A. 『應用航法記事』<2004.06.05>
  ―白城子飛行學校應用航法演習―

imada-masaji.jpg   私の叔父(亡父の弟)二人はともに20歳台の若さで第二次大戦で戦死した軍人である。 一人(次弟,督ニ<まさじ>(1918.01.12〜1943.08.15))は陸軍航空士官学校を昭和15年(1940年)6月に卒業し,満州(現・中国東北地区)へ赴任し,「白城子陸軍飛行學校」などで訓練を続けていたが,昭和18年(1943年)8月15日にニューギニア方面にて戦死(当時陸軍中尉)。  享年26歳(数え年)。
  もう一人(末弟,新三(1920.02.20〜1942.08.26),当時海軍飛行兵曹)は予科練(甲三=甲種第三期生,昭和14年採用)出身で昭和17年(1942年)8月26日ガダルカナル奪回作戦の際に一式陸攻に電信員として搭乗し,ガダルカナル飛行場を空襲時,搭乗機が被弾自爆して戦死。。  享年23歳(数え年)。

((@)督ニの上記死亡日は正確に言えば,戦闘中行方不明になった日付。 彼の機影が雲に入りそのまま帰還しなかったという僚機の証言からとは私の従兄弟からの伝聞情報。  戦死公報は敗戦直後に届けられた。  私の記憶では,当時焼け野原になっていた岡山市まで父とトラックの荷台に乗って「遺骨」を受け取りに行った。  無論実際には遺骨などは入っていない白木の箱で,随分軽かったというおぼろげな記憶はある。)   
((A)同じ従兄弟からの伝聞だが,督ニ叔父はもともと叔父の父,つまり私の祖父の後を追って騎兵を志望していたらしい。 しかしこれからは航空機が主役になると説得されて進路を陸軍航空士官学校に替えたそうである。)   

今田督二・新三経歴を参照。

【注記】
  1. 予科練(海軍飛行予科練習生,即ち海軍少年航空兵)は大きく三つに分類することができる。 旧制中学卒を甲種飛行予科練習生(昭和12年9月採用開始。 旧制中学校4学年1学期予期修了以上,後に3学年修了程度。 修業期間一年二ヶ月。 従来の制度による練習生は乙種と呼称)、小卒を乙種飛行予科練習生(昭和5年6月1日 第一期生採用)、海兵団入団者の一般下士官兵から選抜した者を丙種飛行予科練習生と呼んだ。1943(昭和18)年からは、乙種の中から短期教育で育て上げた者を乙種(特)飛行予科練習生と称した。およそ24万人の若人がこれら飛行予科練習生として入隊し,卒業生の約8割,1万8564名が戦没した。


  2. 白城子は現在の中国吉林省西北部,内モンゴル自治区に近い町,白城市である。

  実家の納屋の中を取り片付けている時に,亡父の次弟督ニの遺品である題記の日誌が出てきた。 昭和17年(1942年)7月30日付「白城子陸軍飛行學校」作成になる≪應用航法演習計畫≫(“極秘”のスタンプ印が押してある)と肉筆の演習日誌とが,『應用航法記事』というタイトルで1冊に綴り合わされていた。 原文は縦書きであるので,以下にてこれらを横書きに改めて書き写した。

  この演習計画の内容は,副題を”南方空輸計畫”とする飛行演習計画書で,延べ20日間に亘り,15機の飛行機を使用し,"満州"の基地「平台(平臺)」から一旦岐阜県各務原へ移動し,以後九州―沖縄―台湾―中国大陸(廣東,海南島)―佛印(佛領インドシナ)のサイゴン(現・ホーチミン市)へ飛び,帰路も類似の航路で基地に帰るというものであった。 
  実際には,気象条件に恵まれなかったためか,それとも飛行機の故障のためか,台湾の屏東までの往復演習に終わっている。 そして,航程中においても“天気待ち”に多くの時間が当てられている。 航空機の性能,天気予報の精度等現代とは比較すべくもない中で,天候に左右されることが大変多かったことが窺われる。
  岐阜県各務原へ飛行した際,本人にとっては士官学校卒業以来2年振りの故国の空に接して感激したことが記されている。
  文中の“所見”というのが本人の所感ないし意見である。 まじめな学習態度がよく反映されている。 終了後の古屋大佐の綜合講評なるものの中の第2項目に,「不屈不撓ノ気魄ヲ充実シ「○○ガ無イカラヤレヌ」等ノ気持ヲ抱カヌ如ク計器通信系ノ不備ヲ克服シ航法ノ遂行スルノ気概ヲ有スルヲ要ス 」という精神論がぶたれているところに,日本軍の兵器全般に関する危なっかしさがちらちらと覗かれる気がする。 そしてこういう兵器で戦うことに何の疑いも持っていなかった青年将校の気概が可哀想にも思えるのである。

  日誌中の文字使用について付け加えると,漢字は基本的に本字(旧字)が使われているのは,その時代としては当然のことであるが,意外に戦後当用漢字として使用される“略字”<圖に代る図,對に代る対など>もけっこうふんだんに使われていることに驚いた。 “着陸”が“著陸”と書かれているが,“不時着”は“不時着”と書かれているのは,個人的な癖かもしれない。 面白かったのは“離陸”の“離”という文字が右側の'つくり’の方の“隹”を取り除いた左側の部分のみで書かれていることである。 この字は日本語にはないので“離”で代用?するしかなかったが,この字は中国で現在使用されている簡体字そのものなのである。

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演習日誌篇

総括表
日次予 定実 施摘 要
八月十三日各務原移動
平台―各務原航法
同左
平台→奉天(一泊)
連山関付近天候不良ノタメ奉天まで躍進

十四日整備及待機(在奉天)朝鮮方面天気不良ノタメ出発中止

十五日
出発
奉天→大連→(北朝鮮西海岸)→大連
朝鮮西海岸天気不良ノタメ大連

十六日空輸機整備及準備朝鮮方面天気不良ノタメ出発中止ス

十七日(於 各務原)待機及気象判断研究

十八日

十九日大連→大邱→各務原 移動

二十日空輸ノタメノ航法
各務原→新田原

空輸準備


二十一日空輸ノタメノ航法
新田原→那覇→嘉義
(於 各務原)


