇家に嫁がせて,生まれた子を次代の天皇にする。   もっとも清盛は太政大臣までは進んだが,関白にはなれなかった。   しかし平家がさらに続いていたら,この道を行ったことは間違いない。

  では,具体的にどうすればよかったのか?

  日本の国を動かしているのは武士である。   生産の主体も武士である。   ということは,この武士を政治の中枢に取り込み活用する新しい政治形態を作ればよかったのだ。   もちろん,それは院の警護に北面の武士を置くなどという部分的なものではなく,日本全体の統治機構の中に,武士を参加させるということだ。

  こういう政府さえ作れば,武士は必ずその政府を支持するから,武家政権は永続的なものになる。   武士しか軍事力を持っていないのだから,武士に支持された政権は,誰も倒すことができない。  では,ここで,「武士の,武士による,武士のための政権」を,誰かが作ろうと呼びかけたら,一体どういうことになるか?  まさに「山が動く」はずである。
  そして,そうなった。   日本史上最大の奇蹟ともいうべき出来事がまさに起こったのである。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 D中世動乱編―源氏勝利の奇蹟の謎」

発行:小学館(1998年)

@ 「流罪人」頼朝が「幕府を作った男」になった奇蹟

  奇蹟のタネの一つはライバル平家によって伊豆に流罪にされたことである。   平氏政権は武士による政権でありながら,武士のための政権ではなかった。  ただ藤原摂関政治を踏襲したにすぎなかった。   そのため武士の不満は未だ解決されていなかった。  しかし,清盛の義母池禅尼の嘆願により命拾いした頼朝は,伊豆に流されることで,真の武家政治の方法について考える機会を与えられたといえる。   徒手空拳の御曹司であった頼朝が,北条氏という,自分の手足となってくれる「腹心」ができたことも伊豆流罪がもたらした幸運である。

  頼朝が北条政子と恋仲になったのがきっかけとはいえ,義父北条時政の方も,その行動からみて,平氏政権の崩壊を予測していたからこそ頼朝の利用価値を見抜いてそれに賭けたと思われるのである。

  平清盛のために天皇になりそこなった「不平皇族」以仁王(もちひとおう)が,平家を倒すのは源氏という思い込みで「平家追討」の令旨を出す。  以仁王には「武家政権の成立」を願う心などカケラもなかった。   しかしこの令旨がかえって平家を刺戟し,その結果,「窮鼠猫を噛む」形で頼朝や義仲の挙兵を実現させることになる。   頼朝の場合は,関東武士たちの独立運動の大義名文という面が強くなった。   頼朝には自分の客観的な価値がかなりの程度分かっていたのである。   関東武士たちの本音は,「関東武士独立政権ができれば平家追討などはどうでもいい」のである。   頼朝は自らを「武家権益の保護者」という地位に置き,武士の利益になる政策を次々と打ち出すことによって支持を固め,むしろ個人的な願望であった平家追討をみごと実現させ,日本全土を武士政権の支配下に置いたのである。   義仲にはそいういう発想はなかったし,教えてくれるブレーンもいなかった。

  「源氏は御輿(みこし)」即ち看板にすぎないことを北条氏は知っていた。   だからこそ源氏は三代で「使い捨て」にされても,政権はずっと続くという中国やヨーロッパでは有り得ない事態も起ったのである。


A 日本最初の「アイドル」源義経と平泉金色堂の謎

  頼朝にとってのもう一つの幸運は義経という天才的軍事指揮官を得たことである。   義経は成長してからは奥州の藤原秀衡の庇護を受けたが,幼少期には秀吉のように悲惨な放浪生活を送り,その間に秀吉における蜂須賀小六のような人物とつきあい常識破りのゲリラ戦法の類の軍事を学んだに違いない。   彼が諸国を流浪したことは彼は単に「九郎曹司」と呼ばれ,その名に地名が冠せられていない点からも分かる。   義経がいなければ,日本は中央に天皇家があり,西国に平家,東国にに源氏,奥州に藤原氏という三国時代がかなり長期に存続したに違いない。

  しかし義経は頼朝の戦略をまったく理解していなかった。   この時点で頼朝は「独立国」の必須条件の一つ「軍事力」を持っているのみ,「徴税権」も「人事権(賞罰権)」もこれから朝廷から一つ一つ獲得していかなければならない。   その「取引」に有利な材料が三種の神器であった。   後白河法皇は法皇の権威で後鳥羽天皇を位につけたものの,後ろめたいものがある。   だから,頼朝は平家を討ち逃がしても三種の神器はどうしても取り戻して欲しかったし,義経ならそれができると思っていた。  が,義経にはそれには失敗した。

  さらに,義経には頼朝の了解なしに朝廷から官位を受けたことに頼朝が激怒したことの意味が理解できなかった。  独自の「人事権」を持たねば「武士の国」が朝廷から独立できないと考える頼朝にとって,義経の行為は面子まる潰れなのである。   この時点では,国の官職を与えることができるのは朝廷のみで,頼朝にはまだ与えるべき何物もない。   頼朝の推挙によって官職を受けるという,変則的な形でなんとか幕府の権威を維持しているのに,身内がルール違反をしたのである。   しかも義経にならって無断で官位をもらう武士が多数出たから,頼朝の怒りはすさまじかった。  そして彼等から御家人の資格を剥奪したのである。

  義経は頼朝に反旗を翻すにあたり,後白河法皇に強談判して,渋る法皇に「頼朝追討」の院宣を出させた。   しかし挙兵するも兵は集まらず,結局手勢の部下も失い奥州の藤原秀衡のもとへ亡命する。

  鎌倉の幕府側は義経の反乱を120%利用する。   幕府軍の進駐に怯えた法皇は慌てて「義経追討」の院宣を出すが,却って逆効果,それにつけこみ幕府側は朝廷から「謀反人の追捕」を名目とする「追捕使」を全国に置く権利を獲得する。   これがのちに発展して「守護」になる。   同時に,「地頭」の設置も認めさせた。   重要な点は「守護」「地頭」の任命権は幕府にあるということである。   それまでの地頭と違い,この時から武士たちは初めて国家公認の土地所有者となることができた。

  同時に,幕府側は朝廷から「兵粮米反別五升徴収権」をも獲得した。   これはすべての田地から一反当り五升の兵粮米を徴収する権利である。   一反の田から取れる米は標準では一石(=百升)だから,これは僅か5%の徴収権を得ただけであるが,肝心なことはこれも「国家公認の権利」だということである。

  藤原秀衡の死後,頼朝は後白河法皇に「謀反人義経を匿っている」泰衡追討の院宣を求めた。   頼朝の本音は「父祖代々の因縁の地である奥州を藤原氏から奪い,同時に御家人たちの結束を固めたい」というところにある。   法皇はその要請には応じず,直接泰衡に義経を討つよう命じた。   泰衡は衣川で義経を討つが,自身も部下に殺され,非業の死を遂げる。    鎌倉幕府軍は院宣を待たずに大軍を動かし,藤原氏を滅ぼす。    院宣が届けられたのは泰衡滅亡後であった。

  現在,平泉の金色堂には藤原三代のミイラとともに泰衡の首も置かれている。    世界の常識では,こういう敵方の施設や遺骸は破壊・焼却・遺棄されるか戦利品として持ち帰られるかのどちらかなのである。

  そういう金色堂とミイラが今に至るまで残されているのは鎌倉方が黙認したためで,これもやはり怨霊信仰なのである。    鎌倉側がのちのちまで,奥州征伐は大義名分のない私戦で,泰衡は罪もないのに殺されたということを自覚していた証拠が,鎌倉幕府の公式記録ともいうべき『吾妻鏡』にも書かれている。

  義経は衣川では死ななかったという「義経不死伝説」が根強く残ったのはなぜか。   鎌倉幕府にとっては義経は幕府の統制を乱した罪人であるから,供養はしても,神道式鎮魂はしなかった。    しかし大衆にとっては,そのことは理解できず,あくまで義経は平家追討の大功労者でありながら,無残な死を遂げた英雄であり,大怨霊になり得る存在であった。   判官贔屓が生れ,最終的には義経は死んでいないと思い込むことでタタリをなすことを防ぐ という怨霊信仰の「大衆化」が行われたのである。


B 鎌倉「幕府」という名前は江戸時代以降に名付けられたもの

  奥州征服の翌年の1190年,頼朝は初めて上洛し,後白河法皇と「サシ」でトップ会談を行う。   この時頼朝の希望していた征夷大将軍のポストはもらえず,右近衛大将及び権大納言の職に任命される。  しかし盛大な拝賀式の三日後,その職を返上してしまう。   のちの織田信長の行為とよく似ている。

  征夷大将軍になるのは2年後の1192年,後白河法皇の死後のことである。

  鎌倉時代に「幕府」はなかった。   のちに幕府と呼ばれることになる全国組織はあった。   当時の人は初めはそれを「鎌倉殿」と呼んだ。   頼朝個人の名前が,のちに政治機構全体を指すことになっていったのである。   しかし,その組織がいつ出来たのかという画然とした時期は決めがたい。   先ず仕事があって組織はその後で定まるからである。   政所・侍所・問注所という組織のうち,侍所と問注所は鎌倉幕府の独創であるが,「政所」は身分の高い人,具体的には從二位以上の人が持つことができる個人的なオフィス,現代風にいえば「官房」の意味である。   それ以下の身分の人の場合は「公文所」といわなければならない。   だから「鎌倉殿」の場合も1185年從二位に叙せられて以降「政所」になった。

  江戸時代の学者が「鎌倉時代の武家政治体制」の名称として「幕府」という言葉をひねり出さなければならなかったのは,頼朝が「坂東独立国の樹立」も 「京都進撃朝廷覆滅」 も,一切宣言していないからだ。   これが朝幕併存体制を生むことになり,朝廷の根本法である律令は明治維新まで生き続けることになる。   幕府政治は江戸時代に至って,武士の総棟梁である征夷大将軍が日本の政治の実務を全て行う,という形で完成する。    それでも征夷大将軍の任命権は名目上ながら朝廷にある。   もし平将門が天下を取っていたら,こうはならなかったはずだ。   幕府という存在は,いわば一応は合法的に認められている暴力団の「○○組」が日本全体を仕切っているという感覚に近い。

  将門も武士ではあるが,桓武天皇八世の孫であり,「準」皇族としての誇りがあった。   頼朝も先祖をたどれば清和天皇に行きつくが,もはや武士という階級が明確に固定してからの人間であり,自らの出自については強い劣等感を持っていたはずだ。   晩年の頼朝は,むしろ朝廷との協調路線を歩もうとした。   実現はしなかったけれども,後鳥羽天皇に自分の長女である大姫を嫁がせようとしたのもその表れである。   これでは藤原摂関家や清盛と同じことになる。

  頼朝の幕府には未だ果たすべき課題が残っていた。   武士の土地所有権の確立とそこから上がる収益を無闇に収奪されないことである。    完全な所有権を認められたのは頼朝の死後の1223年(貞応2年)に始まった大田文(おおたぶみ)―土地台帳―の作成時期といえる。   それはこの2年前の承久(じょうきゅう)の乱で朝廷側(後鳥羽上皇)が破れて幕府に屈服したのちである。

  従って東国武士団から見れば晩年の頼朝は「日和った奴」ということになる。   1193年(建久4年)征夷大将軍になった頼朝が富士の巻狩りという一大ページェントを催したとき,曽我十郎,五郎の兄弟が頼朝の側近工藤祐経を討ち取り,頼朝の陣屋にも討ち入った。   これは古来から日本三大仇討の一つとされているが,作家永井路子氏によると,これは有力御家人の岡崎義実,大庭影義らが,曽我兄弟を使って頼朝や北条時政を討ち,政権奪取を狙ったクーデターであった。    頼朝亡き後の棟梁には弟の範ョを担ごうとしたらしい。   事件後岡崎・大庭は出家し,範ョは反逆の疑いに対して身の証(あかし)をたてるとして起請文を書いている。   その後範ョは伊豆へ流罪となり歴史から消える。  おそらく殺されたのであろう。


C 悲劇の将軍たち

  大姫入内運動のため,頼朝は朝廷側のリーダーで盟友の関白九条(藤原)兼実(かねざね)と袂を分ち,後白河法皇の寵妃丹後局に接近する。   兼実も娘を後鳥羽天皇に入内させていたからである。  しかし丹後局と稀代の策士,源(土御門)通親(みちちか)のラインに取り入ったことは完全な失敗で,頼朝は手玉にとられる。   丹後局―通親ラインは荘園の所有権などの問題で頼朝から譲歩を勝ち取り,九条一派の追い出しにとりかかる。   そして,兼実は関白を罷免され,娘で中宮の任子は宮中から追放され,弟の慈円は天台座主の座から引きずりおろされた。   その間,通親はちゃっかり自分の養女を入内させ,後鳥羽との間に男子を生ませていた。   のちの土御門天皇である。   頼朝は宮廷内のシンパを失った上に,大姫を病気で失う。

    ※ 兼実はこの時代の根本史料になっている日記『玉葉』の著者,慈円は歴史書『愚管抄』の著者である。

  1199年(正治元年)頼朝は失意の中,「落馬」という武士にあるまじき事故がもとで急死する。   しかし公式記録『吾妻鏡』には,その死の前後の記録がすっぽり抜け落ちている。    落馬事故のことは別のところに少し書かれているのみである。   何か書けない事情があった,恐らく暗殺されたのであろう。

  頼朝の急死によって18歳の長男頼家が鎌倉殿の後継者となった。   しかしこの二代目はプライドのみ高く,自分を取り巻く環境の厳しさが分っていなかった。   自分が御輿に過ぎないことの自覚のない頼家は乳母の一族比企氏や父の代からの側近梶原景時らを重用し,有力御家人(和田義盛・三浦義澄・北条時政・頼朝のブレーンであった大江広元など)の意見をしばしば無視した。   そのため,独裁権を取り上げられ,政治は御家人の連合で行われることになった。   三年が経ち,『吾妻鏡』によれば1203年(建仁3年)比企能員(よしかず)の「クーデター」が発覚する。   しかしこれは北条一族が,比企能員(よしかず)の娘が頼家との間に設けた一幡の存在が邪魔で,比企能員(よしかず)を謀殺し,一族が反抗したのを幸い,一幡ごと葬ってしまったのが真相であろう。   その翌年頼家は修善寺に軟禁されたまま死んだ。   『吾妻鏡』は頼家の死についても沈黙しているが,『愚管抄』には頼家の生々しい殺され方が書かれている。

  頼家が伊豆に幽閉された後,1203年(建仁3年)9月将軍は弟の千幡が継いだ。   千幡は元服し,実朝と名乗った。   実朝の妻には京の公家坊門信清の娘(西八条禅尼)が選ばれた。   これまでは関東武士の有力者の娘が選ばれるのが常であったが,第二の比企能員を生むことを恐れて,中立的な公家の子女が選ばれたのだが,これは大失敗であった。   実朝が妻とその実家を通じて,京の文化に強い親しみを持つようになったのである。

  実朝は和歌には秀でているが,歌を詠むばかりで政治家としての力はなく,死の運命を予感していた悲劇の将軍というイメージを持たれているが,これは正しくない。   武芸はまったく駄目であったようであるが,優秀な歌人であった。  鎌倉時代の前までは,公家にはコトダマ信仰があり,彼等としては「歌を詠み,歌集を編む」ことによって政治責任を果たしている「つもり」なのである。   実朝のやろうとしたことは,結局「歌による政治参加」,つまり鎌倉武士団が最も嫌悪しているコトダマイズムへの回帰であった。   1205年(元久2年)後鳥羽上皇から『新古今和歌集』が実朝のもとへ贈られている。   これは,実朝の「反革命路線」を帝王が応援し承認した,ということだ。   御家人たちはこの裏切りばかりは絶対に許せぬと思ったはずである。

  1219年(承久元年)1月27日,鎌倉の鶴岡八幡宮の境内で,右大臣拝命の儀式を終えた実朝は,顔を隠した三人の男によって,側近の源仲章とともに斬殺される。   犯人の一人は公暁(頼家の遺児)と名乗り父の敵を討ったと叫んだと史書に書かれている。    その時周囲には護衛の兵はいなくて,公暁の顔を知る者は誰もいなかった。    公暁は三浦義村の屋敷に逃げ込もうとして追っ手に討たれてしまう。   まさにケネディを「殺した」オズワルドがすぐにルビーに殺されたのとよく似ている。   本当に公暁が犯人なのかも疑わしい。

  事件の黒幕については二つ説がある。   通説の北条義時黒幕説(これは愚管抄の説),三浦義村黒幕説(これは作家永井路子氏の説)であるが,どちらにも疑問点が残る。

  最もあり得る黒幕,犯人は有力御家人一族ではなく,東国武士団の総意によるものと考えるのが一番妥当である。    場所が鶴岡八幡宮であるのも意味がある。   鶴岡八幡宮は頼朝が鎌倉に根拠地を定めた時,既に源氏の氏神として祀られていたのを,もう一度京都の岩清水八幡宮から勧請(分霊)しなおして祀ったものである。   八幡神は応神天皇であるところから,この当時は皇室の祖先神とされ,岩清水八幡宮は宇佐八幡宮などと共に皇室の宗廟と呼ばれていた。   頼朝はしばしば重要な政務をこの神殿の中で取り扱い,方針を発表したという。   つまり八幡宮は「頼朝の政治」の象徴であり,「公武合体」 「公武融和」の象徴でもあるのだ。

  公武合体の道を進む将軍とその側近を神聖な神殿を汚すような形で殺すということは,公武合体路線を断固拒否するという鎌倉武士団の総意を示している。   しかも参列の公家の目の前で殺したのは「見せしめ」であり 「おどし」であろう。

    【 読者注::楠木誠一郎著の推理小説『実朝を殺した男』では,頼朝と実朝の死の黒幕は京の朝廷であるとしている。   土御門通親=計画立案者,後鳥羽上皇=後援者,大江広元=計画推進委員長という構図である。 】


D 承久(じょうきゅう)の乱は革命であった

  実朝も公暁も死んで,源氏の直系は絶えた。   これより先,北条政子は実朝に実子がいないのを案じ,万一の場合,京から親王を将軍として派遣してくれるよう依頼していた。    当時の朝廷は,上皇の幼馴染で太政大臣藤原頼実の妻であった卿二位(藤原兼子)が実力者であった。   政子もこの頃は二位の位に上がっており,出家していたので尼二位と呼ばれた。   この朝廷の卿二位と幕府の尼二位のトップ会談で,親王将軍のことは決定した。

  当然幕府は実朝の死後,親王将軍の派遣を京へ依頼した。    しかし,今度は後鳥羽上皇がこれを拒否した。   先の合意は,上皇の「忠臣」実朝が補佐することが前提になっていた。    実朝が補佐することにより,上皇の「鎌倉支配」という計画は完成する。    理想を言えば,実朝が早く引退し,後鳥羽の子である親王に将軍位を譲り,幕閣の中枢は源仲章ら後鳥羽の腹心で固めることが望ましい。   ところが実朝と仲章の暗殺ですべてが崩壊したのである。

  どうしても傀儡の将軍が要る鎌倉は京に軍勢を派遣して圧力をかけたので,上皇は親王の代りとして九条道家の子の三寅を派遣することにした。   三寅の母は頼朝の姪である。    三寅はまだ赤ん坊であったから,政務は政子がみることになった。

  この時,上皇は「摂津国の長江・倉橋という二つの荘園について,その地頭を解任せよ」という要求を突きつけていた。   実はこれは幕府の存亡にかかわる重大事であった。    東日本は始めから武士の土地であることが多いのに反し,西日本は上皇や天皇或いは貴族や寺社の開発した荘園が圧倒的に多く,そこへ後から侵入する形で地頭が任命されたから,トラブルは絶えなかったはずだ。   だから,上皇側の要求は幕府の原則にかかわる問題ゆえに,幕府は全面拒否した。

  後鳥羽は歌人でありながら武芸の達人で,血の気の多い人であった。   また菊を好んだ。   皇室の紋が菊に定着したのは,この上皇からである。    上皇はついに倒幕を決意する。

  1221年(承久3年)5月,後鳥羽は北条義時追討の院宣を下し,近畿・西国の武士に檄を飛ばした。   有力御家人の一つ三浦一族の胤義は京に長くいたこともあって上皇に味方した。   唯一これに応じなかった京都守護伊賀光季はただちに攻め滅ぼされた。   承久の乱である。   朝廷から「賊」つまり「朝敵」と決めつけられて,御家人たちは動揺する。   ここで尼将軍政子が,頼朝の恩に報いるのは今であるという大演説をぶち,流れを変えた。

  義時は先手を打って長男の泰時を総司令官とする大軍を京へ進め,戦いに勝利する。   これより先,後鳥羽は倒幕に消極的な土御門天皇を退位させ,その弟の順徳を位に付け,更に戦いが近づくと,順徳を退位させ上皇とし,その子4歳の懐成(かねなり)親王を天皇に立てていた。

  戦後幕府は後鳥羽の兄で一度も皇位に就けず出家していた行助法親王を還俗させて,いきなり上皇の位に据えた。   後高倉院で,天皇経験のない上皇など,この国始まって以来のことである。   次ぎに後高倉院の子が天皇に立てられた。   後堀河天皇である。

  次いで幕府は,後鳥羽を隠岐へ,順徳を佐渡へ,土御門を土佐へ配流した。  懐成親王は「廃帝」又は「九条廃帝」と呼ばれ,歴史の表舞台から消された。   仲恭天皇という諡号は明治になって贈られたものである。   後鳥羽は戦いの旗色が悪くなると側近の公家に責任を被せたため,五人の公家が死刑になり,朝廷に味方した武士はほとんど死刑になった。   これはやはり一種の「革命」であった。   しかし,これが西洋だったら三上皇は死刑,天皇家は滅亡であろう。

  当時の公家社会ではこれは崇徳上皇の呪いが実現したと,受け取られていた。   なお「後鳥羽」とは死後贈られた諡号であるが,最初の諡号は「顕徳」であった。   しかしタタリが噂されたために,(「顕徳」では鎮魂の効果がないとみなされて)死後三年経って「後鳥羽」と改められたのである。


E 北条泰時と御成敗式目

  大岡越前守忠相は旗本から大名に出世するが,越前(福井県)とは何の関係もない。   江戸時代の越前は,大野藩,勝山藩,鯖江藩,福井藩といった小藩に分かれ,「越前守」などという「役職」が成立する余地がない。  江戸時代の「―守」という「律令上の役職名」は,実体を伴わない名誉職にすぎないわけだが,いつからこんなことになったのか?

  こういう習慣は戦国末期から江戸初期にかけた定着したのだが,そのおおもとは承久の乱の直後,北条泰時の時代にある。   泰時はあくまで形の上では朝廷(律令体制)を尊重したからこそ,こういう習慣が江戸時代まで残った。   鎌倉時代のこの時点では,天皇家および律令体制そのものが,日本人にとって神聖不可侵なものであり,それを抹殺することを正当化する,中国や西洋のような「革命理論」がなかったからである。

  泰時は,西欧流に言えば「擁立した皇帝も無視し,その形式的な認証も署名もない基本法」を「発布」した。   それがいわゆる関東御成敗式目(貞永式目)と呼ばれるものである。   御成敗式目は実体としては,「憲法」というよりもむしろ「土地法・相続法・訴訟法」である。   実際にこの式目は,承久の乱の直後「進駐軍」として三年間京の六波羅探題にいた泰時が,殺到する様々な訴訟をこなした経験が盛り込まれている。

  律令は中国から輸入した法律体系である。   律令の基本は「公地公民」なのに,日本は奈良時代の「懇田永年私財法」によって,その原則を崩してしまっている。   実態に合わなくなった律令に代る法律がない。  だから公正な裁判もあり得ないことになる。

  さらに,幕府が承久の乱に勝ったことで,その実効的支配が西国(西日本)にも広がった。   西国は天皇家,摂関家や有力寺社が開発した荘園が多い。   そこへ東国武士が「新補地頭」として乗り込んで行った。   「進駐軍」と,名門意識を持ち,武士たちを「虫ケラ」のように思っている貴族層との間に,どれほど軋轢が生じたか,想像に難くない。

  しかし泰時は決して「法の権化」ではなかった。   大岡裁きで知られる「三方一両損」というフィクションのキーワードは三者の納得である。   日本人は法による解決がすべてだとは思っていない。   「納得」して「丸く収まる」ことが日本人の理想なのである。   泰時の事跡として伝えられるエピソードは,それが事実でないにしても,そういう「情のある人だ」と思われていたことは事実である。   泰時は当時も後世においても,「敵方」の公家たちに大変人気があった。   泰時の思想上の師は華厳宗の高僧明恵(みょうえ)上人である。  

  明恵は戒律を復興し,修行を重んじた。   「人はあるべきやう(有るべき様)はと云(いふ),七文字をたもつべき也」は明恵の遺訓として伝えられている言葉である。   各人がその個性に対応した自然な修行方法(つまり,「あるべきよう」な方法)で悟りを求めよ,という意味だったらしい。   しかし,この明恵の言葉は仏教の枠を越えて,いわば「日本自然教」の教義として一般には受け取られていくのである。

  朝廷と幕府,摂政関白と執権,国司と地頭,現代では軍隊を認めない憲法のもとに,自衛隊(軍隊)がある,バラバラの組織がバラバラの政治をやっている。   これが日本人にとっては,「これでいいのだ」であり,「自然」なのである。

  もし,権力者がこのような日本の仕組みを「不合理」(西洋流の不自然)だと感じ,それを積極的に合理的なものに変えようとしたら,どうなるか?

  その実例が織田信長だ。   信長は「大行革」をやろうとした。   最初のうち庶民は拍手喝采した。  しかし,信長が,「日本人離れ」した西洋的論理で「不自然(不合理)」を糾していけばいくほど,人々は信長についていけなくなる。    挙句の果ては「本能寺」だ。   あれは決して偶発的に起こった事件ではない。   織田信長・井伊直弼・大久保利通・源頼朝・足利義満・後鳥羽上皇・後醍醐天皇,,,日本人はこういう政治家を畳の上では死なせないのである。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 E中世神風編―鎌倉仏教と元寇の謎」

発行:小学館(1998年)

@ 鎌倉以前の仏教

  釈迦が始めた仏教とは「解脱」を求めること,解脱とは輪廻から脱することを意味する。  古代インドの思想では,人間(生物)はその生涯の終わりに「死ぬ」のではなく,六道を永遠に巡る(輪廻する)と考えられていた。  六道とは地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上という六つの世界である。  「永遠の生」を古代インド人は「苦しみ」ととらえた。  そして,その苦しみから脱する(解脱する)方法を求めた。  釈迦は初め苦行によって,それを求めようとしたが,その考え方が間違っていることに気づき,菩提樹の木下で悟りを開いた。

  釈迦によれば,生老病死という四苦などの苦が生じるのは,もともと万物は無常であるのに,これを永遠・絶対のものと錯覚するからである。  そういう誤解・錯覚への執着を捨てた状態,欲望の燃えさかる炎が消えた状態を涅槃(nirvana=サンスクリット語で"nir"(打消語)+"va"(吹く)+"na"(過去受動分詞を作る接尾語)であり、「無風、吹かれないこと」あるいは「吹き消された状態」を意味する。これを「火が消えた状態」と意訳することも多い。) この世のすべての事物・現象は,自我を含めて,「空(実体がないこと)」であり,むしろ無実体なものこそ物質的存在である。  般若心経の「色即是空。空即是色」はこのことを言う。  しかし釈迦の原始仏教では解脱の具体的な方法についてはほとんど教えてくれていない。  きわめて不親切なのである。  釈迦の仏教は,自力による自己の解脱を目指しているが,他人の救済は目的ではない。   釈迦の方法は家を捨て社会を捨てなければ「自己を救済」することはできず,しかも,それをしても広く他人を救済することはできない。

[大乗仏教]

  それはおかしい,ということで大乗仏教が生まれた。  解脱はすばらしいが,ただの人間にそれを望むべくもないとすれば,いっそ解脱した人(=如来)を拝むことにすればどうか,ということが大乗仏教の出発であった。   釈迦にしてみれば死後“神”として拝まれることなど思いもよらなかったであろう。   大乗はサンスクリット語ではマハー・ヤーナ《大きな乗り物》という。   「小乗」は大乗側からの悪口であるから現在では部派仏教(上座部仏教) という。


    原始仏教    大乗仏教
 目的個人の救済大衆の救済
 手段自力による修行如来への信仰
 経典法句経,阿含経など釈迦自身の言葉法華経,阿弥陀経など,後世作られた経

  部派仏教からの「大乗」への批判を述べれば,「自分自身をも救うことができない者が,どうして他人を救うことができようか。  我々にできることは,家も捨て家族も捨て一切のしがらみを捨てて修行し,一歩でも釈迦の境地に近付くことしかない」 ということになるだろう。  厳しい修行とは決して苦行を意味しない。  それはオウム的曲解で,これは自己をみつめる厳しさという意味である。
  菩薩とはそういう批判に答えるために考え出された概念といってもよい。  本来,菩薩とは如来になる前の釈迦のことを言った。  ところが,大乗仏教が発展する中で,菩薩とは自ら修行しつつ悟りを求めつつも,衆生(大衆)をも救う存在として,いわば信仰の対象として理想化された。

  初期の仏教徒が拝んだのは,釈迦の「お骨(火葬骨)」であり,これを仏舎利という。  仏舎利を祀った塔がストゥーパ〈漢語で卒塔婆〉と呼ばれる。 インドのストゥーパは古墳のような形をしているが,それが中国・日本では三重塔や五重塔になり,ビルマではパゴダになった。  仏像が出現するのは紀元一世紀頃の現・パキスタンのガンダーラ地方で,そこでギリシアの神像彫刻の技法で,今日でいう「仏像」が初めて造られるようになった。
  日本人は伝統的に「仏教とは怨霊鎮魂の方法論である」と思っている。  しかし仏教の考え方から言えば,怨霊などはあり得ない。  仏教では悪念(恨み)を持った人間は犬や虫に生まれ変わるか,修羅道や地獄に(輪廻転生)するはずである。 そもそも仏教では「霊」とか「魂」という存在を認めていない。  聖徳太子は「話し合いさえすればすべて物事はうまくいく」,つまり神仏抜きの話し合いでもうまのいくと言っているのだからこれは仏教とは全然別物である。  「和」の思想は仏教の影響ではない。

  僧侶が妻子を持っているのは世界で日本だけである。  そして,現在に至るまで,「僧侶が妻子を持つ」ことを教義の上で正当化したのは親鸞の浄土真宗しかない。  すべての宗派の僧侶が結婚できるようになったのは,明治政府が「してよい」と許可したからで,理論的追求の結果でなったのではなく,いわば 「なしくずし」 にそうなったのである。  釈迦以来二千年の伝統的な「女犯戒」という戒律がいつの間にか,さしたる抵抗もなく,皆の話し合い (まさに和の体制) で変えられてしまった。
仏教がなぜここまで変容したのか。  そのきっかけをつくったのは,平安仏教天台宗の開祖最澄である。

[方便]

  大乗仏教が「本当は釈迦の言わなかったこと」を「釈迦が言ったこと」のように主張することが出来たのは,そのことを正当化する理論があったからである。  その理論を「方便(ウパーヤ・カウシャリア)」 という。   大乗仏教の創始者たちが,「救済」を主体にした仏教に切り替えようとしたとき,釈迦は歴史的にはそんなことは言わなかったと非難された時,こう応答した。
「それは仏教を人類に説く最初の試みであったゆえに,相手のレベルに合わせてとりあえず簡単に教えを説いた。  つまり,理解させるための方便(巧みな手段)の一環なのである。  本当に釈迦の言いたかった最終の真理は,われわれ(大乗仏教)の教えなのだ」   こう言ってしまえば,それまでの仏教(小乗仏教)との矛盾が相手を否定しない形で,きれいに解消されてしまう。  まさに天才的発想である。   そして釈迦の実体についても,「ゴータマ・シッダルタとしてこの世に現われ悟りを開いた釈迦は,実は真実の姿ではない。  釈迦は既に久遠の昔から成仏して(悟りを開いて)いたのだ。  ゴータマは,方便としての初歩の教えを説くために現われた仮の姿である」
  この永遠の世界にいる釈迦を「久遠実成の釈迦」という。  ここでは,釈迦はキリスト教的絶対神に近いものになっている。  だからこそ,その「神」としての力で人を救済できるのだ。
  このような思想を説いた,大乗仏教の頂点とも言える経典を 「法華経(妙法蓮華経)」 という。

[最澄]

  中国における天台宗では法華経は根本聖典である。  最澄は唐で天台宗の奥義の他に,大乗の戒律を受け,禅も学び,密教も身につけた。   最澄の業績は比叡山を円・戒・禅・密の四宗兼学の道場にしたことである。   これを,現代の大学に見立てると,まず比叡山に仏教総合大学を創立し,法華学部,戒律学部,禅学部,密教学部の四学部を設けた,と考えればいい。   そして,日蓮,親鸞,道元といった鎌倉新仏教の担い手は,すべてこの「大学」で基礎を学んだのである。

  最澄以前は,大乗仏教の僧であっても,僧である以上は「小乗戒 (最澄の見方によるもの)」を守るべきだとされていた。  イスラム教は「戒律宗教」であって,たとえば豚の肉を食べるなという戒律は絶対に守らなければならない。  戒律とは「神が下した指示」であり,それを守ることが「神を信じる」ことだからだ。  ところが日本人は「信じる心さえあれば細かいルールは無視してもよい」という考え方をする。   聖武天皇の代に鑑真和上が生命の危険を冒して日本へ来たのは戒律を伝えるためであった。  ところが最澄は大乗仏教にはそれにふさわしい独自の「大乗戒」があってしかるべきだとして,盛んにそれを主張した。 小乗戒には古代インドの風土に合った習慣的な戒律で,中国や日本では全く無意味なものもある。  宿食戒は今日貰った食べ物は明日まで貯えておいてはいけないという戒律であるが,これは熱帯インドでは意味があるが日本ならむしろ貯えておいて人に施した方がいい。
  大乗戒自体は最澄の独創ではない。  在家の信者に重んじられた戒律として既にあった。  最澄の独創は僧の戒律も大乗戒にすべきだ,と主張し実行したところにある。  比叡山に大乗戒壇を作ることが許されたのは彼の死後であるが,その後は大乗戒壇こそが日本仏教の代表的な戒壇となっていく。  ただ最澄は小乗戒は捨てても「女犯」まで認めたわけではないが,少なくとも「細かなルールよりも実質や中味(すなわち心)が大切だ」というレールを敷いたわけで,それが「戒律なんて必要ない。  必要なのは信心だ」という形に発展していくことは容易に理解できるだろう。  だからこそ,親鸞は最澄の「弟子」なのである。
  最澄と空海という二人の天才はよく対比比較されるが,鎌倉新仏教の開祖の中に最澄の影響を受けなかった者はいない。  一方,空海の真言宗は,あまりに彼が偉大であったために,ほぼそこで終わってしまった。  空海自身の存在がいかに巨大であったかということは,彼が死後「神」になってしまったことでも分かる。


A 浄土門の聖者たち

[浄土教]

  平安時代後期から,新たな仏教が発展し,文字通り一世を風靡することになる。  それが浄土教である。  これは,修行による悟り(解脱)より,浄土への往生を重視する仏教の一派のことである。
  われわれの住んでいる世界は六道に分かれる。  地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上で,人間は前世の行為によってこの六道を輪廻する。  天上界も六道の一つに過ぎず,四苦(生老病死)は容赦なく天上界の住人を襲う。  六道輪廻の苦しみ,四苦八苦を逃れるためには,悟りを開いてこの輪廻のサイクルから解脱するしかない。  仏とは解脱した者なのだから,仏の住処は六道とは別のところにあるはずだ。   それが浄土(仏のいる浄められた世界)なのである。   浄土は解脱した仏の数だけあることになる。  薬師如来の浄土を瑠璃光浄土といい,阿弥陀如来の浄土を極楽浄土という
  阿弥陀如来は人々を救うために四十八の誓願を立てたが,その中の十八番目の誓願に「阿弥陀仏を信じる者は,その国(浄土)に生まれ変わるために十回『念仏』すればよい」というのがある。   他の如来(仏)はこんなことは言っていない。  ならば「浄土へ往生したいのなら,阿弥陀如来の極楽浄土へ」ということに当然なるだろう。   ちなみに四十八の誓願のように仏が人々を救うために立てた誓願のことを本願という。
  大乗仏教が,個人の修行から大衆の救済に重点を移し変えた時,法華経の「創作」によって理論的裏付けがされる中,救済の中心となるべき理想的な仏として,阿弥陀如来が考え出されたのであろう。
  阿弥陀如来は原語でアミターユスという。  阿弥陀というのは「アミタ(無限の意)」の音訳で,意味から訳せば無量寿(無限の命)如来となる。  その功徳が説かれるのは,大無量寿経,観無量寿経,阿弥陀経の三経典で,これを特に浄土三部経という。

  浄土信仰が盛んになったのは末法思想の影響がある。  日本では1052年(永承七年)が釈迦入滅より2001年後で,この年から末法<正法→像法→末法>の世に入ると信じられていた。   末法の世には,仏教は名のみ残って実質は何もないということになる。  この時期は藤原摂関政治の最盛期でもあった。   人間,現世で頂点を極めると,今度は来世のことが心配になる。   地獄には落ちたくないが,正法を伝える僧はいないとなれば,どうすればよいか。  そういう次代の要求に応えたのが,個人の修行や布施,持戒などよりも阿弥陀を信仰し極楽浄土へ往生することを第一義とする教え――すなわち浄土教の聖者たちであった。
  空也は「南無阿弥陀仏」と阿弥陀の名を称える「称名念仏」を説き,源信は善根を積むことと「観想念仏」〈現代風に言えばイメージ・トレーニング〉を説いた。  宇治の平等院鳳凰堂は観想念仏のために貴族によって建てられたものである。

[法然−浄土宗開祖]

  ここで時代は鎌倉時代に入る。  浄土宗の開祖法然は阿弥陀信仰のみが正しいとし,それ以外の方法を一切排除した。  阿弥陀如来の絶対的な力(これを特に他力という)を信じてそれにすがって,往生を遂げよという。  法然は長年比叡山に篭もって部仏教学を極めた「当代一流の学者」である。  その法然が「修行」の果てにたどり着いた結論は,阿弥陀の本願を信じ修行を捨て,「一文不知の愚鈍の身」になることであった。
  法然の教えは爆発的に流行したが,仏教界からの強い反発も起きた。 また法然の弟子の中には,自分の都合のよいうに拡大解釈する者も出てきた。  「善根を積まなくていい」ならまだいいが,中には「積極的に悪行を行っても念仏さえすれば救われる」と思い込み,積極的に悪いことをする者が出てきた。  法然は危機感を抱き,1204年「七箇条制戒」を与えている。  法然の路線を突きつめると「捨戒」(戒律を捨てること)に至るが,年齢のこともあって法然はそこまではできなかった。

