落書き帳−葦の髄から−(B)


小森義久著 「日中再考」 を読む <2002.05.04>

中国瀋陽の日本総領事館で起きたこと <2002.05.22>

フレーフレー清水! <2002.06.04>

変なことば遣い(T) <2002.08.26>

小泉首相の北朝鮮訪問に思うこと <2002.09.12>

前方後円墳 <2002.11.25>

地名というもの <2003.06.14>

大山誠一著「<聖徳太子>の誕生」 を読む <2003.09.24>

「日韓大討論−金王燮・西尾幹二」 を読む <2003.11.27>

イラク大使館奥参事官の死に思うこと <2003.11.30>

河口慧海著 「チベット旅行記―校訂高山龍三」 を読む<2003.12.05>

阿辻哲次著「漢字の知恵」 を読む <2004.01.06>

網野善彦著「「日本」とは何か 日本の歴史00」 を読む <2004.06.01>

今田督ニ記「應用航法記事」 (含,私信)を読む <2004.06.05>


☆ 小森義久著 「日中再考」 を読む <2002.05.04>

発行:産経新聞社(2001年6月)

筆者は産経新聞社の初代中国総局長。現ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。 

主な論点

@ 中国の招待外交
毎年多数の日本の国会議員が,中国が費用を負担する形で招待されては,口々に日中友好(中国語では中日友好)を挨拶の中で唱和する。 しかし少数の例外を除いては,中国側の意向に逆らうようなことは何も発言せず,ただ中国側のご意見を拝聴するか,弁明に汲汲とするのみ。

A 中国国民に知らされない日本の援助
これまでに膨大な金額の日本による,
  • 政府開発援助(ODA)のほかに,
  • 旧輸銀(日本輸出入銀行,1999年10月以降はの有償援助を担当する海外経済協力基金<OECF>と合併し,日本国際協力銀行となった)による資源ローンやアンタイド・ローンと輸出金融・投資金融という形の公的資金提供が実施されてきた。 後者はODAをはるかに上回る。 前者が外務省の管轄であり,まがりなりにも対中外交の枠内で行われるのに対して,後者は大蔵省により密室で決定される。 後者のような「陰のODA」については,中国側一般には全く知られていない。
主としてインフラ整備に投入されるこれらの援助は軍事力向上にも大きく寄与している。 また首都北京の都市づくりに供与された日本の援助は合計すれば約四千億円にも達する。 日本の資金なしにはオリンピックの招致もの成功もなかったとすら言える。 2000年9月に決まった新規対中援助172億円の内,141億円が北京市内の都市鉄道新設に提供される。 だが,北京市民はその事実を知らない。

B 対中ビジネスの従来からの問題
対中ビジネスにはまだ問題が多い
  • 中国の顔色をうかがう日本の態度と心情はまだ以前と変わらない部分がある。
  • 中国の不透明な経済管理制度,倫理の欠如(例:偽造品の横行や債務不履行),末端行政官の腐敗が多すぎる。

C 中国の強力な媒体規制
中国の新聞・テレビ・雑誌はすべて共産党と政府の支配下にある。 そして外国のマスコミの報道内容を,自国の政策や価値観に沿って規制しようとする。 この点日本のマスコミは過去中国当局にさんざん振り回された陰の歴史がある。 今は以前より改善はされたものの,なおその傾向は健在である。

D 政治の道具としての“中日友好”
日中両国間の交流では,日本側に民間があっても,中国側には民間は存在しない。 例えば中国側の中日友好協会の歴代の最高幹部はみな共産党や政府のエリートである。 日中友好協会の現在の会長は画家の平山郁夫氏である。 中日友好協会の現会長,宋健氏はミサイル開発の第一人者である。

E 日中友好植樹事業の危うさ
盧溝橋に近い永定河沿いに10ヘクタールの「日中友好森林公園」がある。 併し2000年11月現在枯れた苗木ばかりが目立つ荒れ果てた河川敷になっている。 公園としの表示も仕切りも与えられていない。 ここは1998年10月北京日本人会が中心となって,サクラ,マツ,アンズなどを数百本を植えて森林公園と宣言したところである。 日本人会は当初43万元を寄付し,以後の二年間,緑化委員会を作り,募金を集め合計一万一千株の木を植えた。
日本人会はこうした惨状の懸念から独自に専門家による調査を 行い,この10ヘクタールには井戸が一つしかなく, 給水不備や土壌不備から,全体の四割が枯れているという報告を得ていた。 中国当局も2000年12月公式調査をし,二割の木が枯れたこと,サクラはもともと土壌が合わず,植樹後すぐ全体の八割が枯れたと報告した。 一方,中国は2000年8月に盧溝橋近くに「抗日戦争記念公園」を新設した。 そこにはみずみずしい緑の樹木が整然と立ち並んでいる。

F 間断なく続く軍国主義日本への糾弾
中国で生活していると,「日本の侵略」とか「日本の残虐」あるいは「日本による屠殺」への糾弾に毎日のようにさらされる。 その形式はニュース・評論・ドキュメンタリー・連続ドラマ・映画と様々であり,それは日本の動きの有無に拘わらず,間断無く行われている。

G 日本の占める部分が驚くほど多い中国の歴史教育
「南京大虐殺」の30万人以上という数字を絶対不変とし,特別な意味をこめている。 教科書には「極東国際軍事裁判によれば,日本軍は南京占領後の六週間に武器を持たない中国の国民三十万以上を虐殺した,とのことである」と書かれているが,実際の判決文には「・・・・・・一般人と捕虜の総数は二十万以上であったことが示されている」と書いてある。 「12月15日に難民の中から軍人や警察官と断じた男子を多数連れ去り,二千人ほどを漢中門外で射殺した」という裁判での証言が教科書では三千人あまりと書かれている。 また,「南京幕府山で中国人の老若男女五万七千人余りを一人の証言者以外全員を殺害」した事件は,大量の捕虜が投降してきたが,日本軍はこれだけの人数に食料を与えることは出来ないとみて殺したことは日本側の資料や目撃談でも確認されている。 しかし,人数は捕虜が一万四千人或いは八千人であり,それに一般の難民も加わり,女性も少数ながら含まれていた,ということであった。 そして「百人斬り」も実話として教科書に取り上げられている。

H 日本歴史に対する偏向した史観
「南京大虐殺」という言葉は1980年代の教科書にはなかった。 それが現れるのは1992年からであり,南京の日本侵略軍が日本侵略者という表現に変わっている。 それ以降生々しい挿絵や写真が載せられるようになった。 これは明らかに政治的判断の産物である。 現在,教科書の中で日本の江戸時代末までは階級闘争と生産様式の変化で説明されている。 中学生が知っている江戸時代の日本人の名前は大塩平八郎ただ一人である。 日清戦争(中国語で甲子中日戦争)も日本の中国に対する侵略戦争だと断定している。 偽造「田中上奏文」も“史実”となっている。 エドガー・スノーの描いた「アジアの戦争」の筋書きと「極東裁判史観」は今も「正しく」継承されている。

I 中国の反日教育の根底にあるもの
何故中国政府はこのような歴史教育をするのか,については外国人ジャーナリストによる次のような鋭い指摘がある。

(A) 「中国共産党は,日本軍への抗戦を主導したことを統治の正当性(レジティマシー)の支えとし,そのために日本軍の残虐行為などに関する記憶を国家が管理するメディアの頻繁な報道でいつまでも生き生きとさせておこうとする」
----AP通信北京支局マーティン・ファクラー記者
これは朱首相の訪日前日の2000年10月11日に全世界に流された。

(B) 「中国共産党が貿易,経済援助,投資,観光の最有力相手である日本を過去の戦争問題でたたき続けるのは,日本を決して贖罪を果たし得ない罪人として押さえつけておくという戦略のためだ」などというアジア人外交官の話の紹介とともに,「歴史問題での大部分の中国人の意見は,間違った情報に基づいている。 中国国民は日本側で自国の戦争犯罪に関する映画や元兵士や学者,左翼活動家によって膨大に出されていることを知らされていない」
「日本の戦後の歴代首相や天皇は,自国の戦時の行動に対し謝罪を表明したが,中国側指導者はあえてそれを認めず,日本側がなお不誠実だと非難する」
その理由は「それはこの反日政策が大成功であることだ。 日本を間断無く攻撃しても,中国側に何の不利な結果もないことだ。 日本の企業は中国に依然,投資を続け,観光客は訪中を続け,政府は援助資金を提供し続けてきた」
----香港のサウスチャイナ・モーニングポストノ北京駐在マーク・オニール記者(2000年10月6日)
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【読後感】

日本糾弾が共産党の延命のための不可欠の戦略である以上,これは止まることはない。 これは江沢民(1989年ケ小平の後継者となる) の編み出した作戦であると仮定すれば,彼の執拗な対日非難の理由が分かる気がする。 党の存立と経済発展のためには,日本軍国主義を叩くことが自国にとって得にこそなれ,損のない作戦なのだ。

またそういう戦略を知ってか知らずか,唯々諾々として受け入れている日本人が,自由党を除く野党にも,又自民党の政治家たちにも多いこと,役人にも学者にも多いことは情けない限りである。 朱首相が日本に来てテレビ出演したときにも,「日本は未だ公式文書で過去を謝罪していない」などという独善的な意見を吐き(これは中国国内向けの発言だったかもしれないが),それに対して誰も反論しないという有様である。 経済的な面ではもう充分な償いはしたと胸を張っていう「したたかさ」があってもいいのではないか。 さらに言えば,国民党軍と戦い,その戦力を摩滅させたことで,共産党の政権奪取をお手伝いしたくらいの事をしれっと言うくらいの図太さもあってもよい。 現に毛沢東自身日本人にたいしてそういう発言をしているのだから。 孫文の最大のスポンサーは日本の民間人であったことをどれくらいの中国人が知らされているだろうか。 卑屈な反省も度が過ぎると,馬鹿にされるだけである。 が,そういう私も個人的には中国がやはり好きな国の一つなのであるから,何をかいわんやであるが。

先日テレビの電波少年という番組で,ミュージシャン志望の二人の日本人の青年と韓国人の娘さんの三人が,体を張って東南アジアの国々を巡りつつ,新しい経験を積んでいくというのがあったが,一人の青年が「南京大虐殺記念館」を見せられて,初めて日本軍の犯した“大罪”を知り大きなショックを受け涙を流すという場面があった。 見ていて,じれったさを覚えた。 何の予備知識もない(その無知さにも腹立たしさを覚えるが)彼は,一方的な”歴史認識”を脳裏に刻んだことであろう。

中国にいた半年間で地方紙の中で見た日本に関する話題というと,例の元兵士で偽の告白談で著名人士になった東史郎訪中の話題と事故の記事くらいだったように記憶する。

こういう国家の歴史教育を受けた人々と歴史認識を共有することは所詮無理な話である。 いかに不確かな根拠に基づく知識にせよ長年教え込まれればそれは「真理」と化していよう。 日本が嫌いな人が戦後50年経ってもまだ過半数を占めるのは悲しいことだが,直接日本と交流する機会のない大多数の国民にとって幼少時から学ぶ教科書や官製情報の及ぼす影響は大きい。 それが共産党の狙いでもあるのだが。 愛国心と結びついているだけに問題は厄介である。

無論中国人の知識人士には共産党一党独裁政治は決して誇れるものでないことがよく分かっている。 しかし,中国で生きていくためには他に選択の余地はないと諦めているか,或いは,生きていくのに精一杯で,そんなことに関わりあう暇はないと割り切っているだけであろうと思うし,保身のためには嘘の歴史も創作するしたたかさも又生活の智恵であろう。

中国人の歴史観の大転換は,皮肉なことだが,共産党政治の経済政策の破滅的失敗と混乱後を経て本当の民主化された社会と情報の自由化の時代が来ない限り,できない相談であろうとは思うが,そういう中でも,日本の大衆文化に熱中する若い人が少づつ増えていること,日中の草の根的な援助や交流を根気よく続けている人がいることは,何か明るい未来に繋がる期待を持たせてくれる。
また特に日本語を専攻する人が,以前のような熱はさめたらしいが,尚少なからずいるということに,嬉しい気持ちがする。

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☆ 中国瀋陽の日本総領事館で起きたこと <2002.05.22>

@ 今回(五月八日)の瀋陽領事館の北朝鮮難民連行事件は聞いていても終始不愉快なものであった。 最近の一週間の間にいろいろな事実が分かってきて,結局難民は韓国へ行くという結末を迎えた。 外務省は尚も彼らと接触して格好をつけようとしているが,彼らは日本へ来たいわけではないのだから,そのことに一体どんな意味があるのか? きっぱり諦めたほうがいさぎよい。

A 3月にはスペイン領事館に25人の駆け込みがあった。 素人談義でも,自前で警備するアメリカは別にしても,中国側は相手がヨーロッパ系の機関だったら,日本に対するような行動はとらなかっただろうと専らの噂である。 日本も「同じ穴のむじな」ではあるが,西欧人に対する遠慮(白人崇拝主義とまでは言いたくないが)とか優待という空気は確かに中国にもある。

B 中国側の行動は,「靖国神社」がまるで大陸内に存在するかのような指導者層の言動と,長年の"中国式歴史認識"に基づく教育で洗脳された対日感情から,少々のことは許されて当然という気分によって支えられているように見える。 一方,日本側の対応ぶりは,外国からの難民や入国申請者にただガードを固くするのみで,受け入れることを嫌う日本国民の心理を極端に濃縮したような対外政策の当然の帰結であり,また自前の外交能力を失った日本国の裸の実態,そして,中国・韓国の歴史観をそのまま正義として捉え,偏向した歴史教育を主張してきた一部のジャーナリズムや政治家・学者・教師によって培養された国家観しか持てなくなっている国民一般の姿の反映にすぎない。

C 我々には外務省のぶざまな有様を罵る資格はない。今回の事件の帰結はある意味で当然のことである。 北朝鮮に拉致された数十人の日本人を救出できない日本に他国の人間を救えるはずがない。 また,日本の国内に,まるで北京やソウルの政府のスポークスマンのような人間がいる限り,国益や国の威信についての強い関心を持てる筈がない。 それが日本が民主主義国家であり,独裁主義国家でないという証拠と言えば言えるが。

D 簡単に言うと,領事館の人間は要するに武装警官がこわかったし,武装警官は領事館の人間をなめているのだと思う。 難しい英語が分からなかった警察庁からの出向者や帽子を拾った厚生労働省からの出向者は,門まで出てきただけまだましである。 外務省本来の領事館員は事務室で仕事をしていて出てこなかったそうである。 まさに「我関せず」という日本外務省らしい行動である。

E 今回日本は中国政府に学ぶ点が一つある。 正々堂々と嘘をつき威張るのも国際政治の重要な手段の一つであるということである。

F ただ,外務省には亡命者を受け入れる能力も権限もない。 それは法務省の仕事であり,ひいては日本政府全体の,そして日本人全体の課題でもある。 今後十年を待たずして朝鮮民主主義人民共和国を名乗る国家は瓦解すると思う。 そのときは無数の難民が国境を越え,日本海を越えて溢れ出るであろう。 わが国はどういう措置を取るのか? それこそが一番可能性のある「有事」ではないだろうか。

G North Koreaのことを,「北朝鮮,朝鮮人民民主主義共和国」などと,およそ実態と異なる呼称を使用するのはもういい加減にやめたらどうか。 時間の無駄である。 世界のどこの国もそんな舌を噛みそうな言い方はしていない。 朝鮮総連がメディアにそう呼べとねじ込んだのは遥か昔のことである。 韓国語で言う「脱北者」,つまり国外へ逃れたい人の割合がかくも多い国はこの地球上のどこにもない。 しかも,逃げ出すことができる人は,特権階級か中流以上の比較的恵まれた人で,その背後には無数の,無力な大衆がいる。 金正日が権力を握り続ける限り,彼等が大挙してボートピープルになって陸を越え,海を越えてくる日が来る。 金大中もそれが分かるだけに「太陽政策」によって“北朝鮮”(韓国語では“北韓”)を開いた国にしたかったのだろうが,今のところ北の指導者を潤しただけに終っているらしい。 指導者といえば,何故韓国の代々の大統領の家族・親族が金銭にまつわる疑惑を引起すのだろうか。 例外は暗殺された朴正煕くらいである。 家族の血縁の重視,家への忠誠が儒教の一大原理だと聞いたことがある。 金日成は自分を国の父と呼ばせて家父長への忠誠を国家への忠誠に収斂させて儒教の弊害を乗り越える政策を取ったのだとも聞いたが,国家を破綻させてしまっては,空しい呼名でしかない。

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☆ フレーフレー清水! <2002.06.04>

「清水」と言っても,サッカーの清水エスパルスのことではない。 プロ野球読売ジャイアンツの一番打者清水隆行選手のことである。 彼は1996年の入団以来昨年(2001年)までの六年間の通算打率が.2割9分8厘とコンスタントに三割前後の打率を残している。 しかし晩年の「迷采配」で週刊誌を賑わした前監督の長島茂雄はなぜか花のない清水を嫌い,左ピッチャーの時は使わないという頑なな方針を最後まで改めようとしなかった。 清水が左ピッチャーに弱いというのはデータから言っても全く根拠がないことは明々白々であった。 だから評論家ならずとも,なぜ清水をフルに使わないのかと疑問を呈する人は少なくなかったようである。

しかし,もはや神となってしまった監督に直言する人もなく,これも週刊誌の伝えるところでは,長島前監督は清水の名前をはるか昔の左バッター「柳田」と呼び間違えることもあったとか。 同じく週刊誌のゴシップ記事の中には,コーチであった現監督の原辰徳の当時の長島監督の受け売りのような「言語明瞭意味不明瞭」ぶりを茶化したり,理論を持たない木偶の棒であり,選手から馬鹿にされているなどと面白おかしく揶揄するものもあった。 考えてみれば,「神」に仕える僕たる一介のコーチとしての立場と自分に決定権がある監督としての立場の間には天と地ほどの違いがあるのである。

監督となった原辰徳は昨年までの一番打者仁志敏久に代えて清水をトップバッターに持ってきた。 これは原新監督の大ヒットである。 清水は左投手の時も引っ込められることなく,まるで積年の重石が取り除かれたように目覚しい活躍をしてきており,今年の打率は6月2日現在3割3分で,チーム内では松井に次いで二番目の成績である。 評論家の中には清水の好成績は振りだし時のバットの位置を変えたことから来るという理論的なご意見を吐く方もいるが,精神的なゆとりが何よりの薬であったことは言うまでもないと確信する。 ただ,一方の仁志選手は自分の新しい役割である二番打者に適応しきれず,自分を見失って一時体調まで崩して登録抹消という試練を経るという気の毒な一幕もあった。 因みに清水選手と同期である仁志選手の昨年までの通算打率は2割7分8厘である。

この原新監督の長島前監督への「造反」は,丁度かつて長島茂雄新監督が元監督の川上哲治の意に沿わない路線を走り始めた時の経緯を思い出させるものがあり,何やら「歴史は繰り返す」という語句が脳裏に蘇る。 ともあれ,美男でもなく地味だが,脚力もあり,時には松井選手に劣らない弾丸ライナーで敵の度肝を抜くこともある清水隆行選手が実力で以ってバッターとして更に一段と高い地位に登る日が早く来ることを心から願う次第である。

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☆ 変なことば遣い(T) <2002.08.26>

以前から気にはなっていた若者がよく遣うことばに,「抜かす」という動詞がある。 テレビで若い人が遣っているのをよく聞いた。 私の語彙には「抜く,追い抜く」 ということばはあるが,「抜かす」 はない。 どうも辞書にある「外す,間をとばす,抜き取る,力をなくす(例:腰を抜かす)」 という意味で使っているのでもなく,また使役動詞的(誰々に追い抜きをさせる)な使い方をしているのでもなく,「〜を抜く,〜を追い抜く」という意味で遣っているようなのである。 必ずしも若者ばかりではなく,識者といわれる人も遣っていたように記憶する。 ひょっとして東京方言にあるのかもしれない。

もしこれが近年の若者の造語であるとしたら,「〜を負かす,〜を打ち負かす」 ということばとの混同から発生したのではないか,ということを最近思いついて,なんとなく合点が行ったような気になっている。

放送で野球の解説者のことば遣いを聞いていると,時々成語とか諺を引用するのはいいが,中途半端な又は明らかに間違った引用をするのを耳にする。 誰か正しい語法・言いまわしを教える人はいるのだろうかと気になる。 知らない人がそれが正しいと思い込み,間違ったまま憶えこむとしたら,その影響は後代にも及ぶだろう。

口跡のきれいな(という言い方はいいのかな?)人の解説は聞いていても気持ちがいい。 そういう人は,また,小難しい間違いやすいことばはまず遣わないし,少ない分量の平易な単語で,核心を突く内容をズバリと表現する。 こういう人は本当の意味で頭がよく,考え方が常に事前に整理されているのであろう。 頭の悪い小生は大変羨ましく思う。 野球解説での例を挙げれば,星野仙一氏は,短いことばで的確な表現をすることが大変上手である。 決して持って回ったようなもたもたした言い方はしない。 その他の解説者でまず思い浮かぶのは,江本猛氏であり,元中日ドラゴンズの鈴木孝正氏である。 

ほかにも思いつく名前は不思議と投手出身者が多い。 頭がよくないとピッチャーは務まらないのだということを聞いたことがある。 その反対の例は長島茂雄氏である。 「長島語」という言葉があるほどであり,国民の言語活動に対して影響力があるわけではないが,やたら主語に 「・・・という形」 とか 「・・・の存在」を用いて一見論理的な表現を気取っているが,単に持って回った言い方になっているに過ぎず,内容はもっと短く言い直したほうがよい場合が多い。 また話す言葉が,主語+述語という形にきちんと治まらないことがしばしばある。 短い監督談話のうちなら,ご愛嬌で済むが,プロの野球解説者としてこういう日本語を聞かされるのは,いくらジャイアンツファンの私でも,「公害(口害)」に等しく,御免こうむりたいと思うのでそんな時は仕方なくチャネルを変えさせて戴いている。

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☆ 小泉首相の北朝鮮訪問に思うこと <2002.09.12>

平壤行きは成功するか否か? もし,拉致された日本人の帰国が実現すること,核兵器開発を中止させることを以って「成功」と呼ぶとするならば,訪朝は「失敗」に終わるであろう。 成果があるかどうかを言う前に,何を以って成果と考えるかのほうが問題である。 ここまで来れば小泉首相としては「成果」があったと言いたいし,またそういう形で総括するに違いない。

金正日の目的は自己の政権(時代遅れの金王朝)の延命それしかない。 資金さえ獲得することができれば,平気で空手形を発行することも彼の国の得意技である。 誠意を尽くしてもそれに応えるような国ではないことは周知のことである。 国民が自国のみじめな実態を明明白白に体感できるような形での改革開放はできる限りやりたくないのが本音である。 金正日が生きている限り本当の意味での南北統一などが実現する筈はない。

日本人拉致については,恐らく金正日自身が陣頭指揮をとった作戦であろう。 一般に共産主義政権・政党は絶対に自己の誤謬を認めない。 仮に認めるとしても,それは,責任を負うべき当事者が既に死去又は政権を追われた後,次世代になってからである。 とすれば,拉致問題についての謝罪とか日本人全員の帰国などを彼が認めるはずはない。 おそらく日本人妻の帰国と同様,体制側についた"無害な"日本人を小出しに帰国させるくらいが関の山であろう。 そうすればその間は援助資金(彼等の言う過去の清算)も入ってくるという筋書きを考えているはずである。 その他の人々は死亡したと言っておけば事は簡単である。

アメリカの恫喝外交には問題が多いが,しかし今回の動きはそれがなかりせば,この時期に実現していなかったこともまた事実であろう。 小泉首相としても,金正日の外交について厳しい見方をしていることは充分窺えるが,しかし,したたかな相手には,こちらも空手形を出すプログラムを用意し,衣の下の鎧(恫喝的外交辞令)すら着込んでおくべきである。 ただでさえ相手は日本人には何をしても許されるのだという基本的な「歴史認識」を持っているのである。 いざという時はテーブルをひっくり返して立ち去るくらいの脚本も書いてから会談に臨むことを希望しておきたい。

私も小泉外交の成功を願う一人であり,私の思いが杞憂に終わればこんな嬉しいことはない。 しかし,うわべだけの「成功」なら,ないほうがよいと思う。

《 後 記 <2002.10.04> 》
9月17日小泉首相が訪朝した。 その後のことはここに言うまでもない。 私の予想と違ったのは金正日が部下のせいにしてでも拉致を謝罪したことである。 拉致又は誘拐は主として80年代前後の一時期に手を染めたいわば過去の歴史の一場面でしかなく,一応謝ればことは済むと彼は考えたのであろう。 拉致問題と植民地時代の強制連行とを対比して相殺させたい論者がいる。 強制連行は敗戦間際のごく短期間のことであり,朝鮮半島から,当時は同じ国内であった日本に来た人たちは職と食を求めて自ら渡って来た人のほうが遥かに多いのである。 北の行った拉致又は誘拐はテロ行為である。 朝鮮総連は,そして”社会党”は拉致はなかったと本当に信じていたのであろうか?

