伊豆半島の付根にあたる沼津市の北方、愛鷹山の裾野に位置する大中寺は、山号を沢田山と言い、臨済宗妙心寺派の禅寺です。ほとんど自然そのままの森に覆われた、4000坪ほどの寺域に建つ本堂には、本尊として不動明王がお祀りされています。
開山は、夢窓国師です。しかし、夢窓国師以前から既にこの地には寺院が存在し、近在の古寺のもつ歴史と同じく、その当時は真言宗に属していました。密教系の仏である不動明王に、その頃の面影が偲ばれます。 夢窓国師は正和2年(1313)39才の時、現在地より北方4キロの愛鷹山中の山居という所に、弟子7〜8人と庵を結んで修行されました。後世、その庵室を移して臨済宗の寺としたものが、現在の大中寺であろうと考えられています。[詳しくは夢窓国師顕彰碑をご覧ください。] 本堂の裏庭を流れる山水の水源は愛鷹山中にあり、開山さまが694年前、その杖を引きつつ、これへこれへと言われると、山水がその杖の跡に従って流れくだったという伝承をもつ潅漑用水です。この流れを中心に、歴代の和尚さま方が庭園の維持管理に力を注いできました。 その中でも明治8年に住職になられた玄璋和尚は、同24年10月に庭園の修築に着手しました。その当時の境内の様子を「松・樫(かし)・玉楠(たまくす)・椿等の古木老樹、森然として茂生し、蓊鬱(おううつ)として空を蓋(おお)い、山谷幽邃(ゆうすい)の趣あり」と書き残しています。 くだって明治30年(1897)、大正天皇(皇太子御年18)がはじめて当山へお立寄りになり、寺中を逍遥されました。現在の梅園は、そんなふうにして御用邸からお成の皇室の方々のお慰めとすべく、翌31年春より梅数百株を植え、33年に完成したもので、以来、すでに百十年の歴史を閲してきたことになります。 玄璋和尚は『大中寺沿革誌』の中で、その築園の主旨を「人工を加えず、務めて造化の自然に順い、樹木は、之を剪栽(せんさい)、矯揉(きょうじゅう)することなく、他の奇木・珍石を蒐(あつ)めて希に誇り、異を衒(てら)うを学ばず唯、樹(う)えるに梅数百章(しょう)を以てするのみ」と言い、自然の風情を最大限に生かす庭造りを心がけました。 この和尚さまは、室号を吾愛吾梅庵(ごあいごばいあん)、自らを梅禅と号して漢詩にも堪能(かんのう)でした。またこの和尚さまの時代を中心に御用邸との格別の縁が結ばれ、 昭憲皇太后 9回 大正天皇 5回 貞明皇后 2回 昭和天皇 6回 の行啓を仰ぎました。晩年の昭憲皇太后は、山寺の禅寂を殊の外お好みになられ、他の宮さま方のお成も度々のことでした。観梅・観桜・たけのこ狩・愛鷹山への狩猟にと、時に見わたすかぎり開けた菜の花の黄色、麦のみどりと雲雀(ひばり)のさえずりに萌える田園風景の中をお馬車で、あるいはお車で当山へ行啓遊ばされました。 恩香殿は、その便殿(びんでん)として明治42年(1909)に建立、一部にアール・ヌーボーの面影の残る市内では数少ない明治の木造建築で、大正天皇の侍講、三島中洲先生(二松学舎の創立者)も、この恩香殿のことを、自作の漢詩の中で小行宮(しょうあんぐう)と詠んでいます。 そのほか境内の各所には、皇室とのゆかりを刻んだ碑が建てられ、今日なおそのかみの盛事の一端を偲ぶことができます。ちなみに 本堂 安政6年 (1859) 山門 天保12年 (1841) の建立になります。 このように、大中寺は、比較的良く由緒ある古刹の雰囲気を伝えているように思われます。それは、郊外に寺域を構え、戦災にも遭わなかったという幸運に加え、代々の祖師方の揺るぎのない見識によって護持され続けてきたことによりましょう。 四季の移ろいを覚えながら庭に佇んでいる時など、私はこれまで幾度となく、いつもはぼんやり見すごしている眼前の景色に感動して一種の夢見心地におちいっていたことがあります。二千五百年の時空を越えて、代々の祖師方のあとから一筋の確かな道を辿っている自分の姿が胸に浮かんでくるのも、そんな時です。 戦後の社会には、古人が「夢殿」や「草庵」というような言葉で表現した閑寂な時空がほとんどなくなりましたが、大中寺にはまだ玄璋和尚のいわゆる「造化の自然」が大切に承け継がれています。私は当寺をお訪ね下さった皆さんが、その「造化の自然」の中で昨日までのお疲れを癒され、明日へのみずみずしい鼓舞を得てお帰り下さることを、心から希(ねが)ってやみません。 平成19年5月 山主 下 山 光 悦 |
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