二十二日那覇―廣東―三亞 航法空輸
各務原→新田原


二十三日三亞「ツーラン」―西貢 航法空輸
新田原→那覇→屏東


二十四日 豫備帰還準備(於 屏東)

二十五日 豫備帰還航法
屏東→台北→(熊本)→雁巣

福岡一泊

二十六日西貢―三亞―廣東 航法帰還航法
雁巣→京城
京城以北天候不良ノタメ京城ニテ中止

二十七日廣東―汕頭―温州―上海 航法帰還航法
京城→(平壤)→京城(一泊)
京城出発セルモ天候不良ノタメ再ビ中止

二十八日上海―大連―平台 航法帰還航法
京城→平台 平台帰還


【管理者注記】―地名解説―



八月十三日        曇   北西の風


課目 実施ノ状況
  1. bc_fig13_a.jpg 本日ノ天気圖及気象実況ヲ研究シタル後概ネ奉天迄ハ飛行適以後ハ其ノ後気象実況及目視ニヨリ大邱迄躍進スルノ決心ヲ以テ離陸(〇七:〇〇)
    ・腹案
    1. 平台―大連―大邱=迂廻
    2. 平台―奉天―大邱=直路

  2. 平台→奉天間
    《絵a 平台→奉天間》 --クリックしてください。 画面右にも拡大図。
    奉天→平壤
    《絵b 奉天→(平壤)→奉天》 --クリックしてください。
    以上ノ如ク鳳城東方ニ於テ編隊解散,單機行動,ニヨリ雲中離脱大連ニ向ワントスルモ 該方面又不良ニシテ遂ニ奉天ニ不時着ヲ決心シ 地点標定ニヨリ針路ヲ奉天ニ取リ進入ス

  3. 同日ノ天気図別紙ノ如シ

  4. 《天気図 8月13日6時》 --クリックしてください。
    ≪天気図への追加書込み≫
       「決心」 @ 奉天マデ前進途中気象通報及目視ニヨリ直路大邱ニ向フカ或ハ奉天Τ大連ニ向フカ奉天ニ著陸スルヲ決心ス

    【管理者注記】
    大邱:現在の韓国慶尚北道のテグ(大邱)市
    鳳城:現在の中国遼寧省鳳城市。鴨麹]河口に近い
所見
  1. 天気図ニ依レバ内地快晴ニシテ北鮮満國境及黄海方面ニ於テ天気不良(低気圧)ナルタメ器材ノ性能及状況之ヲ許シ又單機航法ナラバ雲頂高ヲ知リテ之ヲ通過シ得ルモAT級ニ於テハ至難ナリ
  2. 航法ニ於テ天候ノ不良ニ遭遇シ引返シヲナスベキ時機ノ決心ハ 單機或ハ編隊ニヨリテ異ルト雖モ遅キヨリ早キヲ可トセン
    特ニ編隊或ハ夫レ以上ノ部隊ナルニ於テ愈々然ナリ。
  3. 天気図ニヨル航路上ノ天候判断ハ特ニ慎重ナルヲ要ス
    地形ノ天候ニ及ボス影響或ハ等圧線形式ニヨル天気ノ特性等種々考察スルヲ要ス
  4. 編隊長ノ指揮或ハ僚機ノ進ミテ其ノ掌握下ニ入ラントスルノ気概ノ良否有無ノ如何ハ 天候不良ナルニ於テ益々錯綜セシメ収拾スベカラザル状態ニ至ル事多シ


八月十四日

依然鮮満国境及黄海洋上ニ低気圧アリテ出発不能 待機ス(十二時迄)


八月十五日

実施
天候判断
  1. 低気圧ノ中心北鮮西海岸地方ニアリテ黄海洋上及南鮮方面晴又ハ曇 「海洋島曇雲高七〇〇」「大和島同上」ノ実況ヲ得,
    大連曇雲高一〇〇〇,新義州雨 平壤曇雲高一〇〇〇(?),満及南及黄海洋上ニ低気圧
  2. 低気圧ハ漸次鮮満国境陸上ニ進ミアルモノ判断セリ
決心
  1. 奉天―大連―平壤コースハ概ネ曇ナルモ雲高七〇〇以上 充分平壤ニ進入シ得ベシ。 故ニ同上コースヲ利用ス

  2. 《絵c 実施(平台→奉天→大連)》 −略−
実施
  1. <貔?>子窩―海洋島間 二〇〇〇→三〇〇 ニ高度ヲ低下スルモ雲ノ下際ヲ飛行
  2. 海洋島ヨリ薪島方向比較的明キ故該方面ニ変針
    新義州附近ニ局部的驟雨アルヲ見ルモ朝鮮西海岸線明瞭
  3. 海岸線ニ沿ヒ南下 高度二〇〇〜三〇〇 平壤附近以南ハ一般ニ雲低ク 海上ハ海ニ接シ 陸上ハ眞黒キ雲ニ覆ワレ 大同江ノ上空ニモ雲ノ隙間ナク 実況ト甚ダシク異レルヲ知ル
  4. 遂に雲中(雨中)ニ突入シ 一〇〇〇〜一〇〇〜八〇米迄雨中飛行ヲ以テ降下シ 北方ニ向ケ明キ方向ニ離脱後海洋島ヲ経テ大連ニ不時着
  5. 低気圧ハ未ダ黄海洋上ニ存在シ尚大ナル不連續線ヲ伴ヒアルヲ知ル
    天気図上ノ位置ヨリ進マズ海上ニアリ
  6. 明日ハ陸上ニ上リ低気圧後面ヲ飛行セバ速カニ大邱ニ躍進シ得ルモノト判断シ奉天ニ帰来スルヲ断念シ 大連ニ不時着スルニ決ス
所見
  1. 本日操縦者トシテ貴重ナル体験ヲ得タルヲ悦ブ。
    訓練シタル計器飛行ヲ活用シ雲中雨中飛行ニヨリ低気圧内ヨリ脱出  計器飛行ニ自信ヲ得タリ
  2. 天気図ト実際ノ相違ヲ身ヲ以テ経験シ気象判断上ノ大ナル収穫ナリ