韓国・日本・中国・ロシアとも今すぐ北朝鮮が瓦解しては困るのである。 国家に”拉致”されている北の二千万の人間がいっせいに国外へ逃げ出したら収拾がつかなくなる。 どのような最後の姿を見せるかは別として,「貸家と唐様で書く三代目」の諺どおり,絶対君主制金政権には所詮崩壊への道しか残されていない。 なぜなら,経済が破産すればそれまでであるし,そうでなければ,資本と情報の自由化,ペレストロイカなしには経済発展の実効は上がらないし,モノの自由化は思想の自由化を呼ぶからである。 

拉致はまだ風化した「歴史」にはなっていない,特に犠牲者の家族にとっては現在進行形の事件なのである。 日本政府は自由な国の世論の怖さを北にも知らしめつつ,これを交渉の手札の一つとして使えば良い。 本当の真実は50年位経たないと明らかにはならないものだ。 植民地支配に対する冷静な評価が韓国の若い人から出たのはつい最近のことではないか[金完燮:『親日家のための辯明』]。

二十数年の歳月は個人にとってはあまりに長い。 拉致されたあと北の体制に順応できた人,馴染めなかった人,利用価値を失って死に追いやられた人などなど,その後の運命は一様ではなかったと思われる。 今日の日を迎えることなく亡くなった方の無念は察するにあまりあるが,一方,仮に生存者が老い先短い近親者の待つ日本へ帰国したとして,中国残留孤児と同じような立場に置かれはしないかという危惧を感じないでもない。 

以前から思っていることであるが,「朝鮮民主主義人民共和国」という長ったらしい名前ほど,この哀れな時代錯誤の国家の実態とそぐわない名称はない。 北朝鮮自身を含めて世界のどこの国もこんな呼称を使っている国はない。 日本のマスコミは一体いつまで使い続けるつもりなのか。

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☆ 前方後円墳 <2002.11.25>

「前方後円墳」という考古学上の専門用語は江戸時代に蒲生君平が『山陵志』(1808年)の中で命名して以来今に至るまで使われていることばである。 中心部を円墳,「前方」を方墳とみなしての用語である。 かなり以前読んだ本の中に,この言葉は実際の形状を表していないから「鍵穴式古墳」と呼ぶべきだという三品彰英氏の説が紹介されていた。 
ところでこの「前方後円墳」は一体何をかたどって造られたものかということに関しては諸説があるが,最近,これは道教の「蓬莱山」をモデルとする壺をかたどったものであるという説が有力視されている。
以下は最近「第10回春日井シンポジウム」で学んだ知識である。

60年前にフランスでR・スタイン(ドイツから亡命した学者Rolf.Schtein)により発表された論文の中に「壺型をした崑崙山と蓬莱山は,不死のシンボルであり,壺型をした日本と朝鮮の前方後円墳は,そのコピーだ」と書いている。
これを”発掘”して1986年元旦の記事の中で報告したのが当時毎日新聞の文化財担当記者で現・京都学園大学教授の岡本健一氏である。
岡本氏の主張はその後の新聞・雑誌・講演を通して続けられ,近年中堅考古学者の間で検討されるようになった。 前方後円墳は「壺型蓬莱墳」と呼ぶべきとするのが岡本氏などの意見,他には「撥型後円墳」という呼称を提起する近藤義郎氏の意見や,男女の結合を象徴するものと見立てての松本清張氏の見解などがある。

道教思想の理論哲学陰陽五行説と並んで,道教の神仙信仰を象徴するのが不老不死の仙境たる三神山―蓬莱山,方丈,瀛州<えいしゅう>―である。 道教を深く信仰した秦の始皇帝は紀元前3世紀に,方士の徐福(斉の人,徐市<じょふつ>)に命じて東海にあるという蓬莱山に不老長寿の薬草を求めさせた。  徐福は”多の珍宝と五穀の種と童男童女三千人と百工を連れて(漢書)”船出し,再び故国へ帰ることがなかった。 日本各地に20ヶ所ほどの徐福伝説地があるが,最も有力な到達地点は和歌山県新宮市である。 徐福は倭国に来る前に韓半島の南海岸や済州島にも寄港し,様々な伝説を残している。
1982年徐福の故郷・徐福村が発見された。 現在の江蘇省連雲港市(現在は新浦市)[章+久/貢]楡(hanyu)県金山郷がそれである。 そして,現在中国・日本・韓国の徐福の末裔たちと関連する学者より成る各国の徐福会が結成されており,交流が行われている。

蓬莱山は壺の形をしているとされ,「蓬壺」とも呼ばれたという。 「前方後円墳」は,舶来の神仙思想に触れた倭人たちがあの世の「壺型の蓬莱山」の縮図・縮景をこの世に造り出そうとして発明したものであろう。
3世紀後半から盛んになった「前方後円墳」は仏教信仰の隆盛化と期を同じくするように終焉したが,神仙信仰そのものは長く日本文化の中に伏流水として残った。 近年「石の都」と形容される飛鳥京は石積の多い瀛州<えいしゅう>に似せて造形されている。  後代の美術工芸の世界にも,そして池泉回遊式庭園や枯れ山水式の庭園にも蓬莱山のイメージが取り込まれている。 国歌「君が代」の歌詞は薩摩琵琶の「蓬莱山」から選ばれている。 もう一つの神仙信仰,扶桑樹は東海の果てにあると信じられた巨大な桑の木で,太陽はここから昇り天を巡ると信じられていた。 藤ノ木古墳の金剛冠のデザインはその扶桑樹を表し,また「日出づる処」の日本という国号は扶桑信仰から発生している。

「前方後円墳」は「前方部」の正面から拝礼するのではなく,側面から拝礼をしたものである。古墳時代前期末になると,墳丘の下,古墳の首の付け根にあたる個所に「造出(つくりだし)」という突出した場所が祭祀の場として設けられるようになった。有名な松阪市の宝塚1号墳から出土した大型の船形埴輪も「造出」で発掘されたものである。 「造出」の脇には墳丘の上へ上がるための登り道が設けられていたことが分かってきた。

春日井シンポジウムは愛知県春日井市主催の考古学シンポジウムで,毎年11月中旬に同市の市民会館で行われている。 同志社大学名誉教授の森浩一氏が市の委託を受けて「プロデューサー」役を勤められ,毎年多彩な講師陣と紅一点の学識のある女性タレントを動員して行われる。 今年の紅一点は宮崎美子(大分県出身)さんであった。  毎回最新の考古学関連の知見を知ることができ,私のような市井の一素人にとっては大変貴重な機会となっている。 年月の経過とともに,より古いことが分かり,より新らしい歴史の見方が生れるのが考古学の面白いところである。 上に紹介したことは私自身にとっては今までよく知らなかった未知の知識であり,非常に興味をそそられた事柄ばかりである。

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☆ 地名というもの <2003.06.14>

私は週一回或る中国語教室に通い,中国語の勉強を飽きもせず続けている。 最近先生が和文中訳の教材に選んだ朝日新聞の記事の一つ,題して 「胡同春寒  北京横町改造」 を読み翻訳練習をする時間があった。 この記事は,2008年北京オリンピックを控え北京は都市再開発を実施中であり,古い横丁()の老朽家屋を取り壊し公園・道路・緑地・高層アパートどに変換していること, そして旧市街に住む決して豊かではない昔ながらの住民たちの多くは,比較的少額の立ち退き補償金を貰っても,元の場所に家を建てたり,また高い家賃を払って住み続けたりできないため,郊外へ移転せざるを得なくなっていること,そして近代化と引き換えに古い北京の街の持つ古都の味わいが急速に失われつつあることなどを紹介している。 教室の先生の話でも北京の中心部に行くほど建てられるマンションの価格はより高価になり,最早庶民の手の届くものではなくなっており,海外に住む華人の投資対象になっているそうである。
北京の古い横丁を中国語で“胡同”と呼ぶ。 発音は hutong。 蒙古族が中原を征服したときモンゴル語の街路<street>という語が漢語に音借で取り込まれたものと聞く。 現代モンゴル語で街路<street>を ГУДАМЖ (gudamj) というそうである。 hu は日本語の フ とは異なり喉の奥の方で発音するから gu にやや近い音である。 余談であるが,中国は元朝以前と元朝以後では別の国になったという見解もあるほど文化的にも“異民族”の影響を強く受けた ]

それはともかくとして,この課目の勉強に当り,記事に紹介されていた北京市が2002年に定めた“歴史文化名城保護計画”をインターネットで捜してみた。 そして,その中の一項目に 『傅統地名的保護』というのがあることを発見した。 これは大変重要な意味を持つ。 地名も無形の文化財であることを政策担当者がよく理解しているからこそ規定されたのであろう。 日本の都市においては,歴史のあるロマンチックな名前がいとも簡単に捨て去られ,「××1丁目」 とか 「新△△町」 とかの無味乾燥な名前に変えられたり,甚だしきは特定企業の名前を地名(市名・町名)に取りこむ例すらある (私の住む 「豊田市」 もその口である。 「日立市」 というのもあるが,こちらは 「常陸(ひたち)」 という歴史的地名との拘わりもあり,まだ許せる)。 また最近の町村合併では各町村の面子の張り合いから,由緒ある歴史に関係のない無機質的・中立的な名称やカタカナ・ひらかな名称を採用するなどの現象があちこちで起きており,これは文化財の破壊にも等しい暴挙と言わざるを得ない。

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☆ 大山誠一著 『<聖徳太子>の誕生』 を読む <2003.09.24>

発行:吉川弘文館―歴史文化ライブラリー―(1999年5月)

今日我々が知っている推古朝時代の偉大なる政治家にして思想家,聖徳太子は,実は養老4年(720年)に完成した日本書紀の実質的な編纂責任者である藤原不比等とその政敵となった長屋王の二人によって日本書紀の編纂過程の中で創造され,更に不比等の嫡子武智麻呂と不比等の娘,光明子(聖武天皇の夫人,即ち光明皇后)によって信仰の対象にまで高められた虚像である,というのが著者の下した結論である。 

この説は,特に仏教界にとってはむろん,歴史学者にとっても認めがたいものなのであろう。 発表直後から論争の的になったと聞いている。 しかし,私は刊行の四年後に初めてつぶさに読んでみて,論理的には正しいと思うことばかりである。 しかも,例として挙げられた個々の事象については,それぞれの専門家によって,既に虚偽であることが立証されているものがある,ということを知り,それらを紡ぎ合わせると著者のような結論になることは,ある意味で当然という感じすらした。 一介の歴史好きの素人に本書について私見を差し挟む余地などない。

以下,ただひたすら著者の推論を紹介するのみ。


■ 確認できる史実
@ 日本書紀の中で聖徳太子と初めて呼ばれた,本名を厩戸王という人物は用明天皇と穴穂部間人王(あなほべのはしひと)との間に生まれた皇子である。 母は蘇我稲目の娘である小姉君(おあねのきみ)と継体天皇の子である欽明天皇との間に生まれた娘であり,欽明天皇はまた蘇我稲目の娘である堅塩姫(きたしひめ)との間に推古と用命の二子を設けている。 従って父母のどちらをとっても蘇我系の王族であると言える。

A 「厩戸」 の呼称の由来については諸説あるものの,生年の干支に基づく可能性が高いから,敏達3年甲午<きのえうま>(574年)の生まれとしてよい。 聖徳太子としての没年は2種あるが,どちらも事実とは言えない。
( ※ 日本書紀では推古29年(621年)2月5日,法隆寺系史料の天寿国繍張では推古30年(622年)2月22日 )

B 推古9年(601年)に斑鳩宮を造って,以後ここを居所とし,斑鳩寺(若草伽藍として遺跡が残る)を建立した。 斑鳩宮は皇極2年(642年)に,斑鳩寺は天智9年(670年)に焼失した。

厩戸王について確認できることはここまでである(天皇以外の王族でここまで分っていること自体稀有のことなのである)。 聖徳太子の膨大かつ多様な伝説は全て虚構である。 では誰が何のためにそういう虚構を作り上げたのか,どんな歴史的な背景の下に作られたのかが問題である。 

聖徳太子の基本史料は 『日本書紀』と法隆寺系の2系統である。

■ 日本書紀における主な疑問点
(1) 聖徳太子は皇太子ではありえない。
○ 推古元年(593年) 四月己卯(十日)条
厩戸豊聡耳皇子(うまやどとよとみみのみこ)を立てて,皇太子(ひつぎのみこ)とす。 仍りて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ。

反論―@
この当時大王が生存中に後継者を指名するという皇太子制はなかった。 制度的には持統3年(689年)に編纂された飛鳥浄御原令において定まり,最初の立太子は持統11年の軽皇子(かるのみこ =文武天皇。 持統天皇の孫)であった。
日本書紀が記録する朝廷としての重要な行事にも,皇太子が参画した記事は一切ない。 ただ不確かか事実でない場合に限って登場する。
(例) 推古2年(594年) 皇太子,親ら肇めて憲法17条を作りたまふ。
(例) 推古12年(604年) 皇太子及び大臣(おおおみ)に詔して,三宝を興隆せしむ。

反論―A
仮に有力な皇子であったとしても,推古9年(601年)に飛鳥宮から約20キロも離れた所に斑鳩宮を造り,同13年(605年)にそこに移ったことになっているから,少なくともその時点で政治の中枢からはずれたと考えねばならないはずである。

(2) 憲法17条は聖徳太子の時代のものとしては不自然である。
随書(636年撰)の 「倭国伝」が伝える当時の倭国の政治の様子に,天(あめ)を以って兄と為し,日を以って弟と為す。 朝暗いうちに政治を行い,日が出て明るくなると弟(日)に委ねようといってすぐ政治をやめる・・・・・,というくだりがある。 中国の「天」(最高の存在,絶対的な神)の概念とは全く異なるし,当時の倭国では文字や記録は日常の政治の場では使用されていなかったであろう。 憲法17条は儒教思想を基本とし,仏教の精神をも分りやすく説いたものである。 しかし日本書紀の書かれた時より一世紀も遡る時代の604年に,中国の儒教の古典を縦横に引用した作品が書けることはあり得ない。

■ 法隆寺系史料における主な疑問点
法隆寺系史料とは,
  1. 法隆寺金堂に安置されている薬師像・釈迦像の光背の銘文,
  2. 中宮寺に残る天寿国繍張の銘文,それに
  3. 「三経義疏」(さんぎょうのぎしょ)
を加えたものを法隆寺系史料と称する。

  1. は天平19年(747年)以前に成立していたことは事実であるが,聖徳太子死後1世紀以上ものちのことである。
  2. は成立時期を推測できる史料がない。
  3. は天平19年(747年)になって突然出現したものである。 斑鳩宮も斑鳩寺も全焼した筈なのにどうして釈迦像の光背だけが残っていることがあろうか。 銘文の中の用語(※)から分ることは,作成時期は上限が天武・持統朝,天平初年,下限は天平19年である。 

( ※ 用語の例 )
天皇(すめらみこと)という言葉は天武・持統朝から使われだしたもの。
天皇の和風諡号は 『記紀』 の編纂の為に,歴代天皇の呼称として作られた。 厩戸豊聡耳皇子<トヨトミミノミコ>も和風諡号と言える。

藤枝晃氏の研究によれば,敦煌出土の「勝鬘義疏本義」と聖徳太子撰と称する「勝鬘経義疏」が七割同文であることから,後者が6世紀後半の中国北朝段階に中国で成立したものとする。

はっきりしていることは,「日本書紀」が編纂されて以後に,それとは違う聖徳太子像を作ろうとしたのが法隆寺系史料であるということである。

■ 日本書紀が編纂された目的は何か。
白村江の戦い(天智2年(663年))以後約30年間の国際的な孤立による情報不足の中で「大宝律令」 「古事記」が作成されたが,慶雲元年(704年),帰国した粟田真人らの大宝の遣唐使がもたらした最新の唐(則天武后の治世の時代)の情報は衝撃的なものであった。 

最近の研究によると,持統朝に完成した藤原京は中国周代の『周礼(しゅうらい)』の知識によって理念的に設計されたものであった。 遣唐使によって現実の長安城が紹介されそれをモデルに,平城京の造営が開始された。

和銅7年(714年)に編纂の詔が下った「日本書紀」(養老4年(720年)完成)の課題は,中国の政治・思想・文化を受け止めること,それを踏まえて天皇制が国家秩序の頂点に君臨することを人々に示すことであった。 簡単に言うと,絶対権力者である中国皇帝と対比され得るような天皇像を示すことであった。

政界の最高実力者藤原不比等の強い希望は,25歳で死んだ文武天皇(軽皇子)の子で,不比等の孫にあたる首(おびと)皇子を天皇にすることであった。 そのための仕掛けが日本書紀の中での皇太子の地位の強調 (即位前の中大兄王を皇太子と称すること,また歴代天皇に立太子記事の挿入,仕上げは聖徳太子を皇太子としたこと) であり,憲法17条であった。

■ ヤマトタケルと聖徳太子は一体の存在
天皇の「征伐」(『論語』季氏篇―礼楽征伐は天子より出ず)の象徴としての「ヤマトタケル」のモデルは,王族将軍であった久米王(来目皇子)であるというのが吉井巌氏の指摘である。 どちらも政戦途上の異域での死を遂げている。 また,ヤマトタケルに恒に膳夫(かしわで)として付き従った人物に久米直(くめのあたい)の祖の七拳脛(ななつかはぎ)というものがいる。 久米王の名も久米直に養育されたからと考えられる。 ヤマトタケルも久米王も久米氏を養育母胎としていることになる。

この久米王の兄が厩戸王である。 現実の継体・欽明朝以降の歴代天皇の中に儒・仏道の中国思想を体現するような聖天子像を見出すことができなかったため,法隆寺を建立した厩戸王を神格化の対象にしたと考えられる。 今は子孫も絶滅した厩戸王を対象に選んでも誰に迷惑がかかることもなかったからであろう。 天皇の「礼楽」(『論語』季氏篇)を構成するものとして,「聖コ」を具えた「太子」 として創造されたと思われる。 かくして日本書紀の中で二人の神格化は平行して行われた。

■ <聖徳太子>の三人の作者
聖徳太子の人物像を描くに当っては,儒教に精通する不比等と老荘思想(道教)の愛好者であった長屋王(天武の長子高市王の子で皇位継承資格がある)の意向が働いたことは疑いない。 しかし仏教知識は不足していた。

その空白を埋める相応しい人物が,粟田真人らの大宝の遣唐使に加わり,14年遅れること養老2年(718年)帰国した道慈であった。 彼は日本で最初の本格的な学識を持った僧侶であるといえる。 彼が大宝2年(702年)長安の西明寺に入ったとき,そこではインドより帰国した義浄(635〜713)が盛んに経典の翻訳を行っていた。 その一つ,『金光明最勝王経』を道慈がもたらし,『日本書紀』の述作にあたって,その華麗な文章をしばしば利用したことはよく知られている。 むろん玄奘(602〜664)の訳した経典も数多くもたらし,白村江の戦い以来の空白を埋めた。 この西明寺の建立時に,中国の戒壇の基礎を築いた高僧,道宜 (596〜667)が招かれていた。 彼は仏教を基本としつつも,神仙思想や道教思想を積極的に撮り入れた人物である。 道慈はその道宜に著しく影響を受けている。 儒教嫌い道教好みの道慈は,不比等に抜擢されながら,むしろ長屋王の方へ接近していったのであろう。

■ 憲法17条
第2条,第5条,第10条,第14条が仏教関係の部分である。

第1条 “和(やわらか)なるを以って貴しとし,” にも仏教の影響がある。
----道宜の『四分律行事鈔』集僧通局篇に「僧は和を以て義となす」とあり,意味において憲法と一致している。 僧とは本来,僧伽といい,数人の比丘(出家した男の僧)が,戒律を共有しながら一緒に修行する集団のことで,修行集団においては何より和が大切である。 『論語』学而篇の「礼の用は和を貴しとなす」は,礼の目標としての和を説くもので,表現は似ているが,内容は異なる。

それ以外の各条は儒教的なものであり,3種に分類できる。 
第1―儒教の徳目の強調 (第4条,第6条,第9条)
第2―官人の職務上の注意 (第7条,第8条,第11条,第12条,第13条,第16条)
第3―君臣間の上下秩序の強調 (第3条,第12条,第15条)
  この第3の点に憲法17条作成の目的がある。 一方的に臣下の忠誠ないし従属を強調し,君の側の対応については殆ど言及していない。 これも首皇子の将来を考えた不比等の深謀遠慮であろう。

■ 聖徳太子の薨去と恵慈
日本書紀では,聖徳太子は推古29年(621年)の2月5日に亡くなったことになっている。 薨去の記事の哀切の情に満ちた文章が『仏所行讃』や『仏本行経』などの釈迦の涅槃を元に叙述されたことは田村圓澄氏によって明らかにされている。 むろんその筆者も道慈と考えてよい。

日本書紀は聖徳太子の師として恵慈という高句麗の僧侶が登場する。 推古3年に来日し,推古23年に帰国したと記録している。 帰国後太子の死を悼んで,自分も来年の2月5日に死に,浄土で聖徳太子に会って再びこの世に戻って衆生をヘ化したい(これは弥勒下生の信仰といえる)といい,本当にその日に死んだとある。 『弥勒下生経』を日本にもたらしたのも道慈である。 

聖徳太子の死を知った恵慈が斎を設け,浄土での再会を誓願した言葉の中で,聖徳太子を「玄(はるか)なる聖(ひじり)の徳(いきおい)を以って,日本の国に生(あ)れませり<以玄聖之徳、生日本之国>」と言っている。 この玄徳,玄聖はそれぞれ老子と荘子の言葉であり,道慈が長屋王の興を引くために仕組んだものに違いない。 聖徳太子の呼称の原点がこの「玄」にあると考えられているのだから,軽視できない。

そして,道慈の尊敬する玄奘が亡くなったのが麟コ元年(664年)の2月5日なのである。 この年は白村江の戦いの翌年であるから,これまで彼の死が日本には伝わらなかったのであろう。

■ <聖徳太子>の誕生した時期
政界の最高実力者藤原不比等の強い希望は,25歳で死んだ文武天皇(軽皇子)の子,首(おびと)皇子を天皇にすることであった。 首皇子は不比等の娘,宮子が生んだ唯一の遺児<のちに即位して聖武天皇>である。 不比等が当時僅か7歳の首皇子の代わりにつなぎ役として慶雲4年(707年),強引に天皇位に就けたのが亡き草壁皇子の夫人,首皇子の祖母である元明天皇であった。 これは軽皇子とその祖母持統天皇の範に倣ったものであろうが,元明天皇自身は,首皇子の即位をさほど望んではいなかった。 天武天皇の長子たる高市皇子の子,長屋王も自身の即位を諦めたわけではなく,少なくとも彼の子,膳夫王の即位は期待していたであろう。 不比等と長屋王の間の亀裂は次第に深まった。 元明天皇はむしろ娘婿に当る長屋王と親しく,「長屋王木簡」によって明らかになった通り,長屋王一族と家政が融合しているほどの関係にあった。  

元明天皇は不比等と長屋王の間の確執の狭間で疲れ切った結果,首皇子が元服した年の翌年の和銅8年(715年)9月に,長屋王の支持に基づき,娘の氷高内親王(=長屋王の義姉,首皇子にとっては伯母)に譲位する。 即ち元正天皇である。 その年,年号は霊亀元年と改められた。 日本書紀が編纂され,<聖徳太子>が誕生したのはこの元正朝であった。  不比等が皇太子制の存在を書き込ませたのは,孫の皇太子首の擁立に向けたものであった。 不比等は霊亀2年(716年),自分と県犬養橘三千代との間に生まれた光明子を首皇子の妃とすることにも成功していた。 天皇家と血を共有化して,天皇の権力を形骸化しつつ,藤原氏政権永続化の布石を敷いたといえる。

■ 長屋王の変
日本書紀が完成した養老4年(720年)に藤原不比等が亡くなり,ナンバー2であった長屋王が翌年右大臣に昇進して本格的な長屋王政権が始まる。  しかし養老5年(721年)に依り処であった元明太上天皇が亡くなると,長屋王政権は急速に崩壊し,養老8年(724年)元正天皇は退位し,不比等の嫡子武智麻呂の擁する首皇子が即位し,聖武天皇となる。 権力は武智麻呂と光明子の手に移った。 

神亀4年(727年)光明子が生んだ基王は翌年あつけなく亡くなり,光明子は悲嘆に暮れ,皇嗣を失った武智麻呂は,多くの子孫に恵まれた長屋王に対する警戒心と嫉妬から,神亀6年(729年)2月10日,謀反を理由に長屋王邸を兵で取り囲む。 2月12日,長屋王は自尽し,妻の吉備内親王(元正の妹)とその子たちも自経した。 無論謀反の事実はなく,全て武智麻呂らの謀略である。 

■ 武智麻呂政権
武智麻呂政権は長屋王の亡霊に怯えつつ,神亀6年(729年)8月に天平と改元し, 光明子を皇后にした(光明皇后)。 皇后は即位も可能な地位であり,本来皇族出身の女性に限られるので,これは異例の立后である。

同時に,光明皇后の仏教思想への傾斜が目立つ。 天平2年(730年),光明皇后は皇后宮職に施薬院を置いた。 天平3年(731年),行基に従う優婆塞(在家の男の信者)と優婆夷(在家の女の信者)のうち,男は61歳以上,女は55歳以上の出家を許可している。 行基は養老元年(717年)の詔で 「小僧行基」と罵られ,民間で行っていた布教行為が僧尼令違反とされ責められていたが,ここに国家の公認を得たのである。

■ 災異の発生
その後,諸国と藤原氏政権に様々な災異が連続する。
  • 天平4年(732年) 春から夏にかけて雨が降らなかった。 8月大風雨があった。
  • 天平5年(733年) 光明皇后の生母橘三千代が亡くなり,皇后は病の床に伏した。
    『続日本紀』は 「是の年,左右京と諸国と,飢え疫(えやみ)する者(ひと)衆(おお)し」と記録している。
    『法隆寺資財帳』によると,同年光明皇后から様々の物品が個人的に施入されている。 
  • 天平6年(734年) 大地震が発生した。
  • 天平7年(735年) 5月23日の詔勅で 「廻者(このころ),災異頻りに興りて咎徴仍見る(きゅうちょうなおあらわる)。 戦々兢々として責め予にあり」 と言って,またもや天下に大赦し,翌日には宮中及び大安・薬師・元興・興福の四寺てで,大般若経を転読させている。 
    同年,太宰管内から疫病の流行が始まり,たちまち都に達する。 新田部親王がなくなり,弔問した舎人親王も亡くなる。 「是の歳,年頗る稔らず。 夏より冬に至るまで,天下豌豆瘡を患う。 夭くして死ぬる者多し」 と伝えている。
  • 天平9年(737年) 藤原房前,藤原麻呂,藤原武智麻呂,藤原宇合 相次いで疫病で没する。

■ 光明皇后の願い
夢殿を中心とする一郭を法隆寺東院という。
荒れ果てた上宮王院(斑鳩宮)を見て流涕感歎した行信が,阿倍内親王(光明皇后の皇女,のちに即位して孝謙天皇となる)に奏聞し,天平11年(739年)4月藤原房前に命じて,東院を造ったとされている。 『東院資財帳』には,行信が,いわゆる聖徳太子遺愛の品を大量にどこからか探し求めてきて奉納したことが記されている。 藤原房前はこの時既に亡くなっているから,その名前だけを行信が利用したもの。 行信という僧の実像は必ずしも明らかではないが,光明皇后と法隆寺の間に立って仲介をした人物である。

天平7年(735年)12月20日,阿倍内親王が『聖徳尊霊及び今見の天朝』のために法華経を講読し,翌天平8年(736年)2月22日,令旨を被り,行信が皇后宮職の安宿部真人らを率いて,道慈以下三百余人の僧尼を請じて法華経講読の法会を行ったことが記されている。 この日光明皇后が多大の施入を行っている。 苦境に陥った光明皇后と武智麻呂が頼んだのは聖徳太子であった。 そしてその背後にいるのは偉大な父不比等である。 

なぜ2月22日なのか。 12月20日からの準備期間を考慮し2月になったのであろうが,2月12日は長屋王が自尽した日という,血塗られた記憶も生々しい日であるから,それよりも後という観点から22日が選択されたと推定して間違いない。

ここにおいて聖徳太子は藤原氏,なかんずく光明皇后の守護神となった。 しかし,不都合な点は,聖徳太子像の中には長屋王好みの道教思想が少なからず含まれていることである。 ここに聖徳太子が変容し法隆寺系史料が成立する理由があった。

■ 法隆寺系史料の成立
聖徳太子変容の起点は翌天平8年(736年)2月22日の講会である。 亡くなった時の年齢も48歳というより,49歳のほうが仏教的である,という観点から,薨日は『日本書紀』の推古29年(621年)2月5日から推古30年(622年)2月22日に変更された。

光明皇后と行信が考えていたのは,聖徳太子の神格化,聖徳太子信仰の完成であった。 夢殿はそのために造られたのである。 この東院の復興は聖徳太子の廟堂の建設であった。 

中国南北朝以降,特定人物の等身像を作ることは珍しいことではなかった。 これが大きく変わるの唐の玄宗の時である。 天宝三載(744年),玄宗は自分の等身大の像を作らせ,長安・洛陽及び諸郡の開元観(道教の寺)・開元寺に安置し,人々に崇拝させた。 日本の天平勝宝4年(752年)に派遣された遣唐使によって玄宗朝の文化が大量に伝えられた。 玄宗等身像のことも紹介されたであろう。 光明皇后と行信はその発想を模倣し,夢殿の本尊,救世観音を「上宮王等身」と称したのではなかろうか。

法隆寺系史料中の傑作,天寿国繍張はその成立時期は記録されていないが,銘文によると,太子の死後に残された若き妃の多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)が太子が往生した天寿国に思いを馳せ,それを推古に依頼して刺繍にしてもらうというものである。 多至波奈大女郎は他の文献には見えなくて,架空の存在と思われる。 思うに,光明皇后は,聖徳太子信仰の総仕上げとして,太子の若き妃を創造し,彼女を通して聖徳太子への思慕の情を表現しようとしたのではなかろうか。 多至波奈は橘で,亡き母の姓に由来するとも言えそうである。 天寿国繍張は,兄弟である藤原四卿を失った孤独の権力者光明皇后の情念の産物である。

系図(1)―天皇家と藤原氏―を参照


  •  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  • 天平12年(740年)9月,藤原広博の乱。 天皇東国へ避難。 12月,恭仁京へ幸す。
  • 天平13年(741年)3月,国分寺・国分尼寺の造営発願(恭仁京)
  • 天平15年(743年)10月,盧舎那大仏造立を発願(紫香楽京)
  • 天平17年(745年)5月,平城京に還る。
  • 天平19年(747年)4月,『法隆寺資財帳』作成。 『三経義疏』出現。
  • 天平20年(748年)4月,元正太上天皇崩。 7月,聖武譲位 阿倍内親王即位。
  • 天平勝宝元年(749年)10月,東大寺大仏完成。
  • 天平勝宝6年(754年)1月,遣唐使大伴古麻呂ら帰国。 鑑真らを伴う。
  • 天平勝宝8年(756年)5月,聖武太上天皇崩。
  • 天平宝字4年(760年)6月,光明子<大宝元年(701年)生>没。

