生々世世父母兄弟なり
奥の細道は「月日は百代の過客にして行き交う年も又旅人也」という有名な文で始まりますが、芭蕉さんならずとも、私たちは日常生活のなかで、人生は旅のようなものだと思うことが度々あるようです。
平成13年3月下旬、私は子供たちと一緒に、イギリスに赴任して7年になる(株)リコーの社員の友人を頼って、1週間ほど英国の旅をしてまいりました。帰りには、ロンドンからアムステルダムを経由して成田へ戻りましたが、途中アムステルダムの空港の待合室に乗り継ぎの飛行機を待っていた時のことです。見るからに威風堂々とした老僧が青年をお供にやって来て、私たちの前の椅子に座ったのです。恰もアムステルダムの空港を一人で闊歩しているような風格のある和尚さんでした。私は息子に、「和尚さんをご覧。きっと日本では立派な方だと思うよ。」と耳打ちをしました。他にぬきんでて風格が印象的でした。 ところで、平成12年の暮れにお届けしたポスターと解説を憶えていますか。その解説を読んで感激した私は、出版元である長野の円福寺に電話を入れました。聞けば、文を書かれたご住職は御年90歳を超えてお元気で活躍しておられることが解かりました。お元気なうちに一度お会いしたい。そう思った私は、恒例のお参りバス旅行を、来春は長野の円福寺にしようと即座に決めてしまいました。50年近いポスター購読をつうじての長いご縁があっても、先代友道和尚は無論のこと、私は一度もお寺を尋ねたことがありませんでした。 翌、平成13年の春、大中寺では円福寺へお参り旅行に出かけました。長野の春浅い一日です。本堂で読経・礼拝例の如くすみ、和尚さんのお話が始まりました。私は程なくして、何か不思議な気持ちがし始め、じっと和尚さんの顔をみつめて話しに聞き入っていました。「あれ、この方はもしかしたら、アムステルダムの空港で10日前に目の前に座っていた老僧その人だ。」と気づくのにそう時間はかかりませんでした。 「初めまして,お世話になります。」と挨拶をかわしましたものの、実際には既に10日前に、オランダの空港で出会っていました。それも、飛行機という空の旅の待合室でのことです。驚きました。時間が逆戻りしたような感覚でした。過去に出会っていたことを知らずに、恰も初めてのように挨拶をしていた自分が不思議でなりませんでした。 知らぬは子供ばかりなり。知らないところで総て整っている世界がある。親である仏さまの愛を知らずして泣き暮らすような自分の拙さを思い知りました。私は、この経験をとうして、「生々世世父母兄弟なり。」という言葉に初めて納得したような次第です。私たちは、人生という旅の途中で、ある時には、本線から支線に乗り換えて知らず本線に合流するようなこともある。知らないからと言って決して他人ではない。その意味では他人なんていない。 空間と時間を強く意識する空の旅での出会いをとうして、命とご縁ということが頻りに思われてなりませんでした。 平成14年11月 |
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