  3. 《天気図 8月15日12時》 −略−


自八月十六日
自八月十八日  三日間

天気依然恢復セズ
出発待機  気象判断ノ研究ヲ行フ。


八月十九日

課目 実施
大連→大邱
  1. 大連港北方ニ於テ空中集合逐次雲上ニ出デ直路大邱ニ向フ 離陸十時
  2. 層雲状ノ雲全天ヲ覆ヒ海面ヲ見ズ
     海州附近ノ陸上ハ望ムヲ得(層積雲)
  3. 大邱附近一帯 雲に鎖サレ大邱南方ニ於テ雲下ニ出ズ
     洛東江上空ノ隙間アリ

《天気図 8月19日12時》 −略−

《絵d 大連→大邱》 −略−

大邱→各務原
  1. 大邱ニテ全機補給後直チニ離陸直路各務原ニ向フ
  2. 東海岸陸地迄層積雲ヲサケツツ上昇 日本海ハ快晴
  3. 内地海岸ニ始メテ雲ヲ見ル
  4. 鳥取―rm山― ヲ経テ各務原ニ至ル

  5. 《絵e 大邱→各務原》 −略−

所見
  1. 天気図ニ於テ見ル低気圧ノ中心ヲ横断セルモ幸ニ雲頂高低ク概ネ大邱マデハ雲上飛行ニ依リ終始セリ。 朝鮮西海岸迄ノ視度概ネ不良ナレドモ其ノ后ハ全クノ雲上ニシテ緒元ノ把握或ハ點検不充分ナレド予定ノ如ク到着セリ
  2. 大邱上空ニ於テ洛東江ノ上空ハ所々ニ隙間アリテ雲下ニ出ズルハ容易ナリ 然シテ其ノ后ノ地点標定モ又河川鉄道ニヨリテ明瞭ナリキ
    大ナル河川ノ上空ノ隙間ハ此ノ如ク屡々有利ニ利用セラルベキ事アルヲ感ズ
  3. 雲下ニ出ズルニ當リ編隊ノ構成ヲ解キ各機毎ニ区々ニ行動シタルハ極メテ遺憾ナリ。
    連繋アル單縦陣ヲ以テ編隊長ノ指揮下ニ於テ迅速ニ脱出スルヲ可トス。 此ノ際ニ於ケル長機ノ指揮並ニ誘導モ大イニ研究ノ余地アリ
  4. 然レ共 大邱―各務原間ニ於テハ天候良好ナリシヲ以テ別ニ謂フ所ナシ
  5. 二年振リニ故国ノ空ヲ飛ビ故国ノ山河ニ接シ感無量
    悠久二六〇〇年揺ギナキ大和島根ノ偉容ニ接シ唯言フ所ナシ


八月二十日        晴   於岐阜

課目


八月二十一日        晴

課目


八月二十二日        晴

課目 実施要領
  1. 三機編隊(九九双軽)航路上主要飛行場ノ説明 向山中尉
  2. 航路  各務原―新田原間 直路
実施

《絵f 各務原→新田原(宮崎)間》 −略−


八月二十三日        晴

課目 実施
  1. 空輸機双軽二,三号ハ殘置ト決定シ搭乗区分変更
    重爆一型編隊搭乗シ出発ス
  2. 高度雲上
          全航路航法適  異状ナク集中完了
  3. 天気図ニ依ル天気概況ハ颱風ノ近接ニヨリ相当険悪ヲ予想セシメラレタルモ<文章未完>

  4. 《絵g 新田原→那覇→屏東(台湾)》 −略−

    【管理者注記】
    屏東:現在の南部台湾,高雄の東に位置する小都市

三木少佐講評
  1. 天気図ハ調整個所ニ依リテ種々異ル事アルヲ以テ(ポスト附近ハ概ネ綿密正確ニ表現セラレアルモ)之ヲ過信スル事ナク又輕視スル事ナク觀天望気並ニ空中ニ於ケル天候判断ニヨリ適時適切ナル判断ノ下決心スル事肝要ナリ
  2. 晴天ノ日海洋上ノ嶋嶼<ママ,島嶼?>上ニハ積雲形ノ雲発生シアル事多シ  航法上ノ一著眼トナスヲ得
  3. 輸送部ノ保安通信ハ地上通信ノ繁忙ト傍受ノ不良ナルトニヨリ其ノ成果期待シ得ズ之ヲ過信シテ失敗セザルヲ要ス


八月二十四日        月

器材整備  器材積載  帰還準備


八月二十五日        火

課目 実施要領
  1. 重爆三機ノ二編隊
  2. 編隊毎ニ実施
  3. 航路上ノ天気概況  附表天気図(〇六:〇〇)
実施
  1. 沖縄東方洋上ニ「七四八粍」ノ颱風アリ 那覇経由ハ天候上懸念アルヲ以テ台北→熊本ニ直行スベク決心
  2. 該航路上ハ概ネ天気良好 雲上ニ出ズレバ快適ノ状態ナリ

    第二編隊二番機故障ノタメ殘置ス

  3. 《絵h 屏東→雁巣》 −略−
三木少佐講評
天候良好ナリシ爲航法実施ニ特ニ所見ナシ

《天気図 8月25日6時》 −略−


八月二十六日        曇

課目 実施
  1. 天候ノ懸念アルタメ 〇八:〇〇天気図及実況ヲ研究ノ上 一〇:〇〇出発
天気概況
  1. 全満概ネ高気圧圏内ニアルモ南満及鮮満国境ハ曇若クハ雨ニシテ雲高最低六〜八〇〇米
  2. 前日ノ颱風ハ益々深度ヲ深メ七一〇粍トナリ西方ニ25k/hノ速度ヲ以テ進行中
  3. 平壤附近ニ副低気圧存在シ朝鮮半島ヲ等圧線横断シ北鮮各所ハ降雨ヲ見ル
天気判断
  1. 朝鮮以南ハ低気圧ノ影響ニヨリテ天気不良ナレドモ満州快晴ナルヲ以テ直路雲上飛行可能ナラン
決心
  1. 直路雲上
  2. 雲頂高 高クシテ飛越困難ナル時ハ平壤若クハ群山ニ着陸
実施ノ状況
  1. 離陸后遂次<ママ,逐次?>雲上ニ出デ對馬海峡ハ雲上飛行ニヨリ越エ 南鮮海岸ニ出デ隙間ヨリ洛東江河口ヲ標定
  2. 以后雲上飛行ニヨリ十三:〇〇迄飛行概ネ平壤附近ニ達セリト判断セシ頃ヨリ遂次<ママ,逐次?>雲頂高ク五〇〇〇〜六〇〇〇ニ及ブ 尚前方ニハ七〇〇〇〜八〇〇〇ト判断サル積乱雲アリテ飛越困難ト判断大連方向ニ変針セントスルモ該方面モ概ネ高ク遂ニ群山或ハ平壤ニ不時着ヲ決心ス
      平壤:実況ニヨレバ曇<雲?>量十 高一二〇〇ト通報セラレタルモ大同江雲ニ鎖サレ陸上ニ進入スルヲ得ズ群山ニ向ヒ変針ス
  3. 西海岸ニ沿ヒ南下スルモ雲高概ネ二〜三〇〇米ニシテ陸地ニ進入スルヲ得ズ
  4. 泰安(京城南方約  粁)ヲ地点標定シ京城ニ変針不時着ス
    航法諸元ヲ獲得シ出発スルヲ要ス,多少ノ死節時ハヤムヲ得ズ
【管理者注記】
群山:現在の韓国全羅北道にある黄海沿岸の都市クンサン(群山)
泰安:現在の韓国忠清南道の都市テアン(泰安)。 北北東ソウル迄の直線距離約105km
京城:現在の韓国の首都ソウル。 中国語表記名は漢城