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☆ 日韓大討論−金王燮・西尾幹二」 を読む<2003.11.27>

発行:扶桑社(2003年5月)

これは題記両氏の対談の記録である。 以下では,多少の無理はあるが,興味あるテーマを選択して両氏の発言・主張などを併記する形式で,敢えてまとめてみた。

金王燮<キム・ワンソプ>(1963〜 ) 1982ソウル大学物理学部入学。
作家。 評論家。 高校時代光州民主化運動で市民軍参加。 1995年処女作「娼婦論」(日本文芸社)がベストセラーに。 2002年評論集「親日派のための弁明」 (韓国:春秋社,日本語訳:草思社)。
  韓国のタブーに挑戦した「親日派のための弁明」は公的機関の刊行物倫理委員会により青少年有害図書に指定され,著者自身の運営するウェブサイトは閉鎖され,閔姫の後裔から名誉毀損として告訴され,又警察からは外患誘致扇動罪などで告訴され拘束も受け,出国停止処分を受けた。 読者の反応は99%が罵倒・非難であったという。 身辺の危険も予想されるため,著者は第三国への政治的亡命も視野に入れていたが,最近はテレビにもよく出演し,ウェブサイトも再び開設して運営しているとのこと。

※ 「親日派のための弁明」の主張の核心
「日本支配の寄与を高く評価すべきなのは,彼等が朝鮮半島に社会的間接資本を導入し工場をつくって人々を開化させたからではない。 もしわれわれ自身が立憲君主国をつくり,長い歳月をかけて自力で近代化を試みたとしても,当時の朝鮮の文化,社会制度,理念といった精神的な装置(儒教原理主義など)は頑固で,自分たちの力では壊せなかっただろう。 日本という異民族の統治を受けたがゆえに,かくも短期間に前近代的な要素を徹底して破壊し,そのうえに新しい社会を移植することができたのだ」


西尾幹二(1935〜 ) 東京大学文学部独文科卒業,同大学大学院文学修士。 文学博士。 新しい教科書をつくる会会長。 著書:国民の歴史(扶桑社),その他多数。


第1章 歴史に正しい光りを

● 朝鮮を舞台に戦われた日清戦争(1894-95)と日本軍
西尾―金王燮さんは韓国の偏狭なナショナリズム,国際社会では通用しない子供っぽい民族感情に立腹されている。 日本での講演などで話された中で,素朴に日本人としてありがたいと思ったことの一つは日清戦争(中国・韓国では“甲午戦争”と呼称)の時の日本軍と清軍の差についてです。

金―当時の朝鮮の学者の書いた本に両軍の違いが克明に描かれています。 南の全羅道の戦闘で日本軍に敗れた清軍が退却するとき,村々を略奪し女性を凌辱したので,清軍が通った村には何も残っていませんでした。 それが大陸での戦争の普通の状況だったのです。 一方日本軍は食料を持参し,略奪や陵辱は全く行わなかったので「日本軍はおかしな軍隊だ」と書いてありました。

西尾―武器の開発と国民であることの自覚が強さの原因でした。

金―日本は明治維新で国家が統一されて強い軍隊が生まれたのが勝因だと思います。


● 第二次大戦後連合国側が勝手に韓国を独立させたのは国際法違反
西尾―金王燮さんが「草思」(2002年9月号)に,第二次大戦の戦勝国による差別的な領土分断について書いている部分は注目に値します。 <戦後朝鮮の処理問題において更に重要な点は,日本が1868年以降に取得した領土を没収することに連合国が合意したことである。 ・・・・ドイツが戦争直前の国境線に回帰したことと比較すれば,日本に対してはきわめて差別的な措置を採ったことが分る。 国際的な戦後処理の慣例から大きくはずれている>とお書きになった。 満州に関しては国際連盟がその正当性を認めていなかったので仕方ないが,それ以前の国際的な承認を経た沖縄,台湾,サハリン,朝鮮,千島列島,南洋諸島(ミクロネシア)を日本から分断させるという発想自体が正当性に欠けると主張されています。

金―戦後の日韓国交樹立交渉のとき久保田貫一日本側代表は「1945年米軍が在韓日本人の財産を没収して60万人の在韓日本人を追い返し,日本と何の相談もせずに対日講和条約締結前に韓国を独立させたことは国際法違反である」と主張しています。 私は小さい頃,韓国もドイツも分断されているのに何故日本は分断されていないのかと不満に思ったことがあります。

西尾―日本の場合,ソ連が北から入って来て北海道が南北分断される可能性にさらされていました。 しかし米国大統領トルーマンが交換条件として,シベリアにいた日本人約80万人を強制労働につかせることをスターリンに認めてサインしたのです。


● 帝国軍人になりたかった朝鮮人
西尾―「新しい教科書をつくる会」第21回シンポジウムで金王燮さんが「日本軍人になりたかった朝鮮人がいかに多かったか」について具体的な数字を挙げて発言されました。

金―杉本幹夫氏が『「植民地朝鮮」の研究』(展転社)で書かれているが,1938(昭和13)年,406人の志願兵募集に応募数は2946人(7.3倍),1943(昭和18)年には,6300人に対して30万人余(47.6倍)が応募しています。 朝鮮でも台湾でも,最も優秀な人材だけが日本帝国軍人になりました。 なれなかった人は血書を書いて訴えたほどでした。 私は初めてこの数字を見たときに非常に驚きました。


● 南北朝鮮が戦勝国のように振舞うのは誤り
西尾―金王燮さんは同シンポジウムにおいてこう述べられています。 「朝鮮人は日本人と同じ敵を敵として戦った。 しかるに戦後,この現実を忘れたふりをして,戦勝国であるかのように振舞った。 日本と独立戦争をして独立を勝ち取ったごとく言い出し,歴史教科書にもそう書き始めた。 これは明らかなウソである」

「1938年にドイツはオーストリアに侵攻し併合した。 両国は一緒に同じ敵を敵として戦った。 戦後オーストリアは独立したが,ドイツに対しては戦勝国としては振舞わなかった。 しかし,南北朝鮮はいまも日本に対してに戦勝国のように振舞っている。 これはどう考えても変な話である。 義理を欠く行為である。 戦後の日韓関係のすべての間違いはここから始まる」と書かれています。

日本にも同じように忘れられたことが多数あります。 日本の若い人たちも,戦争中の日本は今の北朝鮮のように抑圧されて,何の自由もなかった残酷な社会だと思っています。 ・・・・ですから平等や民主主義はアメリカが戦後与えたものでは必ずしもないのです。


金―私も,歴史認識や日本および日本人の印象が間違っていたことが分って以降は,努力していつもその時代の生活がどうだったか,その時代の認識がどうだったか,ということを正確に理解しようとしました。


● 戦後世代が教育をゆがめる日本/一方的に被害者としてしか教育されない韓国
西尾―金王燮さんは映画「戦場にかける橋(The River on the Kuwai)」に出てくる,白人捕虜を苦しめた日本人は,実は朝鮮出身兵だった。 彼等は好んで白人を迫害したと指摘しています。
「朝鮮出身兵は,中国でも東南アジアでも日本兵よりも戦争の使命に忠実に戦った。 こういったことは韓国ではいっさい教えられていない。 昔の韓国人はまだ口伝えで知っていたが,1970年ぐらいからこっち,若い人たちは・・・・むしろ事実と逆のことをしきりに教えられている」とシンポジウムで講演されました。

日本もそれと同じで,アメリカは,占領時代に日本にいろいろなことを禁止しましたが,私たちの世代までの日本人は昔の状況を知っていますから,,どうせアメリカの政治的思惑が込められているので,半分はアメリカの意向に合わせたウソだと思いがら教育されてきました。 日本の歴史教育がおかしくなったのは1985(昭和60)年ぐらいからで,戦後世代が教壇で多数を占めるようになってからです。


金―韓国の歴史教育では,朝鮮民族が日本に同化したということを教えていません。 日本人は朝鮮人を「いじめ,苦しめ,殺した」とだけ教えられています。 韓国の若い世代は一方的な歴史観を注入されています。 私は洗脳教育という用語を使います。 韓国人は日本に関する限り,他の理論には一生接する機会さえないのです。 教師は学者に学び,学生は教師に学びます。 ですが,学者,教師自体が他の理論に接することができず,考えて見ることさえ出来なかったのです。 韓国の反日洗脳教育は,何か思想的な傾向や立場があって進められたのではありません。 彼等自身はただ当然の話を伝えているつもりのでしょう。 そのため韓国では,取り敢えず,他の解釈もあるという事実を知らせることが急がれます。 ・・・・私は大きな責任を感じています。


● 「日韓の歴史認識は一致するか」
西尾―先ほどの「つくる会」の金王燮さんを招いてのシンポジウムで,冒頭司会者は「日韓の歴史認識は一致するかしないか」をバネリスト全員に出しました。 金さんだけがイエスと答え,他の人たちは全員ノーでした。 バネリストの一人,鄭大均(チョンデギュン)都立大学教授は,日本人にとってのヒーローと韓国人にとってのヒーローは相容れない。 豊臣秀吉と安重根はどうしても相容れない,と発言しました。

※<読者注=安重根(1879〜1910):啓蒙派の民族主義者。 1909年ハルピン駅頭で伊藤博文を暗殺。 韓国では安重根義士として称えられている。>

金―豊臣秀吉は16世紀の人で安重根とは三百年の時間的開きがあります。 ヒューマニズムという概念が生またのはフランス革命後です。 近代精神の登場以前には,ほかの国の侵略者が自国のヒーローになるという考え方もあります。 豊臣秀吉と安重根は性格が違うので,比較はできないと思います。



第2章 検証・日韓併合

● 日韓併合の持つ意味
西尾―日本では,戦後の政界も教育界も,日韓併合の歴史に対して韓国が感情的に反発するのにどう対応するかにばかり神経をすり減らしてきました。

私は日韓併合については否定論者です。 日本は何も得をしなかった,お金がかかりすぎて損ばかりした,ということです。 1910年から1945年まで当時のお金で20億8000万円を持ち出しています。 一円を現在の三万円に相当するとして,63兆円になります。 併合前の朝鮮は(国家)予算の編成能力もない状態でした。 1906年の歳入を見ると748万円しかありません。 予算を組むには三千万円以上必要だったので,差額は日本からの持ち出しになりました。 当時はまだ保護国でしたが,併合後も同じ状態だったのです。 1910年に合邦した時,この年の持ち出し額は二千五百万円でした。 またこの年,予算とは別に,明治天皇から臨時の恩賜金三千万円が出ました。  下賜金は王侯貴族にも分配されましたが,職業訓練や,心身障害者や貧者への救済基金など福祉に使われています。

日本は地政学上,ロシアに対抗するためには,どうしても朝鮮半島をコントロールする必要がありましたが,ロシアの先手を打って制圧する必要はあっても,乏しい国力を割いてまで併合する必要はなかったのです。 中華冊封体制の中にいた朝鮮は,体制の外にいた「東夷の国」日本に対して無言の優越感がありました。 非常に難しい相手だったのです。

私は日本が善意の押しつけをせず,通常の宗主国と植民地との関係,西欧諸国がアジア・アフリカ諸国に対処したと同じように保護国扱いに徹すべきであったと考えるのです。 当時の官僚は,日朝同祖論を基礎に,内地人と同じ扱い,地位を与えるのは欧米式の植民地とは全く趣を異にするものだと自慢しています。 朝鮮人との結婚を奨励し,台湾人が羨むくらい特別扱いをしようとしました。 これははっきり言って親切の押し売りです。 保護国にしておれば時期が来れば関係は一旦切れます。 併合ということになれば期限が無期限になるとともに,ブーメラン現象,「日本の韓国化」が起こる。 戦後五十年,教科書問題で,韓国が日本の内政干渉を堂々と,なんのためらいもなく行って日本が抵抗できないのはブーメラン現象です。


金―朝鮮半島は帝国主義時代の植民地としてはまったく魅力に乏しいところでした。 台湾のような外貨獲得用のサトウキビも育成できず,地下資源もなく,土地は痩せていました。 朝鮮半島は日本が大陸に進出るための戦略的な地域,前哨基地だったわけです。

日本は朝鮮を植民地としてではなく,新しく拡大された日本の一部と考えたので,莫大な投資も惜しまなかったのでしょう。 人口調査,土地調査が開始され,治山治水,潅漑設備を整えて農業の生産性を向上させ,工業施設を整備し,教育を普及させ水準を向上させました。 また,官僚制度,司法制度を導入し,道路,鉄道,港湾,電力設備などいわゆるインフラの整備が行われました。 これは「朝鮮を食べる」という意図に基づいたものではなくて,「ここは日本だ」と考えたからこそ可能になったものだと思います。 台湾は1905年以降財政的に自立しましたが,朝鮮の場合,合併後36年経過してもなお財政的に自立できませんでした。 日本は財政問題以外でもさまざまな犠牲を払わなければなりませんでした。 例えば,教師,官僚,エンジニアなど日本でも最高水準のエリートたちが大挙朝鮮に投入されました。 また朝鮮産の農作物に対して無関税で市場を開き,また多くの朝鮮人が不況時の日本へ来て仕事を奪いましたが,日本側で積極的に制止したケースは特にないと思われます。 朝鮮の立場から見ると,合併は大きな宝くじに当ったと同じことでした。

日本は日露戦争(1904-1905)で戦費がかさみ,財政状態は非常に悪化していました。 第一次大戦(1914-1918)のとき貿易黒字が出て1920年代には経済が改善されました。 朝鮮を併合した1910年頃は日本は財政赤字で最も大変なときだったわけです。



● 日本の登場で儒教社会の呪縛から脱出
西尾―金王燮さんは「親日派のための弁明」の中でこう書いておられます。 「日本支配の寄与を高く評価すべきなのは,彼等が朝鮮半島に社会的間接資本を導入し工場をつくって人々を開化させたからではない。 もしわれわれ自身が立憲君主国をつくり,長い歳月をかけて自力で近代化を試みたとしても,当時の朝鮮の文化,社会制度,理念といった精神的な装置(儒教原理主義など)は頑固で,自分たちの力では壊せなかっただろう。 日本という異民族の統治を受けたがゆえに,かくも短期間に前近代的な要素を徹底して破壊し,そのうえに新しい社会を移植することができたのだ」>BR>
日本の戦後社会も,アメリカ占領軍による破壊がかり役立った面があります。 それに反して旧ソ連圏は勝敗が明瞭でなく徹底した破壊が行われませんでした。 そのために,旧社会主義社会はなかなか自己改革ができず,今日の停滞が続いています。 ただ,破壊は別のマイナス面も生んでいます。 それは文化が変わったことです。 今の日本がダメになった精神面の原因の一つです。


金―朝鮮のような社会を改革することは本当に大変でした。 当時の儒教思想は外国の人には分らない根本主義のようなものがあって,イスラム教よりもずっと細かく統制されていて,食事の作法,坐る姿勢から始まって,歩き方,祭祀,国の制度に至るまで儒教によって規定されているのです。 それほど固陋な儒教の社会に入り込んだのですから,日本も大変だったと思います。 今の基準からすれば,多少強引なところはあったでしょうが,当時の時代状況からすれば,日本は大変礼儀正しく人本主義に立った統治をしたと言えます。

儒教社会の大変さは,例えば朝鮮の両班<ヤンバン>は仕事をしないことに発します。 両班がすることは法事(祭祀)です。 両班の家では十二代〜二十代前の先祖まで命日にお祈りします。 直系の家族だけでなく,親戚たちも集まります。 法事をする前には,その家の女性たちが予め集まって,服や料理を準備し,法事のやり方について討論をして決めます。 両班の階級の人たちはそれを一年中るわけです。 もともと両班は一,二割だったのが,19世紀になって七割に増えました。 人々ハ両班になりたかったのでお金を出して族譜を買ったからです。 両班は仕事をしてはいけないので,その結果七割は仕事をしなくなり,社会は維持できなくなりました。 これが李朝末期です。 両班は軍隊に行かず,税金を出さない,そのため軍隊も維持できず,政府のお金もくなりました。 いま韓国人の九割は両班だと言います。 みんな両班の族譜を持っていますから。 でもその八割はニセモノです。

李朝末期の朝鮮は中味は何もなかったので,徹底的に破壊されればされるほどよかったわけです。 朝鮮総督府の報告を見ると「儒教との戦争をしているのではないか」と言っています。 朝鮮総督府が景福宮を隠すように建てられた理由を考えてみると,朝鮮王朝から韓国人を隔離し,韓国から過去を断絶させたかったのでしょう。


※<読者注=朝鮮総督府の建物は戦後も永く国立博物館として利用されたが,金泳三政権のとき取り壊された>   


● 建前と本音のバランスをとる安全装置なし
西尾―朝鮮社会の儒教至上主義を「衛正斥邪」というそうですね。 「正」は儒教です。 儒教中心の文明に従わない民族を「邪」と言うようです。

明治維新,日本は指導層を取り替えました。 しかし,中国と韓国は今までの指導層を強めるやり方で危機を乗り越えようとしました。 体制の勢いが下り坂であるときは,これは悪い選択になります。 日本にもそのころ尊皇攘夷が吹き荒れましたが,日本の尊皇攘夷はだらしない,いい加減な思想で,時間が経つうちに,何時の間にか尊王開国になりました。 また,日本の幕府と朝廷,将軍と天皇の二人の権力者がいるという矛盾した構造は安全弁でした。 ある政権では天皇をたて,ある政権では天皇を無視しました。 中国史の王朝交替を見ると,口先で「禅譲」を言って実際は「放伐」でした。 中国で王朝が次々とひっくり返って交替するのを,私は,中国史の中のガス抜きだと思っています。 中国も実利のためにはあまり原則にこだわらない。 ところが朝鮮だけは歴史的にそういう柔軟さがない,つまり安全装置がない。 ものすごい原則主義です。 結果として王朝は長く続き,本家中国よりもより儒教的になりました。 これは北朝鮮が共産中国よりも共産主義的になったのと似ています。 


金―いわば原理主義ですね。 朝鮮に思想が入って来ると,それを徹底的に発展させます。 例えば,キリスト教も,全世界でいちばん熱心な信者が多いのは韓国です。 世界十大教会のうち七つが韓国にあります。 いまや,世界のどこにもないような,韓国だけに存在するような派が多いのも特徴です。



第3章 日韓の歴史と文明

● 朝鮮のルーツはどこか
西尾―どの民族にも愛国心があります。 韓国の愛国心はいささか強過ぎるが,と言いましたら,金さんは驚くべき見解を披露しました。 日本はアイデンティティがはっきりしているが,朝鮮ははっきりしていない。 だから不安が根底にあり,それがある感情を生む,と。

金―今の北朝鮮や戦時中のナチスのように,全体主義になればなるほど,表面的に出てくるアイデンティティは強く見えます。 そういう類のアイデンティティは体制が変わればすぐになくなるものです。 韓国にも北朝鮮に類似した部分が多いと思いますが,韓国人は独立以降,閉鎖的な社会に生きてきました。 政権が民族主義を根付かせるために強烈でアピールしやすい思想やスローガンを唱えてきました。 反共思想,反日思想,五千年の歴史を持つ単一民族だ,というのは全部それです。

五千年の歴史というのは真っ赤なウソです。  私は実は,韓国のアイデンティティはないと思っています。 いまあるものは新しい理論が出たら,あとかたもなく消えてしまう煙のようなものです。 朝鮮という一つのアイデンティティが形成されたとは思いません。 朝鮮の民族は系統的にみると,満州族・女真族と同じです。 大陸の農耕民族とは違います。


西尾―東北アジアの広い領域,満州から山東省にいたる広い地域は朝鮮だった,偉大な帝国だったという思想をお持ちなんでしょうか。 昔は東北アジアを全部支配していたんだということでしょうか。

金―「朝鮮」という名前は李氏朝鮮のイメージが強いのですが,古代の朝鮮は影響力の大きな国だったと思います。 「入朝」,「朝貢」という言葉がそれを示していると思います。 古来,文献的な歴史では,韓国人はアイデンティティを中国に置いてきました。 人種的な歴史ではそれと違って,女真族が朝鮮族だと思っています。 女真と朝鮮は発音が同じでした。 朝鮮半島に入って来た人たち(支配層)は大陸から来た勢力なので,女真族,満州族と分離してしまいました。 ですから,朝鮮王朝は女真族とは違います。

西尾―韓国の歴史を遡っていく形で見ていくと,1392年李氏朝鮮が成立,936年に,のちに元の支配を非常に強く受けた高麗が朝鮮を統一,676年以降新羅が半島を統一しています。 これは唐の影響を強く受けています。 それ以前は高句麗,百済,新羅の三国鼎立の時代です。 さらにそれ以前には朝鮮の南に辰韓,弁韓,馬韓という三韓時代があり,北のほうでは楽浪郡と高句麗が対決しています。  そのほか,神話に近くなりますが,衛子朝鮮,箕氏朝鮮さらに檀君神話という系譜が通説として信じられていますね。 現存する朝鮮最古の歴史書は1145年,金富軾が書いた『三国史記』です。

金―1995年にKBSテレビで三年間日本と中国まで取材して製作された百済に関するドキュメンタリーが放映されました。 非常に衝撃だったことは,中国の歴史書に残っている百済の領土を調べたところ,北京地方(山東地方)も百済の領土であったし,広東省も百済の土地であったということを中国の学者もみんな知っていました。 広東省に百済郷という地名が残っています。 百済は,中国,台湾,フィリピン,東南アジアにいたる海岸連邦国として存在していたというのが放映の内容でした。

百済は滅亡したとき,人口350万人でした。 『三国史記』に載っている戸数78万戸に五人を掛けると350〜400万人になります。 朝鮮半島にも支配地域はあったにせよ,首都は今の北京の近くだったと思います。 李氏朝鮮初期の人口は百万人に満たないのに,その800年前にあった国で,朝鮮半島の面積の6分の1にも満たない領域に四百万人が住むことはできない。 当然半島の外で大きく広がっていたとしか考えられません。 『三国史記』を見ると,新羅が統一してからの全体の人口は千五百万人ぐらいと推定されますが,すると新羅もまた非常に大きな国であったと考えられます。 新羅は唐の一部だったと見るべきでしょう。


西尾―百済,新羅,高句麗は朝鮮半島が主舞台ではなく,三国とも大陸の国であり,首都も大陸にあったという説が韓国では一般に信じられているということですね。 しかし今までの学説では百済は馬韓伯済国が百済に変わったと考えられていて,その証拠に初期の古墳がソウル市の南部でたくさん見つかっていると私は読みました。 これは百済の首都がそのあたりにあったことになりませんか。 それから話は別ですが,日本のルーツについても,韓国ではいろいろな論議があると聞いています。 天上から地上に降りてきた神様は南朝鮮から渡って来た人たちで,これが日本の皇室の祖先<注>につながるというものです。

※<読者注=参考書:『日本人はビックリ 韓国人の日本偽史』(野平俊水)小学館文庫 を参照>

金―朝鮮は今の台湾と同じ状況だったと思われます。 李氏朝鮮初期,その前に王朝はなかったが,そこに暮していた住民はいました。 それが女真族と同じ民族です。 突然,大陸で高麗が滅びて,高麗の人たちが王朝をつくって朝鮮半島に来て,その支配層になりました。 その結果「わたしたちも中国だ」というアイデンティティを植え付けたのです。 ・・・・従って韓国人が自分たちの想像力で補うことができるのは李朝五百年間と日帝三十六年です。 三十六年は短いけれど受けた影響は大きいです。 

西尾―韓国の教科書は非常に強い民族統一性と歴史の伝統的古さを強調し,日本を見下げて,しきりに日本に文化を教えてやったと書いています。 そのこととアイデンティティが五百年しか確かめられない不安とはどこでどうつながっているのでしょうか。 不安だから強引に言いたがるのでしょうか。

金―その通りです。 自分たちのアイデンティティが不安だから,わざと強い民族意識を誇張する歴史教育をしています。 韓国の古代社会のアイデンティティも,近代社会のアイデンティティも,どちらもニセモノです。 アイデンティティの不安については,韓国国民でも正直な人は,知識人でも暗黙のうちに意識していると思います。


● 仮名文字とハングル
西尾―日本の漢字には二通りの読み方,中国音での読みと日本音での読み(訓読み)があります。 訓読みは韓国の「吏讀」からヒントを得たものだと言われていますが,韓国では発達しませんでした。 日本の場合は,7〜9世紀頃までにつくりあげた,日本の音をそのまま表現する仮名文字ができて,それと漢字をまぜる漢字仮名混じり文をつくり上げたわけです。 最初は漢語が少なくてぜんぶ仮名(万葉仮名),つまり音だけで表記するものが大半でしたが,時代が下るにつれ漢語が増えてきました。 古代の日本の万葉集では漢語は0.3%ぐらい,それが平安前期になると10%くらいになり,中世になると25%,現代は45%くらい漢語が入っている。 日本は中国文明から離れて独立しているから,いくら漢語が入って来ても日本語が壊れることはないのです。BR>
それで不思議に思っているのですが,韓国がオールハングルにしたのはどうしてでしょうか。 

漢字は同音異義語が多いので,文字を見ないと意味が掴めないことが多いし,漢字を使わないとどんどん言葉や概念が減少し,難しい文章を読まなくなると,呉善花さんも言っています。 「竪穴式石室発掘」をハングルだけで表記したばあい,どれだけ通じるかという調査を韓国語文教育研究会が行ったそうです。 一般人40人を対象としたアンケートを実施しましたが,意味が分った人は一人もいませんでした。 大切な問題は歴史の継承です。 韓国では1945年までは自国の歴史や古文書がすべて漢字で書かれていたわけですね。 文化が断絶する危惧はありませんか。 私自身は四万五千余字の康煕字典に日本語がより多く近づいていくことが必要であり,文化の向上だと思っています。 すべての人間には無限の可能性があります。 おまえは学問をする人,おまえはしない人,と分けてはいけない。 ですから私は日本の子どもたちの漢字教育は四万五千余字の康煕字典に開かれているべきだと再三言うのです。


金―私は日本が海洋国家として発展したのは,地理的に偶然恵まれていたという要因もプラスしているとは思いますが,日本がアジアで飛び抜けた先進国になった理由は仮名文字にあると考えます。 印刷技術の発明は東洋が先でしたが,漢字という文字のために印刷技術を利用できなかったのです。 西洋では,東洋から印刷技術が伝わると,直ぐに知識の大衆化が始まりました。 日本も仮名を持っていたので,有利だったのではないでしょうか。

いま韓国ではほとんど漢字はなくなっています。 ハングルは人工的につくったものです。 朝鮮の王朝ではほとんど使われず,ごく少数の階層だけが使っていました。 朝鮮社会では迫害され,バカな文字だと言われていたのです。 それが合併以降,学校で朝鮮語の教育をしながら,ハングルを教え始めました。 ハングルを使ってみたら楽なので,だんだん漢字がなくなっていきました。 決定的なきっかけは,コンピューターの普及です。 コンピューターを使うのにハングルのほうが速いので,九十年代以降は殆ど漢字は使わなくりました。

漢字は東洋の言語の中でラテン語のような存在だから,小学校でも教えています。 『月刊朝鮮』の趙氏などはもっと漢字を使うべきだと主張しています。 たしかに漢字は象形文字で,見てすぐに理解できるからいいとは思います。 しかし,ハングルは模様として視覚的に把握できる要素が,漢字ほどではないにしても,ある程度あります。 漢字を使わないことで,近代言語の効率性が高まったと思います。 

私は漢字を比較的よく知っているほうですが,それでも漢字がたくさん入っていると不便だと思います。 読むのが大変ですから。 韓国語は日本語よりも発音がずっと多いので,同音異義語は日本のように多くありません。 ですから前後関係で理解できます。 それでも理解しにくい場合にはカッコして漢字も書きますが,それよりも,ほかの簡単な用語に代えるほうがいいのではないでしょうか。 ハングルになって単語数は増えています。 いまは新しい概念が中国や日本からよりもヨーロッパやアメリカから来ていて,概念自体は増えています。



