今田新三の『遺書』を読む

imada-shinzou.jpg   私の叔父(亡父の弟)たちの一人,新三(三男で末弟,当時海軍一等飛行兵曹<1920.02.20〜1942.08.26>)は予科練(甲三=甲種第三期生,昭和14年採用)出身で昭和17年(1942年)8月 第二次ソロモン海戦(ガダルカナル島奪回作戦)の際に一式陸攻に電信員として搭乗し,ガダルカナル飛行場を空襲時,搭乗機が被弾自爆して戦死した。

  以下に紹介する彼の遺書は戦死の前年の暮れに父親銀三郎,長兄貞一(私の亡父),陸軍航空隊に所属していた次兄督二等 に宛てて毛筆で書かれた巻物の形を採っている。  実家の古箪笥の中に長く眠っていたこの“信書”を公表するのは本来は慎むべきことかもしれないが,既に関係者は全員この世の人でなく,これが書かれた昭和16年(1941)末から既に六十有余年の歳月が流れた。   遺品としてここに発表しても許してもらえるであろう。   それに,“信書”とは言えこれが書かれた状況から見れば,完全に私的なものとは言い難いのもまた事実である。

  私自身はこの叔父との触れ合いは何も記憶していない。   親族からはるか昔に聞いた記憶を紐解くと,彼は幼い頃たいへんな猫好きで,仔猫の時には口移しで餌を与えたほどだったという。  また末っ子らしくやや甘えん坊で,どちらかと言えばひょうきんなところのある明るい少年であったらしい。    そういう少年があの時代の潮流の中で,自身の父(日露戦争従軍の履歴あり)や次兄に続けと軍人を志し,飛行機乗りになり,満22歳の若さで空に散ったという事実はやはり痛ましい。   書かれた文字を見ると,私などの下手糞な字に比べてはるかに上手な,なかなかの達筆である。

  六歳上の私の従兄弟の想い出によると,海軍軍人になりたての頃,軍服が当時の国鉄職員の制服と似かよっていたためか,ある停車場構内で駅員と間違われて声をかけられた時,彼は色をなして怒り,「帝国軍人に向かって何を言うか!」と怒鳴ったそうである。   成人した誇り高い若き「帝国軍人」の意気軒昂たる姿がそこに偲ばれて,なにやら微笑ましい。  彼は戦死した時,既に婚約者がいた。  しかし,彼女も彼の後を追うように戦後まもなく若くして病死した。

  私のかすかな記憶では,確か新三叔父戦死の知らせが来た日だったと思うが,母が仏壇の前でそっと涙を拭っていた。  当時の新聞各紙には“名誉の戦死者”の家族全員の名前まで克明に掲載されている。

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● 遺書(1)

一,新三勇ミテ君ノ御楯トナリテ大空ニ散ル嬉シキ限リナリ
一,二十有余年ノ鴻恩ニ報イルヲ得ズ誠ニ申譯モ無ク唯々感謝ニタヘズ
一,亡キ母ニ再會スルノヨロコビ亦大ナリ倶ニ今田家ノ安泰ヲ祈ル
一,遺品其他スベテ父上良キヨウ取リハカラヒ下サレ度
一,今更何モ言フ事ナシ
      十六年師走
                                  新三
    父上様



● 遺書(2) ---巻末にコピー写真あり---

貞一兄へ

今更何も言ふ事はありません   日頃の御教を守りました,御安心下さい。  新三今日あるも兄様方の御蔭と深く感謝してゐます。
小生の願望叶ひ空の士として御奉公を全し兄上の御志に添ひし事此の上もなきよろこびに思います。  老体にある父上の事呉れぐれも御願ひ致します    姉上純坊由紀子の皆様によろしく   兄上には身体には充分留意なされ身を教育の尊職に傾け心を今田家一統の上にそゝがれ御奉公を致される事を御祈り致しております。
終りに一句を愚附して置きます

    大空の御楯なる身のうれしさよ
        櫻の花と散りゆく我は
 
                  ではさようなら
    十六年師走
                                  弟 新三



● 遺書(3)

