大中寺梅園の護持を願って
愛鷹山が沼津の平野部にその広大な裾野を融け込ませようとする中沢田に於て、沢田山大中寺は七朝の帝師・夢窓国師を開山に仰ぎ、鎌倉時代より今日に至る700年の長きに亘り連綿と法の灯を掲げてまいりました。
その間、鎌倉から室町初期に至り戦国時代には、甲斐の武田信玄、勝頼親子、駿河の領主今川義元、氏真等々に守護され、また江戸時代に入っては、徳川家より11石7斗の御朱印寺として保護を受け、幕蕃体制の下にあって270年の間、地域住民の精神文化の育成にその範を垂れてまいりました。 こうして明治に至り、当時は一寒村とも言うべき沼津の地に御用邸が造営されるや、明治30年(1897)の大正天皇(皇太子)の行啓を皮切りに、大正天皇5回、昭和天皇6回、昭憲皇太后9回、貞明皇后2回の行啓を仰ぎ、他に直宮さまや皇族の御成は、別紙に示した如く、枚挙にいとまがありません。 世に言う大中寺梅園は最初の行啓の翌年、つまり、明治31年より33年にかけ、皇后さまや皇太子殿下の大中寺に於けるお慰みとして、時の住職・真覚玄璋和尚の手によって造営されたものです。 降って明治42年には、恩香殿と名づけられた陛下の御休憩のための御殿が梅園の中に作られました。皇室のためきめこまかな心配りをもって作られた御殿とそれに付属する橋(通玄橋)は、平成12年2月文化庁により登録文化財として認められました。 それと時を前後して昭和天皇実録編修のため調査に訪れた、宮内庁書陵部の主任研究官・梶田明宏氏は、玄璋和尚によって記録保存された行啓の諸資料を拝し、今だかつてこれ程整理され、詳細に記録されたものを、見たことがないとまで言い切っておられました。 三島中州先生(大正天皇侍講・二松学舎初代学長)は、恩香殿の落成を祝った漢詩の中で、この恩香殿をして「小行宮」と表現しておられます。行宮といえば、我々にはすぐ吉野の行宮のことが思い浮かびます。 大正天皇は、明治37年(1904)の観梅の砌り、 快晴三日 春の回るを覚ゆ 暖に乗じて逍遥す 流水の隅 野寺の老梅 残雪に映じ 愛す 他の玉蕾 半ばまさに開かんとするを と詠まれました。 昭憲皇太后は、明治42年(1909)の筍掘りを、 あらがねの土をもたぐる筍の 力にしるし千代の栄えは と詠まれたことが、昭憲皇太后御集に記載されています。 |
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