[親鸞−忘れられた思想家]

  法然の教えをラディカルに実践したのが彼の40歳年下の弟子親鸞である。  彼は僧の身でありながら,初めて公式に妻帯した。  当時僧侶が「隠し妻」を持つことは当たり前のことになりつつあったが,それでも建前は「僧は不犯(ふぼん)」なのである。 歎異抄(たんにしょう)というのは,親鸞の晩年の弟子唯円が,親鸞に宗教上の疑問をぶつけて得た師の回答を忠実に記録したものである。   そこに記載されている有名なことば「善人なおもて往生を遂ぐ,況や悪人をや」ほど逆説に満ちたものはない。

【注:これは法然の語った言葉という学説が有力である】

  ここでの「善人」とは自力修行で仏の世界に到達できると信じている人のことである。  皮肉な言い方をすれば,「人間には絶対の善を行う能力があると信じている人」である。  しんし,悪人(および普通の人)にはそんな能力も自負もない。  それゆえに自力ではなく阿弥陀如来の力(他力)によって極楽往生しようとする。  それならば,阿弥陀の力は絶対的なものだから必ず往生できるはずだ。  善人は自分の力や実績を頼みにして(自力修行で)往生しようとするから極めて不確実なのである。

  「阿弥陀への信心」を具体的に表わす手段が念仏(称名念仏),つまり「南無阿弥陀仏」と唱えることである。  これは「修行」でもないし「善行」でもない。  念仏は両親の死後の追善供養のためにするものでもない。  親鸞にとって念仏とはあくまで個人と阿弥陀如来との関係についてのものである。  すべて如来の前では平等である。  したがって「親鸞は弟子一人も持たず候ふ」,つまり教団すら否定しているのである。

  親鸞の教え(浄土真宗)は彼の在世中は東国で流行はしたが,その後人気を失い,戦国時代になって親鸞の子孫蓮如によって大々的に復興されるまでは,一般民衆からはほとんど相手にされなかった。  室町時代から戦後時代にかけて大流行したのは同じ浄土信仰である一遍の「時宗」である。  時宗の特徴の一つは踊念仏である。
  人間は同じ信仰を持つ仲間同士集まって何かをしたいという欲望がある。  父母が死んだら葬式をきちんとして欲しいという欲望もある。  真面目な親鸞はそういうことを全て否定した。  一般の信者はそれではついていけないのである。

  これを改良したのが親鸞の子孫の覚如であり本願寺中興の祖蓮如である。  天才的なオーガナイザーであり布教の天才でもあった蓮如のやったこと,それは阿弥陀信仰の家元化(世襲制)である。  これは親鸞の教えとは矛盾する。  だから歎異抄は宗門内では思想堅固な学僧しか読むことができなかった「禁書」であった。  広く一般大衆に読まれるようになったのは明治時代以後である。  大宗教の確立に必要な要素は開祖と布教者という二面性である。  親鸞は明治に入って,宗門に無関係な学者が親鸞の実在を疑ったほど長く忘れられた思想家だったのである。

【注: 蓮如の業績は「逆説の日本史 G」に詳述する】


B 道元と日蓮

  こういう思想ばかりになると,当然そのアンチテーゼとして,仏教の本来の姿は自力修行(聖道門)であるという考えも起こってくる。  それが禅である。
  禅の発想の一部は今日日本人の血肉と化している。  日常生活の様々な雑事,たとえば炊事洗濯掃除もすべて修行である,という思想である。  これは古代社会,特にアジア全体からみると極めて珍しい発想なのである。  古代社会の常識は「貴人は,自分のことも召使にやらせる」ことである。  日本の学校にある「掃除当番」は世界の常識ではない。  「掃除も教育の一環」という発想がないからである。  アジアの常識を破壊したのは禅宗であるが,それを「民族の思想」としたのはむしろ日本人だろう。

[栄西]

  禅そのものはすでに平安時代に伝えられ比叡山で学ぶこともできた。  しかし禅宗という思想を初めて一貫した形で日本に伝えたのは栄西だった。  栄西も法然と同じく比叡山で天台宗を学んだが,それに飽きた足らず二度も宋へ渡って臨済禅を学んだ。  政治的能力のあった栄西は,旧仏教が朝廷の権威に依存していることを見抜いた栄西は,新興の鎌倉政権に接近しその「国教」になることを目指し成功する。  そして一度は追われた京へ「捲土重来」する。  室町時代に確定した京五山(天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五山,南禅寺は五山の上に位する),鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)はすべて臨済宗の寺である。

[道元]

  栄西の孫弟子にあたる道元はそれに不満を持ち入宗し大日山天童景徳禅寺の天童如浄に学ぶ。  如浄は「身心脱落」こそ禅の根本,仏教の真髄だと教えた。  「身心脱落」とは,精神や身体へのこだわりから離れた境地のことで,それを達成するための唯一の方法が「只管打坐」(しかんたざ)(ひたすらに坐禅すること)なのである。  自力修行の中でも坐禅こそが大切で,他の修行も礼拝・念仏という「信仰」も必要ないという。   坐禅こそ釈迦が初めて悟りを開いた時に行った方法であるからだ。   禅宗の開祖インドの僧侶達磨(ボーディダルマ)は,六世紀頃の実在の人物でシルクロードを経て唐に来て禅を広めた。  達磨は釈迦より二十八代目の祖師であるとされている。

  禅には「不立文字」(ふりゅうもんじ)という思想がある。  真理は決して書物では完全に伝えることができないという思想である。  道元は正しい悟りの内容を知らしめるために『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)を記した。  しかし道元も思想の概略は理解できても悟ることは無理だと考えていたに違いない。  真理を得るには,優れた師によって直接教えを受けること(面授)である。  以心伝心はもともと禅の言葉である。  道元は自分の仏教を正法と称した。  曹洞宗(そうとうしゅう)は後の名称である。

  中国にその源流を持ち,最澄が強く主張した思想に「如来蔵」(仏性)がある。  すべての人間にはもともと仏になる素質があるという。  これがさらに発展したのが天台宗における本覚論である。  人間はあるがままの姿で既に悟りを開いている。  それどころか草も木も成仏(仏となっている)しているというのである。  比叡山天台宗では,この本覚思想こそ「正しい仏教の在り方」として教えられていた。  法然,親鸞,栄西,道元そして日蓮はすべて比叡山「大学」の出身である。  彼等は本覚思想を克服することを意識しているといっていい。

  道元の仏教は「只管打坐」こそが正しい方法とするから寺院は坐禅道場であるべきで,その他の施設は要らないとする。  禅宗が仏像を他宗に比べれば重んじないのは事実である。  このような道元の態度は比叡山から強く非難され弾圧された。  「おまえたちの主張は極端すぎる」というのである。  道元は信者でパトロンの波多野氏という越前の豪族が援助してくれたので,本拠を越前の山奥に移した。  はじめ大仏寺と称したが,後に寺号を「永平」と改めた。  これが曹洞宗の大本山永平寺である。
道元の思想は「出家至上主義」でもある。  女人の救済に対しても冷ややかである。そういう意味では道元の仏教は「大衆性はゼロ」なのである。  ところで,現在日本で最も人気のある(信徒の多い)宗派は浄土真宗(正式には浄土真宗本願寺派<西>と浄土真宗大谷派<東>)と曹洞宗である。  それはなぜか。

  浄土真宗における蓮如のような存在が,曹洞宗を消滅の危機から救い,大々的に大衆化する路線を打ち出した人物がいたからである。  その人の名は瑩山(けいざん)(紹瑾)という。  彼は道元が否定的であった密教的な要素を取り入れ,祈祷を行い,武士や民衆の要求に応え得る禅風を打ち出し,弟子を養成した。  そして「在家信者との交流」,「女性住職の登用」を進め,多くの寺を開いた。  曹洞宗には総本山はなく,宗祖もいない。  実際は永平寺と並んで,瑩山が開いた総持寺(能登に創建され明治になって横浜へ移転)が「大本山」で同格であり,宗祖と呼ばない代わりに道元を「高祖」,瑩山を「太祖」,二人合わせて「両祖大師」と呼ぶ。  日本三大稲荷の一つ愛知県豊川市の豊川稲荷の本院は曹洞宗妙厳寺というお寺なのである。

  世界の大宗教には「宗祖」のほかに布教の天才がいる。  キリスト教にはパウロ,ソクラテスの哲学にはプラトンが,「仏典」を編集した釈迦の弟子たち,『論語』を編集した孔子の弟子たちがいる。  もっともイスラム教のマホメット(ムハンマド)ように,一人でそれをやってしまう人もいる。  マホメット自身は,自分がイスラム教の開祖だとは考えていない。  ただ「神の声」を聞き,それを忠実に伝えるだけ,というのが彼の立場である。  日本の鎌倉新仏教にも,こうした立場の僧がいる。  その僧が選択したのは禅でも,念仏でも戒律でもなく,法華経だった。  日蓮がそれである。

[日蓮]

  日蓮は国内に戦争,内乱,飢饉などが起こるのは,今信じられている仏教が誤った教えであるからではないか,と考えたのである。  日蓮は数ある仏教思想(経典)の中から,親鸞が念仏を,道元が禅を選択したのと同様に,妙法蓮華経(法華経)を選択し,法華経のみが正しく他宗は誤った教えだと主張した。   人は「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば,その時「仏になっている」のであり,その人の居る場所そのものが戒壇であり,浄土(仏のいる世界)だと説く。  この現世の浄土は常寂光土と言う。  「念仏無間,禅天魔,真言亡国,律国賊」(念仏は無間地獄に落ちる行為だ,禅は天魔の所業だ,真言は亡国の行為で,律宗を信じる奴は国賊である。)という有名な「四箇格言」(しかかくげん)が出る。  円仁・円珍以降の天台宗は密教(台密という)に比重がかかっていたが,本来の教えでは法華が最高なのである。  ところが日蓮は「法華至上主義者」だった。  日蓮は『立正安国論』を書いて幕府に二度に亘って提出する。  邪法(浄土真宗)をやめて法華経に帰依せよ,さもなくば外国から侵略されて国が滅びるぞ,という趣旨の建白書である。  但し,この外国からの侵略論(他国侵逼難)は法華経の中の文言ではなくて彼が三年間一切経を渉猟して金光明経,大集経(だいじつきょう),薬師経などにその根拠を見出したものである。  ここには強引な論理の飛躍がある。

  日蓮は幕府や念仏宗徒から生涯で四度の法難(迫害)を蒙る。  一度は斬首刑の寸前まで来たことまである。  しかし彼は迫害を受ければ受けるほど,ますます過激な行動に出る。  法華経は絶対に正しい → ゆえに他宗を非難する → 非難するから迫害を受ける → 法華経にはこの経を広める者は法難を受けると書いてある → だから法華経は絶対に正しい,という論理で,日蓮は自らを法華経従地湧出品が説く「上行菩薩」の再来と確信した。  しかし日蓮の予言は半ば適中し半ば外れた。  蒙古軍は来襲したが鎌倉幕府は勝利した。  これは日蓮にとって「敗北」であった。  弘安役の翌年日蓮は病死する。

  昭和前期のファシズムの指導者の中に少なからず「日蓮主義者」がいたのは事実である。  満州事変を起こし満州国建国の道を開いた軍人石原莞爾。  「二・二六事件」の精神的支柱となった北一輝。  井上準之助,団琢磨を暗殺させた井上日召。 その他多くの有名無名のファシストたちが熱烈な「日蓮主義者」だった。
  一方,良寛和尚や宮澤賢治も法華経の愛好者ないし信者であった。  賢治の「宇宙全体が幸福にならない限り個人の幸福は有り得ない」という考えは,法華経の「一天四海皆帰妙法」(この世のすべての人々が法華経に帰依した時,この世はそのまま常寂浄土(仏国土)になる)という考え方から来ている。
  石原莞爾は日本の軍人の中で極めてスケールの大きな人物で,昭和前期から「世界最終戦争」という構想を持っていた。  これは東洋の勝者(代表者)日本と西洋の勝者アメリカが最終戦争を戦い,その結果日本が勝つことによって「一天四海皆帰妙法」が実現し,恒久的な平和が訪れるという独特の哲学的思考である。
  【注:石原莞爾(1889〜1949)     日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者としても知られる。  陸軍大学創設以来かつてない頭脳の持ち主と言われ、関東軍作戦主任参謀に就任。  1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行した。  満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論を唱えるも、途中から満蒙独立論へ転向していく。石原が目指した満州国は「東洋のアメリカ」だったといわれる。1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長。   戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、東条英機ら陸軍中枢と対立した。  大東亜戦争開戦前に東条との確執から予備役に回される。  「世界最終戦争論」(後東亜連盟と改題)を唱え東亜連盟構想を提案した。  世界最終戦争のためには東洋側の日本と中国は手を握る必要があり,また戦争準備に十分時間とエネルギーを割く必要がある。  それゆえ拙速にアメリカと戦端を開くのは得策ではないと主張していた。   戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンら批判。   日本国憲法第9条を武器とし、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。-------出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』<http://ja.wikipedia.org/wiki/>】

  満州国建国のため日本の軍人と満州人が集まって建国会議は日蓮の誕生日に行われており,会場には国旗ではなく,「南無妙法蓮華経」と書かれた曼荼羅のみが掲げられていたのである。

  念のため付け加えると,日蓮信仰=ファシズムでもないし,天皇絶対主義でもない。  日蓮自身はアマテラス(天照皇大神)すら法華経の下に属するものとしてとらえていた。  しかし,天皇絶対主義と日蓮の法華思想とを巧みに結びつけた思想家たちがいた。  その代表者が田中智学である。  日本は法華に基づいて世界を統一すべき使命を持った特別な国である,と規定する。  日蓮こそ,その世界統一軍の「大元帥」であり,日本人はその「天兵」であるとう,日蓮の考え方とは大きくかけ離れた理論を考え出した。  この考え方を発展させれば,世界侵略すら一つの「折伏」として肯定されることになる。  石原莞爾も北一輝もこの影響下にある,とも言える。   「侵略」自体は日蓮の責任ではない。  しかし,日蓮の持つ「論理の飛躍」が,その「弟子たち」に脈々と受け継がれているのも事実である。  また,日蓮宗系の宗教自体すべてに通じる欠点といえば,自己に対する批判を「法難」としてとらえる傾向が強い,ということだ。

  【注:折伏(しゃくぶく)は、破折屈伏(はしゃくくっぷく)の略。 仏教における布教姿勢の 一つで,摂受(しょうじゅ)に対する語。 日蓮はその著作『開目抄』において,摂受よりも折伏の方が末法時代の日本においては適した布教法であると判定している。  折伏の本来の意味は「衆生教化の一方法。  悪人・悪法を威力をもってくじいて仏法に従わせること」である。】


C 元寇と日本人

  唐という大帝国ができて,それまで独立していた遊牧民族が唐の支配化に入ることになった。  遊牧民族にとっては屈辱的なことではあったが,その結果それまでバラバラだった民族が「一つの民族」であるとの自覚を持つようになった。  それと同時に,唐の統治システムも唐文化の洗礼を受けて改善された。
 そういう下ができたところに,漢民族にとってはまことに都合が悪く,モンゴル民族にとっては待望の人物,チンギス・ハーンが歴史に登場した。

  唐の滅亡のあと五代十国の時代を経て宋が中国を統一する。  宋は歴代王朝の中でも軍事的には最も劣っていた。  それは周辺の遊牧民族が,唐の支配下に入ることによってかえってその文化を学び,次々に有力な国家を建設したためである。  宋のライバルは遼(契丹)であり,金(女真)であり,最後が元だった。  1126年,金は宋の徽宗と欽宗の父子を皇帝の位から庶民の位へ落とし,現在の黒龍江省へ流罪とした。<靖康の変>  金は中原を制したものの,中国全体を統治するだけの力はなかったので,宋との外交交渉に応じ南の杭州を首都として,いわゆる「江南」の地を領有する国家として存続することを認めた。
  もちろん,宋側にもあくまで徹底抗戦すべしという軍人もいた。  中国史上屈指の「愛国者」とされた岳飛である。  講和派の文官秦檜は岳飛を無実の罪で処刑し国論を統一する。  これは政治家として極めて現実的な判断であった。  しかし,現在,岳飛は神として祀られているが,秦檜は今もまったく評価されていない。  ちなみに岳飛の座右の銘は「尽忠報国」である。

  宋代は,誇り高き漢民族にとって中原を「野蛮人」が支配するようになった時代,中華思想が政治的に崩れた時代である。  宋学すなわち朱子学は南宋の学者朱子(本名朱熹)によってて完成されたものだが,朝鮮や日本にも多大の影響を与えた。  朱子学(特にその大義名分論,尊皇攘夷論)はその発生状況からみて,「負け犬の遠吠え」的空論である。  明治維新を達成した人々のバイブルとされた,日本の朱子学者浅見絅斎の『靖献遺訓』の中で,宋の滅亡の原因を「目先の平和を求めて軟弱な外交を展開した秦檜のような売国奴的政治家が,岳飛のような愛国者を陥れたからだ」と書いている。  これは昭和初期の軍人たちの考えともぴたり重なる。

  モンゴルが高麗を服属させた時点では,まだ南宋は存続していた。  そもそも高麗を従属させたのは執拗な抵抗を続ける南宋を孤立させるためであった。  次にモンゴル(下って1271年,モンゴルは国号を「大元」と定める)は南宋とつながりのある国を圧迫し,自分の味方にしようとした。  白羽の矢が立ったのが日本なのである。  日本を選んだもう一つの理由は「黄金の国」日本の魅力である。

  モンゴルは日本に1266年と1268年と1269年に延べ四回国書(実質的には脅迫状)を送る。  もっとも1回目との国書は高麗の策略で,三回目は日本が入国を拒否したため日本には渡らなかった。   軍事政権である幕府は外交センスが欠如しており,元寇の前後を通じて一度も返書を送っていない。   1271年,高麗降伏後も反抗を続けていた高麗の近衛軍の残党「三別抄」から援軍要請が来るが,日本側にその意味が分かる人間が一人もいなかった。  もしなんらかの援助をしていれば,モンゴルはそれに足を取られて元寇は行われなかった可能性がある。  1273年三別抄は滅亡する。  この間フビライは日本征服の野望を捨てず,1271年新たに女真人趙良弼を日本国信使に任じ日本へ送り込む。  彼は翌年正月高麗に帰り,同年7月再度来日し,一年間大宰府で粘った。  彼の真の目的は九州の偵察であったとする説が妥当である。  幕府は鈍感にも彼を国外追放もせず放置していたといえる。

  1274年(文永十年)と1281年(弘安四年)の二回にわたる元寇で日本が勝てた最大の原因は海の存在である。
  文永の役,高麗に船を作らせて侵攻したモンゴル軍は得意とする騎兵団を連れていなかった。  モンゴル騎兵の強さの一つに,乗り換え馬が豊富なことがある。  一万人の騎兵には最低でも四万頭の馬が必要になのである。  10月,日本軍は奮戦するがそれでも戦いは元軍優勢のうちに進められたのだが,暴風雨が日本を救った。  高麗に昼夜兼行で作らせた船が粗悪だったこともある。
  この文永の役は日本にとっては大事件であったが,世界帝国元にとっては数多い対外遠征の一つのその第一回目が「作戦ミス」で失敗したに過ぎない。  元の兵士も死んだが,船団は高麗を脅していくらでも造ることができる。  元は「これで日本という野蛮国も,わが元がどれほど強いか分かっただろう」と思った。  そこで「宣諭日本使」という使者が派遣されることになった。  しかし勝ったと思っている幕府は使者五人を斬ってしまう。
  それを知った元は二回目の日本遠征に取り掛かる。  元としてはこの間に滅ぼした南宋の軍隊を使い捨ての軍(元はそれを蛮子軍と呼んだ)として利用できた。  前回同様高麗に兵船の建造と高麗軍の参加を命じ,南宋にも兵船を造らせた。  さすがにこの情報は日本にも伝わり,幕府は水際での撃退体制を整えた。  博多周辺の海岸に防塁を築造し,御家人たちをその築地役に任じた。  また,戦時体制という口実で,これまで手が出せなかった荘園在住の非御家人にも動員令を出すことができるようになった。
  1281年(弘安四年),元軍(東路軍)はまず博多の志賀島へ上陸したが,防塁が効力を発揮し上陸を阻止した。  東路軍は一旦肥前の鷹島まで撤退し,江南軍の到着を待って合流する。  上陸体制を整えた矢先の7月30日(太陽暦では8月22日)夜「奇蹟」が起きる。  

  日本が勝てたのは
      (@) 元軍の主体がモンゴル騎兵ではなく,「多国籍」の歩兵だったこと。
      (A) 鎌倉武士が奮戦してよく防いだこと。
という人為的な原因があって,これに「神風」という偶然の要素が重なったのである。
  この体験は強烈であった。  日本にとって国土と人民を蹂躙されるという屈辱を味わうことなく,敵を撃退したという爽快感だけを味わった。  さらに,特に京の貴族の間で「日本は神国だ」という信念が固められるようになった。  コトダマイストである貴族たちは鎌倉武士の功績を認めようとしなかった。  コトダマイストたちは,たとえば亀山上皇が博多の箱崎宮に「敵国降伏」の額を奉納したことが,最も重要な勝因と見た。  北条時宗が褒められるのはョ山陽が『日本外史』で取り上げてからのことだ。
  日本は「神風」というビギナーズ・ラックで勝ち,「大東亜戦争」という「大バクチ」で何もかも失った国である。  黒船による「ショック療法」が効き過ぎて,明治以降の日本は「軍隊一辺倒」の国になってしまった。  その無理な姿勢が昭和20年の「敗戦ショック」で完全に消え,今度は「軍事」というと頭から毛嫌いする,平安貴族的な姿勢に戻った。


D 後醍醐天皇の野望

[恩賞なき勝利が招いた鎌倉幕府の崩壊]

  元寇は,確かに得宗専制政治を強化する好機であった。  しかし,同時に北条氏が実質的な「王」になるということは,政治のあらゆる面において,「御家人連合」ではなく北条氏が単独で責任を持つ体制になったということでもあった。
  元寇は防衛戦争であるから,領土獲得もなく賠償金も得ていない。  しかし,戦いに参加した御家人は戦争経費はすべて自弁であるし,防塁(石築地)なども領地の大きさに応じて負担させられている。  当然のように恩賞を要求する。  ない袖は触れない。  北条氏は結局こういう「恨み」を一身に引き受けることになる。
  日本古来の相続法は均等相続であった。  鎌倉時代の武士も,原則として子供に財産を分割相続させていた。  女子に与える場合もあった。  武家は子が多いから,これを何代か繰り返すと領地はどんどん細分化され,貧窮化してしまう。  幕府の足腰に当たる御家人が貧窮化すれば,その上に立つ幕府の力も低下することとなった。
  これと類似の現象は戦後にもあった。  農地改革は民主主義定着のためには必要なことではあったが,日本農業の零細化の道はここに始まった。

  そこで採られた政策は「惣領制」である。  優秀な人間を一人「後継者」として選,財産はすべてその人間が継承するという方法である。  必ずしも長男とは限らない。  かなり無理な制度であるが,それでも惣領制は定着していく。  しかし,新たな問題を生じた。  誰が選ぶのか,家長が選んだとして,不満を持った兄弟がいたらどうするか。  これが次の室町時代に大問題となる。

  幕府はもともと東国武士の連合政権として生まれた。  西国には天皇家や高級貴族が開発した荘園が多く,鎌倉幕府から任命された地頭も,完全にこの荘園を奪うことはできなかった。  本所(荘園を持つ大領主,天皇家や高級貴族や有力寺社が多い),領家(地方の領主で,名目的に本所に荘園を寄進した者)の権利は認めざるをえなかったからである。

  もう一つ幕府の手の届かない領域がある。  それは商工業者の世界,経済界と言ってもよい。  この時代,日本の方がヨーロッパよりも商業は盛んであった。   中世ヨーロッパは,日本と同じく,実体は武装農民である騎士団が領地で農業を営んでいるが,それ自体は自給自足の経済圏であるから,商業は必要ない。
  ところが,日本では,荘園領主は本所として都に住んでいるから,農産物(年貢)は都に運ばれ,そこで他の品物と銭を媒介として交換されることになる。  物資を集積するから商業が生まれる。  商業の発達は金融業を生む。  物資の運搬があれば運送業が発達し,治安の悪い場所も通過するから当然武装もする。  また「市場」があるということは製造業を盛んにする。
  武装した輸送業者はのちに馬借(ばしゃく)と呼ばれ,金融業者は借上(かしあげ)と呼ばれる。  油や紙などの「工業」製品は,主に寺社の保護下にある同業者組合「座」で作られる。  鎌倉時代末期の日本は,東国を中心とした「自給自足農業経済圏」と,西国を中心とした「商業経済圏」が対立していた。  この時代,貧窮する御家人が借上から土地を担保に借金し,結局借上に土地を取られてしまう。   幕府は徳政令を出して土地を取り戻してやるが,これは一時しのぎにすぎない。

  幕府政治の行き詰まりは明白だった。  ここにおいて,幕府を倒して新しい政治を始めようという強烈な意志を持った人間が出現した。  それが第96代後醍醐天皇である。

  第88代後嵯峨天皇には二人の皇子(兄:久仁,弟:恒仁)がいた。  上皇となって,一応兄久仁(後深草天皇)に位を譲ったが,14年後に,弟の恒仁(亀山天皇)に位を譲らせた。  後嵯峨は弟の方を偏愛していたしていたくせに,皇統について明確な指示を残さずに死んだ。  これが天皇家の分裂を招くことになる。   後深草上皇に同情した北条時宗が,亀山の子である後宇陀天皇の皇太子に,後宇陀の子の邦治(くにはる)てはなく,後深草の子の熙仁(ひろひと)を立てるという調停案を出し,これが朝廷の分裂をさらに深めることになった。  まるでキャッチボールのように,皇位は両統を行き交うものになった。

  この両統がそれぞれ院政を行った場所にちなんで,後深草の系統を持明院統,亀山の系統を大覚寺統という。
  後嵯峨のやったことは,それまで天皇家においてほぼ守られてきた「長子相続制」の否定である。  代替わりの度に次男もしゃしゃり出て相続争いに加わるという大変な事態を招いた。  後醍醐天皇も後宇多天皇の次男である。  彼にとっての幸運は兄の後二条天皇が早死にしたことである。  即位年齢は当時としては異例の31歳であった。  天皇家が持明院統と大覚寺統に分かれ,さらにそれぞれが長男と次男の系統に分かれ,合計四つの系統に分かれて,派閥抗争や暗闘が激しいので,困り果てた幕府は今後は持明院統と大覚寺統が十年ずつ皇位に就くという調停案を出した。  現代の視点から見ると,幕府はもっと強権を発動し積極的に介入して,どちらかの系統に決めてしまうべきだった。   それをやれば南北朝の抗争が全国の戦乱に発展することはなかった。   室町幕府が無理やり強権発動して南北朝を統一させたのは後日の話。

  後醍醐はエネルギーあふれるしたたかな人物であり,朱子学に心酔した人物であった。  朱子学においては,最高権力者を「王者」と「覇者」に分ける。  覇者とは覇道により天下を治める悪い者である。   つまりモンゴルは覇者であり,我々宋人が真の王者であると言いたいのである。
  後醍醐は自分自身が真の王者であると確信していた。  しかし,王者に相応しい徳が自分に備わっているかを自らに問うことはしなかったようである。  後醍醐という諡号は後醍醐が生前自分で決めておいたものである。  平安時代,醍醐天皇と村上天皇は関白も置かず天皇親政をおこない,多大の成果を上げたとされていたからである。  事実は醍醐天皇は藤原時平の讒言を信じて,菅原道真を大宰府へ流した張本人である。  また,たまたま関白になる人材が藤原氏にいなかっただけのことである。

  後醍醐は不撓不屈の精神を持って倒幕を三度試み,三度目にようやく成功している。  二回目の元弘の変の時は後醍醐は捕らえられて隠岐ノ島へ流されて,そこで一年近くを過ごしている。  元弘の変は前後に分けるべきものとの思うのでここでは二回として数えている。

  後醍醐はなぜ執拗に武家政権を嫌ったのかというと,ケガレ忌避の感情からである。  後醍醐は幕府のことを一貫して東夷と呼び,神聖な国土を,武士のような殺生を職業とする者に支配させることを許さないという意識を強く持っていた。  しかし,朝廷は平安時代以来軍隊を持っていない。  後醍醐がまず味方につけようとしたのは「異形」である。  正規の武士ではない「非御家人」,その中で反体制ゲリラとも言うべき階層である「悪党」,公家でも高い身分ではないが,その才能を後醍醐に認められ重用された日野資朝,俊基。  怪僧文観なども,広い意味での「異形」の範疇に入る。  後醍醐は非御家人や武装した商人たち,すなわち「悪党」を,ケガレているからといって遠ざけることなく,積極的に登用し抜擢した。  「悪党」の側から見れば,後醍醐は自分たちを日のあたる場所に出してくれる「名君」である。

  「悪党」とは,ごく簡単に言うと,東国の「自給自足農業経済圏」と,西国を中心とした「商業経済圏」という二大経済圏の中で,幕府の支配とは違う,別の世界から出てきた「反逆者」である人々といえる。   後醍醐の大忠臣となる楠木正成(くすのきまさしげ)が,この意味での「悪党」であったという確証はないが,そうした雰囲気の中にいた人物であることは確かだ。

  「楠木正成」は謎の人物である。  家系も身分も不明,河内の出身であることは分かっているが,そもそもの本拠地がどこだったかもわからない。  確かなことは河内に根拠を持つ豪族で,身分はたいしたことはなかっただろうということだ。  正成と後醍醐を結びつけた接着剤は朱子学である。   文書史料こそないが,二人ともその生涯と行動はおおむね朱子学の原則通り貫かれている。   注目すべきは,正成が幼時に学問を学んだと伝えられる河内の観心寺(国宝の如意輪観音で有名)は,後醍醐の属する大覚寺統の支配だということだ。

  天才的軍略家楠木正成や後醍醐の子護良(もりよし)親王などのゲリラ活動が導火線となって,結局有力御家人である足利尊氏や新田義貞らの「裏切り」によって幕府は崩壊する。   武士の権益を保護すべき幕府がまったく機能しなくなった制度疲労状態に大いに不満を持った御家人パワーが炸裂したのである。


E 後醍醐天皇の親政

  後醍醐の目指した政治=天皇親政(律令制)を柱とする朱子学的な絶対専制政治,換言すれば中国型権力一極集中式への「大行革」である。
  まずやったことは平安・鎌倉を通じて積み重ねられてきた土地所有に関する慣習及び既得権をすべて白紙に戻したことである。  新たに綸旨を得た者のみが権利を主張できると宣言した。  都は大混乱となった。   殺到する訴訟にたまりかねた後醍醐は一ヶ月余り後,北条氏とその余類以外は,これまでの所有権を認めるという線に後退し,実質的に撤回した。

  政治機構に関する後醍醐の政策と狙い
    (@) 関白制(臣下が天皇の権限を代行すること)の廃止
    (A) 八省の長に大臣クラスを配置する
摂関政治以来,八省の上に関白を中心とする大臣クラスの合議体があり,ここで最高意思が決定されていた。   後醍醐は大臣クラス(藤原氏などの高級貴族)を八省の長に「降格」させて合議体を解散させようとしたのである。
  そうなると後醍醐一人に国家のあらゆる案件が集中することになるから,事務処理機関が必要になる。

    (B) 記録所・恩賞方・武者所・雑訴決断所の設置
  記録所は重要案件を審議する場所,
  恩賞方は恩賞の査定を行う機関,
  武者所は御所警備の武士を統括する機関,
  雑訴決断所は殺到する土地訴訟に裁決を下すことができる機関。

    (C) 蔵人所の充実-------―後醍醐の秘書官

    (D) 征夷大将軍を任命しない
  これは倒幕に功績のあった護良親王がこの職位を要求したのですぐ崩れた。
  それに不満を持つ足利尊氏には正三位の位を与え公卿の地位にのぼらせた。  そして自分の名(諱(いみな))の「尊治(たかはる)」から一字取って「尊」の字を与えた。 それほどまでしても後醍醐は足利尊氏を政権の中枢から遠ざけたかったのである。

    (E) 国司制度の整備強化
律令制度の下では,「国」はすべて公領であり,中央から任命された国司がすべて取り仕切ることになる。  しかし,これも実際には理想通りにはいかず,幕府の制度である守護が残り,国司と守護が併置されることになった。  特に武蔵の国は国司と守護が同一人物で,それは他ならぬ足利尊氏であった。  なぜこんなことになるかといえば,日本は中国とは違って武装農民の国であるにもかかわらず,そこに中国の制度を無理矢理当てはめようとするからである。

  後醍醐は建武という新年号を樹てると,今度はやりたくてたまらなかった大事業に乗り出した。  それは,大内裏の造営である。   単なる新皇居の造営てはなく,首都の作りなおしというべきである。   『太平記』によれば,そのため後醍醐は周防・安芸の税収すべてをつぎ込み,なお足らないので武士全員に「二十分の一税」を課したという。  本来は減税をして民力休養を図らねばならない時期にである。  武士の目から見て後醍醐の政権になってからいいことは一つもない。  当然不満がつのる。  公家にとっても後醍醐は秩序の紊乱者である。

  後醍醐は,朱子学という当時最先端の「輸入経営哲学」によって,日本を改造しようとし失敗した。  後醍醐の「政治理念」が日本の根本的な統治理念である「血統信仰」に抵触するものであったことが,新政失敗の最大の原因ではあるまいか。
  新政の崩壊は,旧幕府系の人々の反乱によって始まった。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 F中世王権編―太平記と南北朝の謎」

発行:小学館(1999年)

@ 戦乱を招いた天皇絶対国家の理想 欠コの帝王後醍醐天皇

  「建武の中興」で後醍醐天皇は鎌倉以来の土地所有を白紙にして,全て天皇の親政により改めて決するなどの大失政をし,武士勢力から見捨てられた。

  足利尊氏は戦争の名人ではあったが,人柄は極めて穏やかで優柔不断の傾向があった。 頼朝や家康にあって彼にないものは政治家としての非情さである。 反対に弟の直義は戦争下手だが,外交や謀略には優れた才能を持っていた。 二人は合わせて一人となるべきところが,最期は敵味方に分かれたところに不運があった。

  せっかく北朝を建てた尊氏もまた直義も終始北朝側についていたわけではなく,戦術上都合のよいときは南朝方に降伏するという,首尾一貫しない態度をとり,南朝を延命させて混乱を長引かせた。

  南朝方の貴族であり武士でもある北畠顕家が数え年21で戦死する前に後醍醐天皇へ送った諫書には,激烈な調子の言葉が連ねてある。

  1. 減税をし,国家財政が破綻に陥らないようにすべきだ。

  2. 身分の無い者にみだりに官職を与えるべきでない。(彼等にとって楠木正成のような大功臣でも身分無き者なのである)

  3. 代々朝廷に仕えてきた貴族の荘園はみだりに取り上げたり,武士に与えるべきではない。

  4. 贅沢な行幸(この場合は観光旅行の意味)や宴飲(宴会)はやめるべきだ。

  5. 政治が朝令暮改で一貫しない。 これでは民が心服しない。

  6. 御政道の評判を落とすような連中は一切遠ざけるべきだ。




A 『太平記』の構成と作者の思想

 
序(テーマの提示)=宋学の理念
  @ 君主は 「コ欠くる則は,位ありといえども,持たず」
  A 臣下も 「道違う則は,威ありといえども,保たず」
第1巻
|         --- 幕府と後醍醐の抗争
第10巻 北条一族の滅亡(テーマAの提示)
|         --- 後醍醐と尊氏の抗争
第21巻 後醍醐の憤死(テーマ@の提示)
第22巻 欠 <本来ここには終章があったのではないか>
|          怨霊たちの活躍(テーマ?)
第40巻

  後醍醐が北条幕府を倒したのも,世の中をよくするためというよりは,誤った朱子学に基づいたひとりよがりの「正義」のためであり,天皇として贅沢三昧を極め自分の子孫で皇位を独占するためであった。 そのため彼は忠臣を使い捨てにして恥じない。 そういう欠陥人間だからこそ,ついに総スカンを食らって吉野の山に都落ちする。 「太平」という言葉ほど後醍醐という人間の独善性,身勝手さを的確に表現している言葉もない。

  「大忠臣」楠木正成はなぜ死なねばならないか。 「君主がアホであってこそ,本当の忠臣が分る」からである。 仮名手本忠臣蔵でも 「浅きたくみ(思慮の浅い)の塩谷殿」という台詞がちゃんとある。 そういう「バカ殿」のために命を捧げた太石内蔵助らは偉いのである。 そして,浅野匠頭長矩はなぜ日本では名君にされたか。 それはこのまま放っておけば怨霊になってしまうからである。 ここが本場?中国の忠義とは違うところである。

  「原・太平記」の作者(小島法師)は巻四に登場する児嶋三郎高徳であるという説は正しい。

  「太平記」という物語は後醍醐の死を以って「終わっている」のである。 23巻以降は別の思想を持った人間によって書かれたものであると考えるのが自然である。 同時代の死者のみならず源平の争乱時の怨霊までが登場してきて大暴れする後半は,「怨霊たちに存分に暴れさせればさせるほど鎮魂の効果が上がり,現実の世の中は平和になる」からである。

  江戸時代になると朱子学が盛んになり,南朝が正統であるとされるようになった。 確実に勝ったのは北朝で今の天皇家も北朝の子孫であるのにだ。 なぜかはいうまでもない。


B 足利三代将軍義満の天皇家乗っ取り計画は成就寸前に朝廷側の義満暗殺により瓦解

  所謂建武の中興以後,天皇に対する神聖感が著しく損なわれた。

  義満は1392年(明コ3年),南北朝を「合一」させ,永らく国を割った戦乱を見事に収束させた。  その手段は南北朝の迭立(交互に即位)を餌にした南朝からの三種の神器の「詐取」であった。

  南北朝統一の時義満は南朝を懐柔するため後亀山天皇(南)を後小松天皇(北)の「父」に準じるとして強引に「上皇」の尊号を贈った。  これは朝廷の人事権を掌握したことを意味する。