● 民族と文明の発達(日本は昔から大国,ヨーロッパとの相似性など)
西尾―当時の中国の人口が約六千万だというのは予想外に少ないですね。 中国の範囲をどこにするかで変わりますが,人口が一億を越えたのは清朝の時代であったと読んだ記憶があります。 単純な人口の計算は,国力の対比やいろんなことを教えてくれますね。 日本の歴史が封建時代を経過している点でアジアのかで西洋に似ているということを「親日派のための弁明」のなかで書いていらっしゃいますね。 確かに西ヨーロッパと日本列島が不思議なくらいにバラレルな類似の発展の型を示したという一面があります。 日本もヨーロッパもモンゴルの影響を受けませんでした。 ヨーロッパがヨーロッパになったのは十二,三世紀で,日本も同じころ日本という統一意識が生まれました。 中国史や朝鮮史にはなかった型の類似です。 フランスで十二世紀に生まれたコミューンと日本の堺のような自治都市はよく似ていますし,イタリアルネッサンスと日本の戦国時代も似ています。

ただ,私から見ると,朝鮮半島を含む大陸のほうが西洋に似ている面があるとも思います。 たとえば神という概念にしても,儒教でいう天という概念はキリスト教の神の概念,すなわち理法的なアブストラクトな神の概念にむしろ近いのです。 それに対して日本の神の概念はアミニズムで,人間にも自然にもつながるものです。 もう一つ,建物の建て方です。 朝鮮半島では,窓を小さくして家を閉ざすでしょう。 中国の庭園は左右がシンメトリカル(対称)で西洋と同じです。 ヨーロッパの城も同様で,窓が小さく閉鎖的で,城壁もつくる。 韓国の街でも昔は城壁で囲ったでしょう。

私は次のように世界史を考えています。 なぜ日本だけが,アジアの他の国と違った行動をしたのか。 ヨーロッパが十六世紀〜十七世紀にかけて,世界に進出したあの時代の話です。 西から東への力の流れに,中国もインドもアフリカも南北アメリカも苦しんだわけですが,日本だけがうまくするりと外へ飛び出しました。 ヨーロッパに似た面があったということと,中華秩序の外にいたという要素もあったからでしょう。

当時の世界を見ると,四つの大きな帝国(ロシアのロマノフ王朝,オスマントルコ,インドのムガール帝国,中国の清)がありました。 ヨーロッパは貧しくて,十四世紀〜十六世紀はペストで苦しみ,生産性も低く,科学技術も低く,絶望的でした。 その結果迷信がはびこり,宗教的にもおかしくなりました。 魔女裁判は十八世紀までありました。 当時は東アジアのほうがずっと合理的で進んでいました。 しかしアジアの三大帝国は瞬く間にヨーロッパ勢力に侵略され,その支配下に繰り入れられます。 この背景をみると,ヨーロッパという一つのパワーが統一意志で侵略してきたのではなく,彼らは内部で戦争ばかりしていて,アジア交易で得た富は戦争をするために使われたのです。 戦争をするエネルギーと戦争をやめて平和を取り結ぶルール,つまりインターナショナルという動きについてもヨーロッパはしたたかでした。 インターナショナルの運動体のまま,内部で争いをしながら,渦をなしてこちらにはみ出してきて,侵略したというのが,十六世紀〜十七世紀以後の動きでしょう。 そういう運動体に対して,トルコ,インド,中国はなすすべがなかった。 これらの大帝国はきわめて自足的で,動的ではなく静的で,運動体ではなくて閉鎖体でした。 外との交流を持たず,外国と貿易をしたがりませんでした。 これは私の仮説ですが,日本はこの三つの帝国に属していなかったことや,武士が支配していたことが救われたポイントだと思います。 一方で,清や李氏朝鮮は文官が支配していたために,ヨーロッパの武力にきちんと対処できなかったのではないかと思うのです。 とくに,清は阿片戦争(1840-1842)でイギリスに敗れても,あれは武官が負けただけだ,中国文明が負けたのではないと,安心していたのです。 朝鮮には阿片戦争のニュースが三年も経ってから入って来るほどに緊張感をまったく欠いたものでした。


金―遠い昔から日本には大陸に匹敵する規模,朝鮮半島全体の十倍に該当する規模の人々が住んでいました。 経済と文化,軍事力も非常に発達していたため,日本を攻撃する勢力は存在しなくなったのです。 17世紀の日本の人口は三千万人で中国の半分です。 韓国(朝鮮半島)の人口は三百万人でした。 最近日本の人口が朝鮮半島の二倍以下に下がったのは,日本が早くに発達し,人口が飽和状態になったためと思われます。 日本はその国土だけを見れば島と言えます。 しかし,人口や国力では,昔から中国やヨーロッパに匹敵する独自の大陸,独自の文明圏として存在してきました。 過去に朝鮮が日本を未開な野蛮人扱いし,自らを日本の上国のように考えて行動してきたのは,明が滅亡した後,朝鮮が小中華として中国文明を継承してきたと考えたためです。 こうした考え方が今日まで伝わってきているため,韓国人は日本という存在を実際より低く評価して認識することになったのです。

私も場合も,日本に来る前は,南北が統一さえすれば日本くらい簡単に制圧でき,統一できなくても十年くらい経てば韓国だけで日本を凌駕する大国になれると思ってきました。 韓国の知識人の間でも,日本に留学したり日本についてよく知っている人々は日本を軽く考えないのですが,反日思想に陶酔した人々は日本を無視することに慣れています。 日本を無視する人々の比率は,知識人グループでは半分以上,一般人では80%以上だと思います。 私自身が認識を改めるきっかけは金容玉という韓国では有名な東洋哲学者のテレビ討論会での『ああ,日本,それこそ超大国でしょう。 その民度や潜在力においても最高水準ですし・・・・・・』という発言でした。 その時私は混乱し,以来日本の存在について悩むことになりました。




第4章 あの戦争をどう考えるか

● 英米によって戦争に引き込まれた日本――金

● アメリカの日本敵視は日露戦争から――西尾

● 日本に避ける道はなかったのか――金

● 日独伊三国同盟が大失敗――西尾

● 日本の暗号解読は簡単――金

● 第二次大戦の底流には人種差別――西尾
西尾―・・・・・・日米大戦の始まる前の1935(昭和10)年に,アメリカの外交官マクマリーが「もし戦争をして日本を敗北させれば,代りにソ連が台頭するだけだ。 極東にも世界にも何の利益もない。 だからやめなさい」とアメリカの大統領に向って戦争に反対したのですが,ルーズベルトから無視されました。 そしてその十年後予言は的中したのでした。 日本が負けると,あっという間に局面は変わり,共産主義は中国大陸,朝鮮半島,そしてベトナムにまで一気に広がりました。 第二次大戦前に日本が関与して苦労した地域に対しては,全域にわたってアメリカがコミットしなければならなくなりました。 だからアメリカの対日政策は間違いの連続であり,錯誤の集積です。 アメリカは自分の言うとおりになる日本を求めていました。 アメリカと対等の力をもってアジアで政策を遂行する日本を許さなかった。 子どもの喧嘩みたいなものですが,勢力争いというのはそういうものかもしれません。 ですから日露戦争が終わってから,すぐに反日感情がアメリカに起こります。 そしてそれは少しづつ強まっていったのです。

1923(大正12)年9月,関東大震災がありました。 当時アメリカはたくさんの物資を運んできて日本を助けてくれました。 援助の期間中,東京湾に停泊していたアメリカの軍艦は海の深さを測り,日本の家が木造で,どうすれば破壊できるか,きちんと研究して帰ったのです。 それが焼夷弾となって,1945年空から降ってきました。 彼等の計画性,徹底性。執念深さです。



● 慰安婦問題は終りにすべきもの
西尾―日本の言論界では「日本軍による強制連行はなかった。 しかも慰安婦というものは古今東西,どこの国にも存在したものであり,今もある」 「公娼制度下の当時の現実では,日本人にも同じ事例はあり,別に韓国人を差別したわけではない」 ということが数々の証拠で,学問的にも明快にされていますが,残念ながら,日本政府が誤ればスムーズにいくと誤解し,韓国に謝罪したために,誤解が誤解を生み,妙にこじれています。

金―韓国の従軍慰安婦たちが,公の場に出るようになったのは90年代で,十年ほど前からです。 元慰安婦たちが集団で生活している地域や活動母体がいくつかできています。 韓国社会のなかには,日本軍人と結婚してやっている人もいるし,お金をたくさん稼いでお金持ちになった人もいます。 そういう人たちは沈黙を守っています。 姿を出して証言をしたり激しい行動に出ている人たちは失敗した慰安婦たちでしょう。 こり人たちは大部分だまされて連れて行かれたと言っていますが,その記録をみると,慰安婦を募集する業者が,両親の借金を返してやって,それを条件に娘を連れて行ったケースが多いのです。 軍隊は慰安婦募集には関与していません。

韓国で女性運動をする団体は,その存在意義を誇示するために,行動したり訴訟も起こさなければなりません。 慰安婦はそのためのいい素材なのです。 そうした女性団体が熱心に,「証言すべきだ」と焚き付けるのです。 朝鮮では昔から両親が自分の子どもの生殺与奪権をもっていました。 家が貧しかったときに,娘を売るのはそんなに珍しいことではありませんでした。 本当に問われるべきなのは彼女たちの両親です。 両親は業者から金を受け取って借金を清算したのに,娘に対しては,挺身隊に行って働くんだと騙したのです。 事実をその通り話すはずがありません。 もし事前に本当のことを話したら,娘が何をするか両親には予想がつきますから。


西尾―ドイツのナチスが管理した慰安婦の場合は,非常に組織的で,合理的なシステムがつくられていました。 衛生管理も行き届いていて,機械工場のような形でした。 しかも東ヨーロッパからの大量の強制連行でした。 これは戦後まったく論じられないできました。 ナチスのホロコーストは巨大な犯罪でしたから慰安婦問題など議論にもらなかったのです。 イタリア・シチリア島のドイツ軍の慰安施設が,アメリカ占領軍にそっくりそのまま,女性も含めて譲り渡されたという記録さえあります。 昔から軍隊と性はつきものでした。 韓国で問題にしたのがきっかけになって,ドイツのフェミニスト運動家たちナチス時代の慰安婦問題を初めて論争の種にしたのです。 しかしほんの二,三年間の話題でした。 ご承知でしょうが,ベトナム戦争のときも韓国軍は約七千人の私生児をベトナムへ残してきています。 もうこういう糾弾はやめにしたほうがいい。 韓国のある歯医者さんから次のような手紙をもらいました。 「わたしは日本の教科書に慰安婦問題を書いてくれと頼んだ覚えはありません。 こんなことを教科書に載せるのは非常識です。 日本は変な国になったんだなアと思いました」 これが普通の良識ある韓国の代表的な意見だと思います。 同じことは当時の盧泰愚大統領の反応にも見られました。 火付け役の中心は朝日新聞です。 ・・・・・・・・・・

金―慰安婦はいい制度だと思っています。 軍隊には必要です。 もし慰安婦がいないとすると,貧乏な軍隊だったら,民間人たちを強姦ることになります。 韓国には米軍がいますが,米軍のいる街ごとに米軍を相手にする売春街ができます。 これは需要があるからです。


● 1945年は韓国にとって不幸のはじまり
西尾―「親日派のための弁明」のなかで,戦後,韓国で反日が高まった一つの要因にアメリカ占領軍の政策があったと書かれています。 種を蒔いていったとあります。

アメリカ政府はソ連と日本が永久に仲が悪くなるように,サンフランシスコ平和条約において,北方領土の境界をはっきりさせませんでした。 アメリカは世界中いたるところで常にそういうことをするのです。


金―1945年以降,政権を取ったのはアメリカの支援を受けた李承晩大統領です。 アメリカは反共を望んでいたので,李承晩は日帝からの独立運動をしてきた人ですから,アメリカの意を受けて反共教育をしましたが,並行して反日教育もしました。 アメリカが反日教育を指示した証拠となる文書は見たことがありません。 ただ,アメリカは東アジアにおいて,日本や韓国,台湾をコントロールしようとしていたのは間違いありません。 アメリカには日本を再興させてはならないという意志がありました。 有色人種を分割して統治する戦略があったのではないでしょうか。 アメリカは韓国から日本人60万人を着の身着のまま追い出して,独立運動家たちを自分たちの代理として韓国を独立させ,日本から分離させたのです。 こうした結果,それまでは日本の統治に感謝し満足して生活していた韓国人全体に,根拠のない反日的雰囲気を醸成させるきつかけになりました。

外国にいた独立運動家が帰国後政治的主権を握るようになったのですが,彼等のなかで,それまで独立運動をきちんとした人はいないと思います。 上海義勇団というグループがいましたが,彼等は一種のルンペンだと言われていました。 彼等が帰ってきて支配層に座ったのが韓国の悲劇です。



● 三・一事件は騒乱事件――金
※<読者注=三・一事件:韓国では独立運動の象徴として3月1日は「三一節」という祝日になっている>

● 本当に戦前は暗黒だったのか――西尾

● 市販の図書が事実を歪曲――金<柳寛順 韓国のジャンヌダルク説はおかしい>

● 義兵の戦いとは何か――西尾

● 何でも日本軍との独立戦争にすり替え――金

● 日本が侵略した結果,併合したと信じ込む/義兵の抵抗が日本との戦闘にすり替る
西尾―韓国の若いエリートの人に「中国本土とは違い,朝鮮半島は日本が侵略したのではない。 合意の上で合法的に併合したのだ」と言うと,「いや,韓国軍と日本軍は戦ったではないですか。 韓国は日本軍と戦争して敗れ,侵略されたのです」と言うのです。 どうもその証拠が義兵のようなのです。

金―学校の教科書でも戦闘したと書いています。 「1907年に韓国軍が解体されて,軍人たちが地方で義兵となって抵抗した」と教えています。 義兵と言うが,暴動が各地で起きました。 1909年までの二年間,日本軍を投入して義兵を討伐したわけです。 「侵略してきた日本軍と戦って,敗れて併合された」というのは誤りです。 合併後はそういうことはありませんでした。 韓国では義兵と言いますが,純粋に日本に抵抗する政治的な目的を持った組織だったかどうか,疑問があります。 全部,武器をもって,略奪した集団でしたから。


● 日本人の追放で韓国は数十年後退
西尾―「親日派のための弁明」や他の媒体でも,金さんは繰り返し戦後,日本人が朝鮮半島から追い出されたことが,大変な損失だった,不幸の始まりだったと述べていらっしゃいますね。<終戦当時,朝鮮には約六十万人の日本人が居住していた。 ・・・・彼等は公務員,教師,警察官,事業家,農民,労働者,技術者であり,その多くが優秀な人材だった。 この支配層の交代によって,朝鮮社会は数十年後退してしまったのである> こういう冷静な分析が韓国人によってなされたということも,非常に珍しいし,瞠目的なことでしょう。

金―アメリカ軍政庁とソ連占領軍によって押収された日本人の財産は,政権の樹立とともに韓国政府と北朝鮮政府に移譲されました。 韓国ではこの財産に敵産という名前をつけて政府の有力者の間で分け合ったのです。 それが韓国の財閥の始まりです。 小さな資産は日本人の下で働いていた韓国人がもつことになり,一挙に金持ちになりましたが,大部分は経営能力がなくて資産を失ってしまいました。 戦後世代は「解放以降に生活が大変だったのだから,日帝時代はそれ以上に貧乏だったのだろう」と考える傾向があります。 しかし実際は日帝時代には工業化が急速に進み,生活水準も向上しました。  植民地経済は1911年から1938年まで年平均3.7%の成長率を示していました。 韓国経済が40年代の水準までに回復したのは70年代末から80年代初ぐらいです。 その間,朝鮮戦争<韓国内の名称:韓国戦争>があったにしても,戦前の水準に回復するのに30年以上かかっています。 日本の場合を見ると,敗戦から七年程度で,朝鮮戦争の特需が大きいのですが,戦前の水準まで回復しています。

2002年の初めに韓国の経済副総理・陳稔氏が,ここ数十年,混乱のなかにある教育制度に言及して「韓国の教育制度はいまだ日帝時代の水準に達することができずにいる」という趣旨の発言をして,波紋を呼びました。 おそらく日帝時代が地獄のようだったに違いない,解放後ははるかによくなったに違いないと勝手に思い込んでいる戦後世代にとっては,陳氏の発言は理解しがたいものだったでしょう。



● 台湾国民党の財政基盤は日本の置いてきた資産――西尾

● 朝鮮戦争は台湾を存亡の危機から救う――金


第5章 教科書のあるべき姿とは

● 「李氏朝鮮は明の属国,周辺は蔑視」と明記せよ――西尾
西尾―韓国の中学の歴史教科書では李氏朝鮮(1392〜1897)建国のくだりを以下のように書いています。
「朝鮮王朝は,明(1368〜1644)との親善関係を維持して国家の安定を図り,女真や日本に対しては交隣政策をとって国際的な平和を維持した」
ここから中国に対する記述と,女真や日本など周辺諸民族に対する記述が微妙に異なっていることが見て取れます。

またこう書いています
「明との外交は朝鮮側がより積極的であった。 朝鮮は朝貢を通して明の名分を立ててやり,使臣の往来を通して,経済的,文化的実利を得た。 しかし後には行き過ぎた親明政策に流れる傾向が現れた」


金―朝鮮が中国の年号を使い,中国の皇帝に臣下の礼をとっていたことはその通りです。 朝鮮の王位に就く際には,中国の許可を得なければなりませんでした。 いわゆる冊封体制で,中国から見れば,地方の首領程度,一つの城の長官レベルだったのでしょう。 ほかのことに対しては干渉しませんでしたが,中国には,たくさん税金をもっていきました。 ソウルの迎恩門に中国から使者が来ると,三頭九叩,三回頭を下げて,膝を九回まげ,額を地につけたまま這っていって礼をしました。 朝鮮の王まで,そうやって迎えたのです。 そういう面からみて,朝鮮は真の独立国とは言えません。 しかし韓国の教科書には,朝鮮が独立国で,朝貢したのは外交関係だとしています。

ただ,朝鮮初期は,明に対して朝鮮は威圧的な姿勢をもっていました。 明を攻撃しようとする計画もたくさんありました。 これは私の考えですが,高麗(936〜1392)は大陸にずっと残っていた伝統性をもった王族だったし,明はそれ以降に建てられた国なので,李氏朝鮮の初期には,明に対して自分の国が上国だという意識をもっていました。 ですから朝鮮では太宗,世宗と,もともと天子だけが使える呼称を使っていたわけです。



● 「皇」にこだわった事実関係ないがしろに――西尾

● 教科書修正要求には韓国内でも批判――金

● 朝鮮独立のために戦い支持した日本の善意には触れず――西尾

● 清からの独立
西尾―日清戦争(1894-1895)で日本が勝利した結果,朝鮮が清国から独立して,大韓帝国が生まれましたが,韓国の教科書にはいっさい書かれていません。 

金―韓国にはいまも独立門があります。 そして徐載弼氏が始めた『独立新聞』もそのときです。 私も実は「親日派のための弁明」を書くまでは,どうしてそのときに独立と言ったのか分りませんでした。 と言うのは,韓国人は清から独立したという認識はないのです。 すでに朝鮮は独立国だったと考えているからです。 日本に抵抗して,独立教会をもつくり,独立門,独立新聞をつくって大韓帝国をつくったと考えていました。 わたしが調べてみると,日清戦争(1894-1895)の前に日本軍が入ってきてクーデターを行い,強制的に韓国を改革しました。 それが大きな維新でしたが,戦争で日本が勝って,そのときに清からも独立できました。 一般に朝鮮の近代化と言えば,1894年以降を指します。 それが日本によって行われたことには触れず,まるで閔妃と朝鮮が自ら行ったように書いています。


● 閔妃殺害事件
西尾―日清戦争(1894-1895)の後,三国干渉をされて,日本が遼東半島を返還します。 一方で,朝鮮は,清からの独立後はロシアに接近する動きが出てきます。 当時,ロシアに接近したみたり,日本に近づいてみたり,朝鮮は非常に揺れます。 そのなかで閔妃殺害事件が起きるわけです。 それは忌まわしい出来事ですが,やはり政治だから,ロシアに接近すると日本は危なくて不安を覚えるし,日本に接近すると清が不安に思うという,隣国からの寄せては返す波の繰り返しだったわけで,半島の悲劇です。

金―閔妃は日本が殺したように言われていますが,当時閔妃を暗殺しようという計画がありました。 開化党の朴泳孝は金玉均の同志で閔妃を殺そうと計画したものの,事前に発覚し,結局彼は日本に逃げました。  日本から,違う人を送って,大院君と三浦公使と計画を練って1895年実行しました。 朴泳孝と大院君と日本,この三者が協力しあって閔妃を除去したわけですが,日本はそこで大きな役割をしたというほどでもありません。 閔妃を殺した義士のなかにも,朝鮮人たちがたくさんいました。

金玉均指導のもとに行われた甲申政変(1884)の直後,閔妃の要請を受けた清国軍が大軍を送って,朝鮮革命軍百余名と日本軍を徹底的に撃破したために,金玉均らは日本に亡命します。 その後金玉均は1893年上海で暗殺されてしまいますが,1894年に大院君主導の甲午革命がなって開化党のメンバーが官職に復帰した延長線上で閔妃殺害事件が起こるわけで,これは一連のものです。 これによつて朝鮮の近代化が大きく前進しました。


※<読者注=閔妃について:雑誌『正論』(2002年9月号)の黒田勝弘氏(産経新聞ソウル支局長)の金王燮氏へのインタビューのなかで金氏は次のようにコメントしている。
「彼女の評価に関して韓国では近年,≪明成皇后≫としてミュージカルやテレビドラマなどで愛国者として極端に美化されたかたちで描かれている。 これは実像とかけ離れている。 日本に殺害されたということで英雄視され美化されているのだが,そうした彼女に関する歴史的評価は歪曲されていると思う。」>


● 安重根も日露戦争の日本勝利に大喜び――西尾

● それぞれの歴史観を大切に/韓国でも変化のきざし
西尾―総括的に言えば,国際政治や外交というものは,歴史認識の違いを棚上げして行うものではないでしょうか。 実際イギリスとアメリカの間でも,独立戦争では戦っているわけですから,歴史認識の違いがある筈です。 アフガニスタンの対テロ戦争では,ロシアはアメリカと協力する姿を見せて,大きな歴史認識の違いを棚上げしています。 それが国同士の関係というものだと思います。 ところが日韓の間では,歴史認識の違いが外交のトラブルの種になっています。 韓国政府は,歴史認識を戦争の代用にしているように思えてなりません。

金―これまで十年以上にわたって,植民地近代化論(従来の資本主義萌芽論や内在的発展論に対抗するもの)という学派が形成され,活発に活動してきました。 この学派は経済学者の集まりですが,政治的にも非常に革命的な内容を扱っています。 この植民地近代化論者の,朝鮮総督府を日帝の弾圧機構ではなく,近代国家として把握したりする論文は,韓国の政治学者や歴史学者にとっては驚愕を禁じ得ない内容を含んでいるのです。  私の本は,単純にこの学派のこれまでの活動を解説しているにすぎないと思います。 私の著書が出てから,韓国の学会では・・・・・・変化が生まれています。 多分わたしのような非専門家に研究成果を盗まれ,騒動が起きているため,学者たちも,より発奮しているのではないでしょうか。

今まで韓国の学者たち,特にソウル大学の落星臺研究室グループを中心とした植民地近代化論者たちは,自分たちが革命的な研究を遂行したにもかかわらず,その内容を知らせ,実際の歴史教科書に適用させることに対して非常に保身的であった傾向があります。 このかたたちが研究成果を発表するたびに,産経新聞の黒田記者(現・産経新聞ソウル支局長 黒田勝弘氏)が熱心にその意味を解釈して報道してきました。 その度に実際の当事者たちは「まったくそういう意味ではない。 産経新聞はわたしたちを利用するな」と言い,声明書を発表して怒るといったことが繰り返されてきました。  ・・・・・・私もたぶん韓国で事業をしていたり,教職に就いていたりしたら,また妻子ある立場だったら,「親日派のための弁明」のような本を発表することはできなかったでしょう。

今回政権が替わり,盧武鉉大統領は現実的な人なので,日韓の歴史認識の違いから両国関係が悪くなることはないと思います。



● 相手の神話を侵害すべきではない――西尾

● 韓国の文句で大臣更迭は大変な事件――金
金―最初は日本の状況について知らなかったので気づかなかったのですが,「親日派のための弁明」を書きながら変だなと思ったことがあります。 韓国政府が一言,文句を言うと,日本政府が大臣を更迭する事件がかなり頻繁に行われたので,「日本では大臣の首を切ることはたいしたことではないんだ」と思ったのです。 同時に,それまでは韓国が何を言おうと,日本は神経も何も使わない,図太い変な国だな,というイメージがありました。 しかし今では大臣更迭は日本でも大きな事件だということ,韓国の発言に対してたいへん神経を使っている国だと分りました。  もし韓国が日本のような大きな国だったなら,隣りになにか言われても別に神経を使わないでしょう。


● 後ろめたさもあって中韓両国の非難を甘受――西尾

● 韓国の民主化はここ十年間の出来事――金

● 反日教育は変わるか――西尾

● 若者たちの意識を変革した『2009 ロストメモリーズ』――金

● 反日と摩擦の一方で文化交流――西尾

● 日韓の壁はいろいろ――金

● 正論を臆せず発言する大切さ――西尾

● 根拠もなく日帝の奴隷という意識がはびこる――金

● 『認識台湾』では客観的に日本の統治を評価――西尾

● 自尊心と統治期間,アイデンティティの差か――金

第6章 東アジアの未來<細部紹介は省略>

金氏は,日本の軍事大国化に対する日本国内の反発など難しい条件はあるにしても,日本がアメリカに代わって東アジア安全保障共同体の盟主になることを期待している。 しかし,西尾氏はEUのようにラテン語と聖書という共通の過去,つまり近代以前の連帯への復帰というコンセンサスのもてないアジアでは,また,日本が自国の防衛をアメリカに頼っている限り,不可能であると言う。 
※<読者注記=責任ある大国になるには,やはり,精神的な自立意識が必要,つまりいつも他国の目ばかり気にする日本のままでは名実ともに大国といえる存在になる資格はない,というのが西尾氏のもう一つの隠されたメッセージのような気がする。>


【読後の感想と“追伸的”資料紹介】

金王燮氏が「親日派のための弁明」を執筆する直接の動機は,2001年の教科書問題で見せた韓国側の姿勢が余りにも自己中心的で国粋主義的(ショービニズム)であることに疑問を感じたからだそうであるが,本書のなかでは,今はオーストラリアに移住した妹さん夫婦との対話のなかからこういう思想が生まれたともおっしゃっている。 本書を読んでみて,われわれが歴史上の必然だと思い込んで疑うことすらしない事物を,金氏のユニークな発想と着眼点は,みごとに覆してくれている。 また,私も知らないわけではなかったが,改めて韓国の歴史教育の「特殊性」に溜息の出る思いがした。 こういう教育を受けた学生と近代史に無智な,日本とアメリカが戦ったことも知らないような日本の学生との間に,話がかみ合うはずはない。  50余年かかって築かれた固い心中の壁を壊そうとする金氏の大胆さには敬意を表したい。 反面,そういう金氏が大韓航空機爆破事件は韓国政府とアメリカのCIAが起こしたものだと信じているのもまた不思議な気がする。 やはり北朝鮮に対する韓国の若い世代の心情を表すものなのであろう。 そのことは,本書の「第6章 東アジアの未來」のなかの金氏の意見からも伺うことができる。 但し金氏も南北統一には物凄いコストがかかることは指摘している。