《絵i 雁巣→京城》 −略−

《天気図 8月26日6時》 −略−


八月二十七日     木曜日    曇

課目 実施
  1. 気象概況  附表天気図
    イ 中部満州ハ概ネ快晴 南満以南ハ低気圧域内ニ在リテ奉天以南ハ曇若ハ降雨(小青島・新義州・平壤)
    ロ 颱風ハ九州南方洋上ニ在リテ毎時十五粁ノ速度ヲ以テ西北ニ進行 今明日中ニ朝鮮南方ヲ通過日本海ニ出ズルト判断サル
  2. 気象判断
    イ 航路上奉天迄ハ概ネ曇以下ノ天候ナルモ白城子附近ハ快晴
        雲上ハ雲頂高ノ如何ニヨリ飛行可能ナリ
  3. 決心
       一,先ズ目標ヲ奉天ニ取リ 成シ得レバ平台ニ前進ス
         状況之ヲ許サザレバ平壤 大連 京城飛行場ニ著陸
    理由 1. 航路上ノ天気ハ必ズシモ飛行不適ノモノニ非ズ
             (雲上飛行或ハ大連迂回ノ方途ニヨリ)
    理由 2. 若京城ニテ待機セバ接近シツツアル颱風ニヨリテ更ニ出発ヲハバマルル公算大ナリ
  4. 細部ノ状況
    イ 十五:〇〇離陸 平壤附近迄雲下(一型ナルタメ雲上ニ出ズルヲ懸念サレタリ)ヲ飛行スルモ降雨ノタメ進入スルヲ得ズ又大連方面モ不良ナルタメ遂ニ京城ニ引返シ著陸ス

    《絵j 京城→ 》 −略−

    《絵k  →京城》 −略−

    《天気図 8月27日6時》 −略−

    【管理者注記】
    奉天:現在の中国遼寧省 瀋陽市



八月二十八日     金曜日    快晴

課目 実施
  1. 天気概況  附表天気図ノ如シ
    京城 曇 雲量八 視程良好
    連山関以南 曇 若ハ雨ニシテ最低雲高四〇〇米
    白城子附近快晴ナルタメ雲頂高ノ如何ニヨリ雲上飛行可能ナリ
  2. 直路雲上帰還スルニ決ス
  3. 実施ノ方法
    京城離陸后遂次<ママ,逐次?>雲上ニ出デ高度最高四三〇〇米ニテ飛行
    鴨麹]附近マデ密雲上 以后奉天附近迄断雲 雨后快晴

  4. 《絵l 京城→白城子》 −略−

    《天気図 8月28日6時》 −略−
講評    三木少佐
  1. 目視ニヨル雲頂高ノ判断ハ低ク見誤リ易キ故注意ヲ要ス
  2. 部隊ノ航法ニ於テ稍々迂(回)路トナルモ高キ雲等之ヲ避ケ飛行スルヲ可トスル箏アリ
    (酸素ノ準備ナキ時等高高度ヲ飛行シ隊形ヲ乱シ部隊ノ隊形ヲ乱シヤスシ)
  3. 前ニ得タル経験ニヨリテ判断ヲ下シ大ナル過失ヲ招ク事アリ 特ニ苦イ経験ナル時ニ於テ然リ
    例ヘバ航法中気象状況ニ関シテ得タル経験ヲ以テ同様ノ現象中ニアリテモ之ト同様或ハソレ以上トミナシ退嬰ニ陥リ或ハ判断ヲ誤リヤスシ
    ソノ実体ヲ確実ニ認識シ判断ノ正確ヲ期セザルベカラズ

應用航法綜合講評       主任教官 三木少佐
  1. 任務ノ関係上航法装備其ノ他ノ不備ニヨリ各種手段ヲ使用シテ行フ航法ヲ経験スル事充分ナラザリシモ長途ニ亙ル海上航法ニ對スル自信ヲ得且ツ天気圖ト気象ノ実相ニ對スル深刻ナル認識ヲ得タルモノト認ム
  2. 編隊ノ指揮
    編隊長ノ意圖ニ従ヒ適時適切ニ指揮スルノ著意ノ肝要トス
    天候良好ナル場合ハ論ヲ俟タザルモ天候不良ノ場合各機間ノ指揮連絡適切ナルヲ要ス
    又編隊長機ハ実施ニ当リ予定通リノ行動ヲトル場合ハ一ツ一ツ指示スルノ要ナキモ予定外ノ行動ヲトル時ハ企図ヲ速カニ僚機ニ通報スルヲ可トス
    変針位置(地点標定不能ナル時ハ針路推測位置目標等ヲモ示スヲ要ス 予定航ロヲ変更スル時ハ特ニ然リ)
  3. 編隊ガ分解離散セルガ如キ場合ニハ状況之ヲ許スニ至ラバ速カニ之ヲ集合セシムルノ處置ヲ講ズルノ著意ヲ要ス
                   集合点ノ位置  長機ノ行動等ヲ示ス
  4. 長機目的地到着予定時刻得タル場合等 可成僚機ニモ通報スルヲ可トス
  5. 教官ノ指導ヲ受ケアル場合等 航法主任ノトレル處置等ニテ指導上必要ナル事項ハ其ノ概要ヲ報告スルヲ可トス
  6. 通信関係事項
    對空通信網及其ノ通信要領ノ不備不充分ニヨリテ所期ノ成果ヲ得ザリシモ実戦ニ於テハ斯ゝル事ハ屡々生起スベシ
    百方手段ヲツクシ通信連絡ノ完通確保ニツトムル事緊要ナリ
  7. 航法主任操縦者ト連絡ノ緊密
    通信手自ラ處置セザルベカラザル状況ニアリテハ其ノ經過ヲ指揮官ニ報告スルヲ要ス