  義満は生まれながの将軍であり,後円融天皇とは母方のイトコの関係にあった。 1382(永コ二)年には既に左大臣になっていた。  1394(応永元)年には太政大臣になるが,1395(応永二)年には太政大臣の官を辞し出家する。

  義満は出世を望む皇族・公家たちに「妻」たちを差出すように求めた。 朝廷は義満の「ハレム」状態であった。

  1383年(永コ3年),義満と同年齢で気の弱い「坊ちゃん」後円融天皇が夫人の一人三条厳子を刀で峰打ちにする事件が起きた。 天皇の子・後小松天皇は義満の不倫の子であった可能性が非常に高い。

  従って後小松天皇の妾腹の子で僧籍に入った一休宗純は義満の孫にあたる可能性がある。 (一休宗純は,江戸時代に彼の奇行に仮託して創作された「一休頓智咄」の主人公,子供にも人気がある所謂「一休さん」である)

  義満自身の発意によるモニュメントとしての相国寺の七重大塔は御所を見下ろす高さを誇った。 その一大イベントである落慶法要(1399(応永六)年)にあたり,朝廷に対し宮中“御斎会”(天皇の法事)に準ずる宣下を要求しておいて,自身を法皇と位置付ける儀礼を参列者すべてに強制した。

  義満は皇統断絶を図って継承権のある男子は全て幼少時に僧侶にした。 一休宗純も幼少にして寺院に入っている。

  天皇家は口減らしのため皇子を門跡寺院に入れてその長にする。 これは宮家を興すより安くつく。 義満はそれにならって自分の子どもたちを門跡寺院に押しこんだ。 (その一人が義円で,青蓮院に入り後に天台座主(ざす)となった。 のち還俗して六代将軍義教となる)

  義満の構想は,溺愛した次男の義嗣を後小松天皇の養子にし,天皇に譲位を強制する積もりであった。

  1048年(応永15年)4月25日,義嗣は宮中において親王の格式に準じて元服した。 その夜,小除目(こじもく 臨時の人事令)が行われ,義嗣は参議に任じられ従三位に叙せられた。 4月28日義満は俄かに発病し,約1週間後に死んだ。 享年51歳。

  北山第(きたやまてい 後に謂う金閣寺)は“足利上皇”の大内裏として建設されたもの
  • 1層(1階)は寝殿造(法水院)----------------------公家・朝廷を表す

  • 2層(2階)は武家造(潮音洞)----------------------武士を表す(朝廷より上位)

  • 3層(3階)は中国風の禅宗仏殿造(究竟頂)----------義満自身を表す

  • 屋根の上に鳳凰の飾り--------鳳凰とは 聖天子が現れると世に出るという想像上のめでたい鳥。  鳳凰を戴く寺院は金閣寺のコピーである銀閣寺と宇治平等院しかない。

  足利将軍義満は既に明国に入貢し日本国王臣源道義という称号を得ていた。

  義満の急死後,朝廷は「太上天皇」の尊号を追贈しようとしたが,幕府側(四代将軍義持<=義満の嫡子>と長老斯波義将)は拒否した。  朝廷側は怨霊の怒りを鎮める目的でそうしたと考えられるし,後小松天皇の実父が義満であったとすれば,そこに「太上天皇」を贈るもう一つの理由がある。  のちに後小松の子,称光天皇が28歳で亡くなったとき,朝廷は庶兄である一休を還俗させて即位することをせず,後小松天皇の曾孫に過ぎない伏見宮彦仁親王を次代の天皇(後花園天皇)とした。  これで義満の血は完全に排除されたことになる。

    《注記》織田信長の安土城と義満の金閣寺にはある共通点がある。(→第10篇参照)


C 「恐怖の魔王」足利義教(よしのり)はもっと評価されてよい政治家である。
 初めて比叡山根本中堂を“焼き打ち”したのは織田信長ではない。

  室町時代とは絶対的権力が結局確立できなかった時代である。 大名連合の上に立つ幕府は結果として地方に強い権限を持たせた。 その最大のものが鎌倉府である。 ここに政権を置けなかった足利尊氏は鎌倉に最初義詮を,次に次男基氏を関東へ派遣した。 基氏はこの地に定着し,その子孫は関東公方を称した。

  室町幕府には職制として三管領四職というものがあった。 管領とは鎌倉時代の執権に相当するもので,細川・斯波・畠山の三氏から交代で任命されるもの,四職は侍所の長官として山名・京極・一色・赤松の四家から選ばれるものである。土岐氏を含む五職であったとする最近の研究もある。

  四代将軍義持は有力守護大名の合議(宿老会議)の頂点に立つ存在にすぎなかった。 義持が家督を譲った義量(よしかず)は19歳で夭折し,義持には僧籍の弟が四人いたが,宿老派閥の反対を恐れて後継の将軍を決めることを数年間ためらった。 重病に倒れた義持は尚決めることができず,ついに,宿老会議と将軍の連絡役を勤める護持僧三宝院満済は“神のお告げ”である「くじ引き」で後継将軍を決めることを決めた。

  1428年(正長元年),義持が死去し,くじが開封され,青蓮院義円が当選した,即ち六代将軍義教である(将軍就任はその翌年)。

  絶対権力の確立を自己の政治的課題とした義教は管領の力を抑えるため,義満の創設した奉公衆(近侍した家来のことで一種の将校団)を強化しようとした。

  彼が先ず支配下に置かなければならないのは,正長土一揆の誘因ともなった関東公方であったが,その討伐計画は有力大名の制止により断念させられた。

  次の目標としたのは,南朝が本拠を置いた地域の一つにして以来乱れていた九州の統一である。 これはかつての反逆人大内義弘の子である持世に家督相続を許すという思いきった手段をとり,持世は知遇に応えて,大友と少弐の二氏を滅ぼし山口へ凱旋し,ここに九州の主要部は平定された。

  次の敵は義教が座主を務めたこともある天台宗総本山比叡山延暦寺である。 当時の大寺院は広大な荘園を所有し,門前町である坂本周辺の巨大な経済利権を所有した。 この時代の質屋つまり金融業者を土倉(どそう)というが,土倉は延暦寺下級僧侶の経営であることが多かった。 各地に設けた,関銭を徴収する「関所」も大名と並んで巨大寺社の利権である。 巨大な富があればそれを守る武力が必要となる。 延暦寺の僧兵はライバルである三井寺(園城寺)を前後七回も焼き打ちしている。 神輿(みこし)を担いだ僧兵たちによる「強訴」という朝廷に対する無理難題の押しつけには歴代天皇(上皇)や室町幕府も手を焼いた。

  義教は延暦寺を武力(六角氏・京極氏らの軍勢)で制圧し,僧兵は神輿を担いで根本中堂に立てこもる。 徹底的な攻撃は諸大名の反対からできない中,寺側からの和議で一旦中止したのちも,謀略で挑発して延暦寺側を憤激絶望させることにより,ついに僧侶たちは根本中堂に火を放って焼身自殺を遂げる。 人々は義教の行動を天魔の所業と批判した。

  最後に義教は謀略を駆使して幕府の獅子心中の虫,関東公方の足利持氏とその勢力を完全に滅ぼす(持氏とその子まで全てを殺した)が,その直後の1441(嘉吉元)年,赤松教康(父の赤松満祐(みつすけ)は直前に隠居していた)の屋敷に招かれ,そこであっけなく暗殺される。

  義教は守護大名により掣肘されることが多かったから,彼等を服従させる体制を築くため,将軍の権威で以って大名の相続問題に介入するという手段を取った。 三管領五職のうち,相続介入を免れたのは,何事も「イエスマン」を貫いた細川家と,先手を取って義教とそりの合わない満祐を「乱心」と偽って当主交替をした赤松家だけであった。

  義教の横死について天皇の父でもある伏見宮貞成王はその日記(『看聞御記』) に「自業自得」と書き,「将軍犬死」とも評した。 しかしながら,室町幕府が絶対権力の確立が出来なかったために日本は戦国時代に突入したのである。 義教は国の指導者としてそれをやろうとして,「比叡山制圧」,「鎌倉府覆滅」,「九州制覇(室町幕府としての「最大領土」の獲得)」という三大課題を達成したその時に横死した。

  信長・秀吉・家康は義教の「弟子」なのである。  清朝の乾隆帝は「中華民族の国家としての最大領土を獲得した」が故に,即ち他民族を大いに侵略したが故に,偉大な君主と称えられている。 チンギスハーン(成吉思汗),ナポレオンまた然り。 義教を正当に評価しない日本の歴史家は間違っている。

  司馬遼太郎氏が「権力が一人に集中することをこうまで避けつづけてきた社会というのは,他の国にはないのではないでしょうか」と書き,織田信長の最期について 「しかしながらかれの独裁政権の基礎がどうやら確実になろうとする,いわばその妙機においてかれはその批判者のために斃されてしまっています。  批判者は自分の権力をつくるためというよりも,その行動と状況からみれば,倒さんがために倒したという極めて発作性の強い行動をとっているのも,日本的原理からいえば,発作的であるがために原理的行動としては純度が高いように思われます」 と書いている。  赤松満祐と明智光秀とはその行動において極めて類似している。>

  赤松満祐が義教を暗殺した直接の動機は,満祐の弟義雅が義教の不興を蒙って所領を召し上げられ,その大部分が一族の庶流に属する赤松貞村に与えられたことにあるといわれる。 満祐もいずれそうなることを恐れて先手を打ったのである。  丹後の領地を取り上げられ未だ敵の領地である毛利の所領を切取り次第で与えると信長から告げられて,信長反対勢力に唆され本能寺に攻め込んだ光秀と置かれた立場と行動もよく似ている。  この際,赤松貞村が義教と男色関係にあるお気に入りの家来であったことは,信長と前田利家との関係と同じであり,義教のみが非難される理由にはならない。  それによって政敵を弱体化させることは政治的に意味のある行動である。 日本の戦国時代の口火は赤松満祐によって切られたと言える。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 G中世混沌編―室町文化と一揆の謎」

発行:小学館(2000年)

@ 「懶惰の帝王」足利義政

  強力なリーダーシップを持った第六代将軍義教<よしのり>が殺されて,有力大名を統制できる将軍がそれ以後出ることがなかった。  義教が「恐怖」という手段で実現した寺社統制も,元の木阿弥になった。  長男の義勝が10歳で死去し二男義成(のち自分で義政と改名)が第八代将軍となる。  義政は政治的には全く無能で,やる気のない「懶惰の帝王」であったが,庭園と造園を好み,優れた審美眼を持っていた。

  義政は若年時から引退を望み,出家していた弟の義尋<還俗して義視>を口説いて後継者にした。  義尋は義政に男子が生れても出家させるという条件で還俗した。  後見人に細川勝元がなった。  一年後正妻の日野富子に男子が生れた。 後の九代将軍義尚である。  富子は山名持豊を義尚の後見人にする。 富子は義尚を将軍にしたいと考える。  優柔不断な義政は決定を引き延ばし,将軍にとどまり続ける。

  義政の時代は混乱の時代であった。  将軍家も大名家も公家も,そして天皇家も内紛の火種(家督争い・後南朝)を抱えていた。

  鎌倉時代は,場合によっては女子もも含めた均分相続制であった。  これは「家」の力を弱め,ひいては鎌倉幕府の弱体化を招いた。

  室町時代は惣領制が採用される。  簡単に言えば,「優れた者に家督を継がせる」もの。  候補者が何人もいる場合はどうするか?  西洋ならば「法」で規定するところを,日本では古来から何でも話合いで決める。  公家も武家も明確な相続法が確立していなかった。


A 守護と守護代

  守護職は幕府から任命されるもので,必ずしもその国の「領主様」ではない。  中央で更迭されれば,その土地の支配権を失う。  そこでうかうか京を離れるわけにいかなかった。  不安定名な権力を安定化させるために,地方の国人(小豪族)たちを,直接自分の家来にしようとした。  これが被官化である。  この状態がさらに強化されれば,大名というものは都に住むのではなく,「御領主様」として現地に住む形になる。  これが戦国大名というものになる。  室町時代はその過渡期にある。

  国人にとっては常に現地にいる守護代(副守護)の方がなじみが深いし,守護代も国人を統率しやすい。 守護代には国人のトップクラスが抜擢されることが多かったからだ。  戦国大名として有名な越前の朝倉氏,美濃の斎藤氏,尾張の織田氏は,すべて守護代の家から成り上がった家柄である。


B 応仁の乱

  応仁の乱は1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)にかけて足掛け11年に及ぶ。 発端は元管領である畠山家の内紛であるが,それに,もともと対立していた山名持豊(宗全)と細川勝元が介入する形で始まった。

山名持豊(宗全)<成り上がりの老練な武将>
細川勝元<名門出身の若き陰謀家,超グルメの趣味人。  菩提寺は竜安寺>

  最初,将軍は山名側の手中にあったが,直ぐに細川勝元が「奪取」し,人事を行い,将軍の名で山名方の大名から守護職を剥奪する。  山名宗全は巻き返しを計り,義視を迎えて「将軍格」として様々な人事を発令する。  まさに道義などどこにもない,なんでもありの世界である。  義政が勝った側の言いなりになっていたことが混乱の最大の原因である。  1473年(文明5年),山名宗全と細川勝元が相次いで死去し和平の気運が高まる。  そんな中でなんと義政は八歳の義尚に将軍職を譲り,東山山荘(銀閣寺)造営に熱中する。  それから四年後,山名側の降伏という形で,西日本全域(山内氏を巻き込む)を巻き込んだ未曾有の戦乱は京の都を灰にし,将軍の権威を地に落として終わる。

  15世紀の気象は≪冷涼+多雨≫という特徴があり,大凶作とその結果としての大飢饉は日本史上有数のものであった。  これが政治に影響しなかったとは思えない。


C 複雑な土地所有

  律令制は公地公民制であるが,高級貴族や有力寺社がそれを崩していった。  彼等は自分たちの農地は農地ではなく別荘の庭園であるとして合法的な脱税を始めた。  これが荘園である。

  鎌倉幕府体制とは土地の実際の開拓者でもあり運営者でもある武士が正式な土地所有者となる体制で,武家領が発生する。  地頭(荘園の現地マネジャー)と守護(地方の「管区軍司令官」)も様々な形で荘園を横領し,国人を支配下に置いていった。  室町時代はこういう新旧各種の土地所有形態がまだら模様のように並存していた。


D 「悪政」の象徴 関所

  室町末期の関所は検問所というよりも関銭(通行料・流通税)を徴収するためのものだった。

  • 本関=足利幕府公認の公的資金(祭祀や行政の費用)を徴収するもの

  • 新関=大名・寺社が勝手に設置したもの。  寺社の言い分としては武士の荘園侵略によって年貢収入が減った分を補うため。

  これはコストにそのままはねかえるから大いに経済と流通を阻害する。  ところが,特権商人に限っては関所はフリーパスなのである。  そういう商人のグループを「座」という。 「座」の背後にいて商売のあがりを掠め取っているのが巨大寺社で,そのライセンスがなければ商売ができない。  そのため莫大な上納金が要る。  商人はその分を価格に上乗せする。  ライセンスなしで商売を始めると,座や寺社の雇った私兵から文字通りタタキ殺される。

  市場でも事情は似ている。  この時代,大きな市といえば寺社の門前町である。  例えば大津は比叡山延暦寺のお膝元であり,交通の要衝である。  こういう市場も巨大寺社が市の権利を握る。  其処で物を売るにはやはり莫大なテナント料を寺社に上納するしかない。

  このような状況を克服するには,寺社の許認可権と座の特権の廃止と門前町に代る新しいコンセプトの大都市の誕生 が必要である。  それを可能にするのは,大名クラスの軍事力を持った人間だけである。  それを実現したのが織田信長<楽座・関所撤廃・城下町建設と楽市>であった。


E 国一揆と一向一揆

  一揆といえば普通 国一揆(国人層の反乱)であるが,1428年(正長元年)の初めての土民による一揆は土一揆と呼ばれる。  この時代を象徴する二つの大きな一揆。

  1. 山城国一揆(1485年)
  2. 畠山家の内紛による争乱の舞台となった山城国の国人が軍隊の完全な撤兵を要求して起こした一揆。  

    スローガンは
    1. 軍隊の撤退
    2. 寺社領の年貢は従来通りに
    3. 新関はなくせ

      彼等は自分の「国」のことを「惣国」と呼んだ。  地侍,土民による下からの突き上げで国人たちが動いたと考えられる。  その彼等は連帯組織「座」によって団結した。  彼等は巨額の賄賂を細川政元に贈ったから一揆は黙認されたのだが,惣国が他国へ波及し細川の領地丹波へ飛び火した。  それと一揆にはヴィジョンとリーダーがないという点から八年で終結することになった。

  3. 加賀一向一揆(1487年)
    この一揆は守護を追い出し百年続き,織田信長によってやっと終結させられた。

  本来,浄土真宗(一向宗)の宗祖親鸞の教えは阿弥陀如来の絶対性と極楽往生を信じて何もしなくていい,というもの。  従って儀式も教団も不要,修行も作善も不要になる。  その教えに忠実であった,親鸞の血筋を引く本願寺派は衰退する一方,浄土真宗の他の宗派が巧みなパフォーマンスで信者を増やした。

  本願寺派を中興したのが蓮如(第11世)である。  恐るべきエネルギーの固まり,5人の正妻から27人の子供を作り,85歳まで生きた。  蓮如の取った行動とは,

  ・ 親鸞の教えを手書きの,平易な文章で説いた“御文”を何千枚と書いて布教

  ・ 信者同士の小集会の勧め(“講”)

  これにより滅亡寸前の本願寺派の教勢を回復し,他の教団を圧倒した。

  巨大組織になった“講”はいったん出来上がると蓮如の思惑とは違う方向へ走り出す。  講の寄合いが,勉強会からリクリエーションの場,農民の領主や寺社に対する不満の捌け口になる。  暴走への転換点は地方武士(土豪・国人クラス)の一向宗への帰依である。  蓮如が信仰の拠点になる大寺院(=御坊)建設地として選んだのが越前河口荘の吉崎である。

  そもそも加賀の守護富樫政親と弟の幸千代は応仁の乱に東西に分かれて争った中。  政親に真宗専修寺派が加担,一揆を起こし,1476年(文明8年)幸千代の蓮台寺をおとす。  門徒たちは政親への年貢を納めなくなり,一揆と政親が対立抗争が始まる。  一揆は一揆を追放してしまう。  蓮如は暴走を戒める御文を度々発行したが効果なし。加賀は一揆の独立王国になった。


F 室町文化の光と影

(1)世阿弥の正体と「能面」の仕掛け

  怨霊と鎮魂――この二つの観念が,出雲大社を築き,「万葉集」を編み,「聖徳」太子を生み,「源氏物語」を作った。  そして怨霊信仰が生んだもう一つの芸術,それが能である。

  世阿弥が創始した能の形式で,最も評価されているのが夢幻能であるが,これは主人公が亡霊であるというユニークなものである。  この世に未練を残して死んだ人は必ず怨霊になり無闇に放置するとタタリをなす。  したがって,怨霊は単なる亡霊ではなく,「神」でもある。  だからこそ,怨霊信仰という「宗教」が根っこにある「宗教劇」で,亡霊が主役になれるのである。  亡霊の思いのたけを舞台の上で演じ(というより,その場に霊を呼び出し),その名を記憶に留めることこそ,最大の鎮魂であったと思う。

  このような高度な芸術が生れたのは,単に世阿弥(本名:観世三郎元清)の天才によるのではなく,超大物パトロン,足利義満が公私に亘って世阿弥を援助したからである。

  1374年(応安7年)世阿弥12歳,義満17歳のとき,京都の今熊野神社での興行に将軍が来臨するというので,世阿弥の父 観阿弥が一座の座長の権力で,本来長老が演じる『翁』という一種の神事のような演目に世阿弥を出演させ,義満の目にとまるように計らった。  当時 世阿弥はまだ鬼夜叉という芸名の絶世の美少年であった。  義満は大いに気に入りパトロンになる。  そして鬼夜叉の「家庭教師」として当代一の教養人関白二条良基を指名した。

  当時の常識としては,庶民は貴族と同じ場に立って言葉を交わすことすらできないのに,ましてや河原者と呼ばれた下賎の芸能人である。  しかし良基は和歌・連歌・史書などの最高の教育を鬼夜叉少年に施すうちに,その魅力のとりことなり,ついには「藤若」という名を与えた。  世阿弥が今日その著書『風姿花伝』などにより演劇理論家として知られるのは,その受けた教育によるところが大きい。  

  「怨霊鎮魂劇」がなぜもっと早い時期に生れなかったのか?  平家物語が琵琶法師という僧形の芸人によって語られるのかというと,演者には常に亡霊が憑依する(のりうつる)危険があると本気で信じられていたので,仏教という外来の思想を,怨霊鎮魂の方法論として,また死穢処理の方法論として利用するようになったからである。  平安時代の中頃は,藤原道長ですらいったん「死体」となると「死穢の汚染物」として山の中にすてられた。  道長の正式な墓は今でも所在不明である。

  鎌倉時代に入ると,仏教の僧侶が死体を丁寧に葬るということを始めた。  医者も高級な医者になるほど頭を剃って僧体となり法印のような位をもらっている。  そういう伝統が崩れたのは,江戸時代に入って儒教の影響力が強くなってからのことである。

  名前に阿弥(阿弥陀仏の略)を付けるのは,時宗の信者の慣習である。  しかし世阿弥,観阿弥が時宗の信者であった確証はない。  これは「僧に准じた」と考えればよい。  ただ演劇の場合,「入魂の演技」をすればするほど怨霊に憑依される危険性が高くなってしまう。  その問題を解決する手段が仮面である。  面という伝統的な道具を用いて,亡霊を,鬼神ではなく人間の亡霊を劇の主人公にしたことが,世阿弥の言う「申楽(猿楽)の能」の最大の功績である。

  日本の演劇史においては,喜劇の伝統の方が古い。  平安時代末期の猿楽も滑稽な仕草や物真似や台詞で,観客を笑わせるものだった。  演劇の重大な要素である「笑い」は狂言に行った。  能楽とは能と狂言という意味である。  世阿弥が能を芸術的に完成させたために,本流であったはずの狂言の方がむしろ「從」であるということになってしまった。  これは能が室町幕府「公認」の芸能になったことも大きい。

  能が現在も演じ続けられている理由の一つは,素人でも装束と面をつければ,プロの地謡の「伴奏」のもとに,それなりの芸が披露できるという点である。  秀吉は大の能ファンであった。  能は徳川幕府の公式式樂となった。

  世阿弥は長い間歴史上忘れられた存在であった。  世阿弥の著作が公刊されたのは明治以降のことで,その道の関係者以外の一般人にとっては全くの無名の人であった。  そこが松尾芭蕉などとは違う。   浄土真宗の開祖といわれる親鸞が長い間歴史の中に埋もれていた人であったことと似ている。


(2)日本将棋

  現在の将棋はもと小将棋(駒数40枚)といい,これ以前に大将棋(駒数130枚),中将棋(駒数92枚)が存在した。  大・中将棋は駒は「取り捨て」である。  「駒の再使用」は小将棋になってから採用されたルールである。  将棋の原型はインドで生れたチャトランガという戦争ゲーム,その後裔である西洋のチェス,中国の象棋,朝鮮の将棋やタイのマーク・ルックと日本将棋との大きな違いは「駒の再使用」にある。  この革命的なルールが生れたのは室町時代末期である。

  天文年間(1532〜1555)に「後奈良天皇がその臣,藤原晴光と伊勢守平貞孝に命じて,酔象を除いた」(『諸象戯図式』,元禄九年=1696年刊)というメモ的な文献の信頼性が将棋家元大橋本家の末裔大橋家に伝わる拓本によって裏づけされた。  「酔象」というのは,成ると「太子」となって「王将」の代りを務めるという駒で,これが中将棋の名残で最後まで残っていたのだが,これが取り除かれて現在の形になったというのである。  後奈良天皇は応仁の乱で焼け出された,史上最も貧乏な天皇である。  この天皇ほど戦争の嫌いな天皇はいなかったと思われる。  この「駒の再使用」ルールにより日本将棋は戦争ゲームからマネーゲームになった。


(3)生け花

  香華を手向けるというのはインドで生れた習慣である。  死体の腐臭がひどい熱帯では強烈な香料と強い香の花を消臭剤として用いてそれを防ぐ必要があった。  そこから仏像へも香華を手向ける習慣が生れた。  温帯である日本では,見栄えのよい花を立てるようになった。  昔は生け花でなく立て花といった。  京都六角堂(頂法寺)の裏に聖徳太子が沐浴したと伝えられる池があり,その池のほとりに建てられた僧房が池坊である。  その池坊に住む六角堂の僧の中から,「立て花名人」が輩出した。華道流派としての池坊の初代は専慶である。  生没年ははっきりしないが,応仁の乱の直前には頂法寺の執行(しぎょう)であり,1462年(寛正3年)には佐々木高秀の招きを受け,金瓶を花器として用い,種々の草花を活けたところ,洛中の大評判となって見物人がひきもきらなかった,と当時の一級史料である『碧山日録』にある。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 H戦国野望編―戦国混迷の時代に生き残る条件!」

発行:小学館(2001年)

@ 歴史書は古来から主として定住民(=農民)の立場で書かれてきた。  その中では非定住民(流通・交易を生業とする商人,遊牧民,金融業者,遊芸人など)は常に「悪」として描かれた。

  周に滅ぼされた殷王朝の部族としての名前は「商」である。  周は亡国の民を先祖の祭祀を絶やさないように(怨霊として祟らないように)特定の地域に移住させた。  そこが「宋」である。  収容されることを嫌った人々は「流浪の民」となり,生きるために始めた仕事=交易が「商業」である。  農業はモノを作るから生産性があるが,商業は生産性ゼロの卑しい職業とされた。

  ユダヤ人は紀元前に祖国を失って,非定住民となった。  しかし厳しい一神教―ユダヤ教を守って,二千年間アイデンティティを失わなかった。  ユダヤ教では,「キリストといわれるイエス」は真のキリスト(救世主,神)ではないが,キリスト教徒からみれば,ユダヤ人というのは,イエスを死刑に追いやった,とんでもない民族ということになる。  これがユダヤ人差別の根源の理由である。  中世ヨーロッパで「シャイロック」が職業とした金融業は,近代以前では利息という不労所得で儲ける賤業であった。

  実はユダヤ教でも貸した金に利息を取ることは悪いこととして禁止している。  しかし,それは同じユダヤ教徒の間では,ということで相手が異教徒ならお構いなしなのである。  彼等はそれしか生きる術がなかったのである。  今はベニスに住んでいても,例えば人種差別が起れば,別の国へさっさと移住する。  だから財産も分割して持っていて,通貨も一つのものにこだわらない。  当然,言語も多くの種類を身につけている。  定住民から見ると,ますます「不気味」に見えることにもなる。  こういう境遇に生きたユダヤ人は,どのような文化を生み出したか?

  それは,国家や民族をや身分を越えようという発想である。  キリスト教もユダヤ人にとっては「ユダヤ人イエス」が始めた一つの思想に過ぎない。  しかし,それが世界に広がるに従って,本来ユダヤ教のものである,絶対神の下では王も人民もタダの人に過ぎないという考え方が普及した。  これが民主主義の起源になった。  民主主義も近代資本主義も共産主義も,ユダヤ思想の強い影響下にある。


A 倭寇とは何か。

  1. 当初は,14世紀中頃に本格化した三島(壱岐,対馬,肥前の松浦・五島地方)の日本人の,朝鮮半島沿岸への海賊行為である。

  2. ただし,それは高麗や李氏朝鮮が商業(貿易)蔑視の中華思想の強い影響下にあったため,国同士の正常な交易体制を認めず,この頑迷な姿勢が日本側をして通常の通商行為から海賊行為に走らせた側面があること。

  3. そして,モンゴルの圧迫により高麗朝の力が弱まると,蔑視されていた朝鮮半島内の被差別民(「禾尺」(皮革の加工,柳器の制作などにしたがう集団)や「才人」(仮面芝居や軽業を職とした集団)など)のうち非定住民が「倭寇」を名乗って実質的な主体となったこと,即ちこれ以後はむしろ「朝鮮半島における偽倭の内乱」と認識すべきこと。

     1446年(世宗二十八,文安3年)判中枢院事李順蒙がその上書の中で,前朝(=高麗朝)の倭寇のうち日本人は1〜2割にすぎなかった,と報告している。

  4. 16世紀の倭寇の特色は,構成員の大部分が中国人で占められていたこと。  真倭といわれた日本人は10〜20%,偽倭,仮倭,装倭と呼ばれた中国人が主力であった。  これは中国側の『明史 日本伝』やその他官民の史料(例:『趙泰襄文集』 『籌海図編』)に書いてある。

     この時代の倭寇の最大のボスは,王直という名の中国人である。

      王直は安徽省の生れ,はじめは塩商人であったが,失敗して貿易商人となった。  日本に来航した時期は不明であるが,天文九年(1540年)に五島福江に来航し,領主宇久盛定に通商を求め,盛定は歓待し福江に居住させた。  現在の福江市唐人町にのこっている明人堂が,当時の王直の屋敷であったとの伝説がある。

      王直は天文11年(1542年)には平戸に移り,のちの印山寺屋敷附近に中国風の豪壮な屋敷を構えた。  平戸を根拠地とした裏には,当時の平戸領主松浦隆信の保護があったことは疑いない。  松浦氏が王直と組んで中国との密貿易<※※>をおこなっていたのである。(『長崎県の歴史』瀬野精一郎著 山川出版社)

    ※※ 農民政権である明は「海禁」という貿易禁止令を施いていたので,貿易はすべて密貿易になる。

  王直は1553年(嘉靖32年)に大船団で中国沿岸を襲った。  中国側で「嘉靖大倭寇」と呼ばれるもので,この時期が王直の最盛期であった。  王直は学問もあり,いわゆる親分肌で,リーダーとして資質には恵まれていたようだ。  彼の最期は,明の官憲に騙され捕縛されての処刑であった。

  倭寇の残虐行為は住民に対する虐殺が主なものだが,なかでも妊婦の腹を剖いて胎児を取り出したり(孕婦刳腹),赤ん坊を縛りつけ熱湯を浴びせる(縛嬰沃湯)ことが,最大の暴虐として明史には伝えられている。

  前記の 『籌海図編』には,「この国(明)の「はぐれ兵士」の方が,日本人よりも十倍も残虐である。」と書く。

  後期倭寇の展開は,郷紳や大商人層のきずなから自立しようとする中小商人団の抵抗ともみられ,これに呼応する民衆の反官・反権力的な性格をおびてきたものといえる。  そこで,これに驚いた明朝が,反乱平定のスローガンとして,これらの残虐をすべて倭寇の行為として宣伝し,・・・・・軍官民をあざむき,かつ鼓舞しようとした。  したがって悪賢い軍官民のなかには,これに便乗して不正を働き,奸計を転嫁し,悪事をおしかくし,姦邪をカムフラージュし,もって倭賊の侵掠をいよいよ誇大に吹聴した。(『倭寇』石原道博著 吉川弘文館)

  それにもかかわらず明朝の宣伝が中国人の間に「常識」として定着したのは,秀吉の朝鮮出兵時,秀吉軍の行った略奪や暴行のせいである。  「やっぱり倭寇は日本人だ」という「誤解」を定着させてしまったのである。   秀吉の朝鮮出兵を明では「万暦倭寇」と呼ぶ。

  (前期の)日本人倭寇の成した最大の悪業は,拉致,すなわち「人掠い」であった。  謡曲(能)に「唐船」という演目があるが,これは拉致された中国人を主人公とするお話である。  日本人倭寇はしばしば技術者を,或いは単純労働力として人間を多数日本へ強制連行しているのである。  なぜこれが分かるかというと,中国も朝鮮も,しばしば日本へ使者を送り「倭寇の取り締まり」と「拉致者の返還」を要求しているからである。  日本政府も国力が充実している時は誠実に対応している。  たとえば高麗から抗議を受けた鎌倉幕府は,直ちに犯人を逮捕し高麗の使者立会いのもとに,これを死罪に処している。  中華思想にも美点がある。  それは国家は国民を護るべきだ,という感覚が非常に強いことだ。  護民こそローマの昔から政治家の第一の責務と考えられてきたことなのだ。  「トリビューン」とはローマの護民官のことである。


B 鉄砲を伝えたのは「南蛮船に乗ったポルトガル人」ではない!?

  日本に鉄砲を伝えたのは倭寇の大ボス王直である。

  南蛮船と伝えられる明国船が島の南端,門倉岬の「前之浜」に漂着した。  この年(1543年,天文12年)の三月,種子島も戦国動乱の埒外ではなく,突如,大隈半島の祢寝<ねじめ>氏の来襲を受け敗北,屋久島を割譲することによって動乱を収終した。 南蛮船が漂着したときは,まさに失った屋久島奪回のため,緊迫した臨戦体制下にあった時である。

  漂着船は肥前平戸に居を構えた倭寇の大頭目王直の持船で,王直も五峰<五島列島の意味>と名を変えて乗船していた。  この船にたまたま乗っていたポルトガル人が鉄砲を所有,これを見た十六歳の少年島主時尭は戦局打開の新兵器と看破,これを入手するや直ちに刀鍛冶八板金兵衛に製作を命じた。  金兵衛は刀鍛冶の非凡な技術と努力によって短期間に国産化に成功,これが我が国の国産第一号の鉄砲となった。(『鉄砲伝来 種子島鉄砲』鉄砲館編集発行)


  鉄砲は一,二年のうちに紀州根来,泉州堺にその製造技術が伝えられた。

  ポルトガルで1563年に発行された,アントニオ・ガルバンという人の書いた『新旧大陸発見記』という本の中に,1542年に三人のポルトガル人が,中国船(ジャンク)に乗って雙嶼(リャンポー)(東シナ海に面した明の港町)に向って出航したが,台風に襲われて日本の種子島へ漂着した,と書かれてある。   『鉄炮記』は伝来の日を天文12年(1543年)8月25日としている。  『新旧大陸発見記』では三人のポルトガル人の名をアントニオ・ダモッタ,アントニオ・ベイショット,フランシスコ・ゼイモトの三人だと書いている。  『鉄炮記』だと,「牟良叔舎,喜利志多佗孟太」の二人である。  「牟良叔舎」は当時の明の発音で読むと「フランシスコ」になるという。  「喜利志多」は「クリストファー」,「佗孟太」は「ダモッタ」であることは間違いない。  「アントニオ」と「クリストファー」の違いはあるが,まず両者は同一人物と見てよかろう。

  鉄砲史研究の第一人者所荘吉氏の仮説ではこうなる。

  1542年に漂着した三人は貿易上非常に有利な島を発見したという情報を,チモールかマラッカかどこか南の国へ帰って報告し,また行こうと中国のジャンクに便乗して日本にやって来た。  いわゆるナウという大型のポルトガルの船は国王の認可状がないと動かせない。  脱走したポルトガル人が勝手に使うわけにいかない。  そこでジャンクに乗ってきた。  前年は台風に襲われて漂着したが,翌年は『鉄炮記』にも「我が西ノ村小浦に一大船有り」とあり,漂着したとは書いていない。  この時には自分たちの意志で鉄砲を持って通商目的でやって来たのだとする。


  ポルトガル人の誤算は,完成品である鉄砲を輸出して儲けようと思って二〜三丁をただでくれてやったのに,翌年,―正確には金兵衛は四ヶ月以内で国産化した計算になる。  翌年(1544年)正月十一日の戦いに金兵衛の鉄砲が使われているからである。―には国産化してしまったことであろう。   ただ,金兵衛が最初に作った銃は,よく筒底の部分が破裂した。  ポルトガル人の銃(所氏によればマラッカ型で,東南アジア製であろうという)はそういうことがなく,不発もない。  金兵衛は「焼き締め」で底を塞いだのだが,ポルトガル人の銃は筒の内側と,それを嵌め込む蓋に螺旋状の溝を彫り込み,きっちり締め,好きな時には蓋を空けて掃除もできる「螺子」の技術が使われていたからである。   これにはさすがの金兵衛もお手上げで,1544年にポルトガル人に教えを乞い,ようやくマスターすることができた。

  商人の気前の良さには常に「裏」がある。  黒色火薬は煙硝と硫黄と木炭を混合して作る。  煙硝は日本に産出しないから,ポルトガル人を通して輸入しなければならない。

  種子島時尭は,鉄砲に関する技術の全てを,紀州根来寺の「杉之坊」こと津田監物と,堺の貿易商橘屋又三郎に気前よく与えた。  なぜ独占しようとはしなかったのか?  出来なかったのである。  代償として煙硝の輸入ルートの確保についての協力を依頼したと考えれば理解できる。

  種子島の「宗旨」は法華宗(日蓮宗)である。  鉄砲伝来の百年前に律宗から改宗したのだ。  中心寺院である慈遠寺も法華宗の寺となり,ここから多くの学僧が本山へ修行に行った。  本山とは京の本能寺。  法華宗本門流の大本山である本能寺と,種子島の慈遠寺は本山と末寺という関係だったのである。

  戦国大名の中で,いち早く京へ入り,堺を直轄地としたのは信長である。  信長が上洛の際に寺に泊まったのは,当初洛中に武家の城がなかったからだが,もう一つの理由は「煙硝ルート」である。

  堺以西には国際貿易港がいくつかある。  山口,博多,平戸,坊津など。  毛利,大友,島津といった戦国大名は,このルートで煙硝を手に入れていた。  日本最初の大砲を作らせた実戦に用いたのは,信長ではなく,九州豊後の大友宗麟であり,日本最初の焼夷弾ともいうべき焙烙火矢を用いたのは毛利家配下の村上水軍なのである。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 I戦国覇王編―天下布武と信長の謎」

発行:小学館(2002年)

@ 織田信長は上洛以前から日本の大改革を生涯の目標としていた。 彼の天才的な思考,政治的手法と行動は後継者となった秀吉や家康によって模倣された。 ある意味で彼等のやったことは全て信長のパクリである。

  1. 安土城は軍事基地として優れ,政庁の機能も持つ最初の平城として画期的なもの。 安土城は大坂城,江戸城の原型である。

  2. 天皇家の圧服並びに生前に宣言して自身が神になることは家康(東照大権現)の独創ではない

  3. 日本統一のあとの大陸への侵攻・東南アジアへの進出が,果たされなかった信長の「大計画」である。


  信長に唯一欠けていたものは国家権力の正統性であった。 そのために,先ず,将軍義昭を保護し,その権威をフルに利用する。 一方義昭に対する,「殿中御掟」九か条と「追加」七か条(1569年=永禄12年),「五か条の事書」(1570年=永禄13年)を公開し,義昭から賞罰権を奪い,信長の認可なしに勝手な政治的行為をすること禁じた。 以後義昭は1573年(元亀4)信長に追放されるまで謀略による反信長闘争に明け暮れる。 