雑誌『SAPIO』(2003.11.26号)に連載中の作家井沢元彦氏の『逆説のアジア史紀行』Eで,ソウル駐在20年になる産経新聞ソウル支局長 黒田勝弘氏との対談が載っている。 黒田氏によると,最近の日本との往来の拡大と,時間の経過とともに過去のイメージ≠ェ後退したことにより,日本語に対する拒否感が非常に弱くなったこと,この流れに抗し,マスコミの言論,特に知識人が意地になって過去の反日・嫌日感情の再刷り込みを図っているのが現状,いまや,マスメディアや知識人の主張と,若い世代などの一般の人々の意識の乖離が非常に進んでいるという。 日本側も聞こえて来る声の大きい意見に惑わされることのないよう注意して対応する必要がある。 

また,同じ号に大前研一氏の 「韓国経済サバイバルはLOOK WES, NOT NORTHにあり」という題名で,韓国の『毎日経済新聞』の招きで経営者や学者,経済関係の研究者らを対象にして行った講演をまとめたものが掲載されているが,大前氏の五つの提言のうち一つは“ハングルを強調しすぎることもやめるべきだ”であった。 尚WESとは西(West)の中国,東(East)のアメリカ,南(South)の日本,NORTHは北朝鮮のことである。 韓国は本当の競争相手であるWESに対する劣等感から正面衝突を避け,すぐに北朝鮮に向きたがる。 すると何となく優越感に浸ることができる。 これが太陽政策(抱容政策)につながるが,その背後には北を経済植民地化しようという打算的な考えがある,と大前研一氏は指摘している。

以前,引退後の元吉田首相への生前のインタビュー録音(アーカイブス)を聞いたことがある。 その中で,吉田さんは,各国の外交のやり方を評して,イギリスは大英帝国の経験があるせいか,外交をよく知っている。 しかし,アメリカは外交を知りません。 外交とは自分の言い分を通すことだと思い込んでいる。  ソ連や“中共”は常に自国の利益を考えます。 日本はまだまだ経験が足りませんな,などど言っていた。  これは東西冷戦の時代の発言であるが,最近のアフガニスタン戦争やイラク戦争におけるアメリカのやり方などを見るとき,もし吉田さんがいま生きていたら,やはり同じようなコメントをするのではないか,とふと思う。 

現代史は今ある意味で面白い時代を迎えつつあるなどと言うのは不謹慎かもしれないが,どうせ長くない残りの人生を送るなかで,時代は変わりつつあるという期待感をもって暮すのも,悪くない。

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☆ イラク大使館奥参事官の死に思うこと <2003.11.30>

外務省のホームページで奥参事官が書いていた「イラク便り」を読んだ次の日の夜,彼はゲリラに狙撃されて亡くなった。 「イラク便り」では,緊迫した情勢のこと,これも先に犠牲になったデ・メロ国連事務総長特別代表,友人であったUNICEFのクリス・ビークマンとの悲しい想い出の話も書かれていたが,一方,モースルのファースト・フード,ファラーフェルなどのイラクの庶民生活の紹介もあるなど,硬軟取り混ぜた冷静で興味ある観察と情報が盛られていて,これからの活躍を期待をしていた。 絶筆となったのは「感謝祭とラマダン明けの休み」篇である。

反米軍事活動をしているグループはアル・カイーダ,旧サダーム・フセインの直属部隊の残党,ゲリラ,あるいはこれらの混成グループらしい。 こういうグループに属する人間は二千万人強といわれる人口の0.1%にも満たないのであろうが,武器を持っていれば例え2000人でも充分すぎるほど危険である。 特にゲリラは民衆の支持を得ているらしい。 そして彼等を財政的に支援し,又は命令したりする者たちが少なからず存在すはずである。 アメリカの掃蕩作戦が苛烈になればなるほど,無辜の人が傷つき殺される確率も増える。 バレスチナの自爆テロを敢行する女性のなかには,昨日まではテロ活動とは無縁の普通の学生であったが,ある日弟がイスラエル軍に殺された時から,テロリストに変身した人もいたと新聞が伝えていた。 同じことがイラクで起きていない保証はない。 憎しみが憎しみを生む悪循環である。 恐らく基本にはアメリカのやり方に対する不信乃至誤解がある。 しかも,それは時間の経過とともに高まっているように見える。 アメリカで,戦争の前に,イラク侵攻後の占領にかつての日本の占領を参考例として引き合いに出すという,非常識な発言が出ていたこと自体が,無智というか余りにも楽観すぎる見方を表していた。 それならば,兵器と兵員の手配ばかりでなく,太平洋戦争でやったように,敵国の言語(この場合アラビア語)の使い手を多数,養成するとか軍隊内へ配置するくらいのことはやるべきであった。  海外在住イラク人たちの提言を,時間がないとして事実上無視してしまったのも,残念なことである。

多民族国家の統治はただでさえ難しい。 アメリカはパンドラの箱を開けてしまったといわれる。 北部のクルド勢力はますます半独立化しているし,多数派のシーア派はフセイン政権下での不遇を埋め合わせたいと願っているだろう。 スンニ派は復讐を恐れて身構える。

平和な日本から見ると,反米暴力活動は米軍及びその同盟国側の過敏な反応を引起し,却って占領状態を長引かせ,国連その他NGO活動を畏縮させて,結局イラク国民に不利益しか齎さないのが分らないのだろうかと,不思議で仕方ない。 彼等はアメリカを追い出した後の青写真を持っていて動いているのだろうか。  本気で旧体制の復興を願っているのだろうか。 ただ軍事活動によって生計を立てているだけなのではないか。 言ってみれば,それほど生活が苦しいということかもしれないが。 ただ,多くの普通の大衆はひたすら生活の安定のみを望んでいるのであって,破壊と殺し合いを望んではいない筈である。 アメリカとその同盟軍は『関東軍』ではないことを行動と計画で示す必要がある。 月並みではあるが,民生への貢献度の高い行動・事業に力を注ぐこと,占領軍としては期限を切って撤退し,居残り駐留する軍隊はその民生活動の警備を唯一の任務とすること,これらのことを国連の総意として決定し告示する,というよく言われているような路しかないのではなかろうか。  欧米各国のしたたかな思惑は思惑として,国連というイメージを強化するのに効果的な方法は,ロシア軍・フランス軍・ドイツ軍・トルコ軍のイラク派遣であると思う。 とにかく,大衆に希望を持たせ,ゲリラが住みにくい環境を作ることが根本的解決になると信じてやっていくことである。 と言ってみながら,これは今日本国民が政府に期待する政策とどこか似ているという気がしている。

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☆ 河口慧海著 「チベット旅行記―校訂高山龍三」 を読む <2003.12.05>

河口慧海の「チベット旅行記」 がヒマラヤを目指す登山家の教養書として名の通った作品であることを知ったのは,2003年秋北アルプスの燕岳の山荘,燕山荘の喫茶室で, 根深誠著「遥かなるチベット―河口慧海の足跡を追って―」(山と溪谷社<1994.10>----以下では「遥かなるチベット」と略記する)を走り読みした時である。 根深誠氏もネパールには何度も通ったヒマラヤ登山家であり,また国内では白神山地の環境保護に精力を注いでいる方であることを知った。 写真に見る風景の美しさと一種の謎解きのような紀行文に惹かれ,原典である河口慧海師の書の校訂版(昭和53年初版)を購入して読んだ。

読了してまず感じたことは,河口慧海(えかい1866.〜1945.2)という人物は,ややオーバーにいえば"明治の玄奘三蔵法師"とも言うべき,仏教者としての頑固なまでの信仰心と広い学識に加え,鋭い観察力と洞察力,胆力と用意周到さを併せ持つ人物であったということである。 題記の書は,河口慧海が明治後期の当時厳しい政治的鎖国体制を敷いていた"禁断の国"チベット(西蔵)を目指し,1897年(明治30年)日本を離れ,身分を偽って険阻極まりないネパール辺境の間道を単身で越えてチベットの首府ラサに赴き,チベット仏教を研修したが,約一年のち身分が露見して,急遽ラサから印度のダージリンへ"脱出"し,1903年(明治36年)日本に帰国するまでの第1回チベット行きについて語ったものである。

ダライ・ラマ13世法王の治世下にあった当時のチベットは大英帝国の侵略をおそれ,帝政ロシアの術策に騙されてロシアと親密な関係を結ぼうとしていた。 チベットは元来清朝の冊封体制下にあったが,日清戦争(1894〜1895)以後清の影響力は弱まりつつあった。 当時日本とイギリスは日英同盟を結んでいた。 鎖国中のチベットは外国の国事探偵の潜入,特に英国人及びその同盟国の密偵の潜入を極端に警戒しており,もし日本人ということが露見すれば,本人のみならず,それを幇助し認めたチベット人は全て捕らえら,獄に繋がれる危険があった。 潜入しようとしたヨーロッパ人はほとんど失敗している。 従って河口慧海は,ネパール入国以後は,「南の福州出身のシナ人」という身分を名乗って行動している。 河口慧海が日本を離れたのが1897年(明治30年)6月,帰国したのは1903年(明治36年)5月である。 息つく暇もなく同年10月再びインド・ネパール・チベットへの旅行に出発し1915年(大正4年)9月帰国している。 二回目のときチベットに入ったのは1913年(大正2年)であるが,この時は堂々と日本人であることを名乗り,パンチェン・ラマとも会っている。

河口慧海は1866年(慶応2年)泉州堺に生まれた。 幼名を定治郎といい,小学校6年で退学し家業の桶樽製造業に従事した。 向学心に富む定治郎は塾や夜学で学び,反骨心旺盛な青年に育った。 徴兵令改正に反対して天皇への直訴を企てたり(1884年),黄檗宗本山の改革を企てて追放されたりしている(1895年)。 京都同志社に入っても(1886年),小学校に勤めても(1886年),一年と続いていない。 1890年(明治23年),数え25歳のとき得度を受け慧海仁広という名を貰い,東京本所の五百羅漢寺の住職となるが,それ以降もあまり平穏な生活ではなかった。 
慧海は15歳のとき釈迦伝を読んでからは禁酒,禁肉食,不淫を誓い,26歳からはさらに一日二食(午後は食事をしない)主義を生涯貫いた。 肉はむろん,卵,鰹のだしすら使わず,帰国後は,朝は玄米粉に八丁味噌の味噌汁を混ぜ手でこねたものを常食としたという。 これは彼がチベット・ネパール旅行中常に携帯したチベット系庶民食料ツァンバ(tsanba,ハダカムギを臼で挽いた粉,麦焦し)を連想させるものだ。 普通の僧侶以上にきびしい戒律を守る生活は,チベット語辞典編集半ばにして昭和20年2月に亡くなる日まで続いた。

そもそも慧海がチベット行きを志したのは,『明治24年(1891年,満25歳)から宇治の黄檗山で一切蔵経を読み始めてから,・・・・素人にも分り易い経文を拵えたいと,・・・・サンスクリットの原典は一つでありますが,漢訳の経文は幾つにもなって居りまして,・・・・何れにしてもその原書に依って見なければこの経文のいずれが真実でいずれが偽りであるか分らない。 これは原書を得るに限ると考えたのです。』 ・・・・,『しかし大乗仏教の仏典なるものは仏法の本家なるインドではすでに跡を絶って,今はネパールあるいはチベットに存在しているという。』,・・・・『これを研究するにはぜひチベットへ行ってチベット語をやらねばならぬという考えがおこりました。』 と本書で述べているが,明治27年(1893年)である。  「慧海は20歳頃から英語,サンスクリット語,(さらには出発前の約1年間セイロンへの留学者釈興然師から)インドの古いことばバーリ語を勉強しているのをみても,慧海の用意周到さの一面が伺われる。 ことばばかりでなく,各国の情勢をあらゆる面から綿密に調べあげて,ついには世界の屋根ヒマラヤを越えてチベットに入ったのです。」と本書の≪はじめに≫の中で宮田恵美さん(慧海の姪にあたる方)--昭和53年4月--が紹介している。

彼の偉いところは,自分の求道者としての強い意思で発案し,数少ない支援者の資金的援助のみを得て,すべて独力で実行したことである。 スエーデンの国家的事業として中央アジアを探検したスベン・へディン(Sven Hedin),やや後に西本願寺大谷光瑞の命令と指示でチベット入りを果たした青木文教,多田等観,矢島保治郎とは違っていて,その分苦労と困難が多かった。 住職という安定した生活を棄て,大勢の反対を押し切りチベット行きを果たした慧海は,帰国後は凱旋将軍のように歓迎された。 講演依頼も殺到した。 しかし,仏教界や学界は今も昔も在野の学歴や肩書きをもたない研究者には冷たい。 ねたみや中傷もまた少なくなかった。 東京地理学会の書記が,「慧海はチベットへ行かずに,世人を欺いている」といったり,幸徳秋水が「万朝報」の紙上で中傷記事を書いたりした。 しかし慧海は「気にしていなかったし,世間にはそんなこともあるんだよ,という気持ちのようでした」と姪の宮田恵美さんは述べている(「遥かなるチベット」より引用)。  本書の原書≪西蔵旅行記≫が出版されたのは明治37年(1904年)であるが,朝吹英二,早川千吉郎,福沢捨次郎の三氏が計画をすすめた英訳本≪Three Years in Tibet≫が明治42年(1909年)インドのボンベイ(=今はムンバイと呼ぶ,Mumbai)で初めて出版されて以来,国際的な評価を獲得した。 慧海自身は「冒険家にならって探検の功を全うしようとしたのでも,世界の文明に資せんとしたのでもない」と自序に書いているが,チベット仏教関連以外に文化・風俗習慣・政治・経済・自然観察に亘る幅広い記述内容は民族学的にも価値のあるフィールドワークともなっている。

慧海は,道に迷ったときも含め何か岐路にたったときは彼の所謂「断事観三昧」という名の,座禅を組み瞑想によって啓示を得る方法で決断をしている。 簡単な接骨や漢方の知識を以って投薬し病気の治療まで行っている。 これは現地のヘボ医者にはできないことだったようで,彼の生活態度を含め,そういうことが庶民の尊敬を受ける理由にもなっている。 また,チベット語を習得したのちは,旅の折節に現地人や旅舎で旅人に乞われてチベット語の経を誦してやることもあり,それがお布施(食料やお金)になって返ってくるという,俗世の人間の真似の出来ない「錬金術」も持っていた。



以下,簡略に旅行の行程を追いつつ,内容を紹介する。

地名・人名等表記の変更(a)<明治37年版→本書(昭和53年初版)>
ラハサ → ラサ,
カタマンド → カトマンズ,
ラーマ → ラマ,

地名・人名等表記の変更(b)<本書→「遥かなるチベット」その他>
ツァーラン → ツァラン,
マナサルワ湖 → マナサロワール湖,
シカチェ → シガツェ,
タシ・ルフンプー寺 → タシルンポ寺,
セーラブ → シェラブ,
シャブズン師 → シャブドゥン師,
バッザラ氏 → ヴァジラ氏,


1897年(明治30年)6月25日

大坂港から海路インドへ向う。 手持ちの資金は餞別としてもらった約500円(1円を今の三万円として1500万円くらいか)。


1897年(明治30年)7月

英領インドのカルカッタ(Calcutta)到着。 当地の摩訶菩提会の幹事チャンドラ・ボースからダージリン(Darjeeling)在住のチベットでの修学経験のあるサラット・チャンドラ・ダース師のことを紹介される。


1897年(明治30年)8月

ダージリン到着。 サラット・チャンドラ・ダース師の紹介で近くのモンゴル人老僧シェラブ・ギャムツォ(慧海)からチベット語の初歩を学ぶ。 その後,チベット語の俗語を学ぶため,サラット師の世話でラマ・シャブドゥン(Shabdung)師一家に寄寓する。 同時に官立学校にてチベット語を学ぶ。 学費は自弁だが,食費はサラット師の施しを受ける。 サラット師は慧海のチベット行きには反対する。 理由は下記の通り。 サラット師がチベット修学を終えインドへ帰った後,師が英領インド政府の命令でチベットの国情を調べに来たことが発覚し,関係の役人,旅宿の人間などが投獄され,第二の法王(パンチェン・ラマ)の教師であった一人の高僧が水死刑になった。 シャブドゥン師はこの高僧の弟子であった。


1899年(明治32年)1月

約1年半後の1899年(明治32年)1月,ダージリンからカルカッタに戻り,ネパール国の書記官からネパールの友人宛の紹介状を書いてもらい,ブッタガヤを経由してネパール国境地帯のセーゴリに向う。 真の目的はサラット師以外には伏せている。 セーゴリで偶然紹介状の相手,ブッダ・ヴァジラ博士(Buddha Vajra----下記ツァラン村まで同道する。)に会い,ラサから来てラサへ帰る福州出身のシナ人であると身分を偽る。
(ダージリンから北上して直接チベットに入り,ラサ(英語:Lhasa 中国語:拉薩)に向うのが最短コースであるが,ここにはチベット側に五つの関所があり,チベット政庁の正式の通行券なしには通れない。 したがって西に大迂回するコースを選んでいる)


1899年(明治32年)2月

ネパールの首府カトマンズ(Kathmandu)に到着,チベットから来た巡礼たちからチベット潜入の間道について情報を入手する。


1899年(明治32年)4月

ロー州(現在のムスタン(Mustang)王国----ネパールの臣属国)ツァラン(Tsarang)村に到着。 約1年間滞在する。 博士から仏典の講義を受けたり,チベット語を学習したりする傍ら,石を背負って登山の訓練もする。 ここでも間道の研究を行う。 この村から北上して越境するのは村人に迷惑がかかるとの思いもあってか,一旦南下し,西の秘境トルボ地方(Torbo or Dolpo)へ赴く。


1900年(明治33年)7月4日

国境を越えてチベットへ。 慧海は,越境を悟られないようにすでに荷物持ちの従者を返している。 著書には,他人へ迷惑をかけることを避け,又のちにネパール大王殿下(=チャンドラ・シャムシェル宰相)と交わした密約のためか,越境ルートの具体的な地名の記述を避けている。 重い荷物を背負い雪を枕の単独行である。

※ 国境のかなり手前の村の名とチベット側に三つの湖があったという記述から根深誠氏は慧海が国境を越えた地点はマリユン・ラ (Marin Bhanjyan)という峠(トルボのティンギュールという村の裏山,5488m)であることを突きとめた。 その探索行を中心に書かれたのが「遥かなるチベット」である。 同書によると,この峠そのものは石畳の道で特に険阻ではない。 むしろトルボ内の途中のルートのほうがマリユン・ラ峠よりも険しく危険なところが多い。 
1950年,中国がチベットを占領し国境を閉じる前は,チベット,ネパール両国間の住民による交易が盛んで,道の整備はよく成されていた。 飼育する動物の放牧は国境を跨いで自由に行われていた。 今はそれができないため,ネパール側では過剰放牧から土壌の侵食などの現象が起きている。 また国境交易の衰退から,貧困化が進み,古い寺院などの保存修築が出来なくなっている。 全般的には,海外からの登山客,トレッキングツアー客の増加もあって,急速な人口増加や乱開発によって環境破壊が深刻化しているなどの問題が今ネパールに発生している。 根深誠氏は空路でツァランの南にあるジョムソン(Jomsom)に入り,一行6人のキャラバンで慧海の足跡を確かめつつジョムソンからツァルカ,そして最終目的地マリユン・ラまで踏破している。 ただ,トルボ地方へ入る許可は現在(1992年)でも簡単には取れない。 ヒマラヤ保全協会(川喜多二郎会長)のカトマンズ事務所のネパール人スタッフの粘り強い申請により,政府閣議でやっと決定されるというほどであった。 ジョムソンの南にはアンナプルナ,ダウラギリなど8000 mクラスの高山が聳えている。 一行は旅行中にチベットから逃げて来た若い僧侶たちの一団と遭遇している。 昭和33年,慧海のトルボ入城以来この地域に58年ぶりに訪れたのが日本の「西北ネパール学術探検隊」(隊長川喜多二郎)である。 『鳥葬の国』がその記録である。  慧海の記録が実に正確であったことが知られた。 トルボは今も昔も広いヒマラヤでも最も辺鄙な地方であるといえる。
※ 国境越えの峠については,マリユン・ラの西にあるエナン・ラという峠であるという説を唱える人もいる。


1900年(明治33年)8月初

慧海は西に寄道をして,マナサロワール湖(Manasarova)(チベット名:マパムユム・ツォ,心池)とマウント・カイラス(Kailash)(チベット名:カン・リンポチェ,雪山,6656m)のあるヒンドゥー教と仏教双方にとっての霊地に来て滞在し9月半ばまで周辺を巡遊する。
地名はヒンドゥー語とチベット語の2種をもつ。 マナサロワール湖は聖山のカイラスに対し、聖湖と称されていて,中国名を瑪傍雍錯湖という。 標高4558 mで、仏典に須弥山の麓にあると説かれる無熱池と同一視されている。 この一帯にはインド四大河川の河源がある。
東に流れるタム・チョク・カンバブ
(馬の口から落ちているの意、馬泉河)
=ヤルツァンポ河、プラマプトラ河となる
西に流れるランチェン・カンバブ
(象の口から落ちているの意、象泉河)
=タゲ・ツァンポ、ランチェン・カンバからサトレジ河になる
南に流れるマブ・チャ・カンバブ
(孔雀の口から落ちているの意、孔雀河)
=カルナリ川からガンジス川になる
北に流れるセンゲ・カンバブ
(獅子の口から落ちているの意、獅泉河)
=シタ川からインダス川になる
スベン・へディン(Sven Hedin) の功績の一つはインダス川とプラマプトラ河の河源を確定したことである。

※ 「遥かなるチベット」ではラサから拉普公路を車で走り,カン・リンポチェの中腹にあるタルチェン村(標高約4700m)に到達している。 ここは一周52kmのカン・リンポチェの周囲を巡る道の基地にあたる。 熱心な信者は五体投地礼をしながら15日かけて一周するという。
根深隊はここへ来る途中でアメリカ人とスイス人の一行と出会う。 初老のスイス人夫婦らしき男女は四輪駆動車に乗ってカトマンズから陸路,車を駆って来ていた。 女性の方はネパールやヒマラヤに造詣が深かった。 根深氏がにトルボ地方で或る日本人僧侶の足跡を尋ねた話をすると,彼女は小さく叫んだ。 「オオウッ,エカイ・カワグチ」 彼女が河口慧海の名前を知っていたことに根深氏は大いに驚き,感動している。


1900年(明治33年)12月5日

チベツト第二の都市シガツェ(Xigaze)(中国名:日喀則)に到着。
ここにはチベツト第二の法王がいる。 この大ラマの通俗名は「パンチェン・リンポチェ」という。
 ※我々が今日パンチェン・ラマという名前で知っている法王である。

ここまでの旅で慧海は盗難,女難,自身の吐血,雪の反射光線による一時的な失明,などの苦難に遭遇する。 僧侶であることで頼られる存在である反面,絶えず英国の密偵ではないかという疑念をもたれることを心配している。


1901年(明治34年)3月21日

ラサに到着。 チベツト人と偽り,セラ大学に住み込む。 学生僧には2種類あり,"修学坊主"と"壮士坊主"がある。 "壮士坊主"はお金がなくて正規の学生になれない,"修学坊主"の下僕とか護衛とかのもろもろの肉体労働をする者。  "修学坊主"にも金の有無に依り格差あり,貧しい者は毎日の食事にも事欠く。 政府から出る不定期の"学禄"が唯一の頼りである。 慧海の"チベツト人"という嘘は直ぐにばれるが,北京語が話せない"福州出身のシナ人"として生活していく。 


慧海は若干ながら骨接ぎと鍼灸の技と漢方の心得があり,素人医者の役もやむを得ず引きうけることがあり,貧乏学生からはお金をとらないので,薬師如来の再來のように尊敬を受けるようになる。 慧海がいつも薬を買いつける薬舗「天和堂」の李之楫一家(雲南省出身)とは家族のような親しい交友関係が生じる。 彼は慧海のラサ脱出時には買い集めた大量の経典文や字典などの荷物の輸送を一手に引き受けてくれる。 そのころには慧海は法王の侍従医になったという噂が国中に広まっている。 実際そういう打診を受けたと慧海は書いている。 そういう縁もあって,前大蔵大臣の知遇を得て,邸内に一室を与えられる。 またその兄,法王の次の位にある最高等僧位にあるチー・リンポチェ(Ti Rinpoche)をチベット仏教の師とすることができた。


チベット仏教には古教派(赤帽派)と新教派(黄帽派)がある。 古教派は開祖がロボン・ペッマ・チュンネ(Lobon Padma Chungne) というインド人で,経義は仏教に肉欲主義を結びつけたもので,慧海は大いにこれを嫌悪している。 新教派は,インドから来たパンデン・アチーシャに基づき,ジェ・ゾンカーワが戒律,特に淫戒を重視する考え方を始めた。 その弟子がゲンドゥン・トゥブ(Gendun Tub)で,彼が亡くなる前に「自分は今度どこそこへ生まれ変わる」と遺言をした。 その場所に生まれた子がいて,転生者として養育された。 これが二代目の法王となった。
法王の宮殿をツェ・ポタラという。 ツェは「頂上に」の意,ポタラは「船をもつ」=「港」の意,これは観音の浄土で,セイロン島をさす。 漢語の「普陀落」の名を襲用したもの。


慧海が指摘するチベット人の短所四つは,
  1. 不潔:殆ど顔,手,体を洗うということをしない。 嫁になるときも垢が多いほど美人とされる。
  2. 迷信:
  3. 不倫理行(一妻多夫):男の兄弟がいて長男が嫁を迎えると,半年から一年後長男が不在のとき,母親が媒酌人となって次男と結婚させる。 兄弟が数人いれば順順に結婚させる。
  4. 不自然的美術:

長所としてはあまり挙げることがむずかしいが,
  1. ラサ,シガツェあたりの気候が実によいこと
  2. 誦経の声が実に聞き心地がよいこと
  3. (仏教)問答の活発なること
  4. 古代美術のやや自然的であること
とやや苦しい答えを出している。

※ 一妻多夫は昔の話ではない。 「遥かなるチベット」のトルボ紀行に書かれているように,6人の一行の中のティンギュール村出身,チェラワ・ヌルブ(37歳)は弟と妻を共有している。


結婚は全て親同士が決め,花嫁はその日の朝まで自分が結婚することを知らない。


葬式の形態<位の高い順番に>
@ 鳥葬-----骨も砕き,ツァンバをまぶして鳥が食べ易いようにする。
A 火葬
B 水葬-----屍体はばらばらにしてから水に流す
C 土葬-----天然痘で死んだ者
法王の葬り方は特別で,棺の隙間に岩塩を大量に詰めて強制的に乾燥させる。
※ 「遥かなるチベット」ではネパールのトルボ地方では,火葬は徳の高い人に行い,次いで鳥葬,水葬の順で,夏は火葬はほとんど行われない。 立ち昇る煙で空が曇って農作物に悪影響を及ぼすと信じられているからだ,とある。

嘘のような話であるが,法王の大小便は保存し,薬と混ぜて宝玉という名前の尊い丸薬にする。


慧海はチベットの物産,貿易,貨幣,願文会(開山ジェ・ゾンカーワの命日で14日澗続く祝祭),法王政庁,婦人の風俗,婦人と産児(家庭内で一番偉いのは婦人なり),迷信と園遊,舞踏,チベットとロシア,チベットと英領インド,輿論,清国とチベット,ネパールの外交,チベットの外交,モンラムの祭典(チベット暦の1月3日〜25日),投秘剣会,チベットの財政,チベットの兵制,チベット宗教の将来 などのテーマで多岐にわたる観察と論評を行っている。


奇縁というべきか,慧海はチベットで日本製の燐寸(マッチ)をよく見かけた。 マッチのメーカーは大阪の土井商店である。 そこに勤めていた青年,菊池與太郎は後年財をなし,青森県下北郡に住み,慧海の有力な支援者となっている。 


慧海の身分の秘密が露見するのはラサ入府の約1年後である。 慧海の手紙をダージリンに届けてくれたツァ・ルンバという富豪がおり,彼は慧海の身分を承知していた。 その番頭が法王の商隊長として北京に赴いたとき日本軍人の義気に触れて感心し,主人に報告した。 三人が会話したとき,富豪が弾みで慧海が日本人であることを打ち明けてしまう。
その話を聞いた商隊長が善意で伝えた相手が前大蔵大臣の兄であった。 そしてそれは最悪の結果を招くことが予見されこととなったので,慧海は急遽ラサ退去を決意する。


