波勝崎苑は昭和32年に開苑しました。開苑までには多くの困難がありました・・・。 下田市出身で元県会議員の沢村久右衛門氏(当時下田ドック社長、下田信用金庫理事長、 東海バスKK取締役)は賀茂郡の発展について異常な意欲をもっていました。賀茂郡の 自然の素晴らしさを多くに人に知ってもらうにはどうすれば良いのだろうと普段から 必死に頭を悩ましていたのです。 そこで出会ったのが肥田与平さんでした。 昭和初期、波勝崎の三つ又付近の山に通うようになった肥田与平さんは、昔からこの地方に 住みついていると言われた野生猿に関心をもっていました。 あるとき山の中の仕事場で弁当を盗まれたんです。この時の犯人が猿でした。それから、 与平さんは、猿に一層の興味を覚えて、猿との出会いそして生活が始まりました。 このあと、与平さんの人生に野猿の飼育という一大転機が訪れたのです。昭和32年〜36年までは 地主である伊浜区と東海バス(株)との契約が成り、波勝崎開発のために開苑され、与平さんは 東海バス (株)の嘱託(しょくたく社員)として、野猿の飼育管理に夢中になりました。 その当時の東海バスの取締役であり与平さんを嘱託社員にした人物こそ沢村氏だったのです。 与平さんは昭和37年〜57年までは、伊浜区営のもとで、その仕事を続けて、25年間、 野猿と いっしょに生活をしました。与平さんは、開苑当初、野猿との生活が続く中で、失敗を 繰り返しながらも、その生活に希望を持って努力をかさねました。3ヶ月が過ぎたある日のこと、 それまでにも時々顔をみせる一匹の大きな猿が、彼の右手から差し出された「さつまいも」を おそるおそる受け取ってくれたのです。このとき、与平さんは「本当に涙がおさえ切れない程うれしかった!」と 回顧しています。 以来、与平さんは、昭和57年に現役を引退するまでの25年間、飼育担当者として、野生猿の 生態研究に打ち込み、一方では猿と人間の共通点や特徴をとらえて、猿の社会と人間社会を結ぶ 大きな掛け橋をつくりました。 また、入苑者に対するおさるの解説 は、臨機応変にユーモアをまじえた話術によって、数多くの観光客を 魅了し、波勝崎苑の「与平節」とまで賞賛された。その与平節は現社長にも引き継がれています。 与平さんは波勝崎苑が東日本における有数の野猿公園として成長する過程での功労者と言えます。 また、伊浜地区の人々の団結があったからできたことも成功した理由です。そして沢村氏が観光地として 波勝崎苑を作ろうと呼びかけなければ、今の波勝崎苑はないでしょう。肥田氏は平成6年9月17日に85才の 天寿を全うしたが、在りし日 の写真を通じて、来苑者との出会いが実現するとともに、波勝崎苑の歴史が ご理解願えれば幸いです。 |
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