  1570年(元亀元年),越前の朝倉氏攻略に向った時の義弟浅井長政の裏切りは信長の大誤算であった。 そのため大ピンチに陥るが,「逃げの一手」で辛うじて岐阜に逃げ帰る。 この時羽柴秀吉と徳川家康が殿軍を務めた。 浅井の裏切りの背後には義昭の扇動があったと思われる。

  信長は生来嗜虐的な性向がある殺戮好きな人間などではなく,その前半生は非常に寛容で残虐性のカケラも見られない。 特に身内には甘えとも言うべき強い信頼感を抱いている。 弟信行との抗争においても信行は殺したがその子津田信澄は家臣とし,信行に従った柴田勝家らには帰参を許している。 斉藤氏から美濃を奪った時も当主龍興(道三の孫)は助命し退去させている。 妾腹の兄信広が反乱した時もその罪を許している。 また実の娘は危険な政略結婚には利用していない。 長女五コは最も信頼できる同盟者家康の嫡子に嫁がせたに過ぎない。

  長政の裏切りは信長の天下統一を数年遅らせた。 長政の裏切りが信長のトラウマとなってその後の戦争の形態を変えたという<和田惟一郎氏>の分析は当を得ている。 小谷城攻略の前哨戦で長政を野戦に引っ張りだすため,領国の村々を焼き払った。 つまり非戦闘員の虐殺である。 但し,苛烈な戦国時代には常識として,「領民を守れない領主には領主の資格などない」という 「護民官(tribune) 」的感覚がある。 「虐殺(根切り)によって,民衆が信長に対して怨恨を持つよりも,信長の虐殺を招いた領主から人民が離れて行くのである」<神田千里氏:信長と石山合戦 中世の信仰と一揆>


A 信長が宗教勢力の牙(=武力,折伏)を抜いたお陰で日本人は宗教に免疫になった

  信長は無神論者ではない。 湯起請とか超自然的な存在は信じていた。 闇雲に宗教弾圧をしたのではない。 信長の真意は宗教活動に武力を用いなければ教団には一切干渉しないというものであった。 当時の巨大宗教勢力は,既得権益としての経済力を備えた武装集団であり,彼等にとっての外敵(=異教徒,或いは異なる宗派)との抗争は血を血で洗う殺戮になることが珍しくなかった。 天下布武のためには宗教団体の武装解除は絶対に必要であった。

  1571年(元亀2年)信長は比叡山を焼き打ちするが,これは不意打ちではない。 前年,浅井・朝倉に山内を「基地」として提供していた比叡山に,両者と手を切れば領地を返還するが,もし断れば一山すべて焼き払うと通告していた。 比叡山は信長によって脅かされた経済的利権を守ろうとして反抗し,「戦国大名」としての比叡山は滅亡した。

  もう一つの宗教勢力,比叡山よりも組織力・資金力では遥かに上回る本願寺に対する十年戦争(1570〜1580年の石山合戦)は顕如の檄文(信長は教団を潰そうとしている仏敵だという誤解に基づく)により本願寺側から宣戦布告した戦いである。  一時的に講和した(1573年=天正元年)が直ぐに協定を破って再挙兵した。 「準門跡」であり門徒にとっては生き神様である顕如にとり,意識の上では信長は成り上がりの虫けら的存在であったろう。

  信長は伊勢長島の一向一揆を殲滅,続いて越前国を勝手に占領した一向一揆(本願寺側も公認した)を攻め,徹底的に殲滅した。 1576年(天正4年)信長は安土城を着工,ここを拠点に本格的に石山本願寺攻略に入る。  顕如は毛利家に後方支援を頼み籠城する。 信長は1578年(天正6年) 恐らく世界でも画期的な「鉄甲船」を造り毛利方の村上水軍を撃破し,制海権を確保して,石山本願寺への補給ルートを絶つ。 同年顕如は有力支援大名の上杉謙信を失い,翌年翌翌年に支持する三木氏,別所氏も信長に落され1580年(天正8年)最終講和に応じ石山開城,退去する。 信長はこの時も教団を解散はさせていない。

  1579年(天正7年)完成した安土城にて信長は法華宗(日蓮宗)と浄土宗の公開討論(安土宗論)を行わせた。 これはのちに法華宗側が強弁し学界の定説ともなっている八百長試合などではなかった。 論争に敗れた法華宗側は詫証文を書いて,今後他の宗派に対して一切法難(=折伏,強引な信仰の押しつけ)はしないとした。  本能寺は法華宗の寺院であるが,信長は最後までここを京都での定宿としていたのである。


B 安土城は信長教の神殿,信長は自己神格化により天皇制に挑んだ

  信長の踏み込んで行った「危険な道」―それはあらゆる世俗的権力,宗教勢力を超えた存在になることであった。 

  1573年(天正元年),信長は義昭を追放した。 次の「権威闘争」の相手は天皇家になる。 この年は信長の望んだ年号「天正」が施行された年である。 信長は時の天皇正親町(おうぎまち)天皇の引退と誠仁親王への譲位を望んでいた。 もともと自分の京都宿所として建設した二条第を誠仁親王に与え「下御所」となし,次期天皇をコントロール下に置こうとしたと考えられる。 朝廷側は信長に官職や位階を与えることで朝廷という組織に取りこもうとする。 1578年(天正6年)に信長は正二位となるが,なってまもない右大臣と右近衛大将の官職を辞す。 理由は信長自身の文書によると,天下統一事業がまだ完成していないから。 完成した暁には再び登用していただくと書いている。 1581年(天正9年)左大臣に任ぜられるが辞退している。 この年京都にて「馬揃え」を行い正親町天皇の臨席を仰ぐが,これは天皇への威嚇であると見られる。 信長の死の前月,三職推任(太政大臣・関白・将軍)の話が起きた。 これは信長側から朝廷へ働きかけたものらしい。

  信長は暦にも大変関心があった。 戦国時代の太陰太陽暦は二種あった。 関西で使用された京暦(宣明暦)と尾張や関東で使用された三島暦である (暦は陰陽頭が作暦に携わって来た。 当時土御門家が世襲し,同家の作る京暦が各地の暦の基準とされていた) 。  違いは閏月の入れ方にある。 信長は日食の予想の仕方から三島暦が正しいと考えたもようで,本能寺の変のあった1582年(天正10年)の正月にも改暦を朝廷に申し入れており,死の前日の6月1日(旧暦)にも挨拶に訪れた公家衆の前でもその話を持ち出している。 丁度この年キリスト教国で実施されようとしていたグレゴリオ暦について信長が知らなかった筈はない。

安土城の構成:最下層に高さ12間の石蔵を置きそれを基礎構造として七つの層を重ねたもの
地下1階----宝塔が置かれた
・第2層----盆山が置かれた
・第1〜3層----華麗な書院造
・第4層----岩の間,竹の間,松の間等
・第5層----(絵が無し)
・第6層----釈門十弟子<仏教>
・第7層(天守閣)----天井に天人御影向,周囲に三皇五帝孔門十哲商山四皓七賢など
影向(ようごう)=神仏が仮の姿をとって現れること。 神仏の来臨。

  安土とは平安楽土から取った信長の命名によるものに間違いない。 信長公記では天守閣は天主と書かれる。 信長が完成後この天主に入ったのは1579年(天正7年)5月11日(旧暦)である。 この日はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記述によって見ると信長の誕生日である。 この日信長は「影向の間」に神としての就任式を行い,この世に降臨したのである。

  安土城の中にある総見寺は,信長の誕生日を祝祭日と定め,参詣する者には商売繁盛,延命長寿,子孫繁栄,家内安全,病気平癒,心願成就の現世利益がかなうとされていた。<ルイス・フロイス> 浄土真宗の教義では人は死ねば阿弥陀如来のいる西方浄土へ行けるというもの。 信長は誰も見たことのない来世や霊魂の不滅は信じていなかった。 法華宗(禅宗)で理論武装し,自身を生き神にすることで浄土宗に対抗しようとしていた。

  ただ信長の本心安土城は貿易拠点としてまた軍事拠点としても価値が高い大坂の地に作りたかったのではないか。 安土の欠点は海に面していない内陸にあることである。 安土城は本願寺側が抵抗勢力として突っ張ったために採った暫定プランであったに違いない。 信長にとって安土城は大坂移転までの仮住まいの暫定首都である。 そんな時人は余り時間をかけずに(3年で),かつ実験的な試みをしてみようと思うであろう。 

  本能寺の変の翌年,まだ政権が安定してもいない1583年(天正11年)の9月1日羽柴秀吉は大坂城築城の鍬初め(起工式)を行った。 これは信長の時代に計画が既にできており,秀吉はそれをちゃっかり頂いたと考えるのが妥当だろう。 ルイス・フロイスによれば秀吉は内裏(朝廷)と都の主要寺院,そして都の市(まち)そのものも この地に移転することを命じたとのことである。 この話は家康の家臣本多忠勝の書状にも出てくる,実現はしなかったが。 

  鉄砲伝来以後,山城の価値はなくなり,これ以後の城は全て大坂城のコピーであるといえる。 広島城も姫路城も名古屋城も,もちろん江戸城もそうである。


C 信長は天皇家をどうしようとしていたか

  信長が天皇家の抹殺ないし事実上の消去を考えていたとしたら,それは当然秀吉や家康に引き継がれていたはず。 秀吉が権力の絶頂に達した時に天皇をどう扱うつもりでいたかを教える史料がある。 1592年(天正20年)の秀吉から養子の関白秀次への文書の中で,二年後にも大唐(明)の都(北京)へ後陽成天皇を移し,明の関白は秀次を,日本の関白には羽柴秀保(秀次の弟)又は宇喜多秀家がよい。 空位となった日本の帝位は良仁親王か智仁親王とする・・・・と述べている<日本戦史 朝鮮役文書>。 秀吉の祐筆の手紙によれば,秀吉自身は北京から貿易都市寧波(にんぽう)に居所を移して天竺まで手に入れようという。 さらに秀吉は琉球・高山国(台湾)・吊宋(ルソン)にも服属と入質要求をしており,…東アジア全域に版図を拡大しようとする秀吉の構想を見ることができる。<北島万次:秀吉の朝鮮侵略>

  秀吉には最新ハイテク兵器鉄砲を多く所持した精兵を抱えていた。 日本は恐らく当時の世界最大の陸軍国であった。 更に身近な手本としてポルトガル・イスパニアのカトリック宣教師がいた。 彼等は単なる宗教者ではなく「海外侵略の尖兵」であった。

  信長自身も大陸侵攻について宣教師に語っている。 毛利を征服し終えて日本の全66カ国の絶対領主となったならば,シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること,および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた。<1582年(天正10年) ルイス・フロイス>  秀吉の構想は信長の構想の借り物<だと思う。


D 家康は如何にして天皇家を消去したか

  家康の採った方法は時間軸の操作であった。 

  「もともと,東海道53次というのは,華厳経で善哉童子が53人の善智識を歴訪して教えを受けるという故事にもとづいて,53の宿駅がつくられたといわれています。 (中略) 華厳経をよく読むと,善哉童子は53人目の普賢菩薩の十六願を聞いて西方阿弥陀浄土に往生したいと願うようになる。 そうすると終着の京都は “阿弥陀浄土” ということになるわけでしょう。 つまり徳川家は,天皇家を生きながら死者の国・阿弥陀浄土へ閉じ込めてしまったことになるわけです。 ・・・家康は死者ではなく,東照大権現という“神様”ですからね。・・・つまり江戸は光り輝く未來神の東照大権現に守護された現世浄土ということになる。」<小松和彦・内藤正敏共著:鬼がつくった国・日本 歴史を動かしてきた「闇」の力とは>


E なぜ誰も天皇家を抹殺しようとは考えなかったのか

  一言でいうとタタリが恐いからである。 日本においてバックボーンになっているのは怨霊信仰(多神教)であり,その祭司である天皇家を滅ぼすことは極めて反動(タタリや抹殺者への反感)が大きいと予想されるからである。


F 本能寺の変はなぜ起きたか

  黒幕説がある。 黒幕=義昭・朝廷・イエズス会などが挙げられる。 しかしいずれも無理がある。 きっかけは,光秀が担当していた対長曽我部外交を無視する形で信長が四国征伐を開始しようとしたことで面子丸つぶれになったからかもしれないが,やはり司馬遼太郎氏が指摘したように,倒さんがために倒したという発作性の強い行動であると思う。

  信長が言ったという「是非に及ばず」という言葉は,善悪をあれこれ論じるまでもない,理屈ではない,という意味である。 信長という独断専行型のリーダーが典型的な日本人である光秀には耐えられなかった,だから後先のことも考えず実行した。 計算外の非理性的な行動であったが故に,稀代の英雄であり名将である信長にも読めなかったということなのであろう。

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 J戦国乱世編―朝鮮出兵と秀吉の謎」

発行:小学館(2004年)

秀吉の虚像と実像

@ 右手の指が六本あった事実を隠す差別

  秀吉は先天的な多指症[多趾症](ポリダクトリー polydactyl, polydactylism)であった。 このことはルイス・フロイスの日本史に記載されている。 1587年(天正15年)に秀吉が宣教師を弾圧し始めたころの記事の中に 

  「彼は美濃の国に出で,貧しい百姓の倅として生れた。 若い頃には山で薪を取り,それを売って生計を立てていた。 (中略) 彼は身長が低く,また醜悪な容貌の持主で,片手には六本の指があった。 目がとび出ており,シナ人のように髭が少なかった。」<『ルイス・フロイス 日本史1 豊臣秀吉篇T』松田毅一/川崎桃太訳 中央公論社 ,第16章>

とある。

  また秀吉と親しかった前田利家の『国祖遺言』の中にも,「太閤様ハ,右之手,おや由飛,一ツ,多六御座候(中略) 信長公,太こう様ヲ異名(=あだ名)ニ,六ツめカ(=六つめが)なとと御意候由,」と書かれている。  戦国時代において自分の指一本切り落とすくらいはいとも簡単なことであったのに彼は敢えてしなかったのは興味深い。 歴史書も小説もその重要な事実を無視しているのは一種の差別である。


A 「木下」藤吉郎が「羽柴→豊臣」秀吉へと改姓を繰り返した謎

  秀吉は出世魚のように名前を変えていった。  彼の妻「おね」(「ね」一字が本名でそれに「お」をつけた形。 ねねは俗称で正しくない)の実家の姓は杉原であるが,その本家は播磨国の木下という一族である。 もともと姓を持たない最下層の農民上りの秀吉は上司の娘を娶った時以来,妻の実家の姓を名乗ったのであろう。  木下姓にはあまり愛着はなかったようである。

  「羽柴」という姓が柴田勝家と丹羽長秀の姓から一字づつ取ったものというのも理屈から言うとおかしい。  柴田勝家は重役クラスであるが丹羽はそれより格下である。 柴田勝家クラスの武将としてはほかに佐久間信盛もいた。 成り上がり者に対する反感との闘いでもあっであろう前半生の秀吉が特定の二人だけにゴマをするような改姓はする筈がない。  「羽柴」は「端柴」であろう。  森や林の木々の最も低い部分である柴の,さらに「はんぱな」部分,それが「ハシバ」である。  秀吉がもともと「ハシバ」売りではなかったか,と指摘したのは作家の八切止夫氏である。 また八切氏は「秀吉」は「稗吉(ヒエヨシ)」(飢饉の時,米は無理でもせめて稗くらいは不自由しないでくれという親の願いからの命名)から転化したものではないかとも言う。 「ハシバ売りのヒエヨシ」は「皆様よりずっと卑しい身分の出でございます」という,秀吉の保身術なのである。 

  しかし秀吉は,本能寺の変というアクシデントのために,それまでの人生設計とは百八十度違うことをしなければならなくなった。 多くの人は,歴史学者も含めて,秀吉の軍事的な努力は認めている。 しかし,それに勝るとも劣らず,いや,ある意味で信長以上に必要だったのが,自己の権力を正統なものとする,「正統性の創造」であった。  取り敢えずは,信長が放棄した「古い」手段―将軍や天皇の伝統的な権威に頼ること―をとるしかない。 最初に,足利義昭の養子になることを申し入れたが,これは義昭に拒否された。 それで藤原氏の一族である菊亭晴季をブレーンとし,その助力と助言を得て,同じ藤原氏の中のエリート五摂家の一つ近衛家の猶子(財産相続権のない養子,養子分)になった。   秀吉は藤原(近衛)秀吉となって,関白に任官することに成功した。   これはかなり強引な手法である。  次ぎに「豊臣」という新らしい姓を朝廷から貰って(創設して),五摂家に匹敵する名家として独立した。  秀吉は「天皇の臣下たる関白」に甘んじる気は毛頭なく,関白を秀次に譲る。  関白を引退した人のことを,太閤と呼ぶ。  史上「太閤」は何人もいたが,今日「太閤」といえば秀吉の代名詞のようになっている。



秀吉の天下経営T(豊臣の平和篇)

@ 惣無事令(そうぶしれい)[1587(天正15)年]

  豊臣平和令ともいう。 狭義には豊臣政権の私戦禁止氏令。  広義には豊臣政権による天下一統の基調を安穏・平和を求める全社会的動向の総括として把える,政治史分析の新しい仮設。

  この見解の提唱者でもある藤木久志氏よれば,秀吉は関白の権威をバックに,戦国争乱の原因となる戦国大名同士の領土争いを豊臣裁判権によって解決することを目的としたという。  刀狩令[1588(天正16)年]即ち農民の武装解除も,海賊停止令[1588(天正16)年]も,この平和令の一環である。


A 方広寺の大仏建立

  秀吉は,刀狩令の中で,没収した刀や槍は溶かして大仏や大仏殿の釘やカスガイにする,と述べている。  この言い草はあまりにもわざとらしく,当時でも興福寺の僧が「本当は一揆防ぎのためさ」と日記に書き残しているほどなのだが,秀吉は実際に大仏も大仏殿も造ったのである。  大仏は工期短縮のために木造にしたが,建立当初のもの(高さ約19メートル)は奈良の大仏(高さ約15メートル)より大きいものであった。 ただ建立後まもなく焼失し,今は残っていない。

  建立の隠された目的は宗教<仏教界>の統制にあった。  これ以前,秀吉は高野山金剛峯寺を無血で武装解除している。 この時の高野山側の「担当者」木食応其を「引き抜いて」大仏建立の「プロデューサー」の任にあたらせた。 完成した大仏の千僧供養と称し,各宗派にそれぞれ百人の僧を出仕させるように「招待状」を出した。 いわば踏絵である。  この「合同法要」に,断固出仕を拒否したのが,京都妙覚寺の日奥を中心とするグループである。  このグループを現在「不受不施派」と呼ぶ。 日蓮宗がこの「合同法要参加問題」で,二派に分裂したために生じたグループである。  家康はこの「不受不施派」を徹底的に弾圧する。  家康の時代,仏教寺院は完全に丸腰となり,檀家制度が確立している。  尚,江戸時代の仏教政策で,もう一つ重要なのは本山末寺制度である。


B 「土地台帳」と「枡の統一」により始めて国力を算出した太閤検地

  検地とは直接耕地(田畑)を測量して生産高を調べることである。  検地は信長や他の戦国大名によって先鞭はつけられていたが,これを強大な軍事力を背景に全国規模で行い度量衡の統一まで行ったのは秀吉が初めてである。  戦国時代は貫高制であったが,これ以降石高制になる。  大化改新以来,1反は360坪,そこから収穫できるできる米が1石(=1000合)という決めがあったが,秀吉は1反=300坪に改めた。 そして耕地の条件の違いを考慮し,上田は「1石5斗」,中田は「1石3斗」,下田は「1石1斗」と規定した。 畑についても同じような基準を定めた。  太閤検地によって判明した日本の国力は,総石高およそ1,850万石,一石=一人という換算をすると,総人口およそ1,850万人ということになる。  江戸時代の大名の石高と兵役軍人の比率を定めた「御軍役人数割」によると,10万石当り2,155人である。  これを当てはめると,秀吉の時代は日本全体で40万人の兵士を動員できることになる。  しかも,戦国時代の内戦で鍛え抜かれた熟練した兵士をである。



秀吉の天下統一経営U(太閤の外征篇―朝鮮征伐にみる日本人の贖罪史観)

@ 誇大妄想ではなかった東アジア支配

  1592年(天正20年)の秀吉から養子の関白秀次への文書の中で,二年後にも大唐(明)の都(北京)へ後陽成天皇を移し,明の関白は秀次を,日本の関白には羽柴秀保(秀次の弟)又は宇喜多秀家がよい。  空位となった日本の帝位は良仁親王か智仁親王とする・・・・と述べている<日本戦史 朝鮮役文書>。 秀吉の祐筆の手紙によれば,秀吉自身は北京から貿易都市寧波(にんぽう)に居所を移して天竺まで手に入れようという。 さらに秀吉は琉球・高山国(台湾)・吊宋(ルソン)にも服属と入質要求をしており,(中略)東アジア全域に版図を拡大しようとする秀吉の構想を見ることができる。<北島万次:秀吉の朝鮮侵略>

  この構想は,モンゴルや満州族による中国支配と同じパターンである。

  チンギス汗の孫フビライ(モンゴル帝国第五代の皇帝,元帝国の初代皇帝=世祖)は金を滅ぼし,宋を併合し,都を大都(のちの北京)に移し,国号を元と定めた。

  ヌルハチ(太祖)は国号を後金と称し,瀋陽に都し,その子太宗は国号を清と改め,孫の世祖の時に中国に入って都を北京に移し,国号を元と定めた。 中国を本格的に経営するには「本社」を中国に移さねばならないのである。 


A 乱世を統一した国は海外侵略に乗り出す歴史法則

  秀吉はいつ朝鮮征伐<注記>(当時の言い方ては「唐入り」)を決意したのか?  原点は信長にある。

  信長は,(中略)毛利を征服し終えて日本の全六十六カ国の絶対領主となったならば,シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること,および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた。

(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』 第10期第6巻 東光英訳 同朋社出版刊)

  乱世を制するには強力な軍隊がなければならない。  「乱世が平定された」ということはその強力な軍隊の働く場所も仕事もなくなったということである。  当然軍隊は次ぎの「獲物」を求める。  アレクサンドロス大王,チンギス汗,ヌルハチはしたのはそういうことで,これは必然の結果なのである。

  アレクサンドロスがその遠征(侵略)を中止したのは,中近東を征服し,インドの西までたどりついた時,それまで忠実に従ってきた部下の兵士たちが,「もういい,休みたい」と言ったからだ。 逆に言えば,ペルシア,シリア,エジプトあたりの遠征では文句を言わずついてきた,ということでもある。  戦争に勝ち続ける限り,トップも部下もうるおうからだ。  家康の成功の陰には,秀吉の海外領土獲得のプロジェクトの失敗があり,だからこそ大名たちは「もう領土拡張は必要ない」と納得した,ということなのである。


【注記】
  征伐>という言葉は,フビライも日本遠征を日本征伐と称しているように当時普通に用いられた用語である。  前近代において,戦争あるいは侵略は決して絶対悪ではない,ということを認識する必要がある。 1592年の秀吉の「唐入り」のことを,日本では「文禄の役」と言ったが,朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ぶ。  「壬辰」は干支,「倭」は日本に対する蔑称,「乱」は上位に対する下位の反乱を意味する言葉である。   因みに李氏朝鮮では1627年の後金による侵略を「丁卯胡乱」,1636〜1637年の清による侵略を「丙子胡乱」と呼ぶ。   朝鮮にとって操を立てるべき国は明であるから,後金とその後身である清は「胡」<エビス>であるという小中華思想による命名である。

  後者の戦争において朝鮮の仁祖王は清の太宗に「逆らえば皆殺しにする」と最後通牒を突き付けられ,降伏する。  王は「胡服」を着て京城近郊に造られた受降壇に赴き,太宗に屈辱的な三跪九叩頭の拝礼をさせられた。  清はその記録を「大清皇帝功徳碑」という石碑にして残した。  歴代の朝鮮国王は,この受降壇を恒久化した施設『迎恩門』で,清の勅使に向って三跪九叩頭を行った。  日清戦争(中国・韓国では甲午戦争という)後,中国の属国から脱して独立することができた朝鮮は迎恩門を壊してその跡に独立門を建てたのである。


B 「唐入りは大胆で無謀」と評価したフロイスのキリスト教的偏見

  秀吉の「唐入り」がまったくの無謀な夢物語であるという評価は,江戸時代に入っての神君家康に対する阿諛追従も入った結果論である。  日本がロシアに宣戦布告したのも当時の世界の見方として無謀な暴挙であった。

  「稀有の熟慮と旺盛な才覚の持主でありながら,(老)関白はいかにしてこのように大胆で無謀なことを企て,かつ着手しようと考え得たのであろうか。  それ(シナの征服事業)はもろもろの(話題の)中で,日本中を未曾有の不思議な驚きで掩い,人々の判断を狂わせ,考えを一点に集中させ,まるで何かにとりつかれたかのように口にせずにはおれないことであった。

  事実,それ(シナの征服事業)に伴う困難は,あまりにも明瞭であり,その危険はいとも切迫したものであった。」<『ルイス・フロイス 日本史2 豊臣秀吉篇U』松田毅一/川崎桃太訳 中央公論社 ,第35章>

  こういうフロイスの評価には「キリスト教的偏見」が混じっている。  インカ帝国を滅ぼしたピサロのやり方も「大胆,無謀,そして卑劣」なものであったが,否定的な評価は一切ない。  ピサロがキリストヘ徒であり,インカの王が異教徒だからである。

  フロイスはポルトガル人でドミニコ会ではなくイエズス会だが,この時代のポルトガルとスペインは,全く同じ強烈な使命感を持っていた。  すなわち,世界はすべてカトリック国になるべきである,という信念だ。  一般に「布教」というと平和目的のように聞こえるかもしれないが,実際行われていたことは軍事的征服つまり侵略なのである。  国を滅ぼして宗教と言語を押しつけるのが一番手っ取り早い「布教」だからだ。

  彼等は中国征服の野望すなわち「唐入り」すら念頭に置いていた。  フィリピンのマニラ司ヘであったフライ・ドミンゴ・デ・サラサールはスペイン国王フェリーペ二世(当時ポルトガル国王も兼ねていた)に,「陛下はインド全域にわたって権利を有しており,またポルトガル国王でもあるので,シナとそれに隣接する諸王国及び東インド全域に対して権利を有するので,シナの武力から被害を受けないだけの軍隊を派遣することができる。  そして仮令それを妨害しようとする者がいても,この軍隊は中国国内に入り,福音の宣布を許すようシナの国王と統治者達に強要し,説教者達が被害を受けないように,これを守ってやることができる。(以下略)」と進言している。  この書簡の後半では,イエズ会総長を通して日本人にスペイン人がシナに攻め入る時には参加せよと指示を与えるよう,とも進言している。


C 「唐入り」を決意させた宣教師コエリョの日本征服計画

  なぜ秀吉は「明の征服は可能」などと確信したのだろうか。  実際に侵攻が行われた段階では,多くの識者が指摘しているように,秀吉は明や朝鮮の地勢や外交の常識について驚くほどの無知をさらけ出している。  秀吉に「情報」を与え,「確信」させた者,それはキリスト教宣教師たち以外にはない。  しかし実際の歴史は,なぜ「日本・スペイン連合軍による唐入り」という形にならなかったのだろうか?

  この流れを変えたのは,イエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョである。  日本巡察師アレサンドロ・バリニャーノが日本人の武勇を評価し征服するのは困難と見ていたのに対し,コエリョは日本人キリスト教徒の手を借りれば簡単に征服できると考えていた。  コエリョは既に1585年(天正13年)明より先に日本を征服するよう,フィリピン総督宛てに意見書を送っている。

  作家村松剛氏は著書『醒めた炎』の中で分析している。

  秀吉はイエズス会の明征服計画を明かに探知していた。  シナ大陸が白人の支配下に落ちれば,日本自体の安全が危険にさらされる。(中略) スペインが兵力の不足に悩んでいることを知っていた秀吉は,彼らの計画を先取りする方策を考えたのだろう。 (中略) 関白就任後の秀吉は(1586年5月4日)大坂城にコエリョを招き,外航用の大型帆船2隻を船員付きで売却してほしいとたのんだ。  交換条件として秀吉が提示したのは,(征服後の)明でのカトリック布教の自由だった。  外航用の大型帆船を建造する技術が,当時の日本にはなかった。

  だがコエリョの意図は,どこまでも日本の支配にあった。  彼は二年後に,渡海には役にたたない平底のフスタ船に乗って博多にいた秀吉の前に現われ,その火砲の威力を誇示した。  軍事力によって,彼は秀吉を威嚇しようとしたのである。  日本のカトリツクの運命が,このときに決定される。

  <『ルイス・フロイス 日本史1  豊臣秀吉篇T』松田毅一/川崎桃太訳 中央公論社 ,第9章>にその時の秀吉の発言が記されている。

  「(前略)・・・・・・予は日本全国を帰服せしめたうえは,もはや領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わぬし,その他何ものも欲しくない。  ただ予の名声と権勢を死後に伝えしめることを望むのみである。  日本国内を無事安穏に統治したく,それが実現したうえは,この国を弟の美濃殿(=羽柴秀長)に譲り,予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。  それゆえその準備として大軍を渡海させるために(目下)二千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。  なお予としては,伴天連らに対して,十分に儀装した二隻の大型ナウを斡旋してもらいたい(と願う)外,援助を求めるつもりはない。 そしてそれらのナウは無償で貰う考えは毛頭なく,(それらの)船に必要なものは一切支払うであろう。 (提供されるポルトガルの)航海士たちは練達の人々である(べきで),彼らには封禄および銀をとらせるであろう。  また万一予がこの事業(の間)に死ぬことがあろうとも,予はなんら悔いるところはないであろう。(以下略)」

  この武力による威嚇はまったくの逆効果であった。  秀吉はキリスト教徒に「布教の自由」というエサを与えたつもりだった。  キリスト教とはそんな生易しいものではないことに,秀吉は気がついたのだ。


D 「唐入り」の失敗の有力な要因―情報不足と外交ブレーンの欠如

  秀吉は朝鮮は対馬の宗氏の支配下にあると思い込んでいた。  間に立った宗氏も誤解を解くことをせず,二枚舌外交を行い,破綻する。  秀吉は朝鮮国王に上洛を要求し,宗氏はそれを天下統一の祝賀使節(通信使)の派遣依頼にすりかえた。  

  宗氏の顔を立てて送られた使節に対して,秀吉は朝貢してきたものと思い込み,明を征服するから協力せよと要請してしまう。  朝鮮側は秀吉が本気なのかどうかについて,内部党派争いにからめて誤った判断をし,迎え撃つ準備を怠った。  以降のことは広く周知のことなので省略する。  補給線に悩む日本軍と明の援軍との戦い, 朝鮮国内の義兵の活躍, 小西行長(日本)と沈維敬(明)によるゴマカシ外交の破綻, 慶長の役(朝鮮側のいう丁酉倭乱)へと歴史は回る。

  秀吉が「唐入り」に踏み切ったのは,国内の統一が家康の臣従・北条氏降伏・伊達氏降伏を以って完了したのちであり,信長の死後10年を経てからである。 

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☆ 井沢元彦著 「逆説の日本史 K近世暁光編―天下泰平と家康の謎」

発行:小学館(2005年)

@ 関ヶ原合戦前夜と戦後処理が明治維新へ及ぼした影響(長州・薩摩・土佐各藩)

  毛利元就の孫で,中国地方十ヶ国120万石の大大名であった毛利輝元は,おそらく祖父元就に対する劣等感をもっていたために,石田光成の使者安国寺恵瓊に巧みに家康の専横に対する反発をあおられて西軍の総大将になった。  しかし天下の大勢は家康にありと見る毛利軍の黒幕吉川広家は大阪城内に謀略情報を流して輝元を大坂城に足止めさせる一方,関ヶ原合戦(9月15日)の前日,東軍の参謀黒田長政を通して「明日の合戦には毛利本軍は参加しないから毛利の本領安堵(保証)を認めてくれ」という極めてムシのいい意向を家康に伝える。  家康は家臣の名前でそれを確約する請書を毛利側に出した。

  「バカ殿」輝元は大いに喜び,合戦のあと養子秀元の,秀頼を擁して大坂城で一戦すべしとの進言も退け,あっさりと大坂城を退去した。  しかし家康は,吉川広家には周防・長門の二国を与えるが,毛利本家は取り潰すと宣告,しかし広家の懇願を受けた家康はしぶったあげく毛利本家に周防・長門36万石,吉川広家に岩国3万石で決着させた。  もし毛利が秀頼という錦の御旗を手にしたまま,籠城すれば,大領地と水軍による補給の経験も有する毛利は有利な講和条件を引出すことができた筈である。  現に薩摩の島津義弘は関ヶ原の戦場からの壮絶苛烈な撤退作戦を敢行することで,薩摩恐るべしという評価を得,遠国ということもあって本領は安堵されている。

  ここから長州藩(毛利)が学び,明治維新の際に生かされた教訓は「絶対徳川とは妥協しないこと」 「戦うなら徹底的にやる」ということだろう。

  薩摩藩は中央の情報にうとかったため,軍勢を呼び寄せることもしないまま,また,本来家康方につく積もりでいたのに,根回し不足から鳥居元忠に伏見城入城を断わられ,やむなく小人数のまま三成軍に加わる。  関ヶ原では合戦そのものには参加していない。  ここから引出される教訓は,もしまた徳川と争うような事態が起こったら,情報収集につとめ,決して不利な状況で参戦することのないようにすることである。

  掛川6万石の城主であった山内一豊は,7月25日に行われた家康軍の小山での軍議において,黒田長政の弁舌に乗せられた福島正則が「内府(家康)にお味方する」と発言したのに続いて,兵を全て連れて参戦するので,掛川城は家康の家来衆に管理してもらいたいと,申し出る。  家族を人質として差し出すという意味である。  これが口火となって他の大名が我も我もと城を差し出した。  家康は大いに喜び,一豊に,戦功は何もなかったにも拘わらず,関ヶ原戦後土佐一国24万石を与えている。  4倍の加増である。  実は山内一豊の発言は,堀尾忠氏<ただうじ>(一豊の同輩堀尾吉晴の子)のアイデアを盗んだものだったが,先に言った方が勝ち。  堀尾忠氏は大した加増もなく,5年後に病死し,堀尾家はその子の代に後継ぎがなくつぶされた。  もし忠氏が一豊にアイデアを洩らさず,軍議で最初に発言しておれば,堀尾家は幕末まで生き残ったかもしれない。

  江戸時代,土佐山内藩の武士は,他藩の武士から「ところで尊藩の御藩祖,関ヶ原においていかなる武功がござったかなあ」と,よくからかわれたという。  これに怒った土佐藩士が「今に見ておれ」とばかりにエネルギーを爆発させたのが明治維新につながった。

  土佐は西軍に荷担し家をとりつぶされた長曽我部氏の領地であった。  行政官としても頭の悪かった一豊は,長曽我部の遺臣を取り立てることをせず,「郷士」という一段低い身分に固定し徹底して差別したため,それに対する怒りが明治維新と自由民権運動への推進力となった。  坂本竜馬は郷士出身である。  封建時代というのは,身分も役目も,それであるが故に何百年も前の恨みも掟も根強く生き続ける世界であることはまったくの事実である。

  まさに歴史というのは,原因が結果となり,結果が原因となる繰り返しなのであろう。


A 家康は淀殿と秀頼を殺したくはなかった?