1902年(明治35年)5月29日

ラサを立ち,一路ダージリンを目指す。 五つの関所を抜けるところはあたかも,義経の奥州落ちの"勧進帳"のごとく,スリルがある。 ここでも慧海の"医術"が役に立っている。 即ち,或る関所で役人の夫人を治療し,大いに感謝され,夫人はしぶる夫を怒鳴りつけて,通行券の認可手続きを急がせている場面が出てくる。


1902年(明治35年)7月3日

ダージリン到着。 李之楫が手配してくれた大量の荷物も無事到着。
しかし,インドに滞在中,恩人の前大蔵大臣や富豪ツァ・ルンバと番頭(商隊長)に咎めが来ているという噂を聞き,再三確かめるとツァ・ルンバが囚われていることは事実らしいことを知る。 法王の許しを得るための仲介を,まず当時インド皇帝陛下の戴冠式祝賀礼典のためインドに来ていた奥中将の方へ申し出ようとするが,部下に断られ,コネを頼ってチベットに影響力があるネパールの大王殿下(=チャンドラ・シャムシェル宰相,総理大臣。 名君として誉れが高い)に仲介を訴える。 大王殿下も最初は慧海が日本のスパイなのではないかと疑ったようである。 ネパール語の翻訳を添えた,法王宛のチベット語で書かれた上書文に展開さけている論理に感心した大王殿下は,それをチベット法王に送ることを約束する。 二人は(チベット情勢などの政治問題についてか?ネパール国の政策についてか?)二時間の秘密会談をしたと書いてあるが,実際に何を話したかは約束を守って全く書き残していない。 ただサンスクリット語の経典を買いたいと申上げ,大王殿下は快く引き受け写本を作らせるなどして慧海の帰国に間に合わせてくれている。 慧海は替わりに漢訳一切蔵経を日本から贈ることを約束している。 帰国前にはインド在住の日本人商社マンから少なくない資金援助があり,彼はそれを殆ど書籍の購入に当てている。


1903年(明治36年)5月20日

門司港を経て神戸港に入港,第一回の旅行を終える。

第二回のインド・ネパール・チベット旅行以降,慧海はチベット語・仏典の教授・研究・翻訳・出版,蔵和辞典の編集につとめる。 還暦の時還俗を発表するが,在家仏教家として生きる。 その日常生活ではチベット風の袈裟をまとい,チベット製の帽子・靴を愛用したという,終生チベットとネパールをこよなく愛した人であった。

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☆ 阿辻哲次著「漢字の知恵」 を読む <2004.01.06>

発行:筑摩書房―ちくま新書―(2003年12月)

漢字を覚えるにはまずその成り立ちを知るのがよいと言われる。 この書は,そのためのたいへんよい入門書であると同時に,そこここに散りばめられている著者のうんちく(薀蓄)や文明批評を楽しむことができる。
建物を示すいろいろな字―家・房・屋・舎・室―の意味は何か,とか,婚の原字は昏で夕暮れの意味,古代の結婚式は日没後におこわれたから,とか,梅は本来「某」と書かれたとか,鳥という文字は中国人にとって性的な悪いイメージがある,とか面白い話が満載されている。

以下では,主に本書中の<解字>の項を中心に紹介する形式をとることにする。 著者も緒言の中で 「成り立ちの解釈は研究者によって異なり,いろいろな説があることをあらかじめおことわりしておきたい。 本書に示したのは,あくまでも著者自身によるひとつの解釈,ということにすぎない。・・・・」と書いている。 そこで著者の説と対比する形で,白川静氏の解釈と藤堂明保氏の旧來の解釈とを併記してみた。 改めて,漢字という貴重な人類の資産に対する興味がより深まる気がする。

中国では共産党政権誕生後,多くの簡体字(略字)が作られた。 葉が叶になり,陽は右の昜が日に変わって阳になり,陰は右側が月に変わり,親はqin1.gifに変わり,また寫が写<但し中国語の簡体字「写」は,実は最下部の横棒が“勹”の中に収まっていて,右に突き出ていない。 「与」という字も同様である。>になった。 昔から有った異体字や略字を採用したものもあるが,全くの独創品もある。 その作成方法に法則性がないとか,美的感覚に欠けるとか,誕生当時からいろいろと批判もあったようであるが,今はともかくも定着した。 ところが南の広州や香港(台湾は無論であるが)では相変わらず繁体字(本字)が使用されているうえ,近年の経済力の”南高北低”傾向から,南方訛りの言葉が北方へ輸入されるとともに,「お色気」に乏しい簡体字に変わって繁体字を広告コピーに使う例が増えているらしい。

日本の“新字”と中国の“簡体字”とは同じものもあるが,微妙に字形が異なるものも少なくない。 「写」はその一つの例である。 また,「」が新字で,本字は「」である。 どちらも日本語パソコン(JIS)に入っているのでこのように併記できるが,本字がないもの,例えば「涙」や「戻」や「突」や「器」は,本来「犬」に従う文字であるのに,日本で勝手に点を取ってしまい,字の起源との関連性が切れ,またそれらの旧字はパソコンでも書けなくなり,下記で用いたように中国語のGBやBig5フォントの文字を画像で取り入れるほかに表現できないものもある<旧字(本字)=lei4.gifli4.gif>。 これは中国の簡体字にも似た愚民政策の現れだと白川静氏は指摘している。

   

解 字 白川静 著『字 通』による新解釈 藤堂明保 編 『漢和大字典』(学研)の解字
文字
≪参考≫ (宗教起源説)≪参考≫

T 人の誕生と成長




シン
形声。
意符の《見》(見る)と音符《<辛/木>》とからなる。 《<辛/木>》を《qin1.gifとするのはその省略形。

<辛の下に木がある文字形は,パソコンで出力できないため,やむを得ず/印で繋ぎ<辛/木>のように記すことにする。 人の横に有が並ぶ侑は<人+有>のように記す。 以下同じ>
会意。
辛+木+見。 神事に用いる木を
えらぶために辛(針)をうち,切り出した木を新という。 その木で新しく神位を作り,拝することを親という。 金文には親を<宀/親>に造る
ことがある。 父母の意に用いるのは新しい位牌が父母であることが多いからであろう。
辛は肌身を刺す鋭いナイフを描いた象形文字。 qin1.gifは薪の原字で,木をナイフで切ったなま木。 親は意符の「見+音符qin1.gif」の会意兼形声文字で,ナイフで身を切るように身近に接して見ていること。

ダン
・ナン
会意。
田(たんぼ)と力(ちから)から「たんぼで力仕事に従事する者」の意を表す。 男は古代文字資料では「男爵」に相当する地位を表すことが多い。
会意。
田+力。 力は耒(すき)の象徴。 田と農具の耒(力)とを組み合わせて耕作のことを示す。 男はもとその管理者という語で,のち五等の爵号となった。 男女を連称することは列国記に至ってみえる。 金文では男を一夫,二夫のように数え,これが農夫の称で,これを統括するものを大夫という。
田(はたけ,狩り)+力(ちから)の会意文字。 耕作や狩りに力を出すおとこを示す。

ジョ
・ニョ
象形。
手を胸の前に組み,ひざまずいた人の形にかたどる。 身体のしなやかさを強調した形で女性の意をあらわす。
象形。
女子が跪いて坐する形。 手を前に交え,裾をおさえるように跪く形。 動詞として妻とすること,また代名詞として二人称に用いる。 代名詞には,のち汝を用いる。
なよなよとしたからだつきの女性を描いた象形文字。

コン
会意。
「昏」が原字。 《日》と《氏》(「低」の原字で「ひくい」意。 太陽が低くなることから「夕暮れ」の意を表す)とからなる。 「婚」は会意形声。 意符の「女」と意符と音符を兼ねる「昏」(夕暮れ)とからなる。
古代の結婚式は日没前後の時間から行われた。
形声。
声符は昏。 昏は昏夕(ゆうべ)。 その時刻より婚儀が行われた。 金文の字は象形。 爵をもって酒を酌む形で,その儀礼のしかたを示す。 婚儀には三飯三酳<いん>の礼が行われ,三酳はいわゆる三三九度にあたる。
昬は《日》と音符《民》(目が見えない)の会意兼形声文字で暗い夜の意。 唐の天子李世民の名を忌んで字体を「昏」と改めた。 古代では夜暗くなってから結婚式を挙げた。


・ム
・モ
「女」の中央部に点を二つ加えた形。 二つの点は乳房を表す。 女に両乳を加えた形。 金文では母と「毌(なか)れ」とは同じ字形を用いている。 「女+━印」からなり,女性を犯してはならないと差止めることを━印で示した指事文字。

象形。
 新生児を頭を下にしてチリトリに入れて捨てようとしている形。 そこから後に「ものをすてる」ことを表すようになった。 古代中国では,生まれたばかりの子どもをいったん道路や森林の中に捨て,それをすぐ拾い上げて育てる習慣があった。 ちなみにチリトリを使わず,手で直接子どもを持って捨てる形を示すのが「棄」の異体字である「弃」。
<亠/厶>(とつ)+han.gif(はん)+廾(きょう)。 <亠/厶>は逆子であるから,これを悪(にく)んで棄てる意とする。 <亠/厶>は子の出生のときの姿で,育,流はその形に従う。 生子を捨てることは古俗として行われたことがあり,周の始祖后稷がはじめ棄てられ棄と名づけられたとされ,他にも類話が多い。 han.gif(はん)はもっこ。 z_ko-1.gif(子の逆形→生まれたばかりの赤子)+両手」の会意文字で,赤子をごみとりにのせて捨てるさまを表す。


廾<キョウ>は両手をそろえて物をささげるさまを描いた象形文字。


・ホウ
象形。
幼児を背負い,片手を幼児の背中に回している形にかたどる。 もとは子どもを養育すること。 そこから「守る」「大切にする」意に使われるようになった。
会意。
人+子+褓(むつき)をかけた形。 金文の字形はときに保の呆の上に玉を加える。 玉は魂振り,褓も霊を包むものとして加えるもので,受霊,魂振りの呪具。 生まれた子の儀礼を示す字である。 保の諸羲は,新生の受霊とその保持の意から演釈されたものである。
保の古文は呆で,子どもをおむつで取り巻いて大切に守るさま。 甲骨文字は,子どもを守る人を表す。 保は「人+音符呆」の会意兼形声文字で,保護する,保護する人の意を表す。

象形。
本来は「齒」と書く。 人が大きく口を開けた口から,何本かの歯が見えている形にかたどる。
ちなみに,虫歯は専門的には「う歯」といい,漢字で「齲歯」と書く。 但し,齲の音は“ウ”ではなく“ク”が正しい。 齲は 齒+虫 の会意文字。
形声。
声符は止。 卜文には声符を加えず象形。 歯によって獣畜の年を知りうるので<齒+令>(齢)といい,老いて徳を成就することを齒コ(歯徳)という。
甲骨文は口の中を描いた象形文字。 篆文以下はこれに音符止を加えてある。 「前歯の形+音符止(とめる)」の会意兼形声文字。 物を噛みとめる前歯。


・ヒ
はじめは「自」と書いた。 「自」は象形。 人の鼻の頭を正面から見た形にかたどる。 もと「人の鼻」の意。 人が身振り手振りで自分を表す時に,右手の人差指で鼻の頭を指すしぐさをすることから,やがて「自分」という意味を表すようになった。 「自」を「自分」の意味で使うのが主流になったので《自》に発音を表す《畀》<ヒ>を加えた「鼻」で「はな」の意味を表すようになった。
ただし,ヨーロッパ人が自分のことを指す時は,掌で胸を押さえる。
旧字はbi2.gifに作り,声。 自は鼻の象形。 を声とするのは,その鼻息の擬声語とみてよい。 顔面で最も突出するところであり,わが国でははな(端)といい,中国では鼻祖という語がある。 鼻は《自》+音符《畀》の形声文字。

ホウ
象形。
古代社会で財宝のシンボルとされた貝や玉を,ひもでいくつも連ねた形にかたどる。 もとは「宝物」の意。 「鳳」に通じて鳥の王者である鳳に付き従う者の意から,「とも」の意味に用いられる。
象形。
貝を綴った形。 一連二系。 金文の図象にこれを荷う形のものがあり,一朋一荷の量で宝貨とされた。 金文の朋友の字は<人+朋>友に作る。 貝の一連二系の関係を人に及ぼした字形で,同族間で年齢の相近いものをいう。
数個の貝をひもでつらぬいて二すじ並べたさまを描いた象形文字。 同等のものが並んだ並んだ意を含み,のち肩を並べた友のこと。 並や併と縁が近い。

アイ
会意形声。
夊(あし)と意符と音符を兼ねる《<旡/心>》<アイ>(後ろを振り返る気持ち)とからなる。 後ろを振り返りつつ歩くことから,「心にかける」意。 のち字形が変わり,「愛」と書かれるようになった。
会意。
<旡/夂>+心。 <旡/夂>(あい)は後ろを顧みて立つ人の形。 それに心を加え,後顧の意を示す。 <旡/心>と愛は同じ字である。
旡<カイ・キ>とは,人が胸を詰まらせて後ろにのけぞったさま。 愛は,「心+夂(足をひきずる)+音符旡」の会意兼形声文字。 心がせつなく詰まって足もそぞろに進まないさま。

ルイ
形声。
本字は「lei4.gif」。 《水》(みず)と音符li4.gifレイ→ルイからなる。 涙(付点なし)はその省略形。異体字として使われる「」は会意。 《水》と《目》とからなり,「なみだ」を表す。 涙は比較的新しい時代に作られた漢字のようだ。 中国の古典文献で「なみだ」を表す主な漢字は「泣」と「涕」だった。
形声。
旧字はlei4.gifに作り,li4.gif(れい)音。古くは(てい)といい,象形字は(とう)。 涙は漢以後に用いられる字である。
「水+li4.gif(はねる,はらはらとちる)」の会意文字。

レイ

旧字はli4.gifに作り,戸+犬。 戸下に犬牲を埋めて呪禁とする意。 ここを犯すことは違戻のこととされた。 「戸(とじこめる)+犬」の会意文字で,暴犬が戸内にとじこめられてあばれるさまを示す。 逆らう意から,「もとる」という訓を派生した。

コ・
グ・ゴ

象形。
一扇の戸。 両扇あるものは門。 啓・肇などに含まれている戸は神戸棚の戸。 門戸は内外を分つ神聖なところ。
門は二枚とびらのもんを描いた象形文字,戸は,その左半部をとり,一枚とびらの入り口を描いた象形文字。

ケン

象形。
犬の形。 卜文の犬の形は,犠牲として殺された形にみえるものがあり,犬牲を示すものとみられる。
いぬを描いた象形文字。 ケンという音はクエン,クエンという鳴声をまねた擬声語。 狗は,子犬。

象形。
鉞(まさかり)の歯の部分を下にして立て掛けた形にかたどる。 一説に,男性の性器が勃起した形にかたどり,「一人前の男」の意を表すという。
古代中国で「女」と対になる漢字として一般的に使われたのは「男」ではなく「士」だった。
象形。
鉞(まさかり)の刃部を下にしておく形。 その大なるものは王。 王・士ともにその身分を示す儀器。 士は戦士階級,卿は廷礼の執行者,大夫は農夫の管理者。 この三者が古代の治者階級を構成した。
男の陰茎の突き立ったさまをを描いた象形文字で,牡(おす)の字の右側にも含まれる。
 成人として自立するおとこ。

サイ
・セイ
象形。
髪に美しい飾りをつけた女性の姿にかたどる。 古代の結婚式で花嫁が髪飾りをつけた盛装の姿にかたどり,そこから「つま」の意を表す。
象形。
髪飾りを整えた婦人の形。 髪に三本の簪(かんざし)を加えて盛装した姿で,婚儀のときの儀容をいう。 夫は冠して笄(けい)を加えた人の形。 夫妻は結婚するときの儀容を示す字である。
z_te.gif」(て)は家事を処理することを示す。 「又(て)+かんざしをつけた女」の会意文字で,家事を扱う成人女性をしめすが,サイ・セイということばは夫と肩をそろえる相手をあらわす。 斉(ととのう,そろえる)と同系のことば。 また,淒(雨足がそろう)とも同系のことば。

本字はfu4.gif
帚は家の中で最も神聖な場所である祭壇を清めるためのもの。 甲骨文では王妃の名前に冠せられる文字として使われる。

【読者注】
日本語字体では ホウキは旧字(本字)も新字も「」であるが,旧字「」,「fu4.gif」 にたいして新字は「」,「」と,右側上部がカタカナの「ヨ」のようになっている。 一方新中国の方では,ホウキも上部がカタカナの「ヨ」になっており,「帰」,「婦」の簡体字は,右側がカタカナの「ヨ」のみに簡略化されている。 台湾は日本の旧字と同一の字体を使用している。
形声。
旧字はfu4.gifに作り,帚声。 帚はfu4.gifの初文で卜辞には帚好・帚妌(ふけい)のように帚をfu4.gifの字に用いる。 帚は掃除の道具ではなく,これに鬯酒(ちょうしゅ)<香り酒>をそそいで宗廟の内を清めるための「玉はばき」であり,一家の主婦としてそのことにあたるものをfu4.gifという。 [爾雅,釈親]に「其の妻をとfu4.gifと爲す」とあるのは,子のfu4.gif,よめをいう。 金文の[令<皀+殳>]に「fu4.gif子後人」の語があり,宗廟に仕えるべきものをいう。 殷代のfu4.gifはその出自の氏族を代表する者として極めて重要な地位にあり,fu4.gif好の卜辞には外征を卜するものがある。・・・・
    ※ fu4.gif好は殷王帝丁の妃。
「女+帚(ほうきをもつさま)」の会意文字で,掃除などの家庭の仕事をして,主人にぴったりと寄り添うつまやよめのこと。 付(つき添う)_服(ぴたりとくっつく)_副(主たる者にぴたりと寄り添う添え人)_備(添え人)などと同系のことば

ロウ
会意。
本来の字形は「」。 《力》(ちから)と《冖》(家の屋根)と二つの《火》から成り,「屋根が火で燃える時に人が出す力」の意。 そこから「大きな力を出して働く」意を表す。
会意。
ei.gif<焚の火が乂になったもの>(えい)+力。 ei.gifは庭燎,かがり火を組んだ形。 力は耒(すき)の象形。 ei.gifは聖火で,これを以って耒を祓ってから農耕がはじまる。 農耕のはじめと終りに農具を清める儀礼があり,それで害虫を避けうると考えられた。 のち転じて,ひろく事功・勤労の意となり,労苦・労役の意となる。
<(火+火)/冖>はの原字で火を周囲に激しく燃やすこと。 勞は会意文字で,火を燃やし尽くすように力を出し尽くすこと。 激しくエネルギーを消耗する仕事やその疲れの意。

ロウ
象形。
頭髪を長くのばした人が,腰を曲げて,杖をついている形にかたどる。
会意。
lou.gif+匕(か)。 lou.gif(老)は長髪の人の側身形。 その長髪の垂れている形。 匕は化の初文。 化は人が死して相臥する形。 衰殘の意を以って加える。
年寄りが腰を曲げてつえをついたさまを描いた象形文字で,からだがかたくこわばった年寄り。





U 食をめぐる漢字




ベイ
・マイ
象形。
穀物が実って,穀粒が付着しているさまにかたどる。 穀物は必ずしもイネとは限らず,広く穀物一般を指して使われる。
象形。
禾(か)の穂に穀実がついている形。 [説文]に「粟の實なり。 禾實の形に象る」とある。 粟は五穀の総称。 卜文の字形は穂の上下に小点三,四を加える形。
╋ 印の四方に点々と小さなこめつぶの散った形を描いた象形文字。 小さい意を含み眯(ほそ目)-迷(小さくて見えない)と同系のことば。

ライ
象形。
本来は「」と書く。 麦が左右にのぎを張った形にかたどる。  もとは麦を指したが,「来る」という意味の動詞がむぎと同音だったため,仮借(当て字)という方法で「やって来る」という意味に使われた。のちに「むぎ」を表すために《夊》(あしあとの形。 麦踏みをすること)を加えた「麥」(麦)が作られた。
ムギは地中海東部が原産地で,西から中国に伝わって来た。 だから「遠いところからやって来た」という意味で,ムギを「來」という字で表した可能性は大いに考えられる。
象形。
麦の形に象る。 [説文]に「周,受くる所の瑞麥・來麰(らいぼう)なり。 一來に二縫あり。 芒朿(ぼうし)の形に象る。 天の來(もたら)す所なり」とし,・・・・往來・來甸,また賚賜(らいし)などの用語はすでに卜辞にもみえるが,みな仮借羲である。
來は穂が垂れて実った小麦を描いた象形文字で麦(むぎ)のこと。 麦(=麥)の原字はそれに夊(足を引きずる姿)を添えた形声文字で,「くる」の意をあらわした。 のち「麥」をむぎに,「來」をくるの意に誤用して今日に至った。

ホウ
象形。
本来は「豐」(音読みはホウ)と書く。  「豆」(足のついた台=たかつき)の上に,実ったキビなどの穀物の穂を置いた形にかたどる。 農作物の豊作を神に感謝するために,たわわに実った穀物をたかつきに載せている字形であり,そこから「物がたくさんある」,或いは「大きい」という意味を表すようになった。
  この形がやがて「豐」と「豊」という微妙にことなる二つの文字に分化した。 「豊」(音読みはレイ)は「一晩でできる甘い酒」を示す字となった。 この酒が振舞われる宴会を「饗醴」といい,この宴会から「禮」(=礼)という字ができた。 「豐」と「豊」は本来別々の漢字。
象形。
旧字はに作り,食器である豆に,多くの禾穀を加える形。 供えものの豊盛であることをいう。 粱,荼,盛に限らず,すべて豊満盛大なるさまをいう。 豊(れい)の字は,もと醴酒の醴の字であるが,いま常用字に用いる。

豊も象形。 豆の禾穀を盛れる形。 [説文]に「禮を行ふの器なり」とあり,禮(礼)と同声の字。
」は△型に実った穂を描いた象形文字。 「豐」は「山+豆(たかつき)+音符二つ」の会意兼形声文字で,たかつきの上に,山盛りに△型をなすよう穀物を盛ったことを示す。のち,上部を略して豊と書く。
豊<レイ>はたかつき(豆)に形よくお供え物を盛ったさま。禮は「示(祭壇)+音符豊」の会意兼形声文字で,形よく整えた祭礼を示す。 }(=礼)は,もと古文の字体で,今日の略字に採用された。

ネン
象形。
実った穀物の穂を,人が背中にかついでいる形にかたどる。 本来は「農作物の豊かな収穫」,すなわち「みのり」を意味する文字だった。 農作物の収穫が年に一度だけのことから,のちに「一年」という時間の単位を表すようになった。
会意。
禾(か)+人。 禾は禾形の被りもので稲魂。 これを被って舞う人の姿で祈年(としごい)の舞をいう。 男女相偶して舞い,女には委という。 低い姿勢で舞う。 子どもの舞う姿は季。 農耕の儀礼に男女が舞うのは,その性的な模擬行為が生産力を刺戟すると信じられたからである。 豊年を予祝する舞であるから,「みのり」の意となり,一年一熟の禾であるので一歳の意となる。 夏には歳,殷には祀,周には年という。 歳,祀はともに祭祀の名。 その時期や期間の関係から年歳の意となった。 年は稔(ねん)。
「禾(いね)+人」の会意兼形声文字。 下部は千の原字だが,ここでは人のこと。人はねっとりとくっついて親しみ合う意を含む。年は,作物がねっとりと実って,人に収穫される期間をあらわす。捏(ねばる)-涅(ねばる)と同系のことば。

シン
象形。
罪人に刑罰として入れ墨を施すときに使う針の形にかたどる。 そこから意味が広がり,「つらい」,また「味がからい」意に使う。 唐の時代に作られた『酉陽雑俎』<ユウヨウザツソ>という随筆集には,胡椒の味について「至って辛辣」と記している。

  ≪後述の「文」の項目を参照のこと≫
象形。
把手のある大きな直針の形。 これを入墨の器に用いるので,言・章・童・妾・(ざい)・辜(こ)・商などの字はもと辛に従う形に作る。 辛はまたsin.gifに作り,(せつ)・辟(へき)などの字はもとその形に従い,曲刀の象,刳剔(こてき)するのに用いる。 辛に墨だまりをつけた形が章,入墨によって文身を施すことを文章,その美しさを彰という。
鋭い刃物を描いた象形文字で,刃物でぴりっと刺すことを示す。 転じて,刺すような痛い感じの意。 また,新(切りたて,なま)-薪(切りたてのまき)と同系のことばで,刃物で切り刺すの意を含む。

※ :金文は「辛+z_maru.gif(模様)」の会意文字で,刃物で刺して入れ墨の模様を作ること。 篆文は「音+印(まとめる)」の会意文字。

エン
形声。
本来の字形は「」。 《》<ロ>(塩が壺に入っている形)と音符《監》カン→エンとからなる。 海水中にある塩分の意から,「しお」の意を表す。 「」は11世紀南北朝時代からすでに使われている略字形。 現代中国語で塩味を表す「咸」<xian>は本来「全,みんな」という意味の字である。 これは繁体字(本字)の「鹹」に対する簡体字で,本字の右辺のみを採用したもの。 「」はもともと「塩」という字にも使われていた。
形声。
旧字は鹽に作り,鹵に従い監(かん)声。 籃・濫(らん)の声がある。 鹽はその声の転じたものであろう。 鹵は天生の塩の象形。

 [説文]に「鹹なり」とあり,また「古者(いにしへ),宿沙,初めて煮海鹽を作る」という事物起源説を記している。
鹽は「鹵(地上に点々と結晶したアルカリ土)+監」の形声文字。 鹹<カン>(からい)と同系のことば。 また,感(強い刺激を与える)とも縁が深く,もとは強く舌を感じさせる味のこと。

ニク
・ジク
象形。
すじのある肉の切り身の形にかたどる。 これを部首として,肉の性質や状態に関する意味を表すが,ヘン(偏)になると「月」の形に書かれる。 「祭」という漢字は上半分に《月》(=肉)と《又》(=手)があり,下に《示》があるが,《示》は空から下りてきた神が,地上にとどまる時によりどころにする小さな机の形である。 だから「祭」は,地上に降りて来た神様に対して,手に持った肉をお供えしようとしている形と解釈され,,このことから古代の祭りでは必ず肉が供えられていたことがわかる。 この肉を二つ重ねると「多」という漢字になる。 「多」は祭りで肉が二つ供えられていることを表す文字である。
象形。
切りとった肉塊の形。 [説文]に「胾肉(しにく)なり」とあり,大きな一臠(れん)の肉をいう。

 [釈名,釈形体]に「肉は柔なり」とあり,その古音は相近い声であった。 旧字はrou4.gif
筋肉の線が見える,動物のにくのひときれを描いた象形文字。 柔(やわらかい)-<月+柔>(やわらかいにく)と同系のことば。 祭,然の字に含まれる斜めの「月」は肉の字の変形である。


※≪読者注≫ 現代中国語では肉も柔も発音は同じrouである。

ユウ
・ウ

会意。
you.gif(又)(ゆう)+rou4.gif(肉)。 肉を持って神に侑薦する意。
又<ユウ>は手でわくを構えたさま。 有は「肉+音符又」の会意兼形声文字で,わくを構えた手に肉をかかえこむさま。 空間中に一定の形を画することから,事物が形をなしてあることや,わくの中にかかえこむことを意味する。 佑(かかえこむ)-囿(わくを構えた区画)-域(わくを構えた領分)と同系のことば。