應用航法綜合講評       航法部長 古屋大佐
  1. 今次應用航法ニ於テ海上雲上或ハ嶽上ノ長時間ノ航法ニモ概ネ慣熟セルモノト認ム
  2. 不屈不撓ノ気魄ヲ充実シ「○○ガ無イカラヤレヌ」等ノ気持ヲ抱カヌ如ク計器通信系ノ不備ヲ克服シ航法ノ遂行スルノ気概ヲ有スルヲ要ス
  3. 編隊指揮    觀念ヲ更ニ強化スルヲ要ス
    指揮官ハ指揮ノ適切
    部下ハ自ラ進ミテ其ノ掌握下ニ入ラントスル意志
  4. 通信ノ実用化ニ更ニ努力スルヲ要ス
    編隊ノ指揮  部隊ノ行動
  5. 気象判断
    空中ニ於ケル気象判断能力ノ向上ヲ図ルヲ要ス 平素ヨリノ著意ニテ充分ナサレル事ナリ
  6. 完全ナル航法ハ器材ノ整備完璧ニアリ空中勤務者自ラ充分ナル関心ヲ持チ協力スルヲ要ス
  7. 搭乗者ノ心構  任務分擔外ノ搭乗者ト雖モ呆然ト搭乗スル事ナク操縦者・航法主任・通信手ノ立場ニ身ヲ措キ研究スベキナリ
          「度々ノ経験ヲ重ネテ始メテ準備ヲ周到ニシ得ル」
  8. 既習各課目ノ実用化ヲ圖レ
  9. 体力気力ノ養成
  10. 悪天候克服ノ自信力養成ノタメノ訓練日ノ選定

綜合航法所見
  1. 今次航法ニ得タル最大ノ収穫ハ天気図上ノ判断ト実際飛行シ其ノ気象ノ実相ヲ把握シ両者ノ比較研究ニ依リテ認識ヲ一新セル事ナリ
    長時間,長距離,各種ノ異ナリタル地形ヲ飛行スルハ其ノ気象圏ヲ異ニシ気象判断上ヨリスルモ亦航法諸元獲得上ヨリスルモ実ニ意義深キモノアリ


  2. 「航法ハ天候ナリ」
    天候良好ニシテ目視ニヨリ確実ニ実施シ得ル場合ノ航法ハ精到ナル航法訓練ヲ經ズ共成功ス
    然レ共一旦悪天候ニ遭遇センカ之ニ於テ航法ノ眞髄発揮ヲ必要トス
    器材ノ信頼性強化セラレタル今日整備ノ完璧ト共ニ航法ハ天候ニ支配セラルゝモノナリ

  3. 天候判断ノ重要性
    敍上ノ見地ヨリ天候ノ良好ナルヲ選ンデ航法ヲ行ヘバ勿論スベテ成功スルモ天候ノ如何ニ拘ラズ任務ヲ達成セザルベカラザル吾人ニ於テハ訓練ノ精到ト共ニ天気判断ヲ適切ニシ天候気象ヲ有利ニ利用シ任務達成ニ努力セザルベカラズ
    特ニ空中勤務者ハ空中ニ於ケル天候判断能力ノ向上ヲ圖ルハ現下空中勤務者教育ノ一大要点ナリ

  4. 編隊航法ニ就テ
    イ. 編隊航法トハ全航程鞏固ナル編隊ノ団結ヲ以テ終始シ編隊長ノ適切ナル指揮ト誘導ニヨリ其ノ成果ヲ求ム

    ロ. 天候良好ニシテ編隊間ノ目視可能ナル場合ノミ可能ニシテ一旦無視界状態ニ突入スルヤ四散シ編隊トシテ威力ヲ失フニ至ル
      然レ共現在ノ器材装備ニ於テ之ヲ可能ナラシムルモノナキヲ遺憾トス

    ハ. 編隊長ノ指揮。  極メテ重要ニシテ航法成否ノ半バヲ支配ス。 特ニ天候不良ナル場合ニ於テ然リ。

  5. 計器飛行ノ重要性
    一度悪天候ニ遭遇スルヤ精神動揺シ遂ニ収拾スベカラザル状態ニ陥ルハ吾人ノ通弊ナリ 雲中雨中ヲ自若トシテ突破シ得ルハ一ツニ計器飛行ノ自信力ニヨル
    必達ノ航法ニハ計器飛行訓練ノ精到ヲ第一トス

  6. 人一度最悪ノ状況ニ遭遇セバ之ヲ基準トシテ他ヲハカリ 良キニツケ悪シキニツケ之ヲ以テ他ヲ律セントス
    悪天候ヲ克服シ技倆以上ノ成果ヲ得タル時ハ自己技倆ヲ過信シ他時之ト同一状況ニ遭遇スルモ前例ヲ以テ之ガ突破可能ト誤信シ重大ナル事故ヲ惹起スル事アリ
    又反對シ失敗セル場合ハスベテ不可能ト判断シ退嬰ニ陥ル事アリ。  スベテ人間性ノ弱点ナリト雖モ吾人空中勤務者ハ之等人間性ノ弱点ヲ良ク破砕シ適正ナル判断ノ下任務完遂ニ努力セザルベカラズ
    之空中勤務者修養ノ一端ナリ