  関ヶ原の戦いが1600年(慶長5年),大坂夏の陣が1615年(元和元年),その間15年,家康は59歳から74歳になっている。  1611年(慶長16年)豊臣派最右翼加藤清正の懸命の斡旋により二条城での家康と秀頼の対面があり,秀頼がここでは臣下の礼を取った。 清正はその直後50歳にして病死する。  それにしても15年というのはいかにも長い。  この「待ち」は家康もなんとかして豊臣家を存続させたいと思っていたからであろう。  確かに1614年(慶長19年)の方広寺の「鐘銘問題」以降の家康は,まるで悪鬼のごとく豊臣家を滅亡に追い込んだ。  しかし,もし豊臣家が臣従を誓えば事は違っていた筈,即ち前田家のように江戸に人質(前田家は方春院=おまつを差し出した)を出し,当主秀頼自身が江戸へ出府して家康・秀忠の前に頭を下げればよかったのである。  それをさせなかったのは淀殿の無益なプライドであろう。

  大坂夏の陣の直前にも,家康は「浪人どもを召し放ち大和郡山城へ移れ」と二度も降伏条件を出している。

  この段階の前,外堀内堀を埋められた時点で既に淀殿も敗北を予期していた筈であるが,降伏できなかったのは城内に大量に抱えた浪人たちの作り出す空気に抵抗できなかったのではないか。  浪人たちとしては再び失職の憂き目に会うよりは一か八かの勝負に賭けたかったと思われる。

  戦争がなくなるということは武士にとって失業を意味する。  秀吉の朝鮮出兵も国内に抱え込んだ大量の戦国武者に仕事を与える意味があった。  世界の英雄といわれる人物は国内を統一すると必ず国外へ出兵し,常に戦闘状態を維持することで政権の継続と安定を図っている。  アレクサンダー,チンギスハーン,ナポレオン,乾隆帝みな然り。  


B 徳川家を永続させる「家康の布石」を砕いたのは「吉宗の野望」だった

  家康は自分が信長や秀吉のような天才でないことは自覚していたから,幼少時の不遇な流浪生活(今川家の人質など)に身につけた学問を生かしてよく書を読んだ。  また,戦国時代の主要な武器は槍であったのに,技芸者のする剣術を好んだ。  ために江戸時代は剣術が非常に流行する。  鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」が家康の愛読書であった。  信長や秀吉の失敗を他山の石とし,頼朝に政治の模範を求めた。  源氏の直系が三代で滅んだのは血統が絶えた点にあることに鑑み,天皇家のスペアである宮家の制度にならって,実子から御三家(尾張・紀伊・水戸)を作った。

  のちに紀伊家出身の八代吉宗とその子家重が自分の血統から御三卿(田安・一橋・清水)を作るが,これは吉宗と将軍職をめぐって散々争った尾張家に将軍職を継がせないための策略である。  尾張家の徳川継友の弟で兄の急死により家督を継いだ宗春は吉宗の緊縮財政政策を嘲笑うかのように,名古屋城下で景気刺激策を取り成功を収め,一時は「宗春の方が将軍にふさわしい」との声すらあがった。  吉宗はこれを憎み無理やり隠居させた上,生涯幽閉し死後は墓碑まで金網で覆わせた。

  さて,この御三家は実は同格ではない。  尾張・紀伊は大納言になれるが,水戸は中納言どまりである。 しかし水戸には定府の制という義務があった。  参勤交代の義務に代り,藩主が常に江戸に常駐し,国元へ帰る時は幕府の許可を必要とした。  「副将軍」という役目は正式な幕府の機構の中にはないのに,水戸藩主が世間で天下の副将軍と呼ばれたのは定府の制のゆえである。

  家康は水戸家にさらに重い役目を背負わせていたと思う。

  ≪こういう説も伝えられている。 家康は天海の勧告にしたがって,水戸家へ秘密の遺言書を伝えておいた。  それによると,今後徳川家の覇権が何代かつづいたとしても,いつかは必ず何者かによってくつがえされるときがくるにちがいない。  相手が諸侯である場合はいいが,万一朝廷との間で雌雄を決しなければならぬような事態に立ちいたった場合,宗家は面目上これと争わねばならぬとしても,水戸家だけは,宗家のことなど考えないで,朝廷の味方をせよというのである。(『実録・天皇記』大宅壮一著 角川書店刊)≫

  こういう論を大方の学者は一笑に付して否定する。  その最大の理由は例によって「史料がない」ということだ。  そういう考え方こそ,私は「バカじゃないの」と思う。  日本は言霊の国なのである。  「起ってほしくないこと」は日本では口にしても書いてもいけない。  御三家が血統のスペアであることも,御三家の中の優先順位も明文化されてはいない。  「将軍家に万一のことがあって血筋が絶えた場合に――云々」などと不吉なことは書けないのである。  

  関ヶ原では真田家は昌幸の長男と次男が東西に別れ,父は本拠地で秀忠軍の関ヶ原到着を遅らせる働きをし,大谷吉継の娘をめとっていた次男の幸村(俗称,本名は信繁)は西軍へ,長男の信幸(関ヶ原戦以後に信之と改名)は東軍に属し,そして信幸の真田家(信州松代藩)は幕末まで残った。  こういう例は数々ある。  家康は天皇家が徳川家の脅威になり得ると考えていた。   家康は歴史を知っている。  家康ほど「徳川家は永遠に不滅です」と思わなかった人物はいない。  将軍家は「禁中並公家諸法度」を定め,厄介な存在である天皇家をコントロールするために,関白の権限を強化した上にその実質的な「任命権」を握る形にした。  また「三公は親王より上」だと定めた。  三公とは太政大臣,左大臣,右大臣であり,これは関白とともに通常藤原主流の五摂家(近衛,九条,二条,一条,鷹司)の人間が就任するから,それが天皇の子より上位にあるというのも,明らかに五摂家の力を強めて天皇家を牽制しようとする狙いがある。  徳川将軍の御台所(正妻)は三代家光以降は五摂家又は皇族である。 しかし将軍たちの生母は五摂家又は皇族以外の人間である。(例外は第15代 慶喜)  徳川家には正妻に後継ぎの男子を産ませてはならないという「空気」が大奥にあったと考える。  将軍の外祖父が天皇や関白だということになれば相当に面倒なことになる。 

  水戸家の出身者は将軍になってはいけないのである。  それではリスク配分の意味がなくなるからだ。  ではなぜ最後の将軍は水戸家出身の徳川慶喜なのか?

  それは慶喜は水戸家の徳川斉昭の七男坊であったが,乞われて,男子が生れなかった御三卿の一つ,一橋家の養子になった,つまり「紀州系の一橋家」の当主になったからである。  彼の生母は有栖川宮家出身の王女(吉子王女)である。  水戸家は皇室と親しくなっていいわけだから,積極的に皇室から嫁をもらい子供を作ったのだと見ている。  ところがその「天皇家の血を引く男」が将軍になってしまった。  彼が朝敵になるのを異常なまでに恐れたのは母が皇族であったと書いている歴史書は見たことがない。


C 家康が重用した「朱子学」がなぜ幕末に「倒幕理論」となったのか。

  家康が仕掛けた「水戸家は最後の保険」という,徳川家名存続システムは皮肉にも意外な副産物を生みだした。  水戸学である。  水戸学とは,水戸徳川家が『大日本史』という通史を編纂するにあたって,学者を集め研究させたことによって発展した学問である。  しかるに幕末に至って水戸学は倒幕の有力な論拠となった。

  家康は第二の「明智光秀」の出現を恐れ,それを思想上でも防止する策として,儒学の中でも最も主君に対する忠義を重んじる朱子学(異民族「元」に滅ぼされる前の南宋で生れた“攘夷”を主張する学問)に着目した。  無論そうだと書いた史料はないのだが,家康は制度上では全ての大名から人質を取り,武家諸法度でがんじがらめに縛り上げ,天皇も公家も禁中並公家諸法度でがんじがらめにしている。  思想の上でも「光秀防止策」を考えなかったはずがない。  藤原惺窩の弟子林羅山が家康に仕え,初代大学頭となり政治顧問として活躍した。  上野の建学寮(のちの昌平坂学問所),湯島の湯島聖堂を建てたのも羅山である。  朱子学は幕府の公式学問となり,それを見習う形で各藩も藩校を作り,朱子学の普及につとめた。

  「主君に忠誠を尽くす」ためには,まず誰が主君か,ということを確定しなければならない。  家康は,当然それは徳川将軍家だと思っていた。  学問というものは,平和になり盛んになると,研究が深まる。  こうした中で,日本において誰が正当な王者であるかを綿密に分析しようという傾向が強まった。  ここで問題なのは「王者」という概念である。  王者とは「王道をもって天下を治める君主」のことだ。  簡単に言えば「徳をもって世の中を治める者」である。  家康が松平から改姓するにあたって源氏の新田の一族「得川」の系図を利用したのに,最終的には「徳川」にしたのも,かなりの深謀遠慮があってのことと分かる。

  朱子学にはこの王者の正統性を考えるための概念として「似て非なる者」覇者というものがある。  本来の意味は「覇道をもって世を治める者」の意味である。  覇道とは「武力,権謀を用いて国を治めること」である。  徳川家はどうみても覇者である。  つまり真の王者ではないということになる。

  朱子学の生れた中国では,皮肉なことにこうならない。  王朝の交代は実質は全て簒奪つまり「武力,権謀を用いて」前の王朝から権力を奪っている。  ならば覇者になるはずだが,中国ではそうならない。  後の王朝は原則として前の王朝を滅ぼしているからだ。  勝った者には「徳」があったのだ,前の王朝は徳を喪失したから滅びたのだ,という強引な理屈がつけられた。  これが易姓革命の理論である。  “天”の視点で見ると,A一族が徳を失ったので新たにBという一族を選んで天下を任せた=Aという姓の一族をBという姓の一族に易えた,つまり「易姓」したということになる。  しかし日本ではこの理論は成立しない。  覇者徳川家の他に,もう一つ,政権を担当してきた一族がいるからだ。  天皇家である。

  朱子学は皇帝制の中国における政治哲学であり,そもそも前提が違うのだから,天皇家は王者か否かを問うのも本来は不可能なことなのである。  しかし,二本陣はそれを導入すると決めてしまった。  だから「ビーフカレー」的朱子学になった。  ヒンズー教徒は聖なる牛は食べない。  ビーフカレーは「日本料理」なのである。

  江戸中期の佐藤直方(1650〜1719)は,天皇家の正統性の根拠は神勅にあり,徳にあるとはどの史書にも書かれていないし,徳を失ったら排除されるべしとは言っていない,として天皇は王者ではないと説いた。  しかし佐藤直方のような正統派は徐々に排斥された。  天皇家=王者(真の忠誠を尽くすべき対象),将軍家=覇者つまり「悪」であるということになった。  これが高じれば,真の忠誠の対象である天皇家に忠を尽くすためには,覇者である幕府及び将軍は討ってもいい,ということになる。  日本史上,最大の逆説かもしれない。

  そして,この「逆説」がさらに強く進行したのが,水戸徳川家であった。  「朱子学では禅譲が正しく,簒奪は悪としている。  中国の王朝はすべて前王朝から簒奪した王朝である。  覇者が治めるあの国は中国(=中華の地=文明国)ではない。  ひるがえって我が国を見ると,万世一系の天皇家がおられる。  したがって我が国こそ真の中国(=文明国)である。」  と水戸学は主張する。  「天皇家こそ日本の正統なる君主」 「中国より日本の方が中国(=文明国)」という「学説」に最も功があったのは水戸徳川家であり,ここにおける『大日本史』編纂作業が,その推進役だったといっていいだろう。  実は第二代藩主光圀(=水戸黄門)がなぜこの事業を始めたのかを語る明確な史料はない。  彼が熱烈な皇室崇拝者であったことは確かである。  光圀は若い頃の放蕩無頼を反省し,『史記』を読むようになって歴史に目覚めたたというのが通説であるが, やはり家康の「保険としての勤皇」という考え方が初代ョ房に何らかの形で伝えられ,それを家訓として受け継いだ光圀が,水戸は勤皇の家となれというその使命を果たし,自他ともにそれを認めさせるために,この壮大な事業を始めたと考えたい。  この『大日本史』が澗性したのは明治になってからである。

  「薬」が効き過ぎて,水戸学は倒幕の原動力となってしまう。  その上,よりによって天皇家と争いが起った時の将軍が水戸家出身という,家康にとっては大誤算の結果を生むことになった。  しかし,最後の将軍が天皇家には逆らわないと決めていたからこそ,内乱に外国の介入を招くこともなく,日本は亡国の危機を免れたともいえる。  最大の皮肉だが,家康の計算ははずれた方が日本のためにはよかったのである。


D 家康の謀略の“最高傑作”は巨大戦闘集団「本願寺」の分断だった

  信長は政教分離を確立するため,11年の長きにわたって本願寺との戦争を行い,ようやく戦国最強の城「石山本願寺(現在の大坂城のある場所)」から退去させた。  その時,信長は「信仰の自由」については完全に認めた。 宗主<しゅうす>顕如は紀州鷺森御坊(拠点<ブロック>の大型寺院)に入ったが,結局武装解除には応じたものの,本願寺としての力は温存したままだった。  本願寺は全国各地に「寺」や「講(信徒の集まり)」という下部組織を持っている。

  家康も22歳の頃,一揆方に荷担した一向宗(=浄土真宗)の信者である譜代の家臣たちに裏切られ,首を取られかけたという原体験がある。  家康の生前,三河国で勢力のあったのは真宗は,比較的おとなしい高田派であった。  ところが布教の天才蓮如が入ってきて,三河の三大真宗寺院がことごとく本願寺派に鞍替えしてしまった。  本願寺は加賀を一向一揆で支配したほど,領主の命令は聞かない。 従うことを要求する家康と反抗する一向宗徒の間でついに戦争が起こった。  この時三河武士の半分が一揆側についたのである。  家康はなんとか勝利を収め,寺を破却し本願寺僧は全部追放し,晩年に至るまで三河国内に本願寺系の寺院の再興を許さなかった。 また。家臣を戦闘的でない浄土宗に改宗させた。  のち浄土宗は天台宗と並んで徳川家の宗旨になる。  家康より四歳年上の家臣本多正信は,一向一揆で反乱側の指導者となった男であるが,帰参を許され,家康第一の謀臣として重用された。

  1592年,本願寺第十一世宗主顕如が死に,惣領(嫡男)の教如が跡を継ぎ十二世になった。  ここで顕如の未亡人であった如春尼が,顕如の末子である准如こそ正統な後継者であるべと指定した「譲状<ゆずりじょう>」,即ち遺言書があると申し出て,秀吉に裁定を求めてきた。  秀吉はそれを受けて,教如は「引退」し准如に門跡<もんぜき>(宗主)を譲るべし,と裁定した。  教如は引退せざるを得なかった。  そして,しばらく雌伏の後,豊臣家が天下人の座を失うと,1602年(慶長7年)家康から京の烏丸六条の地に寺地を贈られた。  そこに教如は新たに本願寺を建てた。  なぜ京かといえば,数ブロック離れたところに秀吉から広大な敷地をもらい,准如が建てたもう一つの本願寺があったからだ。   この家康の行為の背後に本多正信の謀略がなかったとは思えない。  労組委員長出身の役員が社長のためにと過激な労組の切り崩し策を立案したようなものである。

  今日では,准如の「豊臣系」本願寺を西本願寺といい,教如の「徳川系」本願寺を東本願寺と呼んでいるが,これはあくまで外部の人間がまぎらわしさを解消するためにつけた名称であり,正式には両方とも本願寺である。 宗派としての名称も,もともと同じ一向宗(=浄土真宗)であったものが,今では浄土真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)という。  そして全国にあった下部組織もこの時から「東」と「西」に分断されてしまった。  生前の顕如と教如は親子でありながら対立があったのは事実である。  教如はあくまで信長への徹底抗戦を叫んでいた。  秀吉にとっては教如は危険人物だったのだ。  秀吉は本願寺の内紛を利用して裁定者として相続問題に介入することができた。  想像をたくましくすれば,如春尼を裏からたきつけたのは秀吉だったかもしれないのである。  家康は「不満分子教如」を最大限に生かして,分断支配を完成させた。  最初は遺言状の真贋論争であったものが,時代を経るにしたがい泥仕合のようになってきた。  幕末においても「東」は佐幕派であり「西」は勤皇派なのである。

  かつて鉄の結束を誇り,専門武士の戦闘能力をはるかにしのいだ本願寺は,こうして分断され,それ以降ずっと内紛抗争に力を注ぎ,権力に反抗することをまったく忘れてしまった。  家康の思惑通りになったのである。

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☆ 変なことば遣い(U)<2006.12.06>

近頃の気持ち悪いことば:「・・・・してもらっていいですか?」

  丁寧な依頼を意味するらしいこういう言い方がかなり普及しているようである。
  役所などで書類申請する際に「ここに(あなたの)名前を書いてもらっていいですか」などと言われることがある。   これは商店などで会計をする時の「・・・円からいただきます」という台詞と同じくらい私には違和感があり気持ちが悪い。  どうしてもっと手短にストレートに「書いてください」とか「お書きください」と言わないのかといつも思う。   なぜか片方の頬を殴られながらお辞儀をされ揉み手をされつつ頼まれているような妙な気分になるのである。  どうにもたまりかねて,「・・・・してくれ」ということですか?と切り返したこともあるくらいである。   

  「・・・・してもらっていいですか?」は「・・・・してもらう」+「・・・・かまいませんか?」に分割できると思う。
  「誰々に・・・・してもらう」には,他人が何らかの行為によって自分に恩恵を授けるという本来の意味がある。  が,同時に「(あなたに)・・・・してもらいます」と言えば,地位が上の者からの切り口上の指示ないし命令の言葉にもなる。   私はこちらの方のニュアンスを感じる故に不快になるのである。  これが「・・・・して戴いてもいいですか?」ならば,もう少し丁寧語らしい感じが出るのだが。
  また,話者の話し方によっても受ける印象が違うのは事実であるが。
  どちらにせよ「Pease do 何々.」と言ったほうがよほどすっきりすることに変わりはない。   大阪の船場から生まれたと聞く「・・・・させていただきます」という,舌をかみそうな謙譲語(今は丁寧語として認識されているらしい)と同じくらい,聞きたくないし自分でも使いたくないことばである。

  ついでに,もう一つ変な言葉を挙げる。
  「・・・したいと思います」
  よくよく気をつけてテレビを見ていると,有名・無名を問わず無数の大人が公式・非公式の場を問わず使っている。  話す本人としては軽い婉曲表現のつもりで使用しているらしいことは分かる。  もはや標準的口語になったかのような感じすらある。
  しかし私はこれにも違和感を感じている。   恐らく元々は「・・・したいなァと思います」という比較的強い願望・期待を述べる表現の一つであったはずである。  言葉の構造としては,「「・・・したいな」と思います」 と,云わば引用句を挟み込んだものだと理解せざるを得ない。  「・・・したいなと思います」「・・・したいなァと思います」と文字に起こしてみると,いかにも軽すぎて,なにやら小学生か幼児のおしゃべりのようにも見えるではないか。  文章語としてはどうにもおかしい。  「海は広いな大きいな,行ってみたいなよその国」と歌う童謡があるのを思い出した。

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☆ 米原万里著 『オリガ・モリソヴナの反語法』 を読む <2006.12.13>

発行:集英社(2002年10月)

  これは2006年5月に癌のため56歳で逝去した米原万里(1950.04.29〜2006.05.25)さんの最後の長編小説である。   彼女は元練達のロシア語同時通訳,日ソ外交の重要な場面にも立ち会っている。
  この小説は一面では謎解きの形を採っていて,様々なドンデン返しもある。  そういう意味で読むだけでもなかなか面白い。   同時に,無実のスパイ罪に問われた人々が,監獄から,人間性を失わせるような厳しいラーゲリ(強制収容所)に移され,その生活の中でどう生き延び,どう死んでいったかを描きつつ,スターリン時代の体制の残酷さと,その次に来た時代に残る欺瞞性のようなものも活写していて,ソヴィエトロシア現代史の生々しい解説にもなっている。

  著者の分身のような主人公,彼女の名前は弘世志麻,通称シーマチカ,1960年から1964年,チェコスロバキアに在住,プラハのソヴィエト大使館付属八年制普通学校に通う。  そこで強烈な個性の持ち主,バレエ教師,オリガ・モリソヴナ・フェートを識る。  帰国後ダンサーになる夢破れてロシア語の翻訳をしている。  ソ連邦が崩壊した翌年の1992年秋,彼女はロシアを訪れる。
  目的は長年胸に秘めてきた,オリガ・モリソヴナと,当時彼女と共に生活していたフランス語教師エレオノーラ・ミハイロヴナ・セルゲーエワの謎を解くことである。  当時すでにかなりの老境にあったと思われるオリガ・モリソヴナは,肌も顔も老人そのものであったが,すらりとした驚異的なスタイルを保っていた。   服装は1920年代風であったが,その身のこなしと踊りは誰をも惹きつけるものだった。  極めつきは,しわがれ声で話される彼女独特の反語法と,その容姿にそぐわない豊富で破廉恥な罵倒語や譬喩であった。   「天才」といって叱るとき,それは「ウスノロ」という意味であったし,「他人の掌中にあるチンポコは大きく見える」「去勢豚がメス豚に股がるようなこと,しないどくれ(=無駄なことはするな)」などは生徒たちの脳裏に後年まで刻まれていた譬喩である。
  彼女は自分の過去について語ることは殆どなかったが,なぜか「アルジェリア」,「バイコヌール」という言葉にはびくっとして顔色が変わり,エレオノーラは失神までする。  オリガは「1930年にソヴィエトでは最初にモスクワのミュージックホール,エストラーダ劇場でチャールストンとジターバグを踊ったのは,ほかならぬこのわたし」だと当時の新聞の切り抜きと古い写真を志麻たちに見せたことがある。   エレオノーラは明らかに老人性痴呆症にかかっていたが,「古風で上品な,今では希にしか聞くことのできなくなった美しいフランス語」を話すことができた。  そして東洋人風の容貌をした女の子を見ると,きまって「お嬢さんは中国の方でしょう?」と尋ねるのだった。

  モスクワに来た志麻はロシア外務省資料館や図書館大学で資料を渉猟することから始めて,昔の親しかった学友,カーチャ(エカテリーナ・カルロヴナ)たちの協力を得て,エストラーダ劇場の衣装係だったマリヤ・イワノヴナに会う。  彼女の記憶と当時のポスター写真などから,オリガ・モリソヴナとみられる女性は当時芸名をディアナといったこと,ディアナの本名はバルカニア・ソロモノヴナ・グッドマン(通称バラ)であることなどを知る。   前後して志麻はカーチャから「カザフスタンのアルジェリア」という手記を入手する。  「アルジェリア」とは「バイコヌール」平原の中にあるラーゲリ(強制収容所)の名前であった。  手記の中にオリガ・モリソヴナという女性とバルカニア・ソロモノヴナ・グッドマンという女性のことも書かれていた。   手記の著者はガリーナ・エヴゲエヴナ・ステパノワというスパイ容疑で逮捕され数年間のラーゲリ暮らしを送った女性であった。   志麻たちは不治の病にかかっている彼女にも直接会い話を聞く。

  解ったことは,バルカニア・ソロモノヴナ・グッドマンとオリガ・モリソヴナは父親の違う姉妹であることである。   声も発声法もよく似た二人が「アルジェリア」の中で偶然出会ったこと,女医であった妹のオリガ・モリソヴナは癌にかかって余命いくばくもない身であり,スパイ罪に問われていて死刑は必至だった姉のバルカニアを生かすため,進んですり替り,バルカニア・ソロモノヴナ・グッドマンとして死刑になったことなどを知る。  つまり志麻たちが知るオリガ・モリソヴナは生き延びた姉のダンサー,バルカニア・ソロモノヴナなのだった。
  姉のバルは軍医だった父の遺言で医学部に入学したが,妹の習うバレエに魅せられて退学しダンサーの道へ,6歳下の妹オリガはダンサーの父に本格的に仕込まれていたが,医学生だった姉の影響で医学部を志望するようになった。  だからバルはオリガの死後もラーゲリで医師オリガ・モリソヴナになりすますことができたわけである。

  エレオノーラ・ミハイロヴナは有名な財閥,セルゲーエフ商会の箱入り娘。  乳母も家庭教師もフランス人だった。中国人留学生と恋に落ちて結婚しフランスで暮らす。   夫が国民党側のスパイの疑いをかけられて二人は逮捕される。  ブティルカ監獄での尋問の際,嘘の自白をすれば二人とも情状酌量になると騙されて夫がソ連国内に潜入して破壊活動をしているというでっちあげの証言書に署名してしまう。  夫は即刻死刑になる。   彼女は自責の念にかられ,産まれてくる子どもが不憫で堕胎を申し出る。   堕胎のあと彼女は一夜にして白髪になり,記憶の一部を喪失する。   しかし東洋風の子どもを見ると自分の娘だと思い込む癖が残る。

  バルカニア・ソロモノヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナが出会うのは「アルジェリア」ラーゲリである。   1945年に出所した二人は1955年,バルの元恋人でチェコの外交官マルティネクの尽力により,古くからチェコにいるロシア人としての偽造パスポートを入手して彼とともにプラハへ脱出する。  エストラーダ劇場時代の元の亭主がマルティネクとの仲を嫉妬して,彼がスパイだと密告したのがバルの運命を変えたのだった。

  天涯孤独となった二人がソヴィエト国内にいた時,エレオノーラの「娘」探しにカザフスタンのアルマ・アタの孤児院に行き,見つけたのがジーナこと,ジナイーダ。   志麻がプラハの学校でその天才的なバレエの技巧に驚嘆し,全校生徒の憧れの的となった学友である。  ジナイーダはおそらく処刑された囚人の子どもであろう,NKVD(KGBの前身)の職員が孤児院へ連れてきた女の子であった。  本名も両親の名も不明で,ジナイーダは院長が付けた名前であった。   彼女は養母二人とともに,やはりチェコ人ジナイーダ・マルティネクとしいてプラハへ。   そして「オリガ・モリソヴナ」の指導によってバレエの才能を開花させる。

  小説の最後に,志麻とカーチャは限られた滞在時間の中で,やっと探し当てた,今はモスクワの南方トゥーラ市でバレエ教室を開いているジナイーダに会いに行く。  そして,「アルジェリア」内の広場で姉のバルカニアがまさに死刑のための呼出しを受けた瞬間に,妹オリガが姉の身代わりに返事をして前に進み出たのだという当時の生々しい一部始終などを含め,養母二人から聞かされた,ラーゲリで知り合うまでの詳しい経緯とプラハにおける二人との死別について聞いたあと,ジナイーダに別れを告げるところで終わる。   二人は1968年の「プラハの春」の前後に亡くなっていた。   エレオノーラは死の直前,正気に戻って上述のような真相の述懐をしている。
  「オリガ・モリソヴナ」の豊富な罵倒語は,ラーゲリまでの長時間の護送の際,刑事犯の女性たちと同じ車両に乗り合わせた時,権力や権威にひれ伏さない彼女たちの生き方と一緒に学んだものだった。

  以上で紹介したのはほんの粗筋のみ,実際は多くの人物が万華鏡のように登場し,それがどこかで彼女たちを取り巻く運命の中で,結び合う糸のようにからまり,また離れていく,雄渾な長編小説である。   印象深いのは,スターリン時代のNKVD長官のベリヤはもともと気弱な出世主義者で少女趣味の傾向のある男にすぎなかったが,死刑死後,権力にまかせて若い処女ばかり漁っていた色魔,少女マニアと喧伝された。  実はそれはかつてはベリヤ同様スターリンの取り巻きであった,フルシチョフ政権指導者たちがベリヤを異常性格者に仕立てて,一切の罪を背負わせようとしたためだと,ジナイーダの語りを借りて断じていることである。

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☆ イザベラ・L・バード著 『日本奥地紀行』 を読む <2007.07.26>

発行:平凡社 東洋文庫(1973年10月)
 

原題:Unbeaten Tracks in Japan, An account of Travels in the Interior, Including Visits to the Aborigines of Yezo, and the Shrines of Nikkoo and Ise. 2 Vols., 1880.

翻訳者:高梨健吉

  明治維新からさほど遠くない明治11年の夏,47歳の一英国婦人が日本の東北・北海道を約三ヶ月旅をした。  彼女が東北・北海道を選んだ理由は,あまり外国人が行かない「奥地」への興味とアイヌへの興味である。  最初日光を見物し,そこから鬼怒川ルート(会津街道)を通り会津盆地から新潟(県都)へ,そこから米沢平野から山形(県都)へ,そこから久保田(現在の秋田市)へ,更に青森まで行き,函館へ渡る。  北海道では現在の区分で言う「道南」の太平洋沿岸部のアイヌ集落ばかりを主に歩いている。
いわゆる県庁所在地間の道はまだ江戸時代の道であり,多くの峠を越える険阻な道が多い。   この時,鉄道は新橋―横浜間と,神戸―大阪―京都間で営業しているのみであった。


読み終わって感じること:
  格別強健な身体の持ち主でもなさそうな彼女を世界の僻地のような場所へ導く力になったのは何だろうかと思う。   彼女は多分,山がそこにあるからと答えた登山家と同じような答えをしたであろう。   精も根も尽き果てたと感じるような一日の苦闘あとに残る,何かを達成したという満足感については本書の中でも述べている。   まるで忍耐力の限界を確かめるようなマゾヒスティックなまでの衝動に突き動かされているかのようである。  人里離れた場所ほど彼女を魅了するようだ。

著者の略歴:
著者=イザベラ・ルーシー・バード(ビショップ夫人)〔Isabella Lucy Bird (Mrs.Bishop)〕(1831〜1904)

英国ヨークシャーの牧師の娘として生まれる。  幼少時より病弱で,脊椎の病気のため青春の大半を牧師館のソファで過ごさねばならなかった。  23歳になって健康のために外国旅行を志し最初にカナダアメリカを訪れる。  25歳のとき最初の旅行記『英国女性の見たアメリカ』を出版。  本格的な旅行が始まるのは中年以降で,41〜42歳の時にオーストラリアニュージーランドハワイアメリカを巡る。  この時はロッキー山脈を騎乗で越えている。
1878年(明治11年,バード47歳),5月アメリカと上海を経由し横浜で入国,東京の英国公使館に滞在後,6月中旬日光を訪れ,東北・北海道の旅に入り,9月東京へ戻り,香港へ向かう。  「日本奥地紀行」はこの時の記録である。 その後1894年から1896年にかけて五回ほど日本を訪れている。
1879年1月マレー半島を五週間旅してから2月カイロに向かい,5月帰国。
1881年ビショップ博士と結婚するが1886年に死別。
1889〜1890年,チベットペルシャを丸2年間かけて旅行する。
1894年(明治27年)に初めて朝鮮旅行を行う。  そして1897年初までに計4回朝鮮を訪れ,その間中国西部を5ヶ月間旅行もしている。   1898年に出版された「朝鮮紀行」(原題:Korea and Her Neighbours)については,項を改めて紹介する。
1901年,彼女70歳のとき6ヶ月にわたりモロッコを旅行する。  1904年10月,72歳で病没。

1891年(60歳)スコットランド地理学会特別会員,1893年(62歳)英国地理学会特別会員に選ばれる。


「日本奥地紀行」

  「日本奥地紀行」は最愛の妹ヘンリエッタへの手紙という形で書かれている。
  「(横浜の)街頭には,小柄(中国人と比べても)で,醜くしなびて,がにまたで,猫背で,胸は凹み,貧相だが優しそうな顔をした連中がいたが,」と日本人の庶民の体格の第一印象を述べている。
  横浜から品川まで乗った鉄道は,「切符切りが中国人,車掌と機関手が英国人である」とあり,いかにも英国人技師により開通してまだ6年にしかならない日本初の鉄道の姿をイメージさせる。

  彼女が旅行した明治11年は西南戦争の翌年である。  旅券はパークス公使の手配で入手し,東北・北海道を殆ど制限なしに旅することが認められた。   東京で雇ったガイド兼通訳の伊藤という小柄(4フィート10インチ≒147p)だが強壮そうな18歳の若者を連れての二人旅である。  伊藤は従者・料理番・洗濯係,そして行く先々での彼女の記録のための情報収集係も兼ねることになる。  旅行は騎馬,徒歩,船,時に人力車で行われた。  荷物運搬用も兼ねる馬は,宿場で借りるのであるが,この馬が大概人間の命令に従わず,人によく噛み付く上に,脚が弱く,道中彼女を悩ませる。

  そもそも彼女があまり外国人が行かない場所を旅行コースに選んだのは,文中にあるように,「人のよく通らない道筋を進みたいのだ」という強い好奇心と強くて自由闊達な精神力の故であろう。
  旅行中は日本の宿屋に泊まるのだが,そこの夜遅くまでの騒音とプライバシー欠如には閉口したとある。  特に,どこへ行っても,初めて見る外国婦人を注視する日本人の群衆にはしばしば長時間取り囲まれる。  「奥地」の山村の悪路に難渋し,庶民の泊まる宿での悪臭と不潔さと蚤の大群に悩ませられている。
  最初の目的地日光へは人力車で行く。  日光では村長で雅楽の指揮者でもある金谷さんという名士の自宅に10日あまり滞在する。  金谷家は紹介状持参の外国人だけに部屋を貸している。  ここから先がいわゆる「奥地」の旅になる。

  庶民の風俗に対してはかなり批判的な目で見ている。  この季節,男たちのマロ(ふんどし)だけの姿,女たちの下ズボン(腰巻のことか)だけで家内外をうろうろする姿,年齢以上に老けて見える既婚婦人。  不衛生な環境と貧しさのゆえの眼病や皮膚病などの病気になる老若男女病気が多いこと,また僻地では着たきりの着物をほとんど洗濯しないことなども指摘し,時には見かねた彼女自身が俄か医者や保健士の役を演じたこともある。
  反面,若い娘の愛らしさ,子ともを熱愛する親の様子も活写。  一介の馬子や車夫の,その外見とは違う,金銭に対する潔癖さ,正直さにも感動している。  後述の米沢の赤湯の宿で「昨夜は蚊がひどく,宿の未亡人(女主人)とその美しい娘さんたちが一時間もがまん強く扇であおいてくれなかったら,私は一行も(記録を)書けなかったであろう」と親切さを賞賛している。   通訳に少々買い物の上前をはねられることも,大目に見ている。  本書原注にも「世界中で日本ほど,危険にも無作法な目にもあわず,まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている」とある。  とりわけ彼女が賛嘆してやまないのは,農村風景を含む自然の美しさである。

  日光から道を北にとり会津盆地の西を通り,阿賀野川に沿って新潟に向かう。  東京の次に同国人に出会うのは新潟市,教会伝道本部(Chirch Mission House)のファイソン夫妻である。  新潟には当時わずか18人の外国人が居住していた。
  米沢盆地は豊穣な大地に米・綿・とうもろこし・大豆・茄子・くるみ・スイカ・きゅうり・柿・杏・ざくろや葡萄・いちぢくを栽培し,温泉場もあってと,ここは「エデンの園」,「アジアのアルカディア(理想郷)」とまで賞賛している。  ここの赤湯という温泉場で泊まった宿は一風変わっていて,大きな庭のなかの蔵に浴場がしつらえてあり,彼女は一般の温泉場につきものの三味線が鳴り響く騒音から隔絶された空間でのんびり浸ることができた。

  彼女の好奇心は生活全般に及び,秋田県の田舎では警察の取り計らいで富裕な商人の葬式に借り着の和服を着て参列し,その行事を詳細に叙述している。   長雨のため長逗留になった久保田(現在の秋田市)では,知事の許可を得て病院を見学する。   ここで,医師・職員・学生がみんな絹織りの袴を着用しているのを喜んでいる。  「和服は美しい。  和服をつけると威厳を増すが,洋服をつけると逆に減ずる」と書く。   当地では師範学校も訪問するが,校長と教頭は「洋服を着ているので,人間というより猿に似て見えた。」と手厳しい。  ついで,手織り機による絹織物工場も見学している。  宿の主人(彼には三人の妻あり,一人は京都に,一人は盛岡に,そして当地で同居する年若い妻)の姪の結婚式に参列し,嫁入り道具の明細や式次第を細かく描写している。   久保田は純日本的な町であり,さびれた様子がないので「他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである」とまで褒めている。

  秋田・青森県境の矢立峠付近では降り続く豪雨の中で渡船同士の衝突の危機にさらされたり,山崩れの現場に遭遇したりという経験をする。  青森県の黒石では宿で婦人の丸髷を結う一部始終を観察し,こう書く。 
  「日本ではいかなる地位にあっても,既婚女性と未婚女性の服装は,厳格な礼儀作法によって,越えることのできない区別の一線が引かれている。  恥ずかしい事実であるが,英国では,女性の服装の流行の大部分は,私たちが遺憾に思うような立場にある女性がはじめたもので,それをわが国のあらゆる階級の女性がご丁寧に真似をする。」と。  現代の日本ではこれはもう昔話に過ぎないが・・・・。

  青森から函館へ渡る。  北海道ではアイヌに会うことが目的である。   函館の英国領事館の配慮で,北海道内の旅行に関していろいろな便宜を認める北海道政庁の証明書を貰って大いに感謝している。   北海道には約1ヶ月滞在しているが,日高地方の平取(びらとり)では3日2晩アイヌ人の住居に泊まりこみ,宗教や風俗習慣についての聞き取り調査をしている。  実は本書ではその約1/3くらいを北海道とアイヌ文化の紹介に充てている。  まるで文化人類学者のような叙述が続く。  アイヌ語も約300の語彙を採集している。   アイヌの容貌や習慣,家屋の構造などにヨーロッパ的なものを見出して親近感を覚えているが,反面彼等の教育のなさ,知性のなさに関して,愚鈍さが生来のものではないかと疑ってもいる。   アイヌが源義経を英雄神として崇拝しているさま,彼等が外国人に自分の民族のことを語ることが日本人に知れることをたいへん恐れていることを書く。
  東京に戻った彼女は江ノ島と鎌倉を訪れているが,特に許可を貰って桐ヶ谷の火葬場を見学している。

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☆ ユン・チアン(張戎)&ジョン・ハリデイ著 『マオ 誰も書かなかった毛沢東』 を読む <2008.01.05>

発行:講談社 (2005年11月)
 

原題:MAO The Unknown Story

翻訳者:土屋京子

ユン・チアン(Jung Chang 張戎)という発音は彼女の出身地四川省の方言で,標準語的には ZhāngRóng である。

  この本は「毛沢東と血塗られた共産党史」とも言うべき書である。  中国大陸の20世紀前半から後半までの裏現代史としても驚くほど生々しい“史実”が述べられており,著者夫婦の長年にわたる膨大な資料の渉猟と多くの有名無名の関係者へのインタビューの成果がふんだんに盛られている。  これは約半世紀以上前のこととはいえ,中国国内で共産党独裁政治が続く限り,天安門に毛沢東の肖像が掲げられている限り,一般大衆に本書の中国語版が公開されることはないと思わざるを得ない。
  毛沢東は人民の命,他人の命には終生全く興味がなかった人間である。  彼の倫理観の核心はただ一つ「我」があらゆるものに優先すること。  関心は自分が中国の,そして世界的な「英雄=支配者(≒皇帝)」になることだけであった。  彼が中国大陸のリーダーになれたのは,その人間離れした冷酷非情な精神力と多くの偶然のおかげである。  彼は富農出身であるが,およそ農民と労働者などの大衆に対して共感というものを抱いていなかった。

以下にこの書から読み取った“史実”と感想を列記する。

  1. ソ連は日本が中国を征服し,その資源とほころびだらけの国境線を利してソ連を攻撃するというシナリオを最も恐れていたから日本軍をなるべく中国大陸内部に引き込んで消耗させようと意図していた。  そのため日中間の戦争を挑発する直接間接の様々な工作も行った。(著者は張作霖爆殺はコミンテルンの仕業とする説を本書傍注で紹介している)  中国国内に親ソ政権を樹立させたいという長期展望は持っていたものの,共産主義勢力はまだまだ弱体であると認識し,当面は共産主義勢力と国民党間の内戦は停止させ,抗日戦争に注力させたがっていた。 (日中戦争はモスクワによるリモート・コントロールと支援によって惹起されたと言っても過言でないと著者は言っているようである)

  2. 第二次大戦前の中国共産党はソ連のコミンテルンの絶対的管理の下にあった。  党の活動資金は殆どコミンテルンから出ていた。  1923年,コミンテルンは,袁世凱政権を倒しソ連寄りの政権樹立の目的のために,北方の馮玉祥などよりも手なずけ易い孫文(1866〜1925)の国民党を支持することを決め,共産党と国民党の合作を推進した。  晩年孤立無援であった孫文もソ連の力を利用しようという意図があった。  共産党は組織ごと国民党へ送りこまれた。  国民党は従来のチャイナ・マフィアからソ連式の近代的革命政党になることができた。   モスクワの資金援助により設立された黄埔軍官学校は,ソ連人顧問を置き,教師や生徒にも共産党員が多かった。  合作に反発する党員が多い中,毛は合作に熱意を注ぎ過ぎて,イデオロギー的にも曖昧だった毛は,コミンテルンの指示により上海の共産党中央局を追われ,故郷の湖南省へ帰った。  孫文の死後,後継者となった汪精衛は失意の毛に救いの手を差し伸べ国民政府の重要ないくつかのポストにつけた。