督二兄へ

身を空飛ぶ勇士に置きて倶に精進を續けたるも運命亦致し方なし弟新三兄に先きだちて君國に散る  今更何も言ふ事なし   唯々督二兄の御健斗と武運長久を祈るのみ   亡き母と再會の日来る  よろこびて我を迎へて下さるに違いなし。    兄上の今日までの御厚情,口にて言ふ可らざる様々の金言身にしみてゐます。
終りに小生何物にも代へがたき御たのみは兄上小生に代りて佐藤家
〔注記:婚約者の家〕を継承下さる事にあります  或ひは無理なる事とは思へど新三伏して御願ひ致します。  御承知下されば小生安堵して参ることと思ひます。  何卒よろしく幸福に導き下さる様御願ひ致します。  老体父上の事呉れぐれよろしく御願致します    末筆ながら督二兄様の御武運長久を御祈り致します
    十六年師走
                                  弟 新三より
督二兄様へ



● 遺書(4)

一,君國ノ爲大空ニ散ル男子ノ本懐ナリ
一,乗員ノ不注意ニ依リ国機ヲ失フ誠ニ申譯ナシ
一,我伏シテ神國海軍航空ノ隆晶發展ヲ祈ル
        二飛曹 今田新三
司令殿



■ 戦死直前に父親宛てに送った手紙

前略
去る十日突然第一線に出動命令下り勇躍出發任務につきました。 處去る十四日運悪く洋上に不時着漂流を續けし處幸運にも船舶に救助され本日横須賀に入港し元気一杯母隊に歸りました。  一名の重傷者と愛機を洋上に放棄のやむ無きに至り深く責任を感じてゐます。
小生聊か胸部を不時着ショックにて痛めたるも男の意地亦近く飛行機にて第一線に出動する事を得て安心しました。  甚だ残念至極なるも天候其他の都合によりて生じたる事なれば致し方なくすべてを盡しての事 故安心して下さい。  不幸中の幸い。  他の一機いまだに不明にて行方知れず一同心配してゐる次第です。
亦近く出發致します
相当の空中戦も予想され一段と張り切って奉公を續ける覚悟です
時節柄御身体大切にしてください
ソロモン海戦
〔注記:1942年8月9日 第一次ソロモン海戦のことであろう〕のニュースを聞きその激烈さに驚かされました。
貞一兄よりの便り◇◇
〔注記:判読不能,千葉県の地名か?〕にて拝見しました。  皆様元気との事安心しました   着物そのまゝにて余りの寒さにびっくりした次第です
では今日はこれにて
何卒ご心配無く
貞一兄様によろしく
十九日 夜                                   新三より
父上様




◆ 岡山県民生労働部の文書(昭和48年)

死亡場所の細部についてお知らせ

  終戦以来すでに二十有余年を経過いたしましたが,今日のわが国の繁栄をみるにつけ,さきの大戦において平和の礎として戦没された方々のことが偲ばれ,まことに感慨無量のものがございます。
  戦没者につきましては,かつて,死亡公報により戦没の事実をお知らせいたしましたが,旧軍の機密保持等の事情から,戦没の地点を明らかにしなかったものが少なくありませんでした。  最近,御遺族から,戦没の場所を承知したいとのお申し出がしばしばございますので,このたびあらためてお知らせすることにいたしました。
戦没された 今田新三 殿につきましては次のとおりでございますのでお知らせいたします。


本    籍岡山県和気郡本荘村大字大中山五四二番地
氏    名今田新三
所属部隊木更津航空隊
昭和十七二十六 ソロモン諸島フロリダ島ツラギ付近において敵機と交戦自爆のため戦死
  第二〇四号
      昭和四八年壹月貮六日
              岡山県民生労働部長 深井幸吉

〔注記:ツラギ島はフロリダ島のすぐ南にある小島で,ガダルカナル島はさらにその南に位置する〕



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父宛ての私信<昭和14年3月21日頃(予科練時代)に書かれた葉書>

岡山縣和氣郡本荘村大字大中山五四二番地  今田銀三郎樣

霞ヶ浦海軍航空隊飛行予科練習部  甲種十五分隊四班   今田新三

    父上風邪にて御体の具合よくないとの由其後どうですか。
    色々と御疲れでせう 一層元気を出して下さい
    貞一兄さまより御便り戴きました 日日のたつのは早いもので三月も余す十日となりました
    就いて艦隊実習は予定より少し遅れて三月三十一日午前八時二十八分の汽車にて出発,東京十時の急行にて西下 岡山は多分夜中の十一時頃と思ひます。 アルバムなど持ち歸って御見せしようかと思ってゐます 目下多忙です というのは近々運用術,魚雷術,物理数学の試験があるからです。 先日の小包到着した事と思ひます。
    最初の外出でした 御母さんの寫眞を持って寺参りをしました。
    至って元気です   さようなら   新三

今田督二・新三経歴を参照。



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