  7. 航法部長講評中「度々ノ経験ヲ重ネテ準備周到ニナシ得」ナル語実ニ蓋シ吾人肝ニ銘ジ日常ノ訓練ニ精進シ他日奉公ノ日過ナキヲ期セザルベカラズ




B. 『鎮魂』(陸軍士官學校・陸軍航空士官學校の第53期生生存者による追悼文集)より<平成元年発行>

今田督ニ君

    航士   3-3
    分科   軽爆
    出身県 岡山
    出身校 岡山一中
  今田君は浜飛校終了後昭和15年11月 16戦隊(牡丹江海浪)に長内と共に着任,第二中隊附となる。 16年3月君は16戦隊より分離した208戦隊に移り洮南にて服務,18年2月南方に転進して勇戦中,18年8月15日ニューギニアにて壮烈な戦死を遂げた。 君は18年7月,第18軍に直接協力する第4航空軍の連絡将校として,猛頭山の18軍司令部に到着,同期の軍通信連絡将校の袴田哲と坂本と三人で,銃爆撃で廃屋に近い山小屋で起居を共にした。 学校時代を偲びあるいは前途を憂え,時には参謀から強奪した酒でささやかな同期生会を催すなど,愉快な1個月であった。 連絡将校の任を解かれて君が原隊へ復帰したのが18年8月13日であった。 その2日後航空軍よりの電報で『今田大尉は軽爆中隊長として当時第51師団が激戦中の「ワウ」飛行場を攻撃中被弾し,飛行場目がけて自爆』の報に接し,たった二日前「元気で頑張ろう」と笑顔で別れた姿を思い浮かべつつそのご冥福を祈ったのである。
  愛称「トクさん」の君は頑張り屋,張切り屋で,打てば響くの性格であった。 海浪時代独身官舎では長内とよく討論もし又よく飲んだ。 208戦隊の編成で君は移り,これが永遠の別れとなった。 208戦隊は戦闘での戦死者が空中勤務者約60名,地上勤務者230有余名,内地帰還者僅か90名という多大の損害を受けた。 ご冥福を祈るのみ。 合掌。  
(坂本経雄・長内謙治記)

今田督二・新三経歴を参照。
【管理者注記】猛頭山:東部ニューギニアのマダン〜アレキシスの中間地点の台地のことで現地名はアムロン台地


C. 兄宛ての私信<昭和14年1月7日に書かれたもの>

滿州國新京  今田貞一樣

    拝啓 寒氣益々猛しき折柄御兄上樣には長途の御旅行にも拘らず元気に御歸滿の事と存じます.私も無事五日午後帰校致しました故御安心下さい.尚休暇歸省中は色々と御世話に成り誠に有難うございました.非常に愉快で名残惜しい休暇でしたから終ってしまへば當時の幻ばかり追ふ樣な始末で我ながら情ないと思ってゐます.漫然とした回顧 感傷的な回顧は人生の堕落だと言ひますから。 我々武窓の生活で最も充実した,その大部分がこの昭和十四年だと思ふとぢっとしてをれません.今年こそは今迄にない程力一杯張り切ってやらなくてはなりません。 家で貯へたエネルギーでこの一年を突き進んでゆこうと思ってゐます。 何卒御安心下さい。
    次に誠に申譯ない話ですが途中横須賀に行って新三に會ふつもりで行ったのですが前日打ってをいた電報が届かないのかどうかしらないが新三は外出してゐないのです。 十二時迄には帰ってくるだらうと思ふからそれ迄待ってゐてくれとの事なので待ってゐたのですが結局帰って来ず たうたう自分も學校へ帰りました。 何しろ少し前に分隊が四十三から四十二に変ったそうで電報は四十三宛で打ったのでまだ宙に迷ってゐたのではないかと思ひます。
    何しろ自分としても腹が立つやら可愛そうになるやらで五時間も待ってゐたのですが軍隊の中とて施す術も無く帰ってしまひました.新三にすまない樣な氣もするし自分の気持ちもをさまらず未だに何だかむしゃくしゃしてゐます。 明日の一月八日の陸軍始には東京へでられますが四時間や五時間では行ってかへるのが危ないので(ゆけば二・三円は入りますからね)一その事小包で送らうかと思ってゐます。 話さねばならぬ事は澤山あるのに,残念でした。 正月早々からこの始末で縁喜(ママ)でもないです。
    それで私の方の予定も大狂ひで東京の下宿にも寄らず直ちに帰ってしまひました。
       *      *      *      *      *      *      *      *      
    こちらの寒い事は,嘘の樣です  風さへ吹かねばそんな事はないのですが例の秩父颪が吹き荒れると大したものです。 帰った日の翌朝なんか寝室の中でも零下四度位寒くてがたがたふるへてねむれない程でした。
    然し生活がだんだん元にかへってくると何でもなくなるでせう。
    右御禮旁々御報告迄               敬具
    一月七日                                   督二
    御兄上樣