  3. 貧農を扇動して富農と対決させるというモスクワの方針を受け,広州の農民運動講習所の所長となった毛沢東は初めて農民問題に対する態度を変えた。  講習所から巣立った大勢のアジテーターは各地で貧農を組織し「農民協会」を組織する。  しかし末端の組織を牛耳っている「痞子pizi(ごろつき)」は富農に暴力をふるい,とんがり帽子を被せて引き回し,時にはつるし上げと殺人まで行った。  毛沢東は暴力行為と恐怖現象に大いに魅せられ,これを推奨している。

  4. 共産党をトロイの木馬のように抱え込んだ国民党は1/10の党員しかいない共産党が1/3の代表を占める事態になり,大衆の暴力路線にも危機感を持った国民党は,ここに至り国民革命軍総司令蒋介石が動いた。  彼が1927年上海で「赤狩り」を始め,それに汪精衛も従った。

  5. 1927年コミンテルンの主導により行われ,失敗した「反乱(=後に南昌蜂起の名で呼ばれる)」軍の一部を毛沢東が策略により乗っ取り,井岡山の土匪を平らげてそこの支配者になった。  1928年春節に最初に行ったことは土豪の公開処刑であった。  井岡山根拠地には反乱軍の敗軍の将朱徳の大部隊も合流する。  彼等がいた15ヶ月間,小ブルジョワ,裕福な自作農,小規模の行商人たちは全て階級の敵とみなされ,徹底的に搾取され経済は破綻した。  彼等の軍隊(朱毛紅軍)が去ったあと残された傷病兵や地方幹部たちは,国民党軍に捕らわれ処刑されるか,恨みを持つ地元の武装勢力によって残忍な殺され方をした。  共産党による占領は,憎悪と復讐で荒廃した地域を残した。(こういう事態は他の革命根拠地やのちの所謂「長征」の目的地,陜西省北部の新根拠地でもしばしば再現された)

  6. 軍閥の反抗に手を焼いた国民党の追撃が一時止んだ隙に,朱毛紅軍は井岡山から福建省へ向かい,汀州(長汀)を占領した。  独裁的な毛に反発する軍幹部は毛沢東を役職から外し,朱徳に軍事指揮権を戻した。  毛沢東は朱徳の部下であった林彪を抱きこみ,上海の指導部の支持を取り付け復権を果たす。  当時上海の実力者は周恩来,彼は筋金入りの共産主義者,腕の立つオルグ,優秀な行政官であるが,モスクワに対する奴隷的な屈従精神の持主でもあった。  朱徳を押さえ込んだ毛は清廉な朱徳を表看板として終生利用し続けた。

  7. 次いで毛沢東は朱毛軍よりも大きい彭徳懐が指揮する江西紅軍を強引な既成事実を作って乗っ取る。  その過程で反抗分子,不満分子を「AB団」(アンチ・ボルシェビキ団)の名目で4400人以上を粛清し(毛沢東自身の上海への報告書による),さらに粛清(という名の大虐殺)の対象を江西省の党員にまで広げた。  1930〜1931年にかけて軍だけでも約1万人,総計で何万人が殺された。  これはスターリンの大粛清より前のことである。  しかしモスクワはむしろ野心のある人材を求めていたので,この頃彼を将来の国家主席に内定していた。

  8. 蒋介石軍の第一次,二次「圍剿」(討伐作戦)はモスクワのスパイ,リヒャルト・ゾルゲの活動と共産党が国民党情報機関に送り込んでいたスパイの働きとにより共産軍が勝利したが,第三次「圍剿」で大軍を投入した蒋介石軍により根拠地は崩壊の一歩手前まで縮小した。 これを救ったのは1931年の日本軍による柳条湖事件である。 蒋介石は日本の圧倒的な軍事力を前に,武力による抵抗は無意味と考え,宣戦布告はせず,広い国土を背景に時間を稼ぐという計画をたてて,抗日統一戦線を提案した。 しかし共産党ははねつけた。

  9. 蒋介石軍が江西省の交戦地帯から軍を引いたので,共産党は失った根拠地を回復し拡大した。 1931年11月江西省,福建省,湖南省,湖北省,安徽省,浙江省など中国中央部に点在する革命根拠地を領土とし,首都を江西省瑞金に置く「中華ソビエト共和国」が樹立された。  モスクワは国家として承認はしなかったが,毛沢東を首長に任命し,「中央執行委員会主席(≒大統領)」,「人民委員会主席(≒首相)」の肩書きを与えた。  しかし彼に独裁者の地位は与えず,彼の周囲をモスクワに従順な人物(軍のトップは朱徳)で固め,さらに毛沢東の上には党書記として周恩来を置いた。  組織化の達人周恩来はこに厳しい弾圧を使って児童から成人までを含む巨大な官僚支配制度を作り上げた。

  10. 中華ソビエト共和国では住民の財産・食料は強制的に供出させられ,「階級敵人」運動が一層強化され労働力と兵士の造出に当てられた。  地元住民の福祉などは最初から配慮の対象外であった。  後年毛がエドガー・スノウに吹き込んだ話とは正反対である。  共産主義勢力が1935年この地を去るまでに,江西省,福建省は他のどの省よりも人口が激減した。

  11. 暫く無聊を囲っていた毛沢東は周恩来の配慮で紅軍第一方面軍の総政治委員に任命された。  日本軍の上海への進攻を片付けた蒋介石は第四次「圍剿」を開始,毛はモスクワと他の幹部の意向に逆らい,極めて消極的な遅滞戦術を採り,他の最高幹部の怒りを買った。  「寧都会議」で毛は総政治委員を解任された。  毛沢東はここで彼を批判した者(項英,博古など)を決して許さず,彼の恨みは会議を主宰した周恩来に主として向けられた。  後年周恩来は百回以上も自己批判をさせられたが,いつも厳しい自責の言葉は寧都関連と決まっていた。   膀胱癌と診断された直後も総理として外交交渉に忙殺される一方,党内では幹部の前で屈辱的な自己批判をさせられていた。  毛沢東は周の死期を早めるため癌治療薬の投薬を差し止めることまでしている。

  12. 蒋介石の第四次「圍剿」は周恩来の指揮の下,上海から来た頭脳明晰な博古による軍組織の再編成が成果を上げて撃退することができた。  この時もソ連の強力な支援(スパイ網と秘密軍事顧問団)があった。   1933年日本は満州国を樹立した。

  13. 1934年蒋介石の第五次「圍剿」が始まると瑞金の指導部は根拠地が持ちこたえるにも限度があると考え,移動を計画し始めた。  数年前から計画されていた,ソ連国境に近い所へ到達しそこで武器を受け取る作戦が実施されることになった。  冷や飯を食っていた毛沢東は移動ルートに居座るという策略で大移動に加わることができた。  1934年10月 脱出口となった于都から北西に向かって八万人(第一方面軍)が出発した。  それに先立ち脱出組の全員がしらみつぶしに審査され,信頼できないとされた人間は処刑された。  処刑者は何千人にものぼった。  紅軍軍事学校の教員は大多数が処刑された。  彼等は捕虜となった国民党将校が多かったからである。  7月にはおとり部隊六千人が反対の方向へ出発している。  彼等には「紅軍北上抗日先遣隊」という仰々しい名前がつけられ,数ヶ月後全滅した。

  14. のちに神話となったこの大脱出(長征)は実は蒋介石の「誘導」によって実現したといえる。  
    蒋介石が軍の作戦配備の無線連絡をわざと紅軍に傍受させ西方の貴州,四川へ追いやったのはある意図があった。  この地域は雲南省と同じく独自の軍隊を持ち事実上南京政府から独立した存在であった。  ここへ中央政府の軍隊を駐留させ勢力圏に組み込むには,紅軍の居座りを恐れる軍閥からの要請を受けて進駐するというシナリオが必要だった。  紅軍の逃走を許したもう一つの理由は,モスクワに恩を売ること,そして1925年留学したままソ連に人質として留め置かれている息子の蒋経国を返してもらうことである。  蒋介石はソ連の意図も承知の上で,紅軍を一時的に囲い込んでおいてあとで日本軍に始末させればよいと考えた。  候補地として不毛の地である陜西省北部の黄土高原を想定し,この地域の共産党根拠地にだけ繁栄を許し,他の革命根拠地は容赦なくつぶしていった。  紅軍を弱体化させつつ全滅はさせないよう手加減するというのが蒋介石の心算であった。   数千人にまで減少したところで追撃をやめたと後年蒋介石自身がアメリカの使者に語っている。

  15. 1935年1月毛沢東は貴州省遵義での遵義会議において,中央書記処のメンバーに加わることに成功し,その後多数派工作をめぐらし,仲間に抱き込んだ洛甫を名目上の党ナンバー1に押し上げ,自分は黒幕となって権力を奪取した。  その権力を確固たるものにするため,毛は策謀をめぐらした。  四川省に進攻する代わりに,わざわざ追撃する蒋介石軍へ戦闘を挑んだり南進したりという,無意味で無謀な作戦を繰り返し,四ヶ月の時間を浪費し,八万人の軍隊を戦死と病死,疲労死により一万人にまで減少させた。  これはひとえに既に四川省北部の新根拠地で八万の軍隊を擁していた張国Zの大部隊(第四方面軍)との合流を遅らせるためであった。  張国Zは党古参の百戦錬磨の冷酷な軍人,中央書記処のメンバーである。   直ぐに合流すれば張国Zが党ナンバー1になるのは明白であったから,毛沢東には権力の地盤を固めるため時間稼ぎが必要だったのである。

  16. 1935年6月二つの紅軍が合流した後,北進する際にも毛沢東は張国Zにわざと困難なルートを通るよう指示し,北上を妨げておいて,抜け駆け的に北上し,陜西省に向かった。  友好的な地元住民の間を通過する楽な行軍であったがゆえに,絶え間なく脱走・落伍する兵隊が出て,それらを「処理(=処刑)」した結果,1935年10月陜西省北部の革命根拠地へやっとのことで到着した時,毛沢東の軍は更に半減し四千人以下になっていた。  しかしとにかく毛沢東は勝者となったのである。  ここでモスクワは始めて毛沢東を中国共産党の首領と認めた。  地元の党幹部は毛沢東到着前に毛の指令により粛清され,革命根拠地を築いたリーダー劉志丹も,翌年のソ連支配地域までのルートを確保するための戦闘(敗戦に終わるが)の最中暗殺される。  張国Zはのち1938年に毛によって失脚されられ国民党へ転向する。

  17. 同じ陜西省の西安に司令部を置いていた張学良は蒋介石から毛沢東軍の見張り役として指名されていた。  しかし張は蒋介石に代わって中国全土を支配したいと考えていた。  彼は秘密里にソ連と接触し,@共産党と同盟する用意があり,A対日宣戦布告をする用意があることを告げ,彼の中国の支配者なるための後押しを求めた。
    ソ連は彼の力量は信用していなかったが,@の条件は魅力的だったので,提案を検討するふりを続けた。  スターリンの狙いは日本を中国内陸部におびき出し泥沼にひきずりこんでソ連から遠ざけることにあったから,ソ連のスパイ(と張戎は明言する)である宋慶齢などを使って南京政府に対日宣戦布告を働きかけた。  しかし蒋介石は中国に勝目がない本格的な戦争を展開するつもりはなく,どっちつかずの態度を守った。  毛沢東は終始抗日よりも国民党殲滅を第一目標としていたから,ソ連の仲介で張学良と接触し,彼の野望を支援することを約束した。  しかしソ連は1936年7月広東州と広西州の南京政府への反乱が即座に鎮圧されたのを見て,蒋介石こそ中国をひとつにまとめることができる人物であるとの確信を強め,中国共産党に蒋介石敵視方針を改め,同盟相手と考えよ,という方針転換を命じた。  が,このことは張学良には伝えられなかった。

    その一方ではソ連(スターリン)は共産軍への大量の武器支援を計画した。  受渡し地点は外モンゴル国境の砂漠とされた。  紅軍は大軍を動員したが,これは蒋介石としてもなんとしても阻止しなければならなかった。  そしてその作戦指揮のため西安に飛来した。  紅軍は敗退し再び黄土高原に閉じ込められ,絶望的な状態に陥った。
    1936年11月25日,日本はドイツと防共協定を結び,その日のうちにスターリンはコミンテルンに「反蒋」を捨て「連蒋」に転ずる必要性を緊急指令した。
    この頃,今が共産党に恩を売るチャンスと見ていた張学良はクーデターを思いつき,毛沢東はすべてを承知の上で連絡係の葉剣英を通してそれを煽った。  張学良が蒋介石を拘束した所謂「西安事件」である。
    12月12日蒋介石を監禁した張学良は14日のプラウダとイズベスチアの論評でソ連の新方針を知り,毛沢東に欺かれたことを知った。  張学良には蒋介石を解放し,蒋とともに西安を離れて身柄を蒋に預けるしか選択肢がなくなった。

  18. 1937年1月,モスクワは次の段階への見解を毛沢東へ伝えて来た。
      @ 中国共産党は暴力による政府転覆方針を放棄すること。
      A 南京政府を実質的に合法政府と認め,共産党軍は蒋介石の指揮下に入ること
    見返りとして蒋介石は共産党軍に一定の支配地域を与え,共産党政府と軍に資金を供給することになり,延安を首府とする人口約二百万の土地を与えられ,共産党正規軍に武器と資金を供給することになった。  さらに蒋介石は共産党のスパイ邵力子を国民党中央宣伝部長に任命しソ連にサービスした。   ソ連はその後おもむろに蒋介石の息子,蒋経国を帰国させた。
    邵力子はエドガー・スノウの毛沢東との貴重な情報とまったくの虚構をないまぜにしたインタビュー内容をもとに『毛沢東自伝』を出版させた。  これによって共産党こそが抗日に最も熱心であったという神話がつくられ,多くの人材が共産党へ入党した。  また,スノウの『中国の赤い星』は,共産党の血塗られた過去を消してイメージ回復の基礎を作った。  ほぼ一年後に蒋介石が邵力子を解任するころには,毛沢東と共産党のイメージはすっかり浄化されていた。
    1937年元旦毛沢東は延安に入城し,以来十年にわたって延安で暮らした。  毛沢東はここで公然と女漁りを始める。

  19. 1937年7月7日,北京近郊の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突した。  日本軍は北京と天津を占領したが,蒋介石は宣戦布告はしなかった。  日本側も全面戦争を望んではいなかった。  にもかかわらず,それから数週間のうちに上海で全面戦争が勃発した。  蒋介石も日本も上海での戦争は望んでいなかし,計画もしていなかった。  日本は上海周辺に僅か三千人の海軍陸戦隊を配置していただけだった。  計画の首謀者はスターリンで,実行者は京滬警備(南京上海防衛隊)司令官でスパイの張治中である。  彼は先制攻撃を執拗に蒋介石に進言し,銃撃事件を演出し,更に日本の戦艦が上海を砲撃したという虚偽の記者発表まで行い,蒋介石に総攻撃を決断させることに成功した。  一日戦闘を行ったところで,蒋介石は攻撃中止を命じたが,張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。
    <※従来の説では,蒋介石自身が手薄な日本軍の殲滅を画策し,ドイツで訓練した子飼いの精鋭部隊を投入した,と言われていた。>
    この結果国民党側は上海で中国軍180個師団のうち73個師団―しかも精鋭部隊―四十万人以上を投入して,大部分が殲滅され,空軍のほぼ全部,そして軍艦の大部分を失なうという大きな犠牲を払った。  蒋介石が営々として築いてきた国民党軍の戦闘能力は,大幅に弱体化した。  スターリンは積極的に戦争続行を支援し,このあと四年間ソ連は中国にとって最大の武器供給国であり,事実上唯一の重火器,大砲,航空機の供給国であった。  抗日戦争によって蒋介石政権の力は著しく弱まり,一方毛沢東は共産軍を130万に大増強した。
    戦争開始時点で共産党の正規軍は約六万,このうち延安を首都とする陜甘寧(陜西・甘肅・寧夏)辺区に駐屯する四万六千は,「国民革命軍第八路軍」と改称された。  総司令は朱徳,副総司令は彭徳海である。  華中,長江東部流域には一万の「新四軍」,これは長征の際,居残りをつとめたゲリラ部隊で,当時の責任者は項英(長征に毛沢東を参加させることに強く反対した人物)である。

  20. 毛沢東は戦争を「蒋介石と日本とわれわれ」の三つ巴の戦いと見ていた。  毛沢東の抗日戦争に臨む基本姿勢は,共産党軍の戦力を温存し勢力拡大をしていく一方でスターリンが動くのを待つというものだった。  侵攻していく日本軍の後方でおこぼれを拾って共産党軍を拡大強化していく,というのが毛沢東の作戦だった。  毛沢東は前線の指揮官につぎつぎと電報を送り,「戦闘ではなく・・・・・根拠地創造に集中せよ」と指示した。
    しかし,スターリンは共産党軍が日本軍と戦うことを望んでいたから,それに刃向かう毛沢東は一時共産党内の地位が脅かされた時期があった。   毛沢東の命令に基づいて中国共産党が国民党に対して攻勢に転じた1939年以降,日本軍の後方で,共産党勢力と国民党勢力のあいだに支配地域をめぐる大規模な戦闘が頻発するようになり,たいていは共産党側が勝利を収めた。 毛沢東は当初スターリンに対しては抜け目無く,本心が伝わらないよう工作を施したが,勢力を拡大するにつれスターリンの黙認を得るようになった。

  21. 1939年ソ連がナチス・ドイツと不可侵条約を結び,二国でポーランドを侵略して分割した。  スターリンが日本とも同様の取引をして中国を第二のポーランドにする,という可能性が生じた。  毛沢東はこの展開を大いに歓迎した。  スターリンが中国の一部を占領して毛沢東を責任者の地位に就けるというシナリオが現実味をおびてきたからである。  毛沢東は側近たちを相手に「長江を・・・・境界線として,われわれが半分を支配する」ことを夢見ていた。  このころ毛沢東は日本の情報部と長期にわたる親密かつ極秘の協力関係を結んだ。  蒋介石への破壊工作を強化し,共産党軍を日本の攻撃から守るためである。
    1940年5月,彭徳懐が華北で日本の輸送線に大規模な破壊工作を行う「百団作戦」を毛沢東の許可なく実行した。  日本占領下で共産党勢力が実行した唯一の大規模作戦であり,士気は大いに上がったが,毛沢東は個人的には蒋介石敗北の可能性,ひいてはソ連介入の可能性が小さくなったことに怒り狂った。  後年彭徳懐は高い代償を支払わされることになる。

  22. 1941年初 毛沢東は,情報を操作し,「新四軍」のうち永年の政敵項英が率いる部隊を国民党軍にわざと殲滅されるような状況を作りあげ<鋎(真字=白偏+完)南事件>,蒋介石を全面攻撃する口実を得ることとソ連の介入を企んだ。  項英は絶望的な情況の中で部下に暗殺されるが,ソ連は毛沢東に先制攻撃を禁じた。  ただ共産党はこれが蒋介石の挑発であるかのような宣伝を世界に向けて発信することに成功した。
    1941年6月ナチス・ドイツがソ連に侵攻した。  ソ連は共産党軍に武力で日本軍を牽制するよう求めたが,毛沢東は共産党軍は弱いので期待しないで欲しいというメッセージを送りクレムリンを怒らせた。  が,自己の利益を追求し相手を利用するという一点でスターリンは毛沢東とは反目しながらも理解しあっていたから,手を切ることはなかった。

  23. 1942年から1943年にかけて毛沢東は党の締め付けをはかった。  「整風運動」である。  国民党に期待を裏切られ,共産党に憧れて,比較的教育程度が高い,理想主義者の若者が多く延安に集まってきていた。  しかし彼等がそこに見たものは毛沢東を含む特権階級とそれ以外の人間との間のひどい不平等であった。  不満を漏らす彼等に対して,毛沢東と側近たちは若者のほぼ全員にスパイ容疑をかけ,洞窟監獄に放り込み,「審査」(尋問と拷問)に掛けるという作業に着手した。   人民に告げ口をさせあう環境を作りあげ,二年に及ぶ洗脳と恐怖による支配により,生気あふれる若き志願入党者たちはロボットに作り替えられた。  非業の死を遂げた人々は数千人にのぼった。  整風運動がもたらした最大の成果は,国民党とのありとあらゆる関係が徹底的に明らかにされたことである。  国共内戦中,国民党組織の防諜がザルの目のように甘かったのと対照的に,共産党組織への潜入に成功したスパイは皆無に近かった。

  24. 延安では「階級敵人」を名指しして強制労働や資産没収の対象とするやり方は大幅に縮小されたが,人民から搾取できるだけ搾取するという方針は,課税という形で続けられた。  延安地方は塩をはじめ,天然資源に恵まれていたが,最初の四年間共産党政権は塩の生産を全く行わず在庫をただ消費し続けた。  1941年になって遅まきながら生産を再開し,当辺区の移出利益を稼ぐようになったが,その運搬を農民世帯に無報酬で強制した。  1942年政権は阿片の栽培に着手し,一年で財政問題を解決したが,一方そのため天文学的なインフレが引き起こされた。  1944年阿片栽培は中止された。  延安をはじめ革命根拠地はすべて,解放後も中国の最貧困地域から脱することができなかった。

  25. 1945年8月9日ソ連・モンゴル連合軍が中国に侵攻し,日本降伏後も数週間南進を続け,1946年5月まで東北に居座った。  ソ連軍の支援を得た共産党軍は東北地区と現・河北省北部を占領し,日本軍の兵器・糧食と降伏した旧満州国政府軍をまるごと手に入れることができた。
    アメリカは蒋介石に毛沢東との和平交渉を求め,両者は重慶で1945年10月10日双方とも守る気のない「双十協定」を調印する。  蒋介石はアメリカ式の訓練を受け,アメリカ製の武器を装備した精鋭部隊を華南やビルマ方面から至急東北へ移送するためには,どうしてもアメリカの軍艦を必要としていたからである。   アメリカは北京と天津を占領し,蒋介石の部隊を東北へ移送し始め,まず秦皇島へ上陸させた。
    毛沢東は重慶から帰ると林彪を東北の共産党軍司令官に任命,蒋介石軍を東北から締出す作戦に着手。  しかし近代戦を経験していない共産党軍は当初蒋介石軍の敵ではなかったし,加えて士気も最低で,脱走兵が続出した。  共産党軍は山海関の防衛に失敗し,東北の大多数の都市から撤退し農村部に行くことを余儀なくされた。  ただ居座ったソ連軍が国民党には最小限の幹部を都市に送り込む以上の進出を許さなかった。  毛沢東の副官劉少奇と林彪は,ソ連国境付近に根拠地を設け近代戦に必要な訓練を受ける必要があること,都市は放棄し,敵の戦力を消滅する作戦を取るべきと提言していた。  毛沢東は都市を死守せよと主張したが,ソ連の撤退後国民党軍はたちまちハルピンを除く東北主要都市をすべてを奪い,共産党軍は崩壊寸前まで行った。  共産党軍は一般民衆にも極めて不人気であった。

  26. この絶体絶命の危機を救ったのはアメリカであった。  もともと蒋一族の汚職を不快に思っていたアメリカ側に,ソ連と毛沢東は示し合わせて芝居を打った。  中国には共産主義者を自称する者はいるが,彼等は共産主義には何の関係もなく,経済状況が良くなれば,そんな政治傾向は捨てるであろう,とか,共産党はアメリカ式の民主主義を望んでいる,などどアメリカに吹き込んだ。 アメリカ軍最高司令官ジョージ・マーシャルが特使として1946年3月延安を訪問,事後トルーマン大統領へ提出した報告書には,東北の共産党勢力は微弱なもので,延安と東北の指揮官たちとは殆ど連絡が取れていないなとど書いた。  そして蒋介石に圧力をかけ共産党勢力への討伐作戦を中止させた。  アメリカの援助資金を必要としていた蒋介石は四ヶ月の停戦に同意せざるを得なかった。
    中休みを得た共産党軍は,二十万の旧満州国政府軍や新兵を統合し,軍を立て直すことができた。  戦闘意欲を高めるための政治教育と並んでモスクワによる再武装が極秘のうちに急速に進められた。  ソ連が下げ渡した日本軍捕虜部隊もみすぼらしい共産党軍の戦闘集団への変身に大きな役割を果たした。  また,北朝鮮も基地として機能し,朝鮮人正規部隊も動員された。

  27. 蒋介石は最初から最後まで私情に従って政治や軍事を動かした。  そして,そのような弱点とは全く無縁な毛沢東という男に敗れて中国を失った。  1947年延安城を占拠した国民党軍の司令官胡宗南将軍は信じがたい敗戦を丸々一年繰り返したが,蒋介石は厳正な処分を下さなかった。  胡宗南は黄埔軍官学校の卒業生で共産党のスパイであったが,蒋介石は共に台湾へ逃れた胡宗南を疑うことはなかった。
    1948年から1949年にかけて国共内戦の帰趨を決めた三大戦役においても,蒋介石の敗北に共産党スパイが重要な役割を演じた。  衛立煌将軍にはスパイの噂があり蒋介石も疑っていたにも拘わらず,遼瀋戦役で総司令に任命した。  部下にも敵にも処刑や処罰を好まなかった蒋介石は彼を自宅軟禁にしたのみで,悠々と香港へ出国するのを認めた。  平津戦役の総指令傅作義はスパイではなかったが,実の娘を含め周囲には共産党のスパイが多数いた。  華中の淮海戦役の総司令はスパイではなかったが,部下の二人の司令官が地下共産党員であった。  蒋介石の親族,宋一族と孔一族の不正な蓄財にも穏便な処置しか下せなかった蒋介石へはアメリカも支持をやめた。

  28. 解放後の毛沢東は,軍事超大国を実現するために,周辺と軍事的危機を作り上げ,それをテコにソ連からの軍事技術や資金や機密情報を引き出すためのモスクワとの駆け引き,軍事力強化のためと国際的名声を高めるための原資作りを目的とする農民からの搾取,国内のリーダーシップを保持し続けるための絶え間ない政治闘争と大衆への思想教育などに明け暮れた。

  29. 朝鮮戦争(1950.6.25〜1953.7)は金日成がスターリンに懇請し許可を貰って始めたものである。  スターリンは最初は渋ったが,ミグ戦闘機を実戦でテストできること,アメリカがどの程度本気で共産陣営と戦うつもりかを測定できるなどの理由で許可する。  ソ連は技術を提供し,人的消耗は中国にまかせればよいという考えであった。  毛沢東はアメリカとの全面対決がソ連の援助を貰う決め手になるとして決断をした。  戦場前線へは優先的に国民党軍の投降兵を投入し,後方に退却を封じる処刑部隊を配置するつもりであった。  そして戦争を利用してスターリンから多くの援助を引き出すことが狙いであった。(結果的には小火器の製造技術移転を獲得したのみ)
    開戦一年で,金日成は荒廃し切った国土を見て中国に和平交渉を相談するが,毛沢東はずっと無視し続けた。  1953年2月アイゼンハワー大統領が中国への原爆投下の可能性に言及した時,毛沢東は原爆製造技術供与をモスクワへ働きかける格好の理由を見出した。  スターリンはそれには応ぜず死去。  中国は朝鮮半島に300万人以上の兵力を投入し,少なくとも40万人が死亡している。(公式統計上は15.2万人)

  30. 軍事超大国実現のため始められた1953年6月からスタートした第一次五ヵ年計画は軍事一辺倒(予算の61%が軍と軍事工業向け)であった。  ソ連から導入した設備は国内では援助と宣伝されたが,実際は有償であった。  代金は食糧,そのため国内市場を縮小して輸出向け食糧を確保する必要があり,都市部には配給制度で最低限の食糧を保証したから,最大の被害者は農民であった。  毛沢東は,飢餓線上にある農民の実態は承知の上で,気前よく北朝鮮,北ベトナム,ルーマニア,東独などにも食糧をばらまいた。  劉少奇は生活水準の向上優先を訴えるが,毛沢東は彼を批判しいたぶり屈服させる。  農民への供出制度導入,農民の管理強化のための集団化,工業と商業の国営化,反革命分子の大量摘発などが相次いで実施された。

  31. 金門島への砲撃などを含む第一次台湾海峡危機は,モスクワへの圧力をかけるための毛沢東の芝居だった。  1955年フルシチョフは中国への原爆技術援助を決断する。  1958年の第二次台湾海峡危機によって,その翌年弾道ミサイル,潜水艦などの兵器製造をソ連が援助する協定が結ばれた。

  32. 1957年2月から始められた「百花斉放百家争鳴」運動は,主に大字報(壁新聞)上で共産党批判を許すというものだったが,これは批判分子を「右派」として迫害するための罠であった。  毛沢東は超大国計画反対者には「右派」のレッテルを貼ると指導部を脅かした。  標的はNo.2 の劉少奇とNo.3の周恩来である。  1958年から四年間行われた「大躍進」は壮大な資源の浪費と途方もない収穫高の作り話の氾濫であった。   北京の由緒ある歴史的建造物の多くはこの時取り壊され,天安門広場は11haから四倍に拡張された。  1999年時点で三万三千余の灌漑事業跡地が人命に危険を及ぼすおそれありとされた。  「大躍進」の結果3800万人が餓死・過労死した。
    「大躍進」の最初の二年間政治局メンバーで反対を表明したのは彭徳懐ひとりである。  彼は粛清され自宅軟禁された。

  33. 1962年1月,党や地方の幹部など七千人が北京に集まり,史上最大の会議「七千人大会」が開かれた。  この時,慎重で従順なはずの劉少奇が毛沢東の政策を激しく攻撃し,人民公社や総路線(工業化計画)の廃止の可能性まで言及し,聴衆の熱烈な反応を示した。  林彪がその後でローマ教皇無謬論にも匹敵する毛沢東擁護論を展開し,窮状を救ったため空気は若干変化したが,毛沢東は自己批判をせざるを得なかった。  そして1962年以降予定していた殺人的な供出計画を諦めた。  これにより何千万の人々が餓死の運命を免れた。  毛沢東は上海へ行き,劉少奇,周恩来,陳雲,そして新進気鋭のケ小平がそれまでの政策を大きく転換させた。  核プロジェクトは継続されたが,軍事関連投資や対外援助は大幅に縮小され,代わって日用品製造に初めて資金が振り向けられ,農業への投資は急増した。  農民は事実上自作農の形に戻ることができた。  ケ小平は「黒猫であろうが白猫であろうがネズミを捕る猫が良い猫だ」という古い諺を引用して方針変更を擁護した。

  34. 毛沢東は復讐を決意していた。  標的は国家主席と共産党の中軸をなす幹部である。  毛沢東の狙いは遺恨を晴らすことだけではなかった。  七千人大会の経験から,毛沢東は,この幹部たちでは自分の思うような国家運営はできない,と見切りをつけた。  文化大革命の狙いは,こうした幹部を粛清して新しい執行官(軍人)と入れ替えることでもあった。  1965年11月毛沢東は大粛清を開始した。  どっちつかずの立場を保ってきた周恩来が林彪の側につき,毛沢東,林彪,周恩来の強固な三人組が成立し,粛清阻止への望みは完全に絶たれた。  1966年5月,政治局拡大会議で最初の犠牲者となる大物四人,彭真北京市長・羅瑞卿総参謀長・モスクワとの連絡係である楊尚昆中央弁公庁主任・陸定一中央宣伝部長が「反党集団」の罪を着せられ,即時投獄された(羅瑞卿と陸定一は林彪の仇敵であった)。  5月末,毛沢東は文化大革命という名の大粛清を進める機関として中央文化革命小組を設置,率いるのは江青である。  以後十年にわたる文革では300万人が非業の死を遂げ,一億人が迫害を受けた。  <以下省略>

【読後感】
  中国共産党は毛沢東を完全には否定できないであろう。  毛沢東が何千万人の同胞を殺したにせよ,大陸から国民党を追放できたのは毛沢東の(戦争は下手だったが)強運と“組織力”の成果であり,中国に原爆・水爆保有国という大国の看板を持たせることができたのは毛沢東の執念であることは否定できない。  ただ,アジアの独裁主義者には珍しく毛沢東は自分の子孫を後継者にすることにはまったく関心がなかった。
  毛沢東のせいで経済発展や生活水準向上には大きく遅れを取った中国であるが,それを中国は今懸命に取り戻そうとしているのである。  毛沢東に殺された名もない無数の魂は今の中国を見て,果たして何を思うであろうか。

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☆ 申維翰著 『海游録―朝鮮通信使の日本紀行』 を読む <2008.01.20>

発行:平凡社 東洋文庫(1974年5月)

姜在彦(カン・ジェオン)(1926〜,京都大学文学博士,現在花園大学文学部客員教授)  訳注

  『海游録』は1719年(享保四年)に,徳川吉宗の将軍職襲位を賀するために派遣された朝鮮通信使(又は信使)に製述官として随行した著者申維翰(シン・ユハン)(1681〜?)が記録した日本紀行である。  本篇は日記体(原文は漢文)で書かれていて,この現代語訳で読んでも精緻を極めた観察と流麗な描写をもつ名文である。   この時の使節は江戸時代としては第9回目の通信使に当たるが,通信使という制度は既に室町幕府足利義満が明朝から「日本国王」の冊封を受けたのち,朝鮮にも「日本国王源道義」の名義を以って使者を派遣し,新しい外交関係を開いて以来連綿として続いてきた制度である。   江戸時代の第1〜3回通信使の名称は回答兼刷還使であり,名目上は捕虜の帰還を進めるための使いであるが,実態は日本側の招聘に応えて朝鮮側が友好使節を派遣するスタイルによる一大国家外交行事であることに変わりない。

  享保四年の通信使は,一行475人(歴代の人員とほぼ同程度,そのうち109名は江戸まで行かず大阪に六船からなる自国船とともに残留)を擁する一大使節団であり,往復日数261日を要している。  信使の日本国内での宿泊所や休憩所は幕命により各地の大名・領主が自費で設営し接待する慣わしであるから,日本側の出費も少なからざるものがある。

  信使一行は正使,副使,従事官の三使臣,堂上訳官三員,上通事三員,製述官一員,使臣付きの医員を始め,軍官,書記,技人,役夫などから構成される。   製述官の役割は,本文によれば,「近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり,学士大人と呼びながら群をなして慕い,詩を乞い文を求める者は街に満ち門を塞ぐのである。  だから,彼らの言語に応接し,我が国の文章を宣揚するのが,必ず製述官の責任とされるのである。  まことにその仕事は繁雑であり,その責任は大きい。  かつ,使臣の幕下にありながら,万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは苦海であらざるはなく,人々みな畏れて,鋒矢に当たるのを避けるが如くこれを避ける。」とある。
  事実,日本での道中では有名無名の文人墨客僧侶たちが宿舎に使節を待ち構えて殺到し,書を乞い,彼等と漢詩を唱酬し筆談することが,時には深更にも及ぶが,申維翰は旅の疲れをおして真面目に対応しているさまが文中で伺われる。  申維翰は科挙試に合格した文官であるから,日本人の漢詩・漢文については,ごく僅かの例外を除いて,殆ど観るべきものはないと切り捨てている。  申維翰は「日本には,科挙試によって人を採用する法がなく,官は大小にかかわらずみな世襲である。  奇材俊物が世に出て自鳴することのできない所以である」と評し,以前の製述官の遺文の中に記録された詩を見て「泉南の柳剛,号を震訳という者あり,諸倭中の最たる傑物である」と珍しく褒め,「聞けばその地品は寒陋にして,諸州の記室(書記官)たることもできず,終生掃除の隷(掃除夫)におわったという」と嘆じている。
  姜在彦氏の巻末の解説によれば,申維翰は慶尚北道高霊の人であるが,彼自身嫡子でなく庶孽(庶とは良妾(良民出身の妾)の子供、孽とは賤妾(賤民出身の妾)の子供)出身であったから,李朝では官品がきびしく制限されていて,官職も下位の従四品にとどまった自分の運命を慨嘆しているとある。   李朝では申維翰が応試できた一時期を除いて,庶孽出身者は科挙試に応試することすらできなかった,のであるから,出身故に不遇の人生を送った異国の人への同情もむべなるかなである。

  一行に往復とも同行したのは,対馬藩の記室(書記官)である雨森誠清(号は芳州,俗号は東五郎,本篇では雨森東と書く)と松浦允仁(号は霞沼,俗号は儀左衛門,本篇では松浦儀と書く)の二人であり,彼等は木下順庵の弟子にして新井白石や室鳩巣と同門である。  新井白石(本篇では源璵と書く)は以前から通信使との出会いを持っており,申維翰も彼の文才を評価する先輩の言を聞き,面会を期待していたが,この時白石は失脚して蟄居しており,会うことは叶わなかった。

  雨森芳州,松浦霞沼と申維翰とは他の人との儀礼的な付き合いとは異なり,江戸までの往来を通じて深く接触し,とりわけ雨森芳州は,朝鮮語と中国語を話すことのできる,当時としては貴重な儒学者であり,道中時にそれぞれ自国の威信をかけて口喧嘩もするなど,腹を割った付き合いをしている。  雨森芳州は対馬で没するが,彼の出身地,現在の滋賀県高月町雨森地区には今,「雨森芳州庵(東アジア交流館)」が建てられ,韓国からの訪問者も多い。

  本篇に続く「付篇 日本見聞雑録」には,日本の地理,政治形態,官職,物産,飲食・薬,兵制,女性の容貌から花柳界,男娼の俗まで諸々の見聞が記されるが,雨森芳州との談論についても詳しく記されている。
  あるとき宿舎でくつろいだ時に,雨森芳州が申維翰に対して,朝鮮国の文集を見ると,日本のことを倭賊,蛮酋と書くのは「醜蔑狼藉,言うに忍びない」と怒ったことがある。  申維翰はそれに答えて,「君が見た文集は壬辰倭亂(文禄・慶長の役)後に刊行されたものであう。  秀吉は我が国の通天の讐であり,・・・・我が国の臣民たる者,誰かその肉を切り刻みて食わんと思わぬ者がいようか。 ・・・・しかし,こんにちにいたっては,日東国の山河に,既に秀吉の遺類なきを知る。」 だから信使を派遣し修好している。  どうして宿怨を再発させることがあろうか,と言っている。  また雨森芳州が,貴国の人が日本人を倭人と呼ぶのは望まない。  唐も倭を日本に改めたのだから,日本人と言ってもらいたい,と突っ込むと,申維翰は切り返して,貴国人は我を呼ぶに唐人というのはどういう意図か,と言う。  雨森芳州曰く「国令では信使を客人と称し,あるいは朝鮮人と称す。 しかし日本の大小の民俗は,古くから貴国文物を中華と同等にいい,ゆえに指すに唐人をもってし,これを慕うのである。」と苦しい言い逃れをしている。  しかし韓(から)を唐(から)と言い換えて,由来をぼかすか,中国と直結させるのは古来からの日本人の習癖になっている。

  「付篇 日本見聞雑録」には「国に四民あり,曰く兵農工商がそれである。  士はあずからない」という文がある。  朝鮮では武官よりも文官のほうがはるかに地位が高かった。  朝鮮では士=読書人であるが,日本ではそうではないので,兵農工商とは言い得て妙なりといえる。
  日本人には聡敏にして明弁なるものが多い。・・・・古今の異書,百家の文集にして書肆で刊行されたものは,我が国に比べて十倍どころではない,と評価しているが,一方婚姻に関しては,婚姻は同姓を避けることがなく,従父兄妹(同祖の兄妹)がたがいに嫁娶す。  兄嫂(兄嫁)や弟妻も寡居(やもめ暮らし)すれば,即ちまた率いて養う。  淫穢の行はすなわち禽獣と同じく・・・・と手厳しい。

  通信使の目的は,日本の国情を真剣に細密に探索することにあり,そして朝鮮国側から見れば,再び秀吉のような「賊」が現れるか否かが最大の関心事であった。  そういう意味で「付篇 日本見聞雑録」の末尾には,家康以来国内に兵乱はなく,国は富んでいるが,「君臣たるもの・・・・安楽に馴れ,汲々として事変をただ懼れる。」  秀吉や清正のような賊が出て来ても,我が国の辺疆を脅かすようなことは万が一にも起こらないであろうというくだりが入っている。

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☆ イザベラ・L・バード著 『朝鮮紀行』 を読む <2008.08.27>

(a) 発行:平凡社 東洋文庫(1993年)
(b) 発行:講談社 学術文庫(1998年)
 

原題:Korea and Her Neighbours. A Narrative of Travel, with an Account of the Recent Vicissitudes and Present Position of the Country. 2 Vols., 1898.

