幸福な人々を救うことは不可能




キリスト教徒は多額の金をキリスト教に寄付することが自分たちの幸福だと考える。
しかし、どう考えても金はやるよりもらう方が幸せなわけですよw だからはたから見れば彼らは不幸にしか見えない。
だが、彼らを救うことは出来ない…
幸福な人々を救うことは不可能なのだ…

これは真実のひとつです。

真実を認めない人は目の前がわからないことだらけになる。
正直になればいいんですよ。そうすれば世間を見通すことが出来るようになる。簡単なことです。

だが、キリスト教はみなが正直になること、真実を知ろうとすることを妨害します。
そしてみんなが例え不幸でも幸福なフリをしろということを強制します。
それがキリスト教の真意。それがキリスト教の教える「幸福」です。
単なる三文芝居なわけです。
天理教や創価学会のような巨大カルトもみな根底でそういうものを踏襲しています。
幸福な人は怒らない。だからキリスト教はみなに幸福になってほしい。
しかし、キリスト教にみなを幸せにする力は無い。
だからキリスト教は信者が幸福になることを強要する。
そのためにキリスト教徒は幸福を演じ続けなければならない。
幸福を強要されるなんてなんて不幸なんだろう…
これ以上の不幸は無い。と、断言したい。
誰も見ない劇を死ぬまで演じ続ける。これがぼくが見たキリスト教徒の正体です。

キリスト教の聖職者は自分達が何やっても信者が怒らないことを平和と呼びます。
この部分は民主主義にも受け継がれています。
政府は自分達が何やっても民衆が怒らないことを平和と呼んでいるのです。