第15章 後日談
第6章で紹介した私のルームメートの若者HS君(パキスタン人)に関するその後の話である。
彼はその後も安くはない国際電話を私に掛けてきて又会いたいとよく言っていた。 異国住まいで気の合う知人もなく,同国人もいない生活に寂しい思いをしているのだろうと想像される。
その彼が2002年春節の連休に,私に会いたいので日本に来たいとして,北京の日本大使館領事部へビザの申請をした。 私も,ほうっておけず,インターネットで,保証人として,申請上必要とされている資料の書式などを俄か勉強をし,理由書とか旅行日程表などを書き,自分の納税証明書とか戸籍謄本や住民票を取揃えて送ってやったものである。 彼は現在浙江省の義烏市(杭州から西へ汽車で2時間くらいの所にある)という,ハルピン・廣州と並ぶ中国三大雑貨市場の一つに住み,一族経営の家業としてのパ・中貿易商の仕事をしている。 父親は本国にいて,中国での仕入れ業務をウルムチに住む叔父が仕切っており,義烏と廣州にも事務所を置いているという形態である。彼の叔父の息子も,冬のウルムチは開店休業なので義烏に手伝いに来ていたのだが,その彼も日本へ同行したいというので,二人で片道一昼夜かかる北京へ,資料の不備のため結局二回出掛け,あげくのはて5日後に,理由は告げられずに,ビザは出せないという電話通告を受けた。 二人も意気消沈した様子であった。
彼は政治活動とか麻薬の密貿易とかには無縁の,酒もタバコも賭け事もしない真面目な回教徒であり,ふつうの青年である。 日本に不法滞在する意志も,またそうする何のメリットもなく,日本に一族の親戚も知人もいない。 むろんパシュトゥン人でもない。 書類上の不備はないと担当の中国人女性館員は彼等に言ったとのこと。彼はその時,疑うのなら何千ドルかを大使館に供託するから帰国したら返却してくれとまで提案したそうだ。 が,それでどうなるものでもない。
私は彼に頼まれて北京大使館領事部へ電話し,なぜ拒否されたのか質問したが,日本人の男性館員が出てきて,言語明晰に,総合的に判断して北京大使館として決めたことで理由は公表しないことになっているというばかり。
日本とのビザ相互免除規定対象国は62カ国あって,パキスタン とバングラデシュもそれに含まれるが,何時からか不詳だが現在「一時取極め停止中」と,外務省のホームページに記載されている。
不受理の裏はこちらで勘ぐるしかない。
本当は現在の国際情勢の中,駐華大使館にとっては第三国人であるパキスタン人の,”必然性のない” 訪日は認めないという基本方針が大使館として決められていて,その上で,ただ申請は受け付けるというポーズを取っただけなのか,或いは審査をしたというならば,審査とは門前払いをしてもどこからも横鎗が出ないことの確認であるのか, 或いは単に担当官が,面倒なことになるのを嫌がり,事勿れ主義 (多一事不如少一事) 的な責任逃れの決定をしたかのいずれかではなかろうか。
理由として考えられるのは上記ホームページの説明にある「査証発給を受けられないケースについて」の事例の最後の一項:”日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認められる場合 " という曖昧な項目しかないからである。 私は最初そんなに容易ではないとは感じたが,大使館側がとにかく来なさいというような態度であったと聞いて,意外に寛大なのかと勘違いし,大まじめに彼等を迎える準備をしていただけに,その分愚弄されたという気持ちが残った。 おりしも話題の主となったあの鈴木宗男氏の親戚であったら,大使館氏は果たして同じような対応をしただろうかなどと考えると,腹も立った。
日本国は,規模こそささやかではあるが,観光収入の機会と親日家誕生の機会を自から放棄したわけである。
彼等も自分等がバキスタン人であるが故に拒否されたと感じていた。所詮日本という国は,そしてその駐華国大使館は,たとえ「大国」中国の”変な人間”にビザを発給することはあっても,業績評価上一銭にもならない被援助国たる第三国の「小国」パキスタン程度の善良なる市民へのささやかな便宜は無視するお役所であるというのが私の得た結論である。 少なくともビン・ラディンが捕まる日までは,この状態が続くのかもしれない。<2002年2月記>
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