(a) 翻訳者:朴尚得
(b) 翻訳者:時岡敬子   ・・・・私が読んだのは(b)である。

  バードは朝鮮を四度訪問している。  彼女62歳の時1894年(明治27年)1月にはじめて釜山に上陸する。  そこで一人のイギリス婦人と庶民と同じ生活をしながらキリスト教の布教に従事する三人のオーストラリア人女性と出会っている。  釜山の居留地はまるで日本の内地のような様相を呈していることを伝えている。  バードはそこから直ぐに船で済物浦(<チェムルポ>今の仁川<インチョン>)からソウルに入る。  ソウル滞在の後、4〜6月には南漢江流域と,北漢江流域から金剛山の仏教寺院までを踏査し元山<ウォンサン>に達している。  船で釜山,済物浦からソウルへと帰ると,日清戦争の準備に入った日本軍の動きを目撃することになり,済物浦の日本領事の勧告に従い朝鮮を一時退去する。  満州の牛荘,奉天,山東半島の芝罘に暫時滞在したあと,長崎港からウラジオストクへ渡る。  同年11〜12月にはロシア領内の朝鮮人社会を視察している。  1895年1月には,ソウルで国王(高宗)と王妃(閔妃)に数回謁見。  同年10月彼女が長崎滞在中に王妃が暗殺される事件(乙未事件)が起きている。  バードは事件について情報を集めごく客観的に解説している。  彼女は日本側の志向する“国政改革”を進めようとする内閣と無力な国王とが引き起こす政情不安にいらだっているようである。  同年年末には,陸路でソウルから平壌・大同江中流の朝満国境近接地まで旅行している。  さらに1897年にも朝鮮を訪れ,ソウルに滞在した。

  本書は単なる紀行文ではない。  地勢,歴史,民俗風習,政治動向,宗教(特に朝鮮独特のシャーマニズム)から教育・貿易・財政に関する情報と知見,朝鮮の将来に関する考察まで,その筆は広がる。  彼女の興味の広範さと知識慾の旺盛さには感服するのみである。

  以下,バードの記述の中から興味のあるものを拾ってみる。

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  序章で地勢・民俗・歴史・政治・経済を簡単に紹介する中で,「住民の体格がよいこと,知能面では理解が早く,外国語をたちまち習得してしまい,清国人や日本人より流暢に,またずっと優秀なアクセントで話す」 と述べているが,これは現在でも通用する。   遺伝的素質は百年経ったぐらいでは変わらないことがわかる。


  「朝鮮文字である諺文(オンムン)[ハングル]は・・・・知識層から,まったく蔑視されている。   もともと諺文は女性,子供,無学な者のみに用いられていたが,1895年1月,それまで数百年にわたって漢文で書かれていた官報に漢文と諺文のまじったものがあらわれ,新しい門出となった。 <序章>
  日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は1894年7月23日に日本兵が景福宮を武力で占拠した時点からはじまった。   相ついで発布された改革法令は日本公使が主導したもので,まもなく到着した日本人「顧問」が仔細に調整した。・・・・
  1894年7月大鳥氏(大鳥圭介公使,元幕臣で男爵。※注記参照)は官報を鮮明な活版印刷で発行するという有益な刷新を行った。   そして翌年一月には漢字と「無知な者の文字」とされていた諺文の混合体が官報に用いられ,一般庶民にも読めるようになった。   ・・・・その後日本の官報に近づくよう改革され,官報の重要性という点では失ったものより得たものの方が大きい。・・・・官報についてかくも長々と述べたのは,何世紀にもわたり官報に発表された勅令が法としての力と国会制定法並みの流布力を持ってきたからである。・・・・朝鮮政府の機構改革計画の概略を左にまとめてみたが,この改革計画はその大部分を1894年からこのために招聘された日本人顧問官が作成し,国王の裁可を得たものである。・・・・現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮に与えたのである。   日本人が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり,それはとがめられるべきことではない。 <第三十二章―国政改革>
  ソウルで起きた最大のできごとのひとつに1896年4月,ジェーソン(本名:徐載弼<ソ・ジェピル>)博士が『独立新聞』を創刊したことがある。   これは英語と朝鮮語(諺文)で書かれた二ページ,週三回発行の新聞で,1897年には四ページに拡大され,英語版と朝鮮語版が別々に発行された。 <第三十六章―1897年のソウル>」

  ハングルを最初に公式文書に用いたのは日本人の主導による「改革」の一つなのである。  無論,現在の韓国の歴史教科書上ではこのことは触れられていないはず。  日本政府は改革が進まないのは閔妃一派による妨害のためであることを知り,大鳥公使に代えて内務大臣井上馨(当時伯爵)を特命全権公使として派遣した。  しかし事態は変えることができず帰国,後任に三浦梧楼子爵が任命された。   彼が閔妃殺害の首謀者のひとりである。


  大鳥圭介=播磨赤穂郡赤松村出身。   備前閑谷黌で漢学を学び,緒方洪庵の適塾で蘭学を修め,江戸では江川太郎左衛門に兵学を,中浜万次郎に英語を学ぶなどして,洋学に関する知識を認められ幕府開成所の教授に任ぜられる。   のち陸軍に出向。   戊辰戦争を経て榎本武揚らと函館に籠城するが降伏した後,維新政府に出仕。   明治22年特命全権清国駐箚公使,明治26年(1893)朝鮮駐箚を兼任,27年枢密院顧問官に任じられる。
  バードは彼の印象をこう記す。
  「その年(1894年の日清戦争前夜)の最初の数ヵ月間,わたしは大鳥氏と顔を合わせる機会がよくあった。  大鳥氏は中背の日本人で,英語がうまく,洋服姿がじつに板についており,白い「三角」ひげが自慢だった。  婦人客が食後の休憩をとっている部屋をうろうろしてはつまらない感想を口にする人で,取るに足らないところが唯一の特徴だった。   しかし状況が状況であるせいか,あるいは東京からの厳重な指令のせいか,大鳥氏は一変していた。   それまでの彼が仮面をかぶっていたかどうかわたしには知るよしもないが,ともあれ彼は荒っぽく,精力的かつ有能で,非人道的な行動派としての面を見せ,その如才なさはきわどい駆け引きで袁世凱の裏をかいたばかりか,ほかのだれをも出し抜いたのである」 <第十三章―迫りくる戦争/済物浦の動揺>


  1876年,日本が江華条約を強要し,1882年には清が商民水陸章程でこれに続いた。  アメリカ合衆国は1882年に,イギリスとドイツは1884年,ロシアとイタリアは1886年,またオーストリアは1892年に,それぞれ条約締結を交渉したが,そのいずれにおいても, 朝鮮は清の属国であったにもかかわらず,独立国家として遇されている。  これらの条約によりソウルと済物浦,釜山,元山<ウォンサン>の三港が開港し,また今年(1897年),木浦<モッポ>と鎮南浦<チンナムポ>がそれに追加された。 <序章>

  朝鮮は清の属国であったというのが当時の常識であった。


  「朝鮮の動物相は注目に値する。  トラヒョウはおびただしく棲息し,・・・・<序章>
  最初私はトラとその略奪行為についてはたいへん懐疑的だった。  ・・・・けれどもトラにまつわるうわさ話はたえず耳に入るし,・・・・けれども・・・・元山<ウォンサン>のこぎれいな地域においてさえ,わたしの到着する前の日に少年と幼児がさらわれ,町を見下ろす山の斜面で食べられてしまったから,わたしも信じざるをえなくなった。  おそらくトラのしわざされる被害のなかには,ほんとうはヒョウがやったものも含まれていると思われる。  ヒョウはたしかに多くいて,ときにはソウル城内でもしとめられている。 <第六章―漢江とそのほとり>」

  トラの話はよく喧伝されているが,ヒョウの話は意外であった。


  「ソウル,海岸,条約港,幹線道路の周辺のはげ山は非常に目につき,・・・・朝鮮南部の大部分において,木立という名に値するものが残っているとすれば,それは唯一墓地のおかげである。   ・・・・しかし北部と東部の山岳地,とくに豆満江,鴨緑江,大同江,漢江の水源周辺にはとても広大な森林があり・・・・」 <序章>とある。

  日韓併合後にはげ山が増えたという俗説は偽りであることが分かる。


  「釜山の旧市街へ同行してくれたのは,ほぼ朝鮮人同様に朝鮮語を操れるチャーミングなイギリス人の「ユーナ」[真の信仰を象徴する婦人]で,・・・・朝鮮の一般的な町のみすぼらしさはこの町と似たり寄ったりであることをのちの体験で知った。   狭くて汚い通りを形づくるのは,骨組みに土を塗って建てた低いあばら家である。   窓がなく,屋根はわらぶきで軒が深く,どの壁も地面から二フィートのところに黒い排煙用の穴がある。   家の外側にはたいがい不規則な形のみぞが掘ってあり,固体および液体の汚物やごみがたまっている。   疥癬で毛の抜けた犬や,目がただれ,ほこりでまだらになった半裸か素裸の子供たちが,あたりに充満する悪臭にはまったきおかまいなしに,厚い土ぼこりや泥の中で,日なたで息を切らせたり,まばたきしたりしている。」 <第六章―漢江とそのほとり>
  と,町のみすぼらしさと貧しさの実像を描写している。


  慈山<チャサン>で,・・・・町の人々からは清国兵は情け容赦なくものを盗む,ほしいものは金も払わずに奪い,女性に乱暴を働くという悲痛な被害の話をきいた。・・・・慈山でもほかと同様,人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示したが,やはりほかのどこでもそうであるように,日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた。 <第三十章―キリスト教伝道団>

  朝鮮人の日本人に対する反感は本書のあちこちで指摘されている。  それは三世紀前の日本の侵略が残した遺産であるとも言っている。


  「・・・・朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある・・・・両班はみずから生活のために働いてはならないものの,身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず,妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。  両班は自分ではなにも持たない。   ・・・・両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。  慣例上,この階級に属する者は旅行をするとき,おおぜいのお供をかき集められるだけ集めて引き連れて行くことになっている。  従者たちは近くの住民を脅かして飼っている鶏や卵を奪い,金を払わない。・・・・
  非特権階級であり,年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が,代価も払いもせずにその労働力を利用するばかりか,借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。  商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば,両班か官吏が借金を求めに来る。  これは実質的に徴税であり,もし断ろうものなら,その男はにせの負債をでっちあげられて投獄され,本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝笞で打たれる。・・・・元金も利息も貸し主にはもどってこない。」 <第八章―自然の美しさ/急流>

  官吏の腐敗と搾取,両班という寄生虫的存在が,朝鮮を腐らせたというのがバードの基本認識である。  庶民の無気力と実業を卑しいものと考える思考方式が改革や発展を阻害しているとも見ている。


  「(平壌からソウルへの帰路の)出発前,ほこりと汚物にまみれた宿の庭にすわり,うつろに口をぽかんと開けた,無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると,わたしには羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が,なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ,ロシアの保護下にでも入らないかぎり1200万とも1400万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。  ロシアの統制を受ければ,働いただけの収入と税の軽減が確保される。  何百人という朝鮮人が精力的に働く裕福な農夫に変身しているのをわたしはシベリア東部で見ているのである。」 <第八章―自然の美しさ/急流>

  バードは,朝鮮自身による国の再生は到底無理で例えばロシアの保護国にでもなるしかないと断じている。  しかし環境が変われば国民はよく働き裕福になるだろうという見方は現在の韓国の状況を見れば当たっている。


  「昼間水をくんだり洗濯したりする下層階級の女性については前に少し触れた。  これら女性の多くは下女で,全員が下層階級の人々である。  朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。  ・・・・ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。  (夜)八時に《大釣鐘》が鳴り,それを合図に男たちが家に引きこもると,女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。  ・・・・わたしが到着したのもそんな時間帯であり,まっ暗な通りにあるのはもっぱらちょうちん片手に召使いをお供にした女性の姿だけという異様な光景であった。・・・・十二時にもう一度鐘が鳴ると,女たちは家に戻もどり,男たちはまた自由に外出できる。   ある地位の高い女性は,昼間のソウルの通りを一度も見たことがないとわたしに語った。 <第二章―首都の第一印象>   ・・・・中流および上流階級の女性の場合・・・・絶対に中の見えない輿に乗らないかぎり昼間は外出しない。
  朝鮮の妻は母親になると立場がよくなる。  女児は両親の老後の面倒をみたり先祖代々の儀式を行うことができないので男児ほど重んじられないが,それでも東洋諸国でときおり見られるほどじゃま者扱いされるわけでも歓迎されていないわけでもない。  女児の誕生は祝いの対象にはならないものの,長男誕生は祝われ,その子に名前がつけられたあと母親は「だれそれのお母さん」として認識される。 <第九章―婚礼にまつわる朝鮮の風習>」

  今は,日中韓のどの国でも女性上位が珍しくなくなったし,子供が親の老後の面倒を見るという伝統的な規範も存立があやしくなっている。  「だれそれのお母さん」ということに関して言えば,現在韓国では,子供が生まれると若夫婦間のお互いの呼称が“誰々アッパ(お父さん)” “誰々オムマ(お母さん)”という言い方になるのが普通である。


  ・・・・(元山近くの海岸沿いの)この地域では馬も体つきが大きくてよく世話をされており,赤い牡牛は巨大である。  とはいえ,黒豚は相も変わらず小さくてみすぼらしい。  作物は整然と植わっており,畔や灌漑用水路もよく手入れされている。  日本と土壌がきわめてよく似ているのであるから,しかも朝鮮は気候には日本よりはるかによく恵まれているのであるから,行政さえ優秀で誠実なら,日本を旅した者が目にするような,ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う。
  長安寺から元山にいたる陸路のあいだには,漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法を見る機会に恵まれた。  日本人のこまかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると,朝鮮人の農業はある程度むだが多く,しまりがない。  夏のあいだは除草しておくべきなのにそれがされていないし,石ころが転がったままの地面も多く,また畑の周辺や畦は手入れが行き届いていなくて,石垣がくずれたままになっているのは目ざわりである。  農地を通る小道はかなり傷み,両側には雑草が生えていて,畑のうねはあまりまっすぐではない。   それでもさまざまなことから予想していたよりは,概して耕作はずっと良好であるし,作物ははるかに清潔である。・・・・」 <第十二章―長安寺から元山へ>

  ここで指摘される農業のやりかたは,現在でも製造業を始めいろんな分野にも当てはまるようである。  いわゆる「ケンチャナヨ」精神である。


  「美術工芸はなにもない。 <序章>・・・・
  ソウルには芸術品はまったくなく,古代の遺物はわずかしかないし,公園もなければ,コドゥン[=国王の行幸のこと]というまれな例外をのぞいて,見るべき催し物も劇場もない。  他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。  古い都ではあるものの,旧跡も図書館も文献もなく,宗教にはおよそ無関心だったため寺院もないし,いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない。・・・・
  清国と同じように孔子廟とその教えを記した碑があるのはべつにして,ソウルには公認の寺院がひとつもなく,また僧侶が城内にはいれば死刑に処せられかねなかったので,結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある,堂々とした宗教建築物のあたえる迫力がここにはない。・・・・仏教は十六世紀以来「廃止」されており,実質的に禁止されてしまった。・・・・
  寺院がひとつもなく,ほかの宗教の気配がなにもないとなれば,せっかちな人が朝鮮人には宗教心がないと考えてもむりはない。  祖先崇拝と,大自然の力をびくびくと妄信的に恐れるゆえの鬼神信仰(シャーマニズム)は,朝鮮人にとって宗教の代わりとなるものである。  わたしはどちらも恐怖の産物ではないかと考えている。   祖先崇拝が守られるのは,子孫としての敬愛よりも,祖先の霊がその子孫にたたることへの恐れからではなかろうか。 <第二章―首都の第一印象>」

  よく知られるように,韓国の有名な古刹はみな僻地に位置する。  また,祖先崇拝も鬼神信仰も恐怖のゆえというのはなかなかユニークな説である。  このことは日本の古代において,不幸な死を遂げた高貴な人の祟りを封じるため寺院や仏像を建立した例が少なからずあることとも相通じる。  祖先崇拝に関して言えば,現代でも長男の嫁はしょっちゅう家の祭祀(チェーサ)の準備に追われるので,長男と結婚するのを嫌う女性が多いと聞く。


  「元山から約六十里[朝鮮里。一里=約0.4km]のところに芝草の生えた小山の群れがあるが,これは昔の風習にまつわるもので,現代の朝鮮人はその風習を野蛮と考えており,この小山群について語ろうとしない。   李朝の前の時代,いまから五〇〇年以上も昔,老齢や病気で身内の負担となった人々をこういった小山のなかにある石室に少量の食べ物と水を持たせて閉じ込め,放置して死なせる風習があった。   朝鮮各地の同じような小山で土器の碗やつぼ,ときには灰色の青磁が発見される。」 <第十二章―長安寺から元山へ>

  日本でいう“姥捨山”である。  貧しかった昔はどこでもこのような風習があったのだ。


  朝鮮は必ずしも貧国ではない。  資源は開発されていないのであって,・・・・資源はある。  海に,土に,身体壮健な人々に。・・・・
  その一方で,国民のエネルギーは眠ったままである。  上流階級は愚かきわまりない社会的義務にしばられ,無為に人生を送っている。  中流階級には出世の道が開かれていない。  ・・・・エネルギーをふり向けられる特殊技能職がまったくないのである。・・・・首都ソウルにおいてすら,最大の商業施設も商店というレベルには達していない。・・・・
  いまこの瞬間にもソウルでは,何百人もの強壮で並の知力のある男が,たばこ銭にいたるまでの生活費をすべて身内または知り合いの高級官僚に頼り,日に三度ごはんを食べ,雑談にふけり,よからぬことを企んでいる。・・・・
  こういった居候たちを・・・・もはや養っていけないとなると,官職をつくったり,探してきたりしてあてがう。  したがって行政府の雇用はこういった盗っ人階級の「独壇場」同然である。  何年も前から朝鮮の品位を落としてきた党派争いによる政変は,政治理念の闘争などではさらさらなく,官職と金銭とを自由に采配できる地位の争奪戦にほかならない。 <第三十七章―最後に>

  日本の場合,室町時代から江戸時代を通して商工業がかなりの程度発達していたことが,明治以降の大発展につながった。   朝鮮の場合はそういう土壌がきわめて貧弱であったことが分かる。
  また,李朝時代を通して絶え間なく存在した「党争」の本質をずばりついている。


  1895年10月の閔妃暗殺事件(乙未事件)の結果については,バードはこう書いている。
  「王宮での惨劇から十日後,日本政府は三浦梧楼子爵,杉村書記官,岡本朝鮮軍務顧問官の三名を召喚,逮捕し,政府自体はこの凶行に加担していないことをただちに証明した。・・・・王妃が政治の場で見せた東洋特有の非人道的な性質は,その死にまつわる惨劇が恐怖の戦慄を引き起こしたために忘れられた。・・・・国王はひどく動揺しており,ときとしてむせび泣いた。   王妃は脱出したものと信じており,自分自身の安全をひどく案じていた。   なにしろ国王は暗殺者の一団に囲まれており,その一団のなかでもいちばん非道な存在が自分の父親(=王妃とは犬猿の間柄であつた大院君)だったのである。   王妃暗殺からほぼ一ヵ月後,王妃脱出の希望もついえたころ,新内閣による政治では諸般の状況があまりに深刻なため,各国公使たちは井上伯に,訓練隊を武装解除し,朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて,事態を収拾しようと試みた。   日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが,この提案から分かろうというものである。」 <第二十三章―朝鮮史の暗部>

【参考】   『トラの日記―http://d.hatena.ne.jp/hidekitora/20060926』    に当時の日本側の事件関係者の証言記録が掲載されている。

  結果として三浦公使らの「暴発クーデター」により日本は目の上のたんこぶを取り除くことができたのは疑いない。   しかしながらこの事件以後日本は朝鮮からかなり手を引かざるを得なくなった。

  「日本は文明諸国に対して国家と外交能力への信用を失ってしまった。  つづいて日本は駐屯隊を引き上げさせ,多数いた顧問官,検査官,軍事教官を帰国させた。  そして積極的な専制から外見上自由放任主義的な方針にかわったのである。  「外見上」とわたしは書いたが,それはこの野心的な帝国が・・・・絶望のうちに身を引いた(!)とはとうてい考えられないからである。 <第三十七章―最後に>

  1895年12月の断髪令がきっかけになって朝鮮全土で武装蜂起が起こった。
  「国全体が動揺し何件かの深刻な暴動が起きたのには原因がある。・・・・その原因はわたしたちにはばかばかしく思えようとも,朝鮮人には・・・・強い保守性があることを,なにはさておき教えてくれる。・・・・その原因とは1895年12月30日の勅令による「まげ」への攻撃である!   これが全土を炎と燃えさせた。  憎き日本が優位を誇ろうとも,あるいは王妃が暗殺されようとも,国王が幽閉同然の待遇を受けようともじっと耐えてきた朝鮮人が,髪型への攻撃にはどうにも耐えられなかったのである。・・・・清国人の弁髪は政府への服従,あるいは忠誠のしるしにすぎず,・・・・しかし朝鮮人にとって「まげ」は・・・・大昔からの習慣であり,歴史のあるゆえに神聖なものであり,・・・・「まげ」は99パーセント結婚とともに結われる。」
これに続きバードは「まげの結髪式」について詳しく紹介している。
  「「まげ」の廃止は前にもアメリカ帰りの朝鮮人から提唱され,日本人の支持を得て内閣で討議されたことがあったが,一般の反発がすさまじく,政府も強要できなかったのである。  断髪令発布のすこし前には,三名の訓練隊(=日本人教官に率いられる朝鮮人守備隊で,閔妃暗殺を幇助した)高級将校が≪中枢院≫会議室に乗り込んで抜刀し,すべて公職に就く者には断髪を義務づける勅令を即刻公布することを求めた。・・・・震え上がった大臣たちはひとりをのぞいて全員それに応じたが,・・・・その後すぐに事実上幽閉の身だった国王が勅令を承認せざるを得なくなり,国王,皇太子,大院君,そして閣僚が「まげ」を切り落とし,兵士と警察官がそれにつづいた。・・・・
  断髪令が国民の反感を買った理由のひとつに,一般に黙認すべき厄介者と見なされている僧侶が剃髪していることがあり,また・・・・日本人の陰謀だと受けとめられた。
  地方では動揺が激しかった。  政府高官ですらジレンマで進退きわまった。・・・・ある地方では新任の高官が断髪した頭でソウルから到着したとたん,・・・・群衆から・・・・「坊主頭の郡守」などまっぴらだと抗議され,すごすごソウルへ引き返してしまった。
  商人,キリスト教宣教師などソウルへにやってきて髪を刈られた地方の住民は,殺されるのがこわくて地元にもどれなくなった。  木材と生鮮食料品はソウルに入ってこず,生活必需品の価格は高騰した。   新年を参賀する栄誉に浴しながら仮病をつかった者も多くいたが,呼び出されて髪を切られた。  はさみの音はソウルの城門でも,王宮でも,官邸でも聞こえた。・・・・
  髪を切った人々は地方住民に暴力をふるわれるのを恐れ,ソウルから遠出をしようとはしなかった。  首都から50マイルの春川<チュンチョン>では命令を強制しようとした知事とその部下全員を住民が大挙して殺害し,町とその周辺を占拠した。・・・・1896年1月なかばには物価があまりにも高騰したため,ソウル市内でも「騒動」が起きるのではないかと懸念され,また「地方住民は今回の断髪令の対象としない」というあらたな法令が発せられた。
  事態はさらに悪化し,1896年2月11日,極東全体がセンセーショナルなニュースに唖然とした。  「朝鮮国王が王宮から抜けだし,ロシア公使館に移った」というのである。   ・・・・国王は一年有余そこを安全な住まいとすることとなった。・・・・安全な身となった国王は長いあいだ手から離れていた大権をふたたび取りもどすと,以来少しも抑制しなかった。

  すぐにふたつの勅令が発させられた。  ひとつは1894年7月の日本軍景福宮占拠と1895年10月の王妃暗殺事件の首謀者に極刑を下すべしということと,断髪令の撤回を宣言するもの,もうひとつは兵士に対してのもので謀反人六名(氏名省略)を斬首せよ,というものであった。
  ・・・・これまで数度にわたりその座に就いてきた首相(=金弘集)と農工商務大臣が捕らえられ,街頭で斬首された。・・・・新内閣が設立され・・・・そして過去6ヵ月間に発布された勅令の大半が撤回され,「まげ」は勝利をおさめた。
  王宮脱出直後から国王は「ロシア公使の手中にあるたんなる道具」になるだろうというのがおおかたの見方だったが,それはみごとにはずれ,一年とたたないうちに,ウェーベル公使が口をはさんで国王の政治的手腕のまずさをカバーしてくれないだろうかと期待する声が大いに高まったほどであった。・・・・1896年9月には日本の保護下で組織された内閣にかわり,十四名のメンバーで構成する議政府が設けられた。・・・・日本がその隆盛時に悪弊を改めるために行った試みは大部分が廃止された。
  地方長官職その他の職位を売買する有害きわまりない習慣は多少抑制はされていたが,宮内大臣をはじめ王室の寵臣は破廉恥にもこの習慣を再開した。   また国王自身,潤沢な王室費がありながら,公金を私的な目的に流用し,・・・・さまざまな面で王朝の因習に引き返してしまった。・・・・一方,日本は徐々に撤退し,また撤退を余議なくされ,日本が朝鮮で失った影響力はことごとくロシアの手に渡った。   とはいえその変化の利点はさだかではなかった。」 <第三十一章―まげ>

  これにより旧独立派も穏健開化派も壊滅し,日本が精力を傾けてきた朝鮮内政改革への流れはひとつの終焉を迎えることとなった。


  「最近の政策は,総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは,対照的に好ましくない。   昔ながらの悪弊が毎日のように露見し,大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。・・・・1895年10月8日[乙未事変]の反逆的將校や,武力で成立した内閣の支配からも,心づよくはあっても非人道的な(日本嫌いの)王妃の助言からも,また日本の支配力からも解放され,さし迫った身の危険もなくなると,(人の好い意志薄弱な)国王は王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ・・・・寄生虫のような取り巻きの大群に囲まれて・・・・」 <第三十六章―1897年のソウル>   とバードは非難している。


  「この三年間(=1895〜1897年)にあった朝鮮に有益な変化のうち重要性の高いものをまとめると,つぎのようになる。   清との関係が終結し,日清戦争における日本の勝利とともに,・・・・本質的に腐敗していたふたつの政治体制の同盟関係が断ち切られた(=朝鮮の清からの独立)。  貴族と平民の区別が少なくとも書類上は廃止され,奴隷制度や庶子を高官の地位に就けなくしていた差別もなくなった。  残忍な処罰や拷問は廃止され,使いやすい貨幣が穴あき銭にとってかわり,改善を加えた教育制度が開始された。   訓練を受けた軍隊と警察が創設され,科挙(クワゴ)はもはや官僚登用にふさわしい試験ではなくなり,司法に若干の改革がおこなわれた。   済物浦から首都にいたる鉄道敷設が急ピッチで進められており,商業ギルドの圧力はゆるめられ,・・・・国家財政は健全な状態に立て直され(バードによれば,これはイギリス人マクレヴィ・ブラウン財政顧問が腐敗した朝鮮官僚と奮闘した結果である),地租をこれまでの物納から・・・・金納する方式に変えたことにより,官僚による「搾取」が大幅に減った。」 <第三十七章―最後に>

  バードは,この三年間を総括して,日本は朝鮮に清からの独立を“プレゼント”し,そして日本が処方箋を書いた「改革」プランが,途中で退行することにはなったものの,それなりの成果は残したと評価する。


  「わたしは1897年の明らかに時代退行的な(前項で述べた)動きがあったにもかかわらず,朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。   ただし,それには次に掲げたふたつの条件が不可欠である。
  1. 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので,外部から改革されねばならない。
  2. 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けなければならない。

  ・・・・「(日本が日清)戦争を起こした表向きの理由は,日本政府は慎重を期してそれに固執しているが,日本にとって一衣帯水の国が失政と破滅の深みへと年々沈んでいくのを黙って見すごすわけにいかない,国政の改革が絶対に必要であるというものだった。  日本がこの例外的な責務を引き受けたその最終目的はどこにあるか,それを憶測する必要はない。  日本がたいへんなエネルギーをもって改革事業に取りかかったこと,そして新体制を導入すべく日本が主張した提案は特権と大権の核心に切りこんで身分社会に大変革を起こし,国王の地位を「給料をもらうロボット」に落ちぶれさせたものの,日本が並々ならぬ能力を発揮して編み出した要求は,簡単で自然な行政改革の体裁を示していたことを指摘すればこと足りる。
  わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。  経験が未熟で,往々にして荒っぽく,臨機応変の才に欠けたため買わなくともいい反感を買ってしまったとはいえ,日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく,朝鮮の保護者としての,自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。・・・・
  ことあるたびに,ロシアは朝鮮で支配的立場に着けるチャンスを見逃してきた。  そんな立場になど着きたくもないというのがほんとうのところのようである。・・・・日本が過去の失敗(三国干渉を受けたこと)を逆に生かし,正式の保護権も得ないまま,商業と移民というあくまで実利的な目的のために大陸の一地域を自国の領土に加えることは,必ずしもありえないとは思えない。  予断は危険ではあるが,つぎのことは言える。  もしもロシアが現在見通されるような遅遅とした展開に満足せず,朝鮮に関してなんらかの積極的な意図を明示するつもりであるとすれば,日本にはその車輪にブレーキをかけるくらいの力は充分備わっている!  とはいえ,朝鮮がひとり立ちをするのはむりで,共同保護というようなきわめてむずかしい解決策でもとられないかぎり,日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければならない。・・・・もしもロシアが事実上の支配権を得るとすれば,・・・・特恵関税をはじめとする関税のせいでイギリスの通商は徐々に朝鮮から撤退することになる。・・・・ロシアの新任公使デ・スペイエル氏はどうやらイギリスによる税関と国家財政の監督をやめさせるよう朝鮮政府に圧力をかけている気配が濃厚である。

  朝鮮の運命をめぐってロシアと日本が対峙したままの状態で本稿を閉じるのは実に残念な思いである。  わたしが朝鮮に対して最初に抱いた嫌悪の気持は,ほとんど愛情に近い関心へと変わってしまった。  また今回ほど親密でやさしい友人たちとめぐり合った旅はなく,今回ほど友人たちに対して名残り惜しさを覚えた旅もなかった。・・・・」 <第三十七章―最後に>

  日本贔屓であるバードのこの1897年時点での予言は当たっているともいえるし,外れているともいえる。  日露戦争までは日本は列強の意向に細心の注意を払う,きわめて慎重にして穏健な「小帝国」であった。
  その後の歴史を歩みを見てみる。  七年後の1904年10月7日,バードは満72歳で病没する。  ロシアは1898年清から旅順・大連を租借,2000年には義和団事件による混乱収拾の名目で軍隊を満州に入れ事実上占領する。  ロシアの南下政策に日本同様危機感を持ったイギリスは日本と同盟を結ぶ。  1904年日本はロシアに宣戦布告し露戦争が始まる。  戦後日本は朝鮮の権益を確保することになる。  日露開戦にあたっても慎重派であった伊東博文は,日本の財政力では朝鮮を併合するのには無理があり,時期尚早であり,まずは保護国として間接的に統治するのがよいと考えていた。  1909年彼が安重根により暗殺されたのを契機に日本は併合へと舵を切った。  1910年日韓併合。

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☆ アンナ・ヴィムシュナイダー著 『秋のミルク(Helbstmilch)』 を読む <2009.01.15>

発行:五月書房(2004年11月)

著   者:アンナ・ヴィムシュナイダー (Anna Wimschneider)
翻訳者:田村都志夫,椎名知子

 この書は一人のドイツの平凡な農婦の人生の記録である。 原書は1984年,まだ著者の存命中にドイツで出版され,この種の本としては空前の70万部を超えるミリオンセラーとなったという。 私は2005年2月4日号の週刊朝日の紹介記事でこの本のことを知った。 そのまま半ば忘れていたが,その週刊誌だけはなぜか気にかかり,保存していた。 今年改めて記事を読み直し,急にその本を読みたくなって,遅まきながら取り寄せて読んだ。 またこの本を原作とする映画も1988年に製作され日本にも輸入されていたことを知り,そのビデオも購入して鑑賞した。 人の一生を描くには2時間の映画ではやはり無理である。 巧みな映像処理でつないではあるが,本を読んでいない観客には意味の分からないショットもある。
 書名の「秋のミルク<Helbstmilch>」は日が経ち白く固まったミルクのことで,農家ではそれで酸味のある秋のミルクスープを作った。 貧しい人たちの食べ物である。

 この書はもともと著者アンナが子供や孫に伝えるため,晩年に家事を終えたあとの台所でノートに綴ったもので,訳者がアンナの長女カローラさんに電話で聞いたところ,アンナは本として出版,公表することをなかなか承知しなかったという。 あくまで身内に語るための正直な言葉で書かれている。
 著者の育ったニーダーバイエルン州は州都ミュンヘンから東(北)へ,チェコとの国境へと広がる地域で,一部の都市を除いて昔から農業と林業が主な産業である。 シチュエーションこそ異なるが,これはドイツ版「おしん」の物語といってもよい。

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 アンナ(旧姓:トラウンスブルガー)は1919年に生まれ1993年に他界している。 貧しいながらも楽しい幼い日々の暮らしは1927年,彼女8歳の時,9番目の子どもを出産した母が出産直後に39歳で亡くなった時から一変する。 話はここから語られ始める。 アンナの兄弟姉妹は,兄が3人,妹が1人,弟が4人である。

 母の死後,家事の仕事は母に代わって幼いアンナが背負うこととなる。 彼女は近所のおばさんに料理,裁縫,継ぎ当て,幼児の世話などを教わる。 朝は朝食を作り,弟妹を起こし,服を着せて食事をさせ,学校へ送り出す。 彼女が学校へ行く支度ができるのは,父が牛や豚の世話をすませ,住居に戻ってからであった。 学校までの四キロの道を駆けて行っても最初の休み時間の鐘が鳴るころようやく校門をくぐることができるのだ。 昼休みには
「女の子が座る長椅子はいつももう満員だったので,わたしは男の子の横にすわった。 その子は,母親から言われて,毎日わたしのためにプラム入りのパンをもってきてくれた。 この優しい農婦の恩が,今も忘れられない」と彼女は記す。
 新品の服はめったに手に入らなかった。 だから,夜兄弟たちが石油ランプの下で父の幽霊話や戦争の体験談などに聞き入っている時も,彼女一人は簡易ミシンでせっせと継ぎ当てや縫物をする。 夜十時になってやっと終わるが,疲れきってミシンをかけらがら眠ってしまうこともあった。 すると二階の父親が床を踏み鳴らして怒った。 あまりに辛い時は食料入れの納戸の中で気がすむまで泣いた。

 アンナは看護婦になることが夢だったが,父親にそれを言うとひどく叱られ,ぶたれたことがある。
 無論,兄たちも畑仕事や家畜の世話を分担した。 いつまでも近所の人の助けを借りるわけにはいかなかったからである。
 週二回の手芸の時間,他の子どもたちは刺繍に使うようなきれいな材料をもってくるのに,彼女の材料は父が与えてくれた古くてよごれたズボンであった。
 「教室中の生徒がどっと笑い,私は恥ずかしくて顔が真っ赤になった。・・・・女の先生は,ほかの女の子たちに,母親がいることに感謝しなさいと言ってくれた。 女の子のうちの三人は,わたしをかわいそうに思っていたので笑わなかった。 休み時間にみんなと一緒に遊びたくても,私は下ばきをはいていなかったので,できなかった。 私は壁にもたれて見ているだけだった」と彼女は記す。 彼女が下ばきを手に入れるのは,のち父が高校の校長先生の家へ卵を持って行ったお返しに,夫人から古着の下着やシーツを山ほどもらった時である。

 家に余分なお金はまったくなかったから,子どもたちと父親はよく森へ行って雪や嵐で折れた枝を拾いわずかなお金に代えた。 税金が払えなくて,執行吏が取り立てに来た時は,子どもたちがとおせんぼをして追い返した。 父がたまに町へ出るとおみやげに塩付きブレーツェル(8の字形の堅パン)を買ってくれた。 「あのときほどおいしいブレーツェルをわたしはこのあと食べたことがない」と彼女は思い出す。

 彼女は,料理をおしえてくれ,クリスマスには子どもたちにプレゼントを持って来てくれる親切な大農家のマイヤーエーダーおばさんや,やさしい先生のことは感謝しているが,いつも遅刻する彼女に「校内ミサに出ない」といって毎日しかる冷酷な神父や,彼女が家の掃除をちゃんとやるかどうかを監視に来る親戚の修道女たちにはささやかな復讐をしている。 しかし,彼女は貧しい暮らしに正面から立ち向かい,決してめそめそしたり,すねたり弱音をはいたりはしていないのである。
 兄たちは近くの森に住む野鳩やカケスの巣の在りかを熟知していて雛が孵る時期には取りに行った。 モグラの皮もお金になった。

