昭憲さまと大中寺
貞明さまが昭和21年に大中寺へ行啓されてから20年ほど後のことです。私の師である高橋友道和尚は、お茶の時間に貞明さまをお迎えした当日の様子をまるで昨日の出来事のように、幾度も十代半ばの私に聞かせて下さったものです。
当時の私は、また天皇家のお話が始まったなと思いながら、漠然とその話を聞いているだけでしたが、長ずるに従い、それまで当たり前のように耳にしてきた皇室の話題は、世にも稀なありがたいご縁があったればこそで、どこの家庭でも耳にすることができるものではないということがやっとわかってきました。 私の師はそんなふうに、わずか一度の行啓の日の思い出を、何度もくりかえし懐かしそうに語っていました。ましてや昭憲さまの晩年の5年間に、9回もの行啓を仰いだ四代前の真覚玄璋和尚の思いは、如何ばかりであったろうかと思います。明治26年(1893)、大正天皇のために沼津御用邸が造営されて以来、昭憲さまや当時皇孫殿下と呼ばれておいでになった昭和天皇が足繁く沼津へ避暑避寒においでになっています。その間の近在へのお出かけ場所の一つが、駿河湾に臨む御用邸とは対照的な愛鷹山麓に位置する大中寺でした。 ◆ 昭憲さまの大中寺へのお成りの記録は明治42年(1909)に始まります。しかし玄璋和尚の書かれた「行啓記」によれば、皇后さまはそれ以前にもお成りの希望を持たれていたものの、沼津駅からお寺への道がまだ整備されておらず、それで沙汰止みになっていたとか。ところが41年に現在の根方街道が開通して漸く馬車が通れるようになり、お成りが実現したようです。近年、東海道に面した原の素封家・植松家に12回のお成りの記録があることを知り、改めて道路事情の記録の正しいことを確かめることができました。 ◆ 昭憲さまの大中寺お成りを知る古老がまだ健在であった昭和63年に、当時の様子の聞きとりをしたことがありました。明治42年に小学校2年生であった中沢田の植松幸作翁は、寺の周りを兵隊や憲兵、巡査等が警備する中をネットを召された皇后さまが7、8人の女官を従えてお成りになったこと等を話してくれました。また皇后さまや皇太子さまの通られる道やお寺の中には、千本浜から運んできた清らかな砂が敷きつめられたそうです。皇后さまは御用邸からお寺まで4・5キロほどの道程を二頭立てのお馬車でお見えになりましたが、当時は沼津駅からお寺までの間は、菜の花や麦に蔽われた一面の田んぼで、民家は一軒もありませんでした。当時のそんな景色を詠った詩に「菜黄麦緑清妍を競う」という一節がありますが、皇后さまはそのような、雲雀のさえずる長閑な野辺をお成りになったわけで、小高い丘に位置するお寺からも、そのお成りのご様子が望まれたといいます。また皇后さまも、お寺の大きな楠の下の小高い処にお登りになって、黄色と緑に彩られた田園風景をご覧あそばされました。 その丘は、以上のような来歴にちなんで後に雲錦台と名付けられ、記念碑が建立されましたが、実はこの丘にはもう一つ、玄璋和尚の至誠を彷彿させる次のような話が残っています。和尚は当時、お召し列車が沼津を通過したり、発着したりするときには、常に法衣に威儀を正し、頭を低く垂れて、はるかに御一行をお見送り申しあげたというのです。 ◆ 昭憲さまには、大中寺への御成の都度それぞれに観梅、観桜、筍狩りとお楽しみいただきました。特に大正2年(1913)の行啓時には、境内の北東にある竹林で筍狩りをお楽しみになりましたが、柳原典侍や大夫が唐鍬を振りあげ、息を切らして掘る姿がおかしいと、いかにもご機嫌よくお声たかくお笑いあそばされたそうです。この日のことは、「昭憲皇太后〔大正3年5月17日発行 頌徳会〕」には「御声高く、笑ませられたのは、この時ぐらいのものでありましたろう。」と書きとめられています。以来この竹林は、鳳になぞらえた皇后さまがお笑いになったという意味で、鳳鳴林と名付けられました。また「昭憲皇太后御集〔明治42年の項〕」にはこの時の御歌と思われる一首が残っています。 竹の子 あらがねの土をもたぐる竹の子の 力にしるし千代のさかへは 後日、貞明さま行啓の砌に、先師がこのエピソードをご披露申し上げたところ「うっかり笑うと、こういうことになる」と、碑を前にしてまたひときわご機嫌よくお笑いあそばされたということです。 この時には、白絹一匹の御下賜があり、玄璋和尚はそれを七条の袈裟に仕立て、金糸で寺紋の五三の桐と色糸で牡丹の刺繍をほどこしました。今に残る皇后宮職からの手紙によれば、皇后さまとデザインの相談をされて仕立てられたことが解ります。 この頃は弁当も自由にならなかった時代であり、お寺では警備の人達に里芋やさつま芋を大釜で茹でて振舞ったと聞いています。この里芋は、いつしか御用邸より大中寺芋と呼ばれるようになりました。赤ん坊の頭くらいあるお化け芋の姿とお寺の名前が何やらおかしさを誘います。 ともあれ、天皇家のお客さまにお楽しみ頂きたく、明治31年から33年にかけて整備された梅園は、今年で107年の歴史を刻みました。御皇室のためにお造りした恩香殿〔行在所〕は今も静かにその姿を留めています。 以上は天皇家、特に昭憲さまと当寺とのの御縁の一端ですが、昨年は明治神宮より親しく崇敬婦人会の皆様が大中寺へお参り下さり、私は昭憲さまが再びお見え下さるという気持ちで、お迎えさせていただきました。中でも皆様と尊儀真前で声高々と般若心経を誦し得ましたことがとてもうれしゅうございました。古来「余香を拝す」と申しますが、御隠れになって90年の歳月を経て、明治神宮とお寺は昭憲さまをご縁に結ばれていたのだと改めてありがたく思ったしだいです。その後、私は息子を同道して明治神宮にお参りさせていただきました。森閑とした参道を歩みつつ、我が子に昭憲さまのお話をする私の誇らかな気持ちをご想像ください。 寺では4月11日の御忌には筍のご飯、筍の煮物、木の芽和え、若竹のお汁をお作りし、緋桃を献じてお経をおあげしています。このようなわけで、寺に生活する私どもの胸の中には、今も昭憲さまが生きていられるのです。 明治神宮 崇敬婦人会 会報「和可葉」に寄稿 |
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