D 父宛ての私信<母の死直後の昭和14年3月21日に書かれたもの>

岡山縣和氣郡本荘村中山  今田銀三郎樣 皆々樣

陸軍航空士官學校第三-三   今田督二

    前略 十六日附の御便り有難く拝見いたしました.
    御承知の通り十四日より十八日迄野營演習のため甲府及清水の方面へ出張してゐました。 入校以来最初の野營なので,ずっと前より大いに期待してゐたのですが突然の不幸で気も心もすっかり落着かず有耶無耶の内に五日間を過ごしてしまひました。
    友達も今頃は大分元気づいたと言ふのですが 帰った當時は顔も少しやせ,青白く どうなるのか心配したと言ってゐました位です。 何もかも無茶です。
    今學期こそは大いに馬力をかけてと力んでゐましたが中途にして挫折してしまひました。
    平生の生活は仲々忙しいので悲しみを忘れますが夜ねた時とか日曜の閑暇又は自習時間等はついつい不覺の涙を流す事もあります。 何はともあれいたし方ない事だと思っても諦めきれない何物かがあって苦しんでゐます。
    お母さんの肉体はお墓地の土の下にあってもあのお母さんの御魂は常に天にあっていつもと変らぬ慈愛の眼を以て私達を勵まして下さるものと信じてゐます。 きっとお母さんの御霊は我は今此處にゐようとも滿洲にゆくとも支那シベリヤにゆくともきっときっと私と共について来て下さるでせう。
    お母さんの魂は決して私達の傍を離れることはないでせう。 私達の魂の中には常に常にお母さんの魂が宿ってゐるに違ひありません。 これ程心強いことはありません。
    兄さんの御言葉の通り我々が健康で大きくなり立派な人間 御國の御役になる人間になってこそお父さんをお慰めでき お母さんの魂を安んじさせるのです。
    私には今迄と違って私自身の心とお母さんの心との二つをもってゐる この二つの魂が私をきっと御國の役に立つ人間にしてくれるに違いありません。 お母さんはいつまでも天上から私達をぢっとみつめてゐらっしゃる。
    此の事は天の私に与へられた試練だと思ってゐます。
    「天の与へ給ひし試練です。 まだまだお前の試練は足らなかったのだ。 これが一番大きい試練だらう  これに堪え得るならお前は・・・・」と天はおっしゃってゐます。
       *      *      *      *      *      *      *      *      
    甲府盆地は仲々いい所です。 きれいに整った葡萄畑.いかにも他地方とかけはなれた樂天地の樣な感じがします。
    甲府を夜二時に立ってあの御坂峠を越えて冨士五湖(ママ)のへりを通って清水市三保松原迄自動車行軍をやったのですが 夜中だったので御坂峠の絶佳の眺望も冨士五湖の絶景も見えなかったけれど下界は春だと言ふにここは未だ雪の中。 悪い気持ちは致しません。
    冨士山を越えて太平洋の眺めに接した時は快哉を叫ばずにはゐられませんでした。 大きな海,洋々たる大海.
    清濁併せ呑むと言ふ太洋の落着いた気持は今の私には実にうらやましいものでした。
    たった一日でしたが清水市での舎營は悪くはありませんが
    こうした家庭的雰囲気の中にひたると余計に思われます。
       *      *      *      *      *      *      *      *      
    今日の春季降霊祭の休日に乾吉兄さん(注記=従兄で最終位階は海軍大佐 今田乾吉氏)の所へ参りました.丁度兄さんはゐらっしゃったので色々お話しました。
    新三も元気でやってゐるでせう。 四月には又東京にでれますが土浦迄はどうもゆけません。
    自分達も今頃軍装の心配してゐます。 もう指定の服屋が寸法をはかりに来るそうですが皆も同じやうなものをつくってをけばいいでせう。
    くだらぬことをかきならべましたが今日はこれで失禮します。
    父上は心配する程ではないとのことですが皆で気をつけてあげて下さい。
    寫眞も戴きました.額に入れてをきませう。
    お母さんの三十五日と四十九日を教へて下さい.私は私で寫眞でもお祭りして心からお祈りしやうと思ってゐます。
    春暖の候に向ひますが皆々樣どうぞお体を大事になさって下さい。 本家新屋の皆々樣によろしくお傳へ下さい.
                   ではさやうなら
    三月二十一日夜     彼岸の中日の夜 母を偲びながら
                                           督二
    父上樣,兄上樣
            侍史


E. 父宛ての私信<昭和14年4月2日消印の葉書>

岡山縣和氣郡本荘村中山  今田銀三郎樣

埼玉県豊岡町 陸軍航空士官學校第三中隊   今田督二

    拝啓 其の後御無沙汰しました.父上樣始め皆々樣には御元気で御起居遊ばされてゐる由 私も其の後至って元気で勉強してゐます故御安心下さい。 四月となればもうすっかり春めいて飛行場の草も芽を吹いてゐます。 中旬か下旬に第五十一期生の卒業式があるので學校内にも奉迎の準備に忙殺されてゐます。 行幸があるため當分外出禁止です。 新三も艦隊練習で出發したさうですね
    お母さんの寫眞を手札勝型に縮寫したので一枚送ってやらうと思ひますが宛名はどうですか. 兄さんも滿洲へたゝれたそうですが お父さんもお淋しい事と存じますが 此の上は呉々も御体を大事になさって長生きして下さい。 お母さんのお墓にも華をたやさぬ樣よく御参りして下さい。(青江の所を忘れました) さやうなら。


F. 父宛ての私信<昭和14年5月11日に書かれた葉書>

岡山縣和氣郡本荘村  今田銀三郎樣

足利市にて   督二拝

    第二信
    前略 戦況の進展に伴ひ師團長は追撃に決心 栃木を發し足利に到着 爾後の作戦を研究中です.
    常に旺盛なる元気で戦斗と終始致します 御安心下さい.ここは栃木に比して殷賑なる市況活気を呈してゐます 人口約八九万らしいのですが・・・・
    こゝから伊勢崎迄は約六里ばかりあります.
    軍隊生活で最初の宿營で皆張りきってゐます。
    戦斗は常に我が軍の勝利 遂に敵を殲滅して十三日夜凱旋の予定です         終わり
        お伽話の文福茶釜を見學にゆきました


G. 父宛ての私信<昭和14年8月21日に書かれた葉書>

岡山縣和氣郡本荘村  今田銀三郎樣

陸軍航空士官學校第三-三   今田督二

    前略 本二十一日午後無事帰校致しました。
    最後の二三日は雨に見舞はれて困りました 折角の冨士登山も途中八合目迄登って雨風の爲遂に下山しました。 視界も無く唯雨にうたれ黒い土を眺めて上がっただけです。 今までに登った事もない三〇〇〇米以上も登ったもので其の点愉快です。
    下山の途中の“砂走り”をすべり下りる快味もいゝ思い出です  詳しい事は后便で―
    取り急ぎおしらせ迄


H. 父宛ての私信<昭和14年10月17日の消印のある葉書>

岡山縣和氣郡本荘村  今田銀三郎樣

陸軍航空士官學校第一中隊第二区隊   今田督二

    前略 御手紙有難く拝見しました。(二通共)
    ジャケツの件承知しました。其の樣に取計らひました故御承知下さい.尚代金は未だ不明にて分明次第お願ひ致します。
    純一君も益々元気で多きくなってゆく趣で正月に帰られたら兄さんもさぞお嬉びの事と思ひます。
    惠美子姉さんにも久しい間御無沙汰ばかりしてゐますが居所を忘れてしまったので 便りのついでにおしらせ下さい。
    其の他皆にも同樣御無沙汰ですが,皆元気でせう。
    どうぞよろしくお傳へ下さい
    (「航空部隊」と言ふ本お送りしました読んでしまったので多少空中戦か我々空中戦士の気持も大分わかると思ひます。)
    私の單独飛行もやっと十三回,もう充分独りでやれます. 
    近く名パイロット(?)振りお覧にいれます
    (次に はなれの本箱にある“景觀ヲ尋ネテ”(鉄道省發行)と言ふ本,至急にお送り下さい。 お願いまで)