 この書の中には当時の田舎の宗教的行事の話がよく出てくる。
 「兄たちは少し大きくなると,キリスト誕生のとき礼拝した三王の日の前夜に,近所の農家の戸口から戸口へとめぐり,家のまえで歌を唄った。 そのころは,貧しい農家の子どもたちだけがそうしていた。 農家のおかみさんたちは百個あまりもキュヒレ(パイ風菓子)を焼いて,ごほうびに子どもたちの袋に入れてくれた」 「キリスト昇天の日とマリアさまの昇天の日がやってくると,その三日前には,教会の旗を先頭に掲げた行列が隣の聖堂区の教会まで野道を歩いた。 豊作のお祈りのためだ。 どの家からもだれかが参加した。  学校の先生と学堂が先頭に立ち,それは長い行列だった。 隣の聖堂区に着くと,よいお天気をお祈りするミサが読まれた。・・・・行列で歩いて,ノイホーフェン村からシェーナウ町へ行くと,まるで遠い外国へ来たような気がした。 休憩時間には,たちまちシェーナウの町の悪童たちを相手に,はでなけんかが始まった。 兄たちはハンス(二兄)とミヒル(三兄)を筆頭にけんかの常連だった。 ・・・・若者のけんかはダンス会場でもよく起きた。.・・・・当時はよくナイフで刺しあいになったものだ。」

 子どもたちは大きくなり,長兄フランツと三兄ミヒルと,そしてのちに次兄ハンスも奉公に出たので食い扶持が減り,生活は少し楽になった。 アンナの父はアンナが5年半で学校をやめる申請を出し,その代わり日曜学校を2年間延長して通うことになった。 「それで家事と弟妹の世話がもっとできるようになった」とアンナは殊勝な感慨を述べている。 兄たちのような奉公先で働く作男はとてもひどい待遇を受けるのが普通だった。 寝る部屋は冬になると壁に霜が張り,掛けぶとんは夜中に凍ってしまいそうな代物だった。 朝六時半にはもう森へ仕事に行くのである。 農家の主人には善人もいたけれど,どうしようもない畜生農夫の方がはるかに多かった。 食事の際主食の蒸しパンのお代わりは許されなかった。

 当時は浮浪者がおおぜい道を歩いていた。 失業者があふれていた時代だった。(大恐慌に続く時期である) なかにはこわい浮浪者もやってきた。 イチモツ露出癖のある浮浪者に連れて行かれそうになったり,顔見知りのある男に下校時に森に引き込まれそうになったりしたこともある。 また手伝いに行ったよその家の主人に襲われたこともあるが,彼女は力いっぱい抵抗し負けていなかった。
 自分の性に関することも,率直な語り口で語られている。 アンナもやがて女性らしい体になっていく。 「あるとき私の胸にコブが二つできているのに気付いた。 肝がつぶれるほど驚いた。・・・・きっと空気でも入っているのだろう」と針で刺してみたりするが,他の女も同じようなコブを持っているのに気付き安心する。 14歳で初潮を迎え,彼女は母のように出血して死ぬかもしれないと心配するが,産婆のおばさんに説明を受け生理帯と生理ナプキンを貰って一安心する。 当時,公認されてはいないが,夜這いの習慣があることも18歳のときの自分の例を挙げて紹介している。

 18歳になった時アンナはマイヤーエーダーおばさんの家の結婚式に父といっしょに招待される。 父が買ってくれた新しい服を着て出席したアンナはそこで学校の同級生の紹介でアルベルト・ヴィムシュナイダーと出会う。 アルベルトは彼女の家まで一緒に歩き,二人は初めてキスをし,お互いが好きになった。 二人の交際が本当に始まるのはそれから9ヶ月のちの1936年春である。 やがてアンナは夜アルベルトを自分の(といっても妹と同室である)寝室に入れてやるようになる。 アルベルトはやがて彼女の父とうちとけて会話をする間柄になり,弟妹たちもいつもお土産を持って来るアルベルトの味方になった。

 アルベルトには伯父二人と一人の伯母とアルベルトの母がいた。 この伯父と伯母の三人は兄弟姉妹であり,アルベルト伯父(彼が11haの農場の正式の所有者であった)とオットー伯父には股関節脱臼症の持病があり歩行が不自由だった。 リニー伯母はなんとか食事は自分で作れた。 彼等兄弟姉妹は子ども時代貧しい暮らしのため,栄養失調になり,伯父二人は転んで腰をくじき,それ以後なかば身体障害者になり,そのため結婚もできず三人は家に残ったのである。

 1939年8月,アンナはそういう事情は承知した上でアルベルトの求婚を受け入れる。 戸籍局に婚姻届を出すと,家系記録簿,ヒトラーの『わが闘争』一冊とナチス党系新聞の1ヶ月無料購読券が与えられた。 その翌日教会で短い結婚式を挙げると二人はすぐ普段の生活に戻った。 一家は貧しかった。 子どものころから貧しい環境で育った者だけがなんとか辛抱できるものだった。 オットー伯父はアンナとアルベルトにビール作りを教え,二人は早速叔父の協力を得て自家製ビールを作る。 これはその後のアンナ一家の楽しみになった。

 しかし結婚式からわずか11日後夫アルベルトは入営する。 村で召集されたのはアルベルトが最初で最後だった。 年寄り4人がナチス党員でなかったからである。 アルベルトの母は最初から結婚に反対であった。 姑はアンナを見張る以外の仕事は何もしなかったし,ことあるごとにアンナにつらくあたった。 日曜日の教会のミサに行くアンナに,亭主持ちはそんな派手な服を着るんじゃない,と五回も着替えさせたことがある。 平日の農作業に加え,日曜日も忙しかった。 朝は牛・豚の世話から,教会のミサ,昼食の支度,午後の洗濯,年寄りたちの世話と続いた。 アンナが妊娠したことを知った姑はこう言ってののしった。
 「なにもかも,おまえのせいだ。 子をほしいのはおまえだけだ。 アルベルトはほしいなんてこれっぽっちも思っちゃねえ。 秋のミルク・スープ(すっぱいミルクのスープ)ばかり飲ませてやる。 それでお産のときにゃあ,くたばれ。 おまえは息子をぬすんだんじゃ」

 1941年7月アンナは女の子を産んだ。 長女のカローラである。 日中は農作業と家事で忙しい上に,姑と伯母は子どもを抱かせてくれなかった。 子どもが歩けるようになると年寄りたちはあとを追うのが難儀になった。 それで子どもをひもでテーブルの脚につないでしまった。 アンナは胸を締めつけられる思いであった。

 アルベルトはロシア戦線から,1944年イタリアへ転戦し,首を撃たれて重傷を負った。 そして長く野戦病院生活を送ることになる。
 戦争末期になると,東欧(ポーランドやハンガリー)から大勢の避難民がやって来るようになり,物資の欠乏が始まった。 農家は彼等に部屋を提供した。
 戦争が終わり,アルベルトが帰って来る。 そしてアンナを誹謗する母の虚言に怒り,彼女を町へ追い出す。 伯父たちと伯母は次々とアンナの看護を受けながらこの家で亡くなる。 そのあとこの家にはじめての電灯がともった。 アンナと夫は入って来るお金を全部肥料や農機具の購入につぎ込み,家畜の頭数も増えたが,いつもお金はなかった。
 1949年二女クリスティーネが生まれた日,アンナの父が死んだ。 妻亡きあと彼には辛い人生だった。

 ゆっくりだが暮らし向きはよくなっていった。 豚用のモダンな畜舎を建て,新しい牛舎を建て,牡牛に加えて馬を一頭買い入れ,そして翌年植えつけ機がついた12馬力のトラクターを入手。 家も改築した。 そのあとアンナは夫に頼んで戦争年金を支給してもらい,それは貴重な現金収入になった。

 クリスマスツリーを囲む楽しいクリスマスを迎えたのは戦争が終わってからだった。 結婚した当時は手作りの地味な肌着を自分で縫ったものだった。 近所の女たちはあざけってシマウマシュミーズと呼んだ。 歳月とともにアンナの箪笥もきれいな下着で一杯になった。

 1952年には三女のモニカが生まれた。 1960年のクリスマス,一家は新築したばかりの住居部分へ入る。 カローラは,母の望みだった看護学校へ入った。 二女クリスティーネが農業を継ぐ予定だったが,アルベルトはもう子どもたちが農業でやっていくことはできないと悟っていた。 農業機械は揃ったが仕事はすべてアルベルトとアンナの肩にかかってくる。 夕食のとき疲れから眠りかけたことがあった。
 「疲れはつのっていき,わたしの望みはただ一つだけらなった。 好きなだけたっぷり眠ること。 でもそれは願いでしかなかった。」

 クリスティーネがは小さな会社で事務を習うことになった。 末娘のモニカは実科高等学校に上り,そののち司法局に職を求め,最後はミュンヘンへ移った。

 「長年にわたる終りのない労働はここに来てわたしの健康を冒しはじめた。 幾週間もの入院生活を送り,もう前のような健康な身体はついに取り戻すことができなくなってしまった。」

 長年にわたる過酷な労働は次第にアンナの健康をむしばんでいき,はげしい喘息などにおそわれるようになっていく。
 1971年(アンナ52歳)夫婦はこれ以上農業を続けていくことは難しいと判断し,農地を賃貸しすることに決めた。 その年アンナは再び重病となり,ミュンヘンの病院に入院した。 重度の心臓リズム障害,胆のうの手術,窒息発作をともなう喘息などを相次いで患らった。
 「十年ものあいだわたしは家よりも病院にいる時間が長いという生活をしていた。」

 それでもアンナの仕事は今でもどっさりある。 イチゴの季節になると,その年の果物ジュース作りがはじまる。 ラズベリー,フサスグリ,ニワトコ,秋になるとブドウ,リンゴと続く。

 アンナの八人の兄弟妹たちは,次兄と弟の一人だけが戦争で死んだが,ほかはみな結婚し立派な家庭を築いている。

 物語の最後は次のような文章で終わっている。
 「わたしたちはよくミュンヘンの娘のところへ出かけるし,娘たちもよくここへやって来る。
 アルベルトとわたしは二人とも今までにかつてないほど幸せで心豊かに暮らしている。 昔を思い出すと,この数年来,これまであったことを書きとめておきたいと思うようになった。
 そして,わたしは今,書き終えた。
 もう一度生れて来るとしたら,もう農婦にはなりたくない」

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『秋のミルク』が出版された1984年,アンナは65歳であった。 当時のドイツ人にとって彼女の生きてきた時代はそんな昔のことではなかった。 1988年映画化されたとき,アンナは最後のシーンで秋のミルクの作り方を説明する声の出演をしている。

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☆ 馬野秀行著 『信長暗殺は光秀にあらず』 を読む <2009.07.08>

発行:(株)イーストプレス(2009年6月)

筆者はサラリーマン経験を経て独立し,広告企画会社を起業してその代表取締役として現在に至っている。 この本は著者の処女作であり,約20年以上に及ぶ膨大な文献の検証と独自取材の集大成である。


  浅野内匠頭はなぜ吉良上野介にを切りかかったのか,とう問いの答えが一つではないように,明智光秀はなぜ織田信長を討ったのかという問いにも答えが一つではない。 諸説の一つに,黒幕は将軍足利義昭であり,また朝廷も信長に権威を無視されたという不満があり,光秀自身も信長から領国丹波を召し上げられること,代わりの領地は中国攻めで自分で勝取れと宣告されており,元の上司である義昭からの勧誘に進んで応じたというものがある。 その他の説(怨恨説,朝廷黒幕説)も,下手人は光秀という点は同じである。 しかし著者は,光秀は“本能寺の変(天正10年(1582)旧暦6月2日)”を事前には知らなかったという特異な説を提唱する。

  では誰が信長を暗殺したのか? 答えを先に言ってしまうと,伊賀者,高野山,朝廷の三者連合と著者は言う。 暗殺の企画部隊は高野山,お墨付きを与えたのが朝廷,実行部隊は少数の伊賀忍者集団とする。 そして光秀サイドのキーパーソンは重臣の斎藤内蔵助利三であるとする。

  忍術とは,密教と山岳信仰が混合した修験道に遁甲偵察術が影響を与えたものである。 甲賀が比叡山延暦寺の台密ならば,伊賀は高野山金剛峯寺の東密である。   信長の敵は諸国の大名ばかりでなく各地の宗教勢力(といっても当時は武士と同様の武力を保有する)もそうであった。 1571年(元亀2年)の比叡山焼き討ち,1580年(天正8年)に信長が勝利を収める長年の大阪石山本願寺の一向衆徒との抗争は有名であるが,伊賀・甲賀の勢力にも長年苦しめられている。 信長は1574年(天正2年)9〜10月伊勢長島の一向宗衆徒を攻め,二万人を焼き殺しているが,それに先立つ四年間はすべて織田軍の連戦連敗である。 1573年(天正元年)の戦闘での衆徒側中核部隊は伊賀・甲賀の忍者集団であった。  1574年(天正2年)6月,伊賀・甲賀の忍者集団が岐阜城にいる信長に夜襲をかけるが失敗している。 1579年(天正7年)織田信雄が第一次伊賀の乱で大敗したあと,翌翌年の1581年(天正9年)9月,4万の大軍を以て第二次伊賀攻めを行い,ジェノサイドを強行し伊賀一国を焦土と化せしめ,同年10月伊賀衆は高野山へ逃亡する。

  高野山と信長の抗争は,1569年三好三人衆と斎藤龍興らが信長の庇護の下にあった義昭を襲った事件以来である。 この時三好党を支援したのが堺の町人衆,河内の天野山金剛寺(真言宗),そして高野山金剛峯寺である。 以来高野山の敵対行為は続き,1581年(天正9年)8月,信長は諸国を行脚する高野聖六百名を捕縛し斬首している。 織田軍の高野山包囲は“本能寺の変”まで続いた。 最初から最後まで反信長勢力として活動し,生き残った唯一の宗派が真言宗・高野山であった。 天正9〜10年にかけて高野山は朝廷に信長への取りなしを依頼している。
  信長がこのように宗教勢力に徹底的な攻撃を加えその権威を骨抜きにしたことが,その後の日本人の宗教に対する見方に大きな影響を与えたといえる。

  それはさておき,朝廷は信長の何を恐れたのか。 当時のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書いた『日本史 第二部40章』の中に,「信長は,・・・・日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には,一大艦隊を編成してシナを武力で征服し,諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。 そして後嗣の長男にはすでに美濃と尾張両国を与えていたが,・・・・」とある。 その遺志を受け継いだのが秀吉である。 (井沢元彦氏も『逆説の日本史』で書いていることだが,)正親町(おおぎまち)天皇を早く退位させ,自分の意のままに操れる誠仁(さねひと)親王に譲位させて,日本の祭祀権を信長に譲渡させること,そのため天皇と公家を天皇家の故地である朝鮮へ還御してもらうという大構想である。 そうして信長は政治と宗教の絶体君主即ち法皇となるのである。 だから朝廷が与える官位など信長の眼中になかったのは当然のことである。 また正親町天皇が信長からの退位要求をなかなか承諾しなかったのも,以上のことを察知していたからに違いない。

  朝廷と伊賀忍者集団とを結びつける役割は高野山が担ったと著者は見る。 信長を殺すには京都へ誘い寄せる必要があった。  信長は京へ来る時はいつも僅かな供廻りを従えて誰にも告げず風のようにやって来る。 毛利攻めで忙しい信長を京へ上らせるエサはただ一つ,正親町天皇の譲位である。 それを伝えたのは,長年信長のために各勢力との調停役をまるで太鼓持ちのように務めていた元関白大政大臣近衛前久(さきひさ)であろう。

  暗殺が成功するにはどうしても信長の嫡子信忠も在京の必要があった。 信忠が生き残ると彼を中心に織田勢力が再結集することが予想されるからである。 もともと信忠は家康を案内して堺を見物させる予定であった。 信忠の出した最後の書状によると,彼が信長の上洛(その正確な日付は信忠も知らない)を知ったのは変の四日前でしかない。 それで信忠は京で信長を待つことにするがよろしいか,返事をくれと書き送っている。 光秀が変の三日前に愛宕山でおみくじを引いて反逆するかどうか迷ったという「信長公記」の記述は時間的に矛盾している。 仮に光秀が信忠在京の情報を入手できたとしても,それは5月29日から6月1日の二日間でしかない。
  高野山僧徒は京都周辺の真言宗寺院に伊賀衆を潜伏させ,武器を調達し,前久と緊密な連絡を取り合っていたに違いない。 信長の毛利出陣予定日は6月4日であるから,信長と天皇の会見は6月2日か3日に設定されていた筈である。

  高野山側の代表者として著者は確証はないが,とことわった上で,客僧の木食応其(もくじきおうご)の名を挙げる。 光秀との接点は連歌師の里村紹巴(じょうは)。 里村紹巴は光秀の朋友であり,応其にとっては連歌の師となる。 本能寺の変の三年後,秀吉は高野山に降伏を迫った。 高野山が降伏の使者として三人の僧を秀吉に派遣した。 その内の一人が木食応其である。 秀吉は応其に会うや直ちに高野山攻めを中止し,他の高僧を差し置いて応其を深く信頼し以後交誼を結ぶ。 この二人を結びつけたものはおそらく「本能寺の変」の真相ではないか。

  光秀は,著者によれば状況証拠からみて真言宗系の僧籍を経た人物とみなしている。 知性と教養の広さと民政家としての力量もそれでうなずける。 彼の築城した水城形式の坂本城はおそらく屋根は当時としては斬新な瓦葺で,石垣は穴太(あのう)衆に積ませたのではないか。 とすれば安土城には坂本城のノウハウが使われた可能性がある。 信長から領国丹波を召し上げられたとする文書も僞書である。 光秀は能力があっても性格が陰気で堅物だったという定説は秀吉側の捏造ではないか。 能力相応の処世術なくして秀吉より後に信長の幕僚となるも,秀吉より常に一歩先に出世するという世渡りができた筈がない。 将軍義昭も僧籍から還俗した前歴の持ち主である。

  本能寺の変で明智軍を直接指揮していたのは重臣斎藤内蔵助利三である。 中納言山科言経(ときつね)の『言経卿記』には「斎藤内蔵助,今度謀叛随一也」という記述がある。 斎藤内蔵助利三は,信長と対立していてちょうどこの時信長の三男信孝率いる四国征伐軍の攻撃を受けようとしていた四国の長宗我部元親の下に縁者が四人いた。 彼の父,彼の妹とその夫蜷川親長,義妹(元親の内室)である。 さらに実母とその夫光政も土佐にいた可能性がある。 斎藤内蔵助利三の兄は石谷(いしがい)頼辰で,石谷家は幕府の奉公衆であり,大納言山科言継,中納言言経親子と入魂の間柄であった。 斎藤利三には暗殺計画に光秀を加担させるためのキーパーソンとして早くから誘いの手が伸びていたに違いない。 斎藤利三にも信長の死は光秀の天下への道を開き,長宗我部家も救われるという計算があっただろう。 暗殺計画の進行状況は逐一正親町天皇→山科言継→石谷頼辰→斎藤利三へと提供されていた筈である。

  「本能寺の変」として伝えられる事件の経過にはいろいろな疑問点や時間的な空白が残っている。   信忠の宿舎であった明覚寺と本能寺は10分と離れていない。 しかし信忠は本能寺へ駆けつけることなく,二条城へ移動している。 大軍に囲まれていたらそんな移動はできる筈がない。 信長の死が午前4時〜4時半(午前6時説もあるが)と午前8時頃の信忠の死亡時刻との間の四時間の時間差は何を物語るか? 光秀軍はなぜ信長と信忠を同時に攻撃しなかったのか? 本能寺門外にあった京都奉行村井貞勝の屋敷はなぜ攻撃されなかったのか? 本能寺は襲撃と同時に炎上はしていない。 生き残った者たちが信忠のもとに参集する前に詳細な現場検証を行い,誰が何処で死んだかを記録しているからである。 襲撃と炎上の間には明らかに空白の時間がある。 光秀は午後2時(未の刻)以降に,光秀と親しく粟田口にわざわざ下向してきた吉田神社の神官吉田兼見(誠仁親王の部下)と会っている。 そして兼見は光秀に「在所の儀,万端頼入」と事態の収拾を頼みこんでいる。 これは何を意味しているのか? 光秀は信忠の死以後5時間以上何をしていたのか? 等々。

  著者が再現する事件の経過は以下の通り。

  • よく訓練された少人数(おそらく三百名程度)の部隊が,二日未明に目標を信長の首一つに絞って本能寺を襲った。
  • 戦いは瞬時に終わり,暗殺集団は首を持って撤退する。
  • 1万3千の明智軍は毛利征伐の信長の中核親衛隊としてまず京に赴くことになっていた。 「信長公記」に中国地方へ向かう軍を突如反転して本能寺の信長を襲ったというのは真相秘匿のための,秀吉の意を受けた捏造であろう。 「信長公記」の筆者大田牛一はのち秀吉の祐筆(文書係)を務めた人物である。 真相が漏れれば秀吉の主君の仇打ちという大義名分は弱いものになる。
  • 信忠は襲撃を知り駆け付け,首のない信長の遺骸を昵懇であった阿彌陀寺の清玉上人に預けその処置と供養を頼んだのち二条御所へ移動して明智軍と奈良から来るはずの筒井順慶の7千の部隊を待つ。
  • その日光秀は襲撃のこと,信忠在京のことは何も知らず,本隊とともに亀山を発って京へ向かっている。 前夜先陣の将として斎藤内蔵助利三に三千の兵を与えて先発させている。
  • 先陣としての京に到着した斎藤勢は二条城を攻めると同時に証拠隠滅のため本能寺(の信長京屋敷)にも放火し,信忠を討ってから本隊の光秀に報告する。 光秀が入京したのは午後近くであろう。
  • こうして光秀は後に引けなくなった。 そして吉田兼見から事態の収拾を頼まれて苦悩の中で反乱軍の役割を引き受けるしかなくなった。 朝廷は光秀におそらく征夷大将軍の官位を贈呈するという大盤振舞いをしている。 9日に光秀が正親町天皇と誠仁親王にそれぞれ銀五百枚を献上しているからである。
  • こういう腰の引けた態度の光秀に細川藤孝・忠興父子と筒井順慶は加担することを逡巡し,光秀は13日の山崎天王山の戦いに単独で臨む羽目になった。
  真相を物語る状況証拠としては下記のような事実もある。
  1. 吉田兼見の『兼見卿記』という日記には2冊ある。 一冊は“変”ののちに秀吉や信孝に提出を迫られて書いた提出用であり,もう一冊は本来の日記でこれを別本(オリジナル)として区別している。 両者を比較すると6月1日まではそれほど大幅な違いはないが,6月2日以降は内容の改竄がある。 別本では,二条城へ押し入り,本能寺・二条御殿放火と書くが,提出した日記では,「早天信長の屋敷本能寺より放火のよし告げ来りて,門外にまかり出てこれを見るところすでに治まるなり・・・」と改竄されている。 当時在京していない秀吉や信孝に真実を悟られるのを恐れてのことである。
  2. フロイスの書いた『日本史 第二部41章』の中に,当時京にいた宣教師カリオンの報告書をもとに書かれた文がある。 「・・・・この件で特別な任務を帯びた者が,兵士とともに内部に入り,ちょうど手と顔を洗い終えて,手拭いで身体をふいている信長を見つけたので,ただちにその背中に矢を放ったところ,信長はその矢を引き抜き,・・・・」とある。 この「特別な任務を帯びた者」は兵士たちとは区別されている。 これは宣教師カリオンの目撃談ではなく信者からの風聞の聞き書きであり,信憑性は危うい部分もあるが,それでも何となく少人数の襲撃という匂いが拾い上げられている。
  3. 『林若樹集』の中に所収された「本城惣右衛門覚書」という文書がある。 彼は丹波生まれの野武士で当時明智の配下になっていた。 本能寺襲撃に参加し,84歳になってその模様を子孫のために書き残している。 そこでは,本能寺には小者と女性がほんの数人しかいなかったと述べている。
  4. “本能寺の変”という言い方自体がこの事件の性格を物語っている。 「変」とは暗殺や謀略事件の場合に使われることば。 1万3千の部隊が起こした軍事行動なら当然「乱」と呼ばれる筈である。
  5. 信長の首はどこに行ったのか? 静岡県西山本門寺という1344年開山の日蓮宗の寺にその首塚はある。 本能寺に当夜在席し“変”直前に退出した本因坊日海の弟子が当寺の第18代貫主日順上人である。 日順上人の私的な過去帳に信長の命日が記載されている。

  真相を隠す情報操作の主たる人物が秀吉であることは間違いないが,それだけではないだろう。 光秀がわずか十一日間で秀吉に滅ぼされたのは,暗殺関係者にとって大誤算であった筈である。 周章狼狽して様々な偽情報・怪情報を流したと思われる。
  高野山に光秀の墓がある。 逆修墓(生前に作っておく墓)ではないかと言われている。

  ▲▲ 読後の感想 ▲▲

  著者は“変”に関する諸文書資料の持つ矛盾点をかなりうまく説明していると思う。 ただ信長が上洛したのは秀吉から前線視察要請があったからというように私は理解していた。 明智も筒井もそのために一旦京へ集結することになっていたのではなかったのか。 しかしこれも後世の捏造の一つなのかもしれない。
  また,少し無理な仮定ではないかと思うのは,斎藤内蔵助が上司である光秀に事前に陰謀を報告していなかったという点である。 まず味方から欺けという教訓を地で行ったのだろうか。 或いは最悪の場合自分の首を差し出すつもりで腹をくくっていたのだろうか。
  斎藤内蔵助利三の末娘福がのち春日局として三代将軍徳川家光の乳母になること,天台密教の僧天海和尚=光秀という異説があって,天海が特に家光に厚く信頼されていたこと,など光秀と家康の間の見えない糸のようなもの存在?も気になるところではある。
  いずれにしても歴史的資料は勝ち残った者に都合のよいように改竄される傾向があるということは何時も念頭に置いて歴史を考えることも肝要なのだということを改めて感じた。

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☆ 遠藤誉著 『中国動漫新人類』 を読む <2010.07.10>

発行:日経BP社(2008年2月)

 著者 遠藤誉(ほまれ)氏は1941年,戦前の「満州」で製薬工場とガラス工場を経営していた実業家大久保宅次氏の三女として現在の長春で生まれた。 敗戦後の1948年,長春市内で対峙していた国民党軍と八路軍(共産党軍)との中間地帯で飢餓地獄を見る。 この間の経緯は遠藤氏の著書『卡子<チァーズ> 出口なき大地』に詳しく語られている。 「卡子」とは検問所又は関所を意味する中国語である。
 遠藤氏は生き残った家族とともに1953年帰国。 1975年,東京都立大学理学研究科物理学専攻博士課程中退。 その後日本と中国に跨る教職や公職(例:北京大学・アジアアフリカ研究所・日本研究センターの特約研究員,日本の内閣府総合科学技術会議専門委員等等)を歴任し,日中関連の論文・著作書も多い。 筑波大学名誉教授。

 以下,本書の内容をダイジェストして紹介する。

 本書題名中の「動漫」は動画(アニメ)と漫画を縮めた中国語の新語である。 日本の「動漫」が全世界を席巻したのは,その発祥にも発達にも「官」や「政」がまったく関係していなかったからである。 自由主義市場経済と大衆の選択。 サブカルチャーにとって,これ以上に強い力はない。 サブカルチャーの普及から生まれて来るのは民主主義である。

 日本のアニメが現代中国の若い人にも圧倒的に支持されていることは今日常識になっている。 その理由は,彼らが小学生の頃から見てきた日本のアニメが,@内容・ストーリー展開が多様であること。 A登場するキャラクターが魅力的であること,にある。 それまでの中国の「動漫」とか連環画が所詮幼児向けであり,教訓的・教育的であることと対比して,はるかに新鮮であり,衝撃的ですらあったのだ。 アメリカのアニメにも一定のファンはいるが, アメリカは著作権侵害に対して非常に厳しいためと,アメリカと中国に文化的な共通基盤が少ないせいか,日本アニメほどのファンはいない。 宮崎駿監督作品に音楽を書いている久石譲氏が北京で開いたコンサートはたくさんの中国の若者で埋め尽くされた。

 中国における日本の「動漫」ブームに大きく寄与したのが「海賊版」の存在である。 最近は政府の取締りが厳しいので,多少は減ってきたと思われるが,それでも現在中国市場に流通する日本「動漫」ソフトの90%は海賊版と言われている。 安価な海賊版がなかったら,80年代の中国の子どもたちは自分の読みたい漫画を自分で選ぶことはできなかったであろう。 90年代にアニメが海賊版ビデオやDVDの形で流通する時にも同じ状況が出現した。

 日本の漫画は初期には台湾で中国語に翻訳されていた。 従って作品には「台湾の思考」「台湾の文化」も注入されていたのである。 現在,日本アニメの海賊版DVDの非合法作成者たちは,大学生を主体とする善意の,極めて語学能力の高い,無償のボランティア(中国全土に無数に存在する「字幕組」と呼ばれているグループ)による翻訳と日本「動漫」愛好者へのネット配信という努力の結晶を只で頂戴している。

 中国政府は最初はたかがサブ・カルチャーだと見て放置していた。 しかしそれが若者の精神文化形成に「革命的な」影響を及ぼし,中国国際のアニメ産業振興にもダメージを与えることに気がついた政府は,国産アニメ産業振興に強力に取り組むようになった。
 2000年8月,中国初のコスプレ大会が開かれ,オンラインゲーム業者からテレビ局・インターネット業者までコスプレの世界に参入して来た。 そして2003年以降は,地方政府および国家の中央行政官庁までがコスプレ大会の主催者になるという状況が出現した。 その一方,2005年から政府は「国産テレビアニメ発行許可制度」を開始し,質的な規制の枠をはめると同時に,その生産数量目標を課するようになった。 2006年9月からはゴールデンタイムにおける外国アニメ放映禁止令(中国語で「禁播令」と表記)を出した。

 こうした一連の政策の根拠となる中国政府作成公式文書がある。 「国際敵対勢力(即ち日本のこと)はいろいろの方法で・・・・中国の若者の心を奪い日本の精神文化の浸透を行っている。 その結果一部の若者の生活を墮落させている。・・・・我々は断固敵対勢力と闘わなければならない。」という一文である。 日本の「動漫」の席巻を「戦略的な文化侵略」と非難しているのである。 1980年虫プロが「鉄腕アトム」のアニメを『再放映なしの,一本10万円』という破格の条件で中国に売り渡した背景には,恐らく手塚治氏の中国に対する善意があったものと思われる。 「鉄腕アトム」はその後無断で何度も放映されているのであるが。 こういう好意を「中国国産動漫の台頭を押さえつけ,青少年の精神を洗脳するための対外ダンピング」などと位置付けている限り,中国国産動漫の真の発展はない。 ただ,日本アニメ業界の低賃金構造がそのまま中国に輸出されているのもまた一方の現実である。

 中国のネットに次のような書き込みがあるのを発見した。
 「日本の動漫を通して,西遊記や三国志のおもしろさを知った。 私はてっきり,これは日本が創り出した物語だと思っていたら,これって,中国古来の物語だったんじゃない・・・・。 私たちって自分の国の伝統的な物語まで,日本動漫を通して知るようになるなんて,これって,まずくない? 日本の動漫の方が,中国伝統の物語のおもしろさを,より感動的に私たちに伝えてくれるって,これ,どういうこと? まずくない?」という趣旨のものである。

 現在,中国には日本に対する感情のダブルスタンダードが存在する。 ひとつが日中戦争に端を発し,近年では90年代後半以降の愛国主義教育によって結果的に強化されてしまった「反日感情」。 そしてもうひとつがこどもの頃から慣れ親しんできた日本動漫に対する「愛好心」。
 民主主義国家においては,「主文化」(メインカルチャー)と「次文化」(サブカルチャー)は相反する概念ではない。 「次文化」は,時代の淘汰を受け,あるものは生き残り,次世代の「主文化」を形成する。 しかし社会主義国家においては,「主文化は上からの強制的な思想統一的文化で,次文化は大衆が選び,大衆の中から湧き上がって来る文化」である。 主文化は「トップダウン」で民衆に与えられ,次文化は「ボトムアップ」の形で世論を形成していく。 それぞれを消費するにあたっては,心の中で「スイッチの切り換え」が必要となる。
 このダブルスタンダードの萌芽は実はすでに80年代から存在していた。 教科書問題・靖国参拝問題に対する庶民側の反日感情が日中友好を重視する政府を突き上げるという現象があった。

 愛国主義教育がなぜ強化されていったかを考える。 1989年の天安門事件後,江沢民が口火を切った愛国主義教育には当初反日的要素はなかった。 西洋文明に過度に憧れるな,その心は西洋式民主化を直接中国に導入しようとするな,というものであった。 抗日戦争を激しく強調するようになったのは1995年以降である。 これは中国共産党の弱体化に原因があるというより,江沢民という個性にあると考えた方が整合性がある。 彼がモスクワで開催された「世界反ファシズム戦争勝利大会」で外交路線を突如親米路線に切り替えたのが1995年。 1996年の中国の核実験に対する日本側の抗議,橋本首相の靖国公式参拝などで反日ムードが燃え盛り始め,1998年の江沢民訪日時に味わった彼の屈辱感が彼の反日感情を敵意に近いものに仕上げた。

 ,台湾の国民党にも抗日戦争に功労があった,とする政策転換が1979年のアメリカとの外交関係樹立直後に突如として提唱された。 これも愛国主義教育の中に引き継がれる。 それまでは憎むべき宿敵としてきた国民党への姿勢を180度変えたのは,平和統一の政治路線を採ることにしたからである。 それだけに中国人民の「戸惑い」を「当然」と思わせるまでに転換させるためには,かなりオーバーな宣伝が必要であった。 この時期中国各地に抗日記念館が作られ,抗日戦争に関するドラマが制作された。 これは80年代に天安門事件とは無関係に深く静かに動いていた別の流れである。

 2005年4月の中国の反日暴動の発端はサンフランシスコにある在米台湾華僑のある団体にあった。 団体の名は「世界抗日戦争史実維持聯合会」(史維会と略称)。 史維会のメンバーは天安門事件に抗議する人権侵害反対運動に参加していた人々である。 彼らはアメリカ生まれか台湾・香港から渡って来た者が多かったので,日本の「侵略戦争」により受けた屈辱については当初は無知であった。 それが,中国政府の上記のメッセージに触発されて,その史実をアメリカの教科書に書き込むよう運動したのが発端でできた組織である。 日本が国連常任理事国の候補に上がったことに抗議しようとネット上のサイトを立ち上げた。 当初は在米華僑華人にのみ呼び掛けるつもりで動いたが,政治力のある副会長の丁元(Ignatius Ding)が全世界にインターネット署名サイトを設置し,世界レベルの署名活動にしようと言い出した。 北京の「918愛国網」に発信拠点の役割を委ねたが,署名数が相当膨らんでいたため,中国国内の大手サイト,「新浪」「捜狐(Sohu)」などに応援を依頼したところ,瞬時に1000万,3000万と膨れ上がり,巨大なエネルギーとなってネツトを飛び出し始めた。 あの反日暴動の陰に中国政府があったという説は全くの誤解である。 丁元は中国政府寄りどころか,激しい反共思想の持ち主である。 彼は10年間中国大陸への入国を申請し続けてやっと2000年入国ビザが下りた。 彼が滞在していた1週間公安がピタッと張り付いていたという。

 90年代以降の激しい愛国主義教育は,中国国内で「憤青<フェンチン>という極端な民族主義者を生んだ。 その背景にはインターネットの普及がある。 彼らの主要な攻撃対象は日本である。 反日的激情型憤青を「左憤」,対日軟弱姿勢が許せないと中国政府そのものを攻撃対象とする者を「右憤」と呼ぶこともある。 中国では厳しい言論統制があり,日本では全く自由である。 その違いが分からない憤青たちは,日本のネット上で拾った一部情報や偏った意見ですら,政府が認可したものと勘違いして,これが日本の真の姿だとウェブに書きまくる。

 社会主義体制を維持しながら,市場経済を導入するというのは,やはり根源的に多くの矛盾を含み,極端な貧富の差や国家権力の肥大化を生んだ。 加えて,国民が市場競争と消費とを覚えれば,国は自然と民主化へ向かう。 そうなれば,今の政治体制は崩れる。
 さらに,こうした現象は,グローバリゼーションへ向かう過程でも起こる。 だから中国は精神面において民族主義的な愛国主義教育を強化するのだが,その中で国家の礎としての「抗日戦争」に中心を置くため,現象としては「反日的」になってしまった。 しかし経済面から見たグローバリゼーションの波は,それと相反して,一方では「日本と手を握る」ことのメリツトを中国政府に突きつけている。 ゆえに中国政府の日本に対する態度はきわめてわかりりくく映るのである。

 では,若者を中心に中国国民の間の「反日」感情が,時代を経て衰えるどころか逆に強まっているのはなぜか。 実際,今の中国でも,親日的発言を公にすると,「売国奴」(漢奸<ハンジエン>)呼ばわりされる可能性が高い。 インターネットの発達で中国国民の意見は多様化するどころか,「反日」なら「反日一辺倒」にひとつにまとまりやすい傾向すらある。 こうした全体主義的な意見のまとまり方は,中国の政府と国民が抱える「大地のトラウマ」が原因である。

 中国国内の革命の中心を担ったのは,それまで農奴のような扱いをされていた農民たちだった。 地主に反旗を翻したからには,絶対に失敗は許されない。 失敗すれば自分が血祭りに挙げられる。 毛沢東はこの恐怖心を逆に利用し,縛られて吊るし上げになっている地主を囲んで,農民たちに地主を激しく罵倒する「踏み絵」をさせた。 このとき,より激しく罵倒した者こそ,より大きな革命精神の持ち主と賞賛した。 中華人民共和国誕生後も,この精神土壌はそのまま受け継がれた。 非革命的である特定の人を選び出して「標的」とし,その人をいっせいに攻撃する。 声の小さな者は「非革命的である」として次の「標的」にされる。 文化大革命でも,このようにして多くの者が互いに裏切った歴史がある。 この現象を著者は「大地のトラウマ」と名付けた。 いまの中国において,かつての「革命」は「反日」に置き換えられ,「非革命者」は「売国奴」に置き換えられている。 「大地のトラウマ」は為政者側にもある。 「売国奴」という言葉は国家指導者にも向けられるからだ。


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