ソク
象形。
本来は<皀+卩>(即)と書く。 足のついた容器に食物が盛り上げられた形を示す《皀》に向って,ひざまずいた人が口を大きく開け,今にもその食物に食らいつこうとしている形にかたどる。 もともと「(食事の席に)つく」意味を表し,そこから,「今すぐ,これから間もなく」という意味を示す。 さらにその人が顔を反対側に向けると「既」(=皀+旡)という字になる。 《旡》はひざまずいた人が大きく開けた口を食物と反対の方向にそむけた形を示している。 つまりこの字はもうお腹いっぱいで,これ以上食事する気がなく,食物から顔をそむることを表しており,このことから「事柄がすでに終了した」という意味で使われるようになった。 《皀》の上に蓋をした形が《》である。
  さらに,「郷」「卿」「饗」はもともと同じ形に書かれていた。 《皀》すなわち盛り上げられたご馳走の両側にひざまずいて口を開けた人が食らいつこうとしているさまを示している。 何人かで一緒におこなう食事はおそらく宮廷で王から与えられた饗宴であって,そのような場に出席できる身分の者を「」といい,また人と人が向かい合って坐ることを「」といった。
会意。
旧字は<皀+卩>に作り,皀(きゅう)+卩(せつ)。 皀は<皀+殳>(き)の初文。
 <皀+殳>は文献にに作り盛食の器。 皀の上に蓋を加えると,の字となる。 卩は人の跪坐する形。 食膳の前に人が坐る形は<皀+卩>,すわち席に即く意。 左右に人が坐するときは郷<中央は皀字>(郷),饗・<郷/向>の初文。 すべてその位置に即き,その任に即くことをいう。 遅滞なくそのあとで行動するので即時の意となる。
人がすわって食物を盛った食卓の側にくっついたさまを示す会意文字。則(そばにくっつく)-側(そば)と同系のことば。のち,副詞や接続詞に転じ,口語では便・就などの語にとってかわられた。

(=<皀+旡>)の《旡》は,腹いっぱいになっておくびの出るさま。 既は,「ごちそう+音符旡」の会意兼形声文字で,ごちそうを食べて腹いっぱいになること。 限度まで行ってしまう意から,「すでに」という意味を派生する。 漑(田畑に水をいっぱい満たす)-概(ますに米をいっぱい満たす,ますかき棒)-慨(胸いっぱいになる)などは同系のことば。

は,「Α(集めてふたをする)+穀物を盛ったさま」をあわせた会意文字。 容器に入れて手を加え,柔らかくして食べることを意味し,飴(穀物に加工して柔らかくしたあめ)-飼(柔らかくしたえさ)-式<ショク>(作為を加える)などど同系のことば。

シュ
会意。
《水》と《酉》からなる。 穀物や果実から醸した「さけ」の意。 《酉》は酒を入れた壺の形をかたどっている。 殷の滅亡の原因は上下をあげて飲酒に耽ったことにあったとされるが,祭祀を重んじた古代国家では神事に酒が必要であり,殷人の飲酒は必ずしも享楽のためではなかった。 
前漢末期,王莽が,当時国家の統制販売品であった塩・鉄・酒について,官吏と大商人が結託して値段を吊り上げる情況を見て,改善の命令を発した。 その中に「其れ塩は食肴の将なり。 酒は百薬の長にして,嘉き会のよろしきものなり。 鉄は田農の本なり。・・・・」という文句がある。
形声。
声符は酉(ゆう),qiu.gifの省文。 酉は酒樽の形。 酒樽より酒気の発するとことをqiu.gifといい,qiu.gifをもつことを尊(樽)という。 禹のとき儀狄が酒を作り,また杜康が酒を作ったという起源説話がある。
qiu.gif<シュウ>は酒つぼから発酵した香りの出るさまを描いた象形文字で,酒の原字。 酒は「水+酉(酒つぼ)」の会意文字で,もと,絞り出した液体の意を含む。
酉は口の細い酒壺を描いた象形文字。

コウ
・キョウ
会意。
《黍》(穀物のキビ)の省略形である《禾》と《甘》(あまい。《曰》はその省略形)とからなる。 キビから作った酒が発する芳香の意で,そこから一般的にいい香りを表す。
会意。
正字は黍に従い,黍(しょ)+曰(えつ)。 [説文]に「芳なり」とあり,黍と甘との会意文字とするが,甘はもと甘美の字でなく,嵌入の形であるから,甘美の意を以って会意に用いることはない。 字の初形がなくて確かめがたいが,黍をすすめて祈る意で,曰は祝詞の象であろう。 黍は芳香のあるものとされ,[左伝,<人+喜>五年]「黍稷の馨(かんば)しきに非らず。 明徳惟れ馨し」「明徳を以って馨香を薦む」とは黍稷の馨香を以って神に薦めるもので,甘美の意味ではない。
篆文は 「黍(きび)+甘(あまい)」 の会意文字で,きびを煮たときに漂ってくるよいにおいをあらわす。 空気の動きによって伝わる意を含む。 向(空気の通る換気口)-響(空気に乗って伝わる音)と同系のことば。

バイ
会意。
《木》と音符《毎》バイとからなる。 ウメの実はたくさん実り,悪阻(つわり)の症状にきくことから,安産や結婚に関するめでたいシンボルとされる。
」という字はもともと「ウメ」という植物を意味することばだった。 しかしやがて「なにがし」「だれそれ」という意味で使うのがふつうとなり,《某》に改めて木ヘンを加えた《》を作りウメの意味を表すようになった。 だからこの字にはヘンとツクリの下部の二ヶ所に「木」があるという妙なことになっている。 この《楳》の異字体として使われたのが《》である。 六月頃の長雨を「梅雨」と書くのは,ちょうど梅の果実が実る頃に降るからだと説明される。 異説があって,その頃はジメジメして衣服によくカビが生えるので,最初は「黴雨」と書いたが,のちに美称の「梅雨」に変わったというもの。
形声。
声符はmei3.gif(毎)。 [説文]に「<木+>(くすのき)なり。 食らふべし。 木に従い毎聲」とし,また楳を録して某声とする。 前条に「<木+>(ぜん)は梅なり」とあって,互訓。 荊州では梅,揚州では<木+>という。 また,某字条に「酸果なり」とあり,某をの初文とする。 某は金文では曰(えつ)と木に従い,木の枝に願文をかけ神に謀り(いの)る意で,謀の初文である。
mei3.gif(=毎)は,まげ+音符母の会意兼形声文字で母親がどんどん子をうむことを示す。
梅は「木+音符mei3.gif」 の会意兼形声文字で,多くの実をならせ,女の安産をたすける木。 莓(どんどん子株をふやすいちご)-媒(男女に子をうませる仲介をする)と同系のことば。

※ 「」は「木+甘(口に含む)」の会意文字で,梅の本字。 なにがしの意味に用いるのは当て字で,明確でないとの意を含む。





V 社会と国家





・ケ
会意。
《宀》(屋根の象形)と《豕》(神に供えられる犠牲としてのブタ)とからなり,動物を犠牲として供えてお祭りをする,先祖の位牌を安置してある廟(たまや)を指す。 もとは家屋の中で最も神聖な建物を指した。
  この「家」と同様の作り方をする文字に「」がある。 《宀》の下に《囗》が二つ並んでいるが,この《囗》は祭りを行う部屋を平面的に描いたものである。 だから「宮」も最初から宮殿の意味を持っていたのではなく,本来は祖先の位牌を安置した廟であった。
  神聖な「家」や「宮」には,祭祀の時に家族の主要な構成員が集まった。 そこから意味が拡大して,人間が居住する空間,さらにそこに暮らす人間をも「家」で表すようになった。(ex..一家,平家,音楽家,儒家)
会意。
宀(べん)と豕(し)。 金文の豕の字形は<豕+<豕の中央に斜め横棒>(<豕+殳>殺(たくさつ)した犬牲)に従う形。 犠牲を埋めて地鎮を行った建物の意。 卜辞では「上甲の家」のように,その廟所の意に用いる。 

<豕(し):象形。 豕(ぶた,いのこ)の形。 [説文]に「(てい)なり。 其の尾を竭(つく)す。 故に之を豕と謂ふ」とするが「尾を竭す」とは尾までを加えた意であろう。 は矢に従い,卜文では豕を矢が貫く形にしるされている。
:尸+至。 至は矢の至り止まるところ。 地を卜するのに,矢を放ってその達するところよって占地をした。 廟所として祀るところを,しばらく屍体を置いて風化を待つところをという。
「《宀》(やね)+《豕》(ぶた)」の会意文字で,大切な家畜に屋根をかぶせたさま。 廈(大屋根をかぶせたいえ)ともっとも近い。 仮(仮面をかぶせる)-胡(上からかぶさってたれるにく)と同系のことば。

は「肉+音符古」の形声文字で,大きく表面を覆い隠す意。

は両わきのへや,
は体をゆるめて休む所,
は上からたれるおおい・屋根,
はじっと定着する住居,
は行き詰まりの奥べや。

コク
会意形声。
本来の字形は「」。 《囗》(城壁で囲まれた地域)と,音符と意符を兼ねる《或》ワク→コク(くに)とからなる。 《或》は「國」の原字で,会意,《囗》と《戈》(ほこ)と《一》(土地の境界線)とからる。
 中国の歴代王朝の皇帝の中で自分専用の漢字を作った唯一の皇帝が則天武后(武照)である。 「則天文字」の中でよく知られた字は「天・地・日・月・星・戴・年・照・聖・授・戴・国」など。 この時「国」に代わる文字として作られたのが「圀」である。 これは《八》と《方》を《囗》で囲んだ形で,広く世界の四方八方を自分の領土に囲い込もうとする強欲な意識の産物である。 この字は何故か水戸のご老公こと「水戸光圀」の名前に採り入れられた。
会意。
旧字は國に作り, 囗(い)+或(わく)。 或は囗と戈(ほこ)とに従い,囗は都邑の城郭,戈を以ってこれを守るので,或は國の初文。 國は或にさらに外郭を加えた形である。 もと国都をいう。 
・・・・国は軍事的,は宗教的な性格をもつ字である。 金文に,古くは或を用い,また国家のことは邦家というのが例であった。
或<ワク>は「弋(くい)+囗(四角い区域)」の会意文字。 金文の或の字は,囗印を上下両線で区切り,そこに標識のくいを立てることを示す。 弋はのち戈(ほこ)の形となり,ほこで守る領域を示す。 國は「囗(かこい)+音符或」の会意兼形声文字で,わくで境界を限る意を含む。 或-域-國はもと同系のことばであったが,のち,或は有(ある,あるいは)に当てられ,域は地域の意に用いられる。
国,圀は國の異体字。

オウ
象形。
幅の広い刃に長い柄を取り付けた,大きな鉞(まさかり)を支柱に立てかけた形にかたどる。 古代中国では大きな鉞が,王者の実力と権威の象徴とされ,王が座る位置に大きな鉞が置かれていた。
象形。
鉞(まさかり)の刃部を下におく形。 王位を象徴する儀器。 卜文・金文の下画は強く彎曲して,鉞刃の形をなしている。 皇は鉞頭に玉飾りを加えてかがやく意。 王・皇とも王の儀器である。
「大+━ 印(天)+━ 印(地)」の会意文字で,手足を広げた人が天と地の間に立つさまを示す。 あるいは,下が大きく広がった,おのの形を描いた象形文字ともいう。 もと偉大な人の意。 旺(さかん)-汪(ひろく大きい)などと同系のことば。

ドウ
・トウ
sinnyu.gif》(道路)と《首》(くび)とからなり,異民族の首を手に持って歩くことを示す。 首を魔よけとして荒野を跋扈する悪霊を祓いながら作っていく道,の意。 【白川静氏が初めて唱えた説】 会意。
首(しゅ)+(ちゃく)。 古文は首と寸に従い,首を携える形。 異族の首を携えて除道を行う意で,導く意。 祓祭を終えたところを道という。
(彡/疋<但し疋から一を省いたもの>)+音符首」の会意兼形声文字で,首(あたま)を向けて進みゆくみち。 また迪<テキ>(みち)と同系と考えると,一点から出てのびていくみち。


・ム
会意。
《戈》カ(ほこ=武器)と《止》(人の足跡)とからなり,武器を持って進軍することを示す。 もとは「戦争」の意。 そこから「勇気」の意味に使われる。 古くは武器の使用を止めるのが真の「武」(勇気)とする説(『春秋左氏伝』宣公十二年による)があったが,それは《止》の意味を取り違えた誤りである。 《止》は人の足跡が前後に並んださまをかたどった象形文字で,本来は「人間の足」を意味し,そこから「進む」ことを表す漢字だった。
会意。
止(し)+戈(か)。 止は趾の形で,bu.gif(歩)の略形。 戈(ほこ)を執って前進することを歩武という。 歩武の堂々たることをいう。
「戈(ほこ)+止(あし)」の会意文字で,戈を持って足で堂々と前進するさま。 ない物を求めてがむしゃらに進む意味を含む。 賦(求める)-慕(求める)-摸(さぐる)-驀(馬がむやみに前進する)-罵(むやみにつきかかる,ののしる)と同系のことば。

=心+音符莫。 莫は草むらに日が没して見えなくなるさま,ない意を表す。 慕で身近にないものを得たいと求める心のこと。
=网(あみ)+音符馬。 馬が突進するように,相手かまわず押しかぶせる悪口のこと。

セイ
・ショウ
会意。
《囗》(城壁に囲まれた集落)と《止》(人の足跡)とからなり,集落に向って攻撃を仕掛けることを表す。 他者に戦争をしかけることで勝者が自分を正当化することから,やがて「ただしい」という意味に使われるようにった。 戦争をしかける意味として,改めて「道路・行進」を示す《彳》をつけた「」が作られた。 「正」と「征」はこのように親子の関係にある文字なので,「古今字」という。
   「正」の一番上にある横線の画は,古くは《□》か《○》という形に書かれていたのが変わったもの。
会意。
一+止。 卜文・金文の字形は一の部分を囗(い)の形に作り,囗は都邑・城郭の象。 これに向って進む意であるから,正は征の初文。 征服者の行為は正当とされ,その地から貢献を徴することをといい,強制を加えてそれを治めることをという。 征服・征取・政治の意より正義・中正へ,また純正・正気の意となる。
「一+止(あし)」の会意文字で,足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。 征(まっすぐに進む)の原字。

リョ
会意。
《<方+人>》(意味:上に吹き流しをつけた旗)と《人》からなる。 「旅」は旗を持った人の後ろに,何人かがつき従って歩くさまを示す。 「旗」や「族」,「旋」などと同類で,氏族のシンボルである旗を立てて行進するのは戦争のため。 「旅」は軍団の編成単位を示す文字で,古い文献には「軍の五百人を旅となす」とある。 のち広く「人が移動する」ことをいうようになった。
会意。
<方+人>(えん)+从(じゅう)。 从は從(従)の初文で,前後相従う人。 氏族旗を奉じて,一団の人が進む意で,その軍団をいい,また遠行することをいう。 軍旅のことに限らず,別宮に赴いて祭ることを旅祭といい,その祭器を旅(りょい)という。

※ :@宗廟に供える重要な器の総称。 Aつね 一定の格式
「<方+人><《方》と「旗」や「旅」の右半分の上とを組み合わせた形>(はた)+人二人」の会意文字で,人々が旗の下に隊列を組むことを示す。 いくつもならんで連なる意を含む。 軍旅の旅がその原義に近い。
 侶<リョ>(ともがら)-呂<リョ>(ならんだ背骨)などと同系のことば。

形声。
《寸》(はかる)と音符《之》シ(《土》はその変わった形)とからなる。 本来は「」の原字で,「もつこと」。 また「」の原字で「接待すること」も表した。 転じて,諸般の雑務をつかさどる役所のこと。 漢代に西域から来た僧を鴻臚寺という接待所に泊めたため,のち寺を仏教寺院の意に用いるようになった。 《寸》は右手をかたどった象形文字で,ここでも「ものを手にもつ」ことを意味する要素として使われている。 実際に「寺」を「もつ」とか「保持する」という意味で使った用例が,西周時代の鐘に記録された銘文や,中国最古の石刻として知られる「石鼓文」などに残っている。 のち寺院の意で用いられることが多くなったので,本来の意味を表すためにあらためて《手》をつけ加えた「持」が作られた。 つまり「寺」は「持」の原字である。
 サンスクリット語で「寺院」にあたる建物をサンガーラーマという。 中国では仏典の翻訳にあたってこれを音訳して「伽藍」と書き,また修行に精励する僧尼の住む舎という意味で「精舎」と訳された。 今でいう「寺院」は,最初は「寺」とは訳されなかったのである。
形声。
声符は之(し)。 寸は手にものをもった形。 寺はの初文。 ある状態をしばらく持ち続けること。 官府の意をもって解するのは漢以後の用羲である。  外交の役所であった鴻臚寺を,のち浮屠(僧)の居舎としたので,のち仏寺の意になった。
「寸(て)+音符z_zhi.gif(=之(足で進む))」の会意兼形声文字。 手足を動かして働くこと。 (はべる)や接待のの原字。 転じて雑用をつかさどる役所のこと。 また漢代に西域から来た僧を鴻臚寺という接待所に泊めたため,のち寺を仏寺の意に用いるようになった。

バイ
象形。
子安貝(こやすがい)の貝殻の形にかたどる。 そこから「かい」の意を表す。 古代中国では南海に産する子安貝が貴重視され,貨幣としての役目も果たしたことから,広く「財産」また「宝物」の意を表す。 子安貝は黄河中流域にあった殷王朝が,遥か東南沿岸地方の国から入手したもので,貴人が没した後は,大量の子安貝が遺骸とともに墓に埋葬された。
象形。
子安貝の形。 子安貝は古くは呪器とされ,また宝貝とされた。 子安貝の原産地は沖縄であったと考えられ,これを入手することはかなり困難であったらしく,殷・周期の装飾品には,玉石を以ってその形に模したものが多い。 のちの財宝関係の字は多く貝に従う。
われめのある子安貝,または二枚貝を描いた象形文字。 古代には貝を交易の貨幣に用いたので,貨・財・費などの字に貝印を含む。 敗(二つにやぶれる)-廃(われてだめになる)-肺(左右二つにわれたはい)と同系のことば。

ゲイ
象形。
本来はと書く。 植物の苗を土に植えようとしている形にかたどる。 もとは「人間の精神に何かを芽生えさせるもの」の意。 心の中に豊かに実り,やがて大きな収穫を得させてくれるものが「藝」であり,その代表は学問であった。 そこから「芸術」「芸能」の意味に使われる。 
  日本で使われる「芸」はもと別字で音はウン,《艸=草》と音符《云》ウンからなる。 形声。 防虫剤として使われる香り草の名前。 日本では早くから「藝」の略字として使われた。
会意。
旧字はに作り(げい)音。 芸は藝の常用字体であるが,別に耕耘除草をいう芸(うん)がある。 正字はに作り,(りく)とgeki.gif(げき)に従うとする。 土塊を持ち種芸する形と解するものであろう。 卜文の字形は苗木を奉ずる形であり,金文にはこれを土に植える形に作る。 土は<示+土>(社)の初文ともみられ,特定の目的で植樹を行う意であろう。 すなわち神事的,政治的意味をもつ行為である。
原字はで,「木+土+z_hitote.gif(人が両手を差し伸べたさま)」の会意文字。 人が植物を土に植え育てることを示す。 不要な部分や枝葉を刈り捨ててよい形に育てること。 刈と同系のことば。 芸は本来ウンと読み,田畑を耕して,草をとることだが,形が似ているため藝と混同されたもの。

ブン
・モン
象形。
胸の中央に「文身」(=入れ墨)を施した人を正面から見た形にかたどる。 古代には成人した若者や死者などの身体に一定の図案を入れ墨として施す習慣があり,そこから「文」が「きらびやかな模様=あや」という意味を表すようになった。 「文章」も本来はきらびやかな世界を文字で表現したもののことである。 入れ墨とは,特定の部族や集団の構成メンバーが必ず通過しければらい社会的慣習(これを「通過儀礼」という)として身体に加える装飾のことである。

  ≪前述の「辛」の項目を参照のこと≫
象形。
文身の形。 卜文・金文の字形は,人の正胸形の胸部に文身の文様を加えた形。 文様には×や心字形を用いる。 凶礼のときには×形を胸郭に加えるので,凶・兇・匈・胸(きょう)は一連の字。 婦人を葬るときなどに両乳をモチーフとして加え,爽・爾(じ)(せき)はその象。 みな美しい意がある。
 元服を示す彦は旧字はyan4.gifに作り,産はchan3.gifに作る。 その文は,厂(かん)(額)に文身を加える意で,産は生子の額にアヤッコ(綾子)をしるす意。 額に文身を加えたものをyan2.gif(顔)という。
もと,土器につけた縄文の模様のひとこまを描いた象形文字で,こまごまと飾りたてた模様のこと。 紋の原字。 のち,模様式に描いた文字や,生活のかざりである文化などの意となる。

会意形声。
《羊》(ひつじ)と《我》(のこぎり)からなり,《我》ガ→ギは音符を兼ねる。 神の前で犠牲のひつじを切るときの敬虔な気持ちを表す。 そこから,「ただしい」,また「人としてふみおこなうべきみち」の意を表す。 《羊》の文字はヒツジの特徴である角の形にかたどったもの。 『説文解字』の羊部には「羔」(こヒツジ),「<羊+>」(生後五ヶ月のヒツジ),「<(矛+攵)/羊>」(生後六ヶ月のヒツジ),「<羊+兆>」(一歳未満のヒツジ)など,大きさや年齢によって細分化した意味を表す漢字が収められている。 「」は《羊》と《大》からなる会意文字で,神様に供えられるヒツジが大きければ大きいほど神様に喜ばれるので,「りっぱなもの」「すばらしいもの」という意味を表した。 《我》を人称代名詞として使うのは,当て字として使われた結果である。
会意。
羊+我。 我は鋸(のこぎり)の象形。 羊に鋸を加えて截り,犠牲とする。 その牲体に何らの欠陥もなく,神意にかなうことを「義(ただ)し」という。 はその下体が截られて下に垂れている形。 金文に「義(よろ)しく〜すべし」という語法がみえ,と通用する。 宜は且(そ)(俎)上に肉をおく形。  神に供薦し,神意にかなう意で,義と声義が通ずる。
我は,ぎざぎざとかどめのたったほこを描いた象形文字。 義は,「羊(かたちのよいひつじ)と音符我」の会意兼形声文字で,もと,かどめがたってかっこうのよいこと。 きちんとしてかっこうがよいと認められるやり方を羲(宜)という。

 ※ は「宀(やね)+多(肉を盛ったさま)」の会意文字で,肉をたくさん盛って,形よくお供えするさまを示す。 転じて,形がよい,適切であるなどの意となる。 羲(よい)-儀(形のよい姿)などと同系のことば。





W 自然と生物




サン
・セン
象形。
地表からやまがそびえる形にかたどる。 やまの意。 非常に古い時代,中国では山をかたどったフォルムとしてやまを「△△△」と書いた。
象形。
山の突出する形に象る。 山は古代の信仰の中心をなすものであった。 山には霊力を蔵する力があると考えられていたようである。

※ は鋸型の型である网(もう)に火を加え焼成によって剛くなる意で,はその鋳型を裂く意。
※ は宀(べん)と戈(か)と火に従い,神刀に火を入れる意で,山の部分はもと火の形である。
△型のやまを描いた象形文字で,△型の分水嶺のこと。 は高く切りたったやま,は盆地をかこむ外輪のやま。

※ は「山+网(つな)」の会意文字。 网は網の原字であるが,ここでは綱を示すと考えたほうがよい。 かたく,まっすぐな意を含む。 は低くて上がくぼんだ台地。

ボ・モ
・バク
・マク
会意。
上下二つずつの《艸》(=草)と《日》(=太陽)とからなり,草むらの中に太陽が沈む時間,すなわち「夕暮れ」の意味わ表す。 のち借りて「・・・・なし」という意味で使われるようになったので,,本来の夕暮れの意味を示す文字として,さらに《日》をつけ加えた「暮」が作られた。
会意。
<艸/艸>(ぼう)+日。 草間に日が沈むときの意で,暮の初文。 莫が否定詞などに使われ,さらに日を加えて暮となった。 金文には専ら否定詞に用いられ旦暮の意の例がなく,亞(亜)中に莫をしるして,墓の意を示したかとみえる例がある。
草原のくさむらに日が隠れるさまを示す会意文字。 暮の原字。 隠れて見えない,ないの意。 幕(見えなくする布)-墓-無-亡と同系のことば。

ゲツ
・ガツ
象形。
つきがかけた形にかたどる。 天体としての月の意。 そこから月が地球を一周する時間を表す。
「肉」という字が他の字を構成する要素として使われる時には《月》と書く。 「胴」や「肌」という字の部首になっている「月」がそれで,日本では「ニクヅキ」と呼ぶ。 『康煕字典』によれば,ニクヅキと天体のツキはもともと字形が微妙に異なっており,ニクヅキは中央の二本線を左右にくっつけて書き,ツキは二本線を左にくっつけ,右にはつけないのが正しいとされる。
象形。
月の形に象る。 卜文の字形は時期によって異なり,月と夕とが互易することがあるが,要するに三日月の形である。
三日月を描いた象形文字で,まるくえぐったように,中が欠けていく月。 (まるく中をえぐる)-外(まるくえぐって残ったそとがわ)と同系のことば。

セキ

象形。
夕の月の形。 殷・周期には古く朝夕の礼があり,金文に「夙夕(しゅくせき)を敬(つつし)む」という語がみえ,夙夕に政務が行われた。 また大采・小采といい,その時会食し,同時に政務をとった。 その大采の礼を朝といい,朝政という。
※ 朝:会意。 艸(そう)+日+月。 艸は上下に分書,その間に日があらわれ,右になお月が残るさまで,早朝の意。
三日月の姿を描いた象形文字。 夜(ヤ)と同系で月の出る夜のこと。

※ :金文は「草+日+水」の会意文字で,草の間から太陽がのぼり,潮が満ちてくる時を示す。 篆文は「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字で,東方から太陽の抜け出るあさ。

ライ
古代文字は象形。
稲光が空中を回転しながら光る形にかたどる。 「雷」は形声。 《雨》(あめ)と音符《》ライ(《田》はその省略形)とからなる。 「震」という漢字は本来は急に激しく鳴る雷のことであった。 それが「ふるえる」という意味で使われるようになったのは,雷鳴にともなう激しい空気の振動から連想された結果である。
形声。
正字はに作り畾(らい)声。 金文にlei5.gifに作り,電光の放射する形で,もと象形字である。
<ライ・ルイ>は,ごろごろと積み重なったさまを描いた象形文字。 雷はもと「雨+音符」の会意兼形声文字で,雨雲の中に陰陽の気が積み重なって,ごろごろと音を出すこと。 壘(=塁。積み重なった土)と同系のことば。

シン

象形。
電光の走る形に象り,~(神)の初文。 電の下部は,その電光の屈折して走る形。
 金文には申を神の意に用いる。 [詩,小雅,采菽]に「やR之を申(かさ)ぬ」のように申重の意に用い,また上申・申張のように用いる。 はその派生字である。
甲骨文字と金文とは,いなづま(電光)を描いた象形文字で電の原字。 篆文は「臼(両手)+h印(まっすぐ)」の会意文字で,手でまっすぐ伸ばすこと。 伸(のばす)の原字。

【注記】臼はここでは最下線が中央線同様に不連続な文字(キク)の代用として使用。

ホク
象形。
たがいに背を向けあっている人の形にかたどる。 たがいにそむきあうことで,「背中」あるいは「そむく」の意。 方角の「きた」は,太陽に向った時に背中がある方向。 戦いに負け,敵に背中を見せて逃げることを「敗北」というのはそのためである。 ちなみに「背」はこれに身体を表す意符の《肉=月》を加えた形。
会意。
二人相背く形に従い,もと背を意味する字。 [説文]に「乖(そむ)くなり。 二人相ひ背くに従ふ」とあり,また日に向って背く方向の意より,北方をいい,背を向けて逃げることを敗北という。
左と右の両人が,背を向けてそむいたさまを示す象形文字で,背を向けてそむく意。 また背を向けて逃げる,背を向ける寒い方角(北)などの意を含む。

シュン
形声。
《日》(太陽)と音符《艸/屯》トン・チュン→シュンとからなる。 草が芽生える春の意。 『詩経』の「七月」という詩に「女の心傷み悲しむ」という句があり,それに対して後漢の学者が「春には女は陽の気に感じて男を想い,秋には男は陰の気に感じて女を想う」と注釈をつけている。 「春」に「エッチ」という意味があるのは,女が春に男を求めることから派生した結果のである。 であるなら「秋」にも当然「エッチ」という意味があるべきだ。
形声。
正字は<草かんむり/屯/日>に作り,屯(ちゅん)声。 [説文]に「日と艸と屯とに従ひ屯の亦聲」とする。 屯の声義をとるとれば,屯を屯蒙の象として,草木初生の時とするものであるが,屯はもと屯頓の意ではなく,衣の縁飾(へりぬい)の象である。 ただ金文の春の字に, 若の初形に従うらしい形があり,草木の初生を以って春とする考え方はあったものと思われる。
屯<トン・チュン>は,生気が中にこもって,芽がおい出るさま。 春はもと「草かんむり+日+音符屯」の会意兼形声文字で,地中に陽気がこもり,草木がはえ出る季節を示す。
 頓(ずっしりと頭を下げる)-純(ずっしりとたれた縁どり)-蠢(中にこもってうごめく)などと同系のことばで,ずっしりと重く,中に力がこもる意を含む。

トン・
チュン

象形。
織物の縁飾(へりかざり)の形で,純の初文。 屯は縁の糸を房飾りのように結んだ形。 織物では織糸を集め束ねて作るので,屯束・屯集の意がある。 屯難(ちゅんなん)の義は引伸,字形は草の初生とは関係ない。
「―+(草の芽)」または「+・印」の会意文字で,ずっしりと生気をこめて地上に芽を出そうとして,出悩むさま。 

【注記】はここでは中央線が直線である古文字の代用として使用。

カ・ゲ
象形。
人が大きな仮面をかぶって舞っているさまにかたどる。 もとは舞の名。 借りて,季節の意に用いる。 古代中国に「大夏」という楽曲があったとされる。 やがてこの優美な舞に象徴される優れた文化をも「夏」という文字で表すようになった。 「夏」は世界の中心にある国,すわち中国という意味で使われ,周辺の未開で野蛮な「夷」と対比される。 この文字が季節の意味で使われるようになったのは,単にその舞と季節の名称が同じ発音だったからにすぎない。
象形。
舞冠を被り儀容を整えて舞う人の形。 [説文]に「中国の人なり。 夊(すい)に従ひ,頁(けつ)に従ひ,臼(きく)に従ふ。 臼は両手,夊は両足なり」とし,古文一字を録する。  金文の字形は舞冠を着け,両袖を舞わし,足を高く前に挙げる形になり,廟前の舞容を示す。 古く九夏・三夏とよばれる舞楽があり,[周礼]にみえる。 夏を中国の意に用いることは春秋期の金文に至ってみえ,[秦公<皀+殳>(き)]に「蠻夏」の語がある。 また季節名に用いることも,春秋期以後にその例がみえる。

【注記】臼はここでは最下線が中央線同様に不連続な文字(キク)の代用として使用。
頭上に飾りをつけた大きな面をかぶり,足をずらせて舞う人を描いた象形文字。 仮面をつけるシャーマン(みこ)の姿であろう。 大きなおおいで下の物をカバーするとの意を含む。 転じて,大きいの意となり,大民族を意味し,また草木が盛んに茂って大地をおおう季節を表す。 廈(大きい家)と同系のことば。

シュウ

会意。
正字は龝<但し龜の下に四点の火に作り,禾(か)+龜+火。 龜は穀につく虫の形。 卜文に秋に虫害をなすものを焚く形の字があり,おそらく秋と関係ある字であろう。 卜文に四季の名を確かめうる資料はない。 秋は龝<但し龜の下にの字形から螟螣(めいとう)などの形を除いた字形であろう。
もと,「禾(作物)+束(たばねる)」の会意文字で,作物を集めてたばねおさめること。 第二字は「禾(作物)+龜+火」の会意文字で,龜を火にかわかすと収縮するように,作物を火や太陽でかわかして収縮させるもとを示す。 収縮する意を含む。 揪(引き縮める)-愁(心が縮む)と同系のことば。 また縮(ちぢむ)とも縁が近い。

トウ

象形。
糸を結びとめた形。 末端を終結する形で,の初文。 [説文]に「冬聲として終・螽など四字を収める。 のち秋冬の字に用いて,別にが作られた。
もと,食物をぶらさげて貯蔵したさまを描いた象形文字。 のち,冫印(氷)を加えて,氷結する季節の意を加えた。 物を収蔵する時節のこと。 音トウは蓄(たくわえる)の語尾がのびたもの。 (糸を最後まで巻いてたくわえた糸巻きの玉)と同系のことば。


・メ・マ
象形。
うまを横から見た形にかたどり,うまの意を表す。 長いたてがみと,先が細く分れた尾が,字形にみごとに描かれている。 「南船北馬」という語が示すように,特に中国北方の地域では,馬は重要な交通手段であった。 「天高く馬肥ゆる秋」という句は,万里の長城の北側にいる外敵が,肥え太った馬に乗って中国国内に侵入して来ることに対する警戒を呼び掛ける詩の一節から出典である(詩の作者は杜甫の祖父にあたる人物)。
象形。
卜文・金文の字形は(たてがみ)のある馬の形。
うまを描いた象形文字。 古代中国で馬の最も大切な用途は戦車を引くことであった。 向こう見ずに突き進むとの意を含み,武(危険をおかし,何かを求めて進む)-驀(あたりかまわず進む)-罵(相手かまわずののしる)と同系のことば。

ヨウ
象形。
ヒツジのつのの形にかたどる。 「十二支」という考え方のルーツはおそらく西アジアあたりと考えられ,中国にはまずそれを表す音声だけが伝わった。 そのことばを文字で表す時に,同じ音の漢字があてられた。 つまり当て字として使われたのが「子丑寅・・・・」だったのだろう,と私は推測する。 エトでヒツジを表す「未」はもともと樹木がうっそうと茂っているさまをかたどった文字であった。 しかし「未」をその意味で使った例はまったくなく,ほとんどの場合,「いまだに・・・・でない」という否定詞で使われている。
中国に豚肉をたべない回族が増えてくると,さまざまな羊料理が開発された。 そんな中に羊の血を原料として作ったスープがあり,それを「羊羹」と呼んだ。 それを日本人が植物性のベニで代用して菓子としたものが,日本の「羊羹」なのである。
象形。
羊を前からみた形で,牛と同じかきかたである。 羊は羊神判に用い,・善の字は羊に従う。 卜辞に羌人を犠牲とするものが多いが,かれらが牧羊族であったことと関連があるかもしれない。
羊を描いた象形文字。 おいしくて,よい姿をしたものの代表と意識され,養・善・義・美などの字に含まれる。

は木のまだのびきらない部分を描いた象形文字で,まだ・・・・していないの意をあらわす。

は,小さいこども描いた象形文字。 もう一種類の象形文字は,こどもの頭髪がどんどん伸びるさまを示し,主に十二支の子<シ>の場合に用いた。 のち両者は混同して子と書く。

は扭<チュウ>(つかむ)の原字。 手の先を曲げてつかむ形を描いた象形文字。 すぼめ引き締める意を含み,紐<ジュウ・ニュウ>(締めひも)-扭(締めてひねる)-鈕(締め金具)などの字の音符となる。。 殷代から十二支の二番目の数字に当て,漢代以後,動物・時間・方角などに当てて原義を失った。

の原字は「矢+両手」の会意文字で,矢をまっすぐのばす意を示す。 寅はそれに宀(いえ)を添えた会意兼形声文字で,家の中で身体を伸ばして,いずまいを正すこと。 引(のばしひく)-伸(のばす)と同系のことば。

ショウ
・ゾウ
象形。
ゾウの全身の形にかたどる。 借りて,「すがた」の意に用いる。
 象は青銅器の表面を飾る紋様としてもしばしば描かれている。 象の魅力は単にその大きさに由来する神秘的なイメージだけでなく,「象牙」という貴重な物資を産することにもあった。 伝説によれば,「酒池肉林」の故事で有名な殷の紂王がある時象牙で箸を作らせた。 一族の箕子が諫言した。 象牙の箸で食事をすれば玉の食器が欲しくなるであろう,そうすれば食事も贅沢なものを食べたくなるであろう,服装も,宮殿も豪奢なものが欲しくなり,莫大な浪費をすれば国家の破滅につながる,諸悪の根源であると考えたのである。

為(爲)は人間の手が象の鼻をつかんでいる形を示すもので,本来は象を使役することを意味する文字だった。
象形。
長鼻の獣である象の形。 [説文]に「南越の大獣なり。 長鼻,牙あり。 三年にして一たび乳す。 耳牙四足尾の形に象る」という。 卜辞に「象を獲んか」と卜するものがあり,当時は江北に象が棲息しており,捕獲して土木工事に使役していたようである。 象を象徴の意に用いるのは,(祥)との通用義であろう。

※ (祥):形声。 声符は羊。 羊に痒・詳(しょう)の声がある。 おおむねは吉祥の意に用いる。 羊神判によって吉凶を判ずることから,その意となったものであろう。
:「象+手」。 手で象を使役する形。
ぞうの姿を描いた象形文字。 ぞうは最も目だった大きいかたちをしているところから,かたちという意味になった。




の甲骨文字は「手+象」の会意文字で,象に手を加えて手なづけ,調教するさま,人手を加えてうまく仕上げる意。 転じて,作為を加える→するの意。

チョウ
象形。
とりがとまっている形にかたどる。 
さまざまな事物の起源を集めた『事物紀源』という本の中に,「卵を食べるようになった由来」という話がある。 むかし聖人が国を統治していた時代には鳳凰がいたるところにいた。 鳳凰は地上が最高に平和な状態に治まっている時に,天がそれを愛でて地上に遣わす「瑞鳥」のだが,ある時一人の人間がその卵を食べてしまった。 人間社会に愛想を尽かした鳳凰は地上から姿を消し,それとともに地上から平和は消えてしまつた。 それで後の人は,しかたなく,ニワトリやアヒルの卵を食べるようになった,という。

  中国で鳥の肉を使った料理を総称する時に「鳥」という漢字をほとんど使わない。 日本で「鳥料理」といえばニワトリを使った料理と決まっているが,中国の料理では単に「鳥」といっても何の鳥か分らないというのがその主な理由なのだが,もうひとつ過去の中国語での「鳥」はあまり穏やかな文字ではなかったからだ。 この字はniaoという発音が,男のモノを意味するdiaoということばとよく似ているので,「鳥」がやがて男のモノを指して使われるようになり,さらに,「このチ○ポコ野郎」という品のない罵倒語としても使われた。
象形。
鳥の全形。 その省形は隹(すい)。 卜文では神聖鳥のとき,鳥の象徴字を用いることが多い。 鳥と通用し,またその音で人畜の牡器をいい,賤しめ罵る語に用いる。
尾のぶらさがった鳥を描いた象形文字。 蔦<チョウ>(ぶらさがるつた)-吊<チョウ>(ぶらさがる)と同系のことば。

  <スイ>は,ずんぐりとしたとり,<キン>はあみでとらえて飼うとり。

 北京語のniauは,ぶらりとたれた男性性器(diao3.gif diao=吊)と同音であるのを避けた忌みことば。









その他<本書以外から>




ハク
・ビャク

象形。
頭顱(とうろ)の形で,その白骨化したもの,されこうべ。 雨露にさらされて白くなるので,白色の意となる。 偉大な指導者や強敵の首の髑髏として保管された。 

覇者を示す霸(覇)はもと<雨/革>に作り,雨にさらされた獣皮の意。 その生気を失った白色は月色に似ていることから,月色を霸という。
どんぐり状の実を描いた象形文字で,下の部分は実の台座,上半はその実。 柏科の木の実のしろい中みを示す。 柏<ハク>(このてがしわ)の原字。 帛<ハク>(白い布)_粕<ハク>(色のないかす)_皅<ハ>(白い)_覇<ハ>(月のほのしろい輪郭)などと同系のことば。

※霸<ハ>:「雨(空の現象)+革(ぴんと張った全形)+月」を組みあわせて,残月や新月のときの,ほんのり白い月の全形を示した会意文字。 白(しろい)と同系のことば。 ただしその意味は多くは魄の字であらわし,覇はむしろ伯(男の長老)や父(おやじ分)に当て,諸侯のボスや長老の意に用いる。

コク
・コウ

象形。
旧字では<牛/口>に作り,木の小枝に,祝禱を収める器のz_sai.gif(さい)を著けた形。 分析していえば,木の省形と口(z_sai.gif)に従う字である。 牛+口は俗説。 卜辞に「貞(と)ふ。 疾又(あ)るに,羌甲(祖王の名)に告(いの)らんか」のように祈る意に用いる。 告はその祈りかたを示す字。 祝告の器である口をもつ形は史,は内祭として祖廟を祀るのが原義。 その字形は申し文をつけた小枝をもつのにひとしい。 外祭のときには,その枝に吹き流しなどをつけるので,使・事(もと同形)の字となる。 使は祭りの使者で外祭,その祭りを事・大事という。 告・史・使・事はその字形において系列をなす字である。
牛+囗(わく)の会意文字。 梏(しばったかせ)の原字。 これを,上位者につげる意に用いるのは,号や叫と同系のことばに当てた仮借字。 「説文解字」では,つのにつけた棒が,人に危険を告知することから,ことばで告知する意を生じたとする。

シュ

象形。
頭髪のある首の形。 古文はshu.gifに作り,[説文]に「shu.gif同じ。 古文shu.gifなり。 巛は髮に象る。 これを<髟/春>(しゅん)と謂ふ。 <髟/春>はすなわち巛なり」とする。 巛を含めて象形の字である。 字形からいえば,shu.gifは髪を整えた首の形であろう。 首を倒懸する形は<目//巛>(きょう),懸繋することを縣(県)という。
頭髪の生えた頭部全体を描いた象形文字。 抽<チュウ>(ぬけでる)と同系のことばで,胴体から抜け出た首。また,道(頭を向けて進む)の字の音符となる。

ショウ
会意。
妾は,《女》の上に《辛》すなわち入れ墨が加わった形で,本来,罪を犯したり,戦争で捕虜として拉致された結果,奴隷として使役される女性を意味する字だった。 「入れ墨」とは古代で何らかの宗教的儀礼や,或いは刑罰を受けたことを示すために他者から身体に加えられる装飾であって,「遠山の金さん」のしている「彫り物」とは違う。 妾は,のちに,女性の謙称とか愛人の意味に転用された。 <同じ著者の『漢字の字源』より>
会意。
辛+女。 辛は入墨に用いる針。 罪あるものにはこれで入墨を加える。 女には妾,男には童という。 立形の部分はもと辛であった。 本来は神に接するために,神に捧げられたもので,犠牲であろう。 のち,神殿,宮殿につかえるものとなり,また隷属のものとなった。
辛は,入れ墨をする刃物で,捕虜や罪人に入れ墨のしるしをつけることを示す。 妾は「辛+女」の会意文字で,入れ墨をした女どれい。 のち,妾は女性を卑しめていうことばとなった。

ドウ
形声。
上部に《辛》が含まれるのも「妾」と同じ理由による。 「妾」や「童」は一般の成人のように髪を結うことが許されなかったため,いくつになってもザンバラ髪であった。 そのため「童」は後に未成年者,「子供」という意味で使われるようになり,そこで本来の意味を表わすために「」という字が作られた。 <同じ著者の『漢字の字源』より>
形声。
金文の形は東((ふくろ))に従い,東声。 のち重に従う字形があり,重声。 里はその省略形。 上部の立の部分は,古くは辛と目とに従い,目の上に入墨する意で,受刑者をいう。
東<トウ>(心棒をつきぬいた袋,太陽がつきぬけて出る方向)はつきぬく意を含む。 童の下部の「東+土」は重や動の左側の部分と同じで,土(地面)をつきぬくように↓型に動作や重みがかかること。 童は「辛(鋭い刃物)+目+音符東+土」の会意兼形声文字で,刃物で目をつき抜いて見えなくした男のこと。 棟(つきぬくむねの木)_通(つきぬく)などと同系のことば。

シキ・
ショク
象形。
ひざまずいた女性の後ろから男性がおおいかぶさっているさまをかたどった字で,「後背位」というラーゲでの性交を描いた文字である。 ここから「色」は異性関係の総称として使われるようになり,さらに美しい女性を意味する字ともなった。 <同じ著者の『漢字の字源』より>
会意。
人+卩(せつ)。 人の後から抱いて相交わる形。 [説文]に,「顔气なり。 人に從ひ,卩に從ふ」とし,人の儀節(卩)が自然に顔にあらわれる意とするが,男女のことをいう字。 尼も字形が近く,親昵の状を示す。
かがんだ女性と,かがんでその上に乗った男性とが体をすりよせて性交するさまを描いた象形文字。 セックスには容色が関係することから,顔や姿,いろどりなどの意となる。

ボウ
・ホウ

象形。
仰向けの屍体の型。 水に浮ぶのを泛,土中に埋めるのをといい,・・・・字は正の反形ではなく,むしろ亡の反文に近い。

:死者の屈肢の形。 乏・荒<但し,艸のない形>と同じく死者の象。 荒<但し,艸のない形>はなおその頭髪を存する形である。 无は乏の異体字。
正の字の反対の形で会意文字。 正(征の原字で,まっすぐ進むこと)とは反対の,動きがとれないの意をあらわした。 乏は貶(おとす,退ける)に含まれる。

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☆ 網野善彦著『「日本」とは何か 日本の歴史00』 を読む <2004.06.01>

発行:講談社―(2000年10月)

  この本は『日本の歴史シリーズ』のいわば序章にあたる。 発売当時はかなりのベストセラーだったらしい。 著者の網野善彦氏は2004年2月27日に逝去された。 新聞紙上でその死を悼む文章の中にこの本が触れられていたので,読んでみる気になった。 ある考古学関連のシンポジウムで一度お話しを聞いたことがあったが,その時,私は中世が専門なので,と控え目におっしゃっていたのを覚えている。 今まで中世についてはあまり興味がなかったので,網野善彦氏の本は今まで読んだことはなかった。 初めて読んでみて,いろいろと教わることが多かった。 その中でも特に納得させられたこと,興味をそそられたこと四点を順に記す。

@ 分裂症的国号「日本」
  「日本」という国号が初めて対外的に用いられたのが,702年に中国大陸に到着した倭国(ヤマト)の使者が,唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったという。 七世紀初頭の遣隋使の持参した倭王の国書の「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。 恙無きや」という文言にあるように,日の本(もと)という意味から付けられた言葉である。 ここには随唐帝国に対する独立小国のつっぱり精神が表わされている反面,「日出づる処」というのは中国大陸から見ての視点から言える言葉であるから,この国号はまさしく「分裂症」的な国名であった。 しかもすでに平安時代,参議紀淑光(きのよしみつ)がこのことに疑問を呈している。

A 「斉一な日本民族」の虚像 ―東日本と西日本はまるで別の国―
静岡糸魚川構造線は二つの列島,列島西半分と列島東半分が2000年前に大陸移動説のように接合した名残りであるという奇想天外な説を読んだことがあるが,それはさておき西が先進的,東が後進的という見方はヤマトの天皇中心的国家観から見た偏見であり,古くからそれぞれに固有の文化が存在した。 東と西の境界線は比較する対象により異なる。



西日本(列島西部)東日本(列島東部)
水田稲作以前の畑作農耕照葉樹林帯に,アワ・ヒエ・ソバなどの雑穀を主とし,それにイモ類の栽>培の加わった畑作農耕ナラ林帯に,アワ・キビなどの雑穀類やムギ類を主作物とする畑作と牧馬の慣行が結びついた独特の畑作文化。
方言「西部方言」「東部方言」
竪穴式住居及びその主柱配列の原理近畿以西の西部では,大型円形や多角形の住居が発達した。主柱配列は求心構造。東部・中部・関東などの東部では大型の長方形系統の住居が卓越する。 主柱配列は対称構造。
荘園・公領制九州中南部などを除く西国では,郡が徴税単位としてはあまり機能せず,古くからの『倭名類聚抄』の郷がそのまま生きつづけて,荘となる場合が広く見られた。 そのため,西国の荘の規模は多くの場合,東国よりもはるかに小規模である。東北・関東などの東国,さらに九州南部については,令制の郡から転化した郡・条・院などが基本的な単位となり,それ自体が荘となる事例が広く見出され,おのずと荘の規模も大きい。
荘園・公領の統治システム

(横の連帯の西国,
縦の主従関係の東国)
西国の荘や郷・保の内部には,有力な百姓の徴税・納入を請負う田畠が,平民百姓名として確定した単位となっており,そうした百姓名の名主たちの負担を均等にするために,名の田畠の面積が均等にされている場合が多かった。 これは「本百姓」「長百姓(おさびゃくしょう)」などといわれた荘・郷の中心的な百姓たち自身の横の連帯,相互の結びつきが強力であったことを物語っているが,西国では国の御家人たち,あるいは国人ともいわれた非御家人をふくむ国の侍身分の人々が,たがいに「傍輩」の意識を持ちつつ,横の結合を保っている場合が顕著であった。東国諸国の場合,郡・条・郷等の内部に百姓名をほとんど見出すことができない。 西国の荘・郷等の場合は,檢注された在家(ざいけ)と田地・畠地とが結びつけられ,徴税単位としての平民百姓名が形成されているが,東国においては「田・在家」のように,在家と田地がセットになって譲与,売買されている場合は広く見られるとはいえ,それが百姓名となっていることはあまり見出されないのである。
西国の荘については,そのそれぞれに上分・初穂を得分とする本家職(しき),年貢・公事(くうじ)・夫役(ぶやく)を収拾する領家職,その実務を現地で管理する預所職,荘内の有力な領主で年貢・公事徴収に責任を持つ下司職をはじめ,それに関わるさまざまな職務を分担する公文職,田所職,惣追捕使職などが,補任関係を媒介に重層した関わりを取り結び,荘の支配・管理が実現されている。 ふつうこれを「職の重層的体系」などと呼んでいる。東国の郡・荘については,本家・領家は京都とその周辺にいるとはいえ,実際にはその国の有力な豪族的領主が郡司,郡地頭となってその全体を請負い,自らの一族や従者を郡の内部の諸郷に配置し,いわば一族,主従の関係を通じて郡・荘を管理する体制がとられている。
「被差別部落」の東と西の差異は「穢れ」に対する対処の仕方の差異と関係大十三世紀以降,畿内・西国ではそれまで畏怖の対象だった「穢れ」への忌避感が強まるとともに,その「清目」に携わる非人,河原細工丸に対する社会の一部からの賎視が表面化し,ついに「穢多」(えた)という明確な差別語まで登場する。東国に被差別民がはつきりと姿を現わすのは,江戸時代に入ってからである。
荘園・公領の年貢

(「年貢は米」の誤り)
米を年貢とする荘園は西国諸国に多く,とくに畿内・瀬戸内海沿海地域,九州などに顕著である。そのほか独特なものとして:
瀬戸内海の島嶼の塩,
中国山地に沿った荘園の鉄,
紀伊,淡路,阿波・讃岐など南海道の炭や榑(くれ),材木,
但馬・播磨の紙
東は絹,布がむしろ圧倒的であった。
(絹・布は交換手段でもあった)独特なものとして:
武蔵・下野,とくに陸奥・出羽などの馬
大名の統治手法西国の大名は,戦功を褒賞し,称号を与えるなど,家臣とのつながり・きずなを重視する統治を行った。東国の大名は,充実した行政制度を持ち,積極的に命令や指示を出しながら強力に支配した。
貨 幣西国は米の貨幣としての機能,交換手段,支払手段,価値尺度の役割が根強く維持され,十三世紀後半ようやく銭貨がこれに代るようになっているが,その後も米を価値基準とする意識は社会の中に生き続けていた。
  江戸幕府時代に石高制が採られ米価値基準が制度化する。
十二世紀に入り,膨大な量の銭貨(洪武銭・永楽銭・宣徳銭)が中国大陸の宋の船によって輸入され,それが社会に浸透し始めると,まず絹と布が十三世紀前半までに,銭貨にとって代られていく。 「疋」という絹・布の単位が,一疋十文という銭の単位になっている点に,そのことがよく現れており,銭貨の流通は東国の方が早かったのである。
西国の銀本位制東国の金本位制

B 「瑞穂の国日本」の虚像
  「瑞穂の国日本」という誤解は,租税徴収の基礎を水田とした古代の「日本国」の制度――令制(りょうせい)(水田を六歳以上の全人民に与え,すべての人々を租税負担にたえうる「農民」にしようとする強烈な国家意志の貫徹を目的とする)に由来している。  この制度は耕地不足や民衆の生活実態と遊離していたため,形骸化していき,荘園・公領制へと変化していくのだが,荘園・公領制はその制度自体に交易を内包し,それを前提として成立していた。
  実際,備中国新見荘吉野村の年貢鉄は,水田反別五両の割合で徴収され,陸奥の国でも,水田に金や馬が課せられていた。 伊予国弓削荘においては田地・畠地から収穫される米・麦が「塩手米」「塩手麦」として百姓たちに渡され,それに相当する塩を期日を定めて納めるという契約が文書によって結ばれている。
  水田を中心とした「日本国」の制度がその実態を覆い隠し,「自給自足経済」「米年貢」という虚像が広く世に行われるという誤りを生み出した。
  百姓(漢音=ひゃくせい,呉音=ひゃくしょう)はもともと人民という意味しかない。 今日でも中国語でも韓国語でも老百姓(中),百姓(中・韓)は一般大衆,人民,国民という意味である。 日本で農民の意味に固定されたのは,明治の壬申戸籍で百姓を農と読み替えたからではないか。
  耕地面積に乏しい輪島の豪農として知られる時国家は実は大手の廻船交易商人であり,大手の製塩業者であり,鉱山の開発者であった。 また富裕な廻船商人や同じく富裕な「北前船」の船頭でも,前田領における無高民(水呑<みずのみ>,頭振<あたまふり>)に位置付けられていた例もある。 近世における輪島は辺鄙な寒村などではなく,天保ごろの輪島は千軒をこえる百姓・頭振からなる都市に成長していたのである。 その中には大工,指物師,塗師,木地師,素麺,製糸,鍛冶屋などの自営業者,職人などが多く住んでいた。 彼等は全て百姓に分類された。 全国津々浦々の港周辺にも同様な暮しがあったにちがいない。 その他,漁民,山仕事を専業とする人,養蚕関連業も百姓に含まれる。

【関山直太郎『近世日本の人口構造』】
(同書の291頁に掲載の表)

諸 士36,4539.8
百 姓284,38476.4
町 人27,8527.5
社人・寺院・修験7,2561.9
15,7204.2
エタ・非人4890.1(0.2)
合計372,154100.0
※ 秋田(久保田)藩の嘉永二年(1849年)の身分別人口構成

C養蚕が女性の財力・地位の源泉
  中世以前の養蚕は農業と明確に区別され,蚕養(こかい)は女性,農耕は男性の仕事とされていた。 養蚕の産物,さらに麻,やがて木綿などの織物については生産だけではなく,その販売まで女性が行っていたと考えられる。
  十三世紀後半になれば,各市の市庭では「和市」(わし)――相場が立ち,十貫文の額面の為替手形が流通するほどに,貨幣・商品流通が発展していたが,その中で百姓の女性も相場の高下を見きわめるだけの計数能力を身につけて,自らの産物の売買に携わっていたのである。
  当然,そうした営為によってかちえた貨幣は女性自身の自由になる財産であり,古くから出挙(すいこ)――金融に携わっていた女性たちは,そうした貨幣を資本として,さらに金融活動を広く展開していたと考えられる。 そうしてこう考えてくると,ポルトガル生まれの宣教師ルイス・フロイスが「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。 日本では各人が自分の分を所有している。 時には妻が夫に高利で貸し付ける」といっているのはけっして誇張などではなく,十六世紀のの事実と認めてなんの不自然もないといってよかろう。

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