I. 父宛ての私信<昭和14年12月23日に書かれた葉書>

岡山縣和氣郡本荘村  今田銀三郎樣

陸軍航空士官學校一-二   今田督二

    前略 益々御壮健の趣大慶の至りに存じます.私も非常に元気一杯に飛行演習に勵んでゐます故御安心下さい.
    愈々休暇も二十八日十六時より賜る事になりました. それで二十九日の正午頃家に着くやう帰る予定ですが都合により後になるかも知れません
    次に申し遅れましたが旅費少々御送り下さい.金五圓あれば大丈夫と思ひます。 時期が遅れて間に合はない樣な樣子ならお送り下さらなくてもいゝのですが.月末に戴いた手當だけでやっと帰れますから。
    右 取急ぎ乱筆ながら御願ひまで


J. 義姉宛ての私信<昭和15年以降に書かれたもの>

岡山縣和氣郡本荘村中山  今田むつ枝樣  軍事郵便  【検閲済】

 姉さん

    長い事御無沙汰しましたがお変りありませんか
    純ちゃんも由紀ちゃんも大きくなっている由なによりです
    本家の伯父上(注記=海軍大佐 今田乾吉氏)の話によれば仲々「いたずら坊主」だとの事
    其の元気一杯に暴れてゐる姿が目に見えます
    小生もお蔭で相変らず元気でやってゐます
    此の間は立派な着物を有難うございました
    早速に著用に及び得意になってゐます

    三日ばかり續いた雨も昨日よりからりとはれてものすごい天気で
    たくましい積乱雲がむくむくと上ってゐます
    外にでれば三十五六度の気温でも日蔭に入れば実に涼しくて快い時候
    朝夕はとても冷へて浴衣一枚では一寸涼しすぎる位です

    田植も終った由仲々お忙しかった事でせう
    暑さの折お体大事に    御禮旁々
    御無沙汰お詫びまで
    龍江省平台  滿州第六九部隊   今田督二


K. 父宛ての私信<昭和17年08月末に弟の戦死を知り書かれたもの>

岡山縣和氣郡本荘村中山  今田銀三郎樣  軍事郵便  【検閲済】

龍江省平台  滿州第六九部隊   今田督二

 前略
    新三儀去る二十六日名誉の戦死致せし由予て今日ある事は覺悟致して居りましたが
    年二十三才短かかりし御奉公の期間ではありましたが愛機と共に護國の神として南溟の果に華と散りし事本人もさぞ本懐と存じます. 大空に生き大空に死するは我々航空武人の本懐 然も帝國大發展の機に礎石として身を捧げし事羨望の至りに存じます
    謹んで新三の霊に合掌し冥福を祈ります.
      然し肉身(ママ)の身として限り無き寂寞を覺え悲嘆にくるゝは人間の必定 故人の寫眞を祀り花を供へて心から供養致しました
      兄としてたった一人の弟を失った事 競争相手を失った事は淋しく感じますが・・・・・
    父上樣兄上樣はじめ姉上樣方の御悲しみは又察するに餘りあります.
    軍籍に入りたる時より國に捧げし身故今日ある事はかねて御覺悟致されし事も拝察致し居ります
    何卒,心より新三の冥福を祈る樣御願ひしたします.
    今頃は新三の思ひ出話でつきざる事と存じます.
    二つ違ひの弟兄として今日までの思ひ出そぞろ思はれて萬感胸に溢れよくつくすを得ず.
    小生の心中御諒察下さい 小生も又同じく大空にさゝぐる身 何時いかなる変に遭ふやも測られず昨日は人の身今日は我が身の転変の世の中.
    大空に生き大空に死するは航空武人の本懐 呉々も御嘆きの事なき樣御願ひ申し上げます
    右取急ぎ乱筆ながら                            督二
    皆々様

    新三は今頃
      遠いあの世でお母さんに色々お話してゐるでせう
    お母さんの膝にだかれて幼い子供に還って


L. 父宛ての私信<昭和17年12月19日に書かれたもの>

岡山縣和氣郡本荘村中山  今田銀三郎樣  軍事郵便  【検閲済】

    今頃は秋の取入れに村はお忙しい事と存じますが父上樣始め皆々樣は益々御壮健の由何よりと存じます.御無音の御とがめ実に恐縮に存じてゐます.本日大演習も終わって無事帰隊久しぶりに官舎に落着いてゐます.内地より帰って以来前便でも申し上げました樣に演習に次ぐ演習で隊に落着く暇も無く,露營生活ばかりですごしてゐましたので,其の上に中隊長代理と言ふ多忙な仕事の爲に四方八方に不義理ばかりで困ってゐます.
    これから又正月までは外へ出ないので少しは暇があると思ひます
    然し朝は夜明から夕は星を戴いて帰る日曜無しのこの頃の平常の生活.筆とるのも憶怯(“億劫”の書き間違い)でついつい延引してしまふのです.悪しからず御許し下さい.体だけは寒さにも負けず元氣一杯に勤めてゐます故御安心下さい.
    寒さも次第に加り愈々本格的,これから又半年雪と氷の中でくらすのも面白くもあり樂しいものです
    演習講評参列の際新京へ参りましたので欲しかった「スケート」を求めて来ましたので これでこの冬は精一杯すべって見ようと思ってゐます
    序に純ちゃんも由紀ちゃんの防寒帽をと思ってさがして見ましたが純ちゃんに合ふものが無かったので由紀ちゃんのだけ買って来ました. 由紀ちゃんのも頭に合ふかどうか分りませんが送れたら早速お送りします お正月のお年玉に.純ちゃんのは又どこかで見つけて御送りします.
    それから小生の留守宅送りの俸給ですが 九月分は白城子の學校へ問合はせてゐるので今の所分かりませんが十月より十二月までは一等給になったので改めて願を出さないといけないのですが十月以后中途では願は出せないので来年一月のを送ります
    十月十一月は仲々入費が多く又欲しいと思ってゐたものを買ったり又新らしく冬軍服を造ったりしたので戴きたいと思ひます十二月のボーナスで我慢して下さい.御無理で誠に済みませんが

    それから小生内地出張中岐阜より家宛に送りました夏服無事着いたでせうか.洗濯もしてないし方々破れてゐるので洗濯さして洋服屋に繕はして下さい 演習服としてまだ着れますから
    其の他何でも氣のついたものがありましたら御送り下さい
    今日はこれで失礼します. 本家新屋の